ものを贈る話

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ものを贈る話

プレゼント


――たいしたもんじゃないってのは知ってる
だけど、ぼくが贈りたいのはぼくの歌、君のことを歌った歌なんだ
(Elton John "Your Song")


0.マテリアル・ワールド

その昔、マドンナはこんなふうに歌った。

頼み込もうが、泣きつこうが、お門違いよ
冷たくて固いお金を持ってる男の子だけが、本命君
だってわたしたちはみんな物質主義の世界に生きているのだから
わたしだって物質主義の女の子、ってわけ

(Madonna "Material Girl" 私訳)

いかにも金ピカの'80年代らしいミもフタもない歌だけれど、確かにわたしたちが生きているのはマテリアル・ワールド、すべてのものが市場を通じて取り引きされる社会だ。
食べ物、衣類、装身具ばかりでない。わたしたちの労働力さえも、市場を通じてその価値が決定される。自分の経歴、資格を入力すると、自分の価格をはじきだしてくれるサイトさえある。

それでも大真面目に、金がすべてだ、金さえあればなんでもけりがつく、などと言う人の話を聞くと、わたしたちの多くは、それはちがうんじゃないか、と思う。
ほんとうに、わたしたちの社会は市場原理がすべてなんだろうか。それ以外の原理だって働いているのではないだろうか。

たとえば贈り物はどうだろう?
お中元やお歳暮、クリスマス、ヴァレンタイン・デー、お誕生日、わたしたちはいろんなときに「贈り物」をする。もちろんお中元やお歳暮、はたまた義理チョコのように、一種の儀礼的な贈り物もあるけれど、そうではなくて、あの人に何かを贈りたい、そう思ってする贈り物だってある。
こうした贈り物さえ、現代ではマドンナが歌うように、一種の取引き、「ちゃんとしてくれないんだったら、わたしはとっとと行っちゃうわよ」ということなのだろうか。

それでも、ただ贈るだけでうれしい、そんな贈り物もあるような気がする。相手のことを考えながら選び、気に入ってくれるといいなぁ、と思いながら贈る贈り物。
それとも相手のうれしそうな顔が見たいと願うことさえ、結局は「見返り」を求めてしまっているのだろうか。これもやはり形を変えた「取り引き」ということなのだろうか。

ここではさまざまな文学作品に描かれた「贈り物」を見ながら、わたしたちと「贈り物」について考えてみたい。


1.贈り物は交換か?


贈り物は贈るのと、贈られるのと、どちらが楽しいだろう?
小さい頃は、お誕生日が楽しみだった。お誕生日まであと何日と、指を折って数え、今年は何がもらえるだろう、とワクワクした。

そのうち、自分が贈る側にまわる。母の日、父の日、家族の誕生日から始まって、徐々に贈り物をする相手は外に広がっていく。

何を贈ろう?
相手には、何がふさわしいだろう?
相手の喜ぶ顔を思い浮かべながら、自分の乏しいお小遣いと相談して、知恵を絞る。

あたしのジムに。ジムに何かすばらしいものをと計画して、幸福な時間をすごしてきたものだった。何かすばらしい、めったにないような、立派なもの――いささかでもジムの所有物であるという名誉にふさわしいもの。

(O.ヘンリ「賢者の贈り物」『O.ヘンリ短編集(二)』大久保康雄訳 新潮文庫)

ものを贈ることの楽しさは、相手のことを考える楽しさでもある。
とびきりすばらしい相手にふさわしい、とびきりすばらしいもの。

『賢者の贈り物』の主人公は、貧しい若夫婦だ。
デラは、乏しい家計をやりくりしながら爪に火を灯すようにして金を貯めた。ところがクリスマス前日になっても、たった一ドル八十七セントしか貯まっていない。
デラには贈りたいものがあったのだ。

ジェームズ・ディリンガム・ヤング夫妻がひどく自慢しているものが二つあった。一つは、かつては祖父のものであり、父のものでもあったジムの金時計である。もう一つはデラの髪の毛だ。

デラはその髪の毛を売り、金時計に見合うプラチナの時計鎖を買う。ところがジムのほうは、自分の時計を売って、妻のために櫛を買っていた。
こうして、お互いに自分が所有している最高のものを売り、相手のために贈り物を買った結果、お互いの贈り物はまったく役に立たないものとなってしまったのである。

けれども、この物語の語り手はこう言う。

ここに私は、わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たちの、なんの変哲もないお話を不十分ながら申しあげたわけである。だが、最後に一言、贈りものをするどんな人たちよりも、この二人こそ最も賢い人たちであったのだと、現代の賢明な人たちに向かって言っておきたい。贈りものをあげたりもらったりする人々の中で、この二人のような人たちこそ最も賢明なのである。

なぜ、この「役に立たない贈り物」が「最も賢明な贈り物」なのだろうか。
ここに「贈り物」には市場原理とは異なる原理が働いていることが見て取れるのではないのだろうか。

まずデラは髪を売りに行く。そこでデラの髪には二十ドルという価格がつく。そうして、デラは髪の毛を売って、その場で二十ドルを手に入れる。
つまり、市場原理というのは、「髪の毛」と「二十ドル」という等価交換であり、同時性が働いている。

ところが、贈り物ではどうだろうか。
仮に、あなたがだれかにクリスマスプレゼントとして九千八百円のカシミアのマフラーを贈ったとする。すると、相手はすぐに九千八百円を返してくれた。
もしほんとうにこんなことを相手がしたとすると、あなたは相手の行為に深く傷つくのではあるまいか。
相手の意図は明白である。相手は贈り「物」は確かに受け取ってはくれた。けれども、あなたの「気持ち」のほうは拒否したのである。

こういうことは、現実に行われる。
かつて塾でバイトしていたころには、こんな決まりがあった。
生徒の親のなかには、お中元やお歳暮をくれるひとがいる。そういう際にはすみやかに、その品物とほぼ同額の文具券や図書券を返すことが決まりだった。個人としては受け取らない。塾全体で受けとり、これは三千円、これは五千円、と見定めると「お返し」をする。原則として、受け取らない。けれども、実際に贈られてしまえば、そこで受け取らないと角が立つ。そこで、ほぼ同額のものを返すことによって、「なかったこと」にしてしまうのだ。

贈り物を受け取って、その場で同じ価値のものを贈り返す、つまり、市場原理で要求される「等価交換」と「同時性」を「贈り物」に当てはめると、それはもはや「贈り物」ではなくなってしまう。つまり、「贈り物」は、同じ価値のものを交換し合うことではないのだ。

夏目漱石の『坊ちゃん』には、贈られる側の心理が描かれる。
山嵐とケンカをした坊ちゃんは、かつておごってもらった一銭五厘の氷水の代金が気になってしょうがない。

 ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。

おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。

清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。

 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。

(夏目漱石『坊っちゃん』 青空文庫

「他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ」とあるように、「贈り物」は相手にたいして厚意があるから受け取るのだ。厚意がなければ、たとえそれが氷水一杯の代金一銭五厘であっても、返さずにはおれない。

