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――彼は人間だったから、
大きな力をまえにして恐怖を感じる範囲では卑怯だったが、
それを是認するほど卑怯ではなかった。
G.K.チェスタトン『木曜の男』

良い人? 悪い人??

殿様


1.そういう問題じゃない?


チェホフの短編に『かわいい女』という作品がある。主人公のオーレニカは若い娘。遊園地の経営者と結婚し、夫を助けて遊園地の中の劇場で働き始めた。彼女の世界は劇場のことで占められ、ほかの一切を口にしなくなる。ところが愛する夫は急逝しまった。彼女の悲嘆を慰めてくれたのは、材木商のブストワーロフ。やがてふたりは結婚する。以来、オーレニカの考えることは材木のことばかり。ところがこの幸せも長くは続かない。ふたたびオーレニカは未亡人となる。そこに現れたのが獣医。オーレニカは動物の病気の話ばかり口にするようになって……と、いつも誰かを愛さずにはいられない、そしてまた愛する人の世界が自分のすべてになってしまうという女の物語である。

チェホフが作りだしたオーレニカは、読者に好悪の情を喚起せずにはおかないようで、「チェホフは好きだけど『かわいい女』は嫌い」とか、「男ってなんだかんだいってもオーレニカみたいな女が好きなのよ」、あるいは、「わたしもつくづくオーレニカだなあって思った」といったような言葉を、何度となく読んだり耳にしたりしてきた。つまりこの「オーレニカ」は作品を超えて、普遍的な人間のひとつの「タイプ」として、好かれたり嫌われたりしているのだろう。

福武文庫の『チェーホフ短篇集』のあとがきによると、この作品は発表当時のロシアでも、大きな反響を呼んだらしい。ゴーリキイは「オーレニカの内に従順な奴隷を見」たし、レーニンは政敵の一人を、彼女になぞらえて批判したのだそうだ。なかでも「トルストイは、『可愛い女』に婦徳の鑑を見いだして絶賛、自宅で家族や来客を前に四度も朗読してきかせた」(原卓也)とある。

ところがこのトルストイ、同じチェホフの短編でも、それぞれに配偶者を持つ男女の恋愛を扱った『犬を連れた奥さん』はたいそうお気に召さなかったようで、同じく福武文庫のあとがきによると、日記にこう読後感を記したとある。

チェホフの『犬を連れた奥さん』を読む。全篇これニース。善悪を弁別する明確な世界観を作りあげられなかった人々。以前は臆し、探求していたのに、今では善悪の彼岸にいると思いながら、此岸にとどまっている。つまり、ほとんど動物にひとしい」(一九〇〇年一月十六日)

(「訳者あとがき」より)

おもしろいのは、ここでトルストイが「ほとんど動物にひとしい」と不快をあらわにしているのは、作者であるチェホフではなく、作中人物ドミートリイ・グーロフとアンナ・セルゲーエヴナの、いわゆる「不倫」にあたる行為についてである。

いまのわたしたちの目には、このトルストイの評価は、なんとなく奇妙なものに映る。登場人物に対する道徳的な評価と、作品そのものの評価がごっちゃになってしまっているように思われて、なんとなく居心地が悪くなってしまうのだ。

小説を読むとき、わたしたちは主人公が盗みをしようが、人を殺そうが、それだけでその小説を「ダメな小説」とは思わない。むしろ、良い主人公が良い行動をとる作品など、おもしろくもなんともない、と思うはずだ。いまどきトルストイのように、「善悪を弁別する明確な世界観を作りあげられなかった人々」が登場するから、この作品はくだらない、と主張する人がいたら、なんだか小説の読み方がわかってない人だな、という印象すら受けてしまうだろう。

だが、ほんとうにわたしたちは善悪をまったく無視して読んでいるのだろうか。登場人物たちに道徳的基準をまったくあてはめることなく読んでいるのだろうか?

だとしたら『坊ちゃん』になんともいえない爽快感があるのはなぜなんだろう。
『杜子春』の最後で、「お母さん」と叫んだ杜子春が、仙人に小さな家を一軒もらう場面に来て暖かな気持ちになるのはどうしてなんだろう。

むしろ、わたしたちは主人公の行動は良い行動なのか、悪い行動なのか、その選択は正しいことなのか、間違っているのか、たえず考えながら読んでいるのではないのだろうか。主人公によりそいながら、彼、または彼女に関わっていくさまざまな登場人物を、「彼は良い人だろうか」「彼女は悪い女じゃないんだろうか」と予想しながら読み進んでいるのではないだろうか。そうして主人公は、途中いろいろまちがったとしても、最終的に良い行動を選択することを期待しているのではないのだろうか。彼または彼女が最終的にハッピーエンディングを迎えられなかったとしても、正しい選択をしたことが納得できれば、安心して本を置けるのではないだろうか。

この読み方と、トルストイ的な読み方は、はたして同じなのだろうか。ちがうとすればどこがちがうのか、それをちょっと考えてみましょう、というのがこの小文の趣旨である。よかったらしばらくおつきあいください。


2.「良い」主人公の許しがたい行為


まだ「子供」と呼ばれる時代に子供の本を卒業してしまったわたしは、大人になってから、子供向け、というか、12歳ぐらいから16歳ぐらいまでを対象としたヤングアダルト・ノヴェルをしきりに読んでいたことがある。ミヒャエル・エンデから始まって、E.L.カニズバーグやマーガレット・マーヒ、フィリッパ・ピアスなどをせっせと読んでいたのだが、そのころ「いやな本だ」と思ったものがあった。それが角野栄子の『魔女の宅急便』だった。

いやだと思ったのは、主人公が預かったラブレターの中身をこっそり読んでしまったあげく、風で飛ばされてなくしてしまう、そこでなんとか思い出しながら自分でその手紙を書き、宛先にとどける、というエピソードである。『魔女の宅急便』というと、覚えているのはこのエピソードだけで、つまりわたしにはこの箇所だけが強烈に印象に残ってしまったのだった。

