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二葉亭四迷と新しいことば


その時余の受けた感じは、品位のある紳士らしい男
――文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない、
あらゆる職業以外に厳然として存在する
一種品位のある紳士から受くる社交的の快味であった。
そうして、この品位は単に門地階級から生ずる貴族的のものではない、
半分は性情、半分は修養から来ているという事を悟った。
――夏目漱石「長谷川君と余」

眼鏡

1.勉強する外国語、身につく外国語


小学生の頃、江戸川乱歩の子供向けの本『大暗室』を読んでいたら、ポーの『落とし穴と振り子』のなかの振り子が下がってくる描写がそっくりそのまま出てきて、びっくりしたことがある。そのとき始めて「江戸川乱歩」という名前がエドガー・アラン・ポーから来ていることに気がついたのは、うかつなわたしらしいところだが、パクリだの何だのと思う前に、明治生まれの「すごく昔の人」のように感じていた乱歩が、外国の本を読み、それをもとに別の作品を作り出していたことに驚いてしまったのである。

やがてもう少し大きくなって、大人向けのミステリ、クリスティだのヴァン・ダインだのエラリー・クイーンだのを読むころになると、こんどは文庫本のあとがきに、“乱歩はこれをどう評価した”、という文言がやたら目につきだした。乱歩という人はずいぶん多くの本を読んでいたのだな、と思っているうち、やがて、そうではなくて、乱歩が評価した作品が翻訳されるようになったのだ、ということに気がついたのだった。

――乱歩はこんなにたくさんの作品を原文で読んでいたのか、しかも、ただ読むだけでなく、それを読んでさまざまな評価がくだせるほど読みこなせるのか。すごいなあ。
初期のごく少数の作品をのぞいては、乱歩なんて……、と思っていた生意気な中学生は、自分がテストで苦労させられている英語を、いともたやすく読みこなす乱歩の別の一面を知って、見方がまるっきり変わってしまったのである。

同じように読んだ何かのミステリのあとがきで都築道夫が書いていたのだが、都築道夫が翻訳をやるようになったのは、戦争が終わって数年たって、人々の生活が、少しずつ安定し始め、同時に多くの人ががむさぼるように本や雑誌を読んでいた頃らしい。都築道夫は英語などまったくできなかったのに、つぎの号に載せなければならないから、と、いきなりペーパーバックを渡され、辞書を引きながら英語を訳したそうだ。どこまで本当なのか、眉に唾をつけたくなるような話ではあるけれど、戦争中は敵国語というので、英語教育がほとんどされていなかったのだから、実際、そうだったのかもしれない。昔の翻訳書のなかには、確かに原文と照らしてみると、逐語訳とはいいがたい箇所などめずらしくもないし、いわゆる「作文をしている」箇所もいくつも見つかる。

そうはいっても、きちんと文法を勉強したわけでもない、固有名詞を始めとして、外国の文化習俗全般に対する知識が、いまとはくらべものにならないほど限られていた当時にあって、それでも思い切りよくバリバリ訳しているのだから、なんとなく昔の人は、外国語に対する順応性というか、可塑性というか、そういうものがいまのわたしたちよりよほどあったような気がしてくる。

もっとさかのぼってみると、イギリスやドイツに留学した漱石や鴎外の語学能力が高かったのは当然としても、原書を読み漁っていたのは漱石や鴎外に留まらない。芥川龍之介は日本でもっとも早い段階でアンブローズ・ビアスを読み、今昔物語や中国の伝奇集を自分の作品に取り入れたように、ビアスの作品も『藪の中』などに結実させていったのは有名だが、芥川にとってはそうした作家はビアスだけではなかった。

芥川はその文章のなかで、ストリンドベリーやニーチェ、ゴーゴリやドストエフスキー、フローベールやボードレールを、頻りに引用していた。主としてそういうヨーロッパ大陸の著者を、彼は英訳で読んだのである。…彼の知識は、シェイクスピアからアイルランドの劇作家たちに及び、ヴィヨンからポール・ヴァレリーにまで及んでいた。このような西洋近代の文学との係り方は、鴎外や漱石や荷風の場合とは大いに異なる。芥川以前の作家たちは、まず西洋の社会を知って然る後その文学へ赴いた、――あるいは、西洋の社会と文化一般に直接触れることによって、またそうすることによってのみ、西洋文学の知識を深めかつ拡大した。西洋での生活の経験なしに西洋文学を知った最初の作家は、芥川である。丸善が彼を作った。

(加藤周一『日本文学史序説(下)』ちくま学芸文庫)

芥川はどうやって英語で書かれた文学書や哲学書が読めるようになったのだろう。彼が籍を置いた府立中学や一高は、どんな英語の教え方をしていたのだろうか。

いまのわたしたちが受ける英語教育は、英語という言語がどういった要素から成り立っているか、まず要素ごとに分解し、それをひとつずつ習得していく、という発想でカリキュラムが組まれている。易しいものからむずかしいものへ、単純なものから複雑なものへ、単文から複文、さらには複雑な構造を持った文へ。単語も、具体的な身の回りのものから、抽象性高いものへ。こうやって、レッスン1から始めて、レッスンXまで終わると、英語はすべて身につく、ということになっているのだ。