市場原理に基づく「交換」であれば、相手に対する厚意の有無など関係ない。デラも髪の毛を買い取ってくれる女主人を、冷たそうな女だと思う。けれども、冷たかろうが、いやな人間であろうがかまわない。そのとき考えるのは、「この交換が、自分にとって利益になるかどうか」ということだけだからだ。
けれども「贈り物」には、まず贈る側に何らかの感情がなければ、そもそも贈ろうとは思わない。そうして、贈られる側は、その「贈り物」と一緒に、相手のその「何らかの感情」も受け取るのである。その「何らかの感情」を受け取りたくない場合は、物のほうは受け取ったとしても、速やかにお返しをして、「借りを返す」、つまり気持の方を「なかったこと」にしてしまうのだ。

「贈り物」にこめられる「何らかの感情」。「贈り物」を単なる「もの」の交換や移動ではなくしているのは、どうやらこの感情のようである。
こんどはそれを見てみよう。


2.相手の喜ぶ顔が見たい


川端康成の『バッタと鈴虫』は教科書にも収録されており、『掌の小説』のなかでも『骨拾い』あたりと並んで、ポピュラーなもののひとつだろう。
その『バッタと鈴虫』には、「贈り物」を贈る際の形式が描かれている。

語り手は夕刻、二十人ばかりの子供が、めいめい自分で作ったらしい提灯を下げて虫取りをしている場面に行きあわせる。そこである男の子が「誰かバッタ欲しい者いないか。バッタ!」と言う。聞きつけた子供たちが徐々に集まってくる。

駈けつけた子供達が差し出す手を払い退け虫のいる叢を守るような姿で両手を拡げて突っ立った男の子は右手の提灯を振ると、再び四五間彼方の子供達に叫んだ。
「誰かバッタ欲しい者いないか。バッタ!」
「おくれ! おくれ!」

 四五人走って来た。全くバッタでも貴いほどに虫は捕れないらしい。男の子は三度び呼んだ。
「バッタ欲しい者いないか。」
二三人近寄った。
「頂戴な。頂戴。」
新しく近寄った女の子が見つけた男の子のうしろで言った。男の子は軽く振り返ると素直に身を屈めて提灯を左に持ち代え右手を草の間に入れた。
「バッタだよ。」
「いいから頂戴!」

 男の子は直ぐ立ち上がると握った拳を、それ! という風に女の子の前に突き出した。女の子は左の手に提げていた提灯の紐を手首に懸け両手で男の子の拳を包んだ。男の子が静かに拳を開く。虫は女の子の親指と人差指の間に移っている。

「あら! 鈴虫だわ。バッタじゃなくってよ。」と、女の子は褐色の小さい虫を見て目を輝かせた。
「鈴虫だ! 鈴虫だ!」
 子供達は羨ましそうな声を合わせた。
「鈴虫よ。鈴虫よ。」
 女の子は明るい智慧の眼をちらと虫をくれた男の子に注いでから腰につるしている小さい虫籠を外してその中に虫を放した。

「鈴虫よ。」
「ああ、鈴虫だよ。」と、鈴虫を捕らえた男の子は呟き、虫籠を顔の間近に掲げて眺め入っている女の子に自分の五色の美しい提灯を掲げて明りを与えてやりながらちらちらと女の子の顔を見た。

男の子は鈴虫という特別な獲物を見つけた。そうして、「叢を守るような姿で両手を拡げ」て、その猟場を独占する。ほかの子供には鈴虫を見つけさせないようにして、「バッタ欲しい者いないか。」と言う。何度も繰り返したのは、実はあげたい相手はただひとり、その女の子が来るまで待っていたからなのだ。

では、男の子はどうしてわざわざ「バッタ」と何度も念押しをしながら鈴虫をあげたのだろうか。

ここに「市場原理」と「贈り物」に働いている原理のちがいを見て取ることができる。
「市場原理」は自分が利益を得るために、自分の持っているものをできるだけ立派に見せる必要があるし、宣伝することも必要だ。この男の子とは逆に、ありふれた「バッタ」を貴重な「鈴虫」と騙して渡すことさえする。

それに対して「贈り物」は、多くの場合、自分の利益は考慮の埒外である。相手のために「できるだけ良い物」を贈ろうとする。つまり、贈り主の「気前の良さ」を見せることが大切なのだ。
与えることがむずかしいもののほうが、贈り物としては価値を持つ。そうして、贈るときの形式も大切だ。
プレゼントのラッピングに凝るのもそのひとつだし、贈り物を秘密にしておくのもそのひとつだろう。ただ贈るだけではなく、相手をびっくりさせることで、いっそうその価値を高めようとする。渡す場所に頭を悩ませたり、逆に、ときにはわざとさりげないふうを装ったり。
そうして渡すときには、十分に考え、選んだ「贈り物」であっても、たいていのとき「つまらないもの」のようなふりをする。
「たいしたものじゃないんだけど」「気に入らないかもしれないけれど」「つまらないものですが」……
男の子は「鈴虫」であることを秘密にして、女の子に「バッタだよ」と念押しして渡す。
では逆に「どうだ、鈴虫だよ、すごいだろう、バッタさえ見つからないのに、ぼくは鈴虫を見つけた。やっと見つけた鈴虫を、君にあげるんだよ」と渡したとする。
それではもう「贈り物」は台無しだ。贈られた女の子もうれしくない。

男の子の行動をよく見ていくと、わたしたちが「贈り物」をするときの手順と同じ手順をふまえていることがわかる。
「誰かバッタ欲しい者いないか。バッタ!」と呼びかけて、まず、これが利益を求める行動ではないことをしめす。
女の子の名前を呼ぶのではなく、女の子が自発的に来るのを待つ。そうすることで、自分の目的を隠す。
「バッタだよ」と念押しして、それより「すばらしいもの」を渡す。
つまり「贈り物」を渡すというのは、一種の儀式でもあるのだ。

男の子の目的は何だったのだろう。
市場原理には「自分の利益を求める」という目的がある。
鈴虫をもらった女の子は「褐色の小さい虫を見て目を輝かせた」。
そうして男の子は「自分の五色の美しい提灯を掲げて明りを与えてやりながらちらちらと女の子の顔を見」る。
ここで男の子は、自分の「贈り物」がうまくいったことを知る。男の子は、女の子の表情のなかに「見返り」を受け取ったのである。
だが、この目的は、「贈り物」の場面では隠される。
わたしたちは、たとえ相手のうれしそうな顔が見たいと思っても、そのことを口にはしない。感謝の言葉が聞きたくても、自分からは要求しない。それは、相手が自発的にそうしてくれるのを待っているからなのだ。
うれしそうな顔をしてくれなかったら、ひどく失望する。お礼の言葉もなければ、もう二度と贈ってやるものか、と思う。わたしたちは、相手からが自発的に感謝の意を示してくれることを期待している。つまり、贈り物には「目的」がある。「見返り」を求めているのである。

だが、チャリティや被災地救援などの慈善行為としての「贈り物」は、純粋な善意が強調される。「見返り」を求める「贈り物」は不純な行為なんだろうか。「見返り」など求めてはいけないのだろうか。

ここでもう少し慈善行為としての「贈り物」を考えてみよう。


3.右手と左手


『若草物語』はいきなり「プレゼントのないクリスマスなんて実際意味がないわ」という言葉で始まる。

そう思って読み返すと、実にこれは「贈り物小説」といってもいいぐらい、随所で贈り物が交換されるのだが、ここでは「慈善行為」という観点から、「プレゼントのないクリスマス」の朝の場面を見てみよう。

