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卒業の風景



――心を繋ぎ猫のやうにして
餘処にやるまいとて、我身に引止めて置けば
我身に心を取らるるなり
身の内に捨て置けば餘処へは行かぬものなり

沢庵禅師 『不動智神妙録』
卒業証書


三月は卒業式の季節だ。春の気配とともに卒業式がおこなわれ、春爛漫の頃に入学式がくる。人間の時間軸でいくと、始めがあって、やがて終わりがくるものだが、一年を単位に考えてみると、逆に、まず終わりがあって、そこから新しいことが始まっていく。

けれども、ものごとの始まりというのは、そういうものなのではないか。
深く息を吸いこもうと思えば、そのまえにまず息をすっかり吐き出してしまわなければならないように。高く飛び上がろうと思えば、深く身を屈さなければならないように。

自分のなかでいくつも通り過ぎてきた「終わり」の風景。
まず終わることから「始まり」が始まっていくのなら、終わりのそれをもういちど眺めてみたい。

わたしのなかの、「終わり」の風景。


1.初めての「終わり」


一番古い「卒業」の記憶は、幼稚園の卒園式だ。母がめずらしく着物姿で、裾にきらきら光る縫い取りのある黒い羽織を着ていた。金糸銀糸の刺繍がなんともきれいで、特に一箇所だけのターコイズブルーが眼を奪われるほどにいい色だった。こんなにきれいなんだもの、すそではなくもっと目立つ場所にあったらいいのに、と思った。

式のことはほとんど覚えていないが、そのあと、「おゆうぎしつ」にみんなが集まった。それが「しゃおんかい」であるということはなんとなく知っていたのだが、どういうわけかわたしは「しゃおんかい」というのは音楽会の一種なのだろうとずっと思っていて、ふだんは教室で使っている机と椅子が箱形に並べてあったのにはちょっと驚いた。そこに母と並んですわったのだった。小柄な母だが園児用の椅子はさすがに小さかったのだろう。そんな場所で母と並んで座るような経験もなかったので、着物姿の窮屈そうな母の姿をいまでもよく覚えている。

音楽会などまったくなく、先生やシスターや来賓の話が延々と続く。さっき卒園証書と一緒に箱に入った紅白饅頭をもらったのを知っていたわたしは、おまんじゅうなんてふだんは食べたいとも思わないのに、すっかりお腹がすいてしまって、それでもいいから、食べられないかな、と思っていたのだった。そこへ、どうぞみなさん、お弁当をお食べください、と言われてうれしかった。
紐をほどいてピンク色の薄い和紙を取り、蓋を取ると、折り箱の杉の匂いがぷんとした。 覚えているのはそこまでだ。

幼稚園と小学校は同じ敷地のなかにあったから、小学校にあがっても、毎日幼稚園の脇を通った。園庭で遊ぶ園児たちを横目に、小学校の制服を着て、ランドセルを背負っている自分が、なんとなくお姉さんになったような気がしたこともあったかもしれない。柵の向こうを通りながらも、立ち入ることもない幼稚園だったが、それがある日、どういうわけか友だち4〜5人で幼稚園に遊びに行ったのだ。

広い校庭、端にぽつんぽつんと昇り棒やうんてい、ジャングルジムなどがある小学校とちがって、幼稚園の狭い園庭には色とりどりの遊具がある。久しぶりに足を踏み入れると、公園かなにかのようで、わたしたちは夢中になって遊んだ。
なかに、ピンク色の滑り台があった。昇っていく部分がアーチ型のはしごになっていて、てっぺん近く、水平になった鉄棒を二段ほど超えていかなければならない。アーチを昇っていくところまでは大丈夫だったのだが、そこからよつんばいになって先へ進むのが怖くて、幼稚園の頃のわたしはどうしてもそこで立ち往生してしまうのが常だった。

それが小学生になって、友だちと遊びに行ってみると、てっぺんといっても何のことはない高さなのである。
思いきって昇ってみると、怖いどころではない。立ったまま滑り台のてっぺんまで歩いていける。いったい何でそんなに怖かったのか不思議だった。元幼稚園児たちは、そこを走りまわって鬼ごっこをやった。

幼稚園の先生にも会いに行った。
玄関ホール側からではなく、廊下の外で靴を脱ぎ、ひらがなの名札がついたペパーミントグリーンの靴箱を横目で見ながら職員室に向かう。かつて自分の名前が書いてあった場所に、ちがう名前が入っているのを見て、胸がちくっとした。教室のドアも、記憶にあるのより少し小さく、天井も低いような気がする。
卒園してから半年ほどしか経っていないというのに。
何かヘンだ、と思いながら、わたしたちは靴下のまま階段をあがっていった。

