リリアン・ヘルマン ――ともに生きる



1.「人生を変えた本」


以前、「あなたの人生を変えた本はなんですか」という問いに答えて、以下のような文章を書いたことがある。

十八歳でした。
漠然と父親と同じ道を歩んでいきたいとは思っていましたが、その一方で、親元を離れたくもありました。具体的にどうしたらいいのか、父親は身近過ぎるだけに、かえって聞くこともできず、まして学校の進路指導=受験指導の教官に、聞くべきことはもとより、言うべきことばもなかったのです。
溢れるような思いと、鬱屈を抱えていました。まったく根拠のない自信と野心、それと背中合わせの、自分になど何もできるはずがない、という卑屈な気持ちと。

そんなころ、学校の帰り、日課のようになっていた駅前の本屋に入りました。
新しく入った文庫を、何気なく手に取り、初めの、エピグラフ風の一節を読み始めました。

 カンヴァスに描かれた絵の、古くなった絵具が年月のたつうちに透明になってくることがある。すると、絵によっては一番はじめに描かれた線が見えてくる。女のドレスの下から樹が姿を現わし、子供の姿の向こうに犬が居り、一隻の大きな船が浮かんでいるのは、もはや大海原の上ではない。この現象はペンティメントと呼ばれる。描いた人間がもとの絵を「後悔」(リペント)し、心変わりしたということである。言い換えれば、昔抱いた考えは、後に変わることがあっても、また姿を現わし、再び現われてくるものだと言えるかもしれない。

リリアン・ヘルマン『ジュリア』大石千鶴訳ハヤカワ文庫

自分の、カンヴァス。
いくつもの色が重ねられた。
そうして、これからも重ねられていく。
そうしたのちに、古い線が浮かび上がってくるのか。いま抱えるこうした鬱屈も、あふれるような思いも、時のなか、消えるのではなく、“ペンティメント”として、ふたたび立ち現れてくるのか。

そうして、わたしは進路を決めました。たぶん、それはことば本来の意味での「進路」だったと思います。

それからいろいろあって、そのとき思った方向とはずいぶん違うほうへ来てしまいました。
けれども、ヘルマンが言ったように、古い線は、いまもわたしの絵の中に残っているのだと、そして、いま、このときにも重ねていく線も、色も、決して消え去ることはなく、残っていくのだと思います。

それ以前にも、そのあとにも、名作と呼ばれる本、世界を動かしたような本も、何冊も読みました。
そうした名作、傑作に較べれば、ささやかな本です。この書をめぐる毀誉褒貶も知りました。
それでも、「人生を変えた」というのは、ある意味で気恥ずかしくなるようなことばだけれど、そう問われてなにか一冊上げるとすれば、この本、この一節だと思います。

えらくまた感傷的な文章で、もうちょっとどうにかならないものかという気もするのだが、ともかくわたしはこうしてリリアン・ヘルマンと出会ったのだった(ただし最初に読んだのは十七歳の間違い)。

自分にとって重要な作家というのは、当然ひとりではないし、深く知っていこうとする作家は、必ずしも隅から隅まで好きになる必要はない。シニカルな気分のときは、モーリス・ザップのように、ある作家が「好き」だの「好きでない」だのは「戯言」だと思うこともある。こういう言い方に意味があるのかどうなのかはともかく、おそらくヘルマンは二十世紀を代表する作家/劇作家ではないだろうし、文学史的に大きな意義を持つ作家であるとも言えないだろう。

けれどもそれは、ある人間と恋に落ちてしまうのと一緒なのだ。彼が(あるいは彼女が)世界で一番ハンサムで(美人で)、世界で一番カッコよくて偉大で頭がいい、というわけではないけれど、そこには何かがあって、どうしようもなくひきつけられてしまう。その理由もよくわからないのだけれど、ほかの誰かではどうしてもイヤで、置き換えることはできない。

そんなふうに、わたしたちはある作家と出会うことがある。そのときだって、わたしの心の一部は、フォークナーとか、ナボコフとかのほうが、もっとずっとすごい作家だと思っていた。フローベールとか、トルストイとか、漱石とか、神様のように崇めている作家もいた(気恥ずかしくなるほど文豪志向だけれど、これはわたしが高校生だったからです)。けれども、そうした作家を崇めることと、ヘルマンが好き、というのは、まったくちがうことだった。つまり、その作品を通して、自分に会う、という感じに一番近かった。

わたしとヘルマンはまるでちがう。生きた時代も、国も、育った環境も、いわゆる性格というものも、まるでちがう。よくわからない部分もたくさんあったし、わざと時間軸を混乱させながら書いている文章を、十分にたどっていけたとも思えない。それでもその作品を読むことによって、わたしはその中に自分自身を、そうして自分の声を見つけたのだ。ヘルマンの書いた文章を読むことで、わたしは自分がどんな人間かを知り、自分が何がしたいのかを理解したのだ。

そのときからずいぶん歳月が過ぎ、わたしも歳を重ねた。何十回も繰り返し読んだ、というわけではなかったが(ただ読み返した回数だけなら、はるかに多い本はいくつもある)、その一節や、ちょっとした言葉の使い方、そうしてヘルマンのものの見方や考え方は、わたしのなかに深く根を下ろしているはずだ。
あるいはまた、そのころは翻訳を通してしか読むこともなかったけれど、英語にも少なからず関わるようになって、なんとか原文を読むこともできるようになった。そこで、もういちど、ヘルマンを読んでみたい、と思ったのだ。

冒頭のエピグラフの原文は以下のもの。

Old paint on canvas, as it ages, sometimes becomes transparent. When that happens, it is possible, in some pictures, to see the original lines: a tree will show through a woman's dress, a child makes way for a dog, a large boat is no longer on an open see. That is called pentimento because the painter "repented,"changed his mind. Perhaps it would be as well to say that old conception, replaced by later choice, is a way of seeing and then seeing again.

That is all I mean about the people in this book. The paint has aged and I wanted to see what was there for me once, what is there for me now.'

いまのわたしだったら、こんな日本語にしてみる。

 カンヴァスに重ねられた古い絵の具は、歳月を経るうちにすきとおってくることがある。そうした変化が生じると、絵によっては最初に描かれた線が見えてくる。一本の樹が、女のドレスごしに浮かび上がり、子供の姿は犬に場所を明け渡し、船の下に拡がるのはもはや大海原ではない。この現象がペンティメントと呼ばれるのは、画家が「後悔(リペント)」し、自分の考えを変えたからだ。あるいは、こうも言えるのかもしれない。かつて心に抱いた思いは、後に選びなおされ、置き換えられたとしても、やがて見えてくるし、さらには、ふたたび現れてくるのだ、と。

 この本のなかに現れる人々についてわたしが言いたかったのは、そういうことだ。いま、歳を重ねたこの絵のなかに、かつてのわたしにとって何があったのか、そうしていまのわたしにとっては何があるのか、見てみたかった。

そうしていまのわたしは、ヘルマンの作品の向こうに、何を見ることができるのだろうか。


2.わたしはどこから書くのだろう


作家についてのレポートなら、いくつも書いたことがある。略歴も、短い評伝も書いた。その作品を理解するためには、その作家の経歴や、当時の背景事情は、やはり必要な情報だろう。

ただ、わたしはヘルマンについて、そういうことはあまり書きたくない。

1905年に生まれ、1984年に亡くなったこと。生涯に十二本の戯曲を書き、アメリカのリアリズム演劇を代表する劇作家のひとりであること。
「ハードボイルド」というスタイルを確立して、以降のミステリばかりでなく文学表現にも大きな影響を与えたダシール・ハメットと、三十一年にもわたって恋愛関係にあったこと。
1952年、非米活動委員会に喚問され、「自分を救うために、何年も昔の知己である無実の人たちを傷つけるなどということは、非人間的で品位に欠け不名誉なこと」(リリアン・ヘルマン『眠れない時代』小池美佐子訳 ちくま文庫)とし、有名な

I cannot and will not cut my conscience to fit this year's fashions.
(わたしはその年の流行に合わせて、自分の良心を裁断することなどできないし、しようとも思いません)

という台詞を証言台で述べたこと。

そういうことを書くだけでは、けっして十分ではないように思える。

本を読むことは、あるいはそれが映画でも、絵でも、書でも、音楽でもそうなのだけれど、何かを鑑賞する、ということは、おそらくその作品を理解することと、自分を理解することを同時に含んでいるのだと思う。

