ここでは W. Somerset Maugham の短篇 "The happy man" を訳しています。
1874年生まれのモームが1924年、50歳のときに発表した短篇です。
モームの作品のほとんどは、要約すれば、「人が生まれました、生きて、死にました」というものです。この短編も同じですが、ここでの主人公はタヒチで画家になるチャールズ・ストリックランドのように、劇的な生涯を送るわけではない。けれども、後世に名を残すこともない、ありふれた人であっても、その人が生きていく日々のなかには、葛藤だってあるし、岐路に立つこともある。モームの短篇はそのことを教えてくれます。この、もうひとつの『月と六ペンス』、肩の力を抜いた作者が、ゆるめた息のあいだから語るひとりの男の半生は、語られなかった部分をも、わたしたちに想像させずにはおきません。。
原文はhttp://www.miguelmllop.com/stories/stories/thehappyman.pdfで読むことができます。
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幸せな男
by サマセット・モーム
他人の人生にあれこれ口出しすることは、本来、危険を伴うはずなのだが、わたしはこれまで何度となく、政治家や社会改革者、あるいはそれに類する連中が、人びとの礼儀作法や習慣、ものの見方に至るまで、なんとか変えてやろうと虎視眈々、待ちかまえているのを目にしてきて、彼らの自信のほどに舌を巻く思いでいた。
わたしときたら、他人に助言を求められるたび、逡巡せずにはいられない。そもそも自分と同じぐらいには相手のことを知らないで、いったいどうして助言などができようか。しかも、これだけは確かなことだが、わたしは自分のことさえろくにわかってはいない。まして、他人のいったい何を知っていよう。
わたしたちはただ、隣人の考えや気持ちを憶測しているに過ぎない。だれもみな、塔の独房に閉じこめられた囚人で、いわゆる人間という名のほかの囚人と、その意味するところが自分と相手の間でかならずしも一致していない、できあいの記号を使って、意思の疎通を図るしかないのである。おまけに人生というものは、悲しいかな、一度きりしか送ることはできないのだ。失敗は多くの場合、取り返しがつかないものだし、そうなると、あなたはこう生きるべきだ、などと言うわたしは、いったい何様だというのだろう。生きていくことは、並大抵のことではないし、自分自身の人生を成熟させ完成させることのむずかしさは十分に理解している。だからこそわたしは、隣人に向かって、あなたの人生はこう生きるべきですよ、などと講釈する誘惑にかられることもなかったのである。
だが、人生という旅路の第一歩目からまごついて、そこから先の見通しも立てられないまま、危険にさらされている人びともいる。そんなときは心ならずも、進むべき筋道を示してやらざるを得なかった。わたしはこれからどうしたらいいのでしょう、と聞かれることもあったが、そんなときには自分が運命の神の黒いマントをすっぽりと身にまとったような気がしてくるのだった。
だが、こんなわたしのアドヴァイスでも、うまくいったことがある。
それはまだわたしが歳も若く、ロンドンのヴィクトリア駅にほど近い、ささやかなアパートメントに住んでいた時代のことだ。ある日の午後も遅くなり、今日はもう十分働いた、と思い始めたころ、呼び鈴の音が聞こえたのだった。ドアを開けると、見知らぬ訪問者がそこにいる。その彼に名を問われたので、わたしは答えた。すると相手は、おじゃましてもよろしいでしょうか、と聞いてきた。
「もちろんですよ」
居間へ通してやり、腰を下ろすようにうながした。客はいくぶん緊張しているらしい。わたしがタバコを勧めると、帽子を持ったまま、苦労しながら火をつけようとしている。その難事業を首尾良くやりおおせたところで、わたしは、差し支えなければ帽子を預かって、椅子の上にのせておきましょうか、と聞いてみた。あわてて客は自分で置きに行くと、今度は傘を倒した。
「こんなふうにおじゃましてもかまわなかったでしょうか」と彼は言った。「わたしはスティーヴンスと申しまして、医者をやっております。あなたも医学者でいらっしゃいますよね?」
「ええ。ですが開業はしていないのです」
