暑いときにはコワイ本






1.先生がコワイ

まず、ホラー小説ではないのだけれど、奇妙な味わいの短編の紹介から。

チャールズ・バクスターの『グリフォン』(『安全ネットを突き抜けて』所収 早川書房)に出てくる先生は、なんだかとっても奇妙な先生だ。

語り手はミシガン州のスモールタウンの小学生。10歳ぐらいの男の子だ。
風邪をひいた担任の先生の代わりに、新しい先生がやってきた。
金色の細い髪をシニョンに結って、金縁メガネをかけた女の先生。なによりも特徴的なのは、唇の両側から顎にかけて、立てにまっすぐ二本の線が刻まれていること。ちょうど「ピノキオ」のように。

ピノキオのようなミス・フェレンチは、自己紹介からしてひどく奇妙だ。
祖父はハンガリーの王子で、母親はフランダース生まれのピアニスト、「王冠を戴いた人々」の前で演奏したこともある、という。それが「理由は言いませんが、わたしたち一家はデトロイトに移る運命になり」、今日ここへやってきたのだ、と。

一時間目のリーディングこそ、ごく普通の授業だったけれど、二時間目の算数で、ある生徒が「6×11=68」と答えても訂正しない。それどころか、間違いを指摘する子供たちに対して「6×11=68」というのは「代理の事実」と考えてはどうかしら、と言うのである。

彼女の授業はどんどん奇妙なものになっていく。地理の時間、『遠くの国とそこで暮らす人々』の教科書を出した子供たちを前にして、エジプトの灌漑の話の代わりに、エジプト人の信仰における魂の移動について話し始める。その魂はオオアリかクルミの木のどちらかになって土に返る、と。自分がエジプトに行ったときは、サーカスで働いていた老人に、檻に入れられた、半分は鳥で半分はライオンの形をした怪獣をこっそり見せてもらった。その名前はグリフォン、そうして黒板に大きな字でGRYPHONと書く。

学校が終わって、帰りのスクールバスの中では、ミス・フェレンチが嘘つきかどうかをめぐって、大騒ぎになる。
「半分ライオンで半分鳥の怪獣なんて見たことあるか?」
主人公は咄嗟に、スイスのフランケンブッシュ博士が人間とハムスターを合成したんだ、その話は《ナショナル・インクワイヤラー》に載っていた、と話をでっちあげ、そんなものいるわけがない、と言った相手をやりこめるけれど、家に帰って辞書を引っ張り出さずにはいられない。
【Gryphon】(Gryffinの異形綴り):ワシの頭と翼、ライオンの胴体を持つ摩訶不思議な怪獣。
ほんとうだったんだ!

つぎの日のミス・フェレンチの話も、いよいよもって不思議なもの。ベートーヴェンは耳が聞こえた、合衆国の初代大統領はワシントンではなかった、地球の反対側にはとてつもなく大きな宝石がある。金星はいつも厚い雲に覆われていて、雲の下には天使が住んでいる……。
「あなたたち子供は、こういう秘密を聞くのが大好きよね」
確かに先生の話を聞くのはリーディングの読解問題をやるよりはるかに楽しかった。

「死は存在しないのです」とミス・フェレンチ。
ただ形が変わるだけ。だから怖れてはいけません。わたしはこの眼で真実を見た。だって神さまがここにキスをしてくれたから。そう言って、口の両端からまっすぐ下に刻まれている二本の線を指した。

ある日この先生は教室にタロットカードを持ってくる。
「みなさんの運勢を占ってあげましょう」
ある女の子に向かっては、こんなふうにその運命を「予言」する。
「そうね、悪くはないわ。特別高い教育を受けることはなさそうだけど。たぶん結婚は早いでしょう。子供はたくさんできるわ。何か暗い、わびしいものが見えるけれど、それが何であるのかはわかりません。主婦としての苦労、ただそれだけのことかもしれないわね。まあ、たいていの場合、あなたはとてもうまくやっていけそうね」

だがウェインは『死神』のカードを引いてしまった。
「これは?」
「これはね、ウェイン、あなたはもうじき死ぬということです」それからミス・フェレンチはこう続ける。「でも、怖れることはありません。ほんとうに死ぬのではないのですから。ただ変化するだけ」

ところがすっかり怖くなったウェインは、校長先生に言いつけた。ミス・フェレンチは学校を去っていく。
主人公は「言いつけやがって。弱虫!」と殴りつけ、ふたりは取っ組み合いの大喧嘩になる。

