金婚旅行 The Golden Honeymoon
by Ring Lardner
かあさんに言わせたら、わしという男はいったん口を開いたが最後、閉じるということを知らんのだそうだ。だからかあさんにはこう言ってやるのさ。わしにしゃべるチャンスがあるのは、おまえがそばにおらんときだけじゃないか、そのときに心ゆくまでしゃべって何が悪い? とな。まあ、実際のところ、わしらふたりがクェーカー教徒の沈黙集会に呼んでもらえるようなことはあるまいさ。だがな、わしはかあさんにはこう言ってるんだ。もし舌を使っちゃならんのだったら、なんのために神さまが舌をくだすったんだ? すると、かあさんはこう言い返してくる。あんたみたいに同じことをなんどもなんども話すために神さまが舌をくだすったわけじゃありませんよ、とな。だからこう言い返してやった。
「だがな、かあさん、おまえのような人間とわしのような人間が結婚して五十年も一緒におるんだ。それでもまだ聞いたことのない話ばかりをしろとでも言うのかい。だいたい、ほかの方々には初耳かもしれんじゃないか。だれもおまえほどわしと長いこと一緒に暮らしておるわけじゃないんだからな」
かあさんときたらこう言うじゃないか。
「あたりまえですよ、あたしでもなきゃ、そんなに長いこと、あんたに辛抱できるような人はいませんからね」
「そうかい」とわし。「それにしちゃ、ずいぶん元気そうじゃないか」
「そりゃそうかもしれないけど」と言うのはかあさんさ。「あんたと結婚する前は、もっとぴんしゃんしてましたよ」だときたもんだ。
まったくかあさんにかなうような人間はおらんよ。
ああ、その通り、わしらはちょうど五十年前の十二月十七日に結婚した。その金婚式のお祝いに、娘と娘婿がトレントンから出て来てくれたんだ。婿はジョン・H・クレイマーという男でな、不動産屋だ。年に一万二千ドル稼ぐもんだから、トレントンあたりじゃかなりの顔らしい。しっかりした働き者だよ。ロータリー・クラブには、ずいぶん前から声をかけられとったらしいが、自分の家がクラブのようなもんだから、と断り続けたんだそうだ。ま、しまいにエディが入会させたがな。エディというのが娘の名前だ。
ともかく、ふたりはわしらの金婚式を祝うために来てくれたんだが、えらく寒くてな、暖炉の火も昔のように威勢よく燃えなくなってきたし、かあさんも、この冬は去年のように寒くならなきゃいいんだけど、と言っていたんだ。するとエディが、もしあたしが父さんや母さんなら、家にへばりついてなきゃならない理由がないんだったら、寒い冬を過ごすかわりに、水道も止めて家も閉めてフロリダのタンパにでも行くわ、どうしてそうしないの? と聞くのさ。だからかあさんは、金を盗られに行くようなところはごめんですよ、と答えた。実は、わしらも四年前の冬に五週間ほど、そこで過ごしたものでね。ところが、ホテル代だけで三百五十ドル以上もふんだくられたじゃないか。そんなことがあったもんだから、かあさんも、お金を盗られに行くようなところへ行くつもりはない、と言ったんだ。するとな、今度は婿まで娘の肩を持ちだした。タンパだけが南部じゃありませんよ、なんてことを言ってな。お義父さんやお義母さんは何も高いホテルに泊まる必要はないんです、二間くらいの部屋を借りればいい、ぼくはフロリダのセント・ピーターズバーグの話を聞いたことがあるが、そこはちょうどそんな家だってあるし、もしお義父さんたちがそうしてもいいと思うんでしたら、ぼくがすぐに問い合わせてみましょう、と言ってくれたんだ。
長い話を端折ると、それに従うことにしたんだ。エディは、これがお父さんたちの金婚旅行になるんだわ、と言って、婿もわしらのプライバテシーのために個室車が取れるよう、寝台車との差額料金を払ってくれた。個室車もふつうの寝台車と同じで上下に寝床があるんだが、一部屋ごとに区切られていて洗面台もある。汽車は全部が個室で、普通寝台はひとつもなかった。客車は個室ばっかりだったな。
わしらは前の晩からトレントンに行って娘と婿の家に厄介になってから、つぎの日の午後三時二十三分に出発した。
これが一月十二日のことだ。かあさんは汽車の進行方向を向いてすわった。後ろ向きに腰かけるとクラクラするんだとさ。わしはその向かいに座ったよ、そんなことは気にならんからな。汽車はノース・フィラデルフィアに午後四時三分に到着したあと、ウェスト・フィラデルフィアは四時十四分着、だがブロード・ストリート駅には入らなかった。ボルティモア着は六時三十分、ワシントンD.C.着は七時二十五分。ワシントンでは乗り換えの汽車の到着まで二時間あったものだから、わしは外に出て、プラットフォームを歩いていって、ユニオン駅まで行った。戻ってみたら、汽車は別の線路に移動してしまっている。だが汽車がラ・ベルという名前で、昔、ウィスコンシンのオコノモウクにおる伯母さんを訪ねたことがあったんだが、そこの湖の名前と同じだったのを覚えていたから、汽車の異動先など苦もなく探し当てられたよ。かあさんのほうは、わしが置いてけぼりにされるんじゃないかと心配で、気持ちがわるくほどだったらしいがな。
だから言ってやったんだ「つぎの汽車でおまえを追いかけることもできるじゃないか」
するとかあさんは「そりゃそうかもしれないけど、サイフを握ってるのはあたしじゃありませんか」と言うんだ。
だからわしも「まあ、いまおるところはワシントンだし、ここには財務省もあるから金なら借りられる。イギリス人のふりをしたらいいのさ」と言ってやった(※第一次大戦後、アメリカからの借款を受けるなど、イギリスが対米依存を深めていたことを皮肉っている)。
かあさんにはこのオチがわかったから、心底、おかしそうに笑ったさ。
