ここではPhilip K. Dickの短編 "The Father Thing"を訳しています。
初出は1954年の雑誌「ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション」、ディックは'52年の作家デビューから'55年までのあいだに約八十篇の短篇を量産しているのですが、これもそのまっただなかにあたります。「短篇は書く前に具体的なアイデアが必要」というディックですから、いずれも鮮明なテーマを備えています。しかも非常におもしろいストーリィを持つものが少なくない。
今回の短篇のテーマはふたつ。ひとつは前回訳した「変種第二号」と同じく〈人間と人間によく似たもの〉、もうひとつは〈子供と大人〉です。いや、もしかしたらこれは同じことなのかもしれません。
原文はhttp://www.wowio.com/users/product.asp?BookId=64で読むことができます。
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お父さんのようなもの
by フィリップ・K・ディック


「夕ご飯の支度ができたわよ。パパのところへ行って、手を洗ってきて、って伝えて」とミセス・ウォルトンは息子に頼んだ。「あなたもよ、坊や」そう言いながら、湯気の立つキャセロールを、きちんと整えられた食卓に運んだ。「パパはガレージにいるでしょ」
チャールズはなかなか動こうとしない。わずか八歳にして、古代ユダヤ教の指導者、ラビ・ヒルレルすらも頭を悩ませそうな難問を抱えていたのである。「ぼく……」とためらいがちに口を開いた。
「どうかした?」ジューン・ウォルトンは息子の声にふだんとちがう響きを聞き取った。はっと身を起こしたせいで、豊かな胸が揺れる。「パパはガレージにいるんでしょ? 少し前、植木ばさみを研いでたから。アンダースンさんのところにでも行った? そんなわけないわよね、すぐに用意はできるって言っておいたんだから」
「パパはガレージにいる」チャールズが言った。「だけど――自分としゃべってる」
「ひとりごとなんて言ってるの?!」ミセス・ウォルトンは明るい色のビニールエプロンを外して、ドアのノブにかけた。「テッドがひとりごと? 変ね、あの人はそんなことをする人じゃないのに。とにかく行って、呼んできてちょうだい」熱いブラック・コーヒーを小さな青と白の陶器のカップに注ぎ、コーンのクリーム煮をお玉でよそった。「どうしたの? パパのところへ行ってきて」
「どっちに言えばいいのかわかんない」チャールズはどうしようもなくなって、うっかり口をすべらせた。「そっくりなんだもの」
鍋をつかんでいたジューン・ウォルトンの手がすべって、危うくコーンのクリーム煮をぶちまけそうになった。「坊やったら――」怒ろうとしたところにテッド・ウォルトンが大股でキッチンに入ってきた。鼻をくんくんいわせながら、両手をこすりあわせている。
「これはこれは」うれしそうな声を出した。「ラム・シチューだな」
「ビーフ・シチューよ」ジューンは言い訳するように言った。「テッド、あなたあそこで何をしてたの?」
テッドは自分の席にどさっと腰をおろすと、ナプキンを広げた。「剪定ばさみの刃がカミソリみたいになるまで研いでいたんだ。油をさしては研いで。さわっちゃ駄目だぞ――手がすぱっと落ちてしまうから」
彼は三十代になったばかりのハンサムな男だった。金髪はふさふさとし、たくましい腕と器用な手先を持ち、角張った顔の茶色い眼はきらきらと輝いている。「おお、こりゃうまそうなシチューだな。会社が忙しかったんだ――なにしろ金曜日だろう。山積みの仕事を五時までに片づけなきゃならなかったんだ。アル・マッキンレーときたら、もしみんなが昼休みの時間もうまく使えるようになったら、うちの部も20パーセント仕事を余計にできるだろう、なんてことを言うんだからな。交替で休憩を取って、いつも誰かが仕事場にいるようにすればいい、だとさ」それからチャールズを手招きした。「こっちにおいで、坐って食事にしよう」
ミセス・ウォルトンはグリーンピースをよそった。「テッド」自分の席にゆっくりと腰をおろしながら、言った。「何か気になることがあるの?」
「おれが何か気にしてるかだって?」彼は目をぱちくりさせた。「ないさ。何も変わったことなんてない。いつもどおりだ。なんでそんなことを?」
ジューン・ウォルトンは不安げな目を息子に走らせた。チャールズは身をこわばらせて椅子に腰掛けている。表情を失った顔は、チョークのように真っ白い。ピクリとも動かず、ナプキンにもミルクにも、手をふれた気配がなかった。張りつめた空気がぴりぴりしているのが、ジューンにも感じられた。チャールズは椅子を引いて、父親から身を離そうとしている。緊張した小さなかたまりのように体を固くし、できるだけ父親から遠ざかろうとしていた。唇が動いているが、何を言っているのかわからない。
「どうしたの」ジューンは身を寄せてチャールズに聞いた。