ミス・フェレンチが去ったあとは、子供たちにはあたりまえの日常が戻ってくる。何の秘密もない先生のクラスに押し込められ、このかん、ちゃんと勉強してきたかどうかのテストが来週あるだろう、と。

さまざまに読める短編だけれど、ひとつ言えるのは、大人の目から見ると、得体の知れない奇妙な先生だけれど、子供は確かにこうした奇妙さを愛するのだ。
ありきたりのことしか言わない、なんの秘密もない先生ではなく、不思議な世界を垣間見せてくれる先生。子供たちがすっかり夢中になってしまうのも不思議はない。


ところが、このミス・フェレンチと通じるものはあっても、内田百閧フ『青炎抄』の二、「桑屋敷」に出てくる先生は、ひどく怖い。

長い土塀が続く荒れ果てた屋敷で、女先生は狂人のお兄さんと一緒に暮らしている。いつの間にかお兄さんはいなくなり、大きな家にいるのは、女先生がたったひとり。

 少し赤みを帯びた昼の稲妻が、頻りに薄暗い家の中を走る大夕立の中で、女先生は漆が剥げかかっている黒塗りの箪笥の前に中腰になり、一つずつ抽斗を開けて、その中を掻き廻した。
 雷の尾が、どしんどしんと云う様な響きになって、古い家の根太に伝わり、戸障子をぴりぴりと慄わせたが、女先生は丸で聞こえぬ風で、抽斗の中に突っ込んだ自分の手許ばかりに気を配った。古ぼけた鞘の長い刀を取り出し、一たん手に取ったけれど、その儘また抽斗の奥の着物の下に押し込んだ。
 ひどい雨になって、家の中の方方に雨漏りがしたが、まだ降り続くと思った中途で、急に止まったような上がり方で、夕方の空が少し明るくなった。風が落ちて、広い荒れ庭に動いている物は何もない。女先生は縁側近く坐り込んだ儘、何処と云う事もなく一心に見つめている。

 

 晩の支度もせず、灯りも点さずに、じっとそうしている内に段段暗くなって、桑の樹の葉末に、かすかな薄明かりが残っているばかりとなった頃、不意に縁側に腰を掛けた男があった。
 女先生は家老の息子かと思ったが、そうではなくて、丸で知らない大きな男であった。女先生の立ち上がりそうな気配を見ると、その男は縁側を離れて、桑畑の中へ行きかけたが、何かに躓いて、暗い地面にのめった。
 女先生には、暗い中でその男の足許までもはっきり見えた。躓いたのは大きな石ころであって、その転がった後に深い穴があいた。穴の底から、白い犬ころが五つも六つも飛び出して来て、そこにのめっている男の顔や身体にまぶれついている。
 女先生は可笑しくなって、一人で暗い縁側で笑い続けた。

(『青炎抄』『東京日記』所収 岩波文庫)

女先生は教室で、一年生の生徒たちに幽霊はいない、と話をする。ところが子供のほうは、お話よりも、先生の方が怖いので、泣き出してしまう。

「それでは、今度はおもしろい、おかしいお話をして上げましょうね。『もる』のお話をいたしましょう。雨の降る晩に虎と狼が出て来て、貧乏人のお家をねらって居りました。おばあさんが溜息をついて『ほんとに、もる程こわい物はない、虎狼より、もるがこわい』と申しますと、丁度その時、表と裏口とから這入ろうとしていた虎と狼も、びっくりしましたよ。もると云うけだものはそんなに強いのか。それではこんな所にぐずぐずしていては危いと考えて、虎も狼も一目散に逃げてしまいました。皆さん解りましたか。虎狼より『もる』がこわい。ほほほ。『もる』って、どんなけだものでしょうねえ。ほほほ、ほほほ」
 さっきの子供はまだ泣き続けているのに、女先生は教壇の上で、一人で止まりがつかない様に笑い転げている。

 

遠足で全学年が出かけて、ひと気のなくなった学校に、ついていかなかった女先生は、いつもどおり袴をつけ、風呂敷に包んだ細長い物を大事そうに抱えてやってくる。空っぽの教室を見回り、それから隣の校舎の幼稚園に行き、園児達のお遊戯を見るのだった。翌日の代休にも、同じように女先生は学校に向かう。そして普段通りの学校が始まったその日。