職員室の入り口で先生を呼ぶと、先生はうれしそうな顔でわたしたちを応接室に案内してくれた。応接室に入ったのは、たぶんそのときが初めてだったのだと思う。壁にはめこまれた木の十字架や、額に入った写真が並んでいるのをめずらしげに見ていると、先生はお菓子とジュースを出してくれた。

「あ、お誕生日のお菓子!」
幼稚園では毎月お誕生会があった。その月がお誕生日の子供たちは、ちょっとしたプレゼントとクッキーがもらえるのだ。お誕生日でない子はラムネ菓子だったか、飴だったか、とにかく明確な差別待遇があって、わたしたちは自分のお誕生月をいまかいまかと待ったものだった。
そのクッキーがもらえてわたしたちはたいそう喜んだ。
ところが、記憶にあるほどおいしくない。こんな味だっただろうか。これをわたしたちは11ヶ月も待っていたのだろうか。わたしたちはこっそり顔を見合わせたのだった。

先生は小学校は楽しいか、とひとりずつ聞いてくれて、わたしたちは口々に学校の話をした。そうしていると、急に幼稚園の子が「××せんせい」と呼びに来たのだ。
「どうしたの、もとこちゃん」
その言い方に、はっとした。わたしたちが知っている話し方はそれだった。腰を落として、相手と同じ目の高さでしゃべるそのやり方。小学生になったわたしたちに対するのとは、まったくちがう話し方。

もう先生はわたしたちの先生ではないのだ。
幼稚園という時代が終わったことを知ったのは、卒園から半年ほどがすぎた、夏の終わりの日だった。


2.子供時代との訣別


小学校四年で引っ越すことになって転校が決まった。先生がみんなの前でそれを告げたとき、泣きだした子がいて驚いた。同じ班になったこともあるけれど、その子とそれほど親しかったわけではなかったし、一緒に何かした、という記憶もなく、まさか自分がいなくなることが、泣きたくなるほど悲しいなどというのは、どうしたって信じられなかった。
わたし自身は、寂しいとか悲しいとかという気持ちなど、ほとんどなかったように思う。「転校」という言葉の響きはそれだけでドラマティックだし、自分がミステリアスな「転校生」になれるというのもうれしくて、とにかく新しい家、新しい学校のことで頭はいっぱいだったのだ。
出ていく方がすでに未来の時間を生きているのに較べて、あとに残された方はそれだけで寂しい思いをする、ということをわたしが知ったのは、それからずっとずっとあとのことだ。

春休みが終わると、新しい学校だった。
制服がなくなって、私服で行く、というのもめずらしい経験だったし、クラスに男の子がいる、というのも初めての経験だった。
「ミステリアスな転校生」として、いろんな子に「同じ班になろう」「一緒に遊ぼう」とモテモテだった時期はどのくらい続いたのだろう。ともかく、その時期はあっというまに過ぎて「転校生」から「クラスの一員」に降格されてしまうと、こんどは逆に周囲との齟齬を感じるようになっていた。

どうやらわたしの言葉遣いが、ほかのクラスメイトとずいぶんちがっているらしかった。わたしが何か話していると、すぐに「英語はやめて」と遮られるようになる。
「英語じゃないよ、日本語だよ」
「チンプンカンプン、ワカリマセーン」
わたしの話などだれも聞きたくないらしいことに気がついて、こんどはもっぱら聞き役になった。話したい、聞いてほしい、という子の方が圧倒的に多かったから、それはそれで悪い状態ではなかったのだ。

たぶん六年生になってからのことだったと思う。
学校の国語の授業で、ザラ紙に印刷してあった記憶があるから、教科書ではなかったはずだ。そうした手製のテキストには『リア王』が印刷されていた。翻訳は木下順二だったことははっきりと覚えている。『夕鶴』の人だ、と思ったから。

ともかく教材になったのは冒頭部分、領地分配の一幕一場だけだった。
わたしはそのおもしろさに夢中になった。それからあとどうなるのだろう、と、図書館へ行って続きも読んだ。道化のせりふや狂気に陥った王が彷徨する場面など、ほとんどわからなかったが、せりふの向こう側に人の心の動きが見えるというのも初めての経験で、言葉というのはこんなにもおもしろいものなのか、と、来る日も来る日もテキストを読んで、一幕一場をすべて覚えてしまった。