時代はちょうど南北戦争である。少女たちの父親は、北軍兵士として戦地に赴いている。

「おかあさまがこのクリスマスにプレゼント廃止をいいだしなすったわけは、今年はだれにとっても特別につらい冬だろうからというわけなのよ。それに、兵隊さんたちが戦地で苦労している時に、わたしたちが快楽のためにお金を浪費しては申しわけないと考えていなるのよ。

(オールコット『若草物語』松本恵子訳 新潮文庫)

かつては裕福な中産階級だった一家も、父親が破産したのちはつましい生活を余儀なくされている。父親が出征したいま、四人姉妹も16歳と15歳になる上のふたりは、家庭教師やコンパニオン(金持ちの老女の話し相手となる)をしながら乏しい家計を助けているのだ。

「クリスマスはプレゼント廃止」ということになっても、娘たちはそれぞれに乏しい小遣いをはたいて母親に贈り物の用意をする。そうしてまた、母親の側も、娘ひとりひとりに聖書を贈る。娘たちはクリスマスの朝、母親のその心づくしのプレゼントを発見するのである。
そうして朝食前に、母親は娘たちにこんな提案をする。

ここからあまり遠くないところに、お気の毒な女の方が、生まれたばかりの赤ちゃんをかかえて寝ているのです。六人の子供たちは火の気のないへやで凍えないように一つの寝床の中にかたまり合っています。そこには食べるものも何もないのです。それで一番上の男の子が、わたしのところへみんなが飢えと寒さに苦しんでいると告げにきたのです。あなた方はきょうの朝ご飯を、その人たちにクリスマスの贈物にしてあげてくれませんか」

そうして四人姉妹は母親と一家の召使いであるハンナとともに「自分たちの朝ご飯」を「贈り物」として持っていく。

 そこはさむざむとしたみじめなへやで、窓ガラスは破れ、火の気はなく、ぼろぼろの寝具、病気の母親、泣き叫ぶ赤ん坊、青ざめたひもじい子供たちは一枚の古ぼけた毛布の下にかたまって互いに身体を暖め合っているというありさまである。姉妹たちがはいっていくと同時に、なんとその大きな目が凝視し、色あせたくちびるが微笑したことであろう!

「おお、まァ、天使さまたちがおいでくだすった!」
 気の毒な母親は嬉し涙とともに叫んだ。

「レインコートを着て長手袋をはめた、へんてこな天使だわね」
とジョーがいってみんなを大笑いさせた。

 数分の間にまったく親切な天使がきて働いたような状態となった。まきを持ってきたハンナはストーブをたき、寒風の吹きこむ窓の破れ目に、自分の肩かけと古帽子を詰めた。マーチ夫人は母親に重湯と茶を与え、まるで自分の子供でも扱うような優しい手つきで赤ん坊に着換えをさせながら、以後できるだけのめんどうを見ることを約束して慰めるのであった。

 その間に娘たちは膳立てを済まし、子供たちを炉ばたにすわらせ、お腹をすかせたたくさんのひな鳥を飼うように食事をさせた。そして笑ったり、しゃべったり、妙な片言の英語をききわけるのに骨を折ったりするのであった。

 かわいそうな子供たちは食べたり、紫色になった手を気持ちのいい火に暖めたりしながら、「いいなア」とか「チンセツな天使チャマ」などといった。(…略…)

 自分たちは何も口に入れなかったが、それは実にたのしい朝食であった。一同は慰めをあとに残してそこを引きあげた。おそらく市中を捜しても、このクリスマスの朝のごちそうを他人に与え、自分たちは牛乳とパンで満足した、空腹の四人姉妹ほど陽気な娘たちは他になかったであろう。

 母が二階で、気の毒なフンメルの家族に与える衣類を捜している間に、妹たちと贈り物を並べていたメグは、
「他を愛すはおのれを愛すにまさるっていうのはこのことね。わたしあの言葉好きだわ」
といった。

この部分、わたしは昔からなんとも言えず居心地の悪い思いがしていたのだった。

あきらかに作者のオルコットはこの部分を、「キリスト教精神に基づいた一家のすばらしい行為」というエピソードとして描いている。
けれども、これがそんなに「すばらしい行為」なんだろうか?

聖書には「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイによる福音書 6章 3節)という一節がある。真の施しというのは、だれにも、自分自身にも知られないようにおこなわなくてはならない、ということだろう。

人に何かを与えるというのは、実は極めてデリケートなことなのだ。
通常の「贈り物」ならお互いをよく知っている。相手の厚意を受け取る根拠があるからこそ、贈り物も、贈り物にこめられた相手の気持ちも受け取れる。
だが、災害に遭ったり、不慮の事態に遭遇したりして、他人から慈善を受けなければならなくなることは、おそらく大変につらいことだろう。

『あしながおじさん』には、この慈善を受ける側の心境が描かれる。

 慈善箱!
 みじめな慈善箱からの服を着て学校へ姿を現わすのを私がどんなに恐れたか、おじ様には想像もおつきにならないでしょうね。私はきっとその服の最初の持主の隣の席につかされるにきまっていました。そしてその女の子は友達にひそひそ話をしたり、くすくす笑いをしたりして、私の服を皆に指さして教えるのでした。自分の敵のいらなくなって棄てた服を着せられる辛さは私の魂にくい入るのでした。その痛手はたとえこれから残る生涯を絹のくつしたをはいて暮らしたとしても、消すことができるとは思われません。

(ウェブスター『あしながおじさん』松本恵子訳 新潮文庫)

慈善行為をする側は、かならずどこかで「わたしはかわいそうな人に何かを与えているのだ」と意識し、相手の感謝を期待し、それを受け取って満足する。
慈善行為を受ける側は、自分が「かわいそうな人間」の地位に貶められていることを意識し、それでもその「物」が必要だから受けとり、お礼の言葉を言わざるを得ない。
慈善行為には、程度の差こそあれ、かならずこの力学が双方に働いているはずだ。
だからこそ、敢えて聖書は「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と教えているのだろう。

慈善行為の力学は、「贈り物」でも働いている。
贈り主は「贈り物を与える」ことで相手に負い目を負わせる。
受け取る側は、「贈り物を受け取る」ことで、負い目を負う。
それが剥き出しにならないよう、わたしたちはさまざまなポーズを取るのだ。

与えることによって相手の優位に立とうとしているのではない、「気前の良さ」を見せているだけだ、というポーズ。だから「見返り」なんて求めない、というポーズ。
受け取る側も、受け取ることで、相手を優位にしてやろうとしているのではない、「向うをひとかどの人間と見立てて」いるから、受け取ってやっているのだ、というポーズ。お礼は強制されたものではない、自発的に言っているのだ、というポーズ。

表面の受け渡しの背後で、わたしたちの意識は「贈り物」をめぐってさまざまに動いている。

少なくとも、『若草物語』の四人姉妹は自分たちの行為の対価を、十二分に受け取っている。かわいそうな人々に食べ物を与えて、彼らを喜ばせてやり、感謝の言葉をもらい、見上げるような眼差しを浴び、「天使様」とまで言われたのだ。そうして満足したからこそ、「他を愛すはおのれを愛すにまさるっていうのはこのことね」というせりふが出てきたのではないか。
そうして、わたしの感じた「居心地の悪さ」というのは、慈善行為に働いている贈り手受け手双方の力学に対して、彼女たちが、というより、作者の側があまりに無自覚であることからくるものだったのだ。
もちろんこの作品は19世紀半ばという時代、少女向きの健全な家庭小説を、という出版社からの要望の、二重の意味で制約を受けたものではあるのだが。