さらに言えば、「作品を理解しようとする自分」があらかじめいるのではなく、作品に向かい合うことで、作品を理解しようとしている自分が形作られていく。その形作られていくプロセスを理解することが、自己理解ということではないのだろうか。読む、あるいは鑑賞する、というのは、そうしたいっさいを含むものであると思うのだ。

ヘルマンはいくつかの回想記を書いた。ハメットからは、「ハメットという名の友人がときどき出てくるだけのリリアン・ヘルマンの自伝」と揶揄されながら、あるいは、メアリー・マッカーシーに「ヘルマンが書いた言葉はすべて嘘。"and"から"the"にいたるまでね」(ディック・カヴェット・ショーでの発言)と毒づかれながら、その回想記は、自分の周りの他者や、自分が生きてきた時代、とりわけ1950年代の「ならずものの時代」を振り返り、理解することを通じて、自分自身を見いだし、意味づけ、理解していこうとする試みだった。

わたしはヘルマンについて、何が書けるのだろう。
1963年からヘルマンが亡くなる84年までをともに過ごしたピーター・フィーブルマンは、彼女の思い出を書くに当たって、このように述べている。

 リリアンについてぼくが主に言いたかったのは、彼女は自分を粗末には扱わなかったということだ。いつもできるかぎり全力をつくしてきた人だ。ある時は成功し、ある時は成功しなかったが、彼女はつねに自分の人生を前向きに歩んできた。つまずくにも何か大きな音をたてなければならなかった人だ。その音は自らを叩きのめす音だったが、やがてそこから立ち上がってまた歩き続けたのだ。自分の道を抜け出すだけでも大がかりなことが必要だった。

 けれどもこれらのことはそんなふうに言ったり示したりすることは出来ない――大きなものをとばして、もっとも小さなことに細心の注意を払う。つまり多くの者にとって小宇宙が大宇宙なのだ。普遍性を語る人は、意味することを伝えるのにほとんど成功したためしはないが、誰の人生にせよ細部をとりあげて間近に見るならば、その中に全生涯を見ることができるのだ。ちょうど訓練された目が単細胞の中に組織体を、生命の中に進化を、一滴の水の中に宇宙を見ることができるのと同じである。

ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』(本間千枝子他訳 筑摩書房)

わたしの理解したヘルマンについて、彼女が書いたもの、彼女について書いたものを紹介しながら書いてみたい。それはおそらくわたしが自分自身を見つけるプロセスでもあるのだと思う。


3.生年が定かでない作家


リリアン・ヘルマンに関しては、おもしろいことがひとつある。実は彼女の生年がはっきりしないのだ。自叙伝とされる『未完の女』は、このような書き出しで始まる。

 わたしはニューオーリンズの生れである。母ジュリアは旧姓をニューハウスといって、アラバマ州でもポリスの出身であり、わたしの父のマックス・ヘルマンと恋におちて、生涯かわらぬ愛を捧げることになったのであった。父の両親は、1845年から48年にかけてのドイツからの移民として、ニューオーリンズに住みついた人びとだった。

リリアン・ヘルマン『未完の女』(稲葉明雄・本間千枝子訳 平凡社)

ところがこの父と母の簡単な出自にふれたあとはいきなり「けれど、まずわたしの脳裡に浮ぶのは、ニューヨークの多く名アパートに住んでいた母方の家族…(略)…のことである」と、話は一気に幼い日の思い出に飛ぶのである。

多くの本の後付に載っている1905年、という生年は、遺作となった『メイビー・青春の肖像』(小池美佐子訳 新書館)の訳者によるあとがきでは、非米活動調査委員会に出頭した際の宣誓に準拠したものだと書かれている。ヘルマン自身が協力したというR.ムーディの伝記では1906年、ヘルマン自身の手による『アメリカ人名年鑑』の記述では、年によっては1907年生まれとなっているらしい。

ヘルマンの自伝のなかでもこうした年月日の記述の不正確さ、不整合は随所に見られ、"a few years"とある部分が、実際には十五年ほどの経過がある場面もある。そうしてこの「不整合」が、のちに彼女の自伝に対する格好の攻撃材料となっていく。

ただ、ここでわたしが思うのは、ヘルマンの生年が不明なのも、彼女自身が意図的に曖昧にしたというより、彼女が独特の歪んだ時間感覚を持っていたためではないか、ということだ。彼女の主観的な時間感覚では、自分の生年が1905年だろうが、6年だろうが、7年だろうが、重要ではなかったのではあるまいか。細部を整合させるより、自分のいまの「記憶」、「いま」の彼女が振り返って、「あれは自分が24歳のときの出来事だった」と思うことが、何よりも重要だったのではないか。彼女にとって「記憶」とは、自分の内的時間に従うものであり、いわゆる「現実」、多くの人がそれに従っている時間軸とは別個の、主観的な時間軸が、彼女の記憶を貫いているのではないか、と思うのだ。そこで思い出すのが、このエピソードである。

フィーブルマンがヘルマンの誘いに応じて、一緒に暮らすようになって間もないころ。

 ヴィンヤードをよく知らない僕には、海へ続いている家の前の湾は、どことなくよそよそしく、なじめなかった。…略… 僕は方向感覚といったものがほとんどないので、リリアンに地図を見せてくれと頼んだのだが、それは島の全貌を見れば、自分がどこにいるかということより、むしろどこにいないかが示されて、おおよそのことが分かるだろうというあてにならぬ望みのためだった。彼女が台所から古ぼけたガソリンスタンドの地図を見つけてきたので、二人してそれをテーブルの上に広げ、しっかり眺めてみようと腰をおろした。

 マーサズ・ヴィンヤードという島は、マサチューセッツの南岸から数マイル離れた大西洋上にあり、長さ20マイル、幅はその一番広い所で10マイルばかりの島である。飛行機から見ると、島は入り江や湾、それに塩水、淡水の大小の池に浸食されてゆがんだ三角形のようだった。リリアンは目の前の地図を見て眉をしかめた。彼女は僕にもまして方向音痴だったが、その混乱ぶりたるや僕の比ではなく――、一種の宇宙分裂――で、二人はしばらくは無言のまま地図を見つめていた。僕たちは台所のテーブルに隣あって座っていたのだが、地図はどこかおかしかった。

「これはノーマン島かエリザベス諸島のどれかよ」ややあってリリアンは言った。「どうみたってヴィンヤード島には思えない」僕は道路の名前を読もうとしたが読めなかったので、眼鏡をかけた。「さかさまじゃないか」しばらくたってから僕は言ってみた。「どうして?」「さかさまだってこと」「あなたすごいじゃない。よく気がつく人って大好き」とリリアンは言い、僕は気がつくなんてものじゃないよ、二人とも気は確かかなと言った。「もうこの話はしたくない」リリアンが言った。

(『リリアン・ヘルマンの思い出』)

わたしたちが地図を見るのは、自分がいる位置を知る俯瞰的な視点を得るためだ。けれどもこのエピソードは、ヘルマンは、自分がいまいる場所を、俯瞰しようなどと、まったく思わなかった、思いつきさえしなかった、ということではないのだろうか。

わたしたちは過去の記憶をたどるとき、あれは何年に起こったこと、と一種の編年体にして記憶から取り出す。「あれはちょうど第一次湾岸戦争が開戦したすぐあとだったから'90年の1月」「あれは阪神大震災の年だから'95年」というふうに、自分の外部の出来事と、自分の個人的な出来事を関連づけながら、歴史の一コマのように記憶していることも少なくない。つまりこれは、自分に起こったできごとを、外部のモノサシによって編集し直し、時間軸に沿って、相互に関連づけながら並べ替えようとする。これはつまりは自分に起こったことを俯瞰しようとする試みともいえる。

地図を見る必要を感じたことがなかったヘルマンは、同じように自分の外にあるモノサシを必要としなかったのではないか。自分のなかにあるモノサシで十分、主観的時間だけで十分だったのではなかったか。

ここでこんなことを思い出す。わたしは車に乗る機会がほとんどなく、カーナビというものも、これまでにたった一度しか見たことがないのだけれど、ものすごくおもしろくて、いまだにそのときの感動をよく覚えている。わたしはカーナビの何がおもしろいと思ったのだろう。これはそのあとしばらく折に触れて考えた。

地図を見るときは、先にも言ったように、自分がいる場所を俯瞰して見ることである。「自分」を離れ、高い位置から、自分を見る視点を獲得するということだ。けれども、通常の地図は動かない。だが、カーナビは、自分が向きを変えれば、地図もぐるりと向きを変え、自分が場所を移動すれば、地図もつぎつぎに移り変わっていく。その「地図が向きを変え移り変わっていく」ことがおもしろかったのだ。自分の前に伸びていく道路が、カーナビに目を転じると、二次元の地図として表示され、自分が進むにつれてその地図も流れていく。