当時のわたしはこう思ったのではあるまいか。
預かった手紙を盗み読みするなんて、とんでもないことじゃないか。確かにそれを書いたのは、主人公のキキと同じ十三歳の女の子で、内容も、ラブレターといってもごくごく他愛のないものだ。それでも、だれの心のなかにも、他人の立ち入ることを許さない場所があるはずだ。何が書いてあるか、ではないのだ。人はある程度の年代になったら、そういう場所を必要とする。おそらく十三歳前後というのは、そうした世界に入っていく年代なのだろう。人には見せたくない場所、ふれられたくない場所、そういう場所を内に抱えることによって、おそらく人はひとりの人間になっていくのだ。そうして、相手の内にあるそういう場所を、自分のそれと同じように大切にし、尊重しながら関わっていくというのが、人と人とのつきあいの基本であるようにわたしは思った。それが信頼ということなのではないか。

ラブレターというのは、世界のなかでたったひとりだけ、自分の秘められた場所に迎え入れようとするものだ。そこに関係のない人間が踏み込むようなことをしてはいけない。もし仮に、まだそういうことがよくわからなくてしてしまった行為であっても、主人公は自分の行為をもっともっと恥じ入らなければならないのではあるまいか。そう感じたわたしには「読んでしまったおかげで、結果的に人を結びつけることができた」という筋書きは、到底、承服できるものではなかったのである。

ところがこの本は人気がある。宮崎駿夫の映画にもなった。映画の中でこのエピソードがどう処理されているのかは知らないのだけれど、自分以外の人は、こうした違和感は覚えなかったのだろうか。

ここでこの本のことを思い出したのは、このわたしの読み方こそ「登場人物に対する道徳的な評価と、作品そのものの評価がごっちゃになってしまっている」のではないかと思ったからである。「道徳的な評価」と「作品そのものの評価」を切り離せば、もっとちがうものが見えてくるのではないか。

ということで、ここではこの章を読み直してみよう。
まず、手紙の依頼主が現れる場面。

女の子はうなずいて、黒い目をきらりと光らせると、わざとらしくゆっくりとまばたきをしました。キキに見せびらかすように念をいれてすましているふうにも、見えました。
「とどけていただきたいの、だけど……ちょっと秘密なの」
「秘密?」
キキはまゆをよせてききかえしました。(…略…)
「贈りものをとどけてほしいのよ、アイ君にね。きょうは彼のおたんじょう日なのよ。十四歳になったの。いいでしょ」
 女の子は、彼のたんじょう日を自分でつくったみたいにじまんしていいました。
(いいでしょ、って……なにがさ)
 キキはいらいらして口の中でつぶやきました。

(角野栄子『魔女の宅急便』福音館)

この章は全体の真ん中より少しあとに当たる。つまりここまで主人公によりそって作品世界を見てきた読者は、すでにキキとはずいぶん親しくなっている。ここではキキの目を通して、この依頼主を見ることになる。
「見せびらかすように」「しまんして」と、キキの反感をかき立てる依頼主。読者は彼女を好きにはなれない。わたしはすっかりこの依頼主のことなど忘れてしまっていた。

「すてきな贈りものなんだから、自分でわたせば? なんでもないじゃない」
キキは追いかけるようにいいました。
「だってあたし、はずかしいんですもの」
 女の子はまたゆっくりとまばたきしました。それははずかしいのがとてもいい気持とでもいっているふうでした。キキは、この自分と同じ歳の女の子が、ずっとおとなに見えて、ふいに胸をおされたようなショックを感じていました。
「はずかしいだなんて、へんね」
キキはまた、いいました。
「あら、あなた、そういう気持、まだわからないの?」
 女の子はうっすらほほえんで、キキをあわれんでいるみたいです。

いよいよこの依頼主は勘に障る女の子である。ともかくキキはその仕事を引き受けるが、配達料の代わりに、届けたあとでどうなったか聞かせてくれるよう頼んで、いざ配達に出発する。ところがキキは手紙が気になってたまらない。

男の子にあげる詩なんて、いったいどんなことが書いてあるのでしょう。あの人はあんなにきれいだったしおとなっぽいから、きっとすごいことが書いてあるにちがいありません。キキはいろいろ想像して、胸がどきどきしてしまうのです。見てはいけないと思えば思うほど、封筒はポケットからとびだし、どんどん大きくなって、目の前いっぱいにひろがっていきます。

なるほど、ここまできたら読んでしまうという心情も理解できなくはない。主人公にとってこの依頼主はライヴァルの位置にあるのだ。彼女に対する競争意識とラヴレターに対する好奇心。十三歳の女の子がそれに負けてしまうのも、仕方のないことなのかもしれない。

そうして、先にも書いたように、キキは手紙を開封してその詩を読み、自分に対してあんなに自信満々だった彼女が、意外なことに、ためらいがちに相手への思いを伝えながらも、それが受け入れられるかどうか不安でたまらないでいることを知る。ここでキキの(そうして読者の)依頼主に対する印象は完全にひっくり返る。依頼主は同い年のキキに対して虚勢を張っていただけだったのだ。

さて、問題はここからである。先にも書いたように、キキはこの手紙をなくしてしまう。そこで読んだばかりの詩を思い出しながら葉っぱに書きつけ、預かった封筒に入れて届けるのである。
後日、届けた相手は依頼主にお礼を言う。そうして依頼主はそのことを報告しにふたたびキキの元を訪れる。

「あたし、わるいことしちゃったのよ」
 キキは目をふせて、女の子の詩をみてしまったこと、その紙を飛ばしてしまって、かわりに落ち葉に詩をうつしてアイ君にとどけたことを、ぜんぶ話しました。
「まあ」
 女の子はちょっとがっかりした声をあげました。
「ごめんなさい。でも詩はね、ちゃんと思いだして書いたつもりよ。あなたがお店にきたとき、あたしと同じ年なのにあんまりきれいだったし、それになんでも知ってるみたいだし……そんな女の子って、どんなこと書くのか知りたくって……がまんできなかったの。ゆるしてね」
「まあ、あなたもそう思ったの。あたしもよ」
 女の子はいいました。
「(略)ここにたのみにきたら、年もおなじくらいなのにあなたがとてもおとなっぽくきれいに見えたんですもの。とたんにどうしたわけか負けられないっていう気持になっちゃって、ごめんなさい。……魔女さんとあたし、おたがいに似ているみたい。気があいそうね」