だが、実際はどうだろう。中学高校と六年間ならった暁には、たいていの人が読み書き話すのに支障ない状態になっていなければならないし、第一、それを教えるのを生業としている英語の先生は、英語を使ってのコミュニケーションに関してはまったく問題がないはずだ。だが現実には多くの日本人が、学校の英語は何の役にも立たないと思っているし、わたしが知っている限りでは、英語の先生の多くがALT(外国語指導助手)として派遣される外国人講師とのコミュニケーションに四苦八苦している。そういう人からが「学校英語と会話はちがいます」と開き直ったりしていたりもする。

わたしはいまだに覚えているが、英語の教科書の最初のページには、ペンの絵が描いてあって、

This is a pen.
That is a pencil.

とあった。つぎのページには

Is this a pen? Yes, it is.
Is that a pen?  No, it isn't. It's a pencil.

これをテープのあとに続いて、みんなで声をそろえて音読するのが英語学習の第一歩だったのである。

" This is a pen." が「レッスン1」に置かれているのは、まず“be 動詞”を身につけさせるためなのだろう。ところがわたしはこれまでに " This is it. "(これぞ××)という決まり文句を除けば、" This is ..." という構文をほとんど使ったことがないし、目にしたこともない。" It's a ×× to ..." とか、" That is ..." という文章は、もう数え切れないくらい口にもしてきたし、書いてもきた。だが、" This page is ..." だの " This part is ..." の形ならあるけれど、" This is ..." というのはほんとうに見たことも聞いたことも使ったこともないのである。

あたりまえだ。目の前にものがあれば、それを指し示せばよいのであって、だれかがいきなり「これはペンです」と言いだしたら、わたしたちはそれこそ「この人は何がいいたいのだろうか」と身構えてしまうにちがいない。そのくらい" This is a pen." というのは、言葉の性質に反した奇妙な表現なのである。

その言葉がいったいどういう状況で発話されるのか、想定することもできないような言葉を何度口にしたところで、わたしたちのその言葉の理解と結びついていくはずがない。
中学に上がって、それまで知らなかった外国の言葉を習えるとわくわくしていたわたしは、四月のうちにすでにうんざりしていた。「これはペンです」とテープを復唱するたびに、自分がどうしようもなくバカになったような気がしてならなかったのである。

ためしにわたしたちが母国語を覚えたときのことを考えてみるといい。ただ単に場面や意味とは無関係に、教えられた言葉を鸚鵡のように真似たわけではなく、口まねはかならず状況と結びついていたはずだ。学習効率など関係なく、どういう場面ではどう言う、また別の場面ではこう言う、と、わたしたちは場面や状況ごと、全身で学んでいったのである。言葉を学びながら、同時に使い方を学び、人間の活動全体のなかに置いて理解していったのである。

こうしたわたしたちの母語の習得状況に照らしてみれば、学校英語がいかに不自然なものだったかよくわかる。よく中学生までに習ったことで、日常会話なら十分可能だ、と書いてあるのを見たことがあるが、「論理的に可能」と「実際できる」ことのあいだに、天と地ほどの差がある、あるいは何の関係もない、ということをまったく知らない人の、経験も実感も伴っていない言葉だ。

さて、明治時代はどのように語学を習得していったのだろう。ここでは二葉亭四迷の例を見てみよう。

二葉亭四迷、当時はまだ長谷川辰之助だったのだが、便宜的にここでは四迷で通す。彼は東京外国語学校でロシア語を学んだ。別に文学青年だったわけでもなんでもなく、軍人になりたかったのだが、目が悪くてそれがかなわず、ならば外交官になろうと思ったのである。そのとき、近い将来、日本の敵国になるであろうロシアの言葉を学んでおくことは、日本のために重要である、と考えたのである。
いまのわたしたちから見れば、自分の将来と日本の将来を重ね合わすような発想は、一種、ナイーヴなものに映る。だが、当時の専門教育を受けようとする青年たちは、やはり一握りの恵まれた層だったし、社会の側も、その教育によって得た専門知識を社会に還元することを期待していたのである。これは形を変えつつ、高度経済成長期前くらいまでは一般的な考え方だった。

四迷が入学した明治十七年ごろの外語学校は、語学だけの専門学校ではなく、物理も数学も教えていた。おもしろいのはそのほかの授業もすべてその国の教科書を使って、その国の言葉で教えていたことである。
ところが学校も開校してして間がなく、教科書も足りない。四迷はアメリカ国籍の亡命ロシア人ニコラス・グレイの教えを受けるのだが、グレイの授業はただ一冊の文学書を朗読し、ロシア語で解説し、学生たちはそれを聞く、というものだった。

此グレーという人は朗読が頗る名人で、調子も面白い。真に妙を極めたものだ。誰でも聞惚れないものは無い。自ずと文学の感興が湧いて来る。で、読終るとハラクタレスチカ(※キャラクタリゼイション)即ち性格批評、作中の主人公又は女主人公の批評を作らせて、之で文章の練習をさせた。……何でもレルモントフ、ツルゲエネフ、ゴーゴリ、カラムジン、カラゾコフなどで、トルストイの『戦争と平和』なども読みました。

