ここでは Flannery O'Connor の短篇 "A Good Man Is Hard To Find" の翻訳をやっています。
フラナリー・オコナーはアメリカの作家で、南部ジョージア州で生まれ、三十九年の短い生涯の多くをこの地で過ごしました。 十五歳のとき、父親を膠原病の一種である全身性エリテマトーデス(全身性紅斑性狼瘡)で失い、その十年後、彼女自身も発病します。顔の下半分と脚の骨が徐々に柔らかくなっていくという確実に進行する病のなかで、死と向かい合いながら、二十年足らずのあいだに、オコナーはふたつの長編と、ふたつの短編集を発表します。その作品はいずれも、暴力と死、そうしてカトリックの信仰の問題が繰りかえし描かれていきます。
1955年に発表されたこの作品でも、暴力に満ちた極限的な状況が描かれますが、そのなかで登場人物はいったい何に気がつくのか。短い作品を読むことを通して、わたしたちは重く深い経験のなかに入っていくことになります。
原文は
http://pegasus.cc.ucf.edu/~surette/goodman.html
で読むことができます。
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善人はなかなかいない
by フラナリー・オコナー
―― 道の脇に竜がいて、通りかかる人びとをねらっている。
むさぼり食われることのないように気をつけなさい。
魂の父の御許に向かうわたしたちは、
竜の傍らを行かなくてはならないのだから。
(エルサレムの聖シリル)
お祖母さんはフロリダへは行きたくなかった。親戚が住む東テネシーに行きたくて、なんとかベイリーの気持ちを変えさせようと、ことあるごとにそう言った。ベイリーはひとり息子で、お祖母さんと一緒に住んでいる。いまは食卓の椅子に浅く腰かけ、うつむいて、雑誌のスポーツ欄のオレンジ色のページを読んでいるところだ。
「ねえ、ちょっとこれ、見ておくれよ、ベイリー」お祖母さんは言った。「ほらここだよ、読んでみて」立ったまま、片手を薄い腰に当て、もう一方の手に持った新聞を、ベイリーのはげ頭の前で振ってみせる。「自分のことを“はみ出し者”だなんて呼ばせてる男が、連邦刑務所から脱走してフロリダに向かったんだってさ。おまえもそいつがどんなことをしでかしたか、自分で読んでごらんよ。こんな犯罪者が野放しになってるようなところに、子供たちを連れていくなんてごめんじゃないか。そんなことあたしだったら、自分の良心に申し開きがたたないね」
ベイリーが、読んでいる雑誌から顔を上げようともしないので、お祖母さんは振り返って、子供たちの母親の方を向いた。スラックスをはいた若い女で、幅の広い無邪気な顔は、どことなくキャベツを思わせる。緑色のスカーフを頭のてっぺんで結んで、その先がふたつ、ウサギの耳のように立っていた。女はソファにすわって、赤ん坊にあんずをびんからすくっては食べさせている。
「子供たちは前にもフロリダへ行ったじゃないか」お祖母さんは言った。「あんたたち、今度はどこかよそへ連れてってやった方がいいよ、そしたらちがうところも見られるし、見聞も広くなる。東テネシーには、まだ行ったことはなかったよね」
子供たちの母親は聞いていなかったようだが、八歳になるジョン・ウェズリーという、眼鏡のずんぐりした男の子が言った。
「フロリダに行きたくないんだったら、自分だけ家にいたらいいのに」男の子と妹のジューン・スターは床に広げた新聞のマンガを読んでいる。
「女王様にしてやるから、って言われたって、一日だっておとなしく留守番してるような人じゃないよ」ジューン・スターは金髪の頭を上げもせずに言った。
「だけどね、あんたたち、もしあの“はみ出し者”につかまっちゃったらどうするの」おばあさんは聞いた。
「やつの横っ面をひっぱたいてやる」ジョン・ウェズリーが言った。
「百万ドルあげるから、って言ったって、留守番してくれない」ジューン・スターが言った。「何か見逃したら大変、ぐらいに思ってるんでしょ。どこだってついてくるんだから」
「わかったよ、お嬢ちゃん」お祖母さんは言った。「もうあんたの髪をカールなんてしてやらないからね、覚えておきなさいよ」
ジューン・スターは、あたしのカールは天然だから、してくれなくて上等よ、と言い返した。
翌朝、お祖母さんは真っ先に車に乗りこんで出発に備えた。一方の隅だけ、カバの頭のようにふくらんだ大きな黒い旅行カバンを運びこんで、その下に猫のピティ・シングを入れたバスケットを隠した。この子を三日間も家にほったらかしにすることなんかできるもんか。あたしのことを恋しがるだろうし、ガスこんろの火口で爪を研がないとも限らない。もしそんなことでもしたら、ガス中毒になって死んでしまうじゃないか。息子のベイリーの方は、ネコを連れてモーテルに泊まるのをいやがっていたのだ。
お祖母さんは後部シートの真ん中、ジョン・ウェズリーとジューン・スターがその両脇に陣取った。ベイリーと子供たちの母親と赤ん坊は前の席にすわり、一行は八時四十五分にアトランタを出た。車の走行メーターは89,946キロを指している。お祖母さんは、戻ってきてからどれだけ走ったかわかればおもしろいと思って、この数字を書きとめておいた。市街地を抜けるまで、二十分ほどかかった。
老婦人は体を楽にして白いコットンの手袋をぬぐと、ハンドバッグと一緒に、後部ガラスの手前の出っ張りに載せた。子供たちの母親は、例によってスラックスをはき、いつもの緑のスカーフを頭に結んでいる。だがお祖母さんの方は、つばに白いスミレを挿した紺色の麦わら帽をかぶり、紺に白い小さな水玉の散ったドレスを着ていた。襟と袖口はレースで縁取られた白いオーガンジーで、襟元には匂い袋で作った紫のスミレの花束を留めている。たとえ事故が起こっても、ハイウェイに横たわる遺体を見れば、誰だってこの人はレディだったのだと思ってくれるだろう。
