天国へ上る道
by ロアルド・ダール

生まれてこのかたフォスター夫人は、こと刻限となると、汽車といわず飛行機や船といわず、あるいは劇場の開幕にいたるまで、遅れるのではないかと、いささか病的なまでに心配しないではいられなかった。それ以外の面では、とりたてて神経質なほうでもなかったのだが、間に合わないかもしれないと思っただけで、不安のあまり、痙攣が起こる。左まぶたの隅がピクピクと引きつる――といっても、微かにウィンクするほどなのだが――不快な症状は、電車や飛行機に無事乗りこんでからも、一時間ほどは治まらなかった。
たかが電車に間に合うかどうかのことが、ここまで深刻な強迫観念になってしまうなどと、ある種の人々にとってはきわめて想像しにくいことである。だが、駅に行こうと家を出る、少なくともその三十分前には、かならずフォスター夫人は、帽子もコートも手袋も身につけ、準備万端整えて、いつでもエレベーターから出られる状態になっていた。もうそうなると腰を下ろす気にもなれず、そわそわと部屋から部屋へと歩き回っているうちやっと、妻の事情などとうに知っているはずの夫が自分の部屋から出てきて、そっけない声で、そろそろ出かけた方がいいんじゃないのかね、と言うのだった。
妻の愚かしさに苛立つフォスター氏にも、一理あると言えなくもないのだが、かといってその必要もないのに妻を待たせ、途方に暮れさせてもいいということにはなるまい。念のためにつけ加えておくと、ほんとうに彼がそうしていた証拠があるわけではないのだが、それでも夫婦そろってどこかへ出かける段になると、彼のタイミングたるや見事なもので――つまり、ほんの一分か二分遅れるのである――、おまけにそれを素知らぬ顔でやってのけるものだから、気の毒な女性に、ひそかな意地悪をしているわけではないとは、にわかには信じがたいところがあった。加えてもうひとつ、フォスター氏には確実にわかっていることがあった――あれは自分を“早くして”などと急きたてるような女ではない。こうした面では妻を厳しくしつけてきたのである。さらにフォスター氏は、ぎりぎり間に合うという線を超えて待たせたならば、妻がほとんどヒステリーに近い状態になることも知っていた。長い結婚生活のあいだには、一度か二度実際に、気の毒な夫人を苦しめるためだけに、電車に乗り遅れたこともあったらしい。
かりに(何の確証もないのだが)フォスター氏にやましい点があるとすれば、こうした仕打ちはまったくもって理不尽なものだった。このささやかな、不可抗力ともいうべき欠点を除けば、フォスター夫人はこれまでずっと、善良で愛すべき妻であったのだがら。三十年以上にわたって、貞淑かつ申し分なく夫につくしてきた。この点に関しては、疑問の余地がない。何ごとによらずひかえめな性質である夫人みずから、そう思っていて、夫がわざと自分にいやがらせをしているのではないか、と思うたびに、そんなはずがないわ、とうち消してきた。だが近ごろではどうかすると、そうではないか、という疑念が頭をもたげるようにもなっていたのだった。
ユージーン・フォスター氏は、そろそろ七十の声を聞こうとする年齢で、妻とふたりでニューヨーク東62番街にある六階建ての大きな屋敷に、召使い四人と一緒に暮らしていた。屋敷はほの暗く、訪れる人もない。だが一月のある朝、この日ばかりは家中が沸き立つようで、使用人たちもせわしげに立ち働いていた。メイドの一人は部屋ごとに、ほこりよけのシートを配って歩き、もう一人のメイドがそれで家具を覆っていく。執事はスーツケースをいくつも階下におろしては、玄関ホールに集めていた。コックは台所から顔を引っこめる暇もないほど、執事から用向きを聞いており、フォスター夫人は古風な毛皮のコートに身を包んで、黒い帽子を頭のてっぺんにのせ、部屋から部屋へと飛び歩いては、いかにも作業の様子を監督するふりをしていた。実際には、あのひとが書斎からすぐに出てきて出発の用意をしてくれなければ、飛行機に乗り遅れてしまう、という一念を除いては、頭には何もなかったのだが。
「いま何時になるの、ウォーカー」執事とすれちがいざまに夫人は尋ねた。