汽車がワシントンを出たのは、夜九時四十分、かあさんとわしは早く休むことにして、わしが上段を選んだ。夜っぴて「緑したたる懐かしきヴァージニアの平原」を走ったが、ほんとに緑だったかほかの色だったかは外が暗すぎてわからんかったな。朝起きたときにはノース・カロライナのフェーエットビルだった。食堂車で朝食を取ってから、隣の個室の男と話をした。ニュー・ハンプシャー州のレバノンから来た八十歳ぐらいの男だったよ。かみさんと未婚の娘さんふたりが一緒だもんだから、四人でひとつの個室じゃ狭すぎやしませんかな、と聞いてみたんだ。するとやっこさん、わしらはこの十五年間、毎年冬になると旅行に出かけておるのだから、お互い、邪魔にならんような身の処し方なら知っております、ときたよ。やっこさんはターポン・スプリングスに行くところだ、という話だった。
サウス・カロライナのチャールストンに着いたのが、午後十二時五十分、ジョージア州サヴァナ着が四時二十分。フロリダ州ジャクソンヴィルに着いたのは八時四十五分、そこで一時間十五分の待ち時間があった。だが汽車を降りようとすると、かあさんがガタガタ言う。仕方がないんで、黒人に寝床を作らせて、ジャクソンヴィルを出る前には寝てしまったよ。汽車ががたごと揺れるもんだからろくすっぽ眠れない、かあさんはかあさんで、わしが転がり落ちるんじゃないかと心配で、汽車に乗って眠れたためしがないんだそうだ。そんな心配をするぐらいなら、かあさんが上に寝たらいいじゃないか、と言ってやったんだが、実際かあさんが上に寝てベッドが落っこちるようなことにでもなれば大変だ。そりゃわしも後ろ指をさされることになるだろうさ。
朝起きてみると、ちょうどニュー・ハンプシャーから来た隣の一家がターポン・スプリングスで降りる準備をしておるところだった。ターポン・スプリングス着は午前六時五十三分。
クリアウォーターで数人が下車し、ベルエアーでも同じように降りたが、ベルエアーじゃ汽車の後部車両が巨大なホテルの真ん前に来るようになっていた。そこはゴルフ好きの連中の冬の総本山みたいなところでな、降りる客はみんな十本、十二本とクラブをぶちこんだバッグをさげてるんだ、女までな。わしが若いころはシニーと言うておったが、クラブなんぞは一本ありゃ十分だった。わしらが一本でやっておった一ゲームは、あの洒落者連中にとっちゃ何ゲームにも当たるんだろう。
汽車がセント・ピーターズバーグに着いたのは午前八時二十分だったが、降りてみると、暴動でも起きたかと思うような騒がしさだった。黒人のやつらがくちぐちにいろんなホテルの名前を喚いておるのさ。
わしは母さんに言った。
「わしらはもうどこにいくか決まっておるし、ホテルを選ぶ必要もなくて良かったなあ。みんながみんな、自分のところが最高と言っておるんだもの、選ぶのも骨だわな」
かあさんは笑ったよ。
それから小型の路線バスを見つけて、婿が手配してくれた家の住所を運転手に渡し、そこまで連れてってもらった。それからその家の持ち主のご婦人に、わしらが誰か伝えた。そのご婦人は若い未亡人で、四十八歳といっていたな。部屋に通してくれたが、明るくて風通しのいい部屋で、寝心地の良さそうなベッドとタンスと洗面台がついていた。週十二ドル、まあ場所も良かったからな。ウィリアムズ公園からたった三ブロックしか離れてなかったんだ。
セント・ピートのことをそこの人間は「町(タウン)」と呼んでおるが、サンシャイン・シティ(市)ともいう。というのも、国中広しといえど、ここほどお天道様が母なる大地に微笑みかける日が多いところは、ほかにはないからなんだそうだ。新聞社のなかには、太陽の照らない日は新聞を無料にする、というところまであったよ。なんと十一年間のうち、ただで配ったのはたった六十何回かだったっていう話だからなあ。ほかにもこんな呼び方もあったよ。「貧乏人のパーム・ビーチ」だそうだ。だがな、そこに行けるぐらいの人間なら、銀行も、もうひとつのパーム・ビーチに行く人間と、さほど変わらんぐらいには信用貸ししてくれると思うね。
わしらがそこへおるあいだ、一度ルイス・テント村へ行ってみた。そこには缶詰め旅行者協会の本部があるんだ。ああ、たぶんあんたは缶詰め旅行者協会なんて名前は聞いたことがないだろうな。ともかく、休みになると車に何やかや一式詰めこんで旅行に出かけるような連中の集まりなのさ。要するに、やっこさんたちは寝るためのテントも、車のなかで料理できるような道具も持っていて、ホテルや食堂を使わない。そうして心底からの自動車キャンプ愛好者でなければ入会できないんだ。
会員は二十万人を越えるらしく、自分たちのことを「缶詰め屋」と呼んでおったよ。というのもやっこさんたちが食うのは、ほとんど缶詰めにされたものばかりだからなのさ。テント村で会ったなかに、テキサス州ブレイディから来たペンスさんという夫婦ものがいた。旦那の方は八十の坂を超えとったんだが、家からはるばる二千六百四十キロ九百三十三メートルの道のりを車で走ってきたんだそうだ。五週間かかったらしいが、道中ずっとミスター・ペンスが運転しておったんだと。
缶詰め屋たちはアメリカ全土からやって来ておったが、夏にはニューイングランドや五大湖周辺を訪ねて、冬はフロリダ州に来る。それから州内のあっちこっちに散らばるんだそうだ。そこにおるあいだにも、フロリダ州ゲインズヴィルでは全国集会があって、ニューヨーク州フレドニアの人物が会長に選出されたそうだ。その称号がまた「世界缶切り王」だからなあ。会には歌まであって、メンバーになろうと思ったら、それを覚えねばならんのだそうだ。
缶詰め自動車 永遠に! フレー、者ども、フレー!
奮い立て、缶詰めどもよ! 敵をうち倒せ!