さて、もう少し「見返り」の問題について考えてみよう。聖書の言うように、まったくの見返りを考えずに贈り物をすることができるのだろうか。


4.見返りを求めない贈り物はありうるか


子供の頃『若草物語』のこの場面を読んで「いい気なもんだ」と思ったことのひとつには、四人姉妹は家に帰ってから「牛乳とパンで満足し」たことにある。なんだ、食べてるんだ、と思ったのである。「クリスマスの朝のごちそうを他人に与え」たぐらいで、「天使様」と呼ばれちゃっていいんだろうか、と思ったわけだ。

それに比べると木下順二の『夕鶴』に出てくる「贈り物」のために贈り主が払う犠牲は、はるかに大きい。

『夕鶴』は昔話「鶴の恩返し」をベースにした戯曲である。
ただし、いくつかの点で大きなちがいがある、と竹内敏晴は『動くことば 動かすことば』のなかで指摘している。

あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとに嬉しかったから、あたしはあんたのところに来たのよ。そしてあの布を織ってあげたら、あんたは子どものようによろこんでくれた。だからあたしは苦しいのをがまんして何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは、そのたびに「おかね」っていうものと取りかえてきたのね。それでもいいの、あたしは。あんたが「おかね」が好きなのなら。だからその好きな「おかね」がもうたくさんあるのだから、あとはあんたとふたりきりで、この小さな家のなかで、静かに楽しく暮らしたいのよ。

(木下順二「夕鶴」『夕鶴・彦市ばなし』新潮文庫)

 昔話の中で、狐や蛇や鯉など人間でないもの、異類が、人間の男の女房になる話の多くは「恩返し」と分類されています。ある男が生き物の命を助けてやる、と、その晩きれいな女の人が訪れて女房になり、布を織ったりうまい食事を作ったりして男に幸せをもたらしてくれる。が、ふとしたきっかけで〈正体〉を見露われると、もう〈人間〉として暮らせなくなって去ってゆく。この〈女〉がなぜ、どんな気持ちあるいは動機で男の家へやって来るかは、昔話の中では語られることはない。その行動の意味だけが「恩返し」として人間に受け取られるだけです。…(略)…

 それがほんとに嬉しかったから

来たのだ、とつうは言います。これは愛の芽生えと言いましょうか。そしてそれが、今は愛の表白になっている。
「恩返し」から「愛」へ。ここに、『夕鶴』が昔話「鶴女房」から近代文学へ脱皮したモメントがある。そしてそれは、つうが、鶴から名前を持った人間の女になるプロセスでもあるのでしょう。

(竹内敏晴『動くことば 動かすことば』ちくま学芸文庫)

恩返しとしてではなく、「愛」のためにつうは自分の身の一部を布に変えて与ひょうに贈る。
ところが与ひょうが属する人間の世界は、その「贈り物」さえ市場原理の中に組み込んでしまうのだ。
布の美しさに有頂天になっていた与ひょうから、布を巻き上げ、それを町へ持っていって売り、大金を手にする(中間搾取する)「運ず」という人間が現われ、さらにもうけ話を聞きつけてやってきた隣村の「惣ど」までもが登場する。
彼らは与ひょうをそそのかして、もっと布を手に入れようとする。何百両と金が入る、都へ行ける、というのである。都へ行ける、という話に有頂天になった与ひょうは、彼らのことばそのままに、つうに布を織れ、と要求する。

これなんだわ。みんなこれのためなんだわ。……おかね……おかね……あたしはただ美しい布を見てもらいたくて……それを見てよろこんでくれるのがうれしくて……ただそれだけのために身を細らせて織ってあげたのに……もういまは……ほかにあんたをひきとめる手だてはなくなってしまった。……布を織っておかねを……そうしなければあんたはもうあたしの側にいてくれないのね?……でも……でもいいわ、おかねを……おかねの数がふえていくのをそんなにあんたがよろこぶのなら……そんなに都へ行きたいのなら……そしてそうさしてあげさえすればあんたがはなれていかないのなら……もういちど、もう一枚だけあの布を織ってあげるわ。それでゆるしてね。だって、もうそれをこしたらあたしは死んでしまうかもしれないもの。……その布を持って、あんた、都へ行っておいで。……そしてたくさんおかねを持ってお帰り……帰るのよ、帰ってくるのよ、きっと、きっと帰ってくるのよ。そして、こんどこそわたしとふたりきりでいつまでもいつまでも一緒に暮らすのよ、ね、ね。……

相手の喜ぶ顔が見たくて贈った「贈り物」が、市場原理に組み込まれて「おかね」と交換される。このシステムは、人間ではないつうには理解できない。それでも、贈りさえすれば相手を自分の側に繋ぎとめられるかもしれない、と思って、なおもつうは布を織る。

けれども、つうのこの願いはかなえられることはない。わたしたちの誰もが知っている昔話のとおりに、与ひょうはつうが織っている部屋を覗いてしまう。
そうしていつもなら一晩で織りあがる布が、一晩と一日かかり、翌日、二枚の布を持ってつうが部屋から出てくる。

与ひょう な、つうもいっしょにあっちこっち見物してまわろうな。
つう ――あんた……とうとう見てしまったのね……。
与ひょう ああ、早く都さ生きたいもんだ。つうこらよう織れたなあ。
つう あれほど頼んでおいたのに……あれほどかたく約束しておいたのに……あんたはどうして……どうして見てしまったの?……
与ひょう なんだ? なんで泣くだ?
つう あたしはいつまでもいつまでもあんたと一緒にいたかったのよ……その二枚のうち一枚だけは、あんた、大切に取っておいてね。そのつもりで、心をこめて織ったんだから。

昔話には出てこない「二枚の布」に留意しなければならない。
「それをこしたらあたしは死んでしまうかもしれない」という一枚をつうは超える。
姿を見られて、もはや与ひょうと暮らしていけないことを知ったつうは、鶴に戻って元の世界で生きていくことより、自らの命と引き替えに、もう一枚の布を織ることを選んだのだ。
この命を賭けた「贈り物」を、つうは「大切に取っておいてね」と頼む。自分の分身である「贈り物」を、自分の代わりと思って一緒にいてほしい、つまりは自分のことを忘れないでほしい、と願うのである。

ここでも、「贈り物」の「見返り」は要求されているのだ。たとえ、望む「見返り」が、犠牲にくらべてあまりにささやかではあっても。

だが、一方で『夕鶴』のなかにも何の見返りも求めない行為がある。
与ひょうが鶴を助けた行為がそれだ。与ひょうは「何のむくいも望まないで」鶴を助けた。
鶴を助けても、別に何の良いことがあるわけでもない。亀を助けた浦島太郎にしても、お地蔵様に笠をかぶせたおじいさんにしても、何らかの見返りを期待したわけではない。

つまり、「助ける」―「助けられる」の関係があまりに非対称であるとき、あるいは「贈る」―「贈られる」の関係であっても、それが非対称(受け取る相手の顔も見えなければ、どう使われるかもわからないような場合の募金など)であるとき、わたしたちは相手からの「見返り」は望まない。そこにあるのは「良いことをした」というささやかな自己満足だけだ。

それにたいして顔の見える相手にする「贈り物」は、まず相手を一個の人格と認め、今後もつながりを持ちたい、その関係を深めたいと考えるから、「贈りたい」という意志を持ち、「贈る」という行為に出る。
求める「見返り」は、相手のうれしそうな顔や感謝の気持であったり、自分のことを印象づけたいという思いだったり、あるいは、地位の確保であったり、交渉を優位に進めるためであったり、相手に応じてさまざまだけれど、自分が「贈る」ことによって、相手が自分のことを認めてくれ、これから先も関係が継続し深まっていくことを期待するからこそ、わたしたちは「贈る」のである。

「贈り物」が相手への「贈り物」であると認識された瞬間、それは相手からの何らかの反応、すなわち「見返り」を求める行為になっていくのだ。「見返りを求めない贈り物」というものは、そもそも存在しないといっていい。


5.「贈り物」はものの移動か?


