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ここでは Francis Scott Fitzgerald の短篇 "The Freshest Boy" の翻訳をやっています。
フィッツジェラルドは、1927年から28年に渡って、ベイジル・デューク・リーという十代の少年を主人公とした自伝的な連作短篇を発表しており、この作品もそのひとつです。
作者フィッツジェラルドの分身ともいえる主人公のベイジルは、ここでは十五歳。中西部の故郷を離れ、大学入学までの二年間をニュージャージー州にあるカトリック系の寄宿学校ニューマンスクールで過ごそうとしています。想像力豊かで感受性の強い、少し風変わりな少年が、新しい世界とどのように馴染んでいくのでしょうか。
原文はhttp://gutenberg.net.au/fsf/BASIL-THE-FRESHEST-BOY.htmlで読むことができます。



生意気な少年


by フランシス・スコット・フィッツジェラルド



ハリソン・フィッシャー
【ハリソン・フィッシャー】



I


 深夜、ブロードウェイの隠れレストランには、華やかでミステリアスな社交界の面々や暗黒街の顔役、さらにその手下どもがつどっていた。ついさきほどまでは、シャンパンがひっきりなしにグラスに注がれ、若い女は浮かれてテーブルの上で踊りだす始末だったというのに、いまやひとり残らず押し黙り、息もつけずにいる。目という目が、仮面をつけ、燕尾服にオペラハットという瀟洒ないでたちで戸口に平然と立つ男に釘付けにされていたのである。

「お動きにならぬよう」という声からうかがえるのは、育ちの良さや教養ばかりでなく、鋼のように冷徹な響きがあった。「私が手にしているこいつに――ものを言わせる羽目になりましょう」

 彼はテーブルからテーブルへと目を走らせた――貴賓席にいる青ざめ、陰気な男の敵意に満ちた顔から、ヘザリー――某大国の超一流スパイ――へと移り、そこから視線は、いくばくか長く、またいくばくか優しすぎるものとなって、一箇所に留まった。その先には、黒髪で、暗く悲しげなまなざしの娘がひとり、テーブルを占めている。

「私の目的は達せられました。そこで今度はみなさんに、わたしが誰か教えてさしあげましょう」向けられた目に、一斉に期待の色が宿った。黒い瞳の娘の胸がかすかに波打ち、フランス香水のあえかな香りが流れた。

「私こそ誰あろう、かの謎に包まれた男、ベイジル・リーであります。通称『影』とは私のこと」

 ぴたりと頭に合ったオペラハットを取ると、皮肉めいたしぐさで深々と一礼する。かと思うと閃光のごとくにすばやく身を翻し、夜の闇に紛れてしまった……。



……「ニューヨークに行けるのは月に一度だけだ」ルイス・クラムが話していた。「おまけにそのときは先生に連れて行ってもらわなきゃならないんだ」

 ベイジル・リーは寝ぼけまなこを、インディアナ州の田園地帯に点在する納屋や看板から引き剥がして、ブロードウェイ特急の内部へ移した。飛びすさる電柱にかけられた催眠術から覚めた先には、向かいの座席の白いカバーを背にしたルイス・クラムの鈍い顔があった。

「ニューヨークに着いたら、先生なんてすぐにまいてやる」ベイジルは言った。

「おまえならやりかねないな」

「絶対そうするさ」

「やってみりゃどうなるか、そのうちわかるさ」

「君はそのうちわかるっていつも言うけど、ルイス、それってどういう意味だよ。何がそのうちわかるんだ?」

 ベイジルの生き生きとした藍色の瞳に、うんざりしたような色が浮かび、相手にじっと注がれた。ふたりのあいだには共通点などほとんどなかった。共に十五歳であることと、ふたりの父親が終生変わらぬ友情を誓い合ったこと――いまとなってはほとんど意味をなしていない誓いではあったが――ぐらいだ。そんなふたりが、中西部の同じ町から同じ東部の学校に、ベイジルは新入生、ルイスは二年生として、向かっているところなのである。

 だが、昔から言われてきたこととは裏腹に、先輩ルイスが惨めったらしい顔をしているのに対して、新入生のベイジルは元気一杯である。ルイスは学校が嫌いだった。なにしろ強く暖かい母親の励ましに頼り切って大きくなったせいで、その母親から遠くなるにつれ、気持ちがくじけ、ホームシックの思いが募るばかりだったのである。

一方、ベイジルはというと、これまで寄宿学校生活にまつわる話を夢中になって読んだり聞いたりしてきたおかげで、ホームシックどころか、勝手知ったる世界を前に、高まる期待に胸を一杯にしていた。実際、昨夜ミルウォーキーで、さしたる理由もないまま、ルイスのクシを汽車から投げ捨てたのも、荒っぽい伝統に従っただけ、むしろふさわしいことをしたぐらいの気持ちだったのだ。

 ルイスにしてみれば、何も知らないくせに勢いこんでいるベイジルがやりきれなかった――そこで半ば無意識に相手の気勢をそごうとして、結局、双方が相手に対するいらだちを募らせることになってしまったのだった。

「そのうち何がわかるか教えてやろう」と言うと、ルイスは不吉な予言を口にした。「おまえはタバコを吸ってるところをとっつかまって、外出禁止を喰らうんだ」

「そんなことあるもんか。だってぼくはタバコなんて吸わないもの。フットボールの練習をするんだ」

「フットボールだって? ハハ、そりゃ良かったな、フットボールとはね」

「おいおい、ルイス、君に好きなものなんてあるのかい?」

「フットボールなんか好きなわけないじゃないか。やられた上に、目玉に一発喰らうだなんて、まっぴらごめんだね」

ルイスは挑発的な言葉を返した。というのも、彼が小心なところを見せるたび、母親は、ほんとにあなたは常識をちゃんとわきまえているのね、と褒めたたえてきたからなのだ。ところがベイジルの返答は、そもそも相手を思いやったつもりだったのだが、実際のところは生涯の敵を作ることになった。

「君だってフットボールをすれば、もっと学校で人気者になれるよ」――と、偉そうに言ってしまったのである。

 ルイスは自分が人気がないとは思ったことがなかった。だからフットボールで人気が出るなどと、考えたこともなかったのだ。だからその言葉にひどく驚いた。

「覚えてろ!」腹を立てたルイスは怒鳴った。「そんな生意気な態度なんか、学校でたたき直されるんだからな」

「黙れ」ベイジルはつとめて冷静を装って、初めてはいた長ズボンの折り目を引っぱりながら言った。「いいかげんにしろよ」

「きっとみんな、前の学校ではおまえが一番生意気なやつだったってこと、知ってると思うな」

「黙れったら」ベイジルは繰りかえしたが、その声には力がなかった。「頼むよ、いいかげんにしてくれないか」

「学校新聞に、おまえのこと、なんて書いてあったんだっけか」

 ベイジルの顔から冷静さが消えた。

「ガチャガチャ言うのをやめないんだったら、ブラシも全部、窓から放り出してやるからな」

 大げさな脅しが功を奏したらしい。ルイスは座席に深く身をもたせかけ、鼻を鳴らしてぶつぶつと言っていたが、それでもさっきよりはずいぶん静かになった。だが、ルイスの言葉は、相手にとっての人生最大の屈辱を衝いたのだった。ベイジルは以前学校で、生徒発行の雑誌の「人物紹介」の項に、こんな文章を書かれたことがあった。

お願いいたします。どなたかこのベイジル少年を、毒殺、あるいはあの口だけでもどうにかして封じてくださらないものでしょうか。学校をあげて、もちろん筆者自身も、心からの感謝を捧げる次第であります。

 ふたりの少年は腰掛けたまま黙りこくり、互いに相手に対する怒りをくすぶらせていた。やがて、ベイジルは決然と、こんな気分の悪い思い出なんか葬ってやる、と考えた。あんなものはみんな、捨ててきたんじゃないか。たぶん、ちょっとくらいは生意気だったのかもしれないけど、新たにスタートを切り直そうとしているんだ……。やがて当時の記憶もどこかに紛れ、一緒に列車も、うっとうしいルイスの存在も消えてしまった――ひどく強い、懐かしさすら感じられる東部の息づかいが彼をつつみこむ。そのおとぎ話の世界から、彼の名を呼ぶ声が聞こえてくる。男が横に立ち、スウェットシャツを着た彼の肩に手を置いた。