(坪内逍遙・内田魯庵編「二葉亭四迷」 中村光夫『二葉亭四迷論』新潮文庫)

あの長い『戦争と平和』をどうやって、とも思うが、ともかく一度受けてみたい授業である。考えてみれば小説の朗読というのは、きわめて有効な教授法だ。小説であれば、つぎにどうなっていくのだろう、という興味に助けられて、知らない語彙も推測がつけやすい。しかも、テキストを読む、文字面を追うときのわたしたちが、つねにその向こうの意味に意識が向かうのに対して、うまい人の朗読であれば、まず語り手の「声」があらわれ、それを通して話している人があらわれ、行為する人が浮かびあがる。その人が置かれた状況、部屋が、日の光が、風が浮かびあがってくる。ここで言葉は生きたまま伝えられるのである。テキストがないことさえプラスに働く。音は一瞬で流れ去っていくために、学生たちはこれ以上ないほどに集中して聞かなければならない。

" This is a pen." の向こうには、何もない。この表現が必要な人もいなければ、それを聞きたい人も、読みたい人もいない。それが言葉であると言えるのだろうか。

ここでわたしは同じ頃に習った、もうひとつの表現を思いだす。こちらは教科書の本文の前、付録のようについている「ABCの歌」などと一緒に載っていたダイアログだ。

How are you?
I'm fine, thank you. And you?
Fine, thank you.

学校で習った英語の一切を忘れた人でも、このダイアログだけは覚えているだろう。外国人から " How are you? " と話しかけられれば、ほとんどの人が、いささか気はずかしく思いながらも " I'm fine, thank you. And you? " と返すことができるはずだ。このように話の状況がしっかりと把握できる言葉に関しては、わたしたちは簡単に身につけることができるし忘れない。" Hello." でも " Nice to meet to you." でも同じことだ。

そこからあとが続かないのは、無限に起こりうる状況に対して万能である表現は、そこで終わりだからである。そこから話を続けようとすれば、状況に即して、それに続く表現、自分の用件なり感情なり行動なりを伝えるさまざまな表現を持っていなければならない。そうして、そもそも英語学習の目的は、それを可能にすることにあったのではなかったのだろうか。

つまりわたしがここで指摘したいのは、人間が話そう(あるいは聞こう、読もう)と思えば、わたしたちはその言葉を自分の内に取りこんでおかなければならない、そうしてその言葉とは、決して単に単語が文法の規則に従って配列されただけのものではない、ということなのである。わたしたちが取りこむのは、その言葉だけでなく発話がなされた状況をそっくりそのままなのであって、言葉だけを引きはがして記憶に留めているわけではないのだ。そうして、そうやってストックされた言葉は、別の類似の状況において、自分の言葉として発話される。それが日本語であれ外国語であれ「言葉」というものなのである。

わたしたちがやらされてきた英語の勉強というのは、言葉をそうした状況から切り離し、あたかも自転車の乗り方を、マニュアルをもとに、ジムにあるエアロバイクを使って教えるようなものだ。ペダルの踏み方は理解できるかもしれない。ハンドルを掴むことも理解できるかもしれない。けれども、実際に自転車に乗ってみなければ、バランスの取り方も、身体全体の使い方もわからない。エアロバイクを何時間漕いだところで、消費カロリーしかわからない。

二葉亭四迷の場合は多少特殊なケースだったのかもしれない。それでも、芥川龍之介を始め、多くの文学者たちは、おそらくはいまのわたしたちとは較べものにならないほどの量の外国語を読むことを通して、その言葉を自分のものにしていったのだろう。それは「文法の学習」や「構文の学習」などの面では不十分だったにせよ、そうやって読み取った外国語は、おそらくは彼らのものになった。そうして、彼らの使う日本語にも影響を与えていったにちがいない。


2.言葉がひとを作る


学校英語がダメだ、というのは、今日ではもはや常套句となってしまった。にもかかわらず、「使える英語」と銘打った「英会話」の本というのも、一向に役に立つようには思えない。

そうした「英会話」の本では、たいてい、いくつかの場面が設定してある。

A:Can I help you?(何かお探しですか?)
B: Yes, I'm looking for a handbag.(ハンドバッグを探しています)

確かにこういうパターンを覚えておくと、海外旅行では役に立つかもしれない。けれどもそういう場面ではないとき、たとえば「手紙を書いているんだけど、言い方がわからないから教えてもらえませんか」と言いたいときに、" Can I help you? " をひっくり返して " Can you help me? " とまず言ってみる、という形で応用することはできない。買い物と手助けを求める状況は、まったく異なるものだからだ。