お祖母さんは、今日は願ってもないドライブ日和になりそうだね、暑すぎもせず、涼しすぎもせずでね、ベイリー、制限速度は90キロだよ、警官ってのは看板の裏や、木立の陰なんかに隠れてて、スピードを落とす間もなく、いきなり飛び出してくるんだから、と、おしゃべりを続けた。おもしろい風景を見つけては、細々と報告する。ストーン・マウンテンの岸壁の彫像や、ハイウェイの両側に沿ってつづく青い御影石、あざやかな赤に細い紫の筋の入った粘土層の斜面。緑のレース模様を地面に広げたような野菜畑。木々は白銀の光を全身に浴びて、どれほどみすぼらしい木も輝いていた。子供たちはマンガを読み、母親はまた眠り込んでいる。
「早くジョージアなんか出ちゃってよ、こんなとこ、ろくに見るものもないからさ」ジョン・ウェズリーは言った。
「あたしがちっちゃな男の子だったら」お祖母さんは言った。「自分のふるさとをそんなふうには言わないけどね。テネシーには山があるし、ジョージアには丘があるのよ」
「テネシーなんて田舎臭いゴミためだし、ジョージアだってしみったれたとこさ」
「ほんと、そうよね」ジューン・スターが言った。
「あたしの頃は」お祖母さんは静脈の浮き出た、薄い手を組んだ。「子供たちは自分の生まれ故郷やお父さんお母さんや、ほかにもいろんなものに対して、敬意を払ったもんだったけどね。そのころの人はみんな、ちゃんとしてたよ。おや、あそこにちっちゃな黒んぼの坊やがいるじゃないか!」お祖母さんは小屋の入り口に立っている黒人の子供を指さした。「まるで絵みたいじゃないか」お祖母さんがそう言い、三人は振り返って、後ろの窓から黒人の子供を眺めた。その子は手を振った。
「あの子、ズボン、はいてなかった」ジューン・スターが言った。
「きっと持ってないんだろうよ」お祖母さんが教えた。「田舎の黒んぼの子供ってのは、あたしたちみたいにいろんなものを持ってるわけじゃないのさ。もしあたしに絵が描けたら、あれを描くんだけどねえ」
子供たちはマンガを交換した。
お祖母さんが、赤ん坊はあたしが抱っこしててあげるよ、と声をかけたので、子供たちの母親は、座席越しに赤ん坊を渡した。お祖母さんは赤ん坊を膝にのせて揺すってやりながら、通り過ぎてゆくものを教えてやる。目をぐるりと回し、口をすぼめて、皺の寄った痩せた顔を、赤ん坊のすべすべしたやわらかな顔に近づけた。ときどき赤ん坊は夢見るような笑顔を見せた。車は広大な綿畑を過ぎていく。真ん中に柵で囲われた墓が五つか六つ、小島が浮かぶように点在していた。「あのお墓を見てごらん!」お祖母さんが言った。「古い家族があそこに埋まってるんだよ。大農園の持ち主だったんだ」
「大農園ってどこ?」ジョン・ウェズリーが聞いた。
「風と共に去りぬ、ってね」お祖母さんは笑った。「あはは」
子供たちは持ってきたマンガを全部読んでしまうと、弁当を広げて食べた。お祖母さんはピーナツ・バター・サンドイッチをひときれとオリーブをひとつ、つまんでから、子供たちに、空き箱や紙ナプキンを窓から捨てるんじゃありませんよ、と注意した。もうすることがなくなったので、ひとりが雲をひとつ選んで、ほかのふたりがそれが何に見えるか当てっこするゲームを始めた。ジョン・ウェズリーが雌牛によく似た雲を選び、ジューン・スターがきっと雌牛だわ、と答えると、ジョン・ウェズリーは、ちがうよ、車だよ、と言う。そこでジューン・スターは、ずるい、と怒り出し、ふたりはお祖母さんをはさんで、相手をひっぱたき始めた。
ふたりとも静かにするんだったら、お話を聞かせてあげる、とお祖母さんが言った。話をするお祖母さんは、目玉をぐるりと回したり、頭を振ったりして、ひどく芝居がかった仕草をした。昔、あたしがお嬢さんだったころにね、ジョージア州ジャスパーに住むミスター・エドガー・アトキンス・ティーガンって人から、結婚を申しこまれたのさ。その人は、たいそう男前の紳士でね、毎週土曜日のお昼に、E.A.T.と自分のイニシャルを彫ったスイカを届けてくれたのさ。さて、ある土曜のこと、ミスター・ティーガンはスイカを持ってきてくれたんだけど、家には誰もいなかったんだよ。そこでティーガンさんはポーチの前にそれを置いてね、馬車でジャスパーに帰っちゃったの。ところがスイカはあたしの手に入らなかった。というのも、黒んぼの男の子が「E.A.T.(食べろ)」って書いてあるのを見て、食べちゃったのさ!
この話はジョン・ウェズリーの笑いのツボにはまったらしく、いつまでもげらげら笑い続けた。ジューン・スターはちっともおかしくないようだ。あたしは土曜日にスイカしか持ってこないような男となんか結婚しない、と言った。お祖母さんは、ミスター・ティーガンと結婚してたらよかったよ、と言った。あの人は紳士だったし、コカコーラの株が初めて売り出されたときに、さっそく買ったんだよ。ほんの数年前に亡くなったけど、そのときには大金持ちになってたよ。
一行は“タワー”という店に寄って、バーベキュー・サンドイッチを食べることにした。タワーは木枠に漆喰の壁がはまった建物で、ガソリンスタンドとダンスホールも兼ねている。ティモシー郊外に広がる森の開けた場所に建っていた。レッド・サミー・バッツという太った男が経営していて、建物のあちこちから看板が突き出しているだけでなく、十数キロ一帯に渡ってハイウェイ沿いに「レッド・サミーの大評判バーベキューはいかが。レッド・サミーの店は大人気! レッド・サムの店! いつも笑顔のふとっちょおじさん 退役軍人 レッド・サミーはみんなのお気に入り!」という看板を出していた。
レッド・サミーはタワーの外の地べたに寝っ転がって、トラックの下に頭を突っこんでいた。その横に三十センチほどの灰色のサルが、こぶりのセンダンの木につながれて、なにやらしきりにキャッキャッと言っている。子供たちが車から飛び出し、一目散に自分に向かってくるのを見て、あわてて木に戻ると、一番高い枝に駆け上った。
タワーのなかは薄暗く、細長い部屋の片方はカウンター席、もう片方はテーブル席になっていて、真ん中にダンスフロアが取ってある。一家がジュークボックス横の広いテーブルに腰をおろすと、レッド・サムの女房、背の高い、よく日に焼けて、肌の色を薄くしたような髪と目をした女が、注文を取りにやってきた。子供たちの母親は、十セント銅貨をジュークボックスに入れて『テネシー・ワルツ』をかけ、お祖母さんは、この曲を聴いたら、あたしゃいつでも踊りたくなるよ、と言った。お祖母さんはベイリーに、踊らない? と声をかけたが、息子の方は、じろりとにらんだだけだった。お祖母さんの陽気な気性を受け継いではいなかったし、遠出を続けているせいで、気が立っていた。お祖母さんの茶色い目はきらきらと輝いている。頭を左右に揺すり、すわったまま、踊っている気分に浸っているらしかった。ジューン・スターが、タップダンスができるのにして、と母親に言い、母親はもうひとつ十セント玉を入れて、速い曲をかけた。ジューン・スターはダンスフロアに出て、タップを踏み始めた。