「リー!」

「はい、コーチ」

「すべて君にかかってるんだ。わかってるね?」

「はい、コーチ」

「よし」コーチが言った。「さあ、勝ってこい」

 ベイジルは、青年らしさを帯びてきた体からスウェットシャツをかなぐり捨てて、フィールドへ駆けだした。試合時間は残り二分、得点は3対0で敵がリードしている。だが、若きリー、ダン・ハスキンスという学校のボスと、その子分のウィーゼル・ウィームスの悪企みのために、一年間出場禁止処分を受けていたリーの姿を見ると、セント・リージス校のスタンドにはゾクゾクするような興奮が湧き上がった。

「33-12-16-22!」
小柄で華奢なクォーター・バック、ミジェット・ブラウンが怒鳴った。それが彼の合図だった……。

「よし、いくぞ!」ベイジルは声に出していた。いましがたまで味わっていた不愉快な気分はすっかり忘れていた。「明日なんてこといわないで、いますぐ向こうに着けないかなあ」

II


イーチェスター セント・リージス校
19--年11月18日

お母さんへ

 今日は書くほどのニュースはないので、お小遣いのことを書きます。ほかの生徒はみんな、ぼくよりたくさんのお小遣いをもらっています。ぼくには買わなければならないもの、たとえば靴ひもとかそんなものがたくさんあるんです。
学校は、相変わらずとてもいいところで、毎日楽しく過ごしていますが、フットボールシーズンが終わったので、やることもあまりありません。今週はショーを見にニューヨークへ行く予定です。一体何を見るのか、まだわかりませんが、おそらく『クワッカー・ガール』か『リトル・ボーイ・ブルー』だと思います。どちらも評判がすごく良いから。
ドクター・ベイコンはとてもいい人で、村の方にも立派なお医者さんがいます。代数の勉強をしなければならないので、筆を置きます。

あなたの大切な息子
ベイジル・D・リー


ベイジルが手紙を封筒に入れたちょうどそのとき、小柄でしなびたような少年がひとけのない自習室に入ってくると、すわっているベイジルをじろじろと見た。

「よぉ」ベイジルはしかめっつらでそう言った。

「探してたんだ」小柄な少年はゆっくりと相手を見定めるように言った。「あっちこっち探したよ――おまえの部屋も、体育館もな。そしたら、こっそりここに入りこんでるんじゃないかって教えてくれた人がいたんだ」

「何か用?」ベイジルはつっけんどんな声を出した。

「カリカリすんなよ、ボス」

 ベイジルが勢いよく立ちあがったので、小柄な少年は一歩あとずさりした。

「いいよ、なぐりたきゃなぐれよ」少年は神経質そうな高い声を出した。「なぐったらいいよ、ボス。こっちは背が半分しかないチビなんだから」

 ベイジルはひるんだ。「そんなふうにおれのことをまた呼んだら、ほんとにひっぱたいてやるからな」

「そんなことはできないね。ブリック・ウェールズがね、君がもし、ぼくらのうちの誰がに手を出そうもんなら――」

「だけどおれはおまえたちの誰にも、手なんて出したことがないじゃないか」

「前に追いかけたじゃないか。それにブリック・ウェールズが……」

「おい、それより何の用があるんだ」ベイジルはうんざりして大きな声を出した。

「ドクター・ベイコンが用があるんだって。ぼくに、探してくるようにって。君はここにこっそり来てるかもしれない、って教えてもらったんだ」

 ベイジルは手紙をポケットに入れると、部屋を出た――小柄な少年と、その口からあふれでる悪態が、ドアから追いかけてきた。ベイジルは長い廊下を反対側に渡った。男子校特有のむっとする臭気が鼻を突く。かびたキャラメルの臭いというのが、一番ふさわしい形容だろうか。

 ドクター・ベイコンは机に向かっていた。整った顔立ちをした、赤毛の監督派教会の牧師で、五十歳になる。もともと少年たちに対しては、真剣に関わっていたのだが、それもいまでは、人をまごつかせるほどの皮肉のせいで、すっかりわかりにくいものとなってしまった。それも校長という校長が陥る宿命であり、彼らに生える青カビのようなものなのだった。
ベイジルに、すわりなさい、と言う前にも、一連の予備行動があるのだ。まず、金縁メガネをどこからともなく取りだした黒いヒモで持ち上げて、ベイジルをのぞき込み、名を騙っているのではないかと確かめる。それから机の上に積んである書類の山を、すっかり混ぜこぜにするのだ。それも何かを探しているのではなく、トランプを神経質にシャッフルするかのように、それを行うのである。

「君のお母さんから、今朝、手紙をもらったよ――ええと、ベイジル君」名前の方で呼ばれると、ベイジルはびくっとするようになっていた。学校ではまだ誰も、ボスやリー以外の呼んでくれる者はいなかった。
「お母さんは、君の成績が芳しくないと思っておられるようだな。君がここに来るためにはある種――まあ、その、犠牲といったらいいか、とにかくそうしたものを払われたそようだね。だから、お母さんが期待するのも……」

 ベイジルの心は、自分の成績が悪いことではなく、経済的な理由でここにふさわしくないということをあからさまに口にされたために、恥ずかしさではらわたがよじれそうになった。金持ちの男子校の中で、自分が一番貧乏な生徒であることを、彼はよく知っていた。

 おそらくドクター・ベイコンも、ベイジルの気まずそうなようすを見ているうちに、久しく忘れていた感情が呼び覚まされたのだろう。もう一度、書類を切り直して、語調を変えて話を始めた。

「といってもだね、今日はこのことで君を呼びにやらせたのではないんだよ。先週、君は土曜日にニューヨークへマチネーを観に行く許可を申し出ているね。デイヴィス先生がおっしゃるには、明日外出禁止が解かれるのは、本校創立以来、初なのではないかということだったよ」

「はい」

「良い前例とはならないんだが。ともかくニューヨークへ行くことを許可しよう。段取りがうまくいきさえすれば、の話なのだが。生憎この土曜日は、付き添いの先生のご都合が悪くてね」

 ベイジルの口はあんぐりと空いた。「でも、ぼく、……あの、ドクター・ベイコン、二組が行くってこと聞いたんですけど。そのどちらかと一緒に行くわけにはいかないんですか?」

 ドクター・ベイコンは書類全部にざっと目を通した。「あいにく、ひと組は君より少し上の学年の生徒たちだし、もうひとつの組はもう何週間も前に手はずがついてしまっているんだ」

「ダン先生と一緒に『クワッカー・ガール』を見に行くグループはどうなっているんですか」

「それがいま話したグループなんだ。彼らはもう準備万端整ったと思っているし、席もまとめて買ってあるんだよ」

 不意にベイジルにも事態が飲み込めた。ベイジルの目に浮かんだ色に気がついたドクター・ベイコンは、あわてて言葉を続けた。

「ひょっとしたら私にもひとつ、できることがあるかもしれないな。生徒数名でグループを組めば、先生の費用を分担できるだろう? あとふたり見つけられたら、グループができるね。五時までにメンバー全員の名前を知らせてくれたら、ルーニー先生を君たちの引率者に任命しよう」

「どうもありがとうございます」ベイジルは言った。

 ドクター・ベイコンはためらった。長年のうちに凝り固まってしまった皮肉な見方の奥底で、生得の気質がさわぎだしていた。この少年の抱える異例の問題を調べてみたい。いったいどうして彼が学校一の嫌われ者なのか。少年たちの間にも、また教師の間にも、彼に対する異様なまでの敵意が存在しているようだった。これまで生徒が起こしてきたさまざまな種類の問題行動を扱ってきたドクター・ベイコンではあったが、自分で調べても、また、信頼のおける六年生の助けを借りても、大元の原因をつかむことはできないでいた。おそらく原因は単独ではなく、さまざまな要因が組み合わさっているのだろう。おそらくそれは、いわゆる“性格の問題”という、とらえどころのないものなのかもしれない。だが、初めてこの子に会ったときには、めったにみないほど、魅力的な少年だと思ったのだ。

 ドクター・ベイコンはため息をもらした。こうした問題は、おのずと解決する場合もある。彼は拙速にことを行うような人間ではなかった。「来月はもっと良い成績を家に報告できるようにしようね、ベイジル」