さて、つぎに二者のあいだで行き来する「物」に焦点を当てて考えてみたい。

こんな経験はないだろうか。
仲良くしていた友だちと喧嘩してしまった。あんな人とは知らなかった。その人がくれた物を持っているのだけれど、身近にあるのも腹立たしい。返してしまおう。

あるいはあなたが返される側になるかもしれない。
そこで返ってきた物は、戻ってきて「良かった」と思えるだろうか。
ただの「物」として使えるだろうか?

『ハムレット』にはこんな場面がある。狂気を装うハムレットのところに、オフィーリアがこれまでにもらった贈り物を返しに来るのだ。

オフィーリア あの、いただいたものを、ここに。まえからおかえし申し上げようと思って。どうぞ、お受けとりあそばして。
ハムレット いや、それはできぬ。何もやったおぼえはない。
オフィーリア なぜそのような。よくごぞんじのはず。やさしいお言葉があればこそ、その香が失せましたからには、もうほしゅうはありませぬ。くださったお方のお気もちが変れば、どんな贈り物も蝋細工同然、心の正しい女なら。本当に、ハムレット様。

(シェークスピア『ハムレット』福田恆存訳 新潮文庫)

「贈り物」は「物」でありながら、元の「物」と同じではなくなっている。贈り主が「これを贈ろう」と選び、「贈り物」という形式を踏まえて贈られた「物」は、単なる「物」ではない。贈り主の気持ちを、さらにいえば、贈り主の一部を含む特別な「もの」となっているのだ。

そうして、贈られた相手がその「もの」を持っていることにも、特別の意味が加わる。
オフィーリアの手を経て、戻ってきた宝石には、オフィーリアの一部が含まれている。だからこそ、ハムレットはそんなものを受け取ることはできないのである。

「もの」は、人の手を経るたびに、姿を変えるのではないか?
もう少し、「もの」を詳しく見てみよう。

梅崎春生の短編『蜆』には、二者のあいだを行き来する「外套」が出てくる。
作品の舞台は、戦後間もない、人々が毎日を生きていくのがやっとの日本である。

若い男である主人公は、省線電車のなかで寒さに震えている。外套を売って酒を飲んだのだ。そこへ三十代半ばらしい男がやってくる。毛のふかふかした良い外套を着ている。この見ず知らずの男が、「外套をやろうか」と言うのである。

「この外套、要るならやるよ」
「何故くれるんだね」
「だってお前は寒いのだろう」
「そうか。ではくれ」

 いささか驚いたことには男は立ってさっさと外套を脱ぎ出した。…(略)…

「…しかひ外套脱ぐと恐しく寒いな。明朝のことは知らんが後悔するような予感もするよ」
「それならくれなきゃ良いじゃないか」
「俺は人から貰うよりやる方になりたいと思う。そう自分に言い聞かしているんだ。お前はどういう気持ちで貰ったんだ」
「俺か」僕は指で釦をまさぐりながら答えた。「これで今の寒さがしのげるかと思ったから貰ったよ。降りるときかえしてやろうか。この釦は面白い形だな」
「かえして貰わなくても良いよ」

(梅崎春生「蜆」『桜島・日の果て』新潮文庫)

そうして、語り手である「僕」はほんとうにこの外套をもらってしまったのだ。
二三日して、「僕」はふたたびこの男に会う。ところがこの男は外套を手放したことを、いまさらながら残念に思っているらしく、バスの中で大声でその外套の由来や来歴について話しはじめる。

 バスが終点についた時僕は言ってやった。
「口惜しがるのは止せ。欲しければくれてやるよ」
「俺は他人の慈善は受けん」と彼は憤然とした口調で答えた。「俺は物貰いじゃない」
「じゃこの外套は永遠に俺のものだな」
「そう簡単には行かん。俺が欲しくなれば、お前から貰うのは厭だから力ずくで剥ぎ取るよ」

そうして一週間ほどたった夜、酔っぱらってホームのベンチで眠りこけている「僕」は、ほんとうにこの外套を剥ぎ取られてしまうのだ。

「お前は外套を取る気か」
 ふらふらする頭を定めて僕が怒鳴った。怒鳴った積りだけれど呂律がうまく廻らない。
「そうよ」あいつは平気な顔でそう言った。「明日船橋に用事で行くんだ。外套がないと都合が悪い」
「じゃお前は追剥だな」
「追剥」彼は一寸手を休めたが「追剥、で結構だよ。俺は追剥だよ」

 下から見上げているのではっきり判らないが、その時彼はおそろしく悲しそうな顔をした。その声も泣いているのじゃないかと思った位だ。僕は急に力が抜けてどうでもいいやという気分になった。僕は自然に両手を後ろに伸ばして外套を脱がせ易い姿勢をとっていた。

取り返したその外套を着た男に「僕」はもう一度会う。
そうして、その男は意外な話を聞かせてくれる。

それまでその男は真面目な会社員として、悪いことも、世間から後ろ指を指されるようなこともせずに働いてきた。ところが会社は解散する。どさくさにまぎれて不正が行われ、その不正を暴露して殴られた狡猾な会計係の老人を、男は助けて駅まで送ってやった。

ぐにゃぐにゃする老人の体を苦労して運びながら、俺は何の情熱でこんなことをしているのかとふと疑う気持ちが起った。しかし俺は唇を噛むような気持で、自分にその時言い聞かせた。善いことのみを行え、悪いことから眼をそむけろ。困った人を見れば救ってやれ。人に乞うな。人から奪うな。人にすべてを与えよ。

そんなとき、男は「僕」に会い、外套をやってしまう。

ところが男は渋谷駅で偶然、自分の外套を着た男が酔っぱらって寝ているのに行きあう。

お前からあのとき、追剥だと言われた時、俺は実は身体のすくむような戦慄が身体を奔り抜けるのを感じたのだ。しかしそれが疑似の戦慄であることを、俺はその瞬間でも意識していた。だってもともと俺の外套だからな。そして、これが大事なことだが、その戦慄は贋物であったにしろこの俺にはぞっとするほど気持が良かったのだ。