英語がなんとか話せるようになろうと思ったわたしは、どうしたら良いか考えた。英語で考えるのだ。英語で考えるにはどうしたらよいのだろう。

自由に話しているように見える人を観察した。すると、そこで話されているほとんどが、自分を主語にして、自分の行動を語っているものであることに気がついた。「わたしがどうした」が、話の基本である、と思ったのだ。これをしようと思えば、まず何よりも動詞を覚えることだ。とりあえず、" I read ..." と口にしたら、そのつぎの言葉、新聞の記事にあたる" article " がすぐ出てこなくても、聞き手が助けてくれる。動詞さえストックしておけば、なんとか話を続けることはできる。そう思って、わたしは英和辞典を開いては、さまざまな動詞とその使われ方に目を向けるようになった。

このとき、もうひとつのことに気がついたのである。過去に自分がやったことではない、これからのことを話そうと思えば、口を開く前の段階で、自分の内側で結論を出してしまわなければならない。

・わたしはあなたの意見に賛成である、というのも……。
・わたしはそこに行くつもりである。それは……。
・わたしはそれをするつもりである。そのためには……。

理由やそう考えた筋道の説明は、それからおいおい考えながらまとめることもできる。それでも、とりあえずではあっても、第一段階の結論は、最初に出しておかなければ、"I..." といったきり、詰まってしまうことになる。

日本語では「○○がこうだし、××はどうだ、△△ともいえるし、□□と考えてもいい、だからわたしは〜だと思う」というように、しゃべっているうちに徐々に考えがまとまってくる。何も考えずに話しはじめ、結論を先送りしながら、しゃべっていくことが可能なのだ。

そうすると、英語を話しているときの自分というのは、果断で、大げさなようだが、自分の意見を言うために一種の覚悟を持ち、たとえ判断が充分についていなくても、えいやっと結論を出してから、理由をおおあわてで探す、そんな思考をとるようになっている。
それに対して、日本語を話しているときというのは、自分の意見を言う、というより、むしろ相手に同調しつつ、結論を先送りにしながら、徐々に自分の意見を作り上げていることに気がつく。日本語をしゃべっている自分と、英語をしゃべっている自分が別の人格を持ってくるのである。

英語と日本語で、ひとつの単語がカヴァーする範囲がちがっていることにも気がついた。
たとえば "account" という動詞がある。かならず熟語集にも載っている " There is no accounting for tastes.(人の好みは説明することができない)" という使い方をするときは、「説明する」という日本語が相当する。
" Who can account for the missing money? (なくなったお金の責任がいったい誰に取れるっていうのよ)" という使い方をするときには「説明する」よりも「責任を取る」ことが求められている。
この動詞を覚えたときに、英語を使うイギリス人やアメリカ人というのは、「説明をする」ことは「責任を取る」というふうに考える人たちなんだ、と目を開かれるような思いがした。日本語では何の関係もない「責任」と「説明」だが、「説明をする」ということは「そのことの責任を取る」ということなんだ、と、言葉の重さをずしりと感じたのだ。

英語と日本語、どちらを使うかに応じて、考える内容もちがう、選ぶ言葉もちがう、使っているわたし自身がちがっている。
やがて、英語を使うときばかりでなく、日本語を使っているわたしときも、英語的な思考が少しずつ混ざり始めるようになっていく。わたしの考え方が少しずつ変わっていき、ものの見方も変わっていく。

のちに、ソシュールの思想を知り、ものごとやものごとの意味や考えがあらかじめあって、わたしたちはそれに言葉をあてはめていっているのではなく、言葉のほうが先にあって、わたしたちはその言葉の適切な使い方を身につけながら、そうすることで言葉の意味を自分のものにしていくのだ、ということを知ったのだが、これはわたしにとっては、目新しくもなんともないことだった。そんなことくらい英語を勉強したときによくわかっていたことだ、と思ったのだ。

人間はすでに存在している言葉や概念を使わなければ思考することができない。だが、すでに存在している言葉や概念を使うことによって語られる「わたし」というのはいったい何なのだろう。「ほんとうの自分」というのがどこかにいるのだろうか。英語を話すわたし、日本語を話すわたし、それぞれにちがい、また、使うたびに変わっていく「わたし」のどれがいったい「本物」なのだろう。
そうではないのだ。どこかに「ほんとうの自分」がいるのではなく、「わたし」は言葉によって作られていく、それが「わたし」なのだ。わたしは英語を勉強することで、それを実感したのである。

さて、東京外語学校でロシア語の授業を受けた二葉亭四迷である。その彼と会ったばかりのころのことを、坪内逍遙はこのように回想している。

 明治十九年の一月に私が初めて知り合いになった頃の彼れは、多分、其頃に於けるロシア文学通の第一人者であったろう。(略)で、彼れの性格までが、其時は気が付かなかったが、等しくロシア文学の感化を受けていた。見聞が浅い上に、修養としては、大学時代には一通りクラシックスを読まされていたが、自分の座右の書としては、種として十九世紀中葉のイギリス文学、スコットやリットンやディッケンズ程度乃至マリヤットやヂューマ風の大衆物が関の山の私は、彼れにぶつかって、全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た。怖ろしく内省的で、何事に対しても緻密で、精刻で、批判的なのだが、容易に断定はしない。常に疑問的で、じれッたい程に慎重な態度であって、そうして其深沈な態度に一種不思議な魅力があった。…彼れのような性格がわが同朋中にあろうとは予想していなかった私は、彼れの議論に驚くよりも、彼れの性格の特殊なのに驚かされた。