それがおもしろかったのは、変な言い方だけれど、衛星写真ではなく、極端に簡略化された地図だったからだと思う。地図というのは、言い換えると、俯瞰する視点というのは、一種の「神の視点」で、何があっても動かないものだ。どこかにそうした思いこみがあったのだと思う。

カーナビの地図は動く。俯瞰しているはずの目は、自分が動くのに合わせて、動いていく。

『ペンティメント』のなかに、このような箇所がある。

 そのころのわたしは、頭に浮かぶことをなんでも口にした。それも脳裡に形作られていく考えや言葉をそのまま出す、というやり方で。(自分自身の過去を書くというのは、実際、ひどく奇妙なものだ。「そのころ」と私は書き、これはそのまま紙の上に残っていくが、そのころが、時の経過につれて変わっていったとはとうてい信じられない。いままでずっと、自分のなかで好きになれない性質というのは変えられるものと信じてきたし、事実そうしたこともある。けれどもいまのわたしには、時が加えたのは修正や変化であって、ほんとうの改善といったものではなかったように思える。つまり、過去のあまりにも多くをそのままにしてしまっているわたしには、過去と現在がひどく異なっている、と考える権利などないのだ)。

(私訳)

わたしたちは、過去の出来事を振り返るとき、「いま」から振り返っているにもかかわらず、一種俯瞰的な視点から見ているように錯覚していないだろうか。動かない「いま」から、ある時点を振り返って、あたかもそれを切り離して取り出すことができるかのように。

「あのころのわたしは〜だった」
これはいったい誰がいっているのだろう? それは、現在、振り返っている「わたし」だ。現在の「わたし」と取り出してきた「あのころ」の「わたし」を比較して、そう言っている。
けれども、現在の「わたし」も静止しているわけではない。となると、取り出してこようとする「過去」も、カーナビで見る地図のように、くるくると向きを変え、場所を移動しているはずだ。ならばいったいどうやって「あのころ」の「わたし」を取り出すことができるのだろう。どうやって「いま」の揺れ動いている「わたし」と比較することができるのだろう。

いわゆる自伝三部作の最後『眠れない時代』(小池美佐子訳 ちくま文庫)は以下の言葉で締めくくられる。

 わたしの生活は仕事とお金にかんしては元通りになった。あるいはもっとよくさえなっている。しかし書き終えたいま、わたしの心は書き出しとほとんど同じ状態だ。ショックからは部分的にしか回復していない…略…。

 わたしはさっき元通りになったと書いた。いわゆる世間的な意味で言えばそうなのだが、じつはわたしは回復ということは信じない。過去というものは、喜びも報いも罰も愚かさもともどもに、永遠にわれわれが背負っていくべきものなのだ。

 さて、わたしの人生のこの不愉快な部分について書いてきた。終わりにあたり、わたしは自分に言いきかせている――これは過去のことであり、いまは現在がある。そのあいだには歳月があり、当時と今はひとつのものなのだ、と。

(引用 前掲書)

過去の回想の多くが、現在の視点からなされているにもかかわらず、そこを曖昧にし、俯瞰的な、動かない視点を獲得したかのような書きぶりでなされる。そうしたものも、過去と現在はつながっている、という。けれど、それは因果関係の視点で記述されていることが圧倒的に多い。過去○○ということが起こったから、現在は〜なのだ。あるいは、現在××であるのは、あのとき△△だったからだ。けれども、過去と現在の関係は、そういうものではないはずだ。

「いま」の自分も、あのころの自分と同じ時の流れのなかにいる。俯瞰的な場所に立っているわけではないのだ。その意味で、ヘルマンの言うとおり「当時と今はひとつのもの」だし、わたしたちは動き、ぐるぐる向きを変える視点からしか過去を眺めることができない。「あのとき」をとりだして、「いま」と較べることもできない。

ヘルマンは、過去を回想する。それは、擬似的な俯瞰する視点ではなく、揺れ動く「いま」の視点から。
フィーブルマンはヘルマンの方向感覚のことを「一種の宇宙分裂」と愛情をこめて称しているけれど、俯瞰しようとする視点を徹底して拒もうとするなら、そうなるしかないのではないか、という気もする。「当時といま」をひとつのものとして見ようとするなら、自分が歩いてきた場所、現在いる場所がすべてであって、島全体の地図など必要はない。

ヘルマンは、さまざまな時代を生きた。1920年代のジャズ・エイジ、アメリカの多くの知識人が熱狂したスペイン戦争、第二次世界大戦、そうして50年代のマッカーシー旋風。さらに60年代の公民権運動も目の当たりにした。その彼女の回想記で、大きな位置を占めるのが、赤狩りの時代と、31年間に及ぶハメットとの恋愛である。彼女は「いま」から何を見たのだろう。三つの回想録を通して、彼女の見たものを見てみたい。


4.ならずものの時代

 わたしには昔から変わったところがあり、当時も今も、わたしを罰したあの時代の指導者たちに反感を持てない。マッカーシーとマッカラン両上院議員、ニクソン、ウォルター、ウッド各下院議員は、みながみな、ああいう人たちであった。必要とあればでっちあげをし、必要でないときにまで悪意を示した人たち。かれらが口では何と言っていたところで、本気だったとは思えない。アメリカは新しい波を迎え入れる機が熟していた。かれらはその波に乗り、人であれ物であれ自分に都合の良い武器にして、政治家としてのチャンスをつかんだまでなのだ。…略…

 だが、こういう人たちはわたしには興味がない。下院非米活動調査委員会に出頭したあのいやな朝でさえ、とくに心を乱されはしなかったし、その気持は今も変わらない。かれらはかれらであり、わたしとは血のつながりもなく、バックグラウンドも無関係な人たちだ。(悪人と言うことなら、わたしの家系には別種のもっと興味深い悪人がたくさんいる。)

 まえにも書いたように、わたしのばあい、ショックと怒りは、わたしと同じ世代の人だと信じていた人たちにたいして向けられた。たいていは名前でしか知らない人たちだ。わたしは1940年代末まで、教養のある知識人というものは信念に従って生きていると思っていた。信念とはつまり、思想と言論の自由、自分なりの信念を持つ権利、迫害されそうな人たちへの口約束以上の援助などである。しかし、マッカーシーとその手下が現れたとき、かれらにたいして指一本でもあげたのは、ほんの一握りの人だけだった。ほとんどすべての人たちが、直接手を下すかただ手をこまねいてみているかのちがいはあるが、マッカーシイズムに力を貸した。かれらはパレードの先頭を行くバンドワゴンには乗せてもらえなかったので、あとを追ってついて行ったのである。

(『眠れない時代』)

1950年代のアメリカは、いわゆる「赤狩り」の時代、マッカーシズムの時代、ともいわれる。社会のあらゆる場から、共産党員と共産主義思想に心情的にシンパシーを持つ人々を一斉に摘発し、排除しようとする動きがあったのだ。ただし、リリアン・ヘルマンに直接関連するのはこのマッカーシーではない。

第二次世界大戦中、アメリカ国内でスパイ活動を働くファシストの支援者を監視する目的で、アメリカ連邦議会下院に非米活動委員会が設立された。この委員会は、戦後、米ソの冷戦を背景に、その矛先を共産主義者とその運動に向けるようになる。
1947年、委員長J.パーネル・トマスは、「映画産業における共産主義の浸透」を調査する非公開の聴聞会を開いて、多数の俳優や脚本家、監督を喚問する。

『大部分の映画労働者は愛国的で忠実なアメリカ人だと確信するが』と始められた証人喚問は、最初の証人ジャック・L・ワーナーの証言とともに、共産主義者を告発し排除する魔女裁判の様相を呈する。

(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 ―翳りの歴史のために』筑摩書房)

だが、この第一次聴聞会のときはまだ良かった。証人として出頭する人々に対して、映画人の内部で広範な支援と擁護の組織が作られもした。
合衆国憲法「第一修正条項」が謳う「議会は、宗教の設立を促したり、自由な宗教活動を阻むようないかなる法も作ってはならない。言論の自由、終結の自由の制約をしたり、政府に対して損害補償などを請う自由をなくすようないかなる法も作ってはいけない」、この精神を支持する「第一修正条項委員会」が発足し、五百人の署名も集まった。
だが、証人として喚問された映画監督や脚本家、俳優は、共産党員であるか否かの証言を迫られ、第一修正条項を楯に証言を拒否した十人の人々が投獄される(いわゆる「ハリウッド・テン」)。

