home 陰陽師的音楽堂>家族の問題



家族の問題 〜マドンナと「家族」たち

― Dance, sing, get up and do your thing !
Madonna


帽子


十代だったわたしが聞く音楽には二種類があった。
ヘッドフォンを耳にかけ、半ば目を閉じて、ひたすら音に没頭して聞く曲と、踊る曲と。
レッド・ツェッペリンやイエスやピンク・フロイドが前者の音楽の中心だとしたら、マドンナの曲が後者の中心だった。

たいがい、ツェップやイエスを聞いている連中に、わたしが“狂気”なんかと一緒に “ライク・ア・プレイヤー” のテープを持っているのが見つかってしまうと、フフンと鼻先で笑われたし、一緒に“ラッキー・スター” を踊っている連中に、いま何を聴いてる? と聞かれて“War”などと答えようものなら、わぁ、クラーイ、などと言われた。
どうやらそのころのわたしは、ふたつのまったくちがう世界をふらふらと渡り歩いていたらしい。

そのうちハウス・ミュージックがはびこり始め、ダンス・ミュージック全般、あまり聞かなくなってしまい、そうしているうちにいつのまにかダンスというと、体をくねくねさせて自分の世界に閉じこもり、空間のひろがりをちっとも感じさせないヒップ・ホップ(偏見であることは承知している。プラス、偏見を持つことは実は楽しいのだということも、理解している)が主流になって、ダンスそのものにも興味がなくなってしまった。つまり、まぁわたしのダンスに対する興味というのは、そのくらいのものだったわけだ。

とはいえ、80年代の終わりから90年代初頭にかけて、やはりわたしのイコンはマドンナだった。単にマドンナの曲に合わせて踊っていただけではない。90年代半ばにマドンナに関する本がドサッと出て、わたしはよくわからないまま、これってすごくおもしろい、と思いながら読んだのが、実はカルチュラル・スタディーズとの出会いだったのだ。
マドンナを軸に、ジェンダーやポストモダンの身体論が語られ、マドンナの歌詞のなかにゲイ・カルチャーや黒人文化を読む。
もっとも当時はカルチュラル・スタディーズという言葉もまだ一般的ではなく、本にはそんな言葉はひとことも書かれていなかったことを思うと、出版社のほうもマドンナの関連本、ぐらいの扱いで出していたのではなかったのだろうか。いま読み返してみると、かならずしも訳語は的確ではないし、やたらと写真も挿入され、歌詞の対訳までついていて、本の性格もいまひとつはっきりとしない。
だが、当時のわたしは、マドンナを使ってこんなにこむずかしい話ができるのかと思うと、すっかり楽しくなってしまったのだった。

そうしたマドンナの「関連本」が日本で出ていたのは90年代も半ばで、マドンナ自身は評判になった割には人気が出なかったアルバム“エロティカ”を出してしばらくのころだ。映画だ、写真集だ、ニュー・アルバムだ、と露出過剰になったせいか、世間はなんとなくマドンナに飽き始めていたころでもあった。
ただこのアルバムは、一世を風靡した“ヴォーグ”からさらにポップ色を抜いた感じ、ハウス・ミュージックの色合いが濃くなっていて、コンセプト・アルバムといいながら微妙に方向性を決めかねているような曲もあったけれど、マドンナのアルバムとは思えないほど、奥行きのあるものだった。ハウスといっても、なんともいえない湿度と熱のこもった音で、それまで洗練とはほどとおかったマドンナの曲が、一種独特な洗練を見せてもいた。 こういうのが続けば、ダンス・ミュージックとしてではなく、マドンナを聴くようになったのかもしれない。だが、この方向はこれ一作で終わってしまう。