「おやまあ、かわいいこと」レッド・サムの女房は、カウンターから身を乗り出して声をかけた。「あんた、うちの子にならない?」
「絶対やだ」ジューン・スターは言った。「百万ドルもらったってこんなおんぼろなとこに住むのはいやよ」走って元のテーブルに戻る。
「ほんとにかわいいわ」女は礼儀正しく笑顔を作って、繰りかえした。
「そんなこと言って、恥ずかしいとは思わないの?」お祖母さんは声を殺して叱った。
レッド・サムが入ってくると、女房に向かって、いつまでもカウンターで油を売ってないで、さっさと注文の料理を作れ、と言った。腰骨にカーキ色のズボンが引っかかり、その上に穀物袋のようにふくらんだ太鼓腹が、シャツの下でゆさゆさ揺れている。近くのテーブルにやってきて腰を下ろすと、ため息にもヨーデルにも聞こえるような声を出した。「こう景気が悪くちゃどうにもなりませんや」もう一度繰りかえす。「もう、どうしようもありませんや」灰色のハンカチで赤ら顔をぬぐった。「今日び、いったい誰を信用していいもんやら。そうじゃありませんかい?」
「昔にくらべて、みんなが世知辛くなったんですよ」お祖母さんが言った。
「先週、男がふたり、来たんでさ、クライスラーを運転してね。古い、ガタの来た車だったが、いい車だったし、乗ってるやつらもまっとうに見えた。工場で働いてるって言うもんだから、ガソリン代をつけにしてやったんでさ。まったく、どうしてそんなことをしちまったかね」
「それは、あんたが善人だからですよ!」お祖母さんはすぐさまそう答えた。
「なるほどね、そうかもしれん」レッド・サムはその答えに感じ入ったような声を出した。
女房が注文の品、五皿をいっぺんに持ってきた。トレーを使わず、それぞれの手でふた皿ずつ持って、腕に一皿載せている。「神様のお作りになった緑の大地に、信用できる人間がただのひとりもいないんですからねえ」と女房は言った。「信用できる人間なんて、いやしませんよ、ただのひとりもね」重ねて言うと、レッド・サミーをちらりと見やった。
「あの犯罪者のこと、読みました? “はみ出し者”とかいう。脱獄犯ですよ」お祖母さんは聞いた。
「そいつがこの店を襲ったとしても、あたしは驚かないわね」女房が言った。「ここに店があるって聞きつけて、襲いに来たとしてもね、驚きゃしませんよ。もしそいつが、レジのなかにはたった二セントしか入ってないって聞きつけたとしてもね、あたしゃちいっとも……」
「いい加減にしろ」レッド・サムが言った。「お客さんにコーラを持ってくるんだ」女房は残りの注文の品を取りに行った。
「善人はなかなかいないね」レッド・サミーが言った。「何もかも悪くなるばっかりだ。昔は出かけるときだって、スクリーン・ドアに掛け金もかけずに出かけたもんだったがな。もうそんなことはできやしないね」
店の主人とお祖母さんは、良かった時代の話をあれこれとした。老婦人によれば、いまのようになったのも、なにもかもヨーロッパのせいだという。ヨーロッパの連中は、アメリカ人が金でできてるとでも思っているらしい、とお祖母さんは言い、レッド・サムも、こんな話をしてもしょうがないんだが、あんたの言うとおりだ、と同意した。子供たちは白い日差しの降り注ぐ戸外へ飛び出し、センダンのレース編みのような葉陰にいるサルを眺めた。サルはノミをつかまえるのに夢中で、まるでごちそうかなにかのように、大事そうに噛みつぶしていた。
一家はふたたび昼下がりの暑い道を走り出した。お祖母さんはうつらうつらしかけては、数分ごとに、自分のいびきで目を覚ます。トゥームスボローのはずれで目が覚めたときに、若い頃、この近くの古い大農園を訪ねたことを思い出した。
そのお屋敷はね、正面に白い円柱が六本も立っていて、そこまで広い樫の並木道がどーんと通ってるんだよ。両側に木の格子がはまった小さなあずまやがひとつずつあってね、庭を散歩した恋人たちが、そこにすわって休むんだ。お祖母さんは、そこに行くにはどこで街道を外れたらいいかまで、はっきりと思い出していた。ベイリーがそんな古い屋敷を見るために時間を無駄にするのをいやがることは、よくわかっていたが、話せば話すほど、そこをもう一度見てみたい、一対のあずまやがそのまま建っているかどうか確かめてみたい、という気持ちはつのる。「そのお屋敷には隠し戸があるんだよ」そう気を引いてみた。そんなものはなかったが、そうだったらどんなにいいだろう、と思ったのだ。「言い伝えによるとね、シャーマン将軍が攻めてきたときに見つからないように、家宝の銀器を全部そこへ隠したんだけど、それきりわかんなくなっちゃったんだってさ……」
「すげえや!」ジョン・ウェズリーが言った。「見に行こうよ! そいつを探すんだ! 木の壁板を全部ひっぺがして探してやろうよ! どこで曲がるの? ねえ、パパ、そこに寄ってもいいだろう?」
「隠し戸のあるお屋敷なんて、見たことないよ!」ジューン・スターがわめいた。「隠し戸のある屋敷を見に行くんだ! ねえ、パパ、隠し戸のある屋敷に行こうよぉ!」
「すぐそこなんだよ」お祖母さんが言った。「二十分もかかりゃしないんだから」
ベイリーはまっすぐ前を見たままだった。グッと食いしばった歯の間から「だめだ」と押し出すように言った。
子供たちは、隠し戸のある屋敷が見たいよ、と金切り声でわめき散らした。ジョン・ウェズリーは前の席の背もたれを蹴飛ばし、ジューン・スターは母親の肩に抱きついて、耳元で、休暇旅行だっていうのにちっとも楽しくないとか、あたしたちがやりたいことをちっともさせてくれないとかと、手のつけられないほど泣きわめいた。赤ん坊までが泣き出し、ジョン・ウェズリーは父親の腎臓に響くほどの勢いで座席を蹴った。
「もうわかった!」父親はそう怒鳴ると、車を路肩に寄せて停めた。「静かにしろ。ちょっとのあいだ、口を閉じておくんだ。黙らないんだったら、どこにも行かないぞ」