「ちがう方だよ」チャールズが声を出さず、息だけで言った。「ちがうやつが来た」
「どういうこと?」ジューン・ウォルトンは声に出して聞いた。「ちがう方ってどういうこと?」
テッドがぎくりとした。奇妙な表情が顔をよぎって一瞬で消えた。だが、その瞬間、テッド・ウォルトンの顔からは、確かにふだんの親しみやすさが消えてしまっていた。何か得体の知れない、冷たく光る、ねじくれ、のたくるかたまり。どんよりとした目は、奥へ引っ込み、古ぼけた光が覆っていた。ふだんの表情、くたびれた中年男の顔は、跡形もなく消え失せていたのだ。
つぎの瞬間、元に戻っていた――ほとんどは。テッドはにやりと笑うと、シチューとグリーンピースとコーンのクリーム煮をがつがつと食べ始めた。ひんぱんに笑い声を上げ、コーヒーをかき回し、ジョークを言いながら食べた。だが、何かがひどくおかしかった。
「ちがう方だよ」チャールズが血の気の失せた顔でつぶやいた。手が震え始めた。いきなり立ちあがったかと思うと、テーブルからあとずさった。「出ていけ」と叫んだ。「ここから出て行け!」
「おい」テッドは殺気だった声を出した。「いったいどうしたっていうんだ」息子の椅子を有無を言わさぬ調子で指さした。「坐ってご飯を食べるんだ。せっかくママが作ってくれた料理を無駄にするんじゃない」
チャールズはきびすを返してキッチンから飛び出し、二階の自分の部屋へ上がっていった。ジューン・ウォルトンは息をあえがせながら、おろおろして身を震わせていた。「いったいどうして……」
テッドは食べ続けている。むっつりとして、厳しく暗い目をしていた。「あいつめ」耳障りな声だった。「もうちょっとしつけが必要だな。ふたりきりでじっくり話し合わなくては」
チャールズはうずくまって耳をそばだてていた。
父親もどきが階段をのぼって、だんだん近くにやってくる。「チャールズ!」腹立たしげな〈あれ〉の怒鳴り声が響いた。「そこにいるんだろう?」
チャールズは答えなかった。音のしないように自分の部屋に戻ると、ドアを閉めた。胸がドキドキする。父親もどきが踊り場に着いた。じき、この部屋にもくるだろう。
窓のところに走った。恐ろしさで体がこわばりそうだ。〈あれ〉はもう廊下まで来ていて、暗い中、ドアのノブを手探りしている。チャールズは窓をよじのぼって屋根に出た。ひゅっと息を呑みながら玄関わきの花壇に飛び降りる。体勢が崩れ、痛みにうめき声が漏れたが、急いで立ちあがった。宵闇のなか、黄色い布を張りつけたような窓から明かりが広がっている。チャールズはその外へ急いだ。
ガレージが見えた。暗い空を背に、四角い建物が真っ黒く浮かび上がっている。ぜいぜいと息を切らしながら、ポケットを探って懐中電灯を取り出した。音のしないように用心しながらドアを開け、なかに入っていく。
ガレージは空っぽだった。車は表に停めてある。左は父親がふだん使っている作業台になっていた。かなづちやノコギリが木の壁にかけてある。奥には芝刈り機や熊手、シャベル、鍬が置いてある。灯油の入ったドラム缶。いたるところにナンバープレートが釘で留めてあった。床は粗いコンクリートで、真ん中へんには大きな油のしみがあった。油で黒ずんだ雑草が、懐中電灯のちらちらする明かりのなかに見えた。
ドアのすぐ内側に、ゴミを入れる大きな樽がある。上の方に見えるのは湿気た新聞紙や雑誌の束で、カビが生えてずぐずぐになっている。チャールズが取り出そうとすると、強烈な腐臭が立ち上った。クモがセメントの床に落ち、一目散に逃げ出そうとする。チャールズはそれを足で踏みつぶし、なおも探し続けた。
樽の中に現れたものを見て、チャールズは悲鳴を上げた。思わず懐中電灯を取り落とし、ぱっと後ろに飛びのいた。ガレージが闇に包まれる。無理矢理自分に膝をつかせて、闇の中、永遠とも思える時間、うようよするクモと油まみれの草のあいだに手を突っこんで、懐中電灯を捜した。とうとう見つかった。やっとの思いでその光を樽の中に向け、雑誌の束を引っ張り上げて現れた底を照らした。
父親もどきが樽の底にそれを押し込んでいた。枯れ葉や裂けた段ボール、かびた雑誌の切れ端やカーテンなどの屋根裏のがらくた、母親がそのうち燃してしまおうと入れておいたゴミの奥に。それはまだ父親の面影を残していた。チャールズの目に、父親とわかるほどの。彼はそれを見つけた――眼前に現れたものを見ていると、吐き気がこみあげてくる。チャールズは樽につかまって、眼を閉じた。もう一度、ちゃんと見ることができるようになるまでしばらくかかった。樽の底にあったのは、父親の、本物の父親の残骸だった。父親もどきには用がなくなった切れ端、いらなくなって捨てた残り滓。
チャールズは熊手を取って樽の中に突っこみ、その残骸を動かしてみた。かさかさになっている。熊手がふれると破れてちぎれてしまった。ヘビの抜け殻のように、薄っぺらでぼろぼろになり、ふれるとがさがさと鳴った。ぬけ殻。中味はもうないのだ。大切な部分が。残っているのはこれだけ、このぼろぼろの、破れた皮膚だけが、ゴミの樽の底に丸まって転がっていた。父親もどきがこれだけ残していった。残りはあれが食べてしまったのだ。中味を食らいつくして、父親の代わりに収まったのだ。