男は奪い返した外套を着て、船橋に就職口の斡旋してくれるよう頼みに行くが、すげなく断られてしまう。帰りの電車は満員で、しかも扉口には扉がない。そこで落ちそうになって悲鳴をあげた若い娘がいた。人の良さそうな闇屋らしい男が、娘と場所を変わってやる。外套の男は、闇屋のすぐ脇に立っていた。電車がカーブにさしかかって、外套の男の肩が闇屋を弾いてしまう。闇屋はなんとかつかまろうと男の外套に手をかけるが、釦がちぎれ、そのまま走る電車から落ちてしまった。人がひとり死ぬような事故が起こったのに、電車も停まらなければ、ほかの乗客も驚くふうもない。それぞれが自分が生きていくことに必死なのである。外套の男は闇屋の残したリュックサックを背負って家に帰る。帰って中を見ると大量の蜆が入っていた。

夜中、リュックのなかの何千という蜆が鳴く不思議な音がする。
それを聞きながら外套の男は考える。

俺はその啼声にじっと聞入っていた。それは淋しい声だった。気も滅入るような陰気な音だった。肩が冷えて慄えが始まったけれども、俺は耳を離さなかった。そして考えていたのだ。俺が何時も今まで自分に言い聞かしていたことは何だろう。善いことを念願せよ。惜しみなく人に与えよ。俺は本気でそれを信じて来たのか。

 おぼろげながら今掴めて来たのだ。俺が今まで赴こうと努めて来た善が、すべて偽物であったことを。喜びを伴わぬ善はありはしない。それは擬態だ。悪だ。日本は敗れたんだ。こんな狭い地帯にこんな沢山の人が生きなければならない。リュックの蜆だ。満員電車だ。日本人の幸福の総量は極限されてんだ。一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているのだ。丁度おっさんが落ちたために残った俺達にゆとりができたようなものだ。俺達は自分の幸福を願うより、他人の不幸を希うべきなのだ。ありもしない幸福を探すより、先ず身近な人を不幸に突き落すのだ。俺達が生物である以上生き抜くことが最高のことで、その他の思念は感傷なのだ。釦を握った死体と、啼く蜆と、舌足らずの女房と、この俺と、それは醜悪な構図だ。醜悪だけれども俺は其処で生きて行こう。浅はかな善意や義侠心を胸から締出して、俺は生きて行こうとその時思ったのだ。

最後に男はその外套を売り払い、「僕」とふたりで粕取焼酎を痛飲したのちに別れる。

以上、あらすじをざっと追ってみたが、「物」=「外套」に焦点をあててこの短編を見てみよう。

まず最初に「男」が「僕」に外套を与える。
「男」は「善いことを行え」と自分に命じていたから、たまたま出会った寒さに震えている「僕」に外套を「贈り物」とした。一種の慈善行為としての「贈り物」である。

これまで見てきた作品では、「贈り物」には法則があった。与えることが難しければ難しいほど、贈り物の価値が高くなるということだ(「バッタ」と「鈴虫」のちがいも、あるいは『若草物語』の朝食と『夕鶴』の最後の布のちがいにもあきらかなように)。

さらに、ここからもうひとつ法則が見えてくる。
利益を求めての交換は、たくさんあるときの「余ったもの」である(たとえば、フリーマーケットに出品されるのは、どれも「いらないもの」だ)。
それに対して「贈り物」は、与えるのが難しいとき、つまり、ものが少ししかないときなのだ。
『バッタと鈴虫』でも、虫はほとんどいなかった。『賢者の贈り物』でも、『若草物語』でも、『夕鶴』でも、登場人物たちはみな貧しい。なけなしのなかから、できるだけの「贈り物」をしようとしている。

この『蜆』でも、外套はこれ一枚しかないし、男は職を失ったばかりである。
寒い中、自分の必需品でもある「外套」を贈るということは、男にとってありったけの「気まえの良さ」を見せる慈善行為だったのだ。

ところが「僕」のほうは、外套をもらったけれど、ありがとう、とも言わない。
もし「僕」が感謝していれば、「慈善行為」としての「贈り物」はそこで完了していただろう。だが「僕」は当たり前のようにそれを受け取る。そのために、「男」と「僕」の間には、継続する関係が生まれていくのだ。

ここに「贈り物」にはたらくもうひとつの力学が見えてくる。
人は、だれしも「自分だけは特別だ」とどこかで思っている。自分だけがそう思っているのではなく、他人にもそのことを認めてほしい。
「外套の男」は、自分のことを「善い行為をなす」という意味で、特別な人間であろうとした。嘘や不正が横行する中で、自分だけは「善い」人間であろうとしたのである。

ところが「僕」は認めてやらない。

男から酒をなぜ飲むのか、と聞かれた「僕」はこう答える。

「俺は退屈だからよ」と僕は答えた。
「退屈だとお前は飲むのか」と男が聞き返した。
「そうだよ」
「何故退屈するんだ」
「偽者ばかりが世の中にいるからだよ」と僕は答えた。「俺はにせものを見ていることが、退屈なんだ。だから酔いたいのだ。酔いだけは偽りないからな。酔っている間だけは退屈しないよ。お前もどういう積りで外套をくれたのか知らないが、お前も相当な偽物らしいな全く」

「僕」は感謝するかわりに、この「贈り物」にこめられた目的をばくぜんと感じ取って、「偽者」という言葉で「贈り物」に応えたのである。

「贈り物」が不首尾に終わった「男」は、なんとかして「僕」に自分を認めさせたい。
反面、外套がどうしても必要だ。
これ以上、相手に膝を屈することはできない。頼むことなど、もってのほかだ。
そこで「男」は外套を奪う。

けれども、いったん自分が「贈ったもの」は、元の「もの」ではなくなっている。

『賢者の贈り物』で、デラが自分の髪の毛を売って手に入れた時計の鎖は、店にあった時計の鎖ではない。デラの人格と切り離すことはできない「時計の鎖」だ。
『バッタと鈴虫』で、男の子が女の子に贈った鈴虫は、そこらへんにいる鈴虫ではない。やはり、男の子の人格と切り離すことのできない「鈴虫」だ。
贈り物には、程度の差こそあれ、その人の人格がこもっている。

ところで、「人格」というのは、簡単に人に譲り渡せるものではない。自分の一部を切り取って渡すことなど、できるものではない。
『夕鶴』での最後の布などは、文字通り命を賭けた贈り物である。ここまで極端な贈り物をするケースは多くはないけれど、それでも贈る人は、意識するにせよしないにせよ、自分から切り離せないはずの「人格」、生命の一部を贈っているのだ。

だから、相手からの評価を求めないではいられない。相手が自分の「人格」をそこに認めてくれることを求める。
「贈り物」の受け取り手は、相手の人格を受け取って、そのようなことをしてくれた相手を一段高いものとして自発的に承認し、評価し、感謝する。
そうして「贈り物」は相手の人格であり、生命の一部だから、受け取る側は、その「贈り物」を「自分のもの」にすることはできない。一時的に借り受けているもの、預かっているもの、としか感じ取れない。
だから、オフェーリアは相手の心変わりを知って返そうとするし、与ひょうは決して最後の布を手放さないだろう。
現実にわたしたちは、人からもらったがために、なんとなく捨てるに捨てられなくなってしまった物を、身の回りにいくつか持っているのではあるまいか?