「子供たちにはほんとにいい勉強になるんだよ」お祖母さんは小さな声で言った。
「わかったから」ベイリーは言った。「だがな、覚えておくんだ。こんなことで寄り道するのは一回きりだからな。これが最初で最後だぞ」
「一キロ半ほど戻って、舗装してない道に入るの」お祖母さんは教えた。「通り過ぎたとき、あたしはちゃんと見ておいたんだよ」
「未舗装道路か」ベイリーは不満の声を上げた。
車が向きを変えて、舗装していない道に入るまでのあいだ、お祖母さんはその屋敷について、ほかにもいろんなことを思い出しながらしゃべった。正面玄関の上にはまっていたきれいなガラスや、玄関ホールのろうそくのともるランプ。ジョン・ウェズリーは、隠し戸は暖炉のなかにあるんじゃないか、と言った。
「家のなかには入れないだろう」ベイリーが言った。「誰がそこに住んでるかわからないんだから」
「みんなが玄関のところで話してるあいだ、オレが裏口へまわって窓から入ってやるよ」ジョン・ウェズリーが言った。
「みんな車のなかにいたらいいじゃない」母親が言った。
舗装していない道に入った車は、ピンクの土埃を巻き上げ、大きく弾みながら走った。お祖母さんは道がまだ舗装されてなかった時代を思い出し、あの頃は五十キロ進むのに丸一日かかったもんだよ、と話した。道は起伏が激しく、いきなり溝があるかと思えば、危なっかしい崖っぷちで急カーブしていたりした。急に丘の頂上に出て、周囲に広がる木立ちの青いてっぺんを見渡していたかと思うと、すぐに赤土の窪地に入り込み、泥をかぶった木々を、下から見上げる羽目になった。
「いいかげん抜けられるんだろうな」ベイリーが言った。「さもなきゃ引き返すぞ」
数ヶ月やそこらは、この道を行った者はなさそうだった。
「もうちょっとだよ」お祖母さんはそう言ったが、自分が言った瞬間、とんでもないことを思い出した。そのことに気がついて、すっかりうろたえたお祖母さんの顔は紅潮して目がまん丸くなり、脚がぎくっと突っ張り、その拍子に隅に置いていた旅行カバンがひっくり返った。旅行カバンがずれた瞬間、バスケットにかぶせておいた新聞紙のおおいが持ち上がり、猫のピティー・シングがニャアと鳴いて、ベイリーの肩に飛び乗った。
子供たちは床に叩きつけられ、母親は、赤ん坊をぎゅっと抱いたまま、ドアから外の地面に放り出された。老婦人は前の座席へ転がった。車は一回転したあと、道路下の峡谷の底で、元通り天井を上にして止まった。ベイリーはそのまま運転席に残っていて、その首には、灰色の縞の、頭の大きなオレンジ色の鼻面の猫が、毛虫のようにしがみついていた。
子供たちは自分の手足が動かせるとわかると、すぐに車から這い出して、大声をあげた。「事故だあ!」お祖母さんはダッシュボードの下で海老のように体を丸め、ケガをしてればいい、そしたらベイリーも、いまたちまち、あたしを怒鳴りつけたりしないだろう、と考えていた。事故の直前に思い出した怖ろしいことというのは、自分があんなにはっきり思い出したあの屋敷は、ジョージアではなくテネシー州にあったということだった。
ベイリーは両手で猫をひっぺがすと、窓の外の松の木に投げつけた。それから車を降りて、子供たちの母親を捜した。母親は赤土の崩れかけた溝の縁に腰を下ろし、泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていた。顔に切り傷ができ、肩を脱臼しただけですんだようすだった。「事故に遭っちゃった!」子供たちは金切り声をあげながら、狂喜乱舞していた。
「だけど誰も死ななかった」ジューン・スターは、お祖母さんが車から脚をひきずりながら出てくるのを見て、がっかりしたように言った。お祖母さんの頭にはまだ帽子がピンで留めてあったが、正面のつばは妙に小粋な角度で折れ曲がり、すみれの花束は横から下がっていた。子供たちを除いた一行は溝に腰を下ろし、衝撃から立ち直ろうとしていた。みんな体をぶるぶる震わせていた。
「きっと車が通りかかるわ」子供たちの母親がかすれた声で言った。
「あたしは内臓を打ったらしいよ」お祖母さんが脇腹を押さえて言ったが、誰もそれに答えなかった。ベイリーは歯をがちがち鳴らしている。黄地に鮮やかな青いオウムの絵が描いてあるシャツを着ていたが、顔の色がシャツとそっくりの黄色になっていた。お祖母さんは、あの家がテネシーにあることは言わないでおこうと心に決めた。
そこは道路から三メートルほど下になっていて、道の向こう側に植わっている木々の先だけが見えた。大人たちが腰をおろしている溝の後ろ側は、背の高い木々の生い茂る深い森が続いていた。ほどなく、車が一台、向こうの丘のてっぺんに見えた。乗員たちが一部始終を見ていたかのように、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。お祖母さんは立ちあがって、注意を引こうと派手に両腕を振り回した。車はのろのろとやってきて、道の曲がったところでいったん見えなくなったが、また現れると、さらに速度を落として、さっき一家が越えてきた丘のてっぺんにさしかかった。大きくて黒い、おんぼろの霊柩車のような車だ。男が三人、車のなかにいた。
一家のほぼ真上で車が止まり、しばらくのあいだ、運転している男は、じっと無表情なまなざしで、黙ってすわっている人びとを見つめていた。やがて振り向いてから、ほかのふたりに何ごとか言い、三人とも車を降りた。ひとりは太った、まだ若い男で、黒いズボンに銀色の馬が浮き出した赤いトレーナーを着ている。一家の右手に回りこむと、そこに立ったまま口を半開きにして、しまりなくにやにや笑った。もうひとりはカーキ色のズボンをはいて、青い縦縞の上着を着ている。グレイの帽子を目深にかぶっているせいで、顔がほとんど隠れていた。その男はゆっくりと左側に来た。誰も何も言わなかった。
運転していた男は、車から降りてもそこに立ったまま、一同を見下ろしている。ほかのふたりより、年かさのようだった。髪に白髪がまざりかけ、銀縁の眼鏡をかけているせいで、学者のような感じがした。面長な、皺のある顔で、シャツも下着も着ていない。小さすぎるジーンズをはいて、黒い帽子と銃を持っていた。ほかのふたりも同じように銃を手にしている。
