ここではRing Lardnerの短編 "Haircut" の翻訳をしています。原文は
http://www.classicshorts.com/stories/haircut.htmlで読むことができます。
散髪
by リング・ラードナー
ウチにはもうひとり、土曜日になるとカーターヴィルからあたしを手伝いに来てくれる理髪師がいるんですが、それ以外の日なら、なんとかひとりでやってけるんですよ。ご覧のとおり、ここはニューヨークなんかじゃありませんし、おまけにたいがいの若い衆は、いちんちじゅう働いてますから、ちょっくらここに寄ってめかしこもう、なんて暇もないんです。
お客さん、新しくいらした方でしょ? これまでお目にかかったことはなかったですもんね。ここでの生活が気に入ってくださってりゃあたしもうれしいんですがね。さっきも言ったみたいに、ここはニューヨークやシカゴみたいなとこじゃない、だけど、あたしらみんな、楽しくやってます。ま、ジム・ケンドールが死んじまってからこっち、前みたいなわけにゃいきませんがね。やつが生きてたときは、あいつとホッド・マイヤーズのおかげで、町中みんな大笑いしたもんです。ここぐらいの規模の町で、ここほどみんながよく笑ったところは、アメリカ広しといえど、ほかにはありませんって。
ジムは可笑しなやつでした。ホッドってやつがまたジムに負けず劣らずおもしろくてね。ジムが死んじまってから、ホッドも前とおんなじようなことをやろうとしても、一緒にやってくれる相方がいないから、なかなか大変みたいです。
昔は土曜日っていうと、この店はいつだってとびきり楽しい場所だったんです。土曜日が来ると、四時ぐらいから店はぎゅうぎゅう満員になるんですよ。ジムとホッドも晩飯をすませるやが早いか、六時ごろには顔を出す。ジムはいつもあそこの大きな椅子、青い痰壺のすぐそばに坐ってました。そこにだれが坐ってようと、ジムが顔をのぞかせたらすぐに立って、場所を譲ることになってたんです。
劇場なんかにときどきあるでしょ、ほら、予約席みたいなもんですよ。ホッドはたいてい立ってるか、うろうろしてるか、もちろんたまの土曜日には、お客さんの坐ってるこの椅子で、あたしらが髪を切ってやることもありました。
ジムときたらそこに坐ったきり、しばらくは口を開いても、痰を吐いてるばかりで何も言いやしません。やっと口を開いたかと思うと、あたしに向かってこんなことを言うんです。「ホワイティ」――あたしの本名、つまり、名前の方はディックってんですが、ここいらの連中はみんなあたしをホワイティって呼ぶんですよ――で、ジムはこんなふうに言ったもんだった。「ホワイティ、今夜のおまえの鼻ときたら、バラのつぼみみたいだぜ。きっとおまえさんご自慢のオーデコロンなんぞきこしめしてるんだろうさ」
だからあたしもこう答えたもんです。「冗談じゃない、ジム、おまえさんの方こそコロンだか、もっといけねえもんだかを飲んでたような顔をしてるぜ」
こうなりゃジムも笑わないわけにはいかなくなるんですが、なおもこんなことを言い張るんです。「いいや、オレんちには飲めるようなものなんぞ、あるわけがねえんだ。ところがおれと来た日にゃ、そうしたもんが好きじゃねえってわけでもないんだな、これが。飲めるんだったらメチルだってかまやしねえ」
そこでホッド・マイヤーズが「おまえのかみさんとおんなじだよな」ってなことを言う。ここでみんなはどっと笑うんです、ジムとかみさんが熱々ってわけじゃないことを知ってますから。かみさんのほうは別れたくはあるが、扶養手当が取れる見込みもないし、自分と子供たちの口を養う方策も見あたらない、ってんで、離婚しないでいるようなもんだったんでしょうね。あのかみさんは、ジムのことなんざてんでわかっちゃいなかった。やつにはなんというか、荒いところがあったんです、根はいいやつだったんですが。
やつとホッドはミルト・シェパードをさんざっぱら、からかったもんです。ミルトにはまだお会いじゃないでしょう。やつの喉仏ときたら、アダムのリンゴっていうより、メロンぐらいもあるんです。だからあたしがミルトのヒゲをあたっていて、ここから首の方へおりていこうとしてるとね、ホッドが大声で言うんです。「おい、ホワイティ、ちょっと待つんだ。そいつをふたつに割る前に、みんなで金を出して、なかのタネの数を当てっくらして、だれが一番近いかやってみようぜ」
するとジムも乗ってくる。「ミルトがブタみたいにがっつきさえしなけりゃ、メロンだって丸ごとじゃなくて半分だけにしといたはずだ、そしたら喉につっかえることもなかったのにな」
そこにいる連中はみんなして大笑い、ミルトだって自分が冗談のタネにされたってのに、笑わないわけにはいかない。ジムは実際、おかしなやつでしたよ。