物音がする。
熊手を捨ててドアに急いだ。父親もどきがガレージに向かって通路をやってくるのだ。〈あれ〉が砂利を踏む靴音がする。一定しない足取りだ。「チャールズ!」〈あれ〉が怒鳴った。「そこにいるのか? 逃げるんじゃないぞ! 捕まえてやる!」
家のドアから明るい光を背に、こちらを気遣う母親のふくよかな影が現れた。「テッド、あの子にひどいことをしないでね。何かあって、ちょっと神経質になってるのよ」
「ひどい目になんか遭わせるわけがないじゃないか」父親もどきはかすれた声で言った。立ち止まってマッチを擦る。「やつとちょっと話をするだけさ。もう少し行儀っていうものを知っとかなきゃな。あんなふうに食事の場から飛び出して、夜だってのに外に出たり、屋根から飛び降りたりするなんていうのは……」
チャールズはガレージから抜け出した。マッチの炎が彼の動く影をとらえ、父親もどきがわめき声をあげながら突進してきた。
「こっちへ来い!」
チャールズは走った。ここの地形なら、父親もどきなんかよりぼくの方が詳しい。確かにあれはパパの中味を食べちゃったんだから、相当詳しくはなっただろう。だけど、ぼくほどここに詳しい人なんていない。チャールズは塀まで走ると、それを乗り越え、アンダースン家の庭に飛び降り、洗濯ロープの下を駆け抜けて、庭の小道を家に沿って回りこみ、メイプル通りへ出た。
聞き耳を立てながら、うずくまり、息を殺す。父親もどきは追いかけてはこなかった。引き返したのだ。そうでなければ、歩道を通ってこっちへやってくるかも。
一度ぶるっと身を震わせて、深く息をした。じっとしてちゃいけない。じきに〈あれ〉に見つかるだろう。右と左を見渡して、あれがこっちを見ていないことを確かめてから、死にものぐるいで走った。
「なんか用か?」トニー・ペレッティが喧嘩腰で言った。トニーは十四歳だ。ペレッティ家のダイニング・ルームにあるオーク張りの食卓に着いていた。本や鉛筆が散乱し、ハムとピーナツバターのサンドイッチの半分と、コーラが脇にのけられている。「おまえは確かウォルトンとかいったな」
トニー・ペレッティは放課後、ジョンスン電気店でストーブや冷蔵庫の荷ほどきのアルバイトをしている。体格が良く、無愛想な顔つき、髪は黒く、肌の色も浅黒い。歯だけが白かった。これまでに数回、チャールズはペレッティにぶん殴られたことがある。この界隈の子供はみんな、一度や二度は殴られていたのだった。
チャールズは身をよじって頼んだ。「ねえ、ペレッティ、お願いがあるんだよ」
「だからなんなんだよ」ペレッティはいらだたしげに言った。「おまえ、殴られたいのか?」
暗い顔でうつむき、手を固く握りしめたままもぐもぐと、チャールズはこれまでにあったことをかいつまんで話した。
話が終わるとペレッティは低く口笛を吹いた。「嘘だろ」
「嘘じゃない」チャールズはあわてて首を振った。「見せてあげる。ぼくについてきてくれたらわかるよ」
ペレッティはゆっくりと立ちあがった。「ああ、見せてみな。どんなもんか見てやろう」
ペレッティが自分の部屋からBB銃をとってくると、ふたりは黙ったまま、チャールズの家へ向かって暗い通りを歩いた。ふたりともあまり口を開かなかった。ペレッティは気むずかしげな顔で、物思いにふけっている。チャールズは、依然、恐怖のあまりにぼうっとした状態が続いていた。頭のなかが真っ白だった。
ふたりはアンダースン家の私道に入り、裏庭を突っ切って塀を乗り越えると、チャールズの家の裏庭に降り立ち、用心しながら身を低くした。物音一つしない。庭は静かだった。玄関のドアは閉まっている。
リビングの窓からなかをのぞいてみた。ブラインドは下りていたが、細い隙間から黄色い光が漏れている。カウチに坐っているのはミセス・ウォルトンの方で、Tシャツをつくろっている。ふくよかな顔は曇り、悲しげな色を浮かべていた。物憂げに、心ここにあらずのていで手を動かしている。向かい側には、父親もどきがいた。チャールズの父親のものだったアームチェアにふかぶかと坐って靴を脱ぎ、夕刊を読んでいる。つけっぱなしのテレビが、部屋の隅でなにか言っていた。アームチェアの肘掛けのところに缶ビールが置いてある。父親もどきは、ほんものの父親そっくりに腰を下ろしていた。まったくたいしたものだった。
「おまえんちのおやじに見えるけどな」ペレッティがけげんな顔をした。「マジでオレをはめるつもりじゃないんだろうな」
チャールズはペレッティをガレージまで連れて行くと、ゴミの樽を見せた。ペレッティは日に焼けた長い腕を伸ばして、かさかさにひからびた残骸を、気をつけながら引っぱりだした。残骸はずるずると広がって伸びていき、父親の輪郭のおおよそが現れてきた。ペレッティはその抜け殻を床に置いて、ちぎれた部分をしかるべき場所に戻していった。抜け殻には色がない。すきとおっているといってもいい。かすかに黄褐色を帯びた薄い紙のようだった。ひからびて、およそ命あるものからはほど遠い。
