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ここではオルダス・ハクスリーの「ジョコンダの微笑」の翻訳をやっています。
ハクスリーはイギリスの作家・評論家で、第一次世界大戦後から1960年代にかけて活躍しました。この短篇は1922年発表、ハクスリーの第二短編集 "Mortal Coil(浮き世の煩い)"の一編です。
ハクスリーの作品の多くは文学にカテゴライズされるものですが、この短篇はエラリー・クイーンの傑作短篇推理のアンソロジー『黄金の十二』にも所収されるなど、ミステリとしても読まれてきました。ハクスリーの作品のなかでも有名なもののひとつでしょう。
「ジョコンダ」とはレオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」のこと。ジョコンダの微笑は何を秘めているのでしょうか。
原文はhttp://www.bibliomania.com/0/5/100/217/15388/1.htmlで読むことができます。



ジョコンダの微笑


by オルダス・ハクスリー


モナ・リザ

 第一章


「お嬢様は間もなく降りていらっしゃいます」

「ありがとう」ミスター・ハットンは振りかえらないまま言った。ジャネット・スペンス嬢のメイドは、ひどく醜い――故意にそうしているかのように、といつも彼は思うのだった。悪意がこめられているかのように、犯罪的なまでに醜い――ために、どうしても必要なとき以外は、なるべく見ないようにしていたのである。ドアが閉まった。ひとりになったミスター・ハットンは立ちあがって部屋をぶらぶらと歩きながら、見慣れた調度品を眺めては思いに耽った。

 ギリシャ彫刻の写真、フォロ・ロマーノの写真、イタリア絵画の複製、どれもみな無難でよく知られたものである。あわれなジャネット。なんという知ったかぶり、知識人気取りもはなはだしい。ジャネットのほんとうの好みは、通りの絵描きが描いた水彩画なのである。それを半クラウン(※2,5シリング)で買い上げたのだ(そうして35シリングの額に入れた)。その話をいったい何度、聞かされたことか。油絵風石版画の手法がここに生かされているのは驚くばかりです、この美しいこと、などという長口舌を。「街頭の真の芸術家」と言ったときの「芸術家」は、まぎれもなく太字で書いてあった。

 話を聞いていると、かの絵描きの輝くばかりの才能の一端が、オレオグラフもどきに半クラウンを払ったジャネット・スペンスにものりうつったのだろうか、という気がしてくるが、実のところ、自分の趣味の良さと鑑識眼の高さを、暗に自画自賛しているのである。なんとあわれなジャネット。半クラウンの巨匠。

 ミスター・ハットンは小ぶりの細長い鏡の前で立ち止まった。顔全体が映るように上体を屈め、爪の手入れも行き届いた白い指先で口ひげをなでる。カールしたつややかな鳶色の口ひげは、二十年前といささかも変わっていない。髪も豊かな色を保ったまま、禿げそうな予兆はまったく見つけられない――単に額が少々広くなっただけだ。すべすべした額をしげしげと眺めて、ミスター・ハットンは笑顔になると「シェイクスピアふうだな」と考えた。

“たとえ他のものたちは我らが問いに留まるも、そなたのみは自由。……海をゆくその歩み……偉大なり……シェイクスピアよ、そなたこそ、いまこのときに生きておられてほしかった。……”
いや、これはミルトンだったかな? ミルトン、またの名を「クライスト校の貴婦人」。しかし鏡のなかの男は貴婦人のようなところは微塵もない。この男こそ、女たちがいうところの男らしい男だ。だからこそご婦人方はこの男に惚れるのだ――この鳶色の巻き毛の口ひげと、上品なタバコの芳香に。ミスター・ハットンはふたたびほほえんだ。自分のことを茶化しておもしろがっていた。クライスト校の貴婦人だって? とんでもない。彼こそはご婦人方のキリスト。非常に結構。ご婦人向けのキリスト。ミスター・ハットンは誰かにこの冗談を聞かせてやりたかった。残念なことに、あわれなジャネットにはわかるまい。

 背を伸ばし、髪を撫でつけてから遍歴に戻る。忌々しいフォロ・ロマーノ。廃墟のわびしい写真をミスター・ハットンは憎んだ。

 不意に、ジャネット・スペンスが部屋の中にいること、扉の脇に立っていることに気がついた。悪事を働いているところを見つけられたかのようにぎくりとなった。こんなふうに音もなく幽霊のように現れるのが、ジャネット・スペンスの特技のひとつなのである。もしかするとずっと部屋にいて、自分が鏡に見入っているところを眺めていたのか。まさか、そんなことが。だが、それでも気持ちは落ちつかなかった。

「驚きました」ミスター・ハットンは笑顔をつくろうと、握手をするために片手を差し出してそちらへ歩いた。

 ミス・スペンスも微笑んでいる。例のジョコンダの微笑、以前、いささか皮肉を混じえながら、お世辞でそう呼んだことがあるのだが、そのときの表情だった。ミス・スペンスの方はお世辞を本気にしたようで、いつも精一杯ダ・ビンチの絵をまねているのだ。ミスター・ハットンが握手しているあいだも、微笑を浮かべたまま黙っている。それもジョコンダの務めの一部なのである。

「お変わりないようですね」ミスター・ハットンは言った。「お元気そうでなによりです」

 それにしてもこの女は奇妙な顔をしている。ジョコンダにならっておちょぼ口にとがらせた小さな口元は、口笛でも吹こうとしているかのように、真ん中に丸い穴が開いている――まるで真正面から眺めたペン軸だ。口の上には形のいい鼻、微妙に鈎型を描いている。目。大きな、輝く、漆黒の目。その大きさも輝きも黒さも、ものもらいを蒙り、ときおりは充血することもあるのだろう。美しい目、だが、いつ見ても同じ、深刻ぶった目だ。ペン軸がジョコンダに見せようとする苦心であったにせよ、目のしかつめらしさは、持ち前の、変わることのないものなのだ。その上には眉墨で描かれたくっきりとした弧、そのせいで顔の上部はローマの貴婦人さながらの、驚くほどの力強さが感じられる。黒い髪もまたローマ人を思わせる。眉から上はさしずめ皇帝ネロの母堂、アグリッピナか。

「帰る途中、ちょっとおうかがいしてみようかと思いましたので」ミスター・ハットンは続けた。「実際、こちらに戻ってくるのは良いものです」――手を泳がせて、花瓶の花だの、窓の外の陽光や繁る木々を示す――「街で仕事をして息苦しい一日を過ごしたあと、郊外に帰ってくると生き返るようだ」

 先に腰をおろしていたミス・スペンスは、動作で彼にも傍らの椅子をすすめた。

「残念ですが、座っているような暇はないのです」ミスター・ハットンは断った。「かわいそうなエミリーの具合を見に、急いで戻ってやらなくては。今朝はいささか調子が悪いようだったので」そう言いながら、腰をおろす。「例のいまいましい肝臓の冷えというやつです。いつも妻はそれにやられていましてね。女というものは……」急に言葉を切って、自分が口にしかけたことをごまかそうと咳払いした。消化機能に難がある女は結婚すべきではない、と言おうとしたのである。だがそれはあまりに残酷な考え方ではあるし、第一彼自身からしてほんとうにそう思っているわけでもないのだ。さらにジャネット・スペンスときたら“健全な肉体に健全な精神宿る”を信奉している女なのだから。「でも、妻は明日の昼食には、あなたとご一緒できるぐらいには体調が良くなっているだろうと思ってますよ。ですからいらっしゃいませんか。ぜひ」笑顔を浮かべて説き伏せようとした。「もちろんわたしもそう願っていますよ」

 彼女は視線を落とし、ミスター・ハットンの目には、頬が赤く染まったのさえ見えたような気がした。こいつは感謝のしるし、ということか。彼は口ひげをなでた。

「エミリーの容態が、おじゃましてもさしつかえないほど良いとお考えでしたら」

「もちろんですよ。あなたがいてくだされば、妻の気も晴れる。結婚生活というのは、ふたりよりは三人の方がうまくいくことも少なくない」

「シニカルな方ね」

 ミスター・ハットンはシニカル、すなわち犬儒派という言葉を聞くと、いつも「ワン、ワン」と吠えたくなってしまう。これほどいらいらさせられる言葉もない。だが、吠えるかわりに速やかに訂正した。

「とんでもない。私が言いたいのは悲しむべき真理ですよ。現実はかならずしも理想通りにはいかないものです。かといって私が理想の存在をいささかでも疑っているわけではないのですが。実際、熱烈に信奉しているといってもいい。ふたりの人間の完全な調和という結婚生活の理想をね。それは実現しうるはずだ。そう確信してはいるのですが」

 意味ありげに言葉を切ると、いたずらっぽい表情でジャネットに目を向けた。三十六歳の処女、とはいえ、いまだ枯れてはいない。独特の魅力はあるのだ。おまけに、実際、この女にはよくわからないところがある。ミス・スペンスは何も言わず、相変わらず微笑みを浮かべているだけだった。ときどきこのジョコンダにはうんざりさせられる。彼は立ちあがった。

「もうお暇しなくては。ごきげんよう、ミステリアスなジョコンダ」

 その微笑みはさらに熱烈なものとなり、まるで全神経がおちょぼ口の先に集中したかのようだった。ミスター・ハットンは16世紀のイタリア人のような仕草で、彼女が差し出した手にキスをした。こんなことはいままでしたことがない。だがそれに対して気分を害したようすはない。「明日、お目にかかるのを楽しみにしています」

「ほんとうかしら」

 返事をする代わりにもう一度、手にキスをして、踵を返した。ミス・スペンスは玄関のところまでついてきた。

「お車はどこですの?」

「屋敷に入る道の手前に置いています」

「そこでお見送りしましょう」

「いやいや」ミスター・ハットンは冗談めかした口調で、だがきっぱりと断った。「そういうことをしてはいけません。あなたがそんなことをしちゃいけない」

「だって行きたいんですもの」ミス・スペンスは、ちらりとジョコンダの微笑を見せて言い張った。

 ミスター・ハットンは片手をあげた。「だめといったらだめです」もういちどそういうと、投げキスと見まごうばかりの仕草をしてから、道を駆けおりていった。つま先で駈けていく軽やかな足どり、大股で、はずむような足どりは少年のようだ。走っていく自分が誇らしかった。まったくたいした若さじゃないか。とはいえ門まで、それほど遠くないのはありがたかった。最後の曲がり角で、屋敷が視界から外れる前に、立ち止まって振り向いてみた。ミス・スペンスはまだ段の上に立ち、例の微笑を浮かべている。彼は手を振ると、それから今度は誰が見てもわかるようなおおげさな身ぶりで、そちらに投げキスを送った。それからもう一度、見事な健脚を見せて、薄暗い木立の端を曲がっていった。屋敷が視界から外れると、ペースをゆるめ、早歩きに、やがて通常の歩く速さまで落とす。ハンカチをとりだして、襟の内側の汗をぬぐった。馬鹿だ。まったくの馬鹿だ。あのあわれなジャネット・スペンスほどの馬鹿者がこれまでにいただろうか。いるはずがない――このおれを除けば。おれがさらに始末に負えない馬鹿者であることはまちがいない。なにしろおれは自分が馬鹿なことをしていると気がついていながら、それをやめようともしないのだから。なぜこんなことを続けているのだろう。ああ、それはこのおれ自身が問題だからだ。同じように、ほかの人間にも問題があるからだ……。