(坪内逍遙『柿の蔕』中村光夫『二葉亭四迷』)

ここでは「見聞が浅い上に」と自分のことを書いている逍遙だが、彼は明治十八年『小説神髄』を著し、新しい文学の高らかな宣言ともいうべき文学論で、すでに当時の文学の押しも押されぬ第一人者だった。その二十八歳の逍遙の下へ、『小説神髄』に付箋をたくさん貼りつけたのを手に訪れた二十三歳の無名の青年が、二葉亭四迷、というか、長谷川辰之助だったのだ。

ここに引用した文章を見ると、逍遙は初めて会った四迷にずいぶん驚いたらしい。確かにそうかもしれない。いまとちがって、言葉とは何か、文章とはどう作られなければならないか、などと大まじめに議論できる日本人がいったい何人いただろう。
それだけではない。逍遙は四迷の性格のなかに、ロシア文学が多分に影響している点を見て取る。そういうことができたのも、逍遙自身が英語を学ぶことによって、いったん日本語から離れ、日本語を使う自分や多くの日本人を外から見る視点を持っていたからではなかったか。

ほとんどの場合、わたしたちは話している言葉そのものではなく、その内容にしか意識は向かわない。だが、外国語を習おうと思えばだれでも、いやおうなくこの「言葉」というものに向き合わざるをえない。そうして、自分がこれまで深く考えることもなく使っていた母語を、改めて別の目で見るようになるのである。ちょうど実家を離れた子供が、それまで気づきもしなかった自分の家にたれこめるにおいに気がつくように。その意識は、自分と同じ母語を使っている人間にも向かっていく。個々の人を離れ、「日本人総体」という意識を持つようになり、それと比較しながら「あの人は実に日本人らしい人だ」「日本人にはめずらしいものの考え方をする人だ」という見方をするようになっていく。

四迷のなかにロシア文学の影響を見て取った逍遙も、英文学、というより、英語というもうひとつの言葉のなかに片脚を踏み入れていたからこそ、それに気がつくことができたのだろう。以来、四迷が死ぬまでふたりのこまやかな友情は続いていく。


3.「事も亦形なり」


さて、その逍遙の『小説神髄』にこんな一節がある。

言は魂なり。文は形なり。俗言には七情ことごとく化粧をほどこさずして現はるれど、文には七情も皆紅粉を施して現はれ、幾分か実を失ふ所あり。俗言のまゝに詞をうつせば、相対して談話するが如き興味あり。雅俗折衷の文をもて詞をつゞれば、書簡を読むの思ひあり。其おもしろみの薄かること、いふまでもなきことなりかし。俗文の利すでに斯くの如し。唯憾らくは世に其不便を除くの法なし。嗚呼、我が党の才子、誰れか此法を発揮すらむ。おのれは今より頸を長うして新俗文の世にいづる日を待つものなり。

坪内逍遙『小説神髄』(岩波文庫)

話している言葉(の中味)が「魂」である。文章(書き言葉)は形式である。話し言葉には、さまざまな感情がそのままに表れるけれど、それを文章にしてしまうと美しくはなるが、感情のいくぶんかを失ってしまう。話し言葉そのままに書いてみれば、面と向かって話をしているように(臨場感があって)おもしろい。これまでの書き言葉をそのまま使って文章を書いていると、まるで手紙を読んでいるようで、その楽しさも薄れてしまう。話し言葉をもとにした文章はこのように多くのメリットがある。だから、書き言葉が使い辛く、古めかしく感じられるのなら、新しい「書き言葉」が作りだされなければならない。逍遙が言うのはだいたいこんなことだ。

実際に同時期に書いた『当世書生気質』を彼が失敗と認めているのも、文語体の地の文章と、当時の書生たちの会話をそのままに書き写した話し言葉の部分のアンバランスさにあった。小説を支えることができるような「地の文」の登場を待つ、とここでは言っているのだ。

先にも書いたように、人間はすでに存在している言葉や概念を使わなければ、思考することはできない。たとえどんなに新しい思想があったとしても、それを表現するには、すでに存在している言語表現を使うほかないのである。それまでの日本語での文章は、逍遙のいう「言」と「文」しかなかった。

江戸時代の滑稽本には「言」しかなかった。ここでは野口武彦『近代小説の言語空間』を参考にしよう。まず野口は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のこんな文章を引く。

北八「ヱヽなんだ、いつそ灰だらけなものだ。ペツペ/\ 弥次「コリヤさとう漬じやァねへ。なんだかおかしな、にほいがする(トむねをわるくして、ゲイ/\といふこへをきヽつけ、たんばのおやぢ目をさまし、このていを見るよりびつくりしてはねおき)「ヤア/\/\、わりさまたち、コリヤ何しよる。