続く世界ツアー“ガーリー・ショウ”、これはステージは見に行けなかったために、ものすごく期待して、発売と同時にビデオを買ったのだけだけれど、ダンスの要素は前回の六割程度まで落ちていた。多くの場面でマドンナは、本格的なダンスが不可能なプラットホーム・シューズをはいていて、ああ、この人も踊るのがしんどい年齢になってきたのだろうか、と思ったりもした。相変わらず全体の構成や美術面ではうまく作ってはあったけれど、踊りが見たいわたしとしては、かなり期待はずれのステージだったのだ。
80年代のイコンだったマイケル・ジャクソンが90年代の壁を超えられなかったように、マドンナもどこかピークを超えた感じになってしまっていた。

ダンスという要素を抜いてしまえば、正規の発声訓練を受けていないマドンナの歌声は、ブレスがひどく耳障りで、あまり積極的に聞きたくなるものではなかった。だから、“エロティカ”以降離れてしまい、まともに聞くこともなくなったわたしがこんなことをいうのも何なのだけれど、やはりマドンナのピークというのは、90年の“ブロンド・アンビション・ツアー”ではなかったのだろうか。
わたしはこのステージを横浜で見ているのだけれど、この横浜のライブ・ビデオ、あとそのツアーを追ったドキュメンタリー映画“イン・ベッド・ウィズ・マドンナ”は、のちに大学に入ってTVとビデオを買ってから、ビデオテープに筋が入るまで見ることになる。

全体の構成といい、ステージのセットといい、ダンスといい、ミュージシャンといい、衣裳といい、どういうわけか大昔からずっといる、歌もダンスも冴えないふたりのバッキング・コーラスをのぞくと、ステージの完成度たるや、とにかくものすごい。一番すごくないのは、マドンナの歌かもしれない(笑)。
ダンサーの質もおっそろしく高くて、マドンナ自身、歌はともかく、ダンサーとしての資質はかなり高い人だと思うのだけれど、自分の資質をはるかにしのぐダンサーたちを集めて、一緒にパフォーマンスを構成できるマドンナのメンタリティというのは、実にたいしたものだと思うのだった。

なかでもゲイブリエル・トルーピンというバック・ダンサーはほんとうにタフなテクニックのもちぬしで、基本的な振り付けが10であるとすると、彼はすべてで12踊っていた。なのに流れのなかで見ると誰よりも軽く、それでいて肩の位置がぴたっと決まってまったくぶれない。まだまだ踊れる、もっと踊れる、そんな広がりが、軽く上げたのに頭の上を超えてしまう足の先からも、ふわりと飛んだジャンプの高さからも、安定したピルエットからも感じられ、たとえ音が聞こえなかったとしても、踊りそのものが音楽であるようなダンスだった。音に身を委ね、自分の体そのものを音楽として動かす喜び、思いのままにどこまでも自分の身体を「音」として動かせる喜びがそこにはあり、それを見ているわたしは、楽しんでいる人というのは見る者を幸福にするのだということを知った。
そんなふうにわたしは途中からマドンナをほったらかしにして、彼のダンスばかりを見ることになってしまうのだけれど、なかでも彼がマドンナのパートナーとして踊る“イン・トゥ・ザ・グルーヴ”は圧巻だ(途中でマドンナはついていけなくなってしまう)。
残念ながら彼は95年に26歳の若さでエイズで亡くなっている。ツアーのときは、なんと21歳だったのだ。

ともかくこのショーはいくつかのテーマに分かれているのだが、アンコール曲、というか、全体のフィナーレになるのが、“キープ・イット・トゥギャザー”という曲で、ここでは家族がテーマになっている。このテーマは、のちのツアーを追ったドキュメンタリー映画“イン・ベッド・ウィズ・マドンナ”にも受けつがれていく。
ステージ全体がひとつの「家族」、マドンナを中心とした「家族」なのである。

ところがショーではマドンナのオリジナル曲“キープ・イット・トゥギャザー”に、スライ・アンド・ファミリー・ストーンの“ファミリー・アフェア”という曲が組み合わされているのだ。