「それも存じ上げております。先頃、あなたがスペインのことを書かれていたのを拝見して、おうかがいしたいことができたのです」
「あれはそれほどたいした本じゃありませんよ。申し訳ない話ですが」
「そうおっしゃいますが、スペインのことをよくご存じのことはまちがいありませんし、わたしはほかにそんな方を誰も知らないのです。ひょっとしたらいろんなことを教えていただけるのではないかと思ったんですよ」
「それはかまいませんが」
客はしばらく黙ったままでいた。手を延ばして帽子を取ると、心ここにあらずの体で、反対の手で撫でさすっている。そうしていると落ち着くのかもしれなかった。
「見ず知らずの人間がこんなことを申し上げて、変なやつだとお考えじゃなかったらいいんですが」と言うと、申し訳なさそうに笑った。「いや、身の上話をするつもりではないんです」
人がこんなことを言うときは、かならず身の上話をするものなのである。だが、そんなことはかまわなかった。わたしは身の上話がきらいではない、というか、好きな方なのだ。
「わたしはふたりの年寄りの伯母に育てられたんです。どこにも行ったことがない。これということをやったこともない。結婚は六年前にしました。子供はいません。カンバーウェル診療所で保健所長を務めています。だが、もうこれ以上辛抱できそうもない」
彼の使った短い、痛烈な言葉には、何かしらはっとさせるようなものがあった。ひどく切実な響きがこもっていたのだ。わたしはそれまで相手にざっと眼を走らせただけだったが、あらためて好奇の目を向けた。ずんぐりした体つきの小柄な男、歳はおそらく三十かそこら、丸い赤ら顔には、小さな濃い色の目がきらきらと輝いている。黒い髪は短く刈り込んで、ビリケン頭に張りついている。ひざの飛び出したズボンをはき、みっともなくふくれたポケット、紺色の背広はくたびれてよれよれだ。
「診療所の所長の仕事がどんなものか、あなたもご存じでしょう。毎日毎日が判で付いたように同じ。これから先、一生これを続けていかなきゃならんのです。こんな人生、一体どれほどの価値があるもんなんでしょうか」
「そうは言っても糊口の資ですからな」とわたしは答えた。
「そりゃわたしもわかってます。実入りは確かに悪くはない」
「なら、どうしてわたしのところなぞにいらっしゃったのです」
「ええ、イギリス人の医者がスペインでやっていけるかどうか、お考えをうかがいたいと思いまして」
「なんでまたスペインなんです?」
「わかりません。なんとなく好きなんです」
「カルメンみたいにはいきませんよ」
「でもあそこには太陽があるでしょう。それにうまいワインもある。色彩は華やかだし、思いっきり深呼吸したくなるような空気だし。実を言いますとね、たまたまセヴィリアにはイギリス人の医者がいないという話を聞いたんです。わたしがやっていけると思われますか。はっきりしないもののために、安定した仕事を棒に振るのは、狂気の沙汰でしょうか」
「で、君の奥さんの意見はどうなんです?」
「家内もその気になってるんですよ」
「だが、危ない橋ですよ」
「わかってます。でも、やってみろ、と言ってくださったら、そうするつもりなんです。いまいる場所でがんばれ、とおっしゃれば、あきらめます」
彼は例のよく光る目で熱っぽくわたしを見つめており、その言葉に嘘偽りがないとよくわかった。わたしはしばらく考えた。
「あなたの一生の問題ですからね。こればかりは自分で決めなければ。それでも、たったひとつ、言えるとは思います。金はいらない、どうにか生きていけるぐらい稼げれば十分だ、と思えるのであれば、行ってみたらいい。おそらくなかなか愉快な生活が送れるはずです」
彼はわたしのところをあとにした。一日か二日は彼のことを気にかけていたものの、じきに忘れてしまった。この一件は、やがてわたしの記憶の中から、すっぽりと抜け落ちてしまったのだった。
それから長い歳月が、少なくとも十五年が過ぎて、わたしは偶然セヴィリアに行く機会があったのだが、そこで体調を崩してしまい、ホテルのポーターに、この街にイギリス人の医者はいないかね、と聞いてみたのだった。ポーターは、おります、と言って、その住所を教えてくれた。タクシーを呼んで医者の家へ向かうと、小柄な太った男が出てきた。彼はわたしに目を留めると、何かとまどったようなそぶりを見せた。