「はい、ドクター」

 ベイジルは急いで階段を駆け下り、娯楽室へ向かった。今日は水曜日で、生徒のほとんどは、イーストチェスター村へ行ってしまっていた。外出禁止を喰らっていたベイジルは、一緒に行けなかったのだ。ビリヤード台やピアノのあたりにたむろしている数人の生徒を見るうちに、自分と一緒に行ってくれる生徒を見つけるのはむずかしいだろうという気がしてきた。というのも、ベイジルには自分が学校で一番人気のない生徒だという自覚がはっきりとあったからである。

 それが始まるのに時間はかからなかった。入学してから二週間も経っていないころ、低学年の生徒たちの集団が、おそらく誰かにたきつけられでもしたのだろうが、ベイジルの周りに集まってきて、ボス、ボス、とはやしたて始めたのである。つぎの週の間に、彼は二度ケンカをしたが、どちらとも野次馬が熱狂的な声援を送るのは、相手の方だった。ほどなく、ベイジルがただ、誰もがしているように、食堂に入ろうと人をかき分けていただけなのに、フットボール・チームのキャプテンのカーヴァーがベイジルに向き直り、首根っこをひっつかむとそのまま押さえこみ、口汚くののしったのだ。ベイジルは素知らぬ顔で、ピアノのそばにいたグループに加わろうとしたが、「あっちへ行けよ。おまえなんかお呼びじゃないんだよ」と言われてしまった。

 一ヶ月もすると、自分が実際どれほど嫌われているか、ベイジルにもその全貌が見えてきた。ことのほか屈辱的な出来事に見まわれたそんなある日、彼は自分の部屋に上がって泣いた。みんなから距離を置こうとしたこともあったが、何の役にも立たなかった。あちこちこそこそと嗅ぎ回って悪だくみでもしているのだろうと非難されるのがオチだった。途方に暮れ、惨めな気持ちで、鏡に映る自分の顔をのぞきこみ、自分がきらわれる理由がどこにあるのか探り当てようとした。自分の目つきや笑顔に、どこか変なところがあるのではないか、と。

 いまでは、きっかけをまちがえてしまったのだと思っている。自慢したし、フットボールの最中、びびってる、と思われてしまった。みんなの前で他の生徒の間違いを指摘したし、授業ではたいそうな博識をひけらかしてしまった。おれだってうまくやろうとしたんだ。でも、自分のへまは、どうやったら埋め合わせられるのかわからない。きっともう遅いんだ。おれの評判は、永久に地に墜ちてしまった……。

 実をいうとベイジルはスケープゴート、手近な悪役にされてしまっただけだった。ちょうど、その場に充満する敵意や怒りを吸い上げるスポンジのように、一番おびえている人間が、ほかの者の怖れをすべて吸収してしまったのだ。だが、九月、セント・リージス校にやってきたときにはあれほど強かった鼻っ柱も、へし折られ、もはや跡形もないのは誰の目にもあきらかだったのに、状況は一向に好転しなかった。ほんの数ヶ月前までは、彼を罵倒する勇気など持ちあわせていなかった生徒たちまでが、いまでは堂々とあざけってくるのだった。

 今度のニューヨーク行きは、ベイジルにとって特別に重要だった――ロマンスの天国が一瞥できるから、というだけでなく、悲惨な毎日の生活に終止符を打つはずの日あった。だから、一日千秋の思いで待ち望んでいたのだ。それが一週、一週と先送りされたのは、規則違反を咎められたからだ――たとえば、消灯時間が過ぎて本を読んでいるところをいくどとなく見つかった。だがそれも、惨めな現実を忘れ、本の世界に逃避しようとしていたからだったのだが。

延び延びになるうちに、あこがれはいやが上にも高まり、やがて渇望の火が燃え上がった。行けなくなるなど、耐えられっこない。一緒に行ってくれる可能性のある友人の短いリストを作り、それを繰りかえし唱えた。候補者は、ファット・ガスパー、トレッドウェイ、それにバグス・ブラウンだ。いそいで彼らの部屋に行ってみたが、彼らはみな、水曜日の午後は、イースチェスターに行く許可をもらっていることがわかっただけだった。

 ベイジルは少しもためらわなかった。五時までまだ時間がある。唯一のチャンスは、彼らのあとを追うことだ。外出禁止令を破るのは初めてのことではない。前のときはそのために、禁足期間延期の憂き目を見ることになったのだが。自分の部屋で厚手のセーターを着込んで――オーバーを着ると、何をするつもりか一目瞭然だ――改めて上にジャケットを羽織った。帽子は後ろポケットに隠す。

階段を下りて、精一杯さり気ないふうをよそおい、口笛を吹きながら体育館に向かって芝生を横切っていった。体育館に着くと、しばらくは立ったまま、窓を、最初は歩道に近い窓、それから建物の隅の方の窓をのぞき込んだ。すばやく、とはいえあまりすばやすぎない速さを保ちながら、ライラックの茂みの方へ歩いていく。そこから猛然と角を曲がり、どの窓からも死角になっている伸び放題の芝生を越えて、金網の柵をかいくぐり、地面を這って隣の敷地に立った。しばらくの自由を手に入れた。帽子で冷たい十一月の風をよけ、村までの一キロほどの道のりを歩き始めた。

 イーストチェスターは郊外の農村地帯で、小さな靴工場がある。その工場で働く労働者を当てこんだ何軒かの店を、生徒たちもひいきにしていた。映画館に“ザ・ドッグ”と呼ばれる軽食販売車、それに“ボストニアン・キャンディー・キッチン”などなど。ベイジルが手始めに“ザ・ドッグ”をのぞいてみると、すぐに候補者の一人と出くわした。

 そこにいたのはバグス・ブラウン、ひどく興奮しやすいヒステリックな少年で、みんなから徹底して避けられていた。後年、彼は弁護士としてめざましい活躍をすることになるが、そのときはまだセント・リージス校の生徒たちから、狂人の典型と見なされていた。というのも、過敏な自分の神経を抑えようと、一日中ひっきりなしに、奇妙な声を発していたからだった。

 彼がつきあうのは、自分より年下の生徒たちだけだったが、それも年長者に比べると偏見が少なかったからである。ベイジルが入った店でも、そんな数人の仲間たちと一緒だった。

「ふいぃぃぃっと!」彼は叫んだ。自分の手で口をパタパタと叩き、ワワワワ……と声を出す。「ボスのリーだ! リー親分! ボス、ボス、ボス、ボス、ボスのリー!」

「ちょっと待ってよ、バグス」ベイジルは不安になってきた。一緒に行ってくれるよう説得する前に、頭がどうかしてしまったらどうしよう、と半ば本気で心配になってくる。「ねえ、バグスったら、ちょっと聞いてよ。君、今度の土曜日の午後、ニューヨークへ行かない?」

「ふぃぃぃぃぃっ!」ベイジルを途方に暮れさせるような叫び声があがる。「ふぃぃぃぃぃっ!」

「あのさ、バグス、教えてよ。君さえ良かったら、ぼくら一緒に行けるんだよ」

「おれは医者んところへ行かなきゃ」バグスは急に冷静になると、そう言った。「おれがどのくらいいかれてるか調べたいんだってさ」

「ほかの日にしてもらうわけにはいかない?」ベイジルは冗談も交えずそう言った。

「ふぃぃぃぃぃっ!」バグスが叫ぶ。

「いいよ、それなら」ベイジルは急きこんで聞いた。「この町でファット・ガスパーを見なかった?」

 バグスは金切り声を上げるのに夢中になっていたが、ほかの誰かがファットを見た、と教えてくれた。ベイジルはその言葉に従って、“ボストニアン・キャンディー・キッチン”に向かうことにした。

 そこは安い砂糖でできたけばけばしい天国だった。むっとする甘いにおい、大人なら手に汗をじっとりかきそうなにおいが、店の周囲を窒息させんばかりにおおっていて、入り口に立つと、まるで不道徳をいさめられるかのような、強烈な臭いに出くわすのである。中では、黒い手編みレースさながらに飛び交うハエの下、少年たちが一列に並んですわり、バナナスプリットやメイプルナッツ、チョコレートマシュマロナッツサンデーなどの、胃にもたれるごちそうを食べていた。ベイジルは、ファット・ガスパーが壁際のテーブルにいるのを見つけた。