なんで捨てられないのだろう?
それは、わたしたちがどこかでこの人格のこもった「贈り物」を、いまたまたま「借りているだけ」という意識を捨てきれないからではあるまいか。わたしたちは、この「物」を、一時的に使用できるだけなのだ、という。そうしてこれは「負い目」となってわたしたちに残っていく。

だから、「贈り物」をされた側は、お返しをする。お返しをすることで、この負い目の感情は帳消しにはできないけれど、相手にも同じ負い目を負わそうとするのである。

この力学が働く場を「社会」と呼ぶことにしよう。
そうして、『蜆』の舞台は、戦争によって従来の秩序が破壊され、混乱した社会である。そうした社会を「偽物」として、飲んだくれているのが「僕」、酔うことで、社会の外側にいる。

この「僕」は、小説の地の文で語られるときは「僕」という一人称を使っているが、「男」に対しては「俺」という言葉を使う。
つまり、社会に向けては、一種の「無頼」のポーズを取っているが、単なる飲んだくれではなく、不正や嘘を感じ取る繊細さを備えた人間でもあることが示される。
つまり「僕」も「男」同様、社会の嘘や不正を感じているのだが、そこで自分だけでも「善く」ありたい、とは願っていない。酒を飲んで酔うことで「偽者」の社会からドロップアウトしているのだ。

「僕」は、外套をもらっても、実際に着用させてもらっても、ただの一度も感謝の気持ちは示さない。
それでも、追い剥がれそうになって、相手がその「男」と知ると、脱がせ易いような体勢をわざわざ取ってみせる。「贈り物をされた」という気持ち、自分が贈り主から「一時的に借り受けている」だけだという意識は、はっきり持っている
つまり、お礼をしないのは、偽物の社会の約束事でもある「贈り物」の力学の外にいることを示すポーズでもあるのだ。

一方、外套の男の方は、最初は従来の社会、「善いこと」「悪いこと」が明確に定められた社会に生きていた。現実の社会は、敗戦によって混乱し、揺れ動いていたのだけれど、そういうなかで、旧来の秩序を懸命に維持しようとしたのである。

けれども「僕」と関わることによって、「男」の世界も揺らいでいく。
そうして外套を取り戻したときに、逆に「僕」の一部を譲り受けてしまうのである。これまでの自分が「偽者」だったのだと思うようになる。

古いけれど、しっかりした外套は、男の従来生きていた社会をそのまま示している。
だが、これまでのように善いことをするために、自分の一部を押し殺し、喜びもなく生きるのをやめよう、偽者としてではなく「ほんもの」として生きていこうと思えば、この古い外套は「殺され」なければならない。
これを売って、闇商売の元手にする、という形でつぎに生かされるのではなく、まったく無意味に「蕩尽」されなくてはならない。だからこそ、外套の金は、酒に、しかも粕取焼酎に消えていく。そうして、共に飲み尽くした「僕」と「外套の男」というふたつの人格は、融合していくのである。

贈り物のもうひとつの性格が、ここで見て取れる。
贈り物は、ものを分かち合う、ということでもあるのだ。
わたしが選んだあの人への贈り物は、わたしの一部がこもっているために、わたしのものでもある。
あの人に贈り、あの人の手元にあるのだから、あの人のものでもある。
贈り物を通じて、ふたりの人間が融合する。


6.「負い目」の感情


これまで見てきたように、通常の社会では、贈り物を受け取る側は、贈られたことで相手に「負い目」を感じ、その「贈り物」が完全に自分のものにはなっていないような感情、一時的に使用を許された占有者のような感情を抱くことを見てきた。

この贈られたものに対する「負い目」の感情。
これは、わたしたちにひどくなじみ深い感情でもある。

自分のからだをどう考えたらいいんだろう。
わたしたちは、このからだを「自分のもの」と思っている。
自分が所有している、と思っている。
けれども、ほんとうに、心の底からそう思っているんだろうか。

中学生くらいになった子供が親に反抗するとき、たいてい「産んでくれ、と頼んだ覚えはない!」と言う。確かにそれはそのとおりなのである。
わたしたちは、生まれたい、と願って、この世に現われたわけではない。
気がついたら、いたのである。気がついたら、このからだを与えられていたのである。

「他人に迷惑をかけない限り、自分の肉体や精神の扱いについては選択の自由がある」という「自己決定権」が、たとえば臓器売買や、売春や、自殺を肯定するための論拠とされた場合になんとも言えない違和感を覚えてしまう。

それは、わたしたちが生物学的な説明とは別に、どこかで自分のからだを一種の「贈り物」のようにとらえているせいではないからだろうか。自分が一時的に使用を許された占有物のように感じているせいでは? そうして、そのことに対して、ばくぜんと「負い目」を覚えているのではないのだろうか。

戦争報道を見ても、なぜ自分が紛争地帯に生まれず、日本に生まれたのだろうか、と思う。
災害が起こった。どうして、自分が巻き込まれず、ほかの人が巻き込まれて死ぬようなことになったのだろうか、と思う。
自分の生活が曲がりなりにも成り立っている。そのことは、自分がささやかながら頑張っているからでもあるけれど、どこかでそれだけではないような気がしていないだろうか。

わたしたちは、いま、ここにある自分のからだを、「贈り物」であるように感じ、こうして生きていられることに、ばくぜんと「負い目」のような感情を抱きながら生きているのだ。

マーガレット・ドラブルの『碾臼(ひきうす)』は、この「負い目」を抱えた主人公の物語である。

主人公のロザマンド・ステイシーは大変優秀な若い女性である。大学教授の両親の下に育ち、自立することが貴いことを教わりながら育った。大学を卒業して、いまは文学の研究をしながら、書評を書いたり、論文を書いたりして生活している。

わたしは男性が好きで、何年もくりかえしくりかえししじゅう恋愛をしていたのに、性の問題となると恐怖に生命も消える思いがして、実行には移さないままその方法について読んだり聞いたりばかりしていて、ますます不安をつのらせていたのだ。

(ドラブル『碾臼』小野寺健訳 河出文庫)

男とつきあいながらも肉体的な交渉を避けていた彼女が、ほんの偶然から同性愛の噂もあるラジオのアナウンサー、ジョージと一度だけの交渉を持った。
ジョージの側からは連絡はない。ロザマンドの側も、プライドのために自分から電話することもできない。
ところがこのたった一度の行為の結果、ロザマンドは妊娠してしまったのである。

堕胎を考えたが、実行に移す決意ができないまま日が過ぎ、とうとうロザマンドは子供を産む決心をする。

それまでのわたしは、人と人を結ぶ絆を、口ではうまいことを言いながらもじつにたくみに避けていた。もっとも親密でまじめなつながりといえばジョーとかロージャー、いやあのジョージのような人間とのもので、とりたてて語るほどのこともない浅薄なつながりでしかなかったのに、わたしはこれをいかにも怠惰で、洗練された、教育のある未婚の女らしく、ひどく尊重していたのだった。しかも何という愚かしいことだろう。それが人生というものだと考えていたのである。わたしも、ただで何かが手にはいると考えるほど愚かではなかった。何かしたければ、それなりの償いをしなくてはならないということはわかっていたのに、気のきいた会話の才とか、わたしの家にそなわっている一種の威信、りっぱなフラットがあってパーティがひらけること、それに美しい脚を所有していることなどで、もうじゅうぶんに償っていると考えていたのだ。