 彼は門のところにやってきた。大型の立派な車が道路の端に停まっている。

「家へ帰る。マクナブ」運転手は帽子に手をあてた。「それから、十字路のところで停めてくれ、いつものように」ミスター・ハットンはつけ加えると、車のドアを開けた。「さて、と」彼が話しかけたのは、中にいる黒い影だった。

「もう、クマちゃんってば、すごく遅いんだもの」生き生きとした子供っぽい声が聞こえてきた。母音の発音に、かすかなロンドンの下町訛りがある。

 ミスター・ハットンは長身を折ると、巣穴に入る動物さながらの俊敏な動作で、車の中へさっとすべりこんだ。

「そうだったかい?」ドアを閉めながら言った。車が動き出す。「ぼくがいなくて寂しかったから、そんなふうに長く感じたのさ」シートに背をあずけ、深々と身を沈めた。心地よいぬくもりが身を包む。

「クマちゃん……」満ち足りたため息がひとつ聞こえたかと思うと、かわいらしい小さな頭がミスター・ハットンの肩に乗った。思わずうっとりとなって、斜め上から丸い童顔を見おろした。

「ドリス、きみはルイーズ・ケルアイユの肖像画にそっくりだ」ふさふさとした巻き毛を指で梳いてやる。

「どのひと、そのルイーズ・ケラ……なんとかって」ドリスの声ははるか遠くから聞こえてくるようだ。

「昔の人さ、もういない。私たちはだれでもいつかそのうち過去形で語られるようになるんだよ、そのうち……」

 ミスター・ハットンは子供っぽい顔になんども口づけた。車はすべるように先を急いでいく。目の前のガラスの向こうにあるマクナブの背は、石のように無表情、まるで彫像の後ろ姿のようだった。

「あなたの手」ドリスがささやいた。「ダメ、わたしにふれないで。電気にさわったみたいにビリッと来るから」

 ミスター・ハットンには、処女らしく稚いその言葉がことのほか愛おしく思えた。人間が生まれてから自分の身体に目覚めるまでに、いったいどれほど時間がかかることか。

「電気はぼくのなかにあるのではなくて、君のなかにあるんだよ」彼はもう一度キスして、何度も名前をささやいた。ドリス、ドリス、ドリス。ウミケムシの学名はなんだったかな。さしだされた喉元、白い、剥きだしにされた、ナイフが当てられるのを待っている生け贄の喉元。そこにキスをしながら彼は考えていた。ウミケムシは玉虫色の毛に覆われたソーセージだ。ひどく奇妙な。あるいは、ドリスはナマコ、驚くと、内と外がひっくり返るナマコかもしれない。どうにかしてまたナポリへ行かなくては。水族館だけでも見てくるのだ。海の生物というのはすばらしく、信じられないくらいに不思議なのだから。

「ああ、クマちゃん……」(こんどは動物学か。おれときたら所詮、陸の動物なのか。なんとバカバカしいジョークだ)「クマちゃん、わたし、すごく幸せ」

「ぼくもそうだよ」ミスター・ハットンはそう言う。本当に?

「だけど、これが悪いことじゃない、って思えたらいいのに。ねえ、教えて、クマちゃん、これはいいこと、それともまちがってるの」

「かわいいお嬢さん、ぼくも三十年前からそのことはずっと考えてるのさ」

「ふざけないで、クマちゃん。わたし、ほんとうに悪いことじゃないって知りたいの。わたしがここにあなたとこうしていて、わたしたちが愛し合っていて、そうして、あなたがわたしにふれると電気が流れたみたいになるのが、いいことなのかどうか」

「いいことか、だって? 性的抑圧より電気が流れたみたいになるほうがずっといいに決まってるじゃないか。フロイトを読むんだな。抑圧は悪魔のようなものだ」

「そんなこと教えてくれても何にもならないわ。どうして真剣に聞いてくださらないの? ときどき、どうしようもないくらいにみじめな気分になってしまうこと、ちょっとでいいからわかってくれたらいいのに。ねえ、たぶん、地獄とかそういうものがあるんだわ。どうしたらいいのかしら。ときどき、もうあなたを愛するのをやめようと思うのよ」

「それができるのかな?」自分の誘惑の手管と口ひげの魅力に自信満々のミスター・ハットンはそう尋ねてみる。

「ダメなの。クマちゃんだって、わたしにそんなことできないのは知ってるでしょ。だけど、逃げることならできるかも。あなたから隠れてしまおうかしら。自分を閉じこめて、あなたのところへ行けないようにするの」

「かわいいおバカさん」彼は抱きしめる腕に力をこめた。

「ああ、ほんとにねえ、これが悪いことじゃなかったらいいのに。だけど、ときどき、そんなことどうだってよくなってしまう」

 ミスター・ハットンはひどく心を動かされた。このかわいい生き物を護り、慈しんでやりたい。自分の頬を彼女の髪に押し当てて、しっかりと抱き合ったまま、黙ってすわっていた。車が加速したために上下左右に軽く揺れ、白い道と埃っぽい生け垣が猛然たる勢いでたぐりよせられていく。

「さよなら、さようなら」

 車は動きだし、加速すると、カーヴを回って消えた。ドリスは十字路の標識のところに取り残された。まだ目がくらむような感覚、ものうくけだるい感覚が残っているのは、あの何度も受けた口づけと、優しい手がふれたときに流れた電気のせいだ。深呼吸をひとつして、おもむろに背筋を伸ばすと、なんとか家へ向かって歩を進める力が湧いてきた。これから1キロ近く歩いて帰らなければならないし、そのあいだにもっともらしい嘘も考えておかなくては。

 ひとりになったミスター・ハットンは、急に耐えがたいほど退屈な気分に襲われているのに気がついた。


 第二章


 ミセス・ハットンは、自室のソファに横になって、ソリティアをやっていた。七月の暑い宵というのに、暖炉には薪が燃えている。黒いポメラニアンは、熱気と消化不良でぐったりとして、火の前で眠りこけている。

「ふう、この部屋は暑くないか?」部屋に入ったミスター・ハットンは聞いてみた。

「わたしがいつも暖かくしてなきゃいけないのはごぞんじでしょ」それだけでもう泣き出さんばかりの声である。「寒気がするのよ」

「今夜は少し調子が良さそうだね」

「そんなことないんですのよ」

 会話ははずまなかった。ミスター・ハットンはマントルピースにもたれて立つ。足下に寝そべるポメラニアンを見おろすと、ブーツをはいた右足の先で、小さな犬を転がしてやり、白い斑のある胸と腹をさすってやった。犬は気だるげにうっとりとした顔で寝そべっている。ミセス・ハットンはソリティアを続けていた。手詰まりになると、カードの位置を変え、別の一枚を戻すと続けた。彼女のやるソリティアはいつでもあがるのだ。

「リバード先生は、今年の夏はランドリンドッド・ウェルズに保養に出かけた方がいい、っておっしゃったわ」

「行けばいいじゃないか。行きなさい」

 ミスター・ハットンはその日の午後のことを思いだしていた。ドリスと自分がうっそうと繁る森までドライブしたあいだのこと。車を木陰に待たせたまま、風のない、日の降り注ぐ白亜の丘陵地帯を散歩したこと。

「温泉地の水を飲むのがわたしの肝臓にはいいんですって。リバード先生は、マッサージをしてもらったり、電気療法も受けた方がいいともおっしゃってらしたわ」

 帽子を手にドリスが忍び足で近寄った先には、四頭の青い蝶がいた。蝶はマツムシソウのまわりをゆらめく青い炎のように、ひらひらと羽ばたいている。青い炎はぱっと立ちのぼったかと思うと、火花となってふわふわと飛び散る。ドリスはそれを追いかけて、笑いさざめいた。まるで子供のように。

「きっとそうすれば体調も良くなるよ」

「あなた、一緒に来ていただけない?」

「今月の終わりはスコットランドに行かなくちゃならないのはきみも知っているだろうに」

 ミセス・ハットンは懇願するような目で見上げた。「旅行なんですもの」彼女は言った。「そんなこと、考えるだけで悪夢だわ。旅行なんてとうていできるとは思えないのよ。それに、わたしがホテルだとよく眠れないのもご存じでしょう。ほかにも荷物だのなんだの、心配事は山のように出てくるし。ひとりではとても行けないのよ」

「ひとりじゃないじゃないか。メイドを連れて行くのだし」彼の言葉は、苛立ちがこもっていた。病気の女が、健康な人間の領分まで侵害しようとしている。彼の意識は光にあふれた丘や、素早い身のこなしと笑顔の娘の記憶から引き離されて、病のたれこめる暑すぎる部屋と、そのもちぬしに戻されていた。

「わたしには行けそうもないわ」

「だけど行かなくちゃ。医者がそういうんだったら。だいいち、気分転換というだけでいいじゃないか」

「そんなふうに考えられないの」

「そんなことを言ったって、リバード先生はそうしたほうがいい、って言ってるんだろう、先生だって理由もないのにそんなことを言うわけがないじゃないか」

「だめなの。わたしにはそんなことできません。わたし、ほんとうに病気が重いのよ。ひとりじゃとても行けそうにないんです」ミセス・ハットンは、黒い絹の袋からハンカチを引っぱりだして、目を押さえた。

「馬鹿なことを。少しは自分でやってみなくちゃ」

「ここに残って安らかに死んだ方がいいのよ」ここにいたって、彼女はさめざめと涙に暮れた。

「馬鹿な。少しは筋道立てて考えてみろよ。ちゃんと聞いてくれ。頼むから」ミセス・ハットンのむせび泣きははげしくなるばかりである。「いいかげんにしてくれよ。どうしろっていうんだ」肩をすくめると、彼は部屋をでていった。

 ミスター・ハットンにも、もっと忍耐をもって相手をしてやる必要があったのはわかっていた。だが、どうにもならなかったのだ。二十歳になってまだ間がないころ、自分が貧しい人々や病人、障害のある人や、体に不具合のある人に対して同情を感じるどころか嫌悪しか感じないことを知った。学生時代、イースト・エンドの社会救済施設で三日間を過ごしたのだ。戻ったときには、体の隅々まで耐えがたいほどの嫌悪感に満たされていた。憐れむかわりに、不幸な人びとを忌み嫌った。それが好ましい感情ではないことはわかっていたから、最初のうちはそういう自分を恥じた。だが、結局はそれも気性なのだ、どうしようもないのだ、と割り切ることにして、それ以上は良心の呵責を感じることをやめてしまった。エミリーも結婚当初は元気だったし美しかった。そのころには愛もあったのだ。だがいま――彼女がああだからといって、それが彼のせいなのだろうか。