「事故に遭っちゃったんだ!」子供たちがわめいた。
お祖母さんは妙な気分に襲われた。眼鏡の男を知っているような気がするのだ。大昔から知っているような、なじみのある顔なのだが、いったい誰なのか思い出せない。男は車から離れ、すべらないように慎重に足下を確かめながら土手を降りた。明るい茶色と白の靴をはき、靴下ははいておらず、痩せて赤いくるぶしがのぞいている。「やあ、どうも」男が言った。「すべったらしいな」
「車が二回転しちゃったんですよ!」お祖母さんが言った。
「一回転だよ」男が訂正した。「見てたんだ。あの車が走るかどうか、試してみろ、ハイラム」グレイの帽子を被った若い男にぼそっと言った。
「その銃はなんで持ってるの?」ジョン・ウェズリーが聞いた。「そいつで何をやらかそうってえの?」
「奥さん」男は子供たちの母親に向かって言った。「子供たちに、あんたの横でじっとすわってるように言ってもらえないかね。子供がいると、いらいらするんだ。あんたたちみんな、そこに固まってじっとしててくれ」
「あたしたちにああしろ、こうしろって指図するわけ?」ジューン・スターが突っかかった。
一家の背後では、深い森が真っ暗な口を開けている。「こっちへおいで」母親が呼んだ。
「おい」突然ベイリーが口を開いた。「困ったことになったぞ! おれたちは……」
お祖母さんが悲鳴をあげた。がばっと立ちあがると、まじまじと相手を見た。「あんた、あの“はみ出し者”だね!」お祖母さんは言った。「すぐわかったよ!」
「ご名答」男は自分が有名なのがうれしいかのように、ちらっと笑ってみせた。「だが奥さん、おれのことには気がつかない方が、あんたがたのためだったかもしれないな」
ベイリーはキッとなって振り向くと、母親に向かって、子供さえたじろぐほどのひどい言葉を投げつけた。老婦人は泣き出し、“はみ出し者”は顔をあからめた。
「奥さん」彼は言った。「怒っちゃいけない。男ってものは、たまに心にもないことを言うからね。あんな言い方がしたくてしたわけじゃないんだよ」
「あんたはちゃんとした女を撃ったりはしないでしょう?」お祖母さんはそう言うと、袖口からきれいなハンカチを取り出すと、目元を押さえた。
“はみ出し者”はつま先を地面に突き立て、小さな穴を掘り、また足で埋めた。「おれも好きでやってるわけじゃないんだ」
「いいかい」お祖母さんはほとんど悲鳴のような声で言った。「あんたがいい人だってことはあたしにはわかりますよ。そんじょそこらの人とはわけがちがう、ってね。ちゃんとした家で育ったんでしょ!」
「そうなんだ、奥さん」男は言った。「世界で一番いい家さ」笑うと白い、頑丈そうな歯並びがのぞいた。「神様がお作りになった女のなかで、おふくろほど立派な女はいないし、おやじの心はまじりっけなしの黄金だった」赤いトレーナーを着た若い男が、一家の背後に回りこむと、腰のところで銃を構えた。“はみ出し者”は地面にしゃがんだ。「子供を見張ってろ、ボビー・リー」男は命じた。「子供ってのは勘に障る」身を寄せ合う一家六人を目の当たりにして、男は困惑し、何を言ったらよいかわからなくなったらしい。「空に雲がないな」と見上げてつぶやいた。「日も出てねえのに、雲もありゃしねえ」
「そうねえ、今日は気持ちのいい日だわ」お祖母さんが言った。「ちょっと、あんた、自分のことを“はみ出し者”なんて言っちゃいけませんよ。あんた、心根のいい人なんだからね。あたしは見たらわかるよ」
「何も言うな!」ベイリーが怒鳴った。「何も言うんじゃない。みんな黙ってろ、ここはおれにまかせるんだ!」いまにも走り出そうとする短距離走者のようにかがみ込んだが、動こうとはしなかった。
「奥さん、そいつぁありがとよ」“はみ出し者”はそう言うと、銃の台尻で地面に小さな円を描いた。
「三十分もすりゃ、車は動かせるようになるぜ」持ち上げられたエンジンフード越しにハイラムが言った。
「わかった。じゃ、まずおまえはボビー・リーと一緒に、やつと男の子をあっちへ連れて行きな」“はみ出し者”はベイリーとジョン・ウェズリーを示した。「連中があんたに聞きたいことがあるそうだ」と、今度はベイリーに言った。「一緒にあっちの木立ちの方へ行っちゃもらえないかね?」
「みんな!」ベイリーは口を開いた。「厄介なことになったぞ! 誰もわかってないようだが」そう言った声はかすれている。シャツのオウムと同じ、真っ青な目を見開いたまま、じっと動かなくなってしまった。
お祖母さんは息子と一緒に森へ行くための身づくろいでもするかのように、帽子に手をやったが、そのとたん、つばが取れてしまった。立ったまま、手の中のつばをじっと見下ろしていたが、やがて地面に落とした。ハイラムは、ベイリーが手助けが必要な老人であるかのように、腕を取って引っ張りあげてやった。ジョン・ウェズリーは父親と手をつなぎ、ボビー・リーがそのあとからついていく。四人は森へ歩き、木陰に入る手前でベイリーは振り返ると、葉のすっかり落ちた灰色の松の木に身をあずけて叫んだ。「すぐ戻るから。母さん、待ってて!」
「すぐに戻ってくるんだよ!」母親は耳をつんざくような声をあげたが、男たちの姿はそのまま森に入って見えなくなってしまった。
「ああ、ベイリー!」お祖母さんは悲痛な声をもらしたが、自分が目をやっているのは、目の前の、地べたにしゃがみこんだ“はみ出し者”であることに気がついた。「あたしにはあんたが善人だってわかります」必死になってかきくどいた。「あんたはそんじょそこらの人とはちがいますよ」
「いいや。おれは善人なんかじゃねえ」相手の言葉をしばらくかみしめてから、“はみ出し者”は答えた。「だが、世界一の悪党ってこともない。おれの親父は、兄弟のなかでもおれひとりだけ、変わりダネだって言ってたよ。『そうさな』ってね。『一生、何にも聞かないで過ごすやつもいるが、なぜ、なぜ、と知りたがりのやつもいる。こいつはそっちだな。何にでも首を突っこみたがるだろうさ』ってな」黒い帽子をかぶると、急に顔を上げ、それからまた決まりが悪くなったような表情を浮かべ、森の奥の方に目を凝らした。「あんたがたご婦人の前で、シャツも着てなくてすまないな」そう言うと、心持ち肩をすくめた。「おれたちが着ていた服は、逃げてから埋めちまったんだ。もっといい服が手に入るまで、間に合わせるしかないんでね。これまでに会った連中から借りたんだ」そう教えてくれた。