「たったこれだけ」チャールズは言った。涙があふれてくる。「パパはこれだけになっちゃった。あれが中味を盗ったんだ」
ペレッティの顔は青ざめていた。身をふるわせながら、ゴミ樽のなかに抜け殻を戻した。「こりゃまったくどえらい話だ」ぼそりと言った。「おまえ、おやじとあれが一緒にいたのを見たって言っただろ?」
「話をしてた。そっくりだった。ぼくは家の中に走って逃げたんだ」チャールズは涙をぬぐいながらしゃくりあげた。もうどうにもがまんできなかった。「ぼくが中にいるあいだに、〈あれ〉がパパを食べたんだ。それから家に入ってきた。〈あれ〉はパパのふりをした。だけどわかったんだ。〈あれ〉がパパを殺して、パパの中味を食べやがった」
しばらくペレッティは何も言おうとしなかった。「あのな」おもむろに口を開いた。「この手の話は前にも聞いたことがある。きつい仕事だ。おまえも頭を使わなくちゃなんないし、おまけにびびっちゃ話にならない。おまえ、怖がってやしないな?」
「うん」チャールズはなんとか返事をした。
「まずは〈あれ〉をどうやってやっつけるか、考えなきゃな」ペレッティはBB銃を鳴らした。「こいつで効果があるかどうかもわからない。おまえのおやじをふんづかまえるのは、おおごとだぜ。なにしろでかい体だからな」ペレッティは考えていた。「とにかくここを出よう。〈あれ〉が戻ってくるかもしれない。言うだろ? 犯人は現場に戻ってくる、とかなんとか」
ふたりはガレージをあとにした。ペレッティは身をかがめて、また窓から中をのぞいた。ミセス・ウォルトンは立ちあがっていた。心配そうに何か言っている。くぐもった声だけがもれ聞こえた。父親もどきは新聞を放り投げた。言い合いが始まった。
「いいかげんにしろ!」父親もどきが怒鳴った。「そんなばかげたことをするんじゃない」
「なにか変よ」ミセス・ウォルトンはうめいた。「なんだか怖いことが起こってるような気がする。病院に電話して診てもらってもいいでしょう?」
「誰も呼ぶな。あいつは大丈夫だ。きっと通りかどこかで遊んでるだけだ」
「あの子がこんな遅くに外に出たことなんてないもの。反抗したりなんかしない子よ。なんだかすごく動揺してた……あなたを怖がってたわ。あの子は悪くない……」苦しそうにあえいだ。「あなた、どうかしたんじゃない? すごく変よ」リビングを出て、廊下から告げた。「わたし、近所の人に電話してみる」
父親もどきは母親のうしろ姿をにらみつけていた。ところが母親が見えなくなったところで、おぞましいことが起きた。チャールズは息を呑んだ。ペレッティすらもうめき声をあげた。
「見て」チャールズはささやいた。「あれ……」
「やっべえ」ペレッティは黒い目を見開いた。
ミセス・ウォルトンの姿が部屋から見えなくなったとたん、父親もどきは椅子にくずおれた。体がぐにゃぐにゃになったのだ。口はだらっと開いたまま、見開いた目は何も見ていない。頭は前につんのめり、ちょうど捨てられたぼろ人形のようだった。
ペレッティは窓から離れた。「そういうことか」彼はささやいた。「全部わかったぞ」
「どういこと?」チャールズはたずねた。ショックのあまり、まだ頭がぼうっとしている。「誰かが電源を切ったみたいだけど」
「そういうことだ」ペレッティはこわばった顔で身を震わせながら、ゆっくりとうなずいた。「外から操られてるのさ」
チャールズの全身が恐怖に飲みこまれそうになる。「つまり、よその星から来た何かが操ってるってこと?」
ペレッティは吐き気をこらえるように頭を振った。「この家の外だよ! たぶん庭だ。おまえ、ものを捜すの得意か?」
「そんなに得意じゃない」チャールズはなんとか話に意識を集中させようとした。「だけど捜し物名人なら知ってる」何とかその名前を思い出そうとした。「ボビー・ダニエルズだ」
「あの黒人のガキか? ほんとに捜すのがうまいのか?」
「あの子が一番だ」
「わかった」ペレッティは言った。「そいつのところへ行こうぜ。外のどこかにいるやつを見つけなくちゃ。そいつが〈あれ〉を送り込んだんだ。で、ああやって動かして……」
「ガレージの近くだ」ペレッティは痩せて小さな顔の黒人の少年に言った。三人は暗がりのなかにうずくまっている。「〈あれ〉がこいつのおやじをつかまえたのはガレージの中だった。だからそのあたりにいるんだ。ガレージの近くに」
「ガレージの中を?」ダニエルズは聞いた。
「まわりだ。中ならウォルトンがもう見て回ってる。外だ。このあたりのどこかだ」
ガレージの横は小さな花壇になっていて、花が咲いていた。ガレージと家の勝手口のあいだには、うっそうと繁る竹やぶと、がらくたの山があった。月がのぼり、あたりは冷たい、ぼんやりとした光に照らされている。「すぐに見つけられなかったら」とダニエルズは言った。「ぼく、帰るよ。遅くまでいられないんだ」チャールズといくつもちがわない年格好である。おそらく九歳かそこらだろう。