 学校が始まっても女先生が来ないので、小使が迎えに行ってみると、女先生はお化粧をして、両膝を紐でくくって死んでいた。傍らに長い刀が抜き放ってあったので、咽喉でも突くつもりであったらしいと思われたが、刀に血はついていなかった。
 それで女先生の家系は死に絶えてしまった。長い土塀で桑畑をかこった屋敷が、あんなに荒れ果てるまでには、私共の知る様になってから後の、兄さんの狂死以前に、お父さんやお母さんや、まだその先祖に何か恐ろしい事が続いたに違いないと思われるけれど、古い事なので私共には解らない。

この話はこれで終わるのだが、気配や雰囲気は満ち満ちているけれど、実際、何がどうなっているのかわからない。「私共には解らない」という語り手がいったいだれで、どこでこの話を見届けているのかもわからない。ただ、この怖い、寂しい女先生が死んでしまった、ということしかわからない。


このどこか哀れさを感じさせる女先生に近いのが、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』の女家庭教師だ。

『ねじの回転』は、幽霊話である、と冒頭はっきりと書いてある。
タイトルの「ねじ」とは、昔の拷問のための道具で、親指をねじで一締めして、「さあ、吐け」、それでも白状しなければ、さらにもう一締め。そのたび拷問されている人間は悲鳴をあげる。聞いているひとが悲鳴をあげるような、怖い話についての比喩表現なのだ。

日本ではもっぱら夏の風物誌の観がある怪談だけれど、イギリスでは昔、クリスマス・イブに怪談をするならわしがあった、という。クリスマス休暇を英国郊外の、古い屋敷で過ごしている友人たちが、怪談をする。この『ねじの回転』は、そのときに出た怪談のひとつ、二十年ほど前に死んだ女性の手記を朗読する、という形で話が始まる。この形式は、古典的な怪奇物語のいわば定番で、客観的な「私」が語り、真実味を持たせるために、告白や手記のようなドキュメンタリー形式が模倣される。この『ねじの回転』もやはり、そうした怪奇物語の形式を踏襲しているのだ。ところがこれは、ありふれた幽霊譚ではない。

話というのはこうだ。二十歳になる貧しい田舎牧師の娘が、家庭教師に応募する。
面接に当たったのは、若くハンサムな紳士。両親に死に別れた小さな甥と姪がエセックスの古い屋敷に住んでいて、子供の家庭教師が死んだので、その後任になってほしい。

ただし、条件がひとつ。どんな問題が起こったにせよ、私(その紳士)に相談せず、自分で解決し、お金は弁護士から受け取るように。

家庭教師としての、娘の新しい生活が始まる。
二人のうち、兄のマイルズはあどけなくかわいい、少年というよりまだ幼い男の子。前任の家庭教師が死んだ後、寄宿舎に入れられたのだが、学校からは「預かれない」という断りの手紙とともに家に帰されている。 妹のフローラも、ラファエロの描く天使のよう。

ある日娘が庭を散歩していると、屋敷の塔の上に男の姿が見える。この屋敷の人間ではないようだ。

女中頭のミセズ・クローズに聞くと、どんな男だったか? と問い返される。
帽子をかぶらず(当時、戸外で無帽の人間は紳士ではないと見なされた)、赤毛で、目鼻立ちが整って、あごひげをはやし、眉は黒っぽく弓形で、眼は小さくて、じっと動かない人だった。
ミセズ・クローズは驚いて、それはロンドンの紳士がここにいた頃、身の周りの世話をしていた召使いのピーター・クイントだ、けれどもクイントは事故で死んだのだ、と。

また別の日、娘がこんどはフローラと庭にいたとき、池の向こうにこちらを見ている女に気がつく。娘はこの女が前任の家庭教師、ミス・ジェスルだと確信する。
どうやらクイントとジェスルは恋仲だったらしい。その死も、定かではないのだけれど、醜聞めいたものであったようだ。

こうして娘は何度もクイントとジェスルの幽霊に会うことになる。クイントとジェスルは何をしに出てきたのか? 娘は考える。クイントは、マイルズ少年の魂を堕落させるために(そのたくらみが成功したからこそ、おそらくは同性愛的な行為? のためにマイルズは寄宿舎から帰されたのだ!)、そうしてジェスルはフローラの魂を奪うために出てきたにちがいない。