「九時十分でございます、奥様」
「車はもう来ていて?」
「はい奥様。外におります。これからお荷物を運び入れるところでございます」
「アイドルワイルド空港(※JFK空港の旧称)までは一時間はかかるわよね」夫人は言った。「わたしが乗る飛行機は十一時発なのよ。搭乗手続きのために三十分前には着いていなくちゃ遅れてしまうのに。ああ、もう遅れるに決まってるわ」
「お時間はたっぷりございますよ、奥様」執事は優しく声をかけた。「旦那様にはわたくしの方から、九時十五分にはここをご出発なさらなければ、と申し上げておきました。まだ五分ほどございます」
「ええ、そうね、ウォーカー。そうよね。でも荷物は急いで積んでくださいな、お願いよ」
夫人は玄関ホールを行ったり来たりし始め、執事がそこを通りかかるたびに時間を尋ねた。この飛行機にどうしても乗らなくちゃ、と、ずっと自分に言い聞かせていた。行かせてもらえることになるまで、何ヶ月もあの人を説得してきたんですもの。もし乗り遅れるようなことがあったら、あの人のことだから、きっと簡単に、じゃあ一切合切キャンセルしてしまうがいいさ、とでも言うにちがいない。そもそもあのひとが空港まで見送りに行く、なんて言い出してきかないから、こんな大事になるのよ。
「ああ、神さま」夫人は声に出していた。「遅れそう、遅れそうだわ、そうよ、わたしにはわかるの。わたしは遅れるんだわ」左まぶたの隅がはげしく痙攣する。目からは涙があふれそうだ。
「ウォーカー、いま何時なの」
「九時十八分でございます、奥様」
「ああ、もうわたし、遅れてしまうわね」声が大きくなった。「ああ、早く来てくれればいいのに」
今回の旅行はフォスター夫人にとっては一大事だった。娘に会いに、パリまでひとりきりで行くのだ。娘はたったひとりの子供で、フランス人と結婚した。フォスター夫人にとってはそのフランス男などどうでもよかったが、娘はいとおしかったし、それ以上に三人の孫に会いたくてたまらなかった。どの子も写真でしか見たことがない。手紙で届く写真を、夫人は家中に貼っていた。どの子もかわいい子供たち。夫人は孫を溺愛していた。新しく写真が送られてくるたびに、夢中になり、座ったまま、長いことそれに見とれた。ためつすがめつ眺めては、小さな顔のどこかに、連綿と受け継がれてきた血のつながりを示すしるしがないかと探す。
このごろはますます、孫の近くで日々を過ごすことができないことがつらくてたまらなくなっていた。孫の家を訪れることも、散歩に連れて行くことも、何かプレゼントを買ってやることも、大きくなっていくのを見守ることもできないなんて。もちろん、夫がまだ生きているうちからそんなことを考えてしまうのは、まちがっているし、ある意味で不実な考えともいえる。もうひとつ、事業から引退したとはいえ、あの夫が、ニューヨークを離れてパリで生活するなどという考えに同意するはずがないということも、夫人にはよくわかっていた。六週間も家を離れ、孫のところへひとりで行かせてくれるというだけでも、たいした奇蹟なのである。それはわかっているけれど、ああ、あの子たちといつも一緒に過ごすことができればいいのに。「ウォーカー、いま、何時?」
「二十二分でございます、奥様」
執事がそう答えたとき、ドアが開いてフォスター氏が玄関ホールに現れた。立ったまま、つかのま妻の顔をじっと見つめたので、妻の側も見返した――小柄だが、きびきびとした老人で、豊かな顎髭に覆われた顔は、アンドリュー・カーネギーの古い写真に驚くほどよく似ている。
「さて、と。飛行機に乗ろうと思えば、そろそろ出かけた方が良かろう」
「ええ、そうですわ、あなた。もう準備はすっかり整っているんですのよ、車も待ちかねてますわ」
「結構」そういうと、小首を傾げて夫人の顔をまじまじと見た。その首の傾げ方はいささか独特で、小刻みに軽く揺するのである。そうしながら組み合わせた手を胸元まで持ち上げていたものだから、どこか立ちあがったリスのように見えた――セントラル・パークからやってきた敏捷で賢い、年取ったリス。