「了解」ペレッティがうなずいた。「じゃ、捜そうぜ」
三手に分かれ、それぞれ地面の上を注意深く捜し始めた。ダニエルズが信じられないほどの働きを見せた。やせた小さい体が、目にも留まらぬほどの速さで動き回る。花のあいだにもぐりこみ、石をひっくり返し、軒下をのぞきこみ、植え込みの枝をかきわけ、熟練した手つきで葉や茎を調べ、堆肥や草むらをかきまわしていく。一センチたりとも見落とすことなく。
じきにペレッティは捜すのをやめた。「オレ、見張りしてやるよ。危ないだろ、あの父親もどきがこっちへ来でもしたら。邪魔するに決まってるからな」ペレッティはBB銃を構えて勝手口の階段に立ち、チャールズとボビー・ダニエルズが捜し続ける。チャールズの動きは鈍かった。疲れていたし、体が冷えてしまってうまく動かせない。ほんとに起きたことなんだろうか。パパもどきだとか、パパが、ほんもののパパがあんな目に遭わされただなんて。恐怖が押し寄せ、彼の体はせきたてられたように動き出した。もしママが同じ目に遭ったら。それから、ぼくが。ほかのみんなが。世界中の人が。
「あった!」ダニエルズが甲高い声で叫んだ。「みんなこっちに来て! 早く!」
ペレッティは銃を構えたまま、あたりに気を配りながら近寄っていく。チャールズもそちらへ急ぎ、ダニエルズが立っているところを懐中電灯のちらちらする黄色い光で照らした。
黒人の少年は、コンクリートのかたまりを持ち上げている。懐中電灯の光が、じめじめした腐食土に埋もれかけた金属のような体をとらえた。細い、継ぎ目のある体が、無数のねじまがった足で、狂ったように地面を掘っている。めっきをほどこされたアリのような、銅色の虫が、人目を避けて大慌てで隠れようとしている。二列に並んだ脚が土を削り、掻き取っていく。地面はどんどん深くなる。まがまがしい形をした尻尾を狂ったように振りながら、自分が掘ったばかりのトンネルに、なんとか潜り込もうとしていた。
ペレッティはガレージに走り、熊手をひっつかんで戻ってきた。熊手を地面につきたてて、虫の尻尾を熊手で押さえつける。「早く! BB銃で撃つんだ!」
ダニエルズが銃をひったくるとねらいを定めた。最初の一発が尻尾の先を粉々にした。虫は狂ったように身をよじり、体をのたうちまわらせている。尻尾は力なく垂れ下がり、脚も何本か折れたらしかった。三十センチもあろうかという巨大なムカデのようだ。なおも必死で穴に潜ろうとしている。
「もっと撃て!」ペレッティが命じた。
ダニエルズがもたついている。虫はしゅるしゅると音を立てながら進んだ。頭が前後に激しく動く。身をくねらせて、自分を押さえつけている熊手にかみつこうとした。目とおぼしきいくつもある不気味な斑点が、憎悪の光を放つ。熊手への虚しい攻撃が続いた。それが突然、何の前触れもなく、激しく痙攣するように地面に体を打ちつけたので、三人はぎょっとして後ずさりした。
チャールズの頭のなかでブーンと鳴る音がした。金属的でひどく耳障りな、うなるような音、針金が何億本もいちどきに震え、振動しているかのような。その音の衝撃で、彼の体はひどくぐらついた。金属が破裂する音が耳をつんざき、わけがわからなくなった。脚がよろめき、仰向けにひっくりかえった。ほかのふたりも同じ目に遭ったらしく、蒼白になって身をふるわせている。
「銃で殺せないんだったら」ペレッティがあえぎながら言った。「溺れさせよう。焼いてもいい。頭をピンで刺したらいいのか」虫をつぶそうとでもいうように、熊手を握る手に力を込める。
「ホルムアルデヒドなら、ひとびん持ってる」ダニエルズはつぶやいた。神経質そうにBB銃をいじりまわしている。「どうしたらいいの? うまく撃てないや……」
チャールズが銃をひったくった。「ぼくが殺してやる」彼は中腰になると、片目をつぶってねらいを定め、引き金に手をかけた。虫がすごい勢いで暴れ回る。チャールズの耳にも衝撃波が押し寄せて、ガンガンとたたきつけるような音が耳の奥で暴れ回ったが、銃をしっかりと構えた。引き金にかけた指に力がこもる……。
「そこまでだ、チャールズ」父親もどきの声がした。力の強い手につかまれて、指先がしびれる。必死でふりほどこうとしているうちに銃が地面に落ちた。父親もどきはペレッティを突きとばす。ペレッティが吹っ飛んだので、熊手から自由になった虫は、巣穴に意気揚々と入っていった。
「お仕置きが必要だな、チャールズ」父親もどきは物憂げな声で言った。「おまえはどうしたんだ? かわいそうにお母さんは気が気じゃないらしい」
〈あれ〉はずっとそこにいたのだ。物陰に隠れて。闇に身を潜めて、ぼくたちを見てたんだ。冷静そのものの、感情のいっさいこもらない声、気分が悪くなるほどパパそっくりの声が、耳のすぐそばで聞こえる。情け容赦のない力で引きずられ、チャールズはガレージに連れて行かれた。〈あれ〉の冷たい息が顔にかかる。冷たくて変に甘い、腐った土の臭いだ。〈あれ〉の力はすさまじく、チャールズにはわずかな抵抗さえできない。