 ファット・ガスパーはベイジルにとって、誰よりもとらえどころがなく、好奇心をそそられる存在だった。彼は「いいやつ」ということになっていた――事実、いつも楽しそうにしていて、ベイジルに対しても礼儀正しく、秋のあいだずっと丁寧な言葉遣いで話しかけてくれていた。誰にでもそうであることはわかっていても、ベイジルには、ファットは自分のことを嫌っていないんだ、昔のみんなのようにつきあってくれているのかもしれない、という思いも捨てきれず、そのチャンスに賭けるしかなかったのだ。だが、どうやらそれも思いこみでしかないのかもしれない。テーブルに近づいていくと、彼の方を向いたほかのふたりの少年の顔がこわばり、ベイジルの希望はしぼんだ。

「あのね、ファット……」彼はためらいながら言った。それから急に急き込むように話し出した。「ぼく、外出禁止だったんだけど、君に会いたくて抜け出してきたんだ。ドクター・ベイコンが、ふたり、一緒に行ってくれる生徒を見つけたら、土曜日にニューヨークに行く許可をくれるんだ。バグス・ブラウンにも頼んだんだけど、行けないんだって。だから君に頼んでみようと思ったんだ」

 彼は言葉を切ると、いたたまれなさに吐き気がする思いで返事を待った。すると急に一緒にいたふたりの少年が、大笑いし始めた。

「バグスはそこまで狂ってなかったんだな!」

 ファット・ガスパーはためらっていた。もとより土曜日にニューヨークには行けなかったのだが、ふだんの彼なら、相手に不快感を抱かせないように断っていただろう。ベイジルに対して、格別、悪意があるわけではなかった。というより、実際のところ、彼には格別、きらいな生徒などいなかったのだ。だが、少年の力では、世論に抵抗するにも限界がある。ほかの連中のバカ笑いに、つい流されてしまった。

「行きたくないな」と彼は興味なさそうに言った。「なんでぼくに頼みに来るかなあ」

 それから、そんなことを言った自分がいくぶん恥ずかしくなって、弁解するようにちょっと笑ってみせると、アイスクリームの方に身をかがめた。

「ただ、君に聞いたらどうだろう、って思っただけ」とベイジルは言った。

 急いで向きを変え、カウンターまで行くと、うつろで自分のものとも思えないような声でストロベリー・サンデーを注文した。機械的に口に運び、背後のテーブルからささやき声や忍び笑いが耳に入ってくる。ぼうっとしたまま、代金を払わずに店を出ようとして店員に呼び止められ、なおも高まった嘲笑を聞く羽目になってしまった。

 テーブルに戻って、やつらをひとりつかまえてぶん殴ってやろうか、と考えた。だが、そんなことをして何になるだろう。連中は真実を言い当るにちがいない――ニューヨークへ誰も一緒に行ってくれないから、そんなことをするのだろう、と。やり場のない怒りにこぶしを固め、彼は店を出た。

 ベイジルはほどなく三番目の候補者、トレッドウェイに出くわした。トレッドウェイはその年、後期からセント・リージス校に入ってきて、先週ベイジルと相部屋になったのだ。秋に被った屈辱をトレッドウェイは目にしていないことに励まされて、彼に対してはベイジルも自然に振る舞うことができた。ふたりの仲は、親しいとはいえないまでも、平穏な関係を築いていたのである。

「よぉ、トレッドウェイ」“ボストニアン”での出来事の興奮がさめないまま、ベイジルは大きな声を出した。「今度の土曜の午後、ニューヨークへ一緒に行かないか」

 ベイジルの足が止まった。トレッドウェイはあのブリック・ウェールズ、以前ベイジルととっくみあいのケンカをしたことのあるブリック・ウェールズ、憎い憎い敵のひとりと一緒だったのだ。ベイジルは一方から他方へ目を移した。トレッドウェイの表情にはじれたような色が浮かび、ブリック・ウェールズは素知らぬ顔をしている。これまでのあいだにいったいどんな会話が交わされていたか、ベイジにルははっきりと見てとれた。トレッドウェイは、学校生活を送る際のルームメイトの占める位置について、啓蒙されたばかりだったのである。ファット・ガスパーと同様に、個人的な頼み事をされるにふさわしい関係を築くより、友人関係を絶つ方がよほどましだとでも言いたいのだろう。

「絶対にいやだ」彼は短くそう言った。「じゃあな」ふたりはベイジルをす通りしてキャンディ・キッチンへ入っていった。

 こうしたあしらわれ方は、激しい感情がこもっていないだけに、いっそう苦々しく、これが九月の段階であれば、ベイジルにも耐えがたかっただろう。けれども時間を経て、彼は硬い殻を身につけるようになってきた。その殻は、彼の魅力を増す役には立たなかったが、微妙に色合いを変えながら、さまざまに襲いかかってくる苦痛を、しのぎやすくはしてくれていたのだ。もう十分、と言いたいほどのみじめさと失望と自己憐憫を抱えて、彼は通りを反対方向に向かって歩いていった。しばらくしてやっと、歪んで猛々しくなっていた自分の顔を、コントロールできるようになった。それから向きを変えて学校へ向かった。

 学校に隣接する地所まで戻り、来たときの道順をたどっていく。生け垣の途中で、歩道を踏む足音が聞こえ、教師たちが近くにいるのではないかと立ち止まった。声が近づいて、話がはっきり聞こえてきた。自分で意識するより早く、怖いもの知りたさでベイジルは耳をそばだてていた。

「――で、バグス・ブラウンに打診してから、あの哀れなバカはファット・ガスパーに一緒に行ってくれと頼んだんです。そしたらファットは『なんでぼくに聞いたりするんだ?』って言いました。結局、誰もつかまえられなかったとしても、やつには分相応ってところでしょうね」

 陰気な、だが勝ち誇ったような声は、ルイス・クラムのものだった。

III


 自分の部屋に上がっていくと、ベッドの上に包みがあるのに気がついた。中味が何かはわかっている。長いこと、待ちに待っていたものだったのだが、気持ちがひどく滅入っていたので、包みを開くのも億劫だった。ハリソン・フィッシャーの八枚シリーズで、「光沢紙、文字・広告なし、額装に最適」の複製画である。

 絵には名前がついていて、それぞれドーラ、マーゲリート、バベット、ルシール、グレッチェン、ローズ、キャサリン、ミーナとあった。二枚――マーゲリートとローズ――をベイジルはじっと眺め、ゆっくりと引き裂いてくずかごに落とした。ちょうどひと腹の子犬のうちの、虚弱な仔を捨てるかのように。残った六枚は間隔をあけて、部屋を囲むようにピンで留めていった。

ドーラとルシール、キャサリンはブロンド、グレッチェンは明るい茶色、バベットとミーナは黒髪をしている。数分ほどして、自分がもっとも頻繁に目をやるのがドーラとバベットで、グレッチェンがそれに続くのに気がついた。グレッチェンがかぶっているオランダ風帽子は、ロマンティックとは言いがたく、ミステリアスな要素に欠けていた。だが、バベットは黒髪で小柄、すみれ色の目をした美人で、ぴったりとした帽子をかぶっている。ベイジルには誰よりも魅力的に思えた。とうとう彼の目はバベットにくぎづけになった。

「バベット」彼はそっと口に出してみた。「美しいバベット」

 その言葉の響きはまるで「ヴィリアの歌」や「マキシムへ行こう」(※ともにレハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』の曲)のように、メランコリーに満ち、想像をかきたてて、心を鎮めるものだった。彼はベッドに前のめりに倒れ込み、枕に顔を埋めてすすり泣いた。頭の上のベッドの柵をつかみ、声を殺してむせび泣きながら、とぎれとぎれにつぶやいた。おれはあいつらをどれだけ憎んでいるか。誰が一番憎いだろう……十以上の名前が挙がる……おれが偉くなり、権力を握るようになったら、そいつらをどういう目に遭わせてやろうか。以前ならファット・ガスパーだけは、その親切に報いたものだったが、いまとなってはほかのやつらとまったく同じだった。盲目になって路上で物乞いをしているファットのところに行きあわせたら、襲いかかって情け容赦なくぶちのめしてやろうか、それとも鼻先でせせら笑ってやろうか。