なんとしても幼いふたりを守らなければ。

ところが娘の目には、次第に、この幼い兄妹さえも、幽霊とぐるになっているように思えてくる。そうして、幽霊に立ち向かおうとする娘は、フローラを狂気の淵に追いやっていく。そしてマイルズは……。

 一瞬、男は獲物を逃した犬がにおいを嗅ぎつけようとするように、空気と光を求めて頭を狂おしく振ると、わたしに向かってきた。怒りに震える真っ青な顔をして、うろたえながらも、虚しくあたりをにらみつけている。姿をまったく失っているのだけれど、わたしには、巨大で圧倒的なその気配が、部屋一杯に瘴気のように拡がっていくのが感じられた。
「あの人がいるの?」
 わたしはなんとしても証拠を握ろうと固く心に誓っていたので、はっきりと聞き返した。
「あの人、ってだれのこと?」
「ピーター・クイントさ――ちくしょう!」マイルズは、ぴくぴく震えながら、すがるようにもういちど部屋を見まわした。
「どこにいるの?」
そのことばはいまなおわたしの耳に残っている。マイルズが最終的にわたしに身を委ね、わたしの献身にはなむけとしてくれたそのことば。
「いまはもう、あんな男、どうだっていいでしょう――これから先だって、もうずっと。わたしには、あなたがいるもの」わたしはあの獣に向かって言った。「あいつはあなたを永久に失ったのよ!」
そうしてわたしは自分のやったことをマイルズに見せようと思った。「あそこよ、あそこに!」
   すでに身をよじって後ろを向いていたマイルズは、目をギラギラさせながらあたりを見ていたけれど、そこには穏やかな昼下がりがあるだけだった。わたしは誇らしく思っていたけれど、クイントを失って打ちのめされたマイルズは、深淵に投げ落とされた生き物のような喘ぎ声を立てた。マイルズを抱きしめたときは、まるで落ちていくのをつかまえたようなものだった。わたしはつかまえた、そう、抱きかかえたのだ――どれほどの情熱がこもっていたか。けれど、しばらくすると、わたしは自分が何を抱きかかえているのか、徐々にわかってきた。静かな昼の光のなか、わたしたちはふたりきりだった。マイルズの小さな心臓は、肉体を離れ、止まっていた。

(この箇所 私訳)

こうしてこの物語は幕を閉じるのだが、この作品をめぐっては、長年論争になってきた。
ひとつの見方として、家庭教師の娘が、精神の平衡を次第に欠いていき、幻を見るようになったのだ、クイントとジェスルの亡霊など、もとより存在せず、幼い子供達もこの娘が手をかけたのだ、というものがある。
ところが、そうとばかりも言い切れないところもある。
そもそもなぜマイルズは、寄宿舎から家へ送り返されたのか? 同性愛的な行為があったのではないのか。そうしてそれを教えたのは、クイントではないのか?
娘が最初に男の幽霊を見たとき、それをクイントだ、と指摘したのは、中立な位置のミセズ・クローズだ。少なくとも娘はその時点ではクイントの存在を知らなかったのだ。
非常に微妙、というのはそういうところで、実にどちらでもとれるように、ヘンリー・ジェイムズは隅々まで念入りにこの物語を仕立て上げているのである。

どう読むかはひとそれぞれなのだが、ここでは「先生がコワイ」という括りから、もういちどこの物語を見てみたい。

つまり、この娘の哀れさは、なによりも『ジェイン・エア』にはなれないことにある。
娘はふたりの子供の叔父である紳士に恋心を抱く。ところが紆余曲折ののち結ばれるどころか、会うことさえ、たったの二回でしかない。

娘が見たクイントの幽霊は、紳士のパロディ、ジェスルの幽霊は自分自身のパロディである、と柴田元幸は『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)のなかで指摘している。娘が描いた淡い恋物語は、幽霊達にパロディ化され、醜い現実として、眼前につきつけられてしまうのだ。

娘はロマンティックな恋物語を夢に見、それが実現しなかったために徐々に精神の平衡を欠いていったのだろうか? それとも、だからこそ、ほかの人間には見えない幽霊を見ることができたのか?
実に、さまざまに読める作品なのである。

さて、『グリフォン』『青炎抄』『ねじの回転』の三つを通してみると、コワイ先生というのは
1.比較的若い女性から若さを失いつつある女性が、
2.恋愛の可能性からは切り離されていて、
3.精神の平衡状態を欠いていく
とまとめることができるだろう。