あそこにやつのひげ剃り用の鉢があるんです、棚の上、ほら、チャーリー・ヴェイルの鉢の隣です。「チャールズ・M・ヴェイル」って書いたのがあるでしょ、そいつは薬屋です。週に三回、かならずひげをあたりに来ます。で、ジムのがチャーリーの隣だ。「ジェームズ・H・ケンドール」。ジムにはもうひげ剃り用の鉢なんてものは要りませんがね、昔のよしみでそこに残してるんです。なにしろジムはたいしたタマでしたからね。
もうせん、ジムはカーターヴィルにある会社の関係で缶詰め製品のセールスマンをしてたんです。ええ、缶詰めを扱ってる会社なんですよ。ジムの担当はこの州の北半分で、週のうち五日は移動していましたよ。土曜日になるとここへ寄って、その週、自分が見たり聞いたりしたことを教えてくれたんです。どれもえらくおもしろいもんでした。
おそらくやつは商売よりも冗談を言う方に熱心だったんでしょう。とうとう会社のほうもやつをおっぽりだすことにしたらしく、やつはまっすぐここへやって来て、みんなに、オレはクビになった、って言ったんです。たいていの人間なら自分から辞めてやった、みたいに言うところなんでしょうが、そんなことはしなかった。
その日は土曜日で、店は満員、ジムは例の椅子から立ち上がるとこんなふうに言ったもんです。「諸君、重要な知らせだ。オレは仕事をクビになった」
そこでみんなが、そりゃ本当か、って聞いたところ、ジムは、そうだ、って言う。なんて言ったらいいか、だれもわからなくって黙ってたんですが、とうとう自分から言いました。「おれはずっと缶詰めを売ってきたんだが、こんどはオレが缶詰めにされちまったんだよ」
ほら、やつが働いていたのは缶詰めを作る工場だった。カーターヴィルのね。それがいまや自分がが干されて缶詰めにされちゃった、って言ってるわけだ。まったく愉快なやつでしょ。
ジムはセールスに出かけてるあいだ、とんでもないいたずらをよくやってました。たとえば汽車に乗って、どこかちっぽけな、そう、どこなんかがいいかな、ま、どこでもいいんだが、たとえばベントンみたいな小さな町にさしかかる。ジムは汽車の窓から店の看板なんかを見とくんです。
たとえば『ヘンリー・スミス衣料雑貨店』なんてな看板があるとする。そこでジムはその名前と町の名前を書き留めておいてから、どこだっていいんですが、行った先からベントンのヘンリー・スミス宛てに、無記名のまま、ハガキを書くんです。「奥さんに本のセールスマンのことを聞いてみな。先週の午後、ずっといっしょにいたんだっけな」とか、「あんたがこのあいだカーターヴィルへ行ってるあいだ、だれのおかげで女房殿は寂しくなかったんだろうな、聞いてみたらどうだい」みたいに。ハガキの署名はひとこと「一友人より」ってね。
もちろんこのいたずらがもとで、実際にどういうことになったかなんて、ジムにわかるはずもありません。だけど起こりそうな騒ぎは想像できるし、やつにはそれで十分だったんでしょう。
ジムはカーターヴィルでの仕事をクビになってから、定職にはつかなくなってしまいました。この町のあっちやこっちで半端仕事をやっちゃあ、日銭を稼いではいましたが、それもほとんどがジンを飲む金に消えてましたね。いろんな店が便宜を図ってやってなきゃ、ジムの家族は飢え死にしていたことでしょう。ジムのかみさんはドレスの仕立てができる腕があったんですが、この町じゃドレスをあつらえよう、なんてことを考えるような金持ちなんていませんしね。
さっきも言ったみたいに、かみさんとしちゃ、別れたかったんでしょうが、自分だけじゃ子供を抱えてやっていけないと考えてた。いつか、ジムが悪い癖と縁を切って、週に二ドルや三ドルのはした金じゃない、ちゃんとした額を入れてくれるだろう、という望みもあったんでしょうな。
あるときかみさんは、ジムが働かせてもらってる人のところへ行って、頼みこんでジムの給料をもらってきたんです。そういうことが一度か二度もあったんでしょうかね、以来、ジムは給料をほとんど全額、前借りしちまった。おまけにそれを、おれはかかぁを出し抜いてやったぞ、って、みんなに触れ回るんですからね。まったくおかしな男でしたよ。
でも、やつはかみさんを出し抜くだけじゃ満足しなかった。かみさんが自分の給料を横取りしようとしたことが、そりゃ頭に来てたんでしょう。だからきっちり借りを返すことにした。ちょうど、エヴァンズ・サーカスがこの町にくるという知らせが出てたんです。だからかみさんとふたりの子供に、サーカスに連れてってやる、って言ったんですよ。当日になると、自分はチケットを買っとくから、おまえらはテントの入り口のところで待っておけ、と。
ジムのほうは、そこに行くつもりも、チケットを買うつもりも、これっぱかりもありゃしません。ジンをしこたまかっ喰らって、ライトの玉撞き場でごろごろしてたんです。かみさんと子供が待てど暮らせど、もちろん、やつが現れる気配もない。かみさんは十セント硬貨一枚、持ってきてない、おそらくそんなものどこにも持っちゃなかったんでしょうが。だから、とうとう子供たちに、どうしようもないから帰ろうって言ったんです。そしたらおチビさんたちは泣いて泣いて、どうにも泣きやまなくなっちまった。