え? それでほんとうにいいの? と、やはり、いま読み直してもやはりそう思ってしまう。つまり、かつてのわたしの違和感は、責められてしかるべきふるまいが不問にされたことからくるものだったのだ。

主人公がまちがった行動を取ることは仕方がない。そのまちがった行動は、どのように反省されるのだろう、過ちはどのように正されるのだろう。読者であるわたしはそれを期待しながら読み進めていたのだ。それが「わるいことしちゃったのよ」程度で片付いてしまったことに納得できなかったのだ。

むしろこの部分から受ける違和感は、主人公の行為よりも、手紙を読まれた上に無くされ、しかも勝手に代筆までされた依頼主に「魔女さんとあたし、おたがいに似ているみたい。気があいそうね」と言わせる作者に対する違和感なのではあるまいか。つまり作品の評価と言っても良い。

人気のある作品の一部分をとらえて、全体をけなすつもりはないのだけれど、やはりわたしはこの作品を評価する気持ちにはどうしてもなれない。登場人物の行為を道徳的に評価する、という意味ではなく、この作品世界を創り出した作者の道徳意識が、どこかわたしと相容れないものを感じてしまうのだ。この点に関してはあとでまた考えることにして、ここでは別の点に注目してみたい。

『魔女の宅急便』のなかで、主人公のこの行為が多くの読者の反感を買うことがないのは、ひとえに依頼主が嫌みな女の子に描かれているからだ。もし彼女が読者の共感を誘うような書かれ方がなされている女の子であれば、主人公の行為はおそらくもっと卑劣なものに映るだろう。同じ「手紙をこっそり読んでしまう」「それをなくしてしまう」「代筆して黙ってそれを届ける」という行為も、「そういうことをするのも仕方がない」とわたしたちが思えるような情況が書いてあれば、わたしたちはそれをあまり問題行動とはとらえないのだ(やっぱりそれでもわたしはそういう情況を設定する作者を、卑怯だとすら思ってしまうのだけれど)。

『坊ちゃん』でも、坊ちゃんと山嵐が野だいこや赤シャツを殴ったりタマゴをぶつけたりする行為も、行為だけをとらえれば、暴力沙汰にはちがいない。それでもわたしたちはその暴力沙汰を不問にする。不問にするどころか、いやらしい学内政治を打つ彼らをやっつける坊ちゃんたちの行為に、おおいに溜飲を下げるのである。

主人公がそういう行動をとった動機にわたしたちが納得できると、わたしたちは一般的には「良くない」とされる行動であっても、不快感を覚えない。さらに、それがふだんのわたしたちならとれない行動であればなおさら、すかっとしたりする、という側面もあるだろう。

つまり、「動機」ということが問題になってくる。動機に納得できると、わたしたちは行為そのものには同意しかねても、主人公には共感してしまう。

ところがこの「動機」。いったいどこからどこまでをいうのだろうか。志賀直哉の短編『范の犯罪』を読むと、実に判然としなくなってくるのである。


3.「動機」の不可解


『范の犯罪』では、出来事がすでに終わってしまったところから物語が始まる。
范は「支那人」の奇術師である。舞台でナイフ投げの実演中、投げたナイフが妻の頸動脈を切断してしまい、妻はその場で死亡した。小説が描くのは裁判のプロセスである。

裁判の焦点は、これが「故意の業か、過ちの出来事か」に絞られる。さまざまな証人が呼ばれるが、范を良く知っているはずの座長や助手にも、それが事故であったか、故意であったかがわからない。

いよいよ范が呼ばれ、そこで意外な事実が明らかになる。范の妻は、范と結婚後八ヶ月目に赤ん坊を産む。赤ん坊は范ではなく、結婚の仲介をした従兄弟との間にできた子供だったのである。だが、まもなくその赤ん坊は、乳房で息を止められ、窒息死してしまう。妻は「過ち」を主張するが、范は故意ではなかったかという疑いを捨てられない。

「妻はその関係(※従兄弟との関係)に就いてお前に打ち明けたか?」
「打ち明けません。私も訊こうとはしませんでした。そしてその赤児の死が総ての償いのようにも思われたので、私は自身出来るだけ寛大にならなければならぬと思っていました」
「ところが寛大になれなかったというのか」
「そうです。赤児の死だけでは償いきれない感情が残りました。離れて考える時には割に寛大でいられるのです・ところが、妻が眼の前に出て来る。何かする。そのからだを見ていると、急に圧(おさ)えきれない不快を感ずるのです」

(志賀直哉「范の犯罪」『清兵衛と瓢箪・網走まで』所収 新潮文庫)

妻が、離婚されれば自分は死ぬ、と言うために、范は離婚することもできない。

「妻はお前に対して別に同情もしていなかったのか?」
「同情していたとは考えられません。――妻にとって同棲している事は非常に苦痛でなければならぬと思うのです。しかしその苦痛を堪え忍ぶ我慢強さはとても男では考えられないほどでした。妻は私の生活が段々と壊されて行くのを残酷な眼つきでただ見ていました。私が自分を救おう――自分の本統の生活に入ろうともがき苦しんでいるのを、押し合うような少しも隙を見せない心持で、しかも冷然と側(わき)から眺めているのです」

裁判長は范に「妻を殺そうと考えた事はなかったか?」と聞く。

「その前に死ねばいいとよく思いました」と答えた。
「それならもし法律が許したらお前は妻を殺したかも知れないな?」
「私は法律を恐れてそんな事を思っていたのではありません。私がただ弱かったからです。弱い癖に本統の生活に生きたいという慾望が強かったからです」

こんなことを寝もやらず考えていた翌日、その事件が起こってしまった。ところがさらに范は言う。「こういう事を考えたという事と、実際殺してやろうと思う事との間にはまだ大きな堀が残っていたのです」