「ウォーカーがあなたのコートを持ってきてくれましたわ。お召しになって」
「すぐいくよ」彼は言った。「ちょっと用足しに行ってこよう」
夫人は待った。背の高い執事が隣でコートと帽子を手に立っている。
「ウォーカー、わたし間に合うかしら?」
「ご心配には及びません、奥様」執事は答えた。「きっと大丈夫でございますよ」
やっとフォスター氏が戻ってきたので、執事はコートを着せかけた。フォスター夫人は外へ駆け出し、ハイヤーのキャデラックに乗り込んだ。あとからやってきた夫の方は、外の階段をゆっくりと降りながら、途中で立ち止まって空を眺めたり、朝の冷たい空気をかいだりしている。
「少し霧があるな」妻の隣に腰をおろしながら言った。「いつもこのあたりより空港の方が霧は濃いからな。飛行機が運航中止になったとしても、驚くにはあたらんね」
「そんなこと、おっしゃらないで。お願いですから」
ロング・アイランドの橋を渡りきるまで、ふたりは黙ったままでいた。
「召使いのことはすべてわたしが手配しておいたからな」フォスター氏が口を開く。「みんな今日のうちに家を出るはずだ。六週間分の給料の半分はもう払ってやったし、ウォーカーには、途中で戻ってほしいようなことがあれば電報を打つと言っておいたよ」
「わかりました」夫人は答えた。「ウォーカーからもその話は聞きました」
「わたしは今夜からクラブへ行くよ。クラブに泊まるのもいい気分転換になるだろう」
「そうですわね、あなた。わたしもお手紙を差し上げますわ」
「わたしもときどき様子を見たり、手紙を取りに家に戻ることにするよ」
「ほんとうはずっとウォーカーにいてもらって、留守番してもらったほうがよかったんじゃなくて?」夫人はおずおずと聞いてみた。
「馬鹿馬鹿しい。そんな必要などない。第一そうなれば給料を全額払わねばならんじゃないか」
「そうですわね。もちろん」
「おまけにおまえには見当もつかんだろうが、連中ときたら屋敷に自分だけとなるといったい何を始めるものやらわからんのだ」フォスター氏はきっぱりと申し渡すと、葉巻を取りだして、銀のカッターで端を切り、金のライターで火をつけた。
夫人は膝掛けの下で手をきつく組んで、車のシートに静かに座っていた。
「お手紙、くださる?」夫人は尋ねた。
「書くかもしれん。だが、どうかわからん。何か特別なことが起こりでもしたら別だが、わたしが筆無精だということは、おまえも知っておるだろう」
「わかってますわ、あなた。だからお気になさらないで」
車はクイーンズ・ブールヴァード沿いを走っていく。アイドルワイルドのある低湿地に近づくにつれて、霧はしだいに濃くなり、車は速度を落とさないわけにはいかなくなった。
「あら大変!」フォスター夫人は声をうわずらせた。「これじゃほんとうに間に合いっこないわ。いま何時かしら」
「さわぐんじゃない」老人は言った。「もうそういう問題じゃない。これでは飛行中止だろうよ。こんな天候で飛べるものか。わざわざ行こうというおまえの気が知れんね」
確信は持てなかったが、不意に、夫の声から聞いたことのない響きが聞こえてきたような気がして、夫人は夫に目を向けた。髭に覆われた顔は、どんな表情の変化もうかがえない。口元だけでもわかればいいのに。これまでにもなんどもそう思ってきたのだった。夫の目には、怒っているときをのぞけば、どんな気色も浮かばない。
「もちろん」夫は続けた。「万が一、飛んだとしても、確かに君の言うとおり――間に合わんだろう。もうあきらめたらどうだ」
夫人は顔を背けて、窓の外の霧の向こうに眼をこらした。進むにつれて霧はいよいよ濃くなり、道路の縁とその向こうに広がる草地の境目を見分けるのがやっとだ。夫がまだ自分の方を見ていることはわかっていた。夫にちらりと目を戻すと、自分の左まぶたの隅、ぴくぴくと引きつっているあたりに目をこらしているのに気がついて、ぞっとするような思いがした。
「さて、どうするかね?」夫は言った。
「どうする、って何をどうするんですの?」
「飛行機が飛んだにしても、もう間に合うはずがない。こんな霧のなかではまともに走ることもできんのだから」