 ミスター・ハットンはひとりで食事をした。食べたり飲んだりしたことで、食事の前よりも、いたわりの気持ちが生まれていた。さっき見せてしまった苛立ちの埋め合わせをしようと妻の部屋へ上がり、本を読んであげよう、と申し出てた。彼女が感激し、たいそううれしそうに、そうしてくださいな、と言ったので、ミスター・ハットンはとりわけ発音に自信のある、フランス語の軽い読み物はどうかね、と聞いてみた。

「フランス語? わたし、フランス語って大好きですの」ミセス・ハットンはラシーヌの言語を、まるでグリーンピース料理か何かのように言った。

 ミスター・ハットンは書斎に駆けおり、黄色い本を一冊抱えて戻ってきた。彼は読み始めた。完璧な発音をしようと心を砕くうち、いつしか夢中になっていた。それにしてもなんと美しい発音だろう。発音がすばらしいせいで、小説まですばらしく思えてくる。

 15ページの最後の方で、聞き間違いようもない音が彼の耳をとらえた。顔をあげると、ミセス・ハットンは眠りこけている。しばらくそこに座ったまま、冷ややかな好奇心でその寝顔を眺めた。かつては美しかったのに。昔、もうずいぶんと前のこと、ひと目見るだけで、思い起こすだけで、心の奥底が震えたものだ。そんな思いはおそらくそれ以前には、そうしてそれからあとも、味わったことがなかった。いまやその顔は皺が深く、やせ衰えている。頬骨に皮膚が張りつき、両の頬に橋を架けているのは鋭い、鳥の嘴のような鼻だ。閉じた目は骨に囲まれた深い穴の底。ランプの灯りが横顔を照らし、光と影で顔の凹凸をいやがうえにも強調していた。ルイ・ド・モラレスが描いた死せるキリストの顔のようだ。

髑髏は見ることをしない
異教徒たちが芸術に酔いしれ、幸せな時を過ごしているうちは

(※テオフィル・ゴーティエの詩「賭けと墓」の冒頭)

 小さくおののくと、静かに部屋を出た。

 つぎの日、ミセス・ハットンは昼食におりてきた。夜半、気持ちの悪い動悸がしたが、いまはずいぶん調子がいい。それにお客様に対して失礼のないようにしなくては、と思うところもあった。ミス・スペンスは、ランドリンドット・ウェルズについてこぼすミセス・ハットンに耳を傾け、仰々しく同情を並べ立て、アドバイスの雨を降らせている。何を話しているときだろうとミス・スペンスは熱烈な調子でしゃべるのだった。身を乗り出し、狙いを定め、いわば銃でも撃つように、言葉を発射するのである。バン! 胸の内の導火線に火がつくと、言葉が細い銃身をヒュッと押し出されて、彼女の口から発射される。女主人を同情の言葉で蜂の巣にするマシンガンだ。ミスター・ハットンも似たような爆撃を受けた経験が何度かあるが、たいがいは文学者や哲学者に関してだった――メーテルリンク砲、ミセス・アニー・ベサント砲、ベルクソン砲、ウィリアム・ジェイムズ砲。今日のミサイルは医学である。ミス・スペンスは不眠症についてまくしたて、無害な麻薬の効能や、専門医がいかに良い結果をもたらすかの高説を開陳しているところだった。集中砲火を浴びながら、ミセス・ハットンは太陽の下で花が開くように、心を開いていたのだった。

 ミスター・ハットンは黙ってそれを見ていた。ジャネット・スペンスは飽くなき好奇心をかきたてる。もはやロマンティックとは言いがたい彼は、どんな顔でも内側に、美や不思議さを秘めたもうひとつの表情を隠している、と想像したり、女たちのちょっとした話を、謎めいた深い淵にかかる靄のように感じたりすることはなかった。たとえば、彼の妻にしても、ドリスにしても、見たままの人間で、それ以上の何ものでもない。だが、ジャネット・スペンスはどこか、そうではないものをもっていた。ジョコンダの微笑とローマ風の眉の下に、ある種の奇妙な顔が秘められているのはまちがいない。問題はただひとつ。そこにあるのはいったい何なのか。ミスター・ハットンにはそれがわからないでいた。

「たぶんランドリンドット・ウェルズにはいらっしゃらなくてもすむのじゃなくて?」ミス・スペンスは言っていた。「早く元気におなりあそばせ。そうしたらリバード先生も無罪放免してくださることよ」

「そうだといいのだけれど。今日はほんとうにずいぶんいいみたいなのよ」

 ミスター・ハットンは自分を恥じた。自分がもうすこしいたわってやりさえすれば、毎日、妻もどれほど気持ち良く過ごせることだろう。だがそれは単に気分の問題に過ぎない。容態が好転するわけではないのだ、と自分をなぐさめた。同情で肝臓の病気や弱った心臓が治れば世話はない。

「ぼくだったらそのスグリは食べないがな」突発的な親切心を起こして、彼は声をかけた。「リバードも皮と種があるものは一切、手をつけないように、と言っていただろう?」

「だってわたし、大好きなんですもの」ミセス・ハットンは言うことを聞こうとしなかった。「それに今日はとても気分がいいんですから」

「亭主関白はダメよ」ミス・スペンスは、まず彼の方を、つぎに妻の方を見てから言った。「おかわいそうな病気の方なんですから、お食べになりたいものを召し上がればよろしいじゃありませんの。結局それが健康にも良いのではありませんこと?」手をミセス・ハットンの腕にのせて、二、三度、なだめるように軽く叩いた。

「どうもありがとう」ミセス・ハットンは好物の煮たスグリを口に運んだ。

「おやおや、それでまた気分が悪くなっても、ぼくに当たらないでくれよ」

「あら、わたしが一度だってあなたのせいにしたことがありましたかしら?」

「ぼくのせいにしようったってできやしないさ」わざと冗談めかしてそう言った。「ぼくは完璧な夫なんだから」

 昼食が終わると、三人は庭に出て座った。古い糸杉の木陰が作る島から、広がる芝生、そこにしつらえられた花壇が金属のように輝くのを眺めた。

 ミスター・ハットンは暖かくかぐわしい空気を胸一杯に吸いこんだ。「生きるというのはすばらしいことだね」

「ただ、生きているというだけで」妻も言葉を合わせ、青白い、関節の飛び出した手を、日差しの中にさしのべた。

 メイドがコーヒーをもってきた。銀のポットと小さな青いカップが、椅子の傍らの折りたたみテーブルの上に並べられる。

「あら、お薬!」ミセス・ハットンは悲鳴をあげた。「走って取ってきてちょうだい、クララ。サイドボードの上にある白い瓶よ」

「ぼくが取ってこよう」ミスター・ハットンが言った。「何にせよ、タバコを取ってこなきゃならないんだから」

 彼は家に向かって走った。敷居のところで、ちょっと振り返ってみた。妻はデッキ・チェアにすわったまま、なんとか白いパラソルを拡げようと悪戦苦闘している。ミス・スペンスはテーブルにおおいかぶさるようにして、コーヒーを注いでいるところだった。彼はひんやりと薄暗い家の中に入っていった。

「コーヒーにはお砂糖を入れた方がよくって?」ミス・スペンスが聞いた。

「ええ、お願い。少し多めに入れてくださらない? お薬を飲んだあと、口直しにいただきたいの」

 ミセス・ハットンは椅子に身を預け、日よけを目の上までおろして、輝くような青い空が目に入らないようにした。

 背後で、ミス・スペンスのコーヒー・カップをかきまぜる微かな音が聞こえる。

「山盛り三杯入れておきましたからね。きっとお薬の苦みも感じなくなるはずだわ。あら、お薬が来たようよ」

 やってきたミスター・ハットンが持っているワイングラスには、半分ほど青い液体が入っている。

「いい匂いだ」そう言いながら、妻にそれを渡した。

「ただ香り付けがしてあるだけ」ひと息に飲み干すと、身震いして、顔をしかめた。「うう、まずい。コーヒーをちょうだい」

 ミス・スペンスがカップを渡した。ミセス・ハットンはそれをすすった。「あら、あなた、シロップみたいにしてしまわれたのね。だけど、ちょうどよかったわ、あのひどいお薬のあとなんですもの」

 三時半になったところで、ミセス・ハットンは急に気分が悪くなった、と言いだして、中に入って横になることになった。夫はスグリのことをひとこと言ってやりたがったが、思いとどまった。虚しい勝利感を味わったところでしかたがない。そのかわりに思い遣りのあるところを見せようと、家まで腕を貸してやった。

「ひと休みしたら気分も良くなるさ」彼は言った。「それはそうと、今日は夕食がすむまで帰らないよ」

「でも、どうして? どこへいらっしゃるの?」

「今夜、ジョンソンと約束してるんだ。戦没者記念碑についてちょっと話し合おうと思って」

「まあ、お出かけになるなんて」ミセス・ハットンは涙を流さんばかりだった。「いっしょにいてくださるわけにはいかないの? わたし、家にひとりでいるのはたまらないわ」

「でもね、何週間も前に約束してしまったんだよ」こんなふうに嘘をつかなければならないことがうんざりだった。「それに、いまはあっちへ戻ってミス・スペンスの相手をしてやらなけりゃ」

 彼は妻の額にキスをして、また庭へ降りていった。ミス・スペンスは待ちかまえた、神経を張りつめたようなようすで彼を迎えた。

「奥様はずいぶんお悪いご様子ですわ」さっそくミス・スペンスの言葉の砲撃が始まった。

「あなたが来てくださったおかげでずいぶん元気が出たようです」

「それもただ単純に神経のせい、神経が高ぶっていただけですわ。わたし、近くで観察していました。心臓があんな状態で、消化器官がぼろぼろだったら――そう、ぼろぼろと言っていいでしょうね――もう何が起こっても不思議はないでしょう」

「リバートはあわれなエミリーの容態のことをそこまで悲観的には見ていないように思いますが」ミスター・ハットンは庭から私道に通じる門を開けて、手で押さえた。ミス・スペンスの車は表門の脇に停めてある。

「リバードなんてただの田舎医者じゃありませんか。専門医にお見せにならなくては」

 彼は笑いをこらえられなかった。「あなたの専門医に対するご執心にはただならぬものが感じられますよ」

 ミス・スペンスは抗議の意をこめて片手をあげた。「わたし、真剣なんですのよ。かわいそうなエミリーはたいそうお悪いのですわ。いつなんどき何が起こるかわからないほど」

 手を取って車に乗せてやると、彼はドアを閉めた。運転手はエンジンをかけてから運転席に腰を下ろし、いつでも動き出せる態勢を整えた。

「車を出すようにぼくから言ってあげましょうか?」これ以上会話を続けるのはごめんだ。

 ミス・スペンスは身を乗り出して、彼に向かってジョコンダの微笑を投げかけた。「すぐにまたいらっしゃっること、お忘れにならないで」

 事務的に笑顔を返して丁重に別れの挨拶を言い、車が動き出すと手を振った。ひとりになれたのがうれしかった。

 数分後には、ミスター・ハットン自身が車上の人となっていた。ドリスが十字路で待っている。ふたりは屋敷から30キロも離れた沿道のホテルで食事を取った。まずいくせに高い、車を乗り回す連中が立ち寄る田舎のホテルでよく出てくるような食事である。ミスター・ハットンは胸が悪くなりそうだったが、ドリスにはそれもおもしろいようだった。彼女は何でもおもしろいのだ。ミスター・ハットンはあまり好ましからざる銘柄のシャンパンを注文した。今夜は書斎で過ごせば良かった、と後悔していた。