そしたら、なんでも泣いているさなかに、お医者のステア先生が通りかかったらしいんです。そこで、どうしたんです、って聞きなすったが、ケンドールのかみさんもがんこでさ、わけなんて話そうとはしない。けど、チビどもが代わりにしゃべっちまったもんで、先生は、これで見ていらっしゃい、って、どうあっても引き下がらなかった。ジムはあとになって知ったらしいんですが、どうやらそのことでステア先生に対しては腹に一物、持つようになったらしい。
ステア先生っていうのは、一年半くらい前に、ここにいらした方なんです。そりゃ男っぷりのいい、まだ若い人でね、おまけに、いつもあつらえたような服を着てらっしゃる。年に二回か三回、デトロイトにお出でだから、おそらくそっちにいるあいだに仕立屋で寸法を取らせて、スーツを作らせてるのにちがいありません。店で買うのにくらべりゃ二倍がとこ、かかるんでしょうが、そりゃもうぴったりくる感じは、全然ちがってまさぁ。
しばらくはみんな、不思議に思ってたんですよ、ステア先生みたいな若いお医者さんが、なんでこんな町にやって来たのか。おまけにここにはもう、大昔から、ギャンブル先生とフット先生っていうお医者がいて、町の人間はこのふたりのどちらかにかかってるんですからね。
そこでこんな噂が広まった。ステア先生はミシガン州のノース・ペニンスラあたりで娘っこに肘鉄喰らった、だからそれを忘れるために、ここにしばらく逼塞してるんだ、ってね。ご自身では、あらゆる方面に強い医者になろうと思ったら、こういう町で開業医としてやっていくのが一番いいんだ、なんておっしゃってましたが。だからここにいらっしゃったんだそうですよ。
ともかく、ステア先生が医者として十分やっていけるようになるのに、そんなに時間はかかりませんでした。とはいえ、人の話だと、先生は医療費が払えない患者でも、払えと催促するようなまねは決してなさらなかったんだとか。ところがここの連中ときたら、借りっぱなしにしちまうクセがあってね、あたしの商売にしてからがそうなんです。実際、ひげをあたった料金をまるっぽもらえるだけで、あたしもカーターヴィルに行って一週間マーサー・ホテルに泊まって、毎晩ちがう映画を見ることだってできるでしょうね。ジョージ・パーディの親爺ときたら……おっと、人の悪口は止しにしなきゃね。
ともかく、去年のことです、この町の検死官が亡くなった、流感で亡くなったんです。ケン・ビーティっていう名前でね、ええ、検死官をやってたんです。だもんだから、かわりに他の人を選ばなきゃならなくなって、ステア先生はどうか、って推す人たちが出てきた。ステア先生は最初のうち笑って、そういうことはご免被る、って言ってらしたんですが、結局は、やりましょう、って言わされちまった。この仕事は人を押しのけてでもやりたくなるようなもんじゃありませんし、年間通しての報酬だって、庭に咲かせる花の種が買えるぐらいがせいぜいです。だけど先生って方は、人にしつこく言われたら、なにごとであれ、いやとは言えないタイプの人だったんですねぇ。
おっと、もうひとり、この町のかわいそうな若いもんの話をしようと思ってたんだ、ポール・ディクスンっていうやつなんですがね。十歳ぐらいの時、木から落っこったんです。で、頭を打ったのがもとで、どうもぴりっとしなくなっちまった。別にどっか支障があるってわけじゃないんですが、ただちょっと、どんくさいんですよ。ジム・ケンドールはよくこいつのことを「カッコウ」って呼んでましたけどね。やつは頭がいかれたやつならだれでもそう呼んでたんです。そうそう、ジムは人の頭のことを「ドタマ」って言ってた。これまたやつの冗談ですよ、頭を「ドタマ」と呼び、おかしなヤツのことを「カッコウ」と呼ぶなんてね。ポールは別に頭がおかしい、ってわけじゃなかった。ただ、ちょっと、どんくさいだけで。
ジムのことだから、ことあるごとにポールをからかったのもおわかりでしょう。一度なんか、ポールをホワイト・フロント修理工場へ、左利き専用のモンキー・レンチを取りに行かせたんです。もちとん左利き専用レンチなんてものがあるわけがありません(※原文left-handedには「左利き」という意味の他に「左巻き」ということを意味する場合がある)。
そうそう、こんなこともあったな、この町で品評会があったんですが、そこででぶっちょのチームとやせっぽちのチームが野球の試合をしたんです。始まる前にジムはポールを呼んで、シュレイダー金物店へ行って、ピッチャー・ボックスを開ける鍵を買ってこい、なんて命令するんです(※もちろん「ピッチャー・ボックス」などというものはない。これは「バッター・ボックス」にちなみ、なおかつ「ボックス(=箱)」をあける鍵とも掛けてある)。