クラスで朗読会をやることになっていた。何班かに分けて、ひとり必ずどの役かが振り分けられる。わたしはくじびきで次女リーガンを引いた。なんだってかまわない、この中のひとりを演じることができる、というだけでうれしかった。
リーガンというのは、姉のゴネリルとどうちがうんだろう、と考えた。
姉の真似をするのだ、この妹は。姉のやることをじっと見ていて、そこから自分がどうしたらいいか考える。そういう女なのだ、と。

家でも繰りかえし練習した。家族はみんなほめてくれた。そうして意気揚々と当日に臨んだのだ。
ところがわたしが読んでいると、クラスの子がくすくす笑い始める。かまわず読み続けると、そのうちその笑いは伝染し、クラス中が大爆笑になってしまった。やめなさい、まだ続いているのよ、と止めに入った先生も笑いをこらえているのにわたしは気がついた。
つまり、わたしはふさわしくない行動をとったのだ、と気がついた。体中が、屈辱でかっと熱くなった。悔しくて、涙がこぼれそうだったけれど、わたしは奥歯を食いしばってそれをこらえ、そしらぬ顔で最後まで続けた。後半はおそらくその場にふさわしい棒読みだったのだろうが。

わたしはそのとき、自分の行動は評価を受ける、そうして、その評価は自分の希望とは、あるいは献身や努力や熱意とも何の関係もないのだ、ということを身にしみて知ったのだ。正当とか不当とかということも関係ない。ただ、人は評価するし、その評価は自分にはどうしようもないのだ、と。

わたしがそのとき理解したことを言葉にするなら、おそらくそうだったとしか言いようがない。
わたしは自分が何か悪いことをしたとは思わなかったし、まちがっていたとも思わなかった。自分が心引かれたものがすばらしいものだ、という確信もあった。ただ、まわりに対して不適切だっただけだ。
以来、自分の話したいことを話すのではなく、まわりの子に合わせて、一種の翻訳・編集作業を経て外に出すようになる。自分の考えたことをそのまま口にすることを、その日を境にやめたのだ。

レイ・ブラッドベリ の『何かが道をやってくる』のジムとウィルが一夜にして大人になったように、わたしもそのときを境に大人になったのだと思う。
自分が守られていることを当然のように思い、これからも守られると疑わず、無防備に自分をすっかり曝すことができるのが子供だとしたら、ジムとウィルは将来のために、いまの楽しみをあきらめ、回転木馬を破壊して、子供時代を終えた。
そうしてわたしは自分が大切に思っていることを笑われて、それでもそれを自分が大切に思っていくなら、たったひとりで守っていかなければならないのだ、と、覚悟を決めることで、子供時代に別れを告げたのだ。

そのときにそんなことまで理解できたとは思わない。それでも、自分がそれまでとはちがう世界に立っているような気がした。朗読が始まる前と同じ、教室の、自分の机の前に立っていたのに。十一月の、秋の終わりの鈍い日差しが教室に差しこむ午後だった。


3.未だ見ぬ世界


中学に入って驚いたのは、式典であろうが月に一度の朝会であろうが、校長先生の話が異様におもしろかったことだ。

それまで「校長先生のお話」というのは、そのあいだ辛抱するものであって、聞くものではなかった。ありがたいお話というのか、説教臭い話というのか、興味など持てるはずもなく、聞いて思うことは、早く終わらないかな、ということだけだった。

いったいいつその先生の話に気がついたのか、きっかけはよくわからない。ただ、記憶をたぐっていくと、森鴎外の『阿部一族』に出てくる犬の散歩をさせるのが仕事の、位の低い侍が切腹する場面の話が最初だったように思う。内容などほとんど記憶にないのだが、なんとおもしろいのだろう、と急いで図書館へ行って本を借りてきた。ところが漢字ばかりの文章がほとんど読めなくて、ただ『山椒大夫』ばかりがおもしろかったような気がする。

文学の話が多かったけれど、旧制高校のようすや音楽の話、「小さな親切、大きなお世話」という標語のパロディがいったいなぜおかしいのか、という考察の回もあった。
その話がなんであれ、校長先生の話はいつも、その向こうに拡がる知識の沃野をうかがわせるものだった。漱石がどうした、百閧ヘ何と言っていた、という話が、情報ではなく、わたしの内に入っていき、取りこまれ、記憶となって、わたしの一部となるような話。
毎回毎回そんな話を一言も聞き漏らすまいと、わたしは息を止めるようにして聞いていたのだった。