 帰路についたときのドリスは、少し酔っており、愛情をふりまくのにためらいがなかった。車の中は真っ暗だったが、微動だにしないマクナブの背中の向こうに、ヘッドライトの光が闇から切りとった世界が、明るく細長く浮かびあがっていた。

 ミスター・ハットンが家に着いたのは十一時をまわっていた。リバード医師が玄関ホールにいた。小柄で繊細な手をし、女性的といっていいほど整った顔立ちの人物である。大きな茶色い目は憂いの色を浮かべていた。いつも患者のベッドの傍らに長いあいだ腰をおろして、目に悲しそうな色を浮かべ、悲しげな低い声で、とりとめのない話をしているのだ。彼の人柄からは、心地よい香りが漂っていた。消毒剤にはちがいないのだが、同時にそれは上品でひかえめな芳香だった。

「リバード先生」ミスター・ハットンは驚いた。「どうしてここにあなたが? 妻の具合が良くないのでしょうか」

「ずっとあなたをつかまえようとしていたのです」柔らかでもの憂い声が答えた。「ミスター・ジョンソンのお宅だとうかがっていたのですが、あちらではあなたのことは何も聞いてないとのことでした」

「身動き取れなかったんです。車が故障してね」ハットンは苛立った。嘘がばれたときの気分はたまらない。

「奥様はあなたにたいそうお会いしたがっておられました」

「じゃあすぐに行ってやります」ミスター・ハットンは階段に向かおうとした。

 リバード医師は片手を彼の腕にかけた。「もう手遅れです」

「手遅れだって?」腕時計をさぐったが、なかなかポケットから出てこない。

「ミセス・ハットンは三十分前にお亡くなりになりました」

 その声は穏やかなまま、憂鬱な目もその色を濃くするということもなかった。リバード医師は死の様子を、地元のクリケットの試合について話すように語った。あらゆることどもはみな等しく虚しく、また等しく嘆かわしい。

 ミスター・ハットンは、ふと自分がジャネット・スペンスの言葉を反芻しているのに気がついた。いつなんどき――いつなんどき。これ以上はありえないほどに、彼女は正しかった。

「何でそうなったんです?」彼はたずねた。「何がいけなかったんですか?」

 リバード医師は説明した。激しい嘔吐の発作に襲われたために、心臓が衰弱したこと、その嘔吐は何か刺激物を食べたことによって引き起こされたこと。スグリではありませんか? ミスター・ハットンは言ってみた。おおいにありうることです。心臓には負担がかかる。慢性的な弁膜症がありましたからね。どこかがもう緊張に耐えられなくなってしまったのです。すでに手の施しようもありませんでした。ほとんど苦しまれることもなかったでしょう。


 第三章


「葬式がイートンとハーローの試合の日に当たるとは生憎でしたな」グレゴ将軍が立ったままそう言うのが聞こえた。シルクハットを片手に、墓地の門の影の下、ハンカチで顔の汗をふいている。

 ミスター・ハットンはその言葉を耳にし、将軍をとことん痛めつけてやりたい、という気持ちをかろうじて抑えた。あの老いぼれのけだものの大きな赤ら顔のど真ん中を殴りつけてやることができたら。あの赤ら顔、馬鹿でかい桑の実の化け物には食べかすまでついているじゃないか! 死者に対する敬意さえ持つ気がないのか。誰も気にしてもいないのか? 理性の上では彼もたいして気にかけているわけではなかったのである。死者をして死者を葬らしめよ、である。だが、墓地にやってきたいまは、むせび泣いている自分に気がついたのだった。かわいそうなエミリー。かつてはほんとうに幸せだったのに。いまや地下二メートルの穴の底に横たわる。そうしてここでグレゴがイートンとハーローの試合を見に行けないといって文句をたれている。

 ミスター・ハットンは喪服の群れを眺め渡した。人びとは教会墓地からゆっくりと押し出され、外の道路に停めてあるタクシーや自家用車の方へ散っていく。七月の咲き誇る草や花のかがやかしい背景と人びとの姿は、あまりにも不釣り合いで不自然だった。連中もそのうち死んでいくのだ。そう思うと彼の気分も良くなった。

 その夜、ミスター・ハットンは夜遅くまで書斎でミルトンの生涯を読んでいた。ミルトンを選んだことにとりたてて理由はない。最初に手がふれたのがその本だったというだけの話である。読み終えたときには真夜中を過ぎていた。肘掛け椅子から立ちあがり、フランス窓を開けて、小石を敷きつめた小さなテラスへ出た。星を眺め、星と星のあいだの暗闇を眺め、目を落として、庭のほの暗い芝生と色を失った花に目をやった。さらに視線は、月明かりの下、黒と灰色に染まった遠い風景をさまよっていった。

 はっきりしない、なにがなし荒んだ気分のまま、思いがかけめぐり始めていた。星があり、ミルトンがいる。人間はともかくも星や夜と同等のところまでいくことができるのだ。偉大であることにおいて、崇高であることにおいて。だが、崇高さと卑劣さのあいだには、どうしようもないほどの隔たりがあるものだろうか。ミルトン、星、死、自分自身――このおれ自身。魂、肉体。高貴な資質と低劣な本性。おそらく、結局のところそこには何かがあるのだ。ミルトンは神を味方にし、道徳観念をみずからのものとした。ではこのおれには何があるのか。何もない。まったく、何もない。ドリスの小さな胸だけだ。いったい何の意味があるのか。ミルトン、星、死、墓のなかのエミリー。ドリス、そうしてこの自分――いつだって自分、自分だ……。

 ああ、自分など無益な、唾棄すべき存在だ。あらゆることがそう告げているではないか。厳かな一瞬だった。彼は声に出して言った。「自分はやる。やってみせる」闇の中で聞こえる自分の声に愕然とした。自分が神々さえもがんじがらめにするほどの、地獄の誓いを立てたように聞こえたのである。「自分はやる。自分はやってみせる」これまでにも新年や重大な記念日に、同じように悔い改め、同じように決意を書き留めたことはあった。だがこうした志はいつのまにか痩せ、煙のようにはかなくなってしまうのがつねだった。だがこんどばかりは重大な潮時、恐怖を覚えるほどの誓いを立てたのである。未来はちがうはずだ。そう、自分は理性に基づいた生き方をするのだ。勤勉になり、欲望に歯止めをかけ、人生を何か正しい目的に捧げるのだ。決意は固まったし、あとは実行あるのみだ。

 具体的には、午前中は農業に充てることにすよう。管財人と一緒に馬に乗って見回りをし、土地が最新・最高の方法で耕作されているかどうか確かめるのだ。サイロ、人工肥料、連作、そうしたことが実施されているかどうか。残った時間は重要な研究に費やす。ずっと書こうと温めていたテーマもあるのだ。――『文明に対する疾病の影響』

 ミスター・ハットンは謙虚な、悔い改めた心持ちでベッドに入った。反面、神の恩寵を我が身に受けているようにも感じられたのである。七時間半眠り、目覚めたときには太陽が照り輝いていた。夜のあいだの十分な休養のおかげで、もちまえの快活な気分がよみがえり、昨夜呼び覚まされた感情は影を潜めていた。しばらくたってからでないと、志をたてたこと、地獄の誓いをたてたことも思いだせなかったぐらいだった。ミルトンも死も、陽の光の下ではどこかちがっているようだ。星も、いまは天にはない。だが、確かに決意というのは良いものである。日中でもそれははっきりと感じられた。朝食後、馬に鞍をつけさせ、管財人と一緒に農場の見回りをした。昼食後はトゥキュディデスの手によるアテネにおける疫病の記述を読んだ。夜には南部イタリアのマラリアについて、ノートをいくらか取っていった。服を脱ぐ途中でスケルトンの笑話集のなかに「粟粒熱」についてのおもしろいエピソードがあったのを思いだし、鉛筆が見つかれば書き留めておいたのに、と残念だった。

 新しい人生が始まって六日目の朝、ミスター・ハットンは郵便物の中に、一通の封筒が混ざっているのを見つけた。癖のある下手な筆跡は、ドリスのものにちがいない。封を切って、読み始めた。ドリスはふさわしい言葉さえ知らないらしい。言葉遣いもひどくおかしかった。奥様があんなに死ぬなんて――あんなに突然――、すごく怖ろしいです。ミスター・ハットンはため息をついたが、目を通すうちに次第に興味がわいてきた。

死っていうのはすごくこわいです。あたしはそうしないでいられるときは、考えないようにしてるんです。だけど何かが起こったり、あと、あたしが病気だったり、落ちこんじゃったりしてるときは、やっぱり死ぬことってすごく身近なことなんだって思いだすんです。そうして、あたしがこれまでにやった悪いことを全部考えるし、あなたとあたしがやったことや、これからさきどうなるか、みたいなことを思って、とっても怖くなるんです。あたしはとてもさびしい。それに、クマちゃん、すごく不幸です。どうしたらいいかわからないんです。死んでしまうことを考えずにはいられない。一緒にいてくださらないと、すごくみじめな気持ちです。手紙なんて書くつもりじゃなかったの。喪が明けて、あたしのところへまた会いに来てくださるまで、待ってるつもりだったんです。だけど、あんまり寂しくてみじめだったから、クマちゃん、あたしね、書かずにはいられなかった。ごめんなさい。あなたにすごくいてほしいの。あたしには、だれもいない。あなた以外には。あなたはすごくいい人で、優しくて、いろんなことをわかってくださる。あなたみたいな人はほかにはいないわ。あたし、あなたがどんなに優しく、親切にしてくれたか、絶対に忘れない。あなたはそんなに頭が良くて、いろんなことをいっぱい知ってて、なのにどうしてあたしなんかを気にかけてくだすったんだろう、って、あたしにはよくわからない。だって、あたしったらこんなに鈍くてバカなんだもの。なおさら、好きになったり、愛してくださったりするなんて。それはほんとにあたしのこと、ちょっとは愛してくださってるからなのかしら。クマちゃん、ほんとに?