自分が恵まれていること、つまり、人より余分に贈り物をもらっていることに対する「負い目」の感情から、ロザマンドは他人と関わることができない。これ以上、「負い目を負う」ことなどできないと感じているために、「より贈り物の少ない」他人に、なにかをしてもらうこと、厚意を依頼すること、ことばをかえれば、「贈り物」をください、と頼むことができないのである。
ところが子供を産んでからというもの、人と関わらずにすませることなど不可能になる。しかもロザマンドの娘は先天性の病気を抱えていたのである。
これまで疎ましく思っていた両親の社会的地位を利用して、娘は最高の設備が整った病院で手術を受けることになる。
幸いにも手術は成功し、ロザマンドは幼い娘のもとに毎日通うようになる。そうしてそこで重い病気の子供を抱えた母親と出会う。
ロザマンドは、自分と同じように社会的・経済的には恵まれている、けれども、重病のふたりの子供、という過酷な運命を持つ母親に、こう聞かないではいられない。

「ほかの」わたしは口をひらいた。「ほかの人たちのことはどうお考えになる?」
「ほかの人たち?」彼女はゆっくり言った。
「ほかの人たちです」とわたし。「病室へはいることもできない、ほかのお母さんたちのこと。お金のない、顔もきかない人たち。ヒステリーを起こしてみる勇気もない人たち、のことだわ」(…略…)

「前には悩みました」彼女は言った。「はじめてこういうことになったころは、自分のことのように気になりましたわ。(…略…)
でもそのうちに何年もたつと、わたしはけっきょく自分とは関係のないことだ、と考えるようになりました。でも、そうじゃないのよ、ね。わたしの心配事は、わたしの心配事だ、そこまでで終わりです。わたしには、よそのお子さんのことまで心配する体力はありませんわ。よそのお子さんのことはわたしとは無関係なのよ。わたしは自分のことを心配するだけで精一杯です。まず自分と自分の子供のことを考えなかったら、うちの子供たちは生きて行けないでしょう。ですからわたしは、まずうちの子供のことを考えます。ほかの人は、自分で自分の面倒をみればいいのです」

自分が選ぶことのできない「贈り物」は、同時に、自分の抱える重荷でもある。
この「贈り物」がだれとも交換できないように、自分の重荷も交換できない。人は贈り物を受け取ったまま、あるいは重荷を背負ったまま、生き続けるしかない。

家に戻ったロザマンドは、ある日薬局にどうしてもいかなくてはならなくなる。赤ん坊はよく眠っている。寒い戸外に連れ出すわけにはいかない。赤ん坊をひとりきり置いていくのか。悩んだ挙げ句、ロザマンドは、ほとんどつきあいのない階下の住人に、万一火でも出たようなとき、赤ん坊を連れ出してくれるよう頼みにいく。それまで数度しか顔を合わせたことのない、そうしてその印象がかならずしも良いものではなかった階下の住人が、実に快く引き受けてくれる。

エレベーターで下へおりて行きながら、どうしてあれほど親切にしてくれたのだろうとわたしは首をひねり、ふと、二人ともすこし酔っていたからではないか、と思った。しかし、もっとあとになると、彼らがあんなにやさしい態度を見せたのは、こちらがその厚意にすがったのが第一なのだ、ということに気がついた。わたしは正直に窮状を打ちあけたわけだが、自分のほうでは何の苦もなく手を貸せることなら、他人の窮状を見るくらい、やさしい気持をかきたてられるものはないのだ。彼らの親切をけなすわけではない、彼らはたしかに親切だったのだ。

ロザマンドはこれまで一人で自立して生きることに、大きな価値を置く教育を受けてきたし、事実、そうして生きてきた。人より恵まれていることに対する「負い目」は、ますます人を遠ざける。

このロザマンドの姿は、これまで見てきたどの作品の登場人物より、いまのわたしたちに近い。自分でできることは自分でしなさい、人に迷惑をかけるんじゃない、そう教えられたわたしたちは、人にものを頼むこともむずかしい。

「すべてを手に入れるわけにはいかないさ」ジョージは言った。
「そう、それはそうよ。わたしは、確かにほかの人よりたくさん手に入れてるわ」
「ぼくだってそうだ。もっとも、ぼくだって、やはり参るときはあるけどね。ときには、ぼくのワイシャツにアイロンをかけてくれる人がいたらいいだろうなと思うこともあるよ。しかし、そうは思っても、もちろん、やはり自分でやればいいと思うんだ。誰にも負けないくらいじょうずにね。きっと、税金の申告書のことだって、あなたのほうがたいていの男よりよくわかるんじゃないかな。だから、ほんとうは問題ないわけだよ、ね?」

ほんとうに、問題がないのだろうか?
ロザマンドは「贈り物」を贈られる。
贈り主は、ジョージとは言い切れない。もちろん、ジョージを「贈り主」にする選択もあった。「贈り物」を受け取らないこともできた。それでも、ロザマンドは受け取ることにしたのだ。
贈り物であり、重荷でもある赤ん坊を抱えて生きていくロザマンドは、これまでのように自立して人の助けを借りずに生きて行くことは不可能になる。そこで初めて、厚意を求めていってもかまわないのだ、他者に対して絆を求めていってもかまわないのだ、と知ることができた。
けれど、わたしたちはそういうかたちでしか、ほんとうには生きていけないのではないのか。

ロザマンドが、さまざまな出来事を通じてやっと人とのつながりを理解できたように、いまに生きるわたしたちは、人とつながることは自然にできることではないのかもしれない。
それでも、「贈り物」は、わたしたちに、つながっていくことの喜びを教えてくれる。

わたしたちがここにある、からだを持ち、生きている、ということは、根本的には「わたし」のあずかりしらないところで始まった出来事である。だから、わたしたちはどこかで、この自分のからだを、命を、「贈り物」として感じている。

そうして、この「負い目」があるからこそ、それを返すために、誰かに何かを贈ろうとし、相手の喜ぶ顔が見たいと願っているのではないか。わたしたちが誰かに何かを贈りたい、と願う気持ちの根源には、そのことがあるのではないのだろうか。

わたしたちのからだも、命も、やがて贈り主のところへ返っていく。
このからだの、一時的占有者であるわたしたちが、そのあいだにできること。
それは、「自分のことはだれよりもじょうずに自分でやる」のではなく、「負い目」を感じつつそれを返そうとし、また新たな「負い目」を背負い、さらにそれを返そうとする、言葉をかえれば、ひとと「贈り物」のやりとりをしながら、なんとか「善く」生きようとすることだけなのかもしれない。

O.ヘンリーの言葉をもう一度引こう。

わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たちの、なんの変哲もないお話を不十分ながら申しあげたわけである。だが、最後に一言、贈りものをするどんな人たちよりも、この二人こそ最も賢い人たちであったのだと、現代の賢明な人たちに向かって言っておきたい。贈りものをあげたりもらったりする人々の中で、この二人のような人たちこそ最も賢明なのである。

贈り物をしなければ、自分が贈られた宝物を犠牲にする必要もなかった。
けれども、それを犠牲にして、ありったけの「自分」をこめた贈り物に変え、相手に贈る。
それが的はずれだろうと、結果的に役に立たないものであったとしても、相手を思い、自分をこめたぶん、絆は深まっていく。
社会の中で生きるわたしたちは、どこまでいってもそういうやり方でしか生きていけない。
そのことを知っていたデラとジムは、やはり賢者だったのだ。



初出 Aug. 05-12 改訂 Aug. 20, 2006

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