そのまま夫は何も言わなくなった。車は這うように進んだ。運転手は黄色いライトで道路の縁を照らし、それをたよりにやっと進んでいる。白いライトや黄色いライトが絶え間なく霧の中から現れたが、ひときわ大きく明るいライトだけは、ずっと向こうに見えていた。
不意に運転手は車を停めた。
「ほら言わんこっちゃない」フォスター氏は大きな声をだした。「立ち往生だ。こうなるだろうと思っていたよ」
「立ち往生じゃありませんよ」運転手が振り返った。「着きました。空港です」
言葉さえ惜しんで夫人は車から飛び降り、空港ビルの正面入り口へ急いだ。空港内は大勢の人であふれかえり、ほとんどの乗客たちが、チケットカウンターのまわりで肩を落とし、立ちつくしている。夫人は人をかきわけながら進み、係員に尋ねた。
「はい」と彼は答えた。「お客様の便はいま現在出発を見合わせております。ただ、あまり遠くにはいらっしゃらないでください。天候は間もなく回復するようですので」
夫人は夫が腰を下ろして待っている車に戻ってこの知らせを伝えた。「ですけどね、あなた、どうかもうお行きになって」夫人は言った。「ここにいらっしゃってもしかたがないわ」
「そうしよう」夫は答えた。「運転手が戻れるようならな。君、戻れそうかね?」
「大丈夫だと思います」運転手は答えた。
「荷物は出したんだな?」
「はい、さようでございます」
「ではあなた、ごきげんよう」フォスター夫人はそう言うと、身を屈めて車に近づくと、白髪混じりの髭に覆われた頬に、軽くキスをした。
「じゃあ行ってきなさい。旅を楽しんでおいで」
車が行ってしまうと、フォスター夫人はひとりになった。
そのあとの半日は、夫人にとっては悪夢としかいいようがなかった。できるだけ航空会社のカウンターに近いベンチに腰かけたまま、一時間、また一時間と過ぎていくのを待った。三十分おきに立ちあがっては、状況はまだ変わらないかと係官に尋ねたが、もうしばらくお待ちください、霧は間もなく晴れるでしょう、という答えは変わらない。そうしてついに、夕方の六時を過ぎたところで、スピーカーから、明朝十一時まで出発は延期されます、というアナウンスが流れてきたのだった。
フォスター夫人はこの知らせを聞いて、どうしたらいいかわからなくなってしまった。ベンチに座ったまま、たっぷり半時間ほど、立ちあがることもできず、疲れてもうろうとした頭で、今夜どこに泊まったものかとあてどなく考えていた。空港を離れるのはいやだった。夫の顔など見たくもなかった。あのひとのことだから、きっと、どうにかしてわたしをフランスに行かせまいとするだろう。そう思うと、身がすくんだ。ここでこのままベンチにすわって一夜を過ごすほうがよほどましだわ。それが一番確実のように思えた。だが、すでに疲労困憊しているし、じきに、わたしのようなおばあさんがそんなことをするなんて無茶にもほどがある、ということに気がついた。そこでしかたなく電話のところまで行って、家にかけたのだった。
ちょうどクラブへ行こうと出がけだった夫が電話に出た。夫人は事情を説明してから、召使いたちはまだ家にいるかどうか尋ねた。
「みんなもう出かけたよ」夫は答えた。
「でしたらわたしは今夜、どこかに部屋を取ることにします。ですからわたしのことはどうかおかまいなく」
「何を馬鹿なことを言っておるのだ。ここにいつでも好きなだけ使える大きな家があるじゃないか」
「みんな出払ってしまったじゃありませんか」
「じゃあわたしがいてやろう」
「だって家にはもう食べるものもないんですのよ。ほんとうに何も」
「帰る前に何か食べてくればいい。分別のない女のようなことを言うな。なんでもかんでも、おまえはどうしてそんなくだらないことで大騒ぎをするのだ」
「おっしゃる通りね。ごめんなさい。ここでサンドイッチでも食べて帰ります」
外の霧はいくぶん晴れかけてはいたものの、それでも徐行運転で進む道中は長く、62番街の屋敷に着いたときには、夜も更けていた。
帰ってきた音を聞きつけて、夫が書斎から出てきた。「やあ」書斎のドアのわきで夫が声をかけた。「パリはどうだったかね?」