「わたしのところにいらしたんですね?」と彼は言った。「わたしがイギリス人の医者ですが」
わたしが用件を話すと、医者は、入るように言った。その家はどこにでもあるようなスペインの家で、中庭があり、そこに続く診察室には、カルテや本、医療器具やがらくたが散乱している。その光景は潔癖性の患者ならぎょっとするようなものだったろう。ともかく診察が終わって、わたしは診察料を聞いたのだった。ところが医者はかぶりをふって笑みを浮かべるばかり。
「診察料は結構です」
「それはまたどうして?」
「わたしのことをお忘れですか? ほら、あなたがお話してくださったから、わたしはここにいるんです。わたしの人生がすっかり変わったのも、あなたのおかげなんですから。わたしはスティーヴンズです」
何を言っているのか、皆目見当がつかない。そこで彼が思い出させようと、わたしたちが何を話したか、もういちど聞かせてくれたので、徐々に、闇の中から薄明が見えてくるように、あのときの出来事がよみがえってきたのだった。
「あなたに果たしてまたお目にかかれるだろうかと思っていました」彼は言った。「お話のお礼を言う機会があったらいいと思ってたんです」
「ではうまくいってるんですね」
わたしは彼をしげしげと見た。でっぷりと太って禿げ上がっていたものの、眼はいきいきと輝き、肉付きのよい赤ら顔には、上機嫌この上ない表情が浮かんでいる。服はすりきれ、みすぼらしく、あきらかにスペインで仕立てられたもの。かぶっているのはスペイン人のかぶるつばびろのソンブレロである。こちらに向けられた顔には、まるで良いワインならビンを一目見ればわかる、とでも書いてありそうだ。放埒な生活を送っているようだったが、同時に、それがまったく気に入っているらしいこともわかった。盲腸の切除を依頼するとなると考えものだが、ワインのグラスを共に重ねるには、これほど楽しい相手もいまい。
「たしか結婚していらっしゃいましたね」わたしは言った。
「ええ。ですが家内はスペインを嫌ってカンバーウェルへ戻りました。あっちの方が性に合うんでしょう」
「それは生憎でしたな」
彼の黒い目に、どんちゃんさわぎをしているときのような笑みの色が浮かんだ。確かにどこかギリシャ神話に出てくるシレノスの若き姿、ディオニュソスに葡萄酒の製法を教えた妖精を思わせるところがあった。
「世のなか、いたるところに埋め合わせはあるものでしてね」彼はもごもごと言った。
その言葉がみなまで終わらないうち、スペイン人の女、青年期ならではの若さこそ、もはや失ってはいたが、大胆そうでなまめかしい美人が現れた。スペイン語で彼に話しかけているところを見ると、どうやら彼女がこの家の女主人らしい。
わたしを見送りに、表のドアに立った彼は言った。
「前にお会いしたときに、あなたはここに来たら、食うだけがやっとしか稼げないかもしれないが、なかなか愉快な生活が送れるとおっしゃった。ほんとうにそのとおりでした、と言いたかったんです。これまでずっと貧乏だったし、おそらくこれからもそうでしょうが、楽しくやってます。いまの暮らしなら、世界中のどんな王様の暮らしとだって、換えようとは思いませんよ」
The End
外から見る
サマセット・モームについて解説してある文章には、かならずといっていいほど「通俗的な」という形容がついている。それにはおそらくふたつの理由があるだろう。
モームが作家として活躍した二十世紀初頭というのは、文学ではプルーストやジョイス、ウルフなどのモダニズムが主流だった時代である。
十八世紀半ばから起こった近代小説は、近代市民社会の成立とともに起こった。自分たちと同じ、どこにでもいるような人びとの、平凡な生活のなかで起こる悲喜こもごもを、格調高い韻文ではなく、そのまま散文で描きだすものとして、新しく起こった市民層に広く受け入れられていったのだ。そうして市民社会が成熟するとともに、二十世紀を前後して、写実主義を否定するモダニズム文学が起こってくる。新しい文学は、実験的な手法を取り入れながら、人間の心理を従来とはちがったかたちで描こうとしていた。
ところがモームは従来のままの写実的な散文で小説を書き続けた。