「暴れるんじゃない」静かな声だった。「ガレージに入れ。おまえのためなんだよ。おまえがどうしたらいいのか、オレにはよくわかってるんだ」
「あの子が見つかったの?」勝手口の扉が開いて、心配そうな母親の声がした。
「ああ、ここにいる」
「あの子に何をするつもりなの?」
「お仕置きをほんのちょっぴり、な」父親もどきはガレージの戸を押して開けた。「ガレージにいる」薄明かりのなかでかすかな笑みが、おかしさとは無縁の、まったく感情のこもらない笑みが〈あれ〉の唇の端にちらっと浮かんだ。「おまえはリビングに戻っていいぞ、ジューン。ここはオレに任せてくれ。こういうことは父親の仕事だ。おまえは罰なんぞ与えたくないんだろう?」
勝手口の扉がいかにも気持を残しながら閉じられた。一緒にあたりが暗くなった。ペレッティが身をかがめ、BB銃をかまえようとした。とっさに父親もどきが立ち止まった。
「君たちはもう家に帰るんだな」かすれ声が響く。
ペレッティはBB銃を握りしめたまま、ためらい、突ったっていた。
「帰れと言っただろう」父親もどきは重ねて言った。「そんなおもちゃは下に置いて、ここから出ていけ」片手でチャールズをつかまえたまま、ゆっくりとペレッティに近づいて、空いた方の手を伸ばす。「BB銃はこの街では禁止されてるんだぞ、坊主。おまえの親父はそれを知らないのか? 市の条例があるんだ。それをこっちに寄越した方が身のためだ、さもなきゃ……」
ペレッティが〈あれ〉の眼に狙いを定めて撃った。
父親もどきはうめき声をあげると、撃たれた方の目を手で押さえようとした。つぎの瞬間、突然ペレッティに襲いかかった。ペレッティは車寄せを逃げながら銃の撃鉄を起こそうとする。父親もどきがつかみかかった。力の強い指が、ペレッティの手から銃をもぎ取り、無言のまま家の壁に叩きつけた。
チャールズは腕を振り払い、麻痺した頭のまま走り続けた。どこに隠れたらいい? 家と自分のあいだには〈あれ〉が立ちふさがっている。いや、もう、すぐそこにいるのだ。黒い影が闇の中、あたりを注意深くうかがいながら、脚を忍ばせて、なんとか彼を見つけようとしている。チャールズはあとずさりした。隠れるところさえあったら……。
竹藪だ。
すばやく竹藪の中に分け入った。年を経て節の太い竹が生い茂っている。しなった竹が元に戻って、ざわざわと音を立てながら彼を隠してくれた。父親もどきはポケットをまさぐっている。マッチに火をつけたので、あたりがぼうっと明るくなった。「チャールズ」声がした。「おまえがここにいるのはわかってるんだ。隠れても無駄だ。おまえは自分から事態を悪くしてるんだぞ」
胸が早鐘を打つ。チャールズは竹の間で小さくなっていた。目の前にあるのはがらくたや腐ったもの。雑草、ゴミ、紙くず、空き箱、ボロきれ、板、空き缶、空き瓶。クモやトカゲが足元でうごめいている。竹が夜風にそよいだ。虫とゴミくず。
そして別のものが。
影がひとつ浮かび上がっていた。動かない何か。音もなくそこにいる。ゴミ溜めの中に、夜に成長するキノコのように。白いどろどろのかたまりが、月の光を浴びてぬらぬらと光っている。クモの糸のような網に覆われて、かびた繭のようにも見える。手らしきものと、脚らしきもの。頭はまだはっきりとした形にもなってない。顔はまだできてない。それでもチャールズにはそれが何か、はっきりとわかった。
母親もどきだ。ゴミと湿気のなかで、ガレージと家のあいだで育ちつつあるのだ。そびえるように立つ竹の影に隠れて。
完成も間近だった。ほんの数日もしないうちに、十分育ちきるだろう。いまはまだ幼虫で、白く、柔らかく、どろどろしている。だが日光が乾かし、暖めるだろう。外皮は固くなる。色も濃くなり、固さも増すだろう。そうして繭を破って出てくるのだ。そのとき、ママがガレージの近くに行くと……。
母親もどきの後ろには、ほかにも白くてどろどろした幼虫がいた。つい最近、あれが産んだばかりなのだろう。まだ小さい。やっとこの姿になったところだ。父親もどきが外に出てきたあともわかった。〈あれ〉はここが生まれ故郷なんだ。ここで十分大きくなって、それからガレージでパパに会ったんだ。
チャールズは麻痺した体を引きずり、そこから離れようとした。腐った板きれやゴミやがらくた、どろどろのキノコのような幼虫から遠ざかろうとした。塀のところまで行って、弱々しい手を塀にかけた――よじのぼりかけ、そのまま下りた。
そこには別の一匹がいた。幼虫がもう一匹。初めは気がつかなかった。白くないからだ。すでに黒っぽくなっている。クモの網もかかってないし、どろどろでもない。湿り気もすでになくなっていた。すっかり準備ができているのだ。かすかに震えたかと思うと、弱々しく腕を振った。
チャールズもどきだ。
竹むらが左右に分かれたかと思うと、父親もどきの手が伸びて、チャールズの手首をがっちりとつかんだ。「ちょうどいいところにいたんだな! 動くんじゃない」空いている方の手で、チャールズもどきの繭を引き裂いていく。「手伝ってやろう――おまえはまだひ弱だものな」