 トレッドウェイが入ってくる音を聞きつけ、ベイジルは息を殺したが、体を動かすことも声をかけることもしなかった。部屋を動き回る音に耳をそばだてるうちに、やがて聞き慣れない音、クロゼットや机の引き出しを開け閉めする音が聞こえてきた。ベイジルは泣き濡れた顔を見られないように腕で隠しながら、体をそちらに向けた。トレッドウェイは片手に何枚ものシャツを抱えている。

「何してる?」ベイジルは聞いた。

 ルームメイトは表情一つ変えずにベイジルに目をやった。「ウェールズの部屋に引っ越すんだ」

「なんだって?」

 トレッドウェイは荷造りを続けている。ぎっしりつまったスーツケースをひとつ、さらにもうひとつと運び出し、壁からペナントを外し、トランクを廊下に引きずり出した。洗面用具をタオルでくるみ、部屋の剥きだしになったところにまだ何か忘れものはないかと最後の一瞥をくれている彼を、ベイジルはじっと眺めていた。

「じゃあな」表情を少しも動かさずにベイジルに言った。

「さよなら」

 トレッドウェイは部屋を出ていった。ベイジルはふたたび倒れ込み、枕に顔を埋めた。

「ああ、かわいそうなバベット」彼はかすれた声で泣いた。「かわいそうなかわいいバベット! かわいそうなかわいいバベット!」

すらりと魅力的なバベットは、壁からなまめかしい目で彼を見下ろしていた。

IV


 ベイジルが苦しい立場に置かれ、ひどく惨めな心境でいるにちがいないと感じたドクター・ベイコンは、結局、ニューヨークに行かせる方向で段取りを組んだ。ベイジルの引率はフットボールのコーチであり、歴史の先生でもあるルーニー先生に任せた。ルーニー先生は、二十歳のときに警察に入るか、奨学金をもらってニューイングランドの小さなカレッジへ行くか、ずいぶん迷った人物である。実際のところ、彼はなかなか厄介な人物で、ドクター・ベイコンもクリスマスまでには彼を学校から厄介払いすることを考えていた。ルーニー先生は、今年のフットボール・シーズンの終盤、競技場でベイジルがあやふやで頼りないプレーをしたことが原因で、ベイジルを軽蔑していた。ニューヨークへの引率を引き受けたのには、個人的な思惑があったのだ。

 ベイジルは汽車の中ではおとなしく坐って、ルーニー先生の大きな体越しに入江やウェストチェスター郡の休耕地などをちらちらと眺めていた。ルーニー先生は新聞を読み終えてたたむと、むっつりと黙り込んでしまった。量の多い朝食を取ったあと、急にこんな仕事が回ってきて、消化を促進する運動をしようにも、その時間が取れなかったのである。先生はベイジルが生意気な少年で、そろそろ何か生意気なことをしでかして、叱る必要があるにちがいない、と考えていた。ところがベイジルが咎めるようなこともせず、おとなしくしているものだから、先生はいいかげん飽き飽きしていた。

「リー」不意に先生は口先だけの親しげで興味があるふうを装って尋ねた。「どうして君は賢くなろうとしないんだね」

「なんですって、先生?」ベイジルは今朝から続いていた興奮の酔いから、急に引き戻された。

「どうしてもっと賢くなろうとしないのか、と言ったんだ」ルーニー先生はいくぶん厳しい口調でそう言った。「それとも学校での嘲笑の的でありたいのかね?」

「そんなことはありません」ベイジルは寒気がしてきた。どうしてほんの一日だけでもこうした話題を放っておいてもらえないのだろうか。

「何も君はそんなふうに、四六時中、生意気なまねをしなくてもいいんじゃないのかな。歴史の授業中、何度か君の首をへし折ってやりたくなったこともあったんだよ」

ベイジルはどう答えていいか、まったく見当がつかなかった。

「それからフットボールをやっているときも」とルーニー先生は続けた。「君はてんで度胸がないんだからな。ポンフレット校の二軍とやったときにもわかったように、その気になりさえすればほかの連中よりもうまくできるのに、度胸がない」

「ぼく、二軍なんかとやるべきじゃなかったんです」とベイジルは言った。「ぼくは体重が軽すぎるんです、三軍にいたらよかったんだ」

「臆病なんだよ。君の問題はそれだけだ。自分の欠点を理解しなくては。授業中ときたら、いつもほかのことを考えているじゃないか。勉強しなけりゃ、大学には絶対に行けないぞ」

「五年生の中でぼくは一番年が下なんです」ベイジルはよく考えもしないで言ってしまった。

「どうやら君は、自分がずいぶん頭がいいと思ってるようだね」ルーニー先生はベイジルに非常に厳しいまなざしを向けた。だがそのうち、何か思うところがあったらしく態度が急にかわり、そのままふたりは黙って列車に乗っていた。列車は家々の密集する町にさしかかった。ニューヨークも近くなったころ、先生はまた口を開いた。今度は穏やかな、あらかじめ入念に考えていたような口ぶりだった。

「リー、君を信頼してみようと思う」

「はい、先生」

「君はお昼でも食べてショーを見に行けばいい。私は自分の用があるから。それが片づいたらショーに行くことにしよう。もし行けなかったとしても、外で待っているから」

ベイジルの胸は踊った。「わかりました、先生」

「で、学校ではこのことを口外してほしくない――つまり、私が自分の用を足しに行くということを、だね」

「口外しません」

「さて、君が本当に口を閉ざしていられるかどうか、試しにやってみようじゃないか」冗談めかしてそう言ってから、お説教をするような調子で付け加えた。「酒はダメだ。わかっているな?」

「そんなこと、するわけがありません!」夢想だにしなかったことを言われてベイジルはひどく驚いた。酒など口にしたこともなかったし、頭の隅をよぎったことすらなかった。夢の中でのカフェの場面でこそ、味もわからない、本物とはおよそ縁のない“シャンペン”を口にしたものだったが。

 ルーニー先生の忠告に従って、ベイジルは昼食を取りに駅近くのマンハッタン・ホテルに行き、クラブ・サンドウィッチとフレンチフライ、チョコレートパフェを注文した。目の隅で、周りのテーブルに着いているニューヨーカーたちを観察した。調子が良く、にこやかで、楽しむことにも倦んだような人びとが、実は彼らは中西部の町からやってきた仲間だとしたらどうだろう。それでいて一度も途方に暮れたりしたことがない、などという物語をまとわせながら。学校はまるで荷物のようにふりほどかれ、もはやかえりみられることもない、遠くのざわめきでしかなかった。午前中受け取って、ポケットの中に入れっぱなしの手紙も、開封するのを引き延ばしていた。というのもその手紙も、学校の生徒ベイジルに宛てて来た手紙だったからだ。

 チョコレートパフェがもうひとつ食べたかったが、忙しげなウェイターをこれ以上わずらわせるのは気が進まず、手紙を開封して広げてみた。母親からの手紙だった。

 親愛なるベイジル

 取り急ぎお知らせします。電報を打って驚かせたくはなかったし。お祖父様が水治療養のために外国へ行らっしゃるというので、わたしとあなたにも来るように言ってくださっています。そうなると、あなたも今年の残りはグルノーブルやモントレーの学校で語学の勉強ができるし、家族一緒にいることができます。それもあなたがそうしたければ、の話ですが。

あなたがセント・リージス校を気に入っていて、フットボールや野球を楽しんでいるのはよくわかっています。もちろんそういうことは向こうではできなくなるでしょう。でも、その代わりに、良い気分転換ができますし、たとえイエール大学に入学するのがもう一年遅れたとしても、別にかまわないと思うのです。ですから、いつものように、あなたには自分で判断してほしいのです。この手紙があなたのところに届く頃には、わたしたちは家を離れ、ニューヨークのウォルドーフホテルにいるはずです。あなたが学校を続けたいと決心したとしても、ホテルには会いに来てください。しっかり考えてね。

愛をこめて

  母より

 ベイジルはイスから立ちあがると、これからウォルドーフまで歩いていって、お母さんが来るまでおとなしく部屋にこもっていようか……とぼんやり考えた。それから、何かに駆り立てられたかのように声を上げ、響きのあるバスで遠慮なくウェイターを呼びつけた。セント・リージス校とはおさらばだ! もうセント・リージス校なんて行かなくてもいいんだ! 幸福感のあまりに、息もできなくなりそうだった。