キャンプファイヤーを囲んで集まろう
まらもう一度集まろう
声高らかに、「我ら缶詰め自動車、永遠に!」
とまあ、こんな歌なのさ。そうして会員たちは缶詰めを自分の車に結わえ付けることになってるんだ。
そこでかあさんに、あんなふうに旅行してまわりたくないか、と聞いてみた。
「いいですよ。だけど頭のなかがカラカラ音をたててるようなひとの運転じゃ、いやだわね」
「だがわしはテキサスからずっと運転してきたペンスさんより八つも若いんだぞ」
「そうね。だけどあの人はあんたみたいに気ばっかり若いわけじゃないからね」
まったくかあさんに勝てる者はおらんね。
セント・ピーターズバーグに着いてから最初にやったのは、商工会議所に行って、名前とどこから来たかを登録したことだ。町にはいろんな州から大勢の人が来ているもんだから、その数を競うんだ。もちろんわしらみたいなちっぽけな州は分が悪いんだが、ほれ、よく言うだろう、塵も積もれば山となる、とな。商工会議所の職員が教えてくれたが、登録人数は全部ひっくるめて一万一千人、トップのオハイオ州からは千五百人強、つぎのニューヨーク州からは千二百人いたそうだ。ミシガン、ペンシルヴァニアとつづいていって、最後にキューバとネヴァダがそれぞれひとり。
最初の晩に、ニューヨークとニュージャージーから来た人間の集まりが会衆派教会であったよ。そこではニューヨーク州のオグデンズバーグから来た男が話をした。「虹を追うこと」というテーマでな。ロータリー・クラブの一員で、なかなか説得力のある話しぶりだったよ。名前は忘れてしまったが。
ともかく、何をおいてもしなくちゃならんかったのは、食事する場所を見つけることだった。あちこち行ってみて、おあつらえむきの食堂をセントラル通りで見つけたよ。わしらはほとんどそこでばかり飯を食ったんだが、平均してふたりで一日二ドルぐらいだったな。だが味は悪くなかったし、なにもかもがこざっぱりと清潔に整えられていたんだ。ものごとが清潔で、きちんと料理されていれば、男は値段なんぞガタガタ言うもんじゃないな。
二月三日はかあさんの誕生日だったんで、ちょっとは奢って、ポインセチア・ホテルで夕食をとったんだが、そこじゃ一人前とはとても言えないようなちっぽけなサーロイン・ステーキ一枚に、七十五セントもふっかけてきた。
だからかあさんに言ったよ。「なあ、おまえの誕生日が毎日じゃなかったのはまったくいいことだったなあ。さもなきゃわしらは救貧院の世話にならなきゃいけなくなる」
「いやですよ。もし毎日誕生日がきたら、あたしゃとっくにお墓に入ってなきゃいけないじゃないですか」
まったくかあさんにはかなわんね。
ホテルにはトランプの部屋があって、紳士淑女のみなさんがファイブ・ハンドレッドや最近はやりのホイスト・ブリッジなんかをやっていた。そこにはダンスをする場所もあったから、かあさんに、あんな軽やかで凝ったステップを一丁やってみないか、と聞いてみたんだ。そしたら、いやですよ、だとさ。きょうびのひとがやってるような、身をくねくねさせる踊りができるほど若くはありませんよ、だとさ。ふたりでしばらく若いもんが踊るのを眺めてたんだが、かあさんはもうたくさん、と言い出した。この口の中が変な味がする、それを消しにおもしろい映画でも見に行きましょうよ、とな。かあさんは映画がえらく好きでな。家におるときでも、週に二回は見に行くよ。
そうそう、あんたには公園の話をしてやらなくちゃな。着いて二日目にわしらも公園へ行ってみたんだが、タンパにあるのとそっくり、ただこっちの方が大きくて、おもしろそうなことがたくさん、それこそ数え切れないほどあった。公園の真ん中へんには野外ステージがあって、コンサートを座って聴けるように客席がしつらえてあった。演奏されるのも、デキシーからお涙頂戴のクラシック音楽までよりどりみどりだ。
いろんなスポーツやゲームをやる場所もある――チェスやチェッカーやドミノのようなゲームが好きな連中のための場所、クロケットや蹄鉄投げのような元気な連中のための場所。わしも昔は蹄鉄投げに関してはちょっとしたもんだったが、ここ二十年ほどは、とんとご無沙汰だった。
ともかくわしらは一シーズン一ドルの会員用チケットを買ったんだが、これは二年ほど前は五十セントだったんだそうだ。ところが下層階級の連中に来てもらっちゃ困るっていうんで、値上げしなきゃならなくなったらしい。
ともかく、かあさんとわしは蹄鉄投げをする人たちを見物して、おおいに楽しんでいたんだが、かあさんが、あの中に入って一緒にやれ、といって聞かないんだ。だから言ってやったよ。すっかり遠ざかって練習もせんようになっておるのに、そんな笑い者になるようなことはできんよ、とな。だが見たところ投げ手のうち何人かなら、練習なぞせずとも、十分相手をしてやれそうではあったがな。そうは言っても、実際腕のいいやつもいたし、オハイオ州アクロンから来た男なぞ、たいした投げっぷりだった。みんな、二月のトーナメント大会じゃ、やつが優勝するだろう、と教えてくれたよ。わしらはその大会が始まる数日前に帰ったんで、優勝したかどうかまではわからんかったが。名前は忘れたが、ともかく髪をきちんと刈り込んだ若い衆で、クリーヴランドにはロータリークラブの会員をやっとる兄貴がおるという話だった。
ともかく、二、三日のあいだ、立ったままいろんなゲームを見物したんだが、とうとうチェッカーをやる羽目になった。相手はイリノイ州ダンヴィルから来たウィーヴァーという男だ。なかなかいい手を指したが、わしの相手じゃない。いや、自慢とは思わんでくれよ。わしは実際、チェッカーにかけちゃだれにも負けはせんのだ。なんだったらここらの連中に同じことを聞いてみてくれ。このウィーヴァーとは午前のあいだ、三日ほど続けてやったんだが、やつが勝ったのはたった一度だけ、あともう一回は、やつの方が優勢ではあったんだが、ちょうど昼の時報が鳴って昼飯になったために水入りになったのさ。
わしがチェッカーをしておるあいだ、かあさんは腰かけて音楽を聞いておったよ、なにしろかあさんは音楽が大好きで、クラシックだろうがどんな音楽だろうがかまわないんだからな。それがあるとき、かあさんがそこに座っておったら、曲の合間に隣のご婦人が話しかけてきたんだ。だいたいかあさんと同じ年格好、七十か、七十一、ってとこだ。しまいにそのご婦人が名前を聞いてきたもんだから、かあさんはついでにどこから来たかも教えて、相手にも同じことを聞いたのさ、そしたらこのご婦人、いったい誰だったと思うね?