この「大きな堀」というのは、わたしたちにもよくわかる感覚である。ひっぱたいてやりたい、ぶん殴ってやりたい、怒鳴りつけてやりたい、という気持ちになることがあっても、それを実行に移すには「大きな堀」がある。多くの人は、その「堀」の手前で踏みとどまる。胸の内で怒鳴りつけることと、実際にそういうことをするのは、決して単なる延長上にはないのである。

そう考えると、范の行為は過失なのか、故意なのか、いよいよ判断をつけられなくなってくる。范自身が過失か故意かわからない、と証言する。わたしたちはいよいよわからない。ただひとつわかるのは、范の言葉には嘘はないだろうということだけだ。

『范の犯罪』ばかりではない。同じ志賀の作品、シェイクスピアの『ハムレット』に題材を取った『クローディアスの日記』では、甥のハムレットに、兄殺しの疑いをかけられたデンマーク国王の弟クローディアスが、「乃公(おれ)が何時貴様の父を毒殺した? 誰がそれを見た? 見た者は誰だ? 一人でもそういう人間があるか? 一体貴様の頭は何からそんな考を得た?」と即座に反発するが、自分自身の胸の内を思い返すにつれ、自分の実際の行動さえも不確かなものに思えてくる。

眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘されているのだなと心附いた。いやに凄い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。

(「クローディアスの日記」『清兵衛と瓢箪・網走まで』)

『剃刀』となると、その動機はいったい何なのか見定めがたい。
床屋の芳三郎は剃刀の名人である。十年間、客の顔に傷をつけたことがないのが自慢である。その芳三郎が風邪を引いて寝込んでしまった。店で使っていた昔の朋輩は、店の金を持ち出したことが原因でクビにしたために、調子が悪くても自分が店に立たなくてはならない。細かな出来事が積み重なり、芳三郎のささくれだった神経がどんどん追い込まれ、読んでいるこちらまで息苦しくなっていく。

 芳三郎は剃刀をもう一度キュンキュンやってまず咽(のど)から剃り始めたが、どうも思うように切れぬ。手も震える。それに寝ていてはそれほどでもなかったが、起きてこう俯向くとすぐ水洟が垂れて来る。時々剃る手を止めて拭くけれどもすぐまた鼻の先がムズムズして来ては滴りそうに溜まる。
 奥で赤児の啼く声がしたので、お梅は入って行った。
 切れない剃刀で剃られながらも若者は平気な顔をしている。痛くも痒くもないと云う風である。その無神経さが芳三郎には無闇と癪に触った。使いつけの切れる剃刀がないではなかったが彼はそれと変えようとはしなかった。どうせ何でもかまうものかという気である。それでも彼はいつかまた丁寧になった。少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起って来る。からだもだんだん疲れて来た。気も疲れて来た。熱も大分出て来たようである。

(「剃刀」『清兵衛と瓢箪・網走まで』)

ついに芳三郎の剃刀を持つ手に力がこもる。

『范の犯罪』の范は、果たして妻を殺そうとして殺したのだろうか。『クローディアスの日記』では、シェイクスピアの『ハムレット』とはちがって、クローディアスは実際には手を下していない。にもかかわらず、自分のうちには確かに殺意があった。動機があり、殺意があり、となると、ほんとうに自分は王の死と無関係なのだろうか。過去の自分の行動すら、クローディアスは自信がなくなっていく。『剃刀』となると、主人公は理由もないままに、ほとんど逃れがたく殺人に向かって追いつめられる。もし彼が裁判で自分の行動の理由を聞かれても、途方に暮れるしかなかっただろう。

こうした志賀直哉の作品は、「動機」と呼ばれるものがいかに曖昧で、偶然とのあいだに分岐線を引きがたいものかに焦点を当てている。

これらの作品は、わたしたちに「動機」、というか、事件が起これば動機だが、つまりいったい何が自分の行動を決定しているのか、ということを考えさせる。
ふだん、わたしたちは漠然と、自分の意志で自分の行動を決定していると感じている。だがほんとうに意志を持ってさまざまなことにあたるのだろうか。多くのことはほとんど何も考えずに習慣や、周囲の期待や、ほかの人がそうしているから、というだけで行動しているのではないだろうか。

もちろん選択を迫られるケースもある。『魔女の宅急便』のように、一方の行為を選択してしまう場合もある。
だが、范も、芳三郎も、選択はくださないまま行動してしまう。あるいはクローディアスが行動しなかったのは、単なる偶然だった。偶然だったために、行動しなかった自分があやふやになってしまているのだ。

わたしたちはほんとうに自由な意志決定を常におこなっているのだろうか。むしろ逃れようもなくその網の目にからめとられていくのではあるまいか。そうして、何かが起こってから初めて、出来事をさかのぼり、そのときの自分の心情を遡航的に組み立てていくのではあるまいか。

こうした「動機」をめぐる作品は、わたしたちにこうしたことを考えさせる。動機が不明ということは、「良い−悪い」の判断も保留せざるをえない。わたしたちは范が、もちろん良いことをしたとは思えないけれど、彼が悪い人間だとは思えない。クローディアスもシェイクスピアの悪役から一転して、まったく別の人物として浮かび上がってくる。曖昧な「動機」は、「良い−悪い」の判断も宙づりにしてしまう。作品は、答えを出してくれない。

もちろん小説というのはこうした「良い」とも「悪い」とも言えないようなものばかりではない。あからさまに「悪いこと」をする「悪いやつら」の出てくる小説もある。ではどうしてわたしたちはこんな小説を読んでしまうのだろうか。


その4.悪いやつらの物語


とりあえずこのふたつの作品の冒頭を見比べてみてほしい。

(A) その日は散歩に出かけられなかった。それでも朝のうちに、私たちは一時間ばかり葉がすっかり落ちた植え込みの中を歩きまわりはしたのだったが、昼の食事のあとで冬の寒い風が吹き出して空が曇り、冷たい雨が降り始めたので――リード夫人は客がなければ昼の食事を早くすませた――、もう外に出ることは考えられなくなった。
 それは私にとってはありがたいことだった。私は長い散歩が好きではなく、ことに寒い日の午後はそうだった。