ひとたび、いたずらとなると、ジムがその気になりさえすりゃ、思いつかないことなんて何ひとつありませんでしたね。
かわいそうに、ポールはいつだって人に気を許したりできなくなったみたいでした。それもきっとジムから絶えず、からかわれたせいなんでしょうが。ポールはだれとも関わろうとしなくなってたんです、自分のおふくろと、ステア先生と、あと、この町に住むジュリー・グレッグっていう娘をのぞけばね。あ、ジュリーってのはほんと言うと、娘っこじゃないな、三十近いか、過ぎてるか、ぐらいでしょうからね。
ともかく先生がいらしてからこっち、ポールは本物の友だちを見つけた、とでも思ったんでしょう、四六時中、先生の診療所に入り浸ってました。そこにいないときってったら、自分ちに帰ってメシを食ってるときか、寝るときか、あとはジュリー・グレッグが買い物に行くのを見つけたときぐらいだったでしょう。
診療所の窓からジュリーを見かけたら、階段を転げるように降りてって、ジュリーにくっついて、あっちやこっちの店に入っていくんです。このかわいそうなやつは、もうジュリーにくびったけで、ジュリーの側もいつだって優しく接してやるもんだから、ポールも一緒にいてもいいんだ、みたいに思ってたんでしょう、ま、もちろん、彼女からすればただかわいそうに思ってただけなんでしょうがね。
先生のほうはポールの頭を少しでも回復させようと手を尽くしてらっしゃいましたよ、あたしもこの耳で聞いたんですが、あの子は前よりよくなってる、時によっては、普通の人間と変わらないくらい利口だし、分別もあるよ、なんておっしゃってましたっけ。
そうそう、あたしが話したかったのは、ジュリー・グレッグのことでした。先代のグレッグは材木を商っていてね、ところが酒に飲まれちまって、身代をすっかり潰したあげくに死んじまったんです。屋敷と保険金、っていっても、娘がかつかつ生活していけるかいけないか、っていうぐらいの額だったんですが、まぁ、それだけを残してね。
おふくろさんは半ば寝たきりの病人で、ほとんど家から出ることもなかったんです。おやじさんが亡くなってからというもの、ジュリーも屋敷なんぞは売っぱらっちまって、どこかよそに移りたかったらしいんですが、おふくろさんときたら、わたしはここで生まれたのだから死ぬのもここよ、とかなんとかそんなことを言ってきかなかったらしい。ジュリーにしてみりゃ、かわいそうな話です、なにしろこの町の若い連中ときたら――ま、何です、やつらにゃもったいなさ過ぎる娘ってことです。
ジュリーはよその学校へ行ってますし、シカゴだってニューヨークだって、もっとほかの場所だって行ったことがある、だもんだから、どんな話題にだってついていける。そこへもってきて、ほかの連中と来た日にゃグロリア・スワンソンだのトーマス・ミーハンだの、映画スターの話ばっかりで、ほかの話をしようとでもしたら、おまえ、頭は大丈夫か、ってなもんですからね。そりゃそうと、お客さんはグロリアの『美徳の報い』はごらんになりました? え? そりゃ惜しいことしましたねぇ。
ともかくステア先生はいらっしゃってから一週間もしないうちに、ウチにひげをあたりに見えたんですよ。あたしは誰だかすぐにわかりましたね、まるで指さして教えてもらったみたいに。だからあたしはうちのおふくろの話をしたんだ。うちのおふくろはここ数年ずっと具合が悪くて、ギャンブル先生にかかっても、フット先生にかかっても、ちっとも良くならない、ってね。そしたら、往診に行くのはかまわないけれど、外出できるようなら診療所の方へ連れてきてもらえないか、そのほうが細かい検査もいろいろできるから、っておっしゃってくれたんです。
だからあたしはおふくろを診療所に連れてって、おふくろが診てもらってるあいだ、待合室で待ってたんです、そこへジュリー・グレッグがやってきた。ステア先生の診療所は、だれか入ってくると奧の診察室のベルが鳴って、患者さんが来たことが先生にわかる仕組みになってるんです。
そこで先生はおふくろを診察室に残したまま、表の部屋に出てきました。それが先生とジュリーが初めて会った瞬間だったんです。一目惚れってえのは、ああいうのを言うんだろうな。だけど、そいつは五分五分じゃありませんでした。この若いお医者は、ジュリーがこれまでここで会った中でもとびっきりのいい男です、だからジュリーはたちまち夢中になっちまった。けど、先生からしてみりゃ、ジュリーも自分のところへ来た若い娘にすぎなかったんだろうね。
ジュリーがそこへ来たのも、あたしと同じ理由でした。ジュリーのおふくろさんも、もう何年もギャンブル先生とフット先生に診てもらってるんだが、いっこうに良くなる兆しがない。町に新しい医者が来たことを聞きつけて、一度診てもらうことにしたんです。先生は、お母さんの診察に、今日中にお宅にうかがいましょう、って約束なさってました。