 ミスター・ハットンは羞恥と良心の呵責を覚えた。こんなふうに感謝されるなんて。女の子を誘惑しただけなのに、崇拝されるなんて――あんまりだ。ほんの、ちょっとした気まぐれな浮気心に過ぎなかったのに。間抜けで、愚かしい。そうとしか言いようがない。どう言いつくろったところで、そこから楽しみを引き出したとさえ言えないのだから。あらゆることを考慮に入れても、楽しんだというよりは退屈だった。かつては自分のことを快楽主義者だと考えたこともある。だが、快楽主義者とは、周到な計算の下に、既知の快楽を選択し、既知の苦痛を排除する存在ではないか。この行為は理性とは無関係に、いや、理性に逆らってなされたのである。自分はあらかじめわかっていた――十分に、十分すぎるほど――こうしたくだらない情事からはおもしろみも、快楽さえ引き出せないことなど。にもかかわらず、漠然としたうずきが起こるたびに、たまらなくなる。そうやって、またしてもお馴染みの愚かしい行為にのめりこんでしまうのだ。マギー、妻のメイド、イーディス、農場の娘、ミセス・プリングル、それにロンドンのウェイトレス、ほかにも――二十人は下らない。みながみな、どうということもない、退屈な女たちだった。そんなことは知っていた、いつだって知っていたのだ。にもかかわらず、にもかかわらず……。経験は何も教えない。

 かわいそうなドリス! 優しい、慰めに満ちた手紙を書いてやろう。だが、もう会うことはすまい。召使いがやってきて、馬に鞍を着け、準備が整ったことを告げた。彼は馬に乗って出かけた。その朝、年取った管財人は、いつになくいらいらしていた。

 五日後、ドリスとミスター・ハットンはサウスエンドの埠頭に一緒に腰をおろしていた。ドリスはピンクの縁飾りのついた白いモスリンの服を着て、幸せに顔を輝かせている。ミスター・ハットンは脚を伸ばして椅子を後ろに傾げ、パナマ帽をあみだにかぶって、旅行者らしい気分に浸ろうとしていた。その夜、ドリスが眠っているあいだ――寝息が聞こえ、ぬくもりが伝わってくる――暗闇のなか、疲れた体を横たえて、あの夜の、いわば宇宙と一体となったような感覚をよみがえらせようとしていた。あれからまだ二週間も経っていない、自分が偉大な志を立てた夜のことを。厳粛な誓いも、いまや他の多くの決心と同じ道をたどった。ほんのちょっと、浮気の虫が動き出しただけで断念してしまったのである。まったく弁明の余地もない。どうしようもないじゃないか。

 長いこと目を閉じたまま、屈辱感に苛まれていた。娘が眠ったまま身じろぎした。ミスター・ハットンは寝返りをうって、そちらに向き直る。半分ほど引いたカーテンの間から洩れる微かな光が、むきだしの腕や肩や首筋、枕にかかるもつれた髪の毛を照らしていた。彼女は美しい。彼女がほしい。だったらなぜ自分はここに横になって、おのが罪を悔いているのだ。それがいったい何になる。もし自分が救いようのない人間であるならば、それはそれで良いではないか。おのれの救いがたさのもとで最善を尽くせばいいだけの話だ。不意に、どうとでもなれ、というすばらしい感覚が体を満たした。自分は自由だ。おそろしいくらい、自由なのだ。熱情にかられるまま、娘の体を引き寄せた。目を覚ました彼女はとまどい、浴びせられる荒々しいキスに、ほとんど怯えているようだった。

 欲望の嵐がおさまると、澄み切った、愉快な気持ちがこみあげてきた。あたり一面が、声のしない笑い声にさざめいているようだ。

「あたしが愛してるくらい、あなたのことを愛せる人がいると思う、クマちゃん」遙か彼方、愛の世界からそう尋ねる声が微かに聞こえてきた。

「そういう人間がいるのは知っている」ミスター・ハットンは答えた。水底の笑いのあぶくがふくれながら浮かびあがって、いまにも静かな水面を突き破り、笑い声が響き渡りそうだ。

「だれ? 教えて。どういうこと?」その声はひどく近い。疑い、怒り、苛立ちがこもっる現実の声だ。

「まあいいじゃないか」

「だれなのよ」

「君には想像もつかないよ」ミスター・ハットンはふざけるのをやめなかった。いい加減それにも飽きて、やっと名前を口にする。「ジャネット・スペンス」

 ドリスは信じられない、といった顔になった。「スペンス館のミス・スペンス? あのおばさんが?」あまりに馬鹿げている。ミスター・ハットンも一緒になって笑い出した。

「だけど正真正銘そうなのさ。彼女はぼくを崇めてる」まったく冗談にもほどがある。帰ったらすぐに彼女のところへ行ってやらなくては――会って、ものにしてやろう。「彼女、おれと結婚するつもりでいるのさ」彼はつけくわえた。

「でも、あなた、そんなことしないわよね……そんなこと……」

 上機嫌のあまり、空気がパチパチと音をたてているほどだ。ミスター・ハットンは声をあげて笑い出した。「君と結婚するんだよ、ぼくは」生まれてこのかた、最高におかしいジョークを言ったような気がした。


 ミスター・ハットンがサウスエンドを出発したときは、ふたたび妻帯者となっていた。さしあたりそのことは伏せておこう。秋になったら一緒に外国に行く。そうして世間にそのことを知らせてやるのだ。それまでは、ぼくは自分の家へ、きみはきみの家へ帰っていよう。

 家に戻ったつぎの日の午後、彼は歩いてミス・スペンスに会いに行った。彼女はあの懐かしいジョコンダの微笑で迎えた。

「いらっしゃると思っていました」

「離れてはいられませんでした」ミスター・ハットンは調子を合わせた。

 ふたりはあずまやに腰を下ろした。気持の良い場所だ――青々と繁る常緑樹に囲まれた、漆喰塗りの小さな古い殿堂。ミス・スペンスは椅子に青と白のデラ・ロッビアの額をはめこんで、自分の痕跡を残していた。

「この秋、イタリアに行こうかと思っているんです」ミスター・ハットンはそう言った。自分がジンジャー・エールのボトルに、愉快でわくわくして、いまにもぽんと吹き出しそうなボトルになったような気がした。

「イタリア……」ミス・スペンスはうっとりとした表情で目を閉じた。「わたしもそこに引き寄せらるようです」

「引き寄せられるまま、行かれたらいいじゃありませんか」

「わかりません。でも、人は一人ぼっちでは、旅立とうという気持ちをかきたてるエネルギーも湧いてこないのかもしれません」

「一人ぼっちですか……」ああ、ギターと喉の奥からしぼりだすような声が聞こえてきそうだ。「そうですね。一人旅というのは、あまり楽しいものではないかもしれませんね」

 ミス・スペンスは黙ったまま、椅子の背にもたれた。まだ目は閉じたままだ。ミスター・ハットンは口ひげをなでた。沈黙はいつまでも続き、ずいぶん時間が過ぎたような気がした。

 夕食をしていらして、とせがまれて、ミスター・ハットンも断り切れなかった。おもしろい話もほとんどない。外に面した回廊にテーブルがしつらえられた。アーチの向こうになだらかなスロープを描く庭、そこから谷へと下っていき、さらにその向こうに丘がひろがっている。光は徐々に衰えていき、沈黙がたれこめた。厚い雲が空を覆い、遠雷が息づくように聞こえてくる。雷鳴はしだいに近づき、風が吹き始めたかと思うと、最初の雨が落ちてきた。テーブルは片づけられ、ミス・スペンスとミスター・ハットンは濃くなっていく闇の中に座ったままでいた。

 ミス・スペンスは長い沈黙を破って、考えこみながら話を始めた。

「人はだれでもあるていどの幸福は、手にする権利があると思うのです。そうではなくて?」

「確かにそのとおりです」いったい何を言おうとしているのだろう? 自分自身の話をするつもりもなしに、人生一般を語る人間はいない。幸福。彼は自分の来し方を振り返る。楽しく、屈託のない、深い悲しみや苦しみ、心配にかき乱されることのないものだった。金に困ったこともなければ、自由を制限されたこともない。やりたいことをやってきた。そう、自分はずっと幸せだったのだ――たいていの人間よりはずっと幸福だった。さらにいまは単に幸せというのではなかった。彼は無責任でいることのうちに、陽気でいられる秘訣を発見したのだ。自分の幸福について、何ごとか言おうとしたときに、ミス・スペンスは話を続けた。

「ハットン様やわたしのような人間は、一生のうち、いつかは幸せになる権利があるはずです」

「私が、ですか?」ミスター・ハットンは驚いた。

「お気の毒なヘンリー。運命はわたしたちにあまり優しくはありませんでしたわね」

「そりゃそうかもしれませんけど、もっとひどいことだって起こり得ましたから」

「あなたは明るく振る舞っていらっしゃる。お強いのね。でも、わたしにその仮面の下が見通せないとはお考えにならないで」

 次第に強くなっていく雨に抗して、ミス・スペンスの声は大きくなっていた。時折、雷が話を遮る。彼女は話をやめず、雷鳴のあいだは叫んでいた。

「わたしはあなたのことをはっきりと理解していますし、もうずいぶん前からそうだったのです」

 稲妻が彼女を照らした。彼に照準を定め、必死になって身を乗り出している。その目は体の底から伸びてくる、怖ろしい二丁の銃身だった。闇がふたたび彼女を包んだ。

「あなたの孤独な魂は、よりそう魂を求めているのです。わたしはあなたの孤独をずっとお気の毒だと思ってきました。あなたのご結婚のこと……」

 雷鳴で言葉が途切れた。やがてミス・スペンスの声が、ふたたび言葉を乗せて聞こえてきた。

「……あなたのような性質の方に、良い伴侶を引き合わせたとは言えませんわ。あなたにはソウル・メイトが必要だったのです」

 ソウル・メイトだって? この自分に? 魂の伴侶とな。こんなおとぎ話があるだろうか。“ジョージェッテ・ルブラン、モーリス・メーテルリンクのいまは亡き魂の伴侶(ソウル・メイト)”。数日前、そんな言葉を新聞で見たばかりだ。だからジャネット・スペンスがそんな途方もない絵柄を頭の中に描くことになったのか――ソウル・メイトなどと。だがドリスにしてみれば、おれは絵に描いたような善良で、世界一頭のいい男だ。ほんとうのところ、実際は、おれというのは何ものなのだろう――そんなこと、知るものか。

「わたしの心はまっすぐあなたに向かっていきました。わたしにはわかったのです。わたしもまた、寂しかったから」ミス・スペンスは彼の膝に手を置いた。「あなたはずいぶん我慢していらっしゃったわね」また稲妻が光った。彼女の照準はまだぴたりと彼に向けられたままだ。危険この上ない。「あなたはいちども不平をおっしゃいませんでした。それでも、わたしには察することができたのです。わかったのです」

「なんてすばらしい方!」ということは、“理解されざる魂”というのはおれのことか。「女の直観だけが……」

 雷鳴が轟き、ごろごろといいながら小さくなり、雨音だけがあとに残った。雷は強調され、外に現れた彼の哄笑だった。ふたたび、ふたりの頭上で稲妻が閃き、雷鳴が轟く。

「あなたはご自分のなかになにか嵐とよく似たものがあるのをお感じではありません?」そう言いながら、ミス・スペンスが身を乗り出してくるのがわかった。「情熱は人間を自然の作用と等しいものにするのです」

 ここでどういう手を打ったらいいのだろう。ああ、その通り。「そうです」とでも言いながら、そのものずばりの行動に出ればいいのだ。だが、ミスター・ハットンは急にひるんだ。体の内のジンジャー・エールは、気が抜けてしまっていた。女の側は真剣だ――おそろしいまでに真剣なのだ。彼はただもう呆然とするだけだった。

 情熱だって?「いいえ」彼は思いあまってそう言った。「私にはそんな元気はありませんよ」だが、その言葉は聞こえなかったか、あるいは気にも留めなかったのか、ミス・スペンスはいよいよ興奮して、早口でまくしたてる。思いつめ、熱をこめたささやきは、ミスター・ハットンには何を言っているものやら、ほとんど理解不能だった。それでも彼がかろうじて理解した範囲では、どうやら自分の来し方を打ちあけているらしい。稲妻はしだいに間遠になり、闇の間隔が長くなっていく。それでも、閃光のたびに彼女が身を乗り出したまま、恐るべき情熱をこめて、彼を求めて身を乗り出しているのが見えるのだった。暗闇、雨、それから稲妻! 彼女の顔はすぐそこに、目の前にある。青白い面、緑がかった白い顔。大きな目、口の真ん中の小さな銃口。濃い眉。アグリッピナ、というより、喜劇役者のジョージ・ロービィか。

 彼はここから逃げ出すために、突拍子もない計画を練り始めた。急に飛び上がって、強盗を見つけたふりをして、「盗人め、待て! 待つんだ!」とでも言いながら、追いかけるふりをして闇のなかに走っていこうか。それとも、眩暈がした、心臓発作だ、と言ってみようか。あるいは幽霊――エミリーの幽霊――が庭にいる、と言ったほうがいいだろうか。子供じみた計画に気を取られて、ミス・スペンスの言葉はつい、おろそかになっていた。突然腕を捕まれて、彼ははっと我に返った。

「ヘンリー、わたしはそのことで、あなたを尊敬していたんです」

尊敬した、っていったい何だ?