大人が相手のときは、その先生たちはある領域を隠している。というのも、彼女たちは一面未熟な部分(イノセントな部分と言い換えてもいいかもしれない)は残していても、日常生活を送ることができるくらいには、社会的に成熟しているからだ。

ところが子供たちを前にすると、大人と相対しているときには現れない部分が出てくる。普段隠している部分が剥き出しになるのだ。
子供たちは先生を理解することはできない。けれども影響は受ける。わたしたちが感じる先生の怖さ、というのは、とりもなおさず、先生を理解できない子供の怖さだ。

2→3に移行する、というのは、なんというか若干文句のひとつも言いたくなるところなのだが、伝統的に、こうした物語の系譜はある。たとえばフォークナーの『エミリーにバラを』にしても、基本的な発想は同じものだろう。
別に恋愛の可能性から切り離されたぐらいで、精神状態のバランスを欠くこともないだろう、と思ったりもするのだが、それは当時、女性の自己実現というものが、極めて限定された領域でしかなかったことなどを考え合わせる必要がある。たとえば『ねじの回転』の時代、貧しい娘がその階級から脱出するためには、屋敷の主人に見初められることしかなかったのだ。

加えて、先生というのは、一面、貧しい雇われの身であり、それでいて、子供に対しては指導者として相対さなければならない、という側面がある。
特に社会経験の少ない若い女性が、こうした両方向からの圧力を受けて、精神状態が不安定になっていく、というのは、非常によくわかるような気がする。

それを目の当たりにした子供の側はどうなのか。
『グリフォン』のように、その先生が見せてくれる世界をおもしろがっていれば、怖がりさえしなければ、怖い結果にはならない。
脅えて泣くぐらいでも、まだ大丈夫。
けれども、その先生の世界に巻き込まれてしまったなら……。マイルズのように、命を落とすことになるのかもしれないのだ。

 

先生は、コワイ。
コワイ先生には、気をつけよう。



2.子供がコワイ


ところで、『エクソシスト』って怖いですか?
わたしはあの映画の怖さが、いまひとつよくわからない。
音楽は実に怖いし、コンクリートの階段などのスタイリッシュなシーンのいくつかは認めるのだけれど、「悪魔に取り憑かれる子供」の怖さというものが、どうもよくわからないのだ。おそらくこれはやはりキリスト教的な感覚と密接に関連するものなのだろう。

『オーメン』も怖くなかった。
ストーリー展開はおもしろかったけれど、なんというか、「生まれつき邪悪な子供」というのにちっともリアリティを感じなかった。
邪悪さって、そんな単純なものなんだろうか。もっと入り組んで、わかりにくいものなんじゃないのだろうか。
『オーメン』はたぶん二作目だか三作目だかが出たときに、一挙上映されたのを父親と一緒に見に行ったはずだ。
小学生で、残酷な描写とか怖い場面が出てくると、うひゃー、と父親の肩の後ろに隠れて、半分だけ目をのぞかして見ていたようなおぼろげな記憶がある。
けれど、当時でさえ、ダミアンが特殊な子供で、とりたてて怖い、とは思えなかった。
そこらへんにいる子供(自分も含めて)だって十分に残酷だし、嘘だって平気でつくし、悪いことだってする。そういうごく普通の子供とダミアンのちがい、というのが、はっきりとはわからなかった。
やはりこれも、キリスト教文化のなかで育つと、悪魔の子、というのは、文句なしに怖いという実感を持つようになるのだろうか。

けれども、怖い子供はいる。
わたしが怖い、と思ったのは、フィリップ・K・ディックの短編『変種第二号』だ。

ディックの作品(あるいはスティーヴン・キングの“デッド・ゾーン”)を読むと、'70年代のアメリカの気分みたいなものがよくわかる。米ソ間の全面核戦争の危機を常に孕んでいた冷戦時代というのが、なんとも陰鬱で、やりきれないものだったのかが色濃く反映しているのだ。

『変種第二号』も、米ソ間核戦争によって、廃墟と化した近未来の世界が舞台だ。

ヘンドリックス少佐率いるアメリカの一小隊は、灰燼や瓦礫の山の下に築いた掩蔽壕に身を隠している。そこが地球の前線司令部で、政府や軍隊は月基地(ムーン・ベース)に行ってしまった。地球に残された軍隊は、小隊ごとにバラバラにされて、廃墟や下水渠、穴蔵など、いられる限りのところに留まっていた。