あたしは彼女の側からの一目惚れだったって言いました。そのことは、あとあとのジュリーの様子からそう判断したってだけじゃないんです、ジュリーがあの日、診療所で先生をどんな眼で見てたか。あたしには人の心を読む力なんかないけれど、あのときのジュリーの顔には、一目で彼に参った、って書いてありましたっけ。
ところで、ジム・ケンドールなんですが、ジムってのは笑わせ屋の呑んべえってだけじゃない、なかなかの女たらしでもあったんです。カーターヴィルの会社で働いていたころも、あっちこっち行く先々でたいした凄腕で鳴らしたようですよ。おまけにここでだって、二、三の色恋沙汰はあったみたいだ。さっきも言ったみたいに、かみさんとしてみりゃ別れてしまいたかったんだろうけどね、なかなかそうもいかなかったんです。
ところがそのジムも、たいがいの男と同じだった。ま、女にしてもそうなんでしょうが。つまり、自分が手に入らないものがほしくなるんですな。やつがほしくなったのが、ジュリー・グレッグ、で、ものにしようと頭を働かせたんです。やつの口癖を借りれば、頭じゃなくて「ドタマ」ってことになるんでしょうが。
ま、ジムのやることなすことも冗談も、ジュリーのお気には召さなかったってことです。もちろん所帯持ちってこともあって、ものにできる可能性なんて、その、なんだ、ウサギにも及ばない。これまたジム一流の言いまわしでね、選挙とかそんなもんに出た人間が、これっぱかりも当選する可能性がないようなときに、ジムはいつも、ウサギほどの望みもない、って言ってたんです。
ジムは自分の気持ちを隠そうともしてませんでした。ここでもみんなの前で、おれはもうジュリーにくびったけなんだ、だれかおれに世話してくれよ、そしたらおれの家を喜んで進呈するぜ、女房、子供こみでな、なんて言ったのも一度や二度じゃありませんでしたね。ところがジュリーの方は鼻も引っかけないんです。往来で会っても、口ひとつ開かない。とうとうジムもいつもの手管ではどうにもならない、と悟ったんでしょう、荒っぽいやりかたを試すことに決めたんです。ある晩、家に直接押しかけて、ジュリーがドアを開けたところで、力ずくで中に入ると抱きついたんです。ジュリーはなんとかそれを振りほどいて、やつが引き留めようとするまえに隣の部屋に駆けこんで、内側からしっかり錠をおろしてからジョー・バーンズに電話をかけた。ジョーっていうのは警察署長です。ジムは、ジュリーがだれに電話をかけたかわかったんで、ジョーがそこに来るまえに逃げだしちまいました。
ジョーはジュリーのおやじさんの古くからの友人だったんです。だから次の日、ジムのところへ出向いて、もう一度こんなことをしたら、どうなるかわかってるだろうな、ってどやしつけたんですよ。
これっぱかりの事件がどうして外に漏れたのか、あたしにはよくわかりません。せいぜい、ジョー・バーンズが奥方にしゃべったのを、奥方がまただれかにしゃべって、奥さん連中が今度はダンナにしゃべった、ってところでしょうか。ジムはあっさり認めると、笑い飛ばしてから、みんなに言ったんです、いまに見てろ、って。おれのことをバカにしようとしたやつはこれまでにもたくさんいたが、おれはその借りはきっちり返してきたんだ、ってね。
そのうち、ジュリーが先生にぞっこんだってことを、町中みんなが知るようになりました。あたしは思うんだが、ジュリーは気がついてなかったんじゃないんでしょうかね。先生と一緒のときの自分の顔が別人みたいに変わっちまってることなんて。もちろんわかるはずがありませんや。そうでなきゃ、あの娘も先生を避けるようにしてたでしょうからね。おまけにあたしたちが、ジュリーが何度、口実を作って診療所に出向いたか、ってことも、通りの反対側を歩いくときに先生の姿が見えやしないかとジュリーが窓を見上げているのも、全部知ってるんだってことも気がついてなかった。あたしはそんなあの娘がかわいそうでね、だけどたいていの人間は同じ気持ちだっただろうなぁ。
ホッド・マイヤーズはジムをしつこくからかってましたね、おまえ、医者に負けちまったんだな、って。ジムはそんな冷やかしなんぞ、ちっとも気にしてるふうはありませんでしたが、何かわるふざけをたくらんでることは、みんな気がついてましたね。
ジムにはもうひとつ芸当があったんです、声色を使うんですよ。若い娘がしゃべってる、って思わせることだってできたし、どんな男の物まねだってできた。そいつがどれだけたいしたもんだったか、あたしも一度やられたんで、そのときの話をしましょう。
大小にかかわらずほとんどの町じゃ、人が亡くなったあと、ひげを剃ってやらなきゃならなくなると、床屋が呼ばれます。そうして床屋はひげをあたって、五ドル、もらうことになっている。もちろん払ってくれるのは死んだ人間じゃなくて、頼んだほうの人間なんですが。あたしは相手が死んでようがどうだろうが気にしやしませんから、三ドルだけ、いただいてます。いや、死んじまった人間ってのは生きてるお客よりずっと静かに横になっててくれてますからね。ただ、死人相手におしゃべりはできませんから、ちくっと寂しくて、それだけがちょっとね。