その先生が校長だったのは、わたしが中学二年のときまでで、おそらくこれはその年の高校の卒業式の祝辞だったのだと思う。

ベートーヴェンの第九交響曲で有名な「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうか、という話だった。
ベートーヴェンが二十代の後半でほとんど聴力を失ったこと。晩年は病気が悪化して、大変な苦しみの日々が続いたこと。苦悩を突き抜けたのちに、歓喜に至ったのだろうか。歓喜とは、死後の世界のことなのだろうか。むしろ、そうではなく、彼にあっては苦悩こそが歓喜だったのではないか。

おそらく、そういった内容の話だったのだ。
わたしはよくわからなかった。わからなかったけれど、そのなかの喩えとして出てきた、山に登る楽しさというのは、山頂に着いて、さわやかな風に吹かれ、眼下の景色を見ることなのだろうか、そうではなくて、苦しいはずの山にのぼっているあいだのことなのではないか、ということは、なんとなくわかるような気がした。
苦しさが、歓喜なのだろうか。一方で、それではあまりにも報われないような気もした。苦しいことがあったから、喜びとして報いられるのではないのだろうか。それでもそのときの話は、ずっと心に残って、折に触れて思いだすことになる。
この苦しみが、歓喜なのだろうか、と。

つぎの年に赴任してきた校長先生の話は、一転してつまらないものだった。のちの四年間、その先生の話を聞いたことになるが、いったいどんな話をしていたものか、ただの一度も記憶がない。

だから、つぎに記憶にある卒業式は、この校長先生とは何の関係もない。それはわたしが高校一年のときだった。
その年の二学期に、わたしたちよりふたつ上の女の子が、二年間の留学を終えて戻ってきて、わたしたちの学年に編入された。十六歳のころの十八歳というのは、ひどく年長に思えたし、そればかりでなく、いま考えてみれば、彼女自身、年齢よりもさらに成熟した女の子だったのではなかったか。ともかくダンスを習っていた彼女を中心に、グループができていった。

彼女は口数が少ないわけではなかったのだが、それでも自分の思ったこと、感じたことをそのままべらべらしゃべるタイプではなく、ひとつには、まわりのわたしたちがあまりに子供だったということもあったのだろうけれど、どこかそこにいながら、その場にはいないような雰囲気があった。そういうところがわたしにはかなり好ましく思え、特に何を話すことはなくても、一緒にいるようなこともよくあった。

彼女には、元の同級生、つまりわたしたちよりふたつ上の学年に、つきあっている相手がいた。もちろんほかにも「つきあっている」相手がいる女の子は何人もいたけれど、彼女たちが、××君がどうしたこうした、と夢中になってしゃべっているなかで、彼女だけはその相手のこともほとんど話をすることはなかった。ときどき図書館や渡り廊下で一緒に話をしている姿を見たことがあるぐらいだった。そうして、その相手が卒業を迎えることになったのだ。

毎年卒業式が終わると、卒業生は花道を通って退出する。花道沿いの席は、卒業する先輩のファンの女の子たちが座る場所だった。最後に好きな先輩をひとめ見ようと、クラスのなかで交渉し、関係のない子は席を譲ってやるのだ。
卒業生が退去して、式も終わって、在校生が退出するときになって、その花道脇の席で、彼女が泣いているのが目に入った。
上級生にキャーキャー言っている女の子のそれとはまったくちがう、慟哭といえばよいのか、身をもむようにして、全身で泣いていたのだった。
自分の世界から、自分がこよなく大切に思い、ともにありたいと願う相手がいなくなる悲しみ。相手は新しい世界に移っていき、自分はこれまでと同じ世界に取り残される悲しみ。立ち上がることもせず、周囲の目を憚ることもなく、彼女は自分の悲しみのなかに没入していた。声もかけられないほど、あたりを圧倒するような悲しみがあった。

わたしはそれを見て、自分もいつかそんなふうに誰かのことを思ったりするようなことがあるのだろうか、と考えた。
それは、苦悩であり、歓喜なのかもしれない、と。


4.日付のある風景


高校の卒業式は、国立の二次試験の直前だった。
私立を終えて、合格通知もいくつか届いていたけれど、最後の試験を前に、家ではずっとゴタゴタが続いていた。

どうしても家から通えるところにしなさい。
家から通えない大学なんて受けてはダメ。
毎日朝から晩までその繰りかえしで、家の中の雰囲気は殺伐としていた。

母は卒業式には出るつもりはない、といい、わたしはただ、家から逃れるためだけに学校へ行った。
この学校にもう来ることもないことや、六年過ごしたことの感慨など、頭をよぎることもなく、自分のこれからを思って、ただただ不安な気持ちしかなかった。

式典のことなど、なにも覚えていない。ただ、式のあとに教室に戻って、卒業証書を丸めて筒にいれようとしたがうまくいかず、何度かやり直していたところ、「それだとできないわよ」と、教室の後ろに着物姿で立っていたどこかのお母さんが入れてくれたのを覚えている。わたしは一番後ろの席だったのだ。