文章は作中人物の会話を中心にして場面をつなぎ、描写は極力節約して、簡単な動作の記述だけに縮小されている。会話の前には人物名が小さく表記され、引用註では便宜のため丸いカッコにおさめたが、江戸時代の版本では、動作の記述は会話の合い間に、これも小さな字で二行分ち書きになっている。そして、この部分がじつは滑稽本の「地の文」なのである。

(野口武彦『近代小説の言語空間』福武書店)

一方、文の方はどうか。同じく『近代小説…』が引用するのは『南総里見八犬伝』のこの一節である。

 孕婦(はらみをんな)の新鬼(にいおに)は、みな血盆(ちのいけ)に沈むといふ。それも脱れぬ業報ならば、厭ふも甲斐なきことながら、その父なくてあやしくも、宿れる胤(たね)をひらかずば、おのが惑ひも、人々の、疑ひもまたいつか解(とぐ)べき。これ見給へと臂(ひじ)ちかなる、護身(まもり)刀を引抜て、腹へぐさと突立て、真一文字に掻切り給へば、あやしむべし瘡口(きずぐち)より、一朶(いちだ)の白気閃き出、襟に掛させ給ひたる、彼(かの)水晶の数珠をつヽみて、虚空(なかぞら)に升(のぼ)ると見えし、数珠は忽地(たちまち)弗(ふつ)と断離(ちぎれ)て、その一百は連ねしまヽに、地上へ戞(からり)と落とゞまり、空に遺れる八(やつ)の珠は、燦然として光明(ひかり)をはなち、飛遶(とびめぐ)り入紊(いりみだ)れて、赫奕(かくやく)たる光景(ありさま)は、流るヽ星に異ならず。

 犬の精気にふれて八つの珠をみごもった女性、その名も犬にゆかりのある伏姫が自害する場面である。伏姫の言葉は歌舞伎の科白まわしにも通じる七五調のリズムをひびかせ、八顆の霊玉が虚空に飛び散るシーンは、荘重な雅俗折衷体で綴られている。

逍遙や四迷らがすでに手にしていたのは、この二種類の言葉だった。ここから四迷がどうやって『浮雲』の文体を作りだしていったかの考察は、この小文にもわたしの手にも余る領域なので、ここではふれない(引用した野口さんの『近代小説の言語空間』は大変おもしろいので、どうかそれを参照してください)。ともかく、この新しい「地の文」の創出の苦労は並大抵なものではなく、四迷は書きあぐね、たびたび中断してしまう。そうして、その中断のときに始めたのが、ツルゲーネフの『猟人日記』のなかの一作『あひゞき』の翻訳だったのである。

まず二葉亭四迷が明治二十一年に訳した「あひびき」の冒頭をここにあげてみよう。

 秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気に見える人の眼のごとくに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽かに戦いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。

刻々とうつりかわる天候、空のようす、木々のざわめき、下に生い茂るシダや落ち葉、木漏れ日。そこに聞こえてくる鳥のさえずり。
主人公は、自分を取り巻く周囲を見て、聞いて、感じる。さらにこのあと、そこで眠ることで、さらに自然と一体となる。

このあと「あいびき」の当事者たるふたりが登場する。そのやりとりを、主人公は同じように、見て、聞いて、感じるのである。ここで、林のなかの世界は、そのままふたりの世界に対応している。

ところが娘の哀れさに引かれ、主人公は介入しようとする。そのとたん、彼女は逃げていく。主人公は娘に拒まれて、その関係の中に入っていくことはできなかったのだ。

ふたりが去った後、同じ林を外から見るときの描写はこうなっている。

のらに向いて壁のようにたつ林の一面はすべてざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたように、煌きはしないが、ちらついていた。

同じ林、かつては自分をそのふところに抱いてくれた林が、こんどは背を向け、壁となっている。主人公の目には、林に拒まれ、閉め出されたように感じている。つまり、主人公の心情が、そのまま林の描写となって現れている。

わたしたちは自分の心情にしたがって、外界を見ている。世界はわたしたちの心情に呼応して、わたしたちの目に、さまざまに姿を変えて映っていく。そうして、わたしたちが世界と自らを一致させていこうとする限りでは、世界はわたしたちを受け入れてくれる。ところがそこに介入しようとしたとき、世界は一転、わたしたちをこばむ。風景は、風景であって、それにとどまらない。

四迷はロシア語で書かれた『あひゞき』を借りることによって、それをもとに新しい「地の文」、風景を描写することは、同時に人の心の移り変わりを表現することでもある、それを描き出す文章を生み出していったのだ。まだ人の「内面」が発見される前の段階で、というか、日本人の「内面」は、ここから生まれたのだ。

かつて逍遙は「言は魂なり。文は形なり。」と言った。のちに四迷は「凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。……形とは物なり。物動いて事を生ず。されば事も亦形なり。」(「小説総論」)と言う。いまふうの言い方をすれば、出来事というのは形、すなわち言語によって初めて生じるものである、「言語が実在を作る」ということだ(まとめ過ぎか)。