で、こんなに寒い日はないってぇくらいの寒い日だったんです、二年前の冬だった。家に電話があってね、あたしはちょうど晩飯を食ってたんですが、電話に出てみたら女の声が、ジョン・スコットの家内なんですが、主人が亡くなったので家に来てひげを剃ってもらえませんか、って言うんです。
ジョン爺さんは長らくウチのお得意さんでした。だけど家は十キロ以上も離れた町はずれのストリーター街道沿いです。それでも、いやだ、なんてことは言えませんやね。
だからあたしは言いました。わかりました、そっちへうかがいます、でも車を出しますから、ひげ剃り代のほかに三ドルか、四ドル、いただきますよ。そしたら女は、というか、その電話の主は、それはかまわない、って言うもんだから、あたしはフランク・アボットに頼んで車を出してもらって、その場所まで行きました。さて、そこでドアを開けてくれたのは、だれあろう、ジョン爺さんその人だったんですよ。死んでる可能性は、それこそ例の、ウサギほどもないようなありさまでした。
だれがあたしにこんないたずらをしかけたか、なんてことは、私立探偵を雇わなくたってわかります。ジム・ケンドールを除いたら、こんなことを思いつくようなやつはいませんからね。まったくもって実におかしなやつだった。
このときのことをお客さんにお話ししたのも、ジムのやつがどれだけ声色が巧みだったか、完璧にほかの人間がしゃべっているように思わせることができたってことを知っておいていただきたかったんです。あたしだってあのときはほんとうにスコットのかみさんが電話してきたんだと思いましたからね。
ともかくジムはステア先生の声色が存分に使えるようになるまで待っていました。それから仕返しに取りかかったんです。
ある晩ジムは、先生がカーターヴィルに出向いたことを確かめたうえで、ジュリーに電話をかけました。ジュリーはそれが先生の声だって、毛ほども疑わなかったんです。ジムは言いました。今夜、あなたにどうしても会いたい、と。言いたいことがある、もうこれ以上は待てない。ジュリーもすっかり舞いあがって、わたしの家にいらっしゃって、って言ったんです。やつは、重要な用件で長距離電話がかかってくるはずだから、どうか今日一日だけ、たしなみを忘れて、診療所の方に来ていただけないか、と言ったんです。あなたに迷惑のかかるようなことはしない、人目に触れることもないだろうし、ほんの少しのあいだ、話すだけなんだ、って。かわいそうなジュリーは、すっかりそれを信じこんじまった。
先生は夜でも診療所の灯りはつけっぱなしにしてました。だからジュリーにはそこに人がいるように見えたんでしょう。
ジム・ケンドールのほうは、ライトの玉撞き場に行った。そこは連中の溜まり場だったんです。しらふのときでさえ荒っぽい連中が、みんな、ジンを浴びるほど呑んでました。ジムのいたずらでいつだっておおいに盛り上がる連中でしたから、ジムが、一緒に来いよ、おもしろいものを見せてやるぜ、と言うと、すぐにポーカーも玉撞きもやめて、ジムについていきました。
先生の診療所は二階にありました。ドアのすぐ外側に上の階に通じる階段があるんです。ジム一味はその階段裏の暗がりに身を潜めました。
さて、ジュリーは診療所まで上がってきて、ドアをノックしたりベルを鳴らしたりしたんですが、何の返答もありません。なおも鳴らし、さらに鳴らし、都合七、八回も鳴らしたでしょうか。そこでためしに開けようとして、鍵がかかっているのに気がついた。そのとき、ジムが音を立てたんです。それを聞きつけたジュリーは、しばらく様子をうかがったあと、こう言ったんです。
「そこにいらっしゃるの? ラルフ」
ラルフってぇのは、先生の名前です。
それでも返事がない、それからいちどきにジュリーはなにもかも気がついたんです、自分はかつがれたんだ、って。階段を転がるようにおりたジュリーのあとから、連中も出てきました。後ろから大声ではやしながら、ジュリーの家までついていったんです。「そこにいらっしゃるの? ラルフ」だの、「ああ、ラルフィ、ねぇ、そこにいらっしゃるのぉ?」なんてことを言いながら。ジムだけはあんまり笑いすぎて、はやすこともできなかったんだそうです。
ジュリーもかわいそうにねぇ。そのあと、そりゃ長いこと、ここの表通りに出てくることもありませんでしたよ。
もちろんジムも一味も、町の人間だれかれかまわずふれまわってましたよ。ただし、先生だけは別です。連中も、さすがに先生にはおっかなくって言えなかったんだろうな。だから先生も、ポール・ディクスンさえいなけりゃ、知ることもなかったんでしょうね。あの、かわいそうなカッコウ、いや、ジムがそう呼んでたんですがね、ポールがある晩、この店にいるときに、ジムは相変わらずしつこく、自分がジュリーにしてやったことを吹聴してたんです。そこでポールも、自分の頭で理解できるかぎりのことを呑み込んで、先生のところへその話を持って駈けてったんです。