最後のホームルームも終わって、軽い荷物と筒を持ってわたしは教室を出た。校門に向かって歩いていたところで、後ろから呼び止められた。
振り返ると、そこに国語の先生がいた。

中学二年から高校二年まで、国語を習った先生だった。
この先生から太宰を知り、安吾の全集を借り、たとえ「小説の神様」でも、気に入らなければ批判してかまわない、いいと思わなくてかまわない、ということを教えてもらい、つまりは本の読み方の根本を教えてもらい、読み、考えるということを教えてもらった先生だった。
それでも、わたしはこの先、この先生とも会うことがなくなるとも思いは至らなかった。
これから家に帰って、またひともんちゃくあることしか胸の内にはなかったのだ。

先生は「本、出せよ。焦ることはないからな。楽しみにしてる」と言ってくれた。
わたしはそんな日が自分に来るとはとても思えなくて、それが自分へのはなむけの言葉とも理解できなかった。わたしはいったい何と答えたのだろう。

その先生と別れて校門を出て、わたしはその学校に足を踏み入れることはないまま今日まで来ている。


こうやってみると、どの「終わり」も、ささやかであっけないものだった。たとえ卒業式などのイベントで飾ったところで、そのあっけなさには変わりがない。

いつも、それが終わりとは気がつかなかった。
そのときにはすでに気持ちは先へ行ってしまい、「いま」は自分の身体が残っているだけ、そうしてその「終わり」という区切りをきちんと見て、記憶に留めることもしなかった。
それからずいぶん時間がたって、ああ、あのときがそうだったのだ、と、わたしはやっと理解したのだった。

それでも、ものごとを感じるというのは、そもそもそういうことではないのだろうか。

わたしたちがなにごとかを感じるのは、外から働きかけを受けたからだ。けれども働きかけを受けた瞬間は、なにごとにせよ、理解することはできない。いい話を聞いた、と思うのは、話が終わってから、思い返してからの評価だし、まぶしい光に目をつぶるのも、いったんまぶしい光を目にしたあとのこと、騒音に耳をふさぐのも、いったんは大きな音を感じとってからだ。

感じているだけでは、わたしたちは何も理解できない。わたしたちは感じて、それから感じたものを過去の記憶と照らし合わせてこれは××だ、と判断した段階で、初めて「いい話だ」とか「まぶしい」とか「やかましい」と理解できるのだ。
だから、わたしたちの「感情」は、いつも遅れてやってくる。そうして、その遅れをとりもどそうとして、あのときはどうだった、と、もういちど思い返そうとする。記憶のなかで、もういちど生き直そうとする。

そのときはわからないから、わたしたちには思い返すことが必要なのかもしれない。
すべてを覚えていることができないから、よけいに自分が見た風景や、聞いた音や話の断片を、たぐり寄せ、寄せ集め、紡いでいこうとする。そうすることでもういちど心のなかにそのときの風景を描こうとする。

だからこそ、卒業という刻み目が必要なのだろう。
時間がたったのちも、思いだすために。そのときにはわからなかったから。
そうして、たとえそのときにどれだけ激しい感情を経験したとしても、それは日付や出来事と結びつかなければ記憶として取り出すことはできない。
あやふやでとらえどころのない感情は、それだけでは思い出にはなっていかない。
わたしたちは、そのとき、自分がどこにいて、どのように感じたという形でしか思いだすことができないのだ。
つまり、「思い出」には、すべて日付と場所がある。


いくつもの「終わり」や「卒業式」を、あっけないまま通り過ぎてしまった。
先だけ見ていたわたしは、卒業したところで自分が変わるわけもなく、相も変わらず同じ自分を抱えていくしかなかった。

それでも時間をおいて振り返ってみれば、そこに確かにわたしがいた。
そのとき自分が何を考えていたか。
何を思っていたか。
振り返るわたしは、刻まれた日付の、そのとき、その場の風景の中にいる。
そうしてその風景は、日々、移り変わっていくいまのわたしとともに、少しずつ変化していく。
そう考えてみれば、「相も変わらず同じ自分」など、どこにもいない。

たとえ細部が失われていても。一部が欠落することになっても。
記憶を「繋ぎ猫」にすることはやめておこう。
放っておけば、季節がめぐりくれば、勝手に戻ってくるだろう。
そうして、そのときどきの光にあてて、わたしはもういちど自分に出会うのだ。




初出Feb. 26- March.01 2007 改訂March 04 2007

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