じめじめした灰色の外皮を残らず剥ぎとったところで、チャールズもどきがふらつきながら出てきた。おぼつかない足取りでこちらに向かってくる。父親もどきはチャールズがいるところまで、道を空けてやった。
「さあ、こっちだ」父親もどきは言った。「捕まえておいてやるから。こいつを食えば、もっと強くなるだろう」
チャールズもどきは口を開けたりしめたりしている。よだれを垂らしながらチャールズの方に近づいてくる。チャールズは懸命に抵抗したが、父親もどきは大きな手で彼を押さえつけた。
「そこまでだ、チビ」父親もどきが有無を言わせぬ口調で言った。「もっとずっと簡単になるんだ、おまえさえ……」
父親もどきが悲鳴を上げながら、痙攣を始めた。チャールズから手を放し、体をよろめかせながら後ずさる。痙攣がいっそう激しくなった。ガレージにどしんとぶつかり、手足をひきつらせた。地面をのたうちまわり、苦しみのあまりに暴れている。痙攣し、うめき声をあげ、はいつくばったまま逃れようとした。やがて、少しずつ動きが鈍くなった。チャールズもどきも転がったまま動かなくなっている。竹藪と腐ったごみのあいだに、呆けたような顔で横たわっていた。体からは力が抜けて、顔にはどんな表情も浮かんでなかった。
とうとう父親もどきの動きが止まった。聞こえてくるのは、竹藪を渡る夜風が立てる、かすかなざわめきだけだった。
チャールズはおずおずと立ちあがった。車寄せのセメントの道を下りていく。ペレッティとダニエルズがこっちに来ていた。目を大きく見開き、警戒を続けている。「こっちへ来ちゃいけないよ」ダニエルズがきつい調子で言った。「まだ死にきってないんだ。もう少しかかりそうだ」
「何をしてたの?」チャールズがぽつりと聞いた。
ダニエルズは灯油缶を置いて、ほっと安堵の吐息をもらした。「こいつをガレージで見つけたんだよ。ぼくんちじゃヴァージニアにいたころ、蚊を殺すのに灯油を使ってたからね」
「ダニエルズが虫の穴に灯油を流しこんだんだ」ペレッティが説明したが、その声にはまだ怯えの名残があった。「こいつのアイデアさ」
ダニエルズは父親もどきのねじくれた体を、おそるおそる蹴ってみた。「こいつはもう死んでる。虫が死ぬと同時に死んだんだ」
「じき、ほかのも死ぬんだろう」ペレッティは言った。それからゴミの山のあちこちに育っていた幼虫を見ようと、竹むらをかき分けた。チャールズもどきは、ペレッティに棒の先で胸元をつつかれても、身動きひとつしなかった。「これも死んでる」
「念には念を入れておかなくちゃ」ダニエルズは硬い表情で言った。重い灯油缶を竹藪のぎりぎり端まで引きずっていった。「〈あれ〉がマッチを車寄せのどこかに落としてた。見つけて来てよ、ペレッティ」
ふたりは互いに目を見交わした。
「よしきた」ペレッティはひっそりと言った。
「水のホースがいるね」チャールズは言った。「広がったら大変だから」
「さあ、行こうぜ」ペレッティが待ちかねたように言った。すでに歩き出している。チャールズも急いであとを追い、ふたりは薄暗い中、月明かりをたよりにマッチを捜し始めた。
The End
のようなもの
『イリアス』や『とりかへばや物語』にも見られるように、別人になりすましたり、人と人が入れ替わったりする物語は、大昔からくりかえし描かれてきた。
だが、現実にはなりすましも入れ替わりも、できることではないだろう。そもそも、見間違えるほど、よく似た相手がいる、ということ事態がまれなことであるし、仮によく似た人がいたとしても、果たして人をだませるものかどうか。
『ふたりのロッテ』ではふたごが入れ替わるが、果たしてそれぞれの親をだませるものだろうか。かつて一卵性双生児のお母さんは「うちの子たちは全然似てない」と言っていた。「え? そっくりに見えるけど?」と聞き返すと、「確かに似てるけど」と笑いながら、ふたりのちがう点を事細かに列挙してくれたのだ。髪の毛の質や小鼻のかたち、歯の生え方、笑うときこんな笑い方をするのがあの子で、もうひとりの方はこんな笑い方をする……。他人には気がつかないほどの些細なちがいであっても、日々を共にする人間の眼には「まるでちがう」ものと映るのだ。たとえ一卵性のふたごが入れ替わってみせても、親きょうだい、親しい友人は、すぐに気がつくものなのだろう。
実際にはほとんど起こり得ない「なりすまし」や「入れ替わり」の物語が古来から描かれ続けている背景には、別の人として人生を送ってみたい、という願望があることは想像にかたくないが、果たしてそれだけなのだろうか。
わたしたちはときに、同じ人間を「別人のよう」と感じる瞬間がある。
知人に久しぶりに会って、「すっかり変わった、別人のようだ」と思うときのことを言っているのではない。朝な夕なに顔を合わせ、生活を共にしている人間が、不意に「ちがう人」のように感じられる。こんな人じゃなかった、何かおかしい、どうかしたんだろうか、いったい何があったのだろう……。