「すげえや!」彼はひとりで叫んだ。「やったぜ! 最高だよ! ほんっと、夢みたいだ!」もうドクター・ベイコンもルーニー先生もブリック・ウェールズもファット・ガスパーも関係ない。バグス・ブラウンとも、外出禁止とも、ボス呼ばわりともおさらばだ。もうやつらを憎む必要さえないんだ。だってもうあんなのは全部、静止画像の中の無力な影でしかないんだから。おれはそこから抜け出した。バイバイと手を振りながら、抜け出してやったんだ。「あばよ!」かわいそうなやつらめ。「元気でな!」

 喜びの涙を流していたベイジルも、四十二番街の喧噪でやっと我に返った。そこらじゅうのスリに遭わないように財布を手でしっかり押さえて気をつけながら、ブロードウェイに向かった。なんて日なんだ! ルーニー先生に言ってやらなくちゃ。――先生、ぼく、もう戻る必要がないんです、と。いや、それよりも、戻って連中に教えてやろうか。君たちがこれから先も陰気で退屈な学校生活を送っているあいだ、ぼくはいったい何をしてると思う? って。

 劇場を見つけてロビーへ入っていくと、マチネーらしくそこには女らしい粉おしろいの香りがたちこめていた。チケットを取り出したところで、ベイジルの目は十メートルほど先の、彫像のような横顔に釘付けになってしまった。二十歳前後とおぼしい体格の良いブロンドの青年で、しっかりした顎と、まっすぐな灰色の目をしている。ベイジルの脳はしばらく激しく回転し、ひとつの名前のところで止まった――名前、というより、伝説、空に刻まれた署名である。何という日なんだ! これまで一度も会ったことはなかったが、何千枚という写真を見ていたので、彼がテッド・フェイだということは疑いの余地がなかった。イェール大学フットボールチームのキャプテン、昨秋はほとんどひとりでハーバードとプリンストンを破ったのだ。ベイジルは一種甘美な苦痛を味わっていた。横顔は向きを変えてしまった。人波が動き出す。ヒーローは見えなくなった。……でも、これから先、数時間というもの、テッド・フェイと一緒にいるんだ。

 きぬずれの音とひそやかな声、甘い香りがたちこめる劇場の暗がりの中で、彼はプログラムを読んだ。これこそ彼が焦がれたショーの中のショーである。幕が実際に上がるまでは、プログラム自体に不思議な神聖さのようなものが宿っていた――ショーの原型のようなものが。けれどもひとたび幕が上がってしまえば、プログラムは紙くずとなり、顧みられることもなく床に落ちていた。

 第一幕 ニューヨーク近郊の小さな町の公共緑地

 舞台が明るすぎて目がくらみ、しばらくはわけもわからぬうちに話がどんどん進んでしまったので、ベイジルは幕開きからほとんどすぐ、いろんなことを見逃しているような気持ちに襲われた。母が来たら――来週、いや明日にも、また連れて来てもらおう。

 一時間が過ぎた。その場面はとても悲しい場面だった――明るい悲しさ、とでも言ったらよいのか。娘と――男。どうしてここに来てもふたりは離ればなれのままなのだろう。ああ、なんという悲劇的な過ち、それと誤解。なんと悲しいのだろう。どうしてふたりは互いに目を合わせ、相手をよく見ようとしないのか。

 光がまばゆさを増し、音楽は不協和音から協和音へ、予感と一触即発の危機。第一幕が終わった。

 彼は外へ出た。テッド・フェイを探していると、劇場の後ろ側、ビロード張りの壁に気むずかしげな顔でもたれている姿が彼のように思えたが、はっきりとしなかった。ベイジルはタバコを買い、一本、火をつけた。だが一口吸い込んだところで音楽が鳴り響き、彼は急いで中へ戻った。

 第二幕 ホテル・アスターのロビー

 そうだ。彼女はまぎれもなく、歌詞にもあるように「麗しき夜のバラ」だ。ワルツが彼女をふわりと持ち上げて、胸の痛くなるような美しさの高みへと連れていく。それからちょうど木の葉が風に乗って地上に舞い落ちるように、ワルツの最後の数小節に乗って滑るように降り立った。ニューヨークの上流階級の暮らしときたら! もし彼女がそうしたまばゆい生活に目を奪われて、琥珀色の窓を抜け、明るい朝の光の中へ、あるいは舞踏室のドアの向こうへ、扉が開いたり閉じたりするのに合わせて流れこむ音楽に誘われて消えてしまったとしても、いったい誰に責められよう。輝く街の花なのだから。

 半時間が過ぎた。真実の恋人が、彼女に、まるで彼女そのもののようなバラを携えてやって来たが、彼女はあざけるようにそれを相手の足下に投げ捨てる。彼女は笑い、もうひとりの相手に向き直って、踊った――狂おしく、激しく。いや、待て! 細い管楽器に混じって、繊細なソプラノと大きな弦楽器の奏でる低い、うねるような調べ。また、胸のうずくような、感情のうねりが舞台を吹きすぎていくような調べがふたたび始まった。彼女はふたたび翻弄される木の葉のように、風に捕らえられてしまう。

 バラ――バラ――夜のバラ
 春の月が輝く夜は 君もまた美しかろう……

 しばらくしてベイジルは、異常な興奮に胸をふるわせながら人波に混じって外に出た。彼の視線が最初に留まった先には、ほとんど念頭になかったルーニー先生がいた。おかしなことだが、いまやすっかり面変わりし、ルーニー先生の亡霊といったかっこうである。

 実際、ルーニー先生はなんだか取り乱しているようだった。まずお昼、ベイジルと別れたときのとはちがう、ずいぶん小さな帽子をかぶっている。さらに、いささか下品だったおももちが、純粋で繊細、汚れのない顔つきに変わり、いったい何があったのか、びしょ濡れのコートからはネクタイとシャツの一部がはみ出している。たった四時間のあいだに、ルーニー先生はどうしてこんな有様になってしまったのか。熱烈なアウトドア精神が、男子校に閉じこめられて圧迫されていた、としか説明がつかない。そもそも澄んだ明るい空の下で汗水流して働くように生まれついていたルーニー先生が、半ば無意識のうちに、自分の運命にあらがいがたく従ったのだろう。

「リー」彼はぼんやりした声で言った。「君はもっと賢くならなくてはいかん。私がありのままの君を認識させてやろう」

 ロビーで自己認識させられる不吉な可能性を避けるため、ベイジルはあわてて話題を変えた。

「先生はショーを観にいらっしゃったんじゃないんですか?」ルーニー先生だって万難を排してショーを観たいはずだ、と言外に匂わせながら、気持ちを引き立てようとした。「とってもすばらしいショーですよ」

 ルーニー先生は帽子を取ると、濡れて固まった頭をあらわにした。しばらくの間、彼の脳内は、現実の像を結ぼうと苦闘していた。

「学校へ戻らなければ」陰気な、自分でも確信が持てないような声でそう言った。

「でも、もう一幕あるんです」ぎょっとしてベイジルは抵抗した。「最後まで観なくちゃ」

 体をふらつかせながら、ルーニー先生はベイジルに目をやり、いまや自分がこの生徒の掌中にあることをぼんやりと了解していた。

「わかった」と彼は認めた。「私は何か食べることにする。隣で待っているから」

 やおら向きを変えると、十歩ほどぐらつきながら歩き、劇場の隣のバーへふらりと折れていった。かなり動揺しながら、ベイジルも中へ戻った。

 第三幕 ヴァン・アスター家の屋上庭園 夜

 半時間ほどが経過していた。結局は何もかもがうまくいくのだろう。コメディアンはいまが見せどころ、涙のあとだけに、笑いの場が楽しくふさわしいのだ。明るい熱帯の空は至福を約束している。愛らしくももの悲しいデュエットがあり、比類なきまでに美しい場面が続き、やがて幕が下りた。

 ベイジルはロビーに出て、去っていく観客を見送りながら立ったままで考えていた。母親の手紙とショーが、彼の気持ちの苦々しさと恨みがましさをきれいにぬぐい去ってくれていた――前の自分に戻って、やるべきことをするんだ、と思っていた。ルーニー先生を学校に連れて帰ることが、その“やるべきこと”に該当するだろうか。酒場に向かって歩き出し、店にさしかかったあたりで歩調を緩め、用心深くスイングドアを開けて、内部にすばやい一瞥をくれた。彼にわかったのはただ、カウンターで飲んでいる男たちの中に、ルーニー先生はいない、ということだった。彼は通りをしばらく歩き、戻ってきてもう一度、中をのぞいてみた。あたかもドアに噛みつかれるかといわんばかりに、おそるおそるそうしたのは、時流に遅れた中西部の少年らしく、彼も酒場に恐怖感を抱いていたのである。三度目にやっと彼は目的を達成した。店の奥のテーブルで眠りこけているルーニー先生を見つけたのである。