(B) 「よう、これからどうする?」
 おれ、というのはアレックスだ。それにおれのドルーグ(なかま)たち三人――ピートにジョージーにディムだ。このディム、その名前みたいに、ほんとに少しウスラデイム(ぼけ)てやがんだ。そのおれたち〈コロバ・ミルクバー〉に腰すえて、今晩これから何やらかそうかって、相談やってたとこ。

作品(A)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(吉田健一訳 集英社文庫)の冒頭。作品(B)はアントニイ・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』(乾信一郎訳 ハヤカワ文庫)の冒頭である。

このふたつを比べてみると、(B)の作品の語り手が、いきなり「おれは悪いやつだぞ」と登場してくるのがよくわかる。(A)の語り手は、自分のことを教えてくれない。寒いなかを歩き回るのがきらいらしい、というぐらいのことしかわからない。いわば、彼女は自己紹介を焦ってはいない。それに比べて(B)の語り手は、ほんの数行で読者にできるだけ強い印象を与えよう、それもまちがっても良い印象を与えまいと、できるだけの努力をしているかのようだ。第一印象が肝心、と彼らは思っているのである。読者というやつらは、放っておけば、すぐおれの言うことを信用するんだからな。おれが正しくて、いいやつだ、と思いたいんだ、とでも言うように。

読み手は、何の情報も与えられていなければ、語り手を、ばくぜんと常識的な人間、自分とさほど変わらない人間と予想する。そうして、「悪い主人公」はそのわたしたちの先入観をうち砕くべく、矢継ぎ早に自分がどれほど悪い人間であるかを教えてくれるのである。

なぜそんなことをするのだろうか。
『時計仕掛けのオレンジ』では、このあとアレックスは捕らえられ、矯正プログラムを受けることになる。

そこでおれは、やつの首へ一発ひどいのをくらわしてやろうと、両方のげんこつをふり上げたのだが、やつはそこへ倒れてうめいているか、それともバタバタと逃げ出すかして、おれは腹の底からよろこびが湧き上がってくるのをおぼえるはずなのだが、何とその時、例の吐き気がまるで波のように起きてきて、ほんとに死ぬんじゃないかと、すごくこわくなってしまったんだ。おれは、よろめくみたいにしてベッドへもどると、ゲク、ゲク、ゲクとやった。

薬物と矯正プログラムのせいで、アレックスは暴力的な衝動を感じると、強烈な吐き気に襲われるようになる。そのためにアレックスは暴力に訴えることができない。
わたしたちはこのアレックスを導き手として、善悪の問題を厳しく問われることになる。暴力というのは、封じ込めさえすればいいのか。強制的に封じ込めるのも暴力ではないのか。それが個人のレベルではない、国家のレベルでなされるとしたら、個人のレベルの暴力などとはくらべものにならないほど恐ろしいことになるのではないか。

最初、わたしたちは深く考えることなく、出てきた主人公の言うとおり「悪いやつ」と見なす。だが、眉をひそめながらも、物語は一人称の語り手である彼の目を通してものごとや世界を見るしかない。ふだんとは異なる視点から世界を眺めてみると、ずいぶん様子がちがうではないか。わたしたちがこれまで「悪い」と思っていたよりも、はるかに大きな「悪」がある。わたしたちがあらかじめ思っていた「悪」というのは、せいぜいが反社会的な行動に過ぎなかった。だが、ほんとうの「悪」はもっとちがうところにある……と、わたしたちは主人公に導かれて考えるようになる。

あなたがたが目にしている世界というのは、ほんとうのものなんでしょうか。大切なことは隠されているのですよ、わたしがいまからそれを教えてあげましょう、と正しい主人公、すべてを知っている主人公が説明してくれるような作品を、ちょっと想像してみてほしい。おそらく耐えられないほど説教臭い、退屈な、道徳の教科書のような小説になるにちがいない。導き手が悪いからこそ、彼のやることがとんでもないことだからこそ、わたしたちは彼に驚かされもし、彼とともに世界を発見することができるのである。

このような作品は、わたしたちが小説を読みながら「良い−悪い」の判断を繰りかえしていることを前提としている。彼らはわたしたちを引きつけながらも反感をかきたて、作品世界に引っ張っていく。そうして、常識や既成概念に依拠した習慣的な「良い−悪い」の弁別が、表面的なものにすぎなかったことをわたしたちに見つけさせてくれるのだ。

こういう「悪い」主人公を配置した作品は、その見かけに反して、作者がはっきりとした道徳意識を持っている。『時計仕掛けのオレンジ』でも、自由意志による選択が、たとえ暴力をふるうということであっても、個人の自由意志は尊重されなければならない善い行動」を強制することは、反社会的な暴力行為よりも「悪い」ことであるという作者の思想が見て取れる。おそらくこれはバージェスがこの作品を書いた1962年当時の、全体主義国家に対する危惧が背景にあったのだろう。このように、やはり作品は書かれた時代とは無関係ではない。


その5.あのころは悪くなかったのに……。


ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』には続編があるのをご存じだろうか。
『あしながおじさん』の正編は女子大を舞台にしている。そこで孤児院出身のジュディは、オールド・ニューヨークの血筋を引くジュリア(上流階級の象徴)、ニューイングランドの製造業者の娘であるサリー(中流階級の象徴)とルームメイトになる。そこで、自分を大学にあげてくれた「あしながおじさん」(実はジュリアの叔父さんにあたる)人物と結婚し、続編では、サリー・マクブライトに主人公を譲る。そうしてこのサリーが、ジュディが育ったジョン・グリア孤児院の経営に当たるのである。

続編の原題は "Dear Enemy" 、これも正編と同じく書簡集の体裁をとっている。その手紙の宛先は、ジュディ、もうひとり、「親愛なる敵さん」という書き出しで、孤児たちの診察にあたる小児科医。孤児たちの面倒をみながら、孤児院経営にまつわるさまざまな難題にぶちあたり、ほのかなロマンスも織り交ぜたサリーの日々が手紙を通して浮かび上がる。