ヘルマンが喚問されたのは、四年の時を隔てて1951年開催された第二次聴聞会である。ところがこの四年の間に情勢が大きく変わっていた。

1950年2月9日、ひとりの上院議員が、国務省内に共産党員が大勢はいりこみスパイ網をつくっている、と爆弾発言をおこなった。これがマッカーシーの登場である。ただちに調査のための上院委員会が設けられた。発言は信憑性に乏しく、具体的にその名前をあげることもできなかったけれど、その発言は注目を集め、彼は急速に脚光を浴びることになる。

 ウィスコンシン州選出米上院議員、故ジョゼフ・R・マッカーシーは多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかった――、またアメリカ人の心の深部にかれくらい的確、敏速に入りこむ道を心得ている政治家はなかった。

(R.H.ローピア『マッカーシズム』宮地健次郎訳 岩波文庫)

ワシントン・ポストの漫画家が、さっそく「マッカーシズム」という言葉を作った。最初は悪口だったこの言葉も、ほどなくアメリカ全土を席巻するようになる。

「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ――政府の中の共産主義の問題である」として、政府高官をつぎつぎに告発。それだけに留まらず、大学の研究者や外交官など、「知識人全般」を標的にした。マッカーシーとマッカラン委員会、非米活動委員会は連携して「赤」狩りを押し進めていく。

進歩的な思想を持つ人々や、過去に共産党と関わりのあった人、中国やアジアの研究者がつぎつぎと「共産主義者」であると告発された。公聴会が開かれ、証人が喚問され、質問への回答を拒否すれば、議会侮辱罪で告訴された。告発された者は職を追われ、なかには追いつめられて自殺した者もいた。

マッカーシーの影響力は、トルーマンとアイゼンハワーというふたりの大統領にまで及び、とりわけアイゼンハワーの勝利には、大きな役割を果たした。1954年初頭の世論調査では、国民の50%が大体においてマッカーシーについて「好感」を持ち、21%が意見なし、そうして「よくないと考える」のはわずか29%だった。この数字にもあきらかなように、マッカーシーは当時の国民に支持され、マッカーシーを批判した議員は落選したのである。

マッカーシーの登場を追い風に、非米活動委員会は「非アメリカ的」「アメリカに非友好的」とさまざまな団体の運動に介入し、あるいは大学教員や知識人に対して「共産主義者」のレッテルをはって社会から追放した。この委員会は、マッカーシーが失脚した55年以降も存続し、69年に国内治安委員会と改称されたのち、廃止されるのは75年を待たなければならない。

多数の人間が30年代に共産党員であったのは、彼らの見方しだいで進歩党員(シオドア・ローズヴェルトが1912年に結成した)であったり、“平和と自由”運動に投票したのと似たようなものだった。ところが40年代には、過去の行為を悔いたり、波風が立つことをおそれるなら、人々は歴史を否定し、調査し、罵り、修正しなければならなかった。脱党して共産党員ではなかったふりをするか、党員だったことを認めたうえで、それはまちがいだったと後悔してみせるか、あるいは、その二つを奇妙に組みあわせて取りつくろわなければならなかった。かつての友人を密告して共産党員を追いつめ投獄させなければ、職を失うとわかっていた。以前は公平だった裁判官たちも、いまでは、共産党が“はっきりとした眼前の脅威”であると信じているようだった。というか、信じているふりをしていた。追いつめられた共産党員たちはハリウッドや政府、陸軍、国務省でもみつけだされた。彼らがかつてのギャングや詐欺師の常套手段であった憲法修正第五条(※「何人も刑事事件において、自己に不利益な供述を強制されることがない」というもので、通常、黙秘権の行使を保証する条項と解釈される)を楯にとったので、まともな人たちさえ共産党員たちをその同類とみなした。

ダイアン・ジョンスン『ダシール・ハメットの生涯』小鷹信光訳 早川書房)

ダシール・ハメットは1937年(あるいは8年)、共産党員となった。当時の多くの人々がそうだったように、社会的不正義の是正、ファシズムとの闘う場を、そこに求めたのである。
ヘルマンは、それ以前からハメットと恋愛関係にあったが、直接には聞いたことがなかった。

いってみれば、けっして一つの主義を奉じることのできない女が、すでに主義者となっていた男と対決していたのである。ハメットは後年みずから明らかにすることになったように、社会主義の信条をみずからの生き方としていたのである。ただし彼は、多くのマルクス主義思想と、その過去から現在にわたる実践者たちにはきわめて批判的で、肩をすくめてとりあわなかった。わたしは、それと知らずに彼の信条をうち砕こうとし、それができないとわかると、尊敬したり、そねんだり、怒ったりしたのだった。

(『未完の女』)

1951年、ダシール・ハメットは、共産党員の保釈基金の管理者を起訴しようとする裁判で、憲法修正第五条を楯に証言を拒んだため、法廷侮辱罪に問われ、刑務所に送られる。

じつをいうと、ハメットは会議の事務所に一度も顔を出したことはなく、したがって寄付者の名前などひとりとして知らなかった、というのが真相だった。
 出廷することになった日の前夜、わたしは彼にむかっていった。
「名前なんかぜんぜん知らないと、どうしていわないの?」
「いや、そうはいえないな」
「なぜ?」
「自分でもわからないんだ。たぶん、約束を守るというぼくの気質とかかわりがあるのだろうが、その話はしたくないな。しばらく刑務所暮らしをすることになるだろうが、心配にはおよばない。…(略)…こんなことは絶対に口にしたくないのだが、きみには言っておいたほうがいいかもしれない。もしこんどのことが、ただの刑務所行きではなくて、生命にかかわることになるとしても、ぼくは自分の考える民主主義のためなら、命を捧げてもいいと思っている。もっとも、民主主義というものをどう考えるかを、警官や判事たちに教わるつもりはないがね」
 そういうと、彼は自分の家へ寝に帰り、翌日、刑務所にはいった。

(『未完の女』)

1952年2月、こんどはヘルマン自身が下院非米活動委員会の喚問を受けることになる。

下院非米活動委員会委員長
ジョン・S・ウッド殿

 ウッド殿――

 ご存じのように、1952年5月21日、わたしは貴委員会に出頭するよう召喚状を受けております。

 わたしは、自分にかんするご質問には何なりと喜んでお答えするつもりでおります。貴委員会に隠すことは何もありませんし、自分の人生で恥ずかしく思うところもありません。憲法修正第五条に則り憲法が保障する権利として、政治的信条、活動、交際についての質問には、自分の不利になるようなら答えなくてよいと弁護士にいわれておりますが、わたしはこの権利を主張しようとは思いません。わたしたちの政府の代表のまえで、自分の信条と行動にかんしてなら、たとえみずからに不利な結果を招こうとも、わたしは進んで証言するつもりでおります。

 ところで、もしわたし自身にかんするご質問に答えるのなら、ほかの人たちにかんするご質問にも答えなければならず、それを拒否すれば侮辱罪に問われてもやむをえない、と弁護士は申します。自分自身について答えると、わたしは修正第五条で保障された権利を放棄することになり、他人についての質問にも答えるよう法律上強要されるのだ、と弁護士は言うのですが、これは素人にはどうにも理解しかねます。しかし、ひとつだけわたしにも理解できる原則があります。それはわたしとの過去のつき合いにおいて、不誠実とか破壊的であるような言動のまったくなかった人たちに災いをもたらすようなことは、いまもこの先もしたくないということです。破壊行為や不誠実はいかなるものであれ、わたしは好みません。もしそういうものを見つけたら、当局に届け出るのがわたしの義務だ、と考えております。しかし、自分を救うために何年も昔の知己である無実の人たちを傷つけるなどということは、非人間的で品位に欠け不名誉なことに思われます。わたしは、良心を今年の流行に合わせて切断するようなことはできませんし、したくありません。自分が政治的な人間ではなく、政治団体のなかでは居心地が悪いという結論に、もうずっと以前から達しているにもかかわらずです。(……略……)

 わたしは自己負罪を拒む権利を放棄し、自分の見解や行動について、ご希望とあれば何なりとお話するつもりでおりますが、それは貴委員会が、ほかの人たちの名をあげるよう、わたしに要求しないと同意して下さるならばです。もし貴委員会からこの保障を頂けないのでしたら、わたしとしては公聴会で修正第五条の権利を主張せざるを得ないことになりましょう。

 お返事お待ちしております。

リリアン・ヘルマン
(『眠れない時代』)