先制攻撃でアメリカのほとんどを吹き飛ばしたソ連軍だったが、〈クロー〉の開発によって、戦局は一夜にして一変する。

 地面の向こうから小さな金属のようなものが、真昼の鈍い光にぱっと輝きながら現われた。金属の球体だった。ソ連兵を追って、飛ぶような足取りで丘を駆け上がる。それは小さかった。小型の種類だ。鋏(クロー)を体から突き出していたが、その鋭い二本の突起物は白刃と見まがうばかりに勢いよくまわっている。ソ連兵はその音を聞きつけた。さっと振り向くと、発砲した。球体はみじんに砕け散った。だがそのときはすでに次の球体が現われて、最初のを追っていた。ソ連兵は再び撃った。
 三つめの球体がカチッと音をたて、ブンブンと鋏を回転させながら、ソ連兵の脚に飛びついた。肩まで跳び上がった。回転する刃がソ連兵の喉に消えた。

(フィリップ・K・ディック『変種第二号』『ディック傑作集1 パーキー・パットの日々』所収 ハヤカワ文庫)

最初はのろかったクローも、どんどん品種改良が進み、大型化し、さまざまな機能を持つようになっていった。
掩蔽壕のソ連兵が、外気に当たったり、斥候に出ようとする瞬間をねらって、クローは掩蔽壕に忍び込む。ひとつ入り込めば、あといくつもがそれに続き、あっという間に一個小隊は全滅する。いまはあたり一面、廃墟のいたるところにクローが潜んでいるのだった

クローはいまでは修理も自分たちでやり、地下のオートメーション機械が、新しいクローを型に合わせて作り出していた。アメリカ兵は手首に金属板のバンド「タブ」をつけているから大丈夫だが、もしそれをなくしてしまえば、ソ連兵、アメリカ兵にかかわらず、あっという間に餌食になってしまうのだ。

ヘンドリックスの掩蔽壕に、ソ連兵がひとりだけでやってくる。クローに見つかり、主人公たちの目の前で、ズタズタにされたが、手には会談を希望するメッセージを握っていた。

ヘンドリックスは、罠かもしれないこの誘いに応じて、廃墟の中をソ連軍基地まで歩いていくことになる。

崩れた物陰から人影が現われた。

 ヘンドリックスはまばたきした。「止まれ!」
 少年は立ち止まった。ヘンドリックスは銃をおろした。少年は黙って立ったままヘンドリックスを見つめている。小柄で、年もそれほどいっていない。おそらく八歳ぐらいか。しかしはっきりとはわからない。生き残った子供のほとんどは発育不良だ。少年は汚れてぼろぼろになった、色あせたセーターにショート・パンツという姿だった。髪の毛は長く、もじゃもじゃだ。茶色の髪。顔にかぶさり、耳をおおっている。両腕になにかをかかえていた。
「持っているのはなんだい?」ヘンドリックスは鋭く尋ねた。
 少年はそれを差し出した。ぬいぐるみのクマ、テディ・ベアだった。少年は大きな目をしていたが、表情がなかった。

子供の名はディヴィッド、ディヴィッドの両親は六年前、爆弾で死に、ほかの者たちと一緒に生きていたが、その仲間も死んで、ディヴィッドひとりが残されたのだという。そうして、ヘンドリックスに、一緒に連れて行って、と頼むのだ。

 ヘンドリックスは少年を見おろした。この子は変だ、ろくに口もきかない。内気だ。だがこの子たち、生き残った子供たちはおよそこうなのだ。おとなしい。平静だ。奇妙な諦観のようなものが彼らの心を捕らえている。なにがあっても驚かない。何事もあるがままに受けとめる。彼らには、道徳的にも肉体的にも、期待すべき規範、物事の道理などというものはもはやないのだった。社会的ならわし、その人の習慣、すべて判断の決め手となるものが消失してしまったのである。ただ残酷な体験だけが残った。

汚れたテディ・ベアを抱きしめて歩くディヴィッドは、ひどく奇妙だ。
「どうしてわたしに出会ったんだ」
「ぼくは待ってたんだ…(略)…生きものを捕らえようと思って」
「どんな生きものだ?」
「食べられるもの」
そういうくせに、ヘンドリックスが勧める食事には、手をつけようともしない。