ところがこの『続 あしながおじさん』は正編にくらべて圧倒的に無名である(続編があるのを知らなかった、という人もいるでしょう?)。おそらくそれはこの作品の中には優生学的な内容があるからだろうと思われる。

マーチン・カリカックと呼ばれる若い紳士が、ある晩泥酔して、ほんのでき心である酒場の精神薄弱な女給と駆落ちをしました。それがここに精神薄弱系カリカック家の連綿と続く血統の本源が作られて――のんだくれ、ばくちうち、売春婦、馬盗人――などがニュージャージーとその周辺の各州の悩みの種になったのでした。
 後日マーチンは心を入れかえて、まともな婦人と結婚して、正常なカリカック家の第二の血統を作り、そこから裁判官、医師、農業家、大学教授、政治家など、国の誇りとなるような人物が出ました。そしてこの二つの系統が相並んで、今日もなお子孫が続いているのだそうでございます。もしもその精神薄弱な酒場女が赤ん坊の時に、何か恐ろしい災害に遭っていたら、ニュージャージー州にとって、どんなに幸いだったかしれませんわね。

(ジーン・ウェブスター『続あしながおじさん』松本恵子訳 新潮文庫)

子供向けの版ではこの箇所が削除されているものもある。だが、今日では厳しい批判にさらされて、ほとんど口にする人もいない優生学だが、この作品が発表された1915年当時、アメリカでは優生学は広く受け入れられ、実際にいくつかの州では断種法が成立していたのである。作者のジーン・ウェブスターは、当時、言ってみれば流行だった思想を、そのまま作品に取り入れたにすぎない。

確かにこの部分とこれに続く箇所は、現代のわたしたちには不快を感じずにはいられない。だが、ここでわかるのは、わたしたちの「良い−悪い」という判断は、現代に生きるわたしたちの考え方や行動を無条件に前提としている、ということでもある。
戦争をめぐる記述などでも同じことが言えるだろう。

太宰治にも「十二月八日」という文章を書いている。

目色、毛色が違うという事が、之程(これほど)までに敵愾心(てきがいしん)を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅(め)っちゃくちゃに、やっつけて下さい。

(「十二月八日」)

その時代の見方、考え方がある。こういうものをなかったことにしてしまうのではなく、わたしたちの「良い−悪い」という判断は、歴史的に形成されたをしているものなのだ、ということを知るためにも、このような部分は残しておく必要がある。たとえ子供向けの『続あしながおじさん』ものであっても、削除するのではなく、遺伝子も発見されていない頃の見方であること、今日ではこのような考え方は誤ったものととらえられていることを明記した上で、きちんと残しておいた方がいいのではないのか、と思うのだ。

わたしたちの「良い−悪い」の判断は、絶対的なものではない。その時代の社会のありように応じて変わっていっている。


その6.カッコに入れたりはずしたり


本を読むわたしたちは、働き者だ。ページをめくり、活字を追いながら、たえずこの人はどんな人だろう、と考えている。その行動を頭の中で組み立てながら、これはどういうことだろう、と動機を推測し、これからどうなっていくのだろう、と先を予想する。

わたしたちは予期しない登場人物の行動にとまどうことはあっても、これには理由があるはずだ、と結論を先送りし、納得できない行動があったにしても、そのうち納得できる説明があるにちがいない、と考えて、早急に断罪することはない。

ところが説明も何もない、いきなり放りだされてしまうようなとき、違和感は違和感のまま残っていく。アーネスト・ヘミングウェイの「白い象のような山並み」などはその好例だろう。

「まあ」男が言った。「いやだったら無理をすることはないんだ。君が望んでもないのにそうしろって言ってるわけじゃない。だけど、ごく簡単なことなんだ」
「で、あなたはそうしてほしいのよね?」
「そうするのがいちばんいいんじゃないか。でも、きみがほんとうはそうしたくないんなら、やってほしくない」
「もしわたしがそれをやったらあなたは幸せになるし、なにもかも前みたいになるし、そうしてわたしのことは、好きでいてくれる?」
「いまだって好きさ。君だってぼくが君のことを愛してることはわかってるだろ?」

登場人物の背景も、関係もわからない。ただわかるのは、この若い女性が現在妊娠していて、おそらくは近いうちに堕胎手術を受けるだろうということだけだ。 わたしたちの日常をそのまま切り取ったような繰り返しの多い会話は、むしろ静かな調子で続く。

ところが「堕胎」という出来事を扱っているために、

 この二人の会話の調子が異様である。女が沈黙の苦痛に耐えかねて話題をつくり、男がその話題を破壊してゆく。男はそうした空虚な話題を突きぬけて迫らねばならぬ「問題」があり、女は可能なかぎりその問題を遠ざけねばならない。この気分のくい違った会話は……〔褐色で乾ききっている〕自然の背景と適合して、肉欲の清算であり同時に愛の破滅でもある「堕胎」にむけて着実に進むのである。そして愛の破滅を知った女のヒステリックな絶望の喘ぎとあきらめが、男の異様に執拗なセルフィッシュネスと共に強烈にもりあがってくる。

(瀧川元男『アーネスト・ヘミングウェイ再考』 南雲堂)

という読まれ方をされることもある。だが、この短編のどこに「異常性の地獄」や「肉欲の清算」があるのか。「堕胎」という出来事に、引きずられているだけではないか。登場人物の思想や行動を、作品から切り離し、倫理観に照らし合わせて評価しているのではないか。

ミラン・クンデラはそんな見方を批判する。わたしたちが現実に交わす会話、ドラマや戯曲などでは決して再現されない、ありのままの会話、それをもとに、美しい旋律を造り上げていった、という。

ヘミングウェイは現実の対話の構造を把握したのみならず、それから出発して、『白い象のような山々』に見られるような、一つの形式、単純、透明、清澄な、美しい形式を創りだすことができた。

(ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』西永良成訳 集英社)

クンデラはこの短編を「対話の旋律化」と呼ぶ。ピアノから始まり、「お願い、お願い…」でピークに達し、そこからピアニシモで収束するひとつの旋律だと。
この出来事の道徳的判断をカッコに入れることで初めて、美しい旋律に耳を傾けることができるのだ。