多くの場合、すぐに「いつもの顔」が戻ってくる。一瞬の違和感は、すぐにどこかへ行ってしまう。ああ、よかった、なんでもなかったんだ、と安心したまま、いつのまにかそんなことを感じたことすら忘れてしまう。
覚えていなければならないようなことではないし、できれば忘れてしまいたいことでもあるのかもしれない。だが、脇へ置いて、忘れたような気でいても、意識の底には残っているのかも知れない。まるで小さなけし粒のように。
やがてその人は作家となり、自分の中をのぞきこんで、けし粒を見つける。それを取り出して作品にし、読者は自分の中にもけし粒があったことを思い出し、それと重ね合わせる。本を閉じれば日常に戻れるとわかっているから、小説の中でなら安心して空想できる。自分はあのとき気がついたのだ、あの人は別人だったのだ……とすれば、いまのあの人はどうなのだろう? 平穏で退屈な日常にさざ波が起こる。だから「入れ替わり」や「なりすまし」はミステリと相性がいい。
ディックのこの短篇は、八歳の男の子の眼が見た世界である。もしかしたら父親は、単に仕事で疲れているだけなのかもしれない。もしかしたら、ガレージできつい酒を一杯、あるいはもう何杯か飲んだか、アメリカだからちがうものを飲んだか吸ったかしたのかもしれない。だが、八歳の男の子の眼には「別人」と映ったのである。眼の前にいるこいつが「別人」なら、ほんもののパパはどこにいる?
大人になったディックは、このときのけし粒を取り出し、短篇に仕立て上げた。そうしてわたしたちの中に埋もれていたけし粒とシンクロして、不気味な「ガレージの中」や「竹藪」が出現した。
それにしても、ディックにせよ、ブラッドベリにせよ、キングにせよ、本の中の子供たちは、実によく気がつく。まるで炭坑の中のカナリヤのように、異変をいち早く察する。大友克洋の『童夢』にも忘れがたい一コマがあった。主人公の女の子とおじいさんが空中で死闘を繰り広げているとき、子供たちはみんな空を見上げているのだ。静かな団地に穏やかな朝の日差しが降り注ぐ中、大人は誰ひとりとして気がつかないのに、固唾を呑んで見上げている子供たちの姿が、白々とした背景に、壊れやすい、繊細な線で描き出されていた。
子供たちはどうして気がつくのだろう。
もしかしたらそれは、彼らがうまく説明できないからかもしれない。
子供たちは気がついてすぐ、周りの大人に訴える。けれども大人たちはわかってくれない。チャールズのお母さんも、チャールズのことを心配はしてくれるが、言っていることを理解してはくれない。それは、大人の周囲には、いくつもの「意味」が張り巡らされているからだ。「意味」のフィルターを通してものごとを見、人と接する。だからたとえそんな「意味」の外からやってきた異変がそのフィルターをかいくぐったとしても、今度はそれを説明する「意味」がいくつも用意されている。異変は中まで届かない。
だが、言葉の世界の新参者である子供を取り囲む「意味」の網はスカスカだ。だから異変は「意味」の網の目を易々と突破して、直接子供に突き刺さってくる。けれども自分の感じた異変を大人に説明する段になると、いくつもの「意味」の糸を、もっと強力な「意味」で断ち切っていかなくてはならない。そんなことが言葉のアマチュアにできるわけがない。だから、大人には届かない異変が、子供にはわかる、という事態が出現するのだろう。
キングの『IT』にしても、この話にしても、〈あれ〉の正体がわかってしまったところで、どうしても話は興ざめになってしまう。それは、「意味」の外から来たはずの異変が、実はわたしたちのよく知っている「意味」の中に収斂してしまったことによる興ざめなのだろう。「意味」の内に収まってしまえば、たとえそれが枯れ尾花ならずとも、不思議な力を秘めた大ムカデだろうと、人を操るクモだろうと、クモはクモだしムカデはムカデ、恐ろしくもなんともないのだ。わからないのは、「意味」に収まらないものだからだろう。
異変の正体が判然としても、『シャイニング』や『童夢』の不気味さは残る。共にそれは「人間の精神」が異変の正体だからだ。つまり、わたしたちにとって人間の精神というのは、どこまでいっても「意味」の内におさまらない、不気味さの残るものということだろう。
もちろん子供も、自分と同じ子供が主人公のこの短篇を喜んで読む。けれども、喜んで読む子供を見る大人は、それとはちがうことを考えるかもしれない。
そういえば以前、部屋の天井近くに「いる」人と話をしている小さな男の子の話を聞いたことがある。彼が話をしている相手が、それを聞いた大人が想像するものと同じかどうかわからない、確かめようのない、不気味な話だった。この子にも、そんなものが見えているのだろうか。そんなものが見える子供というのはいったい、「意味」の外の、どんなところにいるのだろう。自分がある日、別人だと言い出したらどうしよう……。
初出Oct.24-Nov.01 2009 改訂November.07, 2009
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