きっと先生も、かんかんに怒って、ジムには報いを受けさせてやらなくちゃならんと思ったにちがいありません。とはいえ、これは存外、あぶなっかしいことでね、というのも、もし先生がジムをのしちまったなんてことが公けにでもなったなら、ジュリーの耳にも当然入るでしょうし、そうなったら、先生はあの出来事を知ってらっしゃるんだ、ってジュリーも思うでしょう、そしたらいっそうジュリーはつらい思いをする。先生としちゃ、ガツンと言わせてやりたかったんでしょうが、そのためにはまず、十分な検討が必要だ、って思われたんじゃないでしょうか。
さて、それから二、三日して、ジムがまたここに来たんですが、そのときもカッコウがここにいました。次の日、鴨を撃ちに行くつもりだったジムは、ホッド・マイヤーズを誘おうと、探しに来たわけです。あたしはたまたまホッドはカーターヴィルに行っちまって週末まで帰ってこないことを知ってたんです。するとジムは、ひとりで行ってもつまんねえしなぁ、しょうがねえ、今回はやめだ、と言いました。ところがポールがいやに大きな声で言うんですよ、ジムさんがぼくを連れてってくれるんだったら、ぼく、行きたいなあ、って。ジムはちょっと考えてから言いました。ま、うすのろだって、だれもいないよりはマシだな。
おそらくジムのことだがら、連れてったってボートに乗せてからいたずらをしかけてやろう、水の中に突き落とすとかして、なんてなことを企んでたんでしょうよ。ともかくやつはポールに、来たきゃ来い、って言いました。ところでおまえは鴨を撃ったことがあるのか、とジムが聞くと、ポールは、ないです、と言う。ぼくは銃を持ったこともないんです、と。そこでジムは、おまえはボートに坐って、おれのやることを見てりゃいいんだ、いい子でいたら銃を貸してやるから、それで二、三発、撃たせてやるかもしれん、と言いました。ふたりは次の日の朝、会う約束をしていました。それが、あたしが生きてるジムを見た最後でしたね。
あくる朝、店を開けて十分もしないうち、ステア先生がみえたんです。なんだか、いらいらしておいでのようでした。あたしに、ポール・ディクスンを見かけなかったか、とお聞きでしたから、見かけちゃいませんが、どこにいるかは知ってます、と答えました。ジム・ケンドールと一緒に鴨撃ちに行ったんでさ、って。先生がおっしゃるには、ぼくもその話は耳にしたけれど、そんなはずがないんだ、ポールはぼくに、ジムとは一生、口を利かないと言ってたからね、って。
こんなこともおっしゃいました。ジムがジェリーにした悪ふざけの話を教えてくれたときに、ポールがぼくにどう思うか聞くもんだから、そんなことをするやつは、たとえ相手がだれであろうと、生かしておくわけにはいかないな、と答えたんだそうで。あたしは先生にこう言っておきました。確かにあれはちょっといきすぎでしたが、ジムっていうやつは、たとえ少々やりすぎるようなことがあったとしても、それはただもう、いたずらの虫を抑えられないだけなんです、悪気があるやつじゃない、いたずらがしたくてうずうずしてるだけのやつなんです、ってね。だけど先生は黙ったまま、背を向けてお帰りでした。
お昼ごろ、先生のところへジョン・スコットから電話がありました。ジムとポールが鴨撃ちに行った湖は、ジョン・スコットの地所だったんです。たったいま、ポールが家に駆け込んできた、事故が起こったと言っている。ジムが鴨を数羽、撃ったところで、銃を自分に渡して、ためしに撃って見ろ、と言った。銃を持ったことのない自分は、どうしていいかわからない。手が震えて、うまく銃を持っていられなかった。そこで銃が火を噴いて、ジムがボートにばったり倒れて死んでしまった、と。
ステア先生は検死官でもありましたから、取るものもとりあえずフランク・アボットの車に飛び乗って、スコットの農場に駆けつけました。ポールとジョンは湖の岸にいたそうです。ポールがボートを岸まで漕いできたんですが、死体はそのままにして、先生が来るのを待ってたらしい。
先生は遺体をあらためると、亡骸は町へ運んでかまわない、とおっしゃった。ここに置いておく必要はないし、陪審を集めて審問を開くまでもない、これは単純な暴発事故だから、ってことでした。
あたしなら、銃の扱い方をよく知ってる相手じゃないかぎり、同じボートの人間に銃なんて撃たせようとは思いません。銃さえ持ったことのない素人に持たせるなんてね。まして、相手はちょっとトロいときてる。だけどまあ、これも自業自得ってんでしょうかねぇ。だけど、そうは言っても、やつがいなくなって、この町もさびしくなりました。確かに愉快なやつでしたからね!