「結婚というのは神聖な絆ですものね、だからあなたはそれを尊重していらっしゃいました。たとえその結婚が、あなたの場合のように不幸なものであっても、あなたがそれを尊重していらっしゃるのを拝見して、わたしはいよいよあなたを尊敬し、あこがれもし、それに、それに、ああ、わたし、思い切って言ってしまってもいいかしら」

 ああ、泥棒が、庭の幽霊が! だが、遅きに失した。

「……ええ、わたし、あなたを愛しています、ヘンリー。でも、いまのわたしたちは自由ですわね、ヘンリー」

 自由だって? 闇のなかで何かが動いた。彼女が彼の椅子の足下の床にひざまずいている。

「ああ、ヘンリー、ヘンリー。わたしもずっと不幸だったんです」

 その腕が彼にまわされる。震えているのは、すすり泣いているせいだろう。まるで慈悲を求めているかのようにすがりついてくる。

「そういうことをしちゃいけません、ジャネット」彼はやめさせようとした。こんな涙などおぞましい。おぞましいにもほどがある。「いま、そんなことを言っちゃいけない。いいから、もうおよしなさい。落ちついて。もう休んだ方がいい」彼女の肩を軽く叩いて、その腕をふりほどくと立ちあがった。自分が座っていた椅子の傍らで、床にうずくまったままの彼女をそこに残して、彼はそこを離れた。

 手探りで玄関ホールまで行き、帽子を探す手間も惜しんで、屋敷の外に出た。大変な苦労をしながら表の扉を音がしないように閉じる。雲は切れ、澄んだ空に月が輝いていた。道のあちこちに水溜まりができ、溝や水路を流れる水音が聞こえる。ミスター・ハットンは濡れるのもかまわず、水をはねかして進んでいった。

 胸も張り裂けんばかりのむせび泣きだった。それを考えると、哀れみと後悔の念も湧いてきたが、それ以上に彼は腹を立てていた。どうしておれのゲームに乗ってこないんだ? 残酷で楽しいゲームなのに。確かに、彼女にそんなゲームをするつもりがない、いや、できないことは最初からわかっていた。おれは知っていながら、それでも続けたのだ。

 あの女は情熱と自然現象について何と言っていただろう? むやみとばからしい、陳腐なことを言っていたような気がするが、一面の真実はある。あの女が、雲となって黒い胸に雷を孕んでいるところに、このおれが、あの滑稽なベンジャミン・フランクリンよろしく、危険のまっただなかに凧を上げたのだ。そうしておれはいまになって、自分のおもちゃが稲妻を引き寄せた、と文句を言っている。

 おそらく彼女はまだ、柱廊にひざまずいたまま、泣いているだろう。

 だが、このおれはどうしてゲームを続けることができなくなったのか? どうしておれの無責任は、おれを見捨ててしまったのか。この冷酷な世界で急にしらふになってしまったおれを残したまま。何を問うても答えはなかった。ただひとつ、彼の胸の内で明るく燃えているのは――逃げろ、という思いだった。いますぐ、ここから離れるのだ。


 第四章


「クマちゃんったら何を考えてるの」

「何も」

 あたりはしんとしていた。ミスター・ハットンはテラスの手すりに肘をのせて両手で頬杖をつき、フィレンツェの街を見おろしながらじっとしていた。市街地の南に位置する丘の上の別荘を買った。庭の端の少し高くなったテラスからは、肥沃な谷が街までくだっていき、さらにその向こうにはモンテ・モレロの殺風景な山塊がそびえている。東に目をやると、フィエゾレの丘があり、多くの人の住まうそこには白い家々が点在していた。九月の太陽の光に照らされて、あらゆるものがくっきりと、色鮮やかである。

「何か気がかりなことでもあるの?」

「いや、何でもない」

「クマちゃん、話して」

「話すことなんて何にもないんだよ」ミスター・ハットンは振り向いて笑顔を向けると、若い女の手を軽く叩いた。「きみはもう中に入って昼寝をした方がいい。ここはちょっと暑すぎるから」

「そうするわ。だけどクマちゃん、あなたも来てくれるわね?」

「葉巻を吸い終わったらね」

「わかったわ。だけど早く終わってね、クマちゃん」ドリスは後ろ髪を引かれるように、ためらいがちにテラスの階段を下り、家の方へ歩いていった。

ミスター・ハットンのフィレンツェにおける思索は続いた。ひとりになりたかった。ときにはドリスから逃れること、片時も側から離れず、情熱こめて焼いてくれる世話から身を離すのはいいことだった。彼は、望みのない片思いに胸を焦がす辛さこそ知らなかったが、いまや愛される苦しみを味わっていたのだ。ここ数週間というもの、苦痛は増していくばかりだった。ドリスは脅迫観念のように、罪の意識のように、片時も離れない。ああ、そうだ。一人になるのはすばらしい。

 ポケットから封筒を取りだして、しぶしぶ、という仕草で開いた。手紙なんてまったくぞっとする。再婚してからというもの、手紙というと、決まって何か不快なことが書いてあるのだった。これは姉からのものだ。ざっと目を通したが、叱責と耳の痛むことしか書いてない。「恥ずかしいまでのあわてよう」「社会的な自殺」「墓の中でまだ冷たくもならないのに」「下層階級の人間」ありとあらゆる言葉が書いてある。いまやご立派でまっとうな親戚たちは、どの手紙でもかならずこうしたことを言ってくる。苛立ちのあまり、馬鹿げた手紙を破ってしまおうとしたとき、不意に三枚目の最後の一行が目に入った。それを読むと、激しい動悸に気持ちが悪くなった。あきれるにもほどがある! ジャネット・スペンスがことあるごとに、自分がドリスと結婚するために、妻を毒殺したと言いふらしているのだという。これほどまでの悪意に満ちた行為があろうか。ふだんは気性の穏やかなミスター・ハットンだったが、このときばかりは怒りで震えた。悪態をついて――あの女をさんざん罵ってから、子供のようではあったが、なんとか自分をなぐさめたのである。

 やがてふと、いまの状況の滑稽な側面に気がついた。自分がドリスと結婚するために誰かを殺すなんて! 眼もあてられないほど退屈していることを誰か知りさえすれば。哀れなジャネット! 人を陥れようとして、結局、馬鹿なまねをするしかなかったとは。

 足音に気がついてはっとした。あたりを見まわす。テラスの下の庭で、召使いの娘が果物を摘んでいた。ナポリ人で、北部のフィレンツェまでふらふらとやってきたのだ。古典的な顔立ちの見本のようだ――多少、気品に欠けるが。彼女の横顔は、シチリアコイン、少し落ちる時期のものではあるが、コインに刻まれた肖像の生き写しだった。顔立ちはすばらしい伝統そのままの華やかな曲線を描き、内面のほぼ完全なうつろなさまが表情にくっきりと浮かんでいる。なかでも美しいのは口元だった。自然が描いたカリグラフの手跡のような豊かな曲線は、強情で短気な性質を示している。ミスター・ハットンは、みっともない黒い服の下に、力強い肉体、引き締まって量感のある体が息づいていることを見て取った。以前から漠然とした興味と好奇心を感じながら目に留めてはいたのだ。今日になって、その好奇心は、欲望と定義されるものに焦点化されていったのである。ギリシャ詩人テオクリトスが歌った牧歌。ここに女がいる。だが彼は、ああ残念ながら火山のふもとの丘の山羊飼いとはいかない。彼は女を呼んだ。

「アルミダ!」

 それに応えた女の笑みが、あまりに挑発的で、貞節など簡単に譲り渡せることを示していたために、逆にミスター・ハットンはひるんだ。彼はふたたび崖っぷちにたっていた――崖っぷちに。引き返さなくては。早く、早く、手遅れになる前に。娘はずっと彼を見上げたままでいた。

“Ha chiamato?(お呼びになりました?)” とうとう彼女が聞いた。

 愚挙か理性か? もはや選択の余地はない。つねに愚行が選択されてきたのだから。

“Scendo(降りていくよ),”彼は答えた。十二段の階段が庭からテラスまで続いている。ミスター・ハットンは数えた。一段、一段、一段、一段……。ひとつの地獄の輪から、次の地獄へと降りてゆく自分の姿を見た――風が吹きすさび、霰が降る闇から、悪臭ただよう汚泥の淵へと。


 第五章


 何日もの間、ハットン事件はあらゆる新聞の一面を飾った。ジョージ・スミスが七人目の花嫁を風呂で溺死させて、一時的に第一次大戦のニュースをさらってからこちら、これほど衆目を集めた殺人事件の審理はたえてなかった。世間の想像力は、この殺人が、犯行から数ヶ月もたって明るみに出たことで、いやがうえにもかきたてられたのである。人々は、神が人に対してなさることに決して誤りはないことが、ここまで明らかになった事件もめずらしい、と感じたのである。よこしまな男が、自分の妻を殺すという邪悪な衝動に身を任せた。何ヶ月も罪を犯したまま生き長らえ、安全と思いこんでいた――そうして結局、自ら堀った墓穴に落ちていったのだ。悪事はかならず露見する、このことわざどおりの事件である。新聞の読者は、神の指し手のひとつひとつが追える席を与えられた。近隣一帯には漠然とした、だが執拗な噂が広まった。警察もついに動き出した。死体発掘命令、死後解剖調査、検屍、専門医の証言、検屍陪審の答申、公判、宣告。神の御業は瞭然と、あますところなく、教訓をこめてなされたのである。あたかもメロドラマの一場面のように。新聞各紙がこの事件を、一貫して知的思考の素材として扱っていたのも無理はなかった。