彼は最初から通俗作家、娯楽物作家であることを、わざと依怙地に標榜しているが、あれは一種の逆接で、たとえば『人間の絆』にしても、『月と六ペンス』にしても、また『雨』、『赤毛』などの短篇にしても、一見通俗的な筋立ての下には、実は真剣な求道者の魂を秘めていたはずだ。
(中野好夫『英文学夜ばなし』新潮選書)
モームにかならずついてくる「通俗作家」という肩書きは、ひとつには彼の作品が時代の流れに逆らうものであったこと、もうひとつは、あえてそういうスタイルを取った彼が、自らそう名乗ったということがあるのだろう。
モームは高名な弁護士の父親の下に生まれたが、幼くして父を亡くし、以降は一家離散、モーム自身は親戚に預けられ、苦労を重ねた。医学を学んだのち、二十代で劇作家としてある程度の評価は得たのち、第一次世界大戦中には諜報部員として活動することになる。そこから引退したのちに著した『月と六ペンス』によって、世界的に高名な作家となった。それこそまるで大河ドラマの主人公のような波瀾万丈の人生である。
わたしが中学時代の一時期、モームをしきりに読んでいたころに引かれたのは、ストーリーよりも何よりも、モームの登場人物たちだった。そこに人間のほんとうの姿があるように思って、自分や自分の周囲に照らし合わせ、混沌とした自分の見方感じ方を整理していった。つまり、その時期のわたしにとって、モームの小説は「人間」を理解するための教科書のようなものだった。波瀾万丈の人生を生きて、さまざまな国のさまざまな階層の人びとを知っているモームだからこそ、そんな人物造型ができるにちがいない、と思い、そこについてくる「通俗的」という評価は、何か自分がバカにされているような気がして、義憤めいたものを感じていたものである。
だが、いまはモームを読んで、逆にモームの問題点は人間がわかってしまったことかもしれない、とも思う。わかる、というのは、外から眺めて、自分が見たものの姿を頭のなかに描き直すということだ。けれども、実際に外から眺める「人生」は、自分がそのなかで生きるそれとは、似ても似つかぬのもではあるまいか。そう考えていくと、「外からわかる」姿が、どこまでそれを正しく伝えているのか、と思うのだ。
モームの描く人間の姿は、確かにわたしたちがふだん目にしながらも見過ごしているような側面をたくみにすくい上げる。わたしたちは手品の種明かしをされているときのように、ああ、そういえばそうだった、そこに気がつかなかった、と思う。けれどもそのときわたしたちが気づくのは、その手品という脈絡のなかで、わたしたちが見過ごした、逆にいうと手品師が仕掛けたトリックでしかない。確かにそれは見事なものであっても、あくまでもその手品のなかの「出来事」なのである。
「幸せな男」のおもしろさは、おそらくはスペインへ行った男の話ではなく、冒頭の語り手が自分の人間観を披露する箇所、人間を「塔の独房に閉じこめられた囚人」になぞらえたところだろう。「その意味するところが自分と相手の間でかならずしも一致していない、できあいの記号を使って、意思の疎通を図るしかないのである」というのは、確かにその通りで、わたしたちが「理解」と呼んでいることも、ほんとうのところはどこまで分かり合っているか判定できる人もおらず、実のところ、誤解に誤解を重ねているだけなのかもしれない。外から見ているつもりでいれば、その一致もずれもわかるけれど、外に立つことは誰にもできないのだ。
そう考えていくと、一般的な「幸せ」とスティーヴンズの「幸せ」がずれているだけでなく、語り手の想像する「スティーヴンズの幸せ」と、実際のスティーヴンズの「幸せ」も、どこまで重なり合っているのか、ということにもなる。くだんのスペイン美人が女主人かどうかもわからない。語り手は自分のアドヴァイスが役に立った、と密かに悦に入っているが、ほんとうにそうなのだろうか。語り手の想像とは一致していない、スティーヴンズのこれまでとこれからを想像してみるのは、読者の楽しみかもしれない。
よくできた手品は、そこに人生のアレゴリーを見いだすことも可能だ。読者がそこから作品を超えるような、普遍的な「何ものか」を見いだしたとき、手品師が仕掛けたトリックは、手品のなかの出来事を超える。それをするのは、観客の側の仕事なのだろう。
初出Dec.26-28 2008 改訂Dec.30, 2008
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