 ふたたび外に出たベイジルは、行ったり来たりしながら考えた。ルーニー先生にもう三十分、時間をあげることにしよう。もしそれだけの時間が経っても出てこなければ、自分ひとりで学校に帰るのだ。結局、ルーニー先生はフットボールシーズンが終わってからずっと、おれのようすをうかがっていたんだ――おれはこの出来事の一切から手を引く。なにしろあと一日か二日で学校ともおさらばするんだから。

 彼は五、六回も行ったり来たりしていたが、劇場の横手に沿った露地にふと目をやると、「楽屋入口」という看板が目に入った。ちょうどそこへ役者が出てきた。

 ベイジルは立ち止まった。役者のあとから女たちが続いたが、それは祝日前の日々のようなもので、このさえない人びとは衣装係か何かなのだろう。不意に若い女性が現れて、その向こうに男が一緒にいた。ベイジルはまるで見とがめられるのを怖れるかのように、くるりと身を翻すと通りを駆け出した。だが数歩いったところでふたたび向きを変えて走って戻り、はあはあと心臓発作でも起こしたかのように息を荒げていた。というのも女性は、輝くほど美しくかわいらしい十九歳の劇中の「かのひと」であり、傍らにいる若い男はテッド・フェイだったのである。

 腕と腕をからませて、ふたりはベイジルの横を通り過ぎた。ベイジルは、ついていきたいという思いに抵抗できなかった。歩きながら彼女はテッド・フェイに身を寄せ、ふたりから醸しだされる親密な雰囲気は、周囲を魅了するばかりだ。ふたりはブロード・ウェイを横切り、そこで方向を変えてニッカボッカホテルに入っていく。ベイジルは五、六メートルほど後ろから、アフタヌーン・ティーのための細長い部屋に入っるふたりのあとを追った。二人用のテーブルに着いてから、ウェイターに何ごとか言い、ふたりきりになると嬉々として頭を寄せた。ベイジルはテッド・フェイが彼女の手袋をはめた手をにぎっているのを見た。

 ティールームと中央通路は、並べた鉢植えのモミで隔てられているだけだ。ベイジルはそれに沿ってラウンジを進み、彼らのテーブルのほぼ正面の席を取った。

 彼女の声は低くとぎれがちで、演技をしているときのように、言葉も明瞭ではなかった。なによりひどく悲しそうだった。
「もちろんあたしもそうだわ、テッド」

会話の間中、彼女は「そうよ、もちろん」とか「でもそうなのよ、テッド」とかと繰りかえしていた。テッド・フェイの返事は低すぎて、ベイジルには聞き取ることができない。

「――来月って言ってきてるの。あっちももうこれ以上延期されるのはごめんだって……ある意味ではわたしだってそうなのよ、テッド。とっても言いにくいことなんだけど、あの人、お母さんにもあたしにも、とってもよくしてくれてるの……。自分にウソをついてもしょうがないわ。あれは誰がやったって失敗するはずのない役だったし、あの人からその役をもらった女の子はみんなすぐに有名になったんだもの……あの人、すっごくいろんなこと、考えてくれてるんだわ。あたしのために何だってしてくれるんですもの」

 夢中になって耳をそばだてているせいで、ベイジルの聴覚は鋭くなっていた。いまやテッド・フェイの声すら、聞き取ることができた。

「だって君はぼくを愛してるって言ったじゃないか」

「でも、あたしがあの人と婚約したのは一年以上も前なのよ」

「ほんとのことを言えよ――愛してるのはおれだって。あきらめてくれって頼めよ」

「これはミュージカル・コメディじゃないのよ、テッド」

「あれは安っぽい芝居だったな」と吐き捨てるように言った。

「ごめんなさいテッド、でもね、あなたにこんなふうに言われると、あたし、おかしくなっちゃいそうよ。あんまり辛く当たるんだもの」

「とにかくイェールは止める」

「だめよ、そんなことしちゃいけない。あなたは学校に残ってこの春も野球の試合に出なきゃ。あなたは男の子たちの理想なんだから! もしあなたが……」

 彼は短く笑った。「理想を語らせたら右に出る者はいない、ってとこか」

「だってそうじゃない? あたしはベルツマンに対する責任を果たそうとして一生懸命やってるの。あなただって心を決めて。あたしだって決めたんだから――あたしたち、一緒にはなれないのよ」

「ジェリー! 自分が何をしようとしてるかわかってるのか。おれは一生、あのワルツを聴くたびに……」

 ベイジルは立ちあがると大急ぎで廊下を渡り、ロビーを抜けてホテルの外へ出た。気持ちは千々に乱れ、頭は混乱しきっていた。聞いたことのすべてが理解できたわけではない。だが、ふたりの私生活をこっそりとのぞき見することで、ふたりの抱える問題を通して、人生経験のまだ浅い彼にも理解できたことがあった。誰にとっても人生は闘いなのだ。その闘いは、遠くから眺めているぶんには崇高に見えたとしても、すべからく困難で、同時に驚くほど単純で、しかもいくぶんはもの悲しい闘いなのだ……。

 あのふたりは、これからも進んでいく。テッド・フェイは、きっとイェールに戻る。あのひとの写真は机の引き出しにしまいこまれ、春になれば満塁ホームランをかっ飛ばすだろう――八時半にはまた幕が上がり、あのひとは今日の午後には持っていた何か、温かで若々しいものが、自分の人生から失われてしまったことに気がつくのだろう。

 外は暗かったが、ブロードウェイはあかあかと燃え上がる森で、ベイジルはその中のひときわ明るい灯を目指して、ゆっくりと歩いていった。そうして燦然と輝く巨大な多面体を、漠然と称賛するような、恋いこがれ、離れがたい思いで見上げていた。ぼくはこれからこいつを何度も見ることになるだろう。この国の人びとのせわしなさの上に、自分の性急さを重ね合わせながら――学校から抜け出せたときには、いつだってここに来るだろう。

 いや、状況はすっかり変わったんだ――ヨーロッパに行くんだから……。
不意に、ベイジルは自分がヨーロッパには行かないことを悟った。自分の運命を放り出すわけにはいかない。たかだか数ヶ月、苦痛を和らげるだけのために。寄宿学校、大学、それからニューヨークと続く世界を征服していくこと――それこそが、小さかったころからいまにいたるまでずっと、持ち続けてきたほんとうの夢だったじゃないか。なのに、数人の生徒が冷やかしたからといって、それを打っちゃってこそこそと裏通りに逃げ込もうとしていたのだから! 彼は激しく身を震わせた。ちょうど水から出てきた犬のように。その瞬間、ルーニー先生のことを思いだした。

 数分後、彼はバーに入っていき、いぶかしげな顔をしているバーテンダーの前を横切って、ルーニー先生がまだ眠りこけているテーブルまで進んだ。ベイジルは優しく、つぎに強く揺さぶった。ルーニー先生はもぞもぞと身を動かし、ベイジルに気がついた。

「り…こうになるんだ」寝ぼけた声でそうつぶやいた。「りこうになって、ほっといてくれ」

「自分のことならわかってますよ」とベイジルは言った。「ほんとです。ぼく、自分のことならちゃんと理解できてるんです、ルーニー先生。一緒にトイレに行ってきちんとしてください。そしたらまた汽車の中で寝られますよ、先生。さあ、ルーニー先生、お願いだから……」


V


 長くつらい日々だった。ベイジルは十二月にふたたび外出禁止を喰らい、三月までそれが開けることはなかった。甘い母親が努力する習慣を身につけさせなかったせいで、彼にとっては悪癖を直すことなどおよそ手に余るものだった。それでも、日々の生活それ自体が、彼を立ち直らせていった。だがそのために、数え切れないほど再スタートを切っては、繰りかえし失敗することを余儀なくされたが。