この手紙は拒絶されたが、法廷で読み上げられた。けれども内心でヘルマンはウッドにこういいたかった、という。
「共産主義の脅威などというものは、この国には存在しないし、それはあなたもご承知のはずです。あなたがたは臆病者を嘘つきにしてしまった。汚いですね。そしてわたしには、あなたがたの権力を認めるような手紙を書かせたのです。わたしは委員会で名前と住所だけ言って、あとは出てきてしまうべきでした」

ピエール・バルマンの新しいドレスを着て、怯えながらも昂然と出頭したヘルマンに対する聴聞会は、一時間余という短時間で終わり、法廷侮辱罪に問われることもなく、訴追されることもなかった。子供のころ、乳母から「何を食べようと、どんなに気分が悪かろうと、吐かないんだよ」と言われたヘルマンは、その日の午後遅くから二日間、嘔吐しつづけたけれども。

ヘルマンが罪に問われなかった理由は、実のところ、よくわからない。

彼女は、他人の名前をあげるよう強制されたときにのみ第五条を使うつもりであると書き送ったのだが、そうすることで、第五条を「正当に」つまり自己防衛のために使おうとしなかったことになる。彼女は侮辱罪に問われかねず、事実、彼女が侮辱罪を宣告されなかったことに驚いた人もいた。『タイム』誌は、彼女がそれを免れたのは出頭の際、弁護士のジョゼフ・ラーウが手紙のコピーを配布するという演出のおかげだ、と暗にのべている。

ギャリー・ウィルズ『ならず者たちの退場』(『眠れない時代』所収)

ヘルマンは、自分でも繰り返し述べているように、「政治的な人間」ではなかった。人間としての「品位」(ディーセンシー)で闘おうとした。これは、非米活動委員会の三十年間の歴史のなかでも「画期的」であり、後の証言を拒否していくやりかたに道を拓くものとなったのである。

1953年、「赤狩り」と「セイラムの魔女裁判」を重ね合わせた戯曲『るつぼ』を発表したアーサー・ミラーは、翌年ヨーロッパ公演のために渡航手続きをした際に、国務省からパスポートの発行を拒否され、さらに56年、非米活動委員会の喚問を受ける。このときヘルマンの弁護士でもあったラーウが担当、同じく「わたしの良心は、誰か他の人の名前を使うことを許しません」と述べて答弁を拒否したが、侮辱罪に問われ三十日の実刑を受けている(上訴し、後、無罪)。

ヘルマンやミラーのように証言を拒否した者は多くはなかった。ほとんどの者が委員会の命じるまま、あるいは志願して、共産党との関わりを供述し、反省し、友人の名をあげた。なかでも有名な「友好的証人」は、映画監督のエリア・カザンだろう。いったん証言を拒否しながらも、やがて翻意し、交友関係の詳細を名前をあげながら証言したのである。こうした「友好的な証人」の口から漏れた名前によって、三百人以上がハリウッドを追われることになった。そのなかには、もちろんハメットも、ヘルマンも、ミラーも含まれる。あるいはまたチャップリンのように、非米活動委員会の召喚を拒否してヨーロッパに渡り、再入国の道を断たれた者もいた。この「ブラックリスト」に名前が載れば、地位も名声も収入も奪われたのである。

罪にこそ問われなかったものの、ヘルマンの生活はまるで変わってしまう。「ブラックリスト」で追放され、農場は手放さなければならなくなり、またハメットの収入は差し押さえられた。一時は偽名で、デパートでパートタイムの仕事に出たこともある。後、ニューオーリンズに住む叔母から、思いがけない遺産が入ったり、戯曲『屋根裏部屋のおもちゃ』の成功で、マーサズ・ヴィンヤード島に別荘を借りることができるようにまでなった。ヘルマンはそこでハメットを看取ることになる。

ハメットが亡くなって15年後の1976年、ヘルマンがこの時代を回想した『眠れない時代』は、発表後、たちまち大変な論争を巻き起こした。当時「手をこまねいていた」とされる人々が、書評やさまざまな場面で一斉に反論を始めたのである。時代や事実の不整合を指摘する者や、なかには「英雄気取りのスターリニスト」という誹謗、メアリー・マッカーシーのように「"and"や"the"に至るまですべてデタラメ」という批判まであった。

わたし自身は、その批判の当否を云々できるような知識はないのだが、それでもこのヘルマンの作品は「あなたはそのときどこにいたの? 何をしていたの?」と、当時生きていたひとりひとりに問いかけるものであったのだと思う。

それぞれの立場は決して同じではなかったし、感じた脅威も同じではなかったろう。直接的な攻撃にさらされ、多くが膝を屈することになったハリウッドと比較すれば、『ニューヨーク・タイムズ』などの有力紙は一貫して反マッカーシーを貫き、『ニューヨーカー』『ハーパーズ』などの雑誌も圧力に屈することはなかった、とR.H.ローピアは『マッカーシズム』のなかで述べている。そういう場では、危険を冒して書き続け、ヘルマンのように華々しい舞台にでることはなくても、ねばり強くマッカーシズムに反対する行動をとり続けた人もいたはずだ。

けれどもローピアは「概していえばアメリカの教育界は抵抗した」と書いているが、黒川修司『赤狩り時代の米国大学』(中公新書)を見ると、マッカラン委員会の「学校における反逆活動」の調査に対して、大学側がどういう態度を取ったか、詳しく述べられており、これを読む限りでは、「抵抗した」と言うにはそれこそ抵抗がある。

マッカーシズムの嵐が吹き荒れるさなか、激しい怒りにかられたレイ・ブラッドベリは『華氏451度』(宇野利泰訳 ハヤカワ文庫)を著した。疑問を抱き始めた「焚書官モンターグ」に対して、上司はこのようにいう。

「わかるだろうな、モンターグ? これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめからそんな工作はなにひとつしなかった! 工業技術の発達、大衆の啓蒙、それに、少数派への強要と、以上の三者を有効につかって、このトリックをやってのけたのだ」

マッカーシズムを、あるいは非米活動委員会をだれが支えたのか? 事後的に見れば、それがいかに異常で、感情的で、一種ヒステリーじみたものであったかはよくわかる。けれどもそのさなかにあって、それに巻き込まれず、自分の取るべき行動を的確に見定めることは、決して容易ではない。

ときに、わたしたちは、取るべき態度を迫られることがある。

ヘルマンは「品位」でこれに相対した。みずからのモラルに従って、それに恥じる行動をしたくはない、と。確かに、そのときヘルマンが取った態度はすばらしい。けれども自分はそうしたのだ、と、声高に主張する。このことに問題はないのだろうか。

『眠れない時代』に寄せて書いたギャリー・ウィルズの『ならずものたちの退場』のなかに、このような一節がある。

 われわれは道徳的な憎悪という、あのもっとも洗練された快楽を手に入れたのである。ある思想ゆえに人殺しをするというのは、殺人のなかでは最悪の種類のものである。人間、つまり家族とか家庭に危害を加える人を憎むほうが、思想を憎むよりまだよかろう。外見上は法律を守り脅威を与えないようだが、じつはその裏に思想が隠されているとしたらどうするか? そうなると、人は日常のあらゆる安泰と個人的関心に気を許さぬよう身がまえなければならなくなる。そうして聖戦が開始される。そのあとにつづくのは異端者弾圧だ。

 自分は正しいという思いこみのうえに成り立つ憎悪。その高みから降りてくるのはむずかしい。

(『ならず者たちの退場』)

ここでウィルズが指しているのは、赤狩りを進めた人々であり、それを支持した人々である。けれども、この指摘はそれだけに留まらない。
ヘルマンは膝を屈することなく生き延びることができた。そうして今度は逆に、この「道徳的な憎悪」で膝を屈さざるをえなかった人々を断罪しようとしているのではないか。そうして、そのことは、結局は「ならず者たち」と同じことをすることになってしまうのではないか。ウィルズの「自分は正しいという思いこみのうえに成り立つ憎悪。その高みから降りてくるのはむずかしい」という言葉は重い。そうして、つねにわたしたちについてまわる。

ヘルマンと同じ時代、同じ場所に立たされたら、自分はどうしていただろう。こう考えることは、決して無意味ではない。終わってしまえば、あるいは関係がなければ、どれほど正しいことだって言えるのだ。そのとき、その場にいて、自分の指針となるもの。それは、ひとりひとりが内側に持つしかないものだと思う。