「明日、十一時に出発です。今度こそ間違いありません」
「霧が晴れたら、の話だ」
「もう晴れ始めています。風もでてきましたし」
「だいぶ疲れているようだな。さぞ気がもめた一日だったんだろう」
「それは快適な一日だった、というわけにはいきませんけれど。ともかく上がって休むことにします」
「明朝の車を頼んでおいてやったよ。九時に来る」
「あら、それはご親切に。今度はほんとうに、わざわざお見送りいただかなくて結構ですのよ」
「ならやめておこう」夫はおもむろに言った。「見送るのはよすよ。だが途中、クラブにまわってわたしをそこで落としてくれたまえ」
思わず夫を見た。その姿は、自分から遠く離れ、別の世界に立っているようだ。不意に、夫が小さくなり、はるか彼方に遠ざかって、もはや何をしようとしているのか、何を考えているのか、それどころかいったい何者なのかさえもわからなくなってしまったような気がした。
「クラブがあるのはダウンタウンですわ」夫人は言った。「空港へ行く方向じゃありません」
「時間なら十分あるだろうに。それとも君は私をクラブで落とすのが、気が進まないのかね?」
「とんでもない――もちろんおっしゃるとおりにいたします」
「それは結構。じゃ、明日の朝、九時に」
夫人は二階の寝室にあがると、その日一日ですっかりくたびれていたために、横になるやぐっすりと眠ってしまった。
翌朝、フォスター夫人は早くに目が覚め、八時半には準備をすませて階下におりていた。
九時を少しまわったところで、夫が姿を見せた。「コーヒーをいれてくれないか」
「ごめんなさい、あなた。でも、クラブではおいしい朝ご飯の用意ができているはずですわ。車ももう来ています。待ってるんですのよ。わたしも準備はすっかり整っています」
ふたりは玄関ホールに立っていた――このところ、ふたりが顔を合わせるのはいつでも玄関ホールのような気がする――夫人の方は帽子を被り、コートを着こみ、ハンドバッグを手にしており、フォスター氏はエドワード七世時代ふうの風変わりな仕立ての、襟の高いジャケットを着ていた。「荷物はどうしたんだ」
「空港にあります」
「ああ、そうだったな」夫は言った。「もちろんそうだ。クラブに送ってくれるつもりなら、そろそろ出かけた方がいいな?」
「そうしましょう」夫人はうわずった声で言った。「さあ、行きましょう――お願い」
「葉巻を何本か取ってこなくては。すぐに行くよ。先に行ってなさい」
夫人は外に出て、運転手が立っているところへ向かった。夫人が来たのを見て運転手がドアをあけた。
「いま何時?」夫人は運転手に聞いた。
「じき九時十五分になります」
五分ほどたってから出てきた夫が、のろのろと階段を降りる姿を夫人は見た。あんなふうに細くてぴったりしたズボンをはいていると、まるで山羊の脚みたい。昨日と同じように途中で立ち止まって、空気のにおいを嗅ぎ、空模様を確かめる。空は晴天とまではいかなかったが、霧の合間から一条の陽の光が差しこんでいた。
「今日は君にも運がめぐってきたらしいな」夫人の隣に乗り込みながらそう言った。
「車を出して、お願い」夫人が運転手に声をかける。「膝掛けなんてどうでもいいわ、わたしがやります。急いで出てちょうだい。遅くなったわ」
運転手は運転席に戻ると、エンジンをかけた。
「しまった」急にフォスター氏が声を上げた。「運転手、ちょっと待ってくれ」
「どうしたんですの、あなた」夫はオーヴァーのポケットをあちこちさぐっている。
「君から渡してもらおうと、エレンにプレゼントを用意していたんだ。おやおや、いったいどこにいってしまったんだ。家を出るときは確かに手に持っていたと思ったんだが」
「そんなもの何も持っていらっしゃいませんでしたわ。どんなプレゼントなんですの?」
「小さな箱で白い紙に包んであった。昨日、君に渡すつもりで忘れていたんだ。今日こそはちゃんと渡そうと思っていたのに」
「小さな箱!」フォスター夫人は悲鳴をあげた。「小さな箱なんて見たこともありませんわ」それから後部座席を死にものぐるいで探し始めた。