 クリスマスが終わると、新しくやってきたメイプルウッドという生徒と友だちになったが、その彼とも愚かしい口げんかをした。冬の期間、男子校は外部から遮断され、少年たちの野蛮さをなんとかなだめててくれるのは室内競技だけだったが、ベイジルはそこでもバカにされ、現実の罪ばかりでなく想像上の罪まで加わって冷遇され、ほとんどいつも孤独だった。

 だが、彼にはテッド・フェイがいた。それに蓄音機で聞く『夜のバラ』があった。――「おれは一生、あのワルツを聴くたびに……」――ニューヨークの街明かりの記憶があったし、さらにはつぎの秋、フットボールで自分がどんな活躍ができるかを考え、イェール大という燦然と輝く理想を思い浮かべた。空気の中には春の兆しも潜んでいた。

 ファット・ガスパーやほかの数人は、いまでは彼に好意的に接してくれるようになっていた。ファットとは一度、町からの帰り道、たまたま一緒になって、女優について長々と話し合いながら歩いた。ベイジルも、話をしたからといって、そのあとずうずうしくふるまうような馬鹿なまねはしなかった。年下の生徒たちは、どうやら急に彼を受け入れることに決めたらしく、それまで彼を嫌っていた先生までもが、ある日、彼の肩に手を回し、一緒に教室に向かった。やがてみんなは何もかも忘れてしまうことだろう――この年の夏には。九月には新入生が入ってくる。来年は新しくスタートを切ることができるだろう。

 二月のある日の午後のことだった。バスケットボールをしているとき、大事件が起こったのである。彼とブリック・ウェールズが第二組でフォワードを務めていた。声援や鋭いかけ声や悲鳴が体育館にこだました。

「こっちだ!」

「ビル! ビル!」

 ベイジルはドリブルでコートを進んでいた。フリーでいたブリック・ウェールズが大声で呼んだ。

「こっちだ! リー! ヘイ、リーイ!」

 リーイだって!

 ベイジルはさっと赤くなると、へたくそなパスを出した。愛称で呼ばれたのだ。つまらない、間に合わせの愛称でしかなかったが、名字だけの愛想も何もない呼び方や嘲罵にくらべれば、だんぜん良かった。ブリック・ウェールズはプレーを続けている。自分が特別なことをやったとも気づかず、苦悩する人びとの群れ、自己中心的で、神経衰弱になりかけていて、不幸せな人びとの群れから、ひとりの少年を救済するのに貢献したことにも、まったく気づかないまま。心を開いた人と人は、ささやかなふれあいを通じて、傷ついたり、逆に癒されたりする。だが、その瞬間を察知できる能力を、わたしたちは与えられてはいない。いつでも一瞬、遅れを取り、もはやこの世では手に届かないものになってしまう。どんな特効薬も蘇らせることはないし、どれほど鋭利な剣でも葬り去ることもできないのだ。

 リーイだなんて! おっそろしく発音しにくいじゃないか。それでもベイジルはその晩、その言葉を抱いて眠りについた。呼びかけを反芻し、その言葉がくれた幸福感をしっかり握りしめて逃さないようにしながら、安らかに眠りに落ちた。






The End






子供時代という宝物


フィッツジェラルドは四十四年の短い生涯のあいだに、百六十あまりの短編小説を書いている。そのほとんどはゼルダとの贅沢で享楽的な生活を維持してゆくために、時間と競争しながら書きまくったものだった。フィッツジェラルド自身は、自分のことを長編作家だと思っていたから、長編には力を入れ、推敲に推敲を重ねて書いた。それに対して短編は、あくまでも「稿料のため」、短編を書かなくてもいいような生活を夢見ながら、おそるべき速さで書き飛ばしていった。一日十二時間書き続け、ときには一日二本も書き上げた。

フィッツジェラルドは自分の経験を元に書く作家だった。当然、書き飛ばされた作品にも、自分の体験は色濃く投影されている。しかも推敲されなかったぶん、長編よりもすなおに彼自身を語っており、勢いのある、みずみずしい印象は、長編にはない、独特の魅力を放っている。

 スコットはどうにも手に負えない子供だった。うぬぼれが強く、いつでも他人を支配下に置こうとし、自分が目立たなければ気がすまなかった。窮地におちいると、突飛なことをしでかして切り抜けようとする。この癖は、終生彼につきまとった。彼が通った学校では、すぐに仲間のあいだでいちばん不人気な生徒になった。アメリカで、この人気という観念がどれほどの重要性をもつかはよくご存じのことだろう。(…略…)

 大多数の人間と同じく、スコットが自分の欠点を徐々になおしていったことはいうまでもない。ただし、彼がある種の自覚から出発して、意思の力で自分自身を作りあげていったのか、それとも、人生からしっぺ返しを受けてそうなったのかは、疑問の余地の残るところだ。
 だが、彼がよく自覚していたのは、この人生の始まりの悪条件が天職を決定したということである。

「ぼくが消防士や兵隊ではなく作家になったのは、ぼくがもう忘れてしまったすべてのこと、あの暗く錯綜した青年期と少年期の入りまじった時代のおかげだ」

(ロジェ・グルニエ『フィッツジェラルドの午前三時』)

この作品の主人公、ベイジル・リーが「仲間のあいだでいちばん不人気な生徒」であったスコットを、ほぼ忠実に写していることはいうまでもない。だがこの作品は、当時を回想しているだけのものではないのだ。作者は過去の「暗く錯綜した青年期と少年期の入りまじった時代」を見つめ、そこから未来に向けて何かを引き出そうと試みてはいないか。

少年時代に味わった出来事は、甘い記憶ばかりでなく、屈辱を味わったり、苦しんだことまでが、時間を経ると懐かしい思い出になっている。それはどうしてか。過去は、いまのわたしたちから断絶しているからだ。「子供時代」「少年/少女時代」「学生時代」わたしたちはさまざまな呼び名で自分の過去に区切りをつけ、いまの自分から切り離し、距離を取って眺める。断絶し、距離があるからこそ、平静な思いでそれを眺めることができるのだ。

もし、その断絶と距離がなければ、過去に受けた屈辱は、強さもそのままに屈辱として、わたしたちをいたたまれなくさせるだろうし、屈辱を与えた相手のことを許すこともできなければ、忘れることもできないだろう。何年たったとしても、つい先日の出来事のように、わたしたちを苦しめるはずだ。

この距離のおかげで、わたしたちは当時自分が置かれていた状況を俯瞰的に眺めることができるし、当時の自分の全貌を見ることもできる。

そのため、いまの自分が、自分とは何だったかを見失いそうになったとき、わたしたちは「少年期・少女期の自分」をふり返る。それによって、ふたたび「自分」というものに出会うことができるのである。自分が何者なのか、何をやろうとし、何を理想としていたか。いまと切り離され、距離の感覚があるからこそ、過去の姿、いまの自分の「原型」が見えてくるのだ。

この作品で主人公のベイジルは、たったひとり中西部の田舎からやってきて、東部で同年代の少年たちの敵意に囲まれて苦しんでいる。ベイジルにはその理由がわからない。それがいつまで続くか、どうやったら抜け出せるかもわからない。

けれども、その時代を過去のものとして切り離した作者には、当時の全貌が見えている。周囲の人びとがいらだつ理由も、そしてまた、その苦しみがやがて甘やかな記憶となっていくこともわかっている。そこで作者は、彼を受け入れられない周囲の人びとをそれぞれたくみに描きだす。そのおかげで、わたしたちはベイジルの孤立を自分のものとして経験する。たったひとりの「スコット」の経験が、ベイジルの経験として描きだされることによって、普遍的なものとなっていくのだ。

少年期・少女期という時代は、誰もが経験した時代、そこを通り過ぎてきた時代だ。フラナリー・オコナーはこう言った。

子供時代をなんとか生き延びた者はみな、その後の歳月のなかで人生にカンするかなり豊かな情報を使いこなすことができるようになる。

誰もがベイジルのように受け入れられず、認められず、自分を持て余した経験を持っている。

だからこそ、この短編は、偉大な短編ではないかもしれないが、好きにならずにいるのはむずかしい。それは、最後の場面がなんともいえずやさしいからだけではなく、おそらくこの作品を通して、わたしたちが「そのころの自分」にふたたび出会えるからだろう。

初出 Nov.28 -Dec.19 2010 改訂Jan.25, 2011

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