「そんなこと、気にしちゃいないわ」お祖母さんは言った。「きっとスーツケースのなかに、ベイリーの替えのシャツがあるはずよ」
「自分で見るからいい」“はみ出し者”は言った。
「うちの人、どこへ連れて行くの?」子供たちの母親が悲鳴をもらした。
「おれの親父は利口だった」“はみ出し者”は言った。「どこの誰も、おやじをごまかすことなんかできないのさ。警察ともめ事を起こしたこともない。うまく手なずけるコツを知ってたんだな」
「あんただってその気にさえなったら、真っ正直にやってけるのに」お祖母さんは言った。「ひとつところに腰を落ち着けて、地道に暮らして、いつも誰かに追いかけられるような心配をしなくてすむんだよ、それがどんなにありがたいか」
“はみ出し者”は銃の台座で地面を引っかきながら、その言葉を考えているようだった。「そうなんだよ、奥さん。いつだって追いかけられてるのさ」とつぶやいた。
立ったままのお祖母さんは、男を見下ろしていたので、帽子越しに見える男の肩胛骨がひどく薄いことに気がついた。「あんた、お祈りはしてるの?」お祖母さんは尋ねた。
男は首を横に振った。お祖母さんが見えたのは、肩胛骨の間で動く黒い帽子だけだったが。「いいや」男は言った。
森から拳銃の発射音が一発聞こえた。すぐ続いてもう一発。それからまた静かになった。老婦人は弾かれたように振り返る。木々のてっぺんを揺する風が、まるで満足の吐息をつくかのように吹き抜けていくのが聞こえた。「ベイリー!」お祖母さんは呼んだ。
「おれはしばらくゴスペルの聖歌隊にいたことがある」“はみ出し者”が言った。「たいがいのことをやったよ。軍隊は、陸軍にも海軍にも行ったし、国内勤務も、外国にも行った。結婚だって二回したし、葬儀屋も、線路工夫もやった。畑を耕したし、竜巻に巻き込まれたこともある。一度なんかは、人が生きたまま焼かれるのを見たな」男は子供たちの母親と、小さな女の子を見上げた。ふたりは身を寄せ合って、蒼白な顔をし、どんよりした目を見開いていた。「女が鞭で打たれるのも見た」男は言った。
「祈りなさい、お祈りするの」お祖母さんは口を開いた。「お祈りよ、お祈りしなさい……」
「おれは物心ついてからというもの、悪い子供なんかじゃなかった」“はみ出し者”は夢見るような声を出した。「だが、生きてるうちに、どこかで何かへまをやらかして、刑務所送りになっちまったんだ。生きたまま、埋葬されちまった」顔を上げると、お祖母さんの視線をとらえようと、じっと目を向けた。
「そのとき、あんたはお祈りを始めるべきだったの」お祖母さんは言った。「最初に刑務所に入れられたときは何をやったの?」
「右は壁」“はみ出し者”はまた雲一つない空を見上げた。「左も壁。上見りゃ天井、見下ろせば床。何をやったかなんて覚えてないんだ、奥さん。おれはそこにいて、そこにじっとしていて、自分が何をやったか思い出そうとした。いまでもよく思い出せないんだ。たまにふっと思い出せそうな気がすることもあるんだが、わからないままなんだ」
「何かのまちがいだったのかもしれないね」老婦人は曖昧に言った。
「いいや」男は言った。「まちがいなんかじゃない。判決書が出たんだ」
「何か、盗んだんだね」お祖母さんが言った。
“はみ出し者”は鼻で笑った。「おれがほしいものなんて持ってるようなやつはいないさ。刑務所の頭医者の話じゃ、おれは親父を殺したんだとさ。だが、そんなのはウソだ。親父は1919年にインフルエンザで死んだんで、おれは何もやっちゃいねえ。親父はマウント・ホープウェル・バプティスト教会に埋葬されたんだから、ウソだと思ったら、あんた自分で行って確かめてみりゃいい」
「あんたがきちんとお祈りしたら」老婦人は言った。「イエス様が助けてくださいますよ」
「そうだな」“はみ出し者”は言った。
「じゃ、どうしてお祈りしないの?」突然、胸の内にきざした喜びに身を震わせながら、お祖母さんは尋ねた。
「おれは助けなんていらないんだ。自分でちゃんとできる」
ボビー・リーとハイラムがぶらぶらと森から出てきた。ボビー・リーは黄色い地に青いオウムがプリントされたシャツを引きずっている。
「シャツをこっちにくれ、ボビー・リー」“はみ出し者”が声をかけた。シャツは宙を飛んで“はみ出し者”の肩にふわりと落ち、彼はそれを着た。お祖母さんはそのシャツが意味するものを言葉にすることができなかった。「いや、奥さん」“はみ出し者”はボタンをかけながら言った。「どんな悪いことをやったかなんて、たいしたことじゃないんだ。あれをやるか、さもなきゃ、これをやるか、ぐらいのもんだ。人を殺そうが、そいつの車のタイヤをかっぱらっちまおうが、遅かれ早かれ、何をしたかなんて忘れて、罰だけ喰らう羽目になるんだよ」
子供たちの母親は、息ができなくなったかのようにぜいぜいとあえぎ始めた。「奥さん」男がうながした。「あんたとそこの嬢ちゃんも、ボビー・リーとハイラムと一緒にあっちへ行って、旦那に合流しちゃもらえないだろうか」
「わかったわ。どうもありがと」母親は消え入りそうな声でそう言った。左腕は力無く垂れさがり、もう一方の手に、ぐっすりと寝入った赤ん坊を抱いている。「奥さんに手を貸してやれ、ハイラム」“はみ出し者”は、溝から上がろうと苦労している母親を見て言った。「ボビー・リーは、嬢ちゃんの手を取ってやれ」
「あんなやつの手なんてさわりたくない」ジューン・スターが言った。「ブタそっくりじゃない」
太った若い男は赤くなって声をあげて笑うと、ジューン・スターの腕をつかんで引っぱり上げ、ハイラムと母親のあとをついて森へ入っていった。
たったひとり、“はみ出し者”と一緒に残されて、お祖母さんは声が出せなくなってしまったことに気がついた。空には雲一つなく、日も出ていない。自分の周りには何もなく、ただ森だけがあった。彼に、祈らなくてはならない、と伝えたかった。口を開けたり閉めたりを何度か繰りかえし、やっと声らしきものが出た。自分が何を言っているか、しばらくわからなかった。「イエス様、イエス様」と言っているのだ。イエス様はあんたを助けてくださる、と言っているつもりだったが、その言い方だと、まるでクソッ、クソッと、ののしりの声をあげているようにも聞こえた。