夫はなおもポケットを探っている。つづいてコートのボタンを外し、ジャケットのあちこちを叩きだした。「くそっ。寝室に忘れてきたんだ。すぐ戻る」
「まあ、そんな。時間がないんですのよ。そんなものどうだっていいじゃありませんか。郵便で送ればすむことですわ。どうせまた、らちもない櫛かなんかでしょう、あなたいつもあの子に櫛をあげるんだから」
「櫛のどこがらちもないんだ、教えてくれ」その怒りはあまりに激しく、一瞬、夫人は自分の問題を忘れてしまった。
「そんな意味じゃなかったんです、ほんとうよ。でも……」
「ここで待っていなさい」有無を言わさぬ調子で言った。「取ってくる」
「急いでね、あなた。どうか、ほんとうに急いでちょうだい」
夫人は座ったまま、ひたすら待ち続けた。
「運転手さん、いま何時?」
運転手は腕時計を確かめた。「そろそろ九時半になります」
「空港には一時間で着けるわね?」
「そのぐらいで行けると思いますよ」
不意にフォスター夫人は何か角張った白いものが、夫の座っていた座席の隙間から顔を出しているのに気がついた。手を伸ばして引っぱりだしてみると、紙で包んだ小箱である。夫人にはどうしても、まるで人の手でむりやり奧まで押しこめられたように思えてならなかった。
「ここにあったわ!」夫人は叫んだ。「見つかったわ。ああ、なんてことでしょう、あの人ったら見つかるまで戻ってこないつもりなのよ! 運転手さん、すぐに――急いで家まで行って、あの人にすぐにくるよう言ってくださいな」
運転手は、いかにもアイルランド系という、薄い、きかん気らしい口元の男で、そうした事情など、どうでもよさそうだったが、それでも車から降り、階段を上って玄関のドアまで行ってくれた。だが、すぐに引き返してきた。「ドアには鍵がかかっていました」運転手が告げた。「鍵はお持ちですか?」
「ええ――ちょっと待って」夫人は大慌てでハンドバックのなかを引っかきまわしはじめた。小さな顔は不安でこわばり、唇は薬缶の口のようにすぼまっている。
「あったわ! いいえ――わたしが行きましょう。そのほうが早いわ。わたしならあの人がどこにいるかわかりますから」
夫人は急いで車を出ると、玄関までの階段を、鍵を握って駆け上がった。鍵穴に鍵を差しこんでひねろうとした――その瞬間、彼女の動きは止まった。頭をもたげ、微動だにせず立ちつくす。大急ぎで鍵を開けて屋敷に入ろうとした態勢のまま、全身が固まってしまったようだった。そこで待った――五秒、六秒、七秒、八秒、九秒、十秒、待ち続けた。そこに立つ彼女の様子、頭をもたげ、全身を緊張させている姿は、まるで、さきほどまで家の奧で聞こえていた物音が、ふたたび聞こえてきはしないかと待ちかまえているかのようだった。
そう――確かに耳をすませていたのだ。全身は耳と化した。実際の耳は、ドアにどんどん近づいていく。いまやドアにぴたりと耳を押しつけ、さらにもう数秒間というもの、そのままじっとしていた。頭をあげ、片耳はドアに押しつけ、片手で鍵をにぎりしめ、いまにも家に入りそうな態勢。だが実際には動かないかわりに、家の奧から微かにでも聞こえる音を聞き分け、つきとめようとしている姿に見えた。
突然、夫人の顔がぱっと明るくなった。鍵を引き抜くと、階段を駆けおりた。
「もう遅いわ!」夫人は大きな声で運転手に言った。「あの人なんて待ってはいられない。そんなことしてられないわ。飛行機に遅れてしまう。急いでちょうだい、運転手さん、急いで。空港へ行ってくださいな」
もし運転手が夫人のことを注意深く見ていたなら、突如その顔がまるきり別人のように青ざめ、表情も一変していたのに気がついたにちがいない。もはやためらいがちで薄ぼんやりしたようなところはどこにもなかった。一種の冷徹さのようなものがその表情には表れていた。いつもなら心持ち開いたままの薄い唇も、いまはきりっとひき結ばれ、目は輝き、話し声にはこれまでなかった威厳の響きがこもっていた。
「運転手さん、急いでください」
「でもご主人はご一緒じゃないんですか?」驚いた運転手はそう尋ねた。