4.言葉がひとを結ぶ


ときに、妙に話が合う人がいる。
同じ本や映画について話をしてみると、自分の感じ方そのまま相手の口から出てくるような気がする。話の勘所がぴたりぴたりと一致するので、細かなところの説明も必要がないために話が早い。いきおい、話題は留まるところを知らず、どこまででも広がっていく。会ってどれほどもたってないのに、昔からよく知っている人のようだ。言葉を超えて、分かり合えるように思える。

そういうとき、わたしたちは「運命的な出会い」を感じたくなるのだが、おそらくそれは運命というより、ふたりの持っている言葉の意味が近いということなのではないか。

言葉の意味というのは、人によって微妙にちがうものだ。
イヌが好きでたまらない人と、イヌに噛まれたことのある人と、小さいころ、ほえつかれて怖かった人と、氷をぶつけたことのある人(これはわたしです)と、イヌを見たことのない人では「イヌ」といった言葉を耳にしたとき、あるいは目にしたとき、その言葉が結ぶ意味はかなりちがう。イヌよりももっと抽象度の高い、たとえば「平和」とか「戦争」とか「政治」とか「愛」とか「欲望」とか「権力」とか、まあいくらでも続けることができるけれど、そういう言葉はますます意味が人によってちがっているはずだ。

話がかみ合わない、何か、この人の言っていることはちょっとちがう、と感じるのは、おそらくふたりが使っている言葉の意味がずれているせいだ。
さらに、昔はあんなに話がはずんだのに、ひさしぶりに会ったら、何か話がはずまなかった、ふたりとも変わってしまったんだ……というときは、おそらく時の経過や経験によって、お互いの言葉の意味がずれてきたためだろう。
ほかの人間ばかりではない。同じ自分でも、日によって、気分によって、微妙に意味は揺らいでいく。あるいは、過去の日記にたまらない恥ずかしさを覚えたりするのは、なによりも、当時の自分が意味づけていた、言葉の意味の未熟さが恥ずかしいのだ。
もちろん話がかみ合わなかった理由は、相手の歯に青のりがついていたせいかもしれないのだが、もしかしたら、ふたりで使う同じ言葉の意味が、それぞれにかなりちがっていたためなのかもしれない。

わたしたちは多くのとき、話をしていても言葉そのものではなく、その言葉で語られた内容にしか意識が向かない。言葉は単にコミュニケーションの手段であり、媒体であり、透明なツールであるように思ってしまっている。だから話が合わないのも、言葉を飛び越えて、相手の言うことがおもしろくないからだ、あるいは、相手の考え方があまり好きではないからだ、さらには相手の「性格」がきらいだからだ、というふうに思ってしまう。

そもそも「性格」というのは何なのだろう。
繰りかえして言うように、言葉は、もともと既製品である。一方、わたしたちの感情は、その場限りのもの。あらかじめあるような言葉では、どこまでいっても十分に表すことはできない。まして、場面やそのときの関係に応じてさまざまに移り変わる感情総体のもちぬしである人間の「性格」を、一語で言い表すことなど、とうていできるはずがない。

にもかかわらず、わたしたちは自分のことをある言葉につなぎとめ、その言葉を使って、自分や他人に説明しようとする。同じように、他人に対しても「あの人は心の温かい人」「あの人は理知的だけれど冷たい人」といった理解のしかたをする。そうしなければ、相手の言葉をどう理解して良いかにも迷うし、こちらの態度も決められないからだ。そうして、まず第一段階としての大ざっぱな理解をしておいた上で、話をしたり、いろんな経験を一緒に重ねたりするなかで、自分の見方を修正していっている。

現実に知ることのない人物、たとえば作家などでも、やはりわたしたちはその作家の「性格」という見方をしたくなる。

たとえば松尾芭蕉の『野ざらし紀行』のなかに「富士川の捨て子」という段がある。
富士川のほとりで三歳ほどの幼児(当時は数えなので実際には二歳ほど、ほとんど赤ん坊に毛が生えたくらいの幼児だろう)が捨てられて、悲しげな声で泣いているのに芭蕉は行きあう。そこで芭蕉は袂から食べ物を投げて与えたのちに

猿を聞く人捨子に秋の風いかに

と詠んで去る。こういうところを読むと、どうしても芭蕉は冷たい人なんだろうか、と考えてしまう。

あるいは森鴎外の『舞姫』なども良い例だろう。わたしたちは頭では「太田豊太郎≠作者」ということはわかっていても、同じようにドイツ留学の経験を持つ鴎外その人と重ねあわせ、身重のエリスを捨てて帰国した「鴎外」を冷たい人物と考えてしまう。

だが、ほんとうに「冷たい人間」というのがいるのだろうか。ある局面においてその人が取った行動を、わたしたちが「冷たい」という言葉を当てはめて、評価しているだけなのである。芭蕉の時代と現代では、「捨て子」の持つ意味がちがっているし、当然「捨て子」に対する感じ方も同じではない。加えて、そう書き残していることを考えると、芭蕉がその捨て子に対して、はっきりした感情を抱いたことはまちがいない。ただ、その感情をそのままの形では明らかにせず、「猿を聞く人」という破調の句に託したのである。