その一方で、「自分は正しい」という指針を、他者に向けることは非常に危険なことでもある。それで他者を裁いてしまっては、いけない。

十四歳のとき、家出をしたヘルマンは、その経験から「有用で危険なこと」を発見した、という。「つまり、よろこんで懲罰を受ける覚悟さえあれば、闘いはもう半ば終ったも同然だということだった」(『未完の女』)
まぎれもなく、これはひとつの真実であると思う。そうして同時に、これは十四歳の真実でもある。大人になれば、その闘いの結果、自分が懲罰を受けるだけでなく、自分が懲罰を与える側にもまわるのだ、ということを理解しなければならない。

ピーター・フィーブルマンは愛情をこめてこう書いている。
「大人のリリアンと子供のリリアンの最も大きな違いは背丈である」
愛することと、評価することはちがう。批判することは憎むことではない。ヘルマンの著作をめぐるいざこざは、そのことを改めて思い出させてくれる。


5.ダッシュとリリー


大学三年の時、とあるパーティで出版社の副社長と知り合ったヘルマンは、そのまま編集者としてリブライト社で働くようになる。そこでは自身の弁によると、ほとんどまともに仕事もできず、1920年代のフラッパーらしい、パーティに明け暮れる生活だったようだ。やがて若い作家/劇作家のアーサー・コーバーと知り合い、結婚、彼がハリウッドに招聘されたのを機に、ヘルマンもハリウッドに移る。そこで台本の下読みなどをしていたヘルマンは、ハメットに会う。ヘルマンは25歳(生年を1905とすると)、ハメットは36歳だった。

 ハメットに会ったとき……(中略)……わたしはひつようとしていたものに行き会ったのだった。彼のきまりはわたしのとはちがっていた。でも、わたしにとってもっと大事だったのはそのことではなく、ハメットの拒絶であった。どんな危険、どんな誘惑があろうとも、自分の決めたルールからそれることを拒む彼の態度である。わたしは、自分を固持する人、自分自身である人を見つけたのだった。

(リリアン・ヘルマン『三』:『子供の時間』あとがきからの孫引き 小池美佐子訳 新水社)

のちにふたりはこの出会いの日をあてずっぽうに1930年11月25日、と決めることになる。そのときハメットは、生涯に書くことになる長編小説のうち四作を書き上げており、ハリウッドでもニューヨークでも、人気の的だった。貧しく無名のころをともにした妻とふたりの娘はサンフランシスコにいたけれど、思いつきで小切手を送るほかは寄りつかず、ハンサムで有名で金離れが良く酒浸りのハメットのまわりには、気楽な関係の女が大勢いた。

ヘルマンは1932年、アーサー・コーバーと「波風も立てず」(『ダシール・ハメットの生涯』による。ヘルマン自身による回想録にはいっさい離婚に関する記述はない)離婚し、ハメットとふたりで東部で暮らすようになる。ここでハメットは、探偵小説はこれで最後、と『影なき男』を完成させた。

ヘルマンはこのときをふりかえって、こう書いている。

 半分書き上がった原稿を読めと渡され、わたしがノラだと教えられたときはとてもうれしかった。自分がノラで、ニック・チャールズと結婚しているだなんて! おたがいに相手が大好きで、一緒にたのしい時を過ごすカップル。近代文学の中でも、こんな結婚をしている男と女はざらにはいない。だけどすぐにわたしはおちこんでしまった。この小説の中のバカな女やあばずれもきみのことだと、ハメットに言われたのだ。ただの冗談だったのかもしれない。が、あの頃のわたしは、そういわれてすごく不安になった。彼によく思われたかった。たいていの人が同じことを願った。

(『未完の女』)

作家になることを半ばあきらめかけていたヘルマンに、もう一度だけ努力してみるよう薦め、「堅固な土台」として、スコットランドで起きた事件の裁判の記録を使うよう助言した。「もたつきながらも頑固に粘り通した一年半」ののち、ヘルマンは戯曲『子供の時間』を書き上げる。これはブロードウェイで691回連続公演という華々しいヒット作となり、ヘルマンは一躍時の人となった。

 1934年のクリスマス。ハメットの年収は八万ドルを超す巨額に達した。が、物書きとしては終わっていた。このあと、さらに二十六年の人生が残っていた。

(『ダシール・ハメットの生涯』)

ヘルマンは、「わたしの書いた十二の戯曲のうち十篇がハメットと関わりがある」としている。書けなくなってしまったハメットは、ヘルマンに助言するなかに、わずかに慰めを見出していたのかもしれない。
1951年に書き上げた戯曲『秋の園』のなかのこの台詞は、どうしても書き上げられなかったヘルマンに、ハメットは部屋から出て一時間したら戻ってくるようにと言い、戻ってみるとハメットが書き上げていたというものである。

 だから、どのような時にせよ、その時は君がそれまで生きてきた集大成なんだ。それを支える小さな時の積み重ねなくして重大な時に到達することは出来ない。決断のための重大な時、人生の転換期、過去のあやまちをにわかに拭い去ろうと待ちかまえている日、今までしたこともない仕事をしたり、考えたこともないやり方を思いついたり、持ったこともないものを持ったりする――その日はいきなりやってきはしない。それを待っている間に君は自分を鍛えておいたんだ。そうでなければ君は君自身をつまらぬことに使い果たしてしまったんだ。僕がそうだったんだ、グロスマン。

(『秋の園』ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』より孫引き)

「僕がそうだったんだ」のなかに、わたしはどうしてもハメットの声を聞いてしまう。

こののちほどなくハメットは投獄され、ヘルマン自身の身辺も、きな臭くなってくる。

「リリー、角まで来たら、きみは決心しなければいけないよ。ぼくはぼくの道を行かねばならないんだから。きみは、いってみれば、ぼくにひとかたならずよくしてくれたが、現在では、ぼくはきみの悩みの種であり、重荷になっている。もし、きみがいま、ぼくにさよならをいったとしても、ぼくは責めはしない。だが、もしきみがそういわないのなら、もう、ぼくたちは二度とこの話をもちだしてはならないんだ」

 街角まで来ると、わたしは泣き出した。彼も泣きださんばかりのようすだった。わたしが口をきけないでいるので、彼はわたしの肩に触れ、それから下町のほうへ歩いていった。わたしは、彼が見えなくなるまで町角に立っていたが、しばらくして駈けだした。やっとのことで追いつくと、ハメットがいった。

「ぼくはこのところ一杯やりたいと思ったことがなかったが、ひとつやりたいね。とにかく、きみにおごろうじゃないか」

(『未完の女』)

おもしろいのは、このハメットが、ヘルマンに対しては非米活動委員会には反抗しないように説きつけたことである。

彼女の気性の激しさでかかれば法廷侮辱罪で召喚され、刑務所送りになるだろうと言った。最も悪いことは禁固刑になるかもしれないということではなく、刑務所はねずみが一杯だからという。リリアンは性格は強いけれど、根気はない――長い間ねずみどもと一緒に暮らせるわけがない。これがハメットの言い分だった。

(『リリアン・ヘルマンの思い出』)

やがてハメットが愛し、ヘルマンが終の棲家と定めたはずの農場を手放さなければならない日がやってくる。ニューヨークへ戻ったふたりは、しばらく別々に暮らしていたが、ほどなくまた一緒に生活するようになる。ハメットの体調は、意地を張り通せなくなるほど悪化していたのだった。

あるとき、遠くにいたリリアンがハメットに電話をかけた。一刻も早く話したくて、彼は電話口に駈け寄った。この光景を見ていた秘書のセルマは、なぜリリアンがいるときに、こうやって彼は自分の愛情を示せないのだろう、と思った。リリアンはリリアンで、彼がどう思っているかに気づいていないようだった。ふたりとも、たがいの愛情にきづいていたのかも。

(『ダシール・ハメットの生涯』)

どれほど相手のことを思っていても、当の相手が自分のことをどう思っているかはわからない。けれどもそれは、ほんとうは、自分にはわからなくてもいいことなのかもしれない。

1960年、ハメットの死がそう遠くないころに思われたヘルマンは、「二人のこれまでの付合いは、すてきだったと思わない?」と聞いてみる。「すてきという表現は、ちょっと大げさすぎるな。たいていの連中よりはましだった、という程度で満足していいのじゃないか」それがハメットの答えだった。