まったく、あんた、それがフランク・M・ハーツェルのかみさんだったんだよ。わしが横から奪うまで、かあさんの婚約者だった男だ。五十二年前の話だがな。
そうだよ、あんた、まったくえらいことだよなあ。
あんたにもかあさんがどれだけ驚いたかわかるかね。ハーツェルのかみさんも驚いたさ、相手が自分の亭主の友だちだと言うのを聞かされて。だがかあさんはどういった仲だったかまでは言わなかったし、わしとかあさんが結婚したために、ハーツェルが中西部へ行ったことも黙っていた。だが実際はそうだったんだ。自分の結婚がおじゃんになってから一ヶ月後には町を出て、二度と帰ってこなかった。やつはミシガンへ行って獣医になると、そのままそこ、ヒルズデイルに居着いてしまい、じき、そのかみさんと結婚したわけさ。
かあさんは勇気を奮い起こして、フランクはまだ元気でいるかと聞いてみた。そこでハーツェルのかみさんが、かあさんを蹄鉄投げをしている連中のところへ連れていった。そこでフランクが自分の番を待っておったのさ。フランクにはかあさんがすぐにわかった。五十年以上経っておるというのにな。かあさんの目を見て、一目でわかったんだとさ。
「これはこれは、ルーシー・フロストじゃないか」そう言うと、蹄鉄を放り出してゲームを止めた。
それから三人がわしを探しに来たんだが、正直言うと、やっこさんが誰なのか、ちぃっともわからんかったよ。やっこさんとわしは同じも同じ、月まで同じ歳なんだが、やっこさんのほうがどう考えても老けていてなあ。髪ひとつとっても、やつの方が断然薄かった。ひげは真っ白、それにくらべてわしは、ほれ、まだ茶色い筋が残っておるだろう? ともかくまずこう言ってやった。
「やあ、フランク、あんたのひげを見てると、北部へ戻ったような気がするぞ。北部につきものの吹雪みたいだものなあ」
「ああ」とやつは言った。「あんたの汚れたひげも、ドライクリーニングに出したらわしのぐらい白くなるんじゃないかな」
だが、かあさんもこればかりは腹に据えかねたらしい。
「そりゃ汚れなんかじゃないわ」とフランクに向かって言うのさ。「チャーリーはもう十年以上、タバコなんて口にもしたことがないんですから」
まったくそのとおりなのさ!
ともかくわしは、チェッカーの方は失礼させてもらって、じき昼時だったもんだから、みんなで食事をしようということになった。それで、向こうにはほかに知ってるところもなかったもんだから、連中いきつけの三番街の食堂に行くことになったのさ。わしらが行っているところより高かったが、料理はたいしたことはなかったな。わしとかあさんが毎日食っておるようなものを食べたのに、勘定はふたり合わせて一ドル十セントだった。フランクの方は一ドル二十セント払ったが。同じ料理ならわしらの行く店で一ドル以上はしなかったはずだよ。
飯をすませたところでわしらはふたりを家に呼ぶことにした。みんなで居間でくつろいだんだが、そこはわしらにお客があるようなときには、家主の未亡人が使わせてくれる部屋なのさ。あのころの話が始まったんで、かあさんは、あたしたちの昔話を聞いてる奥さんは、さぞかし退屈でしょう、と心配したんだが、ところがどっこい、ハーツェルのかみさんが話に入ってきたら、もうだれも口を開けるチャンスなんぞはなくなってしまうんだ。わしもおしゃべりがちと過ぎるような女はずいぶん見てきたが、あのかみさんは、そういった女が束になったところでかないっこないぐらいのすごさなんだよ。ミシガン州に住む自分の家系を微に入り細を穿ちしゃべくるわ、息子の自慢だけでも、半時間がとこ、続くんだからな。やれ、グランド・ラピッズで薬屋をやっておるだの、やれ、ロータリークラブの会員だのと。
そのうちわしとハーツェルがやっとのことで割りこめたんで、わしらはさかんに冗談を言い合った。やっこさんが馬医者だということで、さんざんからかってやったよ。
「ところでフランク、おまえさんはずいぶん景気が良さそうだが、ヒルズデイルあたりじゃさぞかし馬鼻疽病が猖獗をきわめとるのだろうな」
「まあどうにかこうにか人並みにおまんまはいただいてはおるがね。それも身を粉にして働いたおかげだな」
「そうともさ」とわし。「おまえさんのことだから、夜中の何時だって、馬のお産だ、なんだ、と呼び出されておるのだろうな」
そこまででかあさんに、もうおよしなさい、と言われてしまったがな。
ともかくふたりがいっかな帰りそうにないもんで、わしもかあさんも、何とか起きていようと、大変な思いをさせられる始末さ。たいがい、昼飯のあとは昼寝をすることにしていたんだよ。やっと帰ってくれる段になって、また明日の午前も公園で会おう、という約束をした。ハーツェルのかみさんの方が、そのあとでうちにファイヴ・ハンドレッドをやりにいらして、と言ったんだが、言った当人がその晩、ミシガン州人会があるのをすっかり忘れておったもんだから、結局、わしらがトランプの手合わせをやったのは、二日後の晩だった。
ハーツェルとかみさんは北三番街の家に住んでおったんだが、そこには寝室のほかに専用の部屋があった。ハーツェルのかみさんは、その部屋がどれだけすばらしいか、しゃべり出したらどうにもとまらなかったほどさ。わしら四人はトランプを始めたんだが、かあさんとハーツェル、わしとハーツェルのかみさんがそれぞれ組になった。ところがハーツェルのかみさんときたら、まったくひどいもので、わしの組はさんざんな目にあったんだ。