 審問で証言するためにイタリアから呼び戻されたミスター・ハットンが初めのうち抱いていたのは、憤懣やるかたない思いだった。警察がこんな愚かしい、悪意に充ちたゴシップを取り上げるなどとは、あきれ果てた、恥ずべきことではないか。審問が終わったら警察本部長に対する悪意訴追を起こしてやろう。スペンスは名誉毀損で訴える。

 審問が開かれた。驚愕すべき証拠がつぎつぎと現れた。検屍官が死体を調べた結果、砒素の痕跡が発見された。かつてミセス・ハットンであった人物は、砒素中毒によって死亡したとの意見が提出された。

 砒素中毒……エミリーが砒素の中毒で死んだんだって? 続いて、ミスター・ハットンは、自宅の温室に大量殺人が可能なほどの砒素を含有した殺虫剤があったと聞かされて、愕然とした。

 ことここにいたって、にわかに彼は事態を把握したのである。事件が極めて自分に不利であることを。事件がある種の化け物じみた熱帯植物のように、ぐんぐんと伸びていくのを、彼はただ魅入られたように見つめるしかなかった。その木は彼を取りこみ、すっぽりと覆ってしまった。こんがらがった森のなかで、彼は道を失ったのである。

 毒が混入されたのはいつなのか? 専門家による見解は死亡前、八ないし九時間に嚥下されたことで一致した。それは昼食時と考えてよろしいか? はい。昼食時と考えてかまわないと思います。メイドのクララが呼ばれた。奥様はわたしにお薬を取ってくるよう、お申しつけになりました。でも、旦那様が代わりに行ってやろう、とおっしゃって、お一人で行かれました。ミス・スペンス――ああ、嵐の記憶、食い入るような白い顔! ありとあらゆるおぞましいことども――ミス・スペンスはクララの供述を追認し、さらに、ミスター・ハットンはお薬の瓶ではなく、あらかじめワイングラスについであるのを持ってきました、とつけ加えた。

 ミスター・ハットンの憤怒は霧散してしまった。動転し、怯えた。真剣に受けとるにはあまりに夢のようだが、しかし、この悪夢は現実だった――実際に、起こりつつあるのだった。

 マクナブは、ふたりがキスをするのを何度となく目撃していた。奥様がお亡くなりになった日も、おふたりをお乗せいたしました。フロントガラスに映るのがどうしてもときどきは眼の隅に入ってきますので。

 審問は散会した。その夜、ドリスは頭痛がひどく、横になっていた。食後部屋に入っていったミスター・ハットンは、ドリスが泣いているのに気がついた。

「どうした?」ベッドの端に腰を下ろして、ドリスの髪をなでてやる。長い間、返事はなかったが、彼は髪を機械的に、半ば無意識のまま、なで続けた。そうしながらときどき、身を屈めて彼女の剥きだしの肩にキスをした。だが、彼には考えなければならない自分の問題があった。いったい何が起こったのか? 馬鹿げたゴシップが、どうして本当になったのだろう? エミリーが砒素中毒で死んだ。そんな馬鹿な。あり得ない。ものごとが秩序を失い、彼はある無責任なもののなすがままになっていた。いったい何が起きたのか、そうして何が起ころうとしているのか。考えていたところに邪魔が入った。

「あたしがいけないのね――あたしがいけなかったんだわ」ドリスは急に嗚咽をもらした。「あなたを愛しちゃいけなかった。あなたに愛してもらっちゃいけなかったんだわ。どうしてあたしなんかが生まれてきたのかしら」

 ミスター・ハットンは返事をせず、ベッドに横になっている、目も当てられないほど惨めな生き物を黙って見おろしていた。

「あなたにもしものことがあったら、あたしも生きていないから」

 彼女は半身を起こして、手を一杯にのばして、しばらく彼にふれていた。どこか荒々しいまなざし、もう二度と会えないとでもいうような必死のまなざしで彼を見た。

「愛してる。愛してる。愛してる」力のこもらない、なすがままになっている彼の体を引き寄せ、抱きしめ、自分の体を押しつけた。「あなたがそんなにあたしのこと、愛してくれてるだなんて知らなかった、クマちゃん。だけど、なんでそんなことしたの? そんなこと、しちゃったの?」

 ミスター・ハットンは腕をふりほどいて立ちあがった。彼の顔はまっ赤になっていた。「きみはぼくが妻を殺したと思っているようだが」彼は言った。「まったくとんでもなくおぞましいよ。ぼくをいったい何だと思ってるんだ。映画のヒーローか?」徐々に歯止めがきかなくなっていく。その日一日の激しい苛立ちも、恐怖も、とまどいも、彼女に矛先を向けた激しい怒りに変わっていった。「どれもこれもうんざりするほど馬鹿げたことばかりだ。教養のある男のものの考え方なぞ、まるで理解できないんだろう? おれが人を殺して歩くような人間に見えるか? おれが気でもちがったほどにきみに惚れている、どんな馬鹿げたことでもしでかせるほど、惚れてる、とでも思ってるのか。女どもときたら、男は常軌を逸するほどにだれかを愛したりはしないんだと、いったいいつになったら気がつくんだ? 男が望むのは静かな生活だけだ。それをおまえたちは決して認めようとしないんだ。いったいどの悪魔にそそのかされて、きみなんかと結婚なんかする羽目になったんだろう。実にくだらない、馬鹿げた、手のこんだ悪ふざけだ。そのうえ、おまえまでおれが人殺しだと言い出す。もう我慢できない」

 ミスター・ハットンは足音も荒くドアへ向かった。ひどいことを言ったのはわかっていた。急いで取り消さなくてはならないほどひどいことだ。だが、その気にはなれない。彼は後ろ手にドアを閉めた。

「クマちゃん!」
彼は取っ手を回した。掛けがねがかちりとかかる音がした。「クマちゃん!」閉じたドアの向こうから聞こえてくる声は悲痛だった。戻った方がいいだろうか。戻らなければならない。もういちど取っ手にふれたが、そのまま手を引っこめると、足早にそこを離れた。階段を半分ほど下りたところで立ち止まった。何か馬鹿なまねをするかもしれない――窓から身を投げるとか、見当もつかないようなことを。聞き耳を立てた。何の物音もしない。だが彼には、つま先立ちで部屋を横切って、窓枠を一番上まで上げると、冷たい夜気のなかに身を乗り出す彼女の姿を、ありありと思い描くことができた。小雨が降っている。窓の下には小石を敷き詰めたテラスがある。どれほどの高さだろう。8メートルか9メートルというところだろうか。以前、ピカデリーを歩いていたとき、リッツホテルの三階の窓から犬が飛び出したことがあった。落ちていく犬を見たし、舗道にぶつかる音を聞いた。戻るべきだろうか。そんなことができるもんか。あんなやつ、うんざりだ。

 彼は長い間、書斎に腰を下ろしていた。何が起こったのか。何が起こっているのか。頭の中で繰りかえしそう問うてみたが、答えが見つからない。この悪夢が怖ろしい結果へと結びついていくとしたら。死が待ち受けている。彼の目に涙があふれた。どうしようもなく生きたい、と思った。「生きているだけでいいの」かわいそうなエミリーもそう願っていたではないか。彼は思いだしていた。「生きてさえいられればいいのよ」この驚嘆するような世界には、未だ行ったことのない場所があまりにも多く、未だ知らない不思議で愉快な人々は大勢おり、まだ会ったこともない美しい女もいくらでもいるというのに。トスカナの道では大きな白い牡牛たちが荷馬車を引いているだろう。糸杉は柱のように青い空に向かって垂直に伸びていることだろう。だが、おれはもうそこに行って見ることはかなわないのだ。南部の甘いワイン――キリストの涙とユダの血――あるいはほかの酒を飲むのも、他の人々であって、彼ではない。ロンドン図書館の本棚の間の薄暗く狭い通路を、文学の名作につもった埃のにおいを嗅ぎながら、奇妙なタイトルをのぞきこみ、未だ知らない名前を見つけ、知の圧倒的な領域の端くれを探索しながら歩きまわるのも他の人々だ。そのとき彼は、地中の穴の底に横たわる。だが、なぜ、なぜなんだ? 混乱した彼は、なにか途方もない裁きが下されているように感じた。これまで、彼は気まぐれで、愚かで、無責任だった。今度は運命が彼に対して気まぐれで、無責任な振る舞いを見せている。因果応報、結局のところ神は存在するのだ。

 祈ることができるなら、と考えた。四十年前ならば、毎晩ベッドの脇にひざまずいていたのだ。子供時代の祈りの言葉が、閉ざされた記憶の小部屋から、何の苦労もなくすらすらと出てきた。「神さまどうかお父さんとお母さんに祝福をお与えください。トムとシシーと赤ちゃんにも。家庭教師の先生と、乳母にも。それに、ぼくが愛するすべての人に祝福を。どうかぼくを良い子にしてください。アーメン」みんな死んでしまった――シシーを除けば。

 彼のこわばった気持ちがほぐれ、溶けていった。大いなるやすらぎが、彼の心に流れこむ。階段を上がっていって、ドリスの許しを乞うのだ。彼はドリスがベッドの足側にあるソファに倒れているのを見つけた。傍らの床には「内服厳禁」と書いてある塗布薬の青い瓶が置いてある。それを半分近く飲んでしまったようだった。

「あなたはあたしのことなんて愛してなかった」目を開けて、のぞきこんでいる彼を見た彼女が言ったのは、それだけだった。

 ドクター・リバードは容態が深刻な状態になるまえにやってくることができた。「もうこんなことをしちゃいけませんよ」ミスター・ハットンが部屋の外に出ているあいだにそう言った。

「なんでそうしちゃいけないの」逆らうように彼女は聞いた。

ドクター・リバードは大きな、悲しそうな目でじっと見た。「そうしちゃいけない理由はないかもしれない」医者は言った。「ただ、あなたとあなたの赤ちゃん以外にはね。赤ちゃんにとってはずいぶん運が悪い話じゃありませんか。あなたが生きていたくないからといって、この世に生まれてこれないなんて」

 ドリスはしばらく黙っていたが「わかったわ」とささやくように言った。「あたし、もうしない」

 ミスター・ハットンはその夜、ずっと彼女のベッドの傍らに腰を下ろしていた。いまでは自分がほんとうに人殺しであるように思えていた。しばらくは、自分がこのかわいそうな子供を愛しているのだと思いこもうとしていた。椅子でまどろんだために、目覚めたときには体がこわばり、冷え切って、あらゆる感情が枯渇したように感じた。彼は、もはや疲れ果て、苦しむ一個のむくろ以外の何ものでもなかった。六時に着換え、ベッドに入って数時間まどろんだ。その日の午後、検屍陪審は「謀殺」という答申を下し、ミスター・ハットンは公判に付せられることが決まった。