「もちろんあの人は行きません。クラブまで送ってあげるつもりでしたけれど。でも、もういいんですのよ。あの人だってタクシーを拾えばいいんです。さあ、ここでおしゃべりしてる暇はないのよ。行ってちょうだい。パリ行きの飛行機に乗らなくては」
フォスター夫人に後ろから急きたてられた運転手が、道中ずっと車を飛ばしてくれたおかげで、夫人は間一髪、飛行機に間に合った。やがて、大西洋のはるか上空で、夫人はリクライニング・シートにゆったりと身を沈め、やっとパリに飛べるエンジンの音に耳を傾けていた。新たに生まれた気分は、まだ夫人の内に息づいている。自分が強くなったように感じ、その感覚は、多少奇妙ではあるが、すばらしいものにちがいなかった。いくぶん息も上がっていたが、それ以上に、自分にそんなことができたことに純粋に驚いており、飛行機がニューヨークの東62番街から遠ざかれば遠ざかるほど、こよなく穏やかな満ち足りた思いが体中を満たすのだった。パリに着くころには、夫人はいまだかつてないほど力に満ち、しかも落ちついていた。会ってみた孫たちは、実物の方が写真よりもなおのことかわいらしい。まるで天使みたい。ほんとうに、なんてかわいいの。それから毎日、孫たちと一緒に散歩に出かけたり、ケーキを食べさせたり、おもしろい話を聞かせてやったりした。
週に一度、火曜日がくると夫に手紙を書いた――心のこもった、おしゃべりな手紙にニュースやうわさ話をたっぷり詰めこみ、かならず「お食事は規則正しくお召し上がりになってくださいね。きっと、わたしがそばにいないあいだは、そんなことはなさらないのでしょうけど」という言葉で結んだ。
六週間が過ぎて、誰もが夫人がアメリカの夫のもとへ戻っていくのを寂しがった。誰もが、というのは、つまり夫人をのぞいて、ということである。驚いたことにほかの者たちが考えるほど、夫人はそこを離れることを苦にしていなかった。お別れのキスをするときも、夫人の態度には、どこかしら、きっとまたここに戻ってくる、それも、そう遠くない将来きっと、と考えている気配がうかがえたのである。
とはいうものの貞淑な妻らしく、夫人は滞在を延ばそうとはしなかった。ちょうどパリ到着から六週間目、夫人は夫に電報を打つと、ニューヨーク行きの飛行機に乗った。
アイドルワイルド空港に到着して、フォスター夫人は迎えの車が来ていないことを、格別の注意をもって確かめた。それがわかって、むしろ喜んだ、といっても過言ではあるまい。だが、夫人はきわめて落ちついており、タクシーまで荷物を運んでくれたポーターにもチップを過分に与えることもしなかった。
ニューヨークはパリよりも寒く、通りの溝には汚れた雪の塊がいくつも残っている。タクシーは東62番街に到着し、フォスター夫人は運転手に頼んで、ふたつの大きなスーツケースを階段の上まで運ばせた。それから車代を払うと、ベルを鳴らす。夫人は待った。だが、返事はない。念のためにもういちどベルを鳴らすと、家の奧、食料貯蔵室の方で、ベルがジリジリと鋭い音で鳴っているのが聞こえた。だれも出てこない。
そこで自分の鍵を出して、ドアを開けた。
最初に目に飛びこんできたのは、郵便受けに入りきらず、あふれて床に落ちた手紙の山だった。なかは暗く、冷え切っている。埃よけのシートが大時計にかかったままになっていた。冷え切っているにもかかわらず、空気はどこか重苦しく、夫人がこれまで嗅いだことのない、かすかに奇妙な臭気が漂っていた。足早に玄関ホールを横切って、素早く奧の左の角を曲がってそこを離れる。その動作には、何らかの意図と思惑があるとしか思えない。噂を確かめたり、疑念を裏づけようとするときの女が持つ、独特の雰囲気があった。数秒後、戻ってきた顔には、微かに満足げな笑みが浮かんでいた。
玄関ホールの真ん中に立ち止まった夫人は、これからどうしようかと考えているかのようだ。不意に身をひるがえして夫の書斎に入っていく。机の上にアドレス帳があった。隅から隅まで探してから、受話器を取り上げ、ダイヤルを回した。