ゲームのあとで、ハーツェルのかみさんがオレンジののった皿を持ってきたから、しょうことなしに喜ぶふりをしなきゃならんかったよ。フロリダあたりのオレンジは、若い衆の髭のようなもんでな。最初のうちは悪くないと思っておっても、じきに持て余して、わずらわしいだけになるものなのさ。
翌日の晩は、こんどはわしらの家でトランプをやって、また同じ組み合わせだもんだから、ハーツェルのかみさんがおんなじようにやられてしまった。かあさんとハーツェルは、わたしたちなんてすばらしいチームなんでしょう、とかなんとか、互いを褒めそやしておったが、実のところ、そこまでうまく行った理由など、十分にわかっておったはずだ。全部合わせて十晩はやったにちがいないんだが、ハーツェルのかみさんとわしの組が勝ったのは、たった一晩だけだった。その夜だけは、ヘマをしなかったからな。
二週間目ぐらいのある日の夕方、ハーツェル夫妻に招かれて、会衆派教会に行った。ミシガン州デトロイトから来たビティングという人物が「どうして私はおしゃべりから足を洗ったか」という話をした。大柄な男でな、ロータリークラブの会員でもあり、話もなかなか気が利いておったな。
ほかにも、オクスフォードというご婦人が歌を何曲か歌ったんだが、ハーツェルのかみさんの話では、なんでもオペラのなかに出てくる歌らしかった。だが、なんにせよ、娘のエディなら、もっと上手に、おまけにあんな大騒ぎをやらかすこともなく、歌ったと思うよ。
それからグランド・ラピッズから来た腹話術師が腹話術をやってみせて、そのあと四十五歳の若いご婦人が、いろんな鳥の鳴き真似をやった。わしはかあさんにささやいた。どれもヒヨコに聞こえるぞ、とな。ま、かあさんにつつかれて、黙らされたがね。
ともかくこの出し物が終わって、わしらはドラッグストアに寄ると、清涼飲料水を飲んでから帰ったんだが、結局寝床に入ったのは夜中の十時をまわっとったよ。わしらにしてみれば映画でも見に行ったほうがよほど良かったんだが、かあさんは、ハーツェルの奥さんの機嫌を悪くするようなことをしちゃダメ、と言う。だから聞いたよ。あのミシガン出身のおしゃべりばあさんを怒らせないために、わしらはわざわざフロリダくんだりまで来たのかね、とな。
とはいえ、ハーツェルには気の毒なことをしてしまった朝もあったな。女たちが連れだって足治療医のところへ出かけたところに、公園でハーツェルに出くわしたんだ。すると、やっこさん、向こう見ずにもチェッカーを挑んできたじゃないか。
やろうと言い出したのはやっこさんでわしじゃない、だが、一ゲームも終わらないうちに、やっこさん、後悔したにちがいないね。だがやつも頑固で、まいったとも言わないまま続けるものだから、立て続けに負かしてやった。おまけにもっと悪いことに、わしがチェッカーを始めると、決まって大勢の人間が見物に来るんだが、そのときもそうだったんだ。とうとうフランクがヘマをやるのを見て、連中がからかったり、批評を始めたりしだした。こんな具合にな。
「それでチェッカーをやってるなんて言えるのかねえ」
「おはじきならできるかもしれんが、こりゃチェッカーだからなあ」
わしとしては、どうにかして二度や三度なら勝たしてやっても良かったんだよ。だが見物人がいるんじゃ、すぐに八百長も知れてしまうからな。
そのうち女どもが公園にやってきたんだが、わしとしてはこんな勝ち負けなんぞ、ちっとも話題にするつもりはなかったんだ。言ったのはハーツェルの方さ。この旦那には手も足も出なかった、とな。
「まあね」と言ったのはハーツェルのかみさんだ。「所詮はチェッカーなんでしょう? 子供のお遊びみたいなもんよ。うちの子だってちっちゃな時分、よく遊んでいたじゃない?」
「そうですな、奥さん」と言ってやったさ。「ご主人の腕前なら、子供の遊びがせいぜいだろうなあ」
かあさんはとりなそうと思ったんだろう、こう言った。
「きっと、フランクの方が上を行くようなこともたくさんあるでしょうよ」
「そうね」とハーツェルのかみさんも言った。「蹄鉄投げなら、うちの人がひけを取るようなことはないと思うわ」
「さて」とわしは言った。「やってみてもいいんだが、なにしろわしはもう十六年も投げちゃおらんからなあ」
「それもそうだな」と今度はハーツェルが言った。「わしだってチェッカーをやったのは二十年ぶりだったんだが」
「おや、わしはまた今日が初めてかと思ったよ」
「ともかくも」とやつは言った。「ルーシーとわしはファイヴ・ハンドレットであんたをひねり潰したからな」
それが誰のせいだったか教えてやってもよかったんだが、わしには自分の舌を押さえつけておくぐらいの礼儀は備わっているからな。
ともかくそういうわけで、毎晩トランプをやりたがるハーツェルのせいで、わしかかあさんか映画に行きたいような晩には、どっちかが頭が痛いことにして、連中に見つからないことを願いながら、映画館にこっそり出かけたのさ。なにもトランプがきらいなわけじゃない、ただ組む相手にはゲームに集中してもらいたいだけさ。ハーツェルのかみさんのような女と組まされて、二、三秒おきにグランド・ラピッズの息子の自慢話を聞かされては、いったいどうやってトランプができると言うんだ?