だが、作品によっては、いったんは道徳的判断をカッコに入れたとしても、そののちにまたはずすことを求められることもある。こうした作品は答えを与えてくれない。その答えは読者ひとりひとりが出していかなければならない。

自らもヴェトナムにおもむいた作家ティム・オブライエンは一貫してヴェトナムのことを書きつづける作家である。

たとえば私はみなさんにこういうことを語りたい。二十年前に私はミケ近郊の小道でひとりの男が死んでいくのを見ていた。私が彼を殺したわけではなかった。でも私はそこに存在したし、言うなれば、私がそこにいあわせたこと自体が十分罪悪なのだ。私は彼の顔を覚えている。それは可愛い顔ではなかった。というのは彼の顎は喉の中にめりこんでいたからだ。そして私は自分が責任と悲しみを感じたことを記憶している。私は自分自身を責めた。そしてそれはまあ当然のことだった。何故なら私はそこにいあわせたのだから。
 でもいいですか、実はこの話だってやはり作りごとなのだ。
 私は君に私の感じたことを感じてほしいのだ。私は君に知ってほしいのだ。お話(ストーリー)の真実性は、実際に起こったことの真実性より、もっと真実である場合があるということを。

 今から話すのが実際に起こった真実だ。
 私はかつて兵隊だった。そこにはたくさん死体があった。本物の顔のついた本物の死体だ。でも当時私は若かったし、それを見るのが怖かった。おかげで二十年後の今、私は顔を持たぬ責任と、顔を持たぬ悲しみを抱えている。

 ここからがお話の真実だ。彼はすらりとした、華奢といってもいいような二十歳前後の青年だった。そして死んでいた。ミケの村の近くの赤土の小道の中央に横たわっていた。彼の顎は喉の中にめりこんでいた。彼の片目は閉じられ、もう片方の目は星形の穴になっていた。私が彼を殺したのだ。

 私は思うのだけれど、お話(ストーリー)の力というのは、物事を目の前に現出させることにある。
 私はそのとき見ることのできなかったものを今見ることができる。私は悲しみや愛や哀れみや神に顔を賦与することができる。私は勇敢になれる。私はもう一度それを身のうちに感じることができる。

「お父さん、ホントのことを言ってよ」とキャスリーンが言う、「お父さんは人を殺したことがあるの?」そして私は正直にこう言うことができる、「まさか、人を殺した事なんてあるものか」と。
 あるいは私は正直にこう言うことができる。「ああ殺したよ」と。

(ティム・オブライエン「グッド・フォーム」
『本当の戦争の話をしよう』村上春樹訳 文春文庫)

わたしたちは考える。おそらく最初はこのキャスリーンの問いかけと同じところから始まるはずだ。彼は、この語り手は、本当に殺したのだろうか。おそらく戦争だったのだから殺したのだろう。だが、この「ミケの村の近く」の死体は。
語り手は、殺したわけではなかった、と言い、つぎに、私が彼を殺した、と言う。どちらなのだろう。なんで作者はこんな書き方をするのだろう。こういう形でしか書けないことというのは、いったいどういうことなのだろう。

だが、この疑問はわたしたちのなかに答えが出ないまま残っていく。そうして次第に問われているのはわたしたちの側なのだということに気がつく。それを知りたがる自分はいったい何者なのだろう、と。戦争に行ったこともない、戦場に取り残された恐怖を知ることもない。前を歩いていた人間が一瞬で吹き飛ばされ、つぎの瞬間には遺体となっているのがどういうことなのかも知らない。そういう自分が、「良い−悪い」の一体何を知っているというのだ。こんな経験をした人に向かって、いったい何が言えるのだ……。

読む前に立っていた「良い−悪い」という基準とは、まったくちがう地平に立って、これが良いことなのか、それとも悪いことなのか、考えている自分に気がつくはずだ。わからない、どう考えて良いのかわからない、それでも、そのわからないという不安に向き合いつつも、何とか自分で答えを出していかなくてはならない。これは、「いろんな立場があればいろんな考え方がある」というような問題ではないのだ。


その7.内容にばかり気を取られる?


 西田幾多郎が谷崎潤一郎の小説を評して、「人生いかに生きるべきかを書いていないからつまらない」と言ったという話を昔聞いたことがある。また加藤周一氏は、文学が文学であるのは、人間の世界全体に対する態度決定があるからだと主張している(「《言語と文学についての論》についての論」『文学』一九六四年五月号)。それぞれ無意味な発言とは思わないが、それがなければ文学ではないというのは困る。危険でさえある。こういうことが透けて見える作品、つまり、これは何々を問題にした作品というようなことがはっきりと分かる作品にしか価値を認めないという態度は、どんな文章に出会っても内容にばかり気をとられて文章には目が止まらず、筆者の意図、あるいは問題意識というものは容易に読み取れるはずだと期待し、それらしきものをつかんだと思えばそれで安心し、もう文章などは忘れてしまっている。つまり読み捨てにするという態度であり、それは文章に対する人間の態度を浅薄にし、ということはおのずから人間そのものを浅薄にするからである。

(柳沼重剛『西洋古典こぼればなし』岩波書店)

文学作品を読むとき、道徳意識を持ちこむことに対する批判は、上にあげた柳沼のようなものだろう。「内容にばかり気をとられ」「もう文章などは忘れ」「読み捨てにするという態度」。
けれども現実にわたしたちは、さまざまな場面で「良いか悪いか」「良い人か悪い人か」の判断を繰りかえしている。「こういうことが透けて見え」ない作品でさえ、やはり同じようにその判断を重ねている。だが、その判断は、「文章などは忘れてしまって」いては不可能だ。判断するためには、語り手がどうしてそういう形式を選んだのか、なぜここにこのような言葉が使われているのか、正確に耳を傾けなければ、その判断はくだせない。