「もしもし。あの――こちらは東62番街の9です。……はい、そうです。すぐにどなたか寄越していただけませんこと? そうなの。二階と三階のあいだで停まってしまったようなんです。ともかく、指示器はそのあたりを指したままになってるんです。……すぐ来ていただけます? それは助かりますわ。わたしの脚ではもうそんなに階段を何段も上がっていくわけにはいかないんですの。どうもありがとうございます。それじゃ、また」
夫人は受話器を置くと、椅子にすわって夫の机に向かい、エレベーターを直しにやってくる修理工を辛抱強く待った。
The End
性格が引き起こすドラマ
エドガー・アラン・ポーが短編小説に必要不可欠のものとして考えたのが、「統一性」と「単一の効果」ということだった。つまり、ポーが理想とした短編小説は、すべての語、すべての文が、ひとつの結末に向かって収斂していくようなものだった。そうした短篇は、19世紀末、チェホフの登場によって大きく変わっていく。チェホフが示した道筋、のちにキャサリン・マンスフィールドや、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイスなどによって受け継がれていったのは、いわゆる文学性の高い短篇小説である。日常をそのまま切りとったような、結末らしい結末もない作品。詩と小説の中間にあるような。
一方、ポーが理想とした短篇は、モーパッサンなどを経て、それ以降はどちらかというとエンタテインメント系の分野に受け継がれていく。サキや、ジョン・コリア、そうしてロアルド・ダールなどがその系譜だろう。
ダールの短篇は、いずれもひとつのキー・ワードで要約できる。そのキー・ワードが、意外な結末を生むのである。「南から来た男」であれば「賭け」、「羊の殺戮」であれば「凶器」、そうしてこの作品では「性格」である。少し奇妙なふたり、多少過剰な部分はあっても、ひとりひとりならどこにでもいるような人間が、ふたり合わさると、奇妙な相乗効果を起こしてしまう、その不思議さである。
ネズミをいたぶるように、夫人の弱点をいたぶるフォスター氏にずっといらいらさせられた読者は、え、どういうことなんだろう、夫人は何を聞いた(正確には、途中で停まったまま、聞くことはなかった)のだろう、と思い、その結末は、まるでフォスター氏が妻をなぶるように先へと引っぱられ、最後に、ああそうだったのか、と思う。その瞬間、いたぶられていたネズミの恐ろしさに、ギョッとしてしまうのだ。ネコの側が、ネズミという役柄にむりやり当てはめていたのか、それとも逆に、ネズミがネコの嗜虐性を引き出していたのか。読み終わったあとも、しばらく考えてしまうのである。
ところで山田風太郎の『風眼抄』のなかに「花のいのち」という短文が所収されている。ついでなので、ここで引用しておこう。この引用の省略箇所に、吉行淳之介が、ダールやブラッドベリイなどの短篇は、一度読み終わったら再読する気になれない、と書いていたことが引用されている。
それにしても、花というものは、花期が長いといっても知れている、まあ、あっというまに咲き、散ってゆくといってよろしい。それまでに、何と時間と手数のかかることよ。秋のうちにタネをまいて、冬霜よけをし、霜柱をふせぎ、雪を払い、虫を退治し――そして五、六月以降にやっと咲く。げにや、「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」これは花の言い分だが、それを作り育てる身になって鑑賞した方が、もっと実感がある。
それだけに、一瞬といっていい花の美しさになお感心するのかも知れない。そして推理小説ないしそれに類する小説の真髄も同じようなところにあるのではあるまいか。…(略)…
ダールやブラッドベリイは、この最後の、ただいちどだけの火花にいのちをかけているのである。再読など期待せず、再読してはならないものなのである。
(山田風太郎『風眼抄』中公文庫)
ブログ掲載のころから読みに来てくださったみなさん、再読してはならないものをなんども読ませてしまって、ごめんなさい。
※ご意見・ご感想・誤訳の指摘は
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