まず前奏が聞こえてきたところで、ステージの上にたったひとり登場したマドンナが、いきなり“ファミリー・アフェア”の冒頭部を歌い始める。

ひとりの子供が大きくなって
勉強が大好きな子に育つ
もう一人の子は
恋に身を焦がすようになる
ママはどっちの子供も大好き
だってそれは血だから
どちらの子もママには優しい
血は泥よりも濃いものだから

そこから“これは家族の問題、家族の問題さ”というコーラスにのって、ダンサーたちが椅子を手に、せりあがってくる舞台の真ん中に開いたポケットから、つぎつぎにステージに登場してくる。
マドンナはダンサーたちを“これがわたしの家族”と客席に向かって紹介すると、“ファミリー・アフェア”はいつのまにか、マドンナの“キープ・イット・トゥギャザー”になっている。そうして“キープ・イット・トゥギャザー(離ればなれになっちゃだめ)”と歌いながら、椅子と人間が集まってひとつのシステムを形成していく、息を呑むようなパフォーマンスが始まる。

わたしには兄も弟もいたし、妹たちもいた
真ん中で身動きできなくなってしまった
わたしがどうするつもりか言ってあげましょうか
ここを出ていくの
ここから行ってしまうのよ
そしたらみんなのものほしそうな顔を
忘れていられるんだもの

椅子を構えたダンサーが椅子になってマドンナを座らせ、あるいは全員が椅子を構えてフォーメーションを組む。ときにダンサーたちは、椅子の上で歌うマドンナを、小さな子供が母親を見上げるように低い位置から見上げる。

おさがりを分け合うのはもううんざり
注意を引くために、いつだってお調子者の役を引き受けてきた
わたしはちがっていたいの
わたし自身でありたいの
だけどパパは言った
よくお聞き、お前にはいつだって家があるんだよ

家族とはずっと一緒
家族はこれまでの歴史を思い出させてくれる
兄弟や姉妹はあなたの心や魂の扉を開く鍵を持っている
そのことを忘れちゃだめ
あなたの家族は黄金(ゴールド)よ

そうして、間奏に入るとダンサーたちを「家族」と呼びながら、“寂しくなると、ありのままのわたしを愛してほしくなる、みんながそうあってほしいわたしではなく”“家族こそ心が戻っていく場所”と歌い続ける。センターのマドンナをのぞけば、七人のダンサーとふたりのバッキング・コーラスは、そろいの衣裳と帽子で個性を失い、そっくりな十人の兄弟のようだ。
統一した動きのあとに、それぞれが思い思いの振りをすることもあるけれど、それさえも相互に入れ替え可能、だれがだれであったとしてもかまわない。

マドンナは“離ればなれになっちゃだめ“と繰りかえし、絆を確かめるがごとく、ダンサーたちに何度もふれる。最後に隊形をもう一度組んで踊ると、ダンサーたちはひとりずつまたポケットに消えていく。

そうして楽器もひとつずつフェイド・アウトしていき、最後にひとり残ったマドンナが、アカペラで“キープ・イット・トゥギャザー”と繰りかえし、舞台は暗転、ショーは終わる。

まるで、家族、とは自分が人々を結びつけ、ひとつにしていくものだ、とでもいうように。みんなの「心が戻っていく場」とは、自分なのだ、とでも言うように。

ところが、“ファミリー・アフェア”の原曲はちがった展開を見せる。マドンナはそこを切り捨ててしまっているのだ。

一年前に結婚した
だけどお互い、チェックするのをやめられない
だれもどこにも行きたくない
だれも仲間はずれにされたくない
あんたたちはどこにも行けないよ
だってあんたたちの心はそこにあるから
だけどあんたたちはとどまることもできない
だってあんたたちはずっとどこかよそにいるのだから
あんたたちは泣くこともできない
壊れちゃったように見えるから
だけどあんたたちはどのみち泣くことになる
もう壊れちまってるから