 第六章


 ミス・スペンスはひどく具合が悪かった。公の場、証人席に、大変な思いをして出たあとは、めっきりと衰弱したように感じていた。夜は眠れず、神経性の消化不良に悩まされた。ドクター・リバードが一日おきに往診に来る。彼女は医者にしゃべりづめにしゃべった。ハットン事件のことばかりだった。……いつも彼女は道徳的な怒りに燃えていた。この家に人殺しがいたなんて、考えただけでぞっとしませんこと? 人間の性質を、そんなに長いこと誤解していたなんて、ずいぶん不思議じゃありません?(でも、わたし、ほんとうは最初から薄々感づいていたんですのよ)おまけにあの人が駆け落ちした女、下層の出の、売春婦とどれだけもちがわない女。あの二番目のミセス・ハットンにもうじき赤ん坊――有罪宣告を受けて、死刑を執行されたあとになって、赤ん坊が生まれるなんて、むかむかするほど汚らわしい。とんでもない、醜悪なことじゃございません? ドクター・リバードは穏やかに、曖昧に返事をし、鎮静剤を処方した。

 ある朝のこと、医者は彼女がいつもの長広舌を振るっている最中に、口を挟んだ。「ところで」という彼の声は柔らかく、もの悲しそうだった。「ミセス・ハットンに毒を盛ったのは、ほんとうはあなたですね」

 ミス・スペンスは二、三秒間、大きな目で医者の顔をじっと見つめてから、静かに答えた。「ええ」それから泣き始めた。

「コーヒーに入れたんですね?」

 彼女はうなずいたように見えた。ドクター・リバードは万年筆を取りだすと、端正で几帳面な書体で、睡眠薬の処方箋を書いた。





The End




初出Aug.07-17 2007 改訂Aug.31, 2007

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欲望の空っぽな対象


この短篇は、ミステリの要素、殺人もあればそれに至る伏線もある、犯行現場の描写や犯行がなされたことを示す手がかり、直後の犯人の様子といった、ミステリが必要とする条件も備わってはいるが、なにしろ登場人物が圧倒的に限られているために、犯人探しをするまでもなく、誰がことを起こしたか、最後であきらかになっても、決して驚かされることはない。その動機も、自分が愛し、また愛されたと思っていた相手を自由にするため、そうして、それが無駄な行為だとわかって復讐を果たした女の物語である、と簡単にまとめてもいい。だが、それだけでは、この非常によくできた短篇をどれほどにも読んだことにはならないだろう。

謎めいた二十世紀のジョコンダ、ジャネット・スペンスは、いったい何を求めていたのだろう。彼女も、エミリーやドリスと同じように、単純な欲望しか持たない登場人物なのか。そうではない、とハットンは考えている。ハットンには彼女がよくわからない。
というのも、ジャネット・スペンスは彼を反転させた人物、ハットンがポジとすればネガに当たるのがジャネットだからなのである。

イギリス知識人階級に属し、現代版ドン・ファンとして、多分にカリカチュアライズされて描かれるヘンリー・ハットンは、冒頭、ジャネット・スペンスの屋敷でわたしたちの前に登場する。ジャネットのコレクションを眺める場面では、彼が十分な鑑識眼・審美眼を備えているのに対して、ジャネット・スペンスは、そうしたいずれも備えてはおらず、ただそれを模倣しているだけであることが明らかにされる。このちがいがふたりを隔てる鍵だ。

ジャネットの屋敷を訪問するときも、ハットンは車の中にドリスを待たせている。彼にとっては女性が欲望の対象なのではなく、女性から女性へと渡り歩くことが重要なのである。ハットンの女性遍歴は、ドン・キホーテが伝説の騎士アマディースの冒険を手本として時代遅れの冒険に乗り出すのと一緒だ。ハットンは古典を媒体として、女性に引かれていく。ドン・キホーテが野原の風車に巨人を見たように、ジャネットの向こうにモナ・リザを、ドリスの向こうにルイーズ・ケルアイユを見ている。ドン・キホーテがその時代に生きてはいないように、ハットンもまた「いま」に生きておらず、そのありさまがいささか滑稽に描かれていく。ハットンはどれだけ遍歴を続けても、決して満たされることがない。

 欲望する主体は、対象を自分のものとした時ただ空虚を握りしめるだけだ。それ故に結局のところ、主人は奴隷と同じだけその目標から離れたままなのである。主人は欲望を装い隠すことで、他人の欲望を意のままに操つることに成功する。彼は対象を所有する。けれどもその対象は、それが所有されるがままになるという事実そのものによってあらゆる価値を喪失するのだ。…

 主人は幻滅と倦怠に身をささげる。こう聞くと、主人は形而上的欲望の不条理を認識しているかのように思われるかも知れない。だが、彼はあらゆる欲望を放棄してしまったのではない。彼は経験によって自分の期待を裏切ると知った欲望を放棄したにすぎない。彼は容易な欲望や手もなく身をまかす存在を放棄するのだ。

(ルネ・ジラール『欲望の現象学』古田幸男訳 法政大学出版局)

一方のジャネットはどうだろうか。もはや食欲しか残っていないエミリーが食べ物に向けるような欲望、ドリスがひたすらにハットンを愛し、愛されることを求めるような欲望、そうした直線的な欲望をもって、ジャネットはハットンを求めることはしない。ジャネットが求めるのは、上流階級の一員、血統の良さを示す鑑識眼と古典の教養の記号であるハットン、求める対象であると同時に、かくありたいと願う手本、自分を評価してほしいと願う存在なのである。

ジラールは、模倣しようとする手本と主体との距離によって、主体の苦悩を測る。手本と主体の距離が離れているとき、言いかえればそれが「あこがれ」「理想」と呼べるようなものであるとき、その模倣が、他の者の目にはたとえ滑稽なものとして映ることがあったとしても、手本が主体の側を苦しめることはない。
だが、その距離が近い場合、「欲望する主体は手本にたいして、最も従順な敬意と、最も強烈な恨みという二つの相反するものの結合によって作りだされた胸をひきさくばかりの悲痛な感情を抱くのである。われわれが憎悪と呼ぶのはまさにこの感情である」。(『欲望の現象学』)

ジャネットは、ハットンの行動から、自分に対する愛を確信する。そうして、自分を愛するハットンが自分のものにならないのは、エミリーの存在があるからだと考える。そこでチャンスを捉えて障害を取り除いた。ところが当のハットンは、自分を愛していないどころか、軽蔑すらしていることが明らかになったのである。手本であるハットンからの軽蔑によって、ジャネットの自尊心は完膚なきまでに叩きつぶされる。こうして憎悪は爆発し、うち砕かれた自尊心を回復するために、ジャネットは復讐に出るのだ。

だが、復讐がなされても、憎悪の感情はジャネットを蝕んでいく。リバードの処方箋は、おそらく二度と目覚めないですむ分量の睡眠薬が処方されているのだろうが(おそらく18-19世紀の上流階級では、家庭内の醜聞はそういうかたちで処理され、医師の役目にはそういう側面もあったのだろうと考えると、リバード医師もなかなか興味深い登場人物である)、それがなかったとしても、おそらくジャネットはそののち長く生きることはなかっただろうと思われる。

一方で、最後まで自分が何を求めていたか気がつかなかったジャネットに対し、ハットンは自分の欲望の空虚さに気がついている。

モデル=他者の立場に立って主体が自己を眺めると、その自己は軽蔑に値するものとして映ります。…自己は軽蔑する自己と軽蔑される自己と二分裂してしまいます。主体の自尊心が強ければ強いほど、それだけ自己はその自尊心を支えるために他者を必要とするようになり、したがってそれだけ他者に執着します。

(作田啓一『個人主義の運命』岩波新書)

こうしてハットンは、古典に倣った理想とする生活を思い描き、なんとか軽蔑される自分と軽蔑する自分の統合を果たそうとする。ところがそれは果たされない。このことはどう考えればいいのだろうか。

新潮文庫版の三島由紀夫の『愛の渇き』の解説で、吉田健一は『愛の渇き』という小説を「一つの持続を廻っての実験である」としている。

悦子(※『愛の渇き』の主人公)は幸福を求めている。そしてそれは、彼女が退屈しているということと同じなのである。……(略)一人の人間が退屈するのは、必ず或る抵抗を前にしてであって、それがなければ、その人間は単に無気力になっているに過ぎないのであり、無気力を描いた文章がそれ以上のことを表現するものではない。たとえば、一人の人間が、自分が生きているという気持ちの充実を味わうならば、無限の繰返しでしかない生命の持続は、その当然の埋め合わせに次にはその人間が、そういう充実した感じを失ったのに堪えることを要求する。或いは又、自分が生きていると感じる望みが外部から遮られれば、その結果も望みを遮られたものの忍耐となって現われなければならない。この忍耐が退屈の正体であって、堪えることに費やされる力が烈しければ烈しい程、その表現は退屈を生々したものとして我々に感じさせる。……

抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできないのである。それは生きるということそれ自体が、絶えず何かの抵抗を求めることであることも意味している。

(吉田健一 三島由紀夫『愛の渇き』解説 新潮文庫)

ハットンが堪えられなかったのは、この退屈である。
『愛の渇き』の主人公が、隔絶された場所におかれ、そこから出ていく術も持たなかったのに対し、ハットンは自由だ。欲望する対象はいくらでも現れるし、それを手に入れる抵抗もなきに等しい。悦子が生きているという強烈な実感を手に入れるために、忍耐をひたすらに受け入れた(またそうするしかなかった)のに対し、ハットンは退屈するとすぐに手近なものに手を伸ばす。たとえそこからまた新たな退屈しか生み出さないとわかっていても。

作品の視点はドリスの自殺未遂を機に、ハットンの内面から離れる。もはや彼の心情は語られることがなく、わたしたちは想像することしかできない。ハットンは、殺人者に陥れられた自分の最期を受け入れたのだろうか。

わたしは受け入れたと思うのだ。彼がもう少し部屋を訪れるのが遅ければ、ドリスは死んでいたかもしれないし、それがたとえ自殺であっても、ハットンがその原因を作ったことにはちがいない。そう考えると、殺人者であるか、ないか、というのは、いくつかの条件がそろうかそろわないかでしかない。エミリーを無為に追いこみ、精神的には半ば死んでいるに等しいような状況に至らしめたのも、ハットンに無関係だったとはいえない。すでに手本の側に立って、自分を厳しく断罪していたハットンが、そう考えなかったとは思えないのである。ハットンは、自分に有罪宣告を下した。公判に付される前に、彼の有罪は彼によって確定していたのだ。

ハットンは抵抗しなかった。湧き上がる欲望にも、日々の退屈にも、殺人者の汚名にも。そうして運命を受け入れたのである。

なお、この作品が所収された短編集のタイトル "Mortall Coile" とは、『ハムレット』の有名な第三独白から来ている。このハムレットの独白を、ハットンのそれと重ね合わせて見ることもできるように思う。

生か、死か、それが疑問だ、
どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。
いっそ死んでしまったほうが。
死は眠りにすぎぬ――それだけのことではないか。
眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる、胸を痛める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。
願ってもないさいわいというもの。
死んで、眠って、ただそれだけなら!
眠って、いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ。
この生の形骸(this mortal coil)から脱して、永遠の眠りについて、ああ、それからどんな夢に悩まされるか、誰もそれを思うと――いつまでも執着が残る、こんなみじめな人生にも。

(シェイクスピア『ハムレット』福田恆存訳 新潮文庫)




初出Aug.07-17 2007 改訂Aug.31, 2007

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