さて、ニューヨーク及びニュージャージー州人会の社交の夕べが開かれることになったんで、わしはかあさんに言った。
「この晩だけは、ファイヴ・ハンドレッドをしない口実ができたな」
「トランプはね。だけど会にはフランクと奥さんを誘わなくちゃ。ミシガンの州人会にあたしらを招待してくだすったんだもの」
「さて、と」とわしは言った。「あんなおしゃべりをそんなところへ連れていくぐらいなら、わしは家にでもいようとするかな」
するとかあさんはこんなことを言うんだ。
「あんたはだんだん偏屈になってきてますよ。確かにあの人はちょいとばかりおしゃべりが過ぎるけど、心根は優しい人です。それにフランクはいつだって、一緒にいて楽しい人じゃありませんか」
だからわしは言った。
「そんなにいっしょにおって楽しいんなら、さだめし、やつと結婚すれば良かったと思っておるのだろうな」
かあさんは声を上げて笑うと、焼きもちを焼いてるみたい、と笑うんだ。まったくなにがうれしくて牛医者に焼きもちなんぞ焼かなくてはならんのかね。
ともかくふたりを引っぱってその会に連れていき、わしらが連れて行かれたときよりはるかに楽しませてやったのはまちがいない。
パターソンから来たレーン判事が経済情勢についてためになる話をしてくれたし、ウェストフィールドのミセス・ニューウェルという人が、鳥の鳴き真似をした。こっちの物真似は、まちがいなくその人が言うとおりの鳥の声に聞こえたよ。レッド・バンクから来た若いご婦人ふたりがコーラスを何曲か聞かせてくれて、わしらが拍手してアンコールを頼むと、今度は『故郷の山々』を歌ってくれた。かあさんとハーツェルのかみさんは目に涙を浮かべておったな。ハーツェルもな。
そこで、どういうわけだかわしがそこにおることに会長は気がついたらしく、話をしてくれと頼んできたんだ。立ちあがるつもりもなかったんだが、かあさんがせっつくんでしょうことなしに立ちあがって言った。
「お集まりの紳士淑女のみなさん、こんな場所で、というかほかのところでもそうなんですが、話をしろと言われようとは夢にも思っておりませんでした。なにしろわしは、演説家のまねごとなんか、一度だってやったこともありませんからな。それでも、せいいっぱいやってみるつもりです。つねづね、人間というものは、だれだって最善を尽くすことができるもんだと考えておるからです」
それからわしはアイルランド訛りでもって、とあるアイルランド人とオートバイの小話をしてやったんだが、それがえらく受けたらしいんで、もうひとつかふたつ、ほかの話もしてやった。結局、立って話をしたのは、せいぜい二十分か、二十五分ぐらいのものだったろうが、腰を下ろしたときの拍手と歓声は、あんたにも聞かせてやりたいぐらいだったよ。ハーツェルのかみさんでさえわしのスピーチの腕前は認めてくれて、ミシガン州のグランド・ラピッズに行くようなことがあったら、きっとうちの息子もロータリークラブでお話してくれるように頼むでしょうよ、と言ったほどだった。
会が終わるとハーツェルは、家で一緒にトランプをしようじゃないか、と言いだした。だが、やつのかみさんが、もう午後九時三十分を回っているから、いまから始めるには遅すぎるわ、とやめさせた。まったくやつはトランプとなると夢中になっちまうんだからなあ。たぶん、自分のかみさんと組まなくてすむからなんだろうな。ともかく、わしらは連中から逃げ出して、家に帰って寝たよ。
つぎの日の午前中、公園で会ったとき、ハーツェルのかみさんが、最近ちっとも体を動かしてない、と言うんで、わしはクロケットをやったらどうか、と言ってやった。
ハーツェルのかみさんは、クロケットなんて二十年もやってないのよ、だけど奥さんが一緒にやってくれるんだったら、なんてことを言う。まあ最初はかあさんも首を縦には振らなかったんだが、とうとう、やってもいい、という気になったらしい、だがこれはなによりも、ハーツェルのかみさんの機嫌を損ねまいとしてだった。
ともかくふたりはネブラスカ州イーグルから来たミセス・ライアンと、ヴァーモント州ルトランドから来た、まだ若いミセス・モースというご婦人と一緒にゲームを始めた。このふたりはかあさんが足指治療に行ったときに会った人らしい。ところがかあさんときたらまったく当たりゃしないもんで、みんな大笑いするし、わしまで笑わずにはいられなかったものだから、途中でやめてしまって、背中が痛くって腰をかがめることもできやしない、と言いわけをした。それで、別の人に代わって試合は続いたんだが、今度はハーツェルのかみさんが、みんなに笑われる段になったのさ。黒いボールを思いっきり遠くまで打ったんだが、力を入れた拍子に入れ歯がコートに落ちてな。女があそこまであわてているのを見たのは初めてだったな。おまけに、あたりみんなが大笑いしてるのもな。まあ、ご本尊のミセス・ハーツェルだけは別で、スズメバチのように怒りまくって、続きをやろうとせんもんだから、試合はそこで途中やめになってしまったのさ。
ハーツェルのかみさんは、口もきかず家に帰ってしまったんだが、ハーツェルのほうはそこに残っていて、こんなことを言った。
「なあ、このあいだはあんたにチェッカーでさんざんな目にあわされたが、今日は蹄鉄投げをやってみるというのはどうだね?」
わしは十六年間も蹄鉄投げなんぞしていないから、と断ったんだが、かあさんはこう言うんだ。
「やってみなさいよ。昔はとってもうまかったんだから、じきに思い出せますって」
まあ、長い話を端折ると、言うとおり、やってみることにしたんだ。十六年もやったことのないような蹄鉄投げなんて、やらないほうがいいことなどわかってはいたんだがな。それでも、ハーツェルを笑わかせてやりたかったのさ。
始まる前にかあさんはわしの背中を叩いて、頑張って、と言ってくれた。それから競技が始まったんだが、すぐにこりゃまずいぞ、と思ったね。というのも、なにしろ十六年ぶりということで、距離の感じがつかめない。おまけに蹄鉄の、ちょうど親指をかける場所のめっきがはげておったものだから、ほんの数回も投げるうちに皮がむけてしまって、投げるなんてとんでもない、持ち上げるのさえ痛いのなんの、というありさまになってしまった。