こちらで歌われる「家族」は、そこから出ることもできず、いつづけることもできない家族なのである。

マドンナが「黄金(ゴールド)」と歌った疑似家族は、ツアーのドキュメンタリー・フィルムが圧倒的な成功を収めることで、逆に空中分解していく。七人のバックダンサーのうち、つぎのツアーでも引き続きバック・ダンサーを務めたのは、おそらくチームのリーダーだったカールトン・ウィルボーンただひとり、三人のダンサーがマドンナに対して訴訟を起こし、訴えたうちのひとりは先にも言ったようにエイズで亡くなる。
なんともかとも象徴的な話で、マドンナの「子どもたち」は、まさにマドンナが切り捨てた歌の歌詞のほうへと流れていってしまうのである。

アメリカでクリントン政権下、「家族の時代」がひとしきり言われたのが、ほぼこの時期。
離婚率や母子家庭の増加に危機感を募らせ、家族の再生が言われたけれど、その状況は一向に変わってはいない。
小説でも映画でも、片親、離婚、再婚後の血の繋がらない家族構成はあたりまえのようになってしまった。

ところがマドンナひとりは、しっかりと子供を産み、結婚し、離婚し、再婚し、そうしていまでは「家族」の絆を着々と強固なものにしていっているようなのだ。

このショーがどれだけ練り上げられたショーであるか、いま振り返ってみて、改めてそのことを思う。それぞれのパフォーマンスを完成させるために、それこそダンサーも、ミュージシャンも、舞台デザイナーも、美術も、大道具も、ひとつの家族となってショーを完成させていったはずだ。「マドンナのショー」を作り上げていくために、それぞれの個性や能力を結集させていったのだ。そうして、それが終わるとどうなるのか。
マドンナほど、ビッグ・ネームは持たない、それでも、それぞれに希有な才能を持った「子供たち」には、そこから出て、帰っていく家はあったのだろうか。

「これがわたしの家族」とステージの上で呼びかけられ、子供を演じていたダンサーたちは、その後どうなったのだろう、と思う。
輝くような才能があったゲイブリエルは、そのあと映画『天使にラブソングを2』の端役でちょっと顔を出したあと、先にも言ったようにエイズで若すぎる死、ダンサーとしての完成を見る前に亡くなった。彼を除いたダンサーたちは、そこから出ていくことができたのだろうか。

あらためて、世に受け容れられる、というのはどういうことなのだろう、と思う。
マドンナは、ただのダンサーではなく、ゲイブリエルは、ただのダンサーでしかなかった。
世界が注目するダンサー兼シンガー、巧みなプロデュースと、悪くない、みんなを踊りたくなるような気分にさせる歌を、それなりに歌って踊るシンガーは、あらゆるものを吸収してしまう。

ドキュメンタリーの最初の方のナレーションで、マドンナ自身は、このツアーは無名のダンサーたちにとって、大きなチャンスになる、と語っていた。
その「大きなチャンス」を彼らは手に入れることができたのだろうか。そこを足がかりに、どこかへ行けたのだろうか。


どうでもいいような余談なのだが、そのバック・ダンサーのひとりのケヴィンはどういうわけか日本で松田聖子と一緒のコマーシャルに出ていた。
たまたま新宿アルタの巨大スクリーンでそのコマーシャルを見たわたしは、ひっくり返るくらい驚いてしまったのだが、マドンナのバックダンサーを知っている日本人はそれほど多くないと思うので、驚いた人も多くはなかっただろう。ケヴィンをそののち日本のメディアで見かけたことはないのだけれど、芸能情報に疎いわたしだから、よくわからない。
もしかして、ケヴィン・スティー、売れましたか。



いまYouTubeで“ブロンド・アンビション・ツアー”の“キープ・イット・トゥギャザー”を見ることができます。いつまで見られるかわかりませんが、参考まで。
http://www.youtube.com/watch?v=dYdrwWgd9Io
初出Nov.23,2006 改訂 Nov.25,2006

▲Top陰陽師的音楽堂Home




※ご意見・ご感想はこちらまで


home