『未完の女』をハメットの回想で締めくくるヘルマンは、書いている「現在」の心境をこのように記している。

これを書いている現在でも、わたしはいまだに、なにごとも自分の思いどおりにしなければ気のすまなかった彼のことが、腹立たしくもあり、また愉快に思ったりもする。つい二、三分前にも、わたしはタイプライターの前から立ちあがり、まるであのひとと相対しているような調子で、そういう強情さをののしったばかりである。いまでもわたしは、十八歳のころと同様、ロマンチックな恋愛がどういうものであるかほとんど知らないが、持続する関心のもたらす深いよろこびや、相手がなにを考え、どういう行動をとるかを知りたいという、胸のときめき、実際にやったり、計画しただけでやらなかった悪戯のかずかず、短い紐が歳月とともにつながって一本のロープとなり、わたしの場合には、彼の死後ずっとそれが中途はんぱでぶらんと垂れたままになっている悲しみ、そういうものは味わったつもりでいる。ハメットがこの回想録のほかの部分を読んだら、どんな気持を抱くだろうか、はっきりとはわからないが、いまになってもわたしが腹を立てていると知ったら、あのひとのことだから、きっと愉快がるだろうことは、これはわたしにも断言できる。

(『未完の女』)

ヘルマンのすごいところは、ハメットの死後、回想録を書いて人生の「残りのとき」を後ろばかりを向いて過ごしたわけではない、というところだ。二年後、二十五歳年下ののピーター・フィーブルマンと、自身の生涯が終わるまで、ともに暮らしている。三冊の回想録を書き上げたあとも、中編小説(これは自身を思わせる語り手が登場するが、フィクションである)を発表、さらにフィーブルマンと共著で『一緒に食事をー回想とレシピと』(小池美佐子訳 影書房)を出す。エッセイの間にレシピが入るもので、晩年までおいしい物が好きで、生きることにどん欲で、「おもしろい」人間でありたがったヘルマンの姿が浮かび上がる。

ヘルマンは『未完の女』をこの言葉で締めくくっている。

 けれどもわたしは、現在よりも過去を大切に思うほど、年をとってしまったわけではない。感じる必要がない苦しみや、過去にしでかした、そうしてこれからも、しでかすにちがいないわたしの愚かしさを考えると、しばらくのあいだ悲しくなってしまう夜があることも確かだけれど。〈真実〉や〈意味〉を見いだそうとして、人生のきわめて多くの時間を費やしてしまったことには後悔している。〈真実〉とはどういうものか、結局はわからなかったし、〈意味〉も見つけることはできなかった。つまり、わたしはあまりにも多くの時間を無駄にしてしまったために、依然として、あまりにも未完成なままであるのだ。だがしかし……。

(この箇所私訳)

わたしたちは、「いま、ここ」で起こっていることを理解することはできない。ただ自分が見、聞き、過去の出来事と結びつけながらなんとか理解しようと考え、行動したりしなかったりし、そうしてそのごく一部分を記憶にとどめることができるだけだ。それがどういう意味を持つのか、なにがほんとうなのか、理解できるようになるのは、すべて「事後」からだ。けれども理解した、と思うそのときの自分さえ、時のなかにいる。ほんとうの意味で俯瞰などしているわけではないのだ。
結局は、なにもわからない。それでも、生きつづけ、考えつづけるしかない。

未完の女、であるとしながら、ヘルマンは"But still..."と続ける。ヘルマンの「いま」は過去とつながっている。そうして、この「いま」はまだ見えない未来へとつながっている。




初出Dec.14-28 2005 改訂Jan.02 2006



■注:赤狩りに材をとった作品は、決して多くない。邦訳されたものとしては、アーウィン・ショーの『乱れた大気』、あとは寓話的に描いたレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を思いつくぐらいだ。ここではかなり長いのだけれど、当時の雰囲気がどういうものだったか、その一端だけでもうかがい知ることができるショーの作品の一節を引用してみる。盗聴器を電話にしかけられ、見えない「敵」に監視され、じわじわと包囲されていく主人公の独白が一気に噴出する場面である。引用は読みやすさを考えて、適宜改行してあるが、原文は二段組み二ページに渡って、いっさい改行なし、追いつめられた主人公の心情がそのまま、読み手に重くのしかかってくる部分である。

 電話が机上のスタンドの明かりを黒々と反射していた。彼はそれを好奇の目で見た。明るい部屋のどこかで、電話線につながる機械が目を覚ましていて私の言葉や声の抑揚を細大漏らさず記録し、分析し、将来の検討にそなえようと待ち構えている。電話の会話を最後に聞く男と話してみたい、という気違いじみた欲望に駆られた。機械の蔭に潜む見えない侵入者に話しかけ、問いかけ、諫めてやりたい。

「こちらは容疑者のクレメント・アーチャーだが、いったい何を疑われているんだ? 君は私が何を言うと期待しているのかね? 何をしてほしいんだ? 自分に関してどんな情報を与えることができるんだ? 私は四十五歳で疲れている。私の人生は複雑で、年齢と、愛と、金と、仕事と、妻の健康と、娘の品行と、世界の終末を心配している。私の知るかぎり罪を犯したことはない。しかし君は、これまでは犯罪にならないが将来はなる、という行動の秘密のリストを恐らくもっているのだろう。

しかし、存在すら知らない罪をどうやって避ければいいのかね? 未来にしか存在しない罪をどうやって追放するんだ? 私は何も考えてはいない。何か考えているとすれば生きることだけだ。高い見地から考えているのだが、それが恐らく最大の罪悪ということになるのだろう。しかし、君が私を罪に陥れるために盗聴しているとは考えたくない。君の犯している罪は何だ? 他人のこみいった私的な会話に耳を傾ける人間は、必然的に判断を下すことになる。そのさい用いる基準はどういうものか、どんな法律書を使うのか、君が正しいとする根拠は何か、刑罰はどんなものか、などのことが知りたい。

それとも、受話器を取り上げて店にかけ、あるいは娘に愛していると言ってやるたびに、盗聴されているとはつゆ知らず、繰り返ししゃべったあけすけな私の科白を君はどう判断したか。私を罪深い男だと思うか? 有罪だと判断したか? もしそうなら、どんな罪を犯しているのかね? 君はそんな私に心を動かされ、同情を覚えたか? 友人と交わした気軽な冗談にたまには笑ったことがあるか? どうだろう、私のウィットは気に入ったかな? 悪い結果に終ると君があらかじめわかっているような事業に私が手を出しそうだったとき、私が正体を受け入れた晩餐会が退屈だと君にわかっていたとき、時には私に警告したくなったか? 君は私を憎んでいるか?

君は何らかの感情をもっているのか。それとも、君の仕事では一切の感情を払拭する必要があるのか? 私から何かを学ぶことがあったか? 路上で私のそばを通りすぎたとき、『あれっ、びっくりするほどまともに見えるじゃないか』と、自分に言い聞かせたことはなかったかね。ある期間、不用意な会話の記録を聞き続けたあとで上司に、『容疑者は実に立派で、魅力的な男だとわかりました。知り合いになりたいですね。マーティニと生ビールが好きらしいんで、家に招んで一杯やろうと思うんですが』と言う、なんてことはありうつのか? それとも、君の職業では好意的な結論に到達することはありえないのか?

今夜我々は狩猟を話題にした。あいにく君には聞こえない場所だったがね。すると同席していた紳士の一人が、狩る者の歓びは狩られる者の苦痛によってのみ贖われる、と言ってのけた。すると君は間違いなく私を狩っていることになる。君は私の苦痛という代償によってのみ満たされるのか? それとも君は、獲物が無罪なるがゆえに逃れ得たことに満足を覚える、という特殊な狩猟に従事しているのか? 無罪という問題に関して私は何が言えるのだろうか。それについてはまだ詳細な研究をしていない。私の無罪性がゆうべの六時から疑問視されているからだ。

すでに言ったことだが、私の知るかぎり罪を犯した覚えはない。だが、私はこの問題のよき判断者ではない、ということは告白しておく必要がある。公にされた明らかに時代遅れの、ルールや基準ばかり用いてきたからだ。どこだか知らないが秘密の部屋に坐っている君は罪と無罪の基準を現代化し、もっとも現代的な規則の下で活動しているが、それが何であるかは、もちろん明らかにできない。

君が私を観察していると知って、まず私が感じたのは当然のことながら怒りだ。私には補完的な二つの子供じみた衝動があり、『よし、彼らがそんなふうに私を見ているならば、こっちにも覚悟がある。私が国家を裏切っていると信じているとすれば、そういう行動に出てやるぞ』と、不当に罰せられた子供が罰を受けたあとでふてくされるような考え方をした。しかし、私に何ができるだろう。表通りに飛び出して政府の転覆を呼びかける? スパイがどんな見方をひようが、政府の転覆を肯定する気にはなれない。理性に捕らえられて行動を起こせないのだ。