いや、ハーツェルもその、見たこともないほどひどい蹄鉄を投げたんだがな、投げておるところだけ見たらあんたも、とてもわしにかないそうにもないと思っただろうよ、それがだな、やつがまた、見たことがないほど運が良くてな、百五十センチから百八十センチほども手前に落ちたくせに、跳ね上がって、杭にスポッとはまっちまうんだからなあ。そこまで運のいいやつには、どうやったって勝てっこないさ。
わしらの試合を見ていた人は多かったが、ご婦人たちも、かあさんのほかにも四、五人がとこいた。ところがハーツェルときたら、投げるときにもかみ煙草を噛んでいたんだが、どっちに顔を向けてそいつを吐き出すか、一向に気にかけちゃいないようすだった。だもんで、ご婦人たちはずっとヒヤヒヤしていたようだ。
やつぐらいの歳になったら、ふつう、礼儀というものをもちっとは気にかけるもんじゃないのかね。
ま、長い話を端折るとだな、やっと距離感をつかみかけたころに、親指の怪我のせいで、もうそれ以上は続けられなくなってしまったんだ。怪我をした箇所をハーツェルに見せたが、やっこさんもわしがもう続行できないのはわかったんだろう、なにしろ皮がむけて、血がでていたんだからな。たとえわしがそれをじっと我慢して続けようとしたところで、かあさんがわしの親指を見たなら、させちゃくれなかっただろうな。だからわしは競技を止めた。ハーツェルは、スコアは19対6だ、とかなんとか言っておったが、わしにとっちゃ知ったことではなかった。どうだってよかったんだ。
それからかあさんとわしは家に戻った。そこで、わしは言ったんだ。ハーツェル夫婦にはうんざりだ、どうにかして縁を切るわけにはいかんかな、とな。ところがかあさんときたら、あのだらだら続くトランプを、連中の家でやろうと約束をしておったのさ。
わしとしちゃ親指はズキズキ痛むし、気分だって良くはなかった。きっと、だからなんだろうと思う、わしもふだんの状態ではなかったんだ。トランプが終わりかけたころ、ハーツェルのやつがこんなことを言い出したんだ。いつもかあさんがパートナーなら、もう金輪際、負けなしだな、とな。
だから言ってしまったんだ。
「五十年まえなら、その絶対に負けたりしない相手と組めるチャンスがあったのにな。ま、その相手を押さえておけるほどの男じゃなかったってことだな」
すぐに、しまった、と思ったよ。こいつは悪いことを言った、って。ハーツェルには言うべき言葉も見当たらなかったようだし、やつのかみさんも何も言えなくなってしまった。かあさんは、なんとかなだめようと、うちのひとはお茶より強いものを飲んだにちがいない、そうでなきゃあんなバカなことを言うはずがないから、なんて言ったよ。だがハーツェルのかみさんは、まるで氷山みたいにガチガチに凍ってしまって、帰っていくわしらに声一つかけなかったよ。わしらが出ていったあとで、さぞかしふたりは楽しい時間を過ごしたにちがいない。
そこを出るとき、かあさんはハーツェルに声をかけた。
「チャーリーが言った世迷い言なんて気にしないでね、フランク、あのひと、蹄鉄投げとトランプでさんざんあなたに負けたから、悔しくってあんなことを言っちゃったのよ」
もちろんかあさんは、わしの口が滑ったことを取り直そうとしたんだが、確かにわしにも腹を立てておったのさ。わしだって自分を抑えようとはしたんだがね。ともかく、そこの家を出るかでないかのうちに、かあさんはすぐにそのことを持ち出して、わしがやらかしたことを責め立てた。
だがな、そこまでガミガミ言われなきゃならんことをしたわけじゃない。だから言ったんだ。
「蹄鉄投げの名手で、トランプもうまい、そういうやつと結婚したら良かったと思ってるんだろう」
「ふん、少なくともあの人は、親指をちょっとすりむいたぐらいで、投げるのをやめてしまうような赤ちゃんじゃありませんからね」
「そういう自分はどうなんだ」とわしは言った。「クロケットをやってるときは、いい物笑いになったじゃないか。おまけに背中を痛めてもうできないようなふりをして」
「ほんとうにそうだったんです。だけどね、わたしはあんたが親指を痛めたときでも、笑ったりはしませんでしたよ。なのにあんたはあたしの背中がつったとき、どうしてあんなに笑ったのよ」
「あれが笑わずにすませるもんか!」
「だけど、フランク・ハーツェルは笑わなかった」
「そりゃ結構。じゃ、どうしてやつと結婚しなかった?」
「そうね、結婚してたら良かったって思うわ」
「わしだってそうしてくれたほうが助かったのにな」
「その言葉、忘れませんからね」かあさんはそう言うと、それからまる二日というもの、わしとは一言も口をきかなかった。
つぎの日、公園でまたハーツェル夫妻に会った。わしは謝るつもりだったんだが、ふたりともちょっとうなずくぐらいしかしないのさ。二、三日もしないうち、人づてに夫妻がオーランドに向けて出発したという話を聞いた。
まったくそっちが最初の予定地だったら良かったのにな。
かあさんとわしはベンチに座って仲直りした。
「ねえ、チャーリー、これはあたしたちの金婚旅行なんですよ。あたしたち、それをこんなばからしいケンカで台無しにしようとしてるのよね」
「まったくそうさ、だが、おまえはあのハーツェルと結婚した方が良かったとほんとに思っておるのかね?」
「そんなわけがないでしょうに。だけどあんただって、あたしがハーツェルと結婚した方が良かった、なんて思っちゃいないでしょうね」
「わしはただ疲れて、カッカしておっただけさ。おまえがハーツェルではなくて、わしを選んでくれたことは神さまに感謝しておる。おまえのような女は世界広しと言えど、ほかにはおらんからな」
「ハーツェルの奥さんは?」
「そりゃ勘弁だ! トランプはおっそろしく下手くそだし、おまけにクロケット場で入れ歯を落っことすような女だぞ!」
「ま、ご婦人に向かって平気で唾を吐いたり、チェッカーのへたっぴな人にはちょうどお似合いの奥さんってわけね」
そうして、わしはかあさんの肩に腕を回して、かあさんはわしの手を軽く叩いて、わしらはしっぽりした気分を味わったってわけさ。