『舞姫』の主人公は、日本に帰って、自分の学んできた知識を国家に役立てようとしながら、反面、そうした自分を許そうとはしていない。

日常接する人と同じように、わたしたちは作者に関しても同じように「性格」を想像してしまう。作中人物を重ね合わせ、あるいは有名なエピソードをもとに、いくつかの言葉を当てはめる。だが、現実の人と、会ったり、言葉を交わしたり、メールを交換したりするたびに、少しずつ自分の像を修正し、単純な言葉を少しずつ深めていくように、作品を読みながら、その作者像も深いもの、豊かなものにしていくことができるはずだ。

そうして、時間をかけて知っていく作者は、わたしたちにとって、大切な人となっていく。
たとえ会ったことがなかったとしても。
その人の残したいくつもの作品を、読み返すたびに、それを通じてさまざまなことを語りかけてくれる。たとえそれがわたしたちが作りだした「作者像」でしかなかったとしても。

言葉が、わたしたちを結びつける。
会ったこともない人、時代もちがう人、それでも、言葉を介して、その人を知ることになる。

今日では、多くの人にとって二葉亭四迷は、「言文一致体の始祖」という文学史的な知識以上の人物ではないだろう。その「言文一致体の始祖」である作品『浮雲』は中断してしまったし、ほかに作品といえば、『其面影』『平凡』、あとはいくつかの翻訳が残るくらいである。二葉亭四迷がいったいどんな人であったのか、作中人物と作者を同一視し、決めつけるような見方さえも持つことがない。どのような意味でも、像を結ぶほど四迷のことを知ることはない。

それでも、国木田独歩の『武蔵野』は、四迷がいたからこそ生まれた作品である。
独歩は、四迷の『あひびき』を読んで、初めて「落葉林の美を解するに至った」と書く。作品の冒頭に、長すぎるほどの引用を載せ、あたかも地続きの文章のように、自分の文を続けていく。

自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適っているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。  鳥の羽音、囀る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。

(「武蔵野」)

独歩によって、ロシアの森の風景が日本の風景に、そうして日本の風景の描写になっていったのである。ロシアの木々のざわめきが、武蔵野の林の木々の、鳥の、人々の音に重なっていく。この『武蔵野』によって日本人は風景を「発見」したのである。

森鴎外は四迷のことをこう評した。

 (二葉亭の)翻訳がえらいといふことだ。私は別段にえらいとも思はない。あれは当前だと思ふ。翻訳といふものはあんな風でなくてはならないのだ。あんな風でない翻訳といふものが随分あるが、それが間違つてゐるのである。あれがえらいと云はれたつて、亡くなられた人は決して喜びはせられまいと思ふ。

(森鴎外「長谷川辰之助」 関川夏央 『二葉亭四迷の明治四十一年』文藝春秋社)

同じように、西洋文学を日本にいくつも翻訳を続けた鴎外であったからこそ、当時、四迷がやったこと、やろうとしたことを誰よりもはっきりと理解できたのだろう。

ロシアに行き、そこで結核を悪化させた四迷は、明治四十二年、日本に帰る途中の客船で亡くなる。その訃報に接した鴎外は、このような文章を残す。

 亡くなられたのは、印度洋の船の中であつたさうだ。誰やら新聞で好い死どころだと云つた。私にもさういふ感じがする。……

 私はかういふ風に想像することを禁じ得ないのである。……
 或る夕、海が穏である。長谷川辰之助君はいつもより気分が良いから、どうぞデックの上に連れて行つて海をみせてくれいと云はれる。側のものは案じて留めようとするが、どうしても聴かれない。そこで世話をしてゐる人がやうやう納得する。

 かういふ船には籐の身代がある。あれは航海者がこヽろざす港に著くと、船の小使に遣つてしまふ。さうすると、小使がそれを繕つて持つてゐて、次に乗る客に売るのである。あの籐の寝台がデツクの上にある。その上へ長谷川辰之助君を連れて行つて寝かしてあげる。海が穏である。印度洋の上の空は澄みわたつて、星が一面にかがやいてゐる。

 程良く冷えて、和かな海の上の空気は、病のある胸をも喉をも刺激しない。久し振で胸を十分にひろげて呼吸をせられる。何とも言へない心持がする。船は動くか動かないか知られないやうに、昼のぬくもりを持つてゐる太洋の上をすべつて行く。暫く仰向いて星を見てゐられる。本郷弥生町の家のいつもの居間の机の上にランプの附いてゐるのが、ふと昼のやうに目に浮ぶ。併しそこへ無事で帰り著かれようか、それまで体が続くまいかなどといふ余計な考は、不思議に起こつて来ない。

 長谷川辰之助君はぢいつと目を瞑つてをられた。そして再び目を開かれなかつた。

(森鴎外「長谷川辰之助」『明治の文学第5巻 二葉亭四迷』筑摩書房)


言葉は、どこまでいっても言葉でしかない。だが、その言葉はひとを結ぶ。





初出July.31- Aug.03 2007 改訂Sep.11 2007

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