私は衝動的に国外脱出を考えた。祖国が私に不信感を示した以上、外国に行くしかない。だが、自己追放に伴う苦難と実行の不可能なことを度外視しても、そんな考えは捨てねばならなかった。私はこの国と切っても切り離せない。この国に住んでいることで利益を得てきた。国の行動に多少の影響力をもつこともできた。大きなことを言うわけではないが、ソクラテスは毒を待つ牢獄から逃れる機会をあえて選ばなかった。彼を死に追いやった国家への愛着があったためだ。国の法律は私の法律だ。秘かに録音した私の声に聞き入る君は、すでに私を有罪と判断したかもしれない。しかし君は、政治家の言葉を借りれば私の下僕であり、雇い人であり、私の意志の延長ではないか。

ほかの問題では暗黙のうちに君に依存している。君は私の家庭の平和を守ってくれる。誘拐者、偽造者、郵便詐欺師、腐敗した商慣行、暴動、政治的暗殺、麻薬売人、版権の侵害者、食物や薬品に混ぜ物を加える徒輩、などから守ってくれる。要するに、私の生活のかなりの部分は、君が市民の安寧のために忙殺された有能な公僕であるという殆ど無検討の前提に依存しているわけだ。

ところが今こうして私が君の本来の仕事の一環として監視下に置かれている、とわかった以上、君は私の敵だから拒否せざるをえない、と正当に言えるのではないか。私に君のオフィスを廃止する権限があれば、真摯で責任ある市民だと自分を信じて君の行動を差し止めることができるだろうか。

好奇心を満たすために、君にいくつか質問をしたい。第一問は私の電話を盗聴することにした動機は何か、ということだ。別の電話を秘かに聞いていたとき、たまたま私の番号が口にのぼるか、名前を耳に挟むかしたのかね? だとすればそれは誰の電話か? フランセス・マザーウェル? ミセズ・ポコーニーの電話? ハットの? あるいはオニールの電話か?

それから君は私の活動の監視をどこまでやっているんだ? 君は電話から得られるわずかな情報で満足しているのか? あるいは郵便を開封し、映画に出てくるような頭のいい若者に私を尾行させる、などのこともやっているのかどうか。あした路上で突然振り向けば、三十歩ほどうしろで人影が戸口に入るところだったろ。ウィンドーを覗くふりをしていたりするんじゃないかな? うちの書棚にきちんと積んである、まだ上演されない古い芝居を読んだかな? ナポレオン三世を扱った芝居で、言うなれば権力の座にあるから自分を強いと信じている弱い男の悲劇の研究なのだが、君はあれを駄作と感じたか。それとも演劇会でよく言う、ちょっと磨きをかければ一シーズンはいける、と思ったか?

君の監視はどこまで完璧なのか。私の過去をどこまで調べあげたのか。私はさまざまな組織に所属したが、名前はもう忘れて思い出せない。マドリードの防衛軍のために基金や医薬品や同情を募る組織だったが、それを君は覚えているか? 強姦のかどで起訴された黒人少年の処刑を中止するよう、南部のある知事に宛てた嘆願書に私が署名した、とはっきり言い切れるのか? かなり前のことになるが、謄写版刷りの嘆願書が机上にあったことは漠然と覚えている。しかし、はたして署名したのか、ほうっておいたのかは私自身定かではない。

君宛、またはワシントンの君の上司宛に手紙を書けば、私の過去について調べあげたことの概要を送ってくれるか? 年とともに衰えてゆく記憶をたどるよりも正確で、完璧で、簡潔なやつをだ。そのさい、さまざまな問題に関して私が永年行なってきた、矛盾した発言を同封してもらえないだろうか?

ドラマの分野で芸術的に一貫した人物を構成するにあたり、君は矛盾した要素を入念に取り除いて出来上がった作品が論理的でわかりやすいように心がけるか? つまり、知的な観察者からみて、第三幕の人物が第一幕で予測されなかったような行動は決して取らない。そんなふうにドラマが作れると思うか、と訊いているのだ。

政府の機関として、君の組織はこの情報を無料で提供しているのか? 農務省が土壌の保護と、牛馬による農耕に関するパンフレットを無料配布するように、内務省がレジャーボートの所有者に海峡や入江の砂州の図面を配布するような具合にだ。

私は『あなたの政府を知りましょう』と書かれたポスターを見たことがあるし、小学生のときには公民科という、いつ果てるとも知れない退屈な授業を受けさせられもしたが、これは民主主義のルールを教えるのが目的だった。立法、行政、司法、チェック・アンド・バランスの制度など、いまだに記憶に新しい。私はこのところ公民科をさぼっているような気がする。君の組織がどんなふうに活動しているのか、実際問題として私は殆ど知らない。

新聞や雑誌の記事がほめているので、ワシントンにすばらしい指紋のファイルがあることはわかっている。君の同僚が犯罪者を追跡し、捕まえて裁判にかけるのに大いなる勇気と独創性を発揮している、ということも映画によって証明済みだ。しかし、こうした問題についてはなにも知らない、と告白せざるをえない。

もし私が感心のある市民として君の局の長官に丁重な手紙を書いて、こういう事態が起こった経緯の説明を求めれば満足な返事がもらえるかな? それとも、君が私に払ったような注意を促すからには、反逆とスパイ活動の嫌疑がかけられているだろうから、私はすでに政府に関する情報の請求権を剥奪されているのか?

最後にもうひとつ訊かねばならない。君は本気か、というのがそれだ。人は自覚もなしに反逆罪を犯したり、外国政府のためにスパイ活動を行ったりすることができる、と君は本気で考えているのかどうか、そこが聞きたい。この混沌たる時代のために創られた、無意識裡の犯罪という概念に基づく哲学でもあるのだろうか。

わたしの場合、この興味深く、恐らく擁護しうる理論が私のケースでは君の活動の根拠になっているのかね? あるいは、私の書斎の机と友人や仕事仲間の電話の間のどこか中間点で君が行った不寝番は、その増殖が社会的にいくら無駄であろうとたえず機能を拡大し、盲目的、かつ殆ど生物学的に増え続ける官僚の増殖の結果だろうか? そこで、すでに盗聴されている電話から私に二、三度かかったことに気づいて、私もまた監視と盗聴の対象にすべきだという結論に到達したわけか。そして、私が一度ならず電話をかけている相手の電話線にはことごとくクリップをはめなければ気が済まなくなったのではないか。

こうして君は私が電話を入れた友人がかける相手の電話機につぎつぎと盗聴器をしかけていった。これはどこで止まるんだ? 立聞きされたこの大量の秘密の会話が君に教えることは何か? ブーンという雑音入りの話から君はどんな真理を引き出すのか。君はそれに耐えることができるか? もし君がそれを我々に漏らせば、我々は耐えられるのか?」

アーウィン・ショー『乱れた大気』(工藤政司訳 マガジンハウス社)

この作品が発表されたのは1951年。こののちショーはヨーロッパに居を移し、以降四半世紀に渡ってアメリカに住居をもとうとしなかった。[戻る]

■引用・参考文献
リリアン・ヘルマン『未完の女』(稲葉明雄・本間千枝子訳 平凡社 1981)
リリアン・ヘルマン『ジュリア』(大石千鶴訳 ハヤカワ文庫 1989)
リリアン・ヘルマン『眠れない時代』(小池美佐子訳 ちくま文庫 1989)
リリアン・ヘルマン『メイビー・青春の肖像』(小池美佐子訳 新書館 1982)
リリアン・ヘルマン『英米秀作戯曲シリーズ1 子供の時間』(小池美佐子訳 1980)
リリアン・ヘルマン『リリアン・ヘルマン戯曲集』(小田島雄志訳 新潮社 1995)
Lillian Hellman "Pentimento"(Little Brown & Co 2004)
Lillian Hellman "Unfinished Woman"(Bantam Books 1981)
ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』(本間千枝子他訳 筑摩書房 1992)
ダイアン・ジョンスン『ダシール・ハメットの生涯』(小鷹信光訳 早川書房 1987)
Joan Mellen "Hellman and Hammett: The Legendary Passion of Lillian Hellman and Dashiell Hammett"(Harpercollins 1996)
蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 ―翳りの歴史のために』(筑摩書房 1993)
陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』(筑摩書房 1990)
R.H.ローピア『マッカーシズム』(宮地健次郎訳 岩波文庫 1984)
リチャード・ホフスタッター『アメリカの反知性主義』(田村哲夫訳 みすず書房 2003)
黒川修司『赤狩り時代の米国大学 遅すぎた名誉回復』(中公新書 1994)
アーウィン・ショー『乱れた大気』(工藤政司訳 マガジンハウス社 1994)





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