「そうだな、奥さん」“はみ出し者”はあいずちを打つかのように言った。「イエスはものごとの釣り合いってものを取っぱらっちまったんだ。オレの裁判もイエスの裁判も同じことだ。ちがうのは、イエスは罪はひとつも犯さなかったが、おれの方は、あいつらがおれが何かしたって立証したことだ。なにしろやつらはおれの判決書を出したんだからな。もちろん、連中はそんなもの、見せちゃくれなかったが。だからいま、オレが自分で署名するんだ。前にオレはこう言った。自分のサインをこしらえて、自分が何かやるたびに署名して、その写しを取っておく。そしたら自分が何をやったかわかるし、罪と罰を照らし合わせて、差し引き勘定がぴったり合ってるかどうかもわかる。とどのつまりは、自分がちゃんとした扱いをされてこなかったことが証明できるって寸法さ。おれが自分のことを“はみ出し者”と呼ぶのは、おれがこれまで犯した罪と、喰らった罰の差し引きがうまく合ってないからなんだ」
森のなかから空気を引き裂くような悲鳴があがり、続いて銃の発射音が聞こえた。「奥さん、人によっちゃたっぷり罰を喰らうやつもいるし、まったくおとがめなしのやつもいるなんて、おかしくはないか?」
「ああ、イエス様!」老婦人は叫んだ。「あんたにはいいとこの血が流れてるんだろう? ちゃんとしたレディを撃てるような人じゃないよね。あんたは立派な一族の出でしょう? お願い、後生だから。レディを撃っちゃだめだよ。お金なら全部あげるから!」
「奥さん」“はみ出し者”は老婦人越しに森に目をやった。「死人は葬儀屋にチップをやったりはしないもんだよ」
もう二発、銃の音が聞こえて、お祖母さんはまるで年よりの七面鳥が水をほしがって鳴くように、頭をたかだかと上げると叫んだ。「ベイリー! ああっ、ベイリー!」はらわたがよじれるような叫び声だった。
「イエスだけが死人を生き返らせた」“はみ出し者”は言葉を続けた。「あんなことをしちゃいけなかったんだ。あれで何もかも、釣り合いが狂っちまった。もしイエスが自分の言ったとおりのことをやったんだったら、人間は何もかもうっちゃって、やつについていくしかないじゃないか。もしそんなこと、やりもしてないんだったら、できることといったら、残された少しばかりの時間を、せいぜいがとこ、楽しむだけだ。誰かを殺したり、家を燃やしたり、何でもいい、汚ねえことをしてやるんだ。楽しみなんてそんな汚ねえことしかねえんだから」そう言ったが、彼の言葉はもはやうなり声としか呼べないようなものだった。
「あのお方は、何も死人をよみがえらせたりはなさらなかったんじゃないかしらね」老婦人はつぶやくように言ったが、自分が何を言っているかも定かではなく、ひどく頭がふらふらして、溝のなかにずぶずぶと沈み込むと、膝を折って正座するような格好になった。
「おれはそこにいたわけじゃないから、やつがそんなことをしなかったかどうかはわからない」と“はみ出し者”は言った。「そこにいたかったよ」そう言いながら、拳を固めて地面を打った。「そこにいられなかったなんて、ひでえ話じゃねえか。いられたらわかったのに。なあ、奥さん」男の声は高くなった。「そこにいたらわかったはずだし、そしたらオレだってこんなふうにはならなかったんだ」その声はいまにも砕けそうで、逆にお祖母さんの方は、急に頭がはっきりとしてきた。男の顔がぐしゃぐしゃにゆがみ、目の前でいまにも泣き出しそうだ。お祖母さんはつぶやいた。「まあ、あんたはあたしの赤ちゃんじゃないか。あんた、あたしの子供だよ!」そう言って手を延ばすと、男の肩にふれた。“はみ出し者”はヘビに噛まれでもしたように飛びすさると、彼女の胸を三発撃ち抜いた。それから銃を地面に落とし、眼鏡を外して拭き始めた。
ハイラムとボビー・リーが森から戻ってきて、溝の上に立って見下ろした。そこにはお祖母さんが、血だまりのなかに、ちょうど子供がするようなあぐらをかいて、半ばすわるような、半ば横になるようなかっこうで、顔をあげ、雲一つない空を見上げてほほえんでいた。
眼鏡をかけないまま、“はみ出し者”は目の縁を赤くして、蒼白な、まるで無防備な顔になっていた。「ばあさんをそこから出して、ほかの連中を片づけたところへ捨ててこい」そう言うと、脚に体をこすりつけている猫をつまみあげた。
「おしゃべりなやつだったな」ボビー・リーが言った。溝にすべりおりながら、ヨーデルを歌っている。
「いい人間になれたかもしれなかったのにな」“はみ出し者”が言った。「生きてるあいだ、一時も休まずに撃ちまくってやれるようなやつがいてくれたらの話だが」
「そりゃおもしれえな!」ボビー・リーが言った。
「だまれよ、ボビー・リー」“はみ出し者”が言った。「人生、ほんとに楽しいことなんかあるもんか」
The End
完全に適切で、完全に予想外
フラナリー・オコナーはエッセイ集『秘義と習俗』のなかで、この「善人はなかなかいない」を授業で扱った教師たちとこんな話をした、と紹介している。教師たちは、“はみ出し者”はお祖母さんより道徳的に数段上等で、お祖母さんは「邪悪」な存在であるという解釈に対して、南部出身の学生たちは、「わけのわからぬ激しさで」抵抗する、というのだ。
オコナーは、そんな学生たちには、故郷の南部に「お祖母さん」によく似た祖母や大伯母がいて、そういう人びとは「理解力は足りないかもしれないが優しい心を持っているということを、個人的経験から知っているからだろう」と説明した、とある。
だが、アメリカ南部でなくても、わたしたちの周囲には、こんなおばあさんはいかにもいそうに思える。昔は良かったと繰りかえし、「あんたはいい人」と勝手に決めつけるが、それもそうしていれば、自分自身のありようを省みなくてすむ、深く考えなくてすむからなのだ。その浅い言葉や考え方に、一緒にいればいらいらさせられる、けれど離れていれば、その人の浅いながらも、人と向き合うとき、相手に根本的に優しさをもって接するところ、ものの見方の暖かいところなどを改めて思い出すような、そんな人物だ。
お祖母さんばかりではない。いつもピリピリしているベイリーや、名前すらない無気力な「子供たちの母親」、お行儀も性格も悪い子供たち。いずれも容易に想像がつく人物たちである。