冒頭でトルストイが批判した『犬を連れた奥さん』を最後に見てみよう。
経験豊富でこうした情況には慣れているグーロフは、初めての逢瀬を終えたあと、テーブルにあったすいかをのんびりと食べている。「だれに軽蔑されても仕方のない、低俗な、だめな女になってしまったんですわ」と悲しんでいるアンナの言葉も退屈にしか響かない。そのあと夜遅くになって、ふたりは辻馬車に乗って臨海公園に向かう。

 オレアンダで二人は教会の近くのベンチに腰をおろして、眼下の海を眺め、沈黙していた。朝靄を透してヤルタの町がかすかに望まれ、山々の頂きには白い雲がかかって静止していた。木々の葉はそよとも動かず、蝉が鳴き、下の方からきこえてくる単調な鈍い潮騒は、われわれを待っている安らぎや永遠の眠りについて語っていた。まだこの辺りにヤルタもオレアンダもなかった頃にも、眼下ではこのようにざわめいていたのであり、今もざわめき、そしてわれわれがいなくなっても、やはり同じように無関心に鈍くざわめきをつづけるのだろう。そして、この永続性の中に、われわれ一人ひとりの生と死に対する完全な無関心の中に、ことによると、われわれの永遠の救いや、地上の生活のたえまない前進や、たえまない完成などの保証が秘められているのかもしれない。夜明けの光でこの上なく美しく見える若い女性とならんで腰かけ、海や、山々、雲、広大な空など、お伽噺のようなこの景色を目のあたりにしてうっとりと魅了されたグーロフは、実際よく考えてみればこの世のものはすべて何とすばらしいのだろう、と思うのだった。われわれが、人生の高尚な目的や人間の尊厳を忘れて、勝手に考えたり、したりすること以外は、何もかもが実にすばらしいではないか。

(アントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」『チェーホフ短篇集』原卓也訳 福武文庫)

このときのグーロフは、まだこれを退屈しのぎのありきたりな情事と考え、彼女を手に入れた満足感に浸っているだけにすぎない。だが、何もかもが美しく見える風景や潮騒のざわめきのなかに、永遠や、死の想念が紛れ込んでくる。偶然の出会いに過ぎなかったものが、やがて運命に変わっていくことを予兆させている。ふたりは言葉を交わさない。だから、読者は彼らがどんな思いでいるかはわからない。その代わり、情景や音や些細な出来事が、ふたりがお互いにとってかけがえのないものになっていくプロセスを、ときに残酷なまでにはっきりと教えてくれる。

 髪がもう白くなりはじめていた。この二、三年で自分がこれほど老け、これほど男振りのさがったことが、ふしぎな気がした。彼の手がのっている肩は暖かく、ふるえていた。彼はまだこんなに暖かく美しい、しかしおそらく、彼の生命と同じように色あせ萎れはじめるのにもう間近な、この生命に対して、同情をおぼえた。彼のどこがよくて、彼女はこんなに愛してくれるのだろう? 彼はいつも女たちに実際とは違う人間にみられてきたし、女たちが愛したのも本当の彼ではなく、自分たちの想像が創りだし、自分たちが人生で熱烈に探し求めてきた人間をだった。そしてやがて自分の誤解に気づいても、やはり愛してくれた。しかも、女たちのうちだれ一人、彼と結ばれて幸福だった者はいない。時は移り、彼は女たちと知合い、結ばれ、別れてきたが、一度として愛したことはなかった。どんなものでもすべて揃っていたが、ただ、愛だけはなかった。
 それが、すでに髪の白くなりはじめた今になってやっと、彼はちゃんとした本当の恋を、生まれてはじめての恋をしたのだ。

グーロフとアンナが「本当の恋」に目覚めるためには、それぞれの歴史とこの情況が必要だった。そうしてわたしたちがこの短編の中に、密やかなやさしい愛を見いだすのは、ふたりの罪の意識を共有するから、トルストイが批判した「善悪の彼岸にいると思いながら、此岸にとどまっている」ふたりの気持ちを分かち持つからなのである。

わたしたちは本を読みながら、つねにさまざまなことを判断し、予想し、期待する。そのときに依拠しているのは、多くの場合、社会通念であると言っていいだろう。自分で考えているように思っているが、実際には、自分というより、そういう慣習に沿っているだけと言った方がいい。そうした判断が慣習に過ぎないことにどうやったら気づくのか。言葉を換えれば、社会通念から自分を引きはがし、そうではない言葉をどうやって見つけていけるのか。それこそが、小説を読む、深く読む、ということではないのか。

このことは、また作品から離れ、それを書いた作者に目がいくといくことでもある。ひとのプライバシーに立ち入ってしまった主人公を、さしてとがめることもなく許すという作者の意識。女性の参政権や社会的平等を作品のなかで訴える一方で、「断種」を考えてみるべきと主人公に書かせるような作者の生きた時代。自分が犯した罪と向き合うことを作品を書くことの原点に置いた作者。作者について考えることは、読み手である自分が、その作者にどう応えるかを考えることでもある。

判断をするわたしたちは、どうしても自分の意識を出発点にするしかない。だがそれは、自分の見方でしかない。時代の制約を受け、社会通念に染められ、自分で考えているようで、ほんとうはちっとも自分でなど考えてはいない自分の意識なのである。小説は、そのことを教えてくれる。判断を重ねて本を読む、そのことは同時に、自分自身の道徳的な基準を作り上げていくことでもあるのだ。

わたしたちは小説の中に描かれているのはフィクションだと思っている。本を閉じてしまえば、現実が始まる、と。けれど、その現実は、わたしの目に映る現実、わたしが見るものを選び出し、聞くものを選び出し、枠をはめて構成した「現実」なのである。その意味でわたしたちが「現実」と呼んでいるものは、「わたし」という作者が描き出したフィクションともいえる。
わたしたちはどこか、現実に生きる自分のことを、川を流れていく一本のビンのように思っているけれど、実際はそんなものではない。現実は、それを見る「わたし」によって、いくらでも変わっていく。自分の内に、自前の道徳的な基準を作り上げていくということは、「わたし」の描く「現実」に方向性を与えていくことでもある。
「善く生きたい」という方向性を。



初出March.17-25 2008 改訂April.08 2008

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