お客さん、濡らして櫛を入れましょうか、それとも乾いたままの方がよろしいですか?
The End
床屋は見ていた
リング・ラードナー(1885-1933)は1920年代から30年代を代表するアメリカの短編作家である。
新聞記者としてスタートし、野球を中心としたスポーツ記事を担当した。そこから雑誌に野球選手のエピソードを書くようになって、それが大変な評判となる。そのうち、野球やスポーツに材を取ったユーモア短編を書きはじめ、幅広い読者から支持されてきた。
やがて、ラードナーは野球ものに留まらない、アメリカの同時代に生きるさまざまな人々を描き出すようになる。
ラードナーの特徴は、一貫してその語り口にある。床屋、野球選手、若い娘、さまざまな一人称の語り手が、自分の生活や、生きる社会を生き生きとした「話し言葉」で語ってくれるのである。
ラードナーの親友でもあったF.フィッツジェラルドは、追悼文"Ring"のなかで、こんなふうに言っている。
ラードナーが作家として大成しなかったのは、彼が大切な青春時代を愚昧な野球選手たちと交際して過ごしたからだ。そのころ彼と同時代の有望な作家たちは(たとえばヘミングウェイ、ドス・パソス、フィッツジェラルドその他にも多い)みんな戦場での体験や戦後(※第一次世界大戦)のパリー中心の海外生活などによって、自己の未来への発酵素を蓄えていたのだ。ラードナーははじめ自分を育ててくれた野球界や選手たちの話を書いて成功を収めたが、ひとたび球場の外に出た時、たちまち、そのすぐれた語り口(見事な口語的技法)をどのように用いて良いか分からなくなったのだ――。
(フィッツジェラルド "Ring" 所収:ラードナー『息がつまりそう』加島祥造訳 新潮社)
フィッツジェラルドはこのように言っているけれど、ラードナーは野球ものの後にいわゆる「市民もの」を書くようになる。そうして、むしろ今日でも評価が高いのは、そちらの作品である。
なかでもこの『散髪』は、ラードナーの代表作であるだけでなく、アメリカ短編小説のアンソロジーを編む際には、たとえばシャーリー・ジャクスンの「くじ」や、シャーロット・パーキンス・ギルマンの「黄色い壁紙」、あるいはイーディス・ウォートンの「ローマ熱」などと並んで、かならずといっていいほど、選ばれることの多い一編なのである。
ということで、本来なら拙サイトでもまっさきにとりあげたくなるような短編である。ただ、わたしはずっと迷っていた。
正直に言いましょう。あまり好きではなかったのだ。
田舎町の床屋が舞台、となると、どうしてもウィリアム・フォークナーの「乾いた九月」を思い出してしまう。同じように、オールドミスも出てくる、「悪役」も出てくる。
けれども、後味は、こちらのほうがはるかに悪い、とわたしは思う。「九月」が、虐げられている人間が殺され、こちらでは、「悪役」が殺されているにもかかわらず。「九月」では、暴力の流れから、床屋は自分の身が傷つくのも怖れず、飛び出そうとする、その存在がやはり一種の救いになっているのだろう。
以前読んだときは、これはドクター・ステアの「完全犯罪」なのだろうと思ったのだった。自らの手を汚さず、自分を慕うポールに、ヒントだけを与えて殺させる。やりきれなさの多くは、そのことからきていた。
ところが訳しながら読んでみて、むしろ語り手である床屋の存在の大きさを知るようになった。
この床屋は、ジム・ケンドールを「愉快なやつ」「可笑しなやつ」と繰り返す。とんでもないことをしたときでさえ「根はいいやつ」という。なぜなのだろう。
ひとつ言えるのは、この床屋が、町を愛しているということだ。町を愛し、町の住人を愛しているからこそ、心の底から町の人間を悪く言うことができないし、思いこめないのだ。
そうして考えていくと、この床屋は、医者がやったことさえ気がついているのかもしれない。知っているからこそ、客に、このような話をしたのかもしれない。
人を愛することの悲しさも、そうして多くのことはどうあがいてもどうにもならないことも、貧しさも、死んでいくことも、すべてを見て、知っている床屋だからこそ、ジムのようにどうしようもない人間をも「愉快なやつ」と言うことができるのかもしれない。
この床屋は「九月」の床屋のように、悪と闘うことはしないけれど、その一部始終を見ているのだ、と。そうして、ラードナーは、そういう作家としてあったのだ、と、思ったのだった。
人間というのは、悲しいものだ、と。
だからこそ、おかしくもあるのだ、と。
今度、折りがあればユーモラスな作品も訳してみます。
初出July 26-Aug.01 2006 改訂Aug.04 2006
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