わしらがセント・ピーターズバーグにいられるのも二日を残すだけになった日、かあさんはわしに、ロードアイランド州キングストンから来たケンドール夫人を引き合わせた。足治療医のところで会ったらしい。
それからケンドール夫人はご亭主を紹介してくれたんだが、食料品店をやっておるという話でな。ふたりのあいだには、息子がふたりと孫が五人、いるんだそうだ。息子のひとりはロードアイランドのプロヴィデンスに住んで、ロータリークラブの会員というだけじゃなく、エルクス慈善保護会でもかなりな地位を占めておるらしかった。
このふたりは一緒にいて楽しい人たちでな、最後のふた晩、わしらは一緒にトランプをやったんだ。ふたりともなかなかのやり手で、ハーツェル夫妻より先に会っておればなあ、と思ったものだった。だがケンドール夫妻は来年の冬もまた来ると言っておったから、わしらがまた行くことにしたら、また会うことになる。
わしらがサンシャイン・シティを出立したのは二月十一日の午前十一時のことだった。昼のフロリダを通っていったおかげで、州のいろんなところを見ることができた。なにしろ来たときは夜だったからな。
ジャクソンヴィルに着いたのは、午後七時、そうして八時十分にそこを出発してから、ノース・カロライナのフェーエットヴィルには翌朝九時に到着した。そこからワシントンD.C.には午後六時半着、汽車は三十分遅れた。
わしらがトレントンに着いたのは午後十一時一分だったが、あらかじめ娘と婿に電報を打っておいたので、汽車のところまで迎えに来てくれたよ。そこから娘たちの家に行ってその晩は泊めてもらった。ジョンの方は一晩中でも旅行の話を聞きたそうなようすだったが、エディが、疲れてるでしょうから、早く休んで、と言ってくれたのさ。
そのつぎの日、わしらはそこからまた汽車に乗って、無事帰宅することができた。ちょうど一ヶ月と一日の外泊ということになる。
おっと、かあさんが来た。わしもそろそろ黙るとするかな。
The End
語りの向こうに
この作品は、まぎれもないホラー・ストーリーである。
さて、ラードナーといえば、何といっても有名なのが「散髪」だろう。客を相手にしゃべる床屋の話の向こうに、アメリカのスモールタウンに暮らすさまざまな人びとの人間模様が浮かびあがる。わたしたちはその会ったこともない人びとのあれやこれやに、眉をひそめたり腹を立てたり、同情したり胸を痛めたり、これは事故なのだろうか、それとも殺人事件なのだろうか、と考えたりする。そうして最後に、この床屋はどこまで知っているのだろうか、なんのためにこんな話をしたのだろう、と考えてしまうのだ。
だが、この「金婚旅行」では事件すらおこらない。わたしたちはただ、一方的にしゃべりまくるおじいさんの話の集中砲火にさらされるだけなのである。
「散髪」や「アリバイ・アイク」を読んだあとに初めてこの短篇を読んだときは、たいしたこともおこらないし、あまりおもしろくない話だな、と思ったものだ。けれど、田舎町に住む、波瀾万丈とは無縁の生活を送るおじいさんの話なのである。たいていの人は殺人事件に出くわすこともないし、何かの目撃者になったり、事件に立ち会ったりすることもない。会う人も、自分と同じような、とくに劇的なこともない人だ。そんな「ありきたり」の人の話が劇的なはずがない。「ありきたりの、それ自体ではたいしておもしろくもない話をいかにおもしろく読ませるか」というのが、ラードナーの芸なのである。
確かに年配の人のなかには、とくにおばあさんに多いのだが、こういう人がいる。袋のなかに話をぎっしり詰めていて、聞き手をつかまえるやいなや、袋の中身をあけていく人が。こまごまとしたあれやこれやが出てくるわ出てくるわ、その多くは聞き手にとってはどうでもいいようなことなのだが、全部出すまでは決して放してくれない。求めているのは聞き手であって、意見や感想ではないのだ。
このチャーリーじいさんの袋も、ぎっしりつまっている。以前、平日昼間の新幹線に乗っていたとき、ひとりで旅行しているらしい、座席に正座したおばあさんが、駅に着くたび、小さなテーブルに身を屈めて、メモ帳に駅名と到着時刻を記入しているのを見たことがある。いったい何のためなのだろう、とは思ったけれど、おそらくそのおばあさんにとっては、午後二時四十分に名古屋に到着したことは、きわめて重要だったにちがいない。チャーリーじいさんの地名と汽車の到着時刻も、おそらくはそのメモのたまものだろう。同じ話をなんどもなんども繰りかすうちに、メモの助けを借りずとも、つつがなく話ができるまでになったのである、きっと。
その人がどこから来たか。何歳か。ロータリー・クラブの会員であるか否か。チェッカーやトランプや蹄鉄投げの勝ち負け。チャーリーじいさんの興味の範囲はおそろしく限定されている。おそらく結婚に至るまでには、平凡なりに波瀾万丈のいきさつがあったにちがいないし、五十年の結婚生活にも、山も谷もあったのだろうが、このときのおじいさんにとっては、トランプで五十年前の恋敵にしてやられ、チェッカーで溜飲を下げ、蹄鉄投げでしてやられたことのほうが、はるかに重大な出来事なのである。なんだかなあ、と思うのだが、同時に、人間というのはそういうものなんだろうなあ、とも思うのである。
さて、なぜこの話がホラーなのか。
このおじいさんに輪をかけておしゃべりなおばあさんが戻ってきたからだ。
ありがたいことに読者は「金婚旅行 おばあさん篇」は聞かなくてすむ。けれど、ラードナーの筆によるおばあさんの話なら、ちょっと聞いてみたくもある。
おばあさんは、ハーツェルの奥さんのことをどう見ていたのだろう。ハーツェルのいまの姿を見て、結婚相手と較べたりしなかったんだろうか。もうひとつの、こうだったかもしれない結婚生活のことをどう思ったんだろう。だが、それはおそらく短篇では終わらないにちがいない。
初出Oct.21-31 2007 改訂Nov.05, 2007
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