ディヴィッドとヘンドリックスの道行きは、ストーリー全体のなかでも、前半の三分の一ぐらいを占めるに過ぎない。
けれど、この華奢で小さなディヴィッドの存在感は圧倒的だ。
読み進むにつれて、まちがいなく、この静かな少年は、何か禍々しいものにちがいない、と思う。

突然、三人のソ連兵が現われて、一斉に発砲してくる。だが、狙ったのはヘンドリックスではなく、ディヴィッドのほうだった。
このディヴィッドは、クローの変種第三号だったのだ。
第一号は、傷病兵の格好をして現われ、部隊に潜入し、ソ連軍の北翼をあっという間に全滅させた。
そして、その掩蔽壕では、発砲してきた三人を除いた全員が、変種第三号、ディヴィッドに殺戮されていたのだった。ほぼ壊滅状態のソ連軍のなかで、残された四人の兵士たちのうちのひとりが、アメリカ軍の助けを求めに、ヘンドリックスたちの掩蔽壕に出向いたのだった。

ここから話は変種第二号がいったいだれの姿をしているのかを巡るミステリの様相を呈してくるのだが、最後にファイナルストライク(あっと思わせるオチ)が待っているので、ここではそれには触れない。

とにかくこのぼろぼろのぬいぐるみを抱えたディヴィッドが怖いのだ。
ディヴィッドは、クローの変種第三号だ。機械だ。けれど、人間の姿をしている。ほんとうに、ディヴィッドと人間の間に線を引けるのだろうか。アメリカが開発していなければ、ソ連が開発していただろう、という正当化をしながらクローを開発した科学者は、人間の側と言えるのか。あるいは、廃墟に取り残されたのが、本物の子供だとして、その子はまぎれもなく人間の側と言えるのか。人間とは何なのか。何をするから人間で、何をするから人間ではないのか。

ディックの多くの作品と同じ「人間と人間にあらざるものの境界」の曖昧さが、ここでも重要なテーマとなっている。
ディヴィッドの怖さは、人間の怖さに通じる。
そうしてもうひとつ、こうしたディヴィッドそっくりの子供を、わたしたちは実際に、どこかで目にしていないだろうか。なにを考えているのかわからない、鈍い目をした子供。こちらに目を向けていても、こちらを見ているのかどうかさえ、定かでないような。目の奥をのぞきこんでも、そこには濁った、不透明な、漠然としたものしか浮かんでいない。そういう子供と、わたしたちは意志の疎通を行うことができるのだろうか。そういう怖さだ。


では、怖いことをする子供は、怖いのだろうか?
まず、あらかじめ断っておくと、わたしの場合、子供の領分を侵そうとする大人に対して、非常に理性的ではない部分での、反発というか、激しい憤り、みたいなものがあって、大人になってもその部分が未だ克服できていないような気がする。だからこの部分に対しては、あまりニュートラルなものではないことを理解してほしいのだけれど。

殺人を犯す子供、というのは、ミステリやホラーにはいくつか出てくるのだが、わたしの感想でいうと、そういう子供はあまり怖くはない。むしろ多くの場合、その子は周囲によって追い詰められ、その結果、自分が崩壊するか、相手を崩壊させるかしかなくなるところまで行き、その解決策としての殺人、ということになる。このとき読む側は子供のほうに感情移入してしまっているので、その殺人は、逆に一種のカタルシスなのだ。

その代表的な作品が、サキの『スレドニ・ヴァシター』(この作品では、主人公が手を下すわけではないが)であり、パトリシア・ハイスミスの『すっぽん』だろう。

 

ここでは、その短編『すっぽん』を紹介する。

ヴィクターは絵本の挿絵画家である母親とふたりで暮らしている十一歳の少年である。
この母親というのが困った女で、ヴィクターに、昔の絵本に出てくるヨーロッパの貴族の男の子のような格好をさせたがる。おかげで寒いなか、半ズボンにハイソックス、という格好のヴィクターは、外にも出ていけないし、周囲にもバカにされて、友だちもできない。母親にどんなに訴えても、彼女はいつも上の空だ。

その母親がある日、生きたスッポンを買ってきた。それでスープを作るのだという。ヴィクターはつかのま、スッポンと一緒に遊ぶ。スッポンは何を食べるんだろう? レタスはどうかな。

 ヴィクターは途方に暮れ、台