そのありきたりな登場人物が脱獄犯に遭遇する、という非日常的な事態に置かれる。わたしたちは、彼らがどうやって助かるのか、期待しながら読み進む。ところが、おしゃべりをすることでどんどん事態を悪化させるお祖母さん、口だけは家長らしいことを言いながら、一向に何もできない父親、徹頭徹尾無力な母親。わたしたちの予想はくつがえされ、なすすべもなく殺されていく場面に立ち会いながら、わたしたちは宙づりにされ、途方に暮れる。
ひとつのやり方は、“はみ出し者”に寄り添ってしまうことだ。“はみ出し者”は犯罪者であるが、何か得体の知れない力を感じさせる。事実、物語のなかで登場して以降、一切を支配しているのは“はみ出し者”のように思える。そこで、“はみ出し者”に感情移入する人もいる。『秘義と習俗』に出てくる「教師たち」のように。オコナーはそうした人は“はみ出し者”に「本当に感傷的に…まいっている」のだという。「狂った預言者のほうが並みのお祖母さんよりおもしろいのは、まあ当たり前である」と。目をつぶって暴力の持つ力に共鳴し、力のある側に自分を置いてしまえばいい。
ところが、“はみ出し者”が一家の上に、どれだけ圧倒的な力をふるったように見えても、読み終えてわたしたちの心に残っていくのは、お祖母さんの方だ。どうして「肩にふれられた」だけで、「“はみ出し者”はヘビに噛まれでもしたように飛びすさると、彼女の胸を三発撃ち抜いた」のか。ほんとうに力をふるったのは、“はみ出し者”ではなく、お祖母さんだったことが、徐々にわたしたちに理解されていく。まるで、何かが作品の中からしみ出してきたように。
でも、その力というのは、なんだったのだろう?
物語に効力を生じさせるものは何か、物語を物語として自立させるものは何か、私はよくこんなことを自分に問うてみる。それはある人物のする、物語中の他のいかなる行為とも異なったある仕業、ある身振りではないかと思い定めた。物語の核心がどこにあるかを指すような行為のことである。これは、完全に適切で、完全に予想外の行為・身振りでなくてはなるまい。人物の性格に合致すると同時に、それを超えるものであり、この世と永遠の二つを示すもののはずである。私のいう行為・身振りは、神秘的次元において現れるほかはない。すなわち、神の命とそれへのわれわれの参加に関わる次元である。仕組まれた意図を持つ、きちんとした寓意物語や、読者にはっきりと見分けのつく道徳的枠組などを超越する身振りであるだろう。何らかの意味で神秘と接触する身振りであるだろう。
(サリー&ロバート・フィッツジェラルド編
『秘義と習俗 フラナリー・オコナー全エッセイ集』上杉明訳 春秋社)
この物語での「完全に適切で、完全に予想外の行為・身振り」に当たるのは、もちろん最後の場面で「「まあ、あんたはあたしの赤ちゃんじゃないか。あんた、あたしの子供だよ!」そう言って手を延ばすと、男の肩にふれ」る、という、お祖母さんの行為である。この行為と言葉がなければ、「物語は成り立たない」。
目前に迫る死(口を開けて待ちかまえる森)に対して、登場人物たちはさまざまな直面のやり方をする。「すぐ戻ってくる。母さん、待ってて」と、物語のなかで初めて「息子」に戻るベイリー(地の文で固有名詞のように扱われる「お祖母さん」(grandmother)という呼称も、このときだけは「母親」(mother)になっている)。このときだけはおとなしく、父親と手をつないで森に入っていくジョン・ウェズリー。死んだ夫のもとへ連れて行かれることを、「わかったわ。どうもありがと」と唯々諾々と受け入れる子供たちの母親。最後まで悪態をつくジューン・スターは、おそらく「森に入っていく」ことの意味を理解していない。
そうしてお祖母さんは、ぎりぎりまで死を逃れようとする。まず、「あんたは善人」説を持ち出して、“はみ出し者”の慈悲を乞おうとするが、“はみ出し者”は取り合わない。つぎに相手の信仰に訴えようとする。信仰を持っているものなら、そんなことはしないだろう、と説得にかかるのだ。
ところがこの“はみ出し者”は、非常に信仰を真剣に考えていた。〈死〉に、真剣に向き合ってきた、と言ってもいいのかもしれない。
「イエスだけが死人を生き返らせた」“はみ出し者”は言葉を続けた。「あんなことをしちゃいけなかったんだ。あれで何もかも、釣り合いが狂っちまった。もしイエスが自分の言ったとおりのことをやったんだったら、人間は何もかもうっちゃって、やつについていくしかないじゃないか。もしそんなこと、やりもしてないんだったら、できることといったら、残された少しばかりの時間を、せいぜいがとこ、楽しむだけだ。誰かを殺したり、家を燃やしたり、何でもいい、汚ねえことをしてやるんだ。楽しみなんてそんな汚ねえことしかねえんだから」
〈死〉が、誰も逃れることのできないものなら、どんな〈善い〉ことをやっても意味がない。だから、できるのは「残された少しばかりの時間を、せいぜいがとこ、楽しむだけだ」。だが、もしかしたら、そうでない可能性があるのかもしれない。自分はこの目で見ていないから、それを信じることができない。その可能性を感じつつも、信じることのできない“はみ出し者”は、引き裂かれている。
だが、〈死〉から逃れることしか考えていなかったお祖母さんは、“はみ出し者”との対話のなかで、あるいは彼が息子の服を身につけているということは、とりもなおさず自分の息子が死んだということなのだ、と、ぎりぎりのところで〈死〉と向き合うことを通して、「生きながら死ぬ」体験をする。そのとき、彼女は一種の超越をなしとげる。「自分が相手の男の存在に責任があり、それまで自分が単に口先でしゃべっていた神秘の、深いところに根ざす類縁の絆で、男と自分が結ばれていることに気づくのである」(『秘義と習俗』)。そこでお祖母さんは〈愛〉を表現する。
その〈愛〉は届いたのか。届いたからこそ、“はみ出し者”はお祖母さんの息の根を止めた。それが、その時点での“はみ出し者”の、たったひとつの〈愛〉に応えるすべだったのだ、とわたしは思う。もしかしたらこの事件の後、“はみ出し者”のなかでお祖母さんの蒔いた〈愛〉は、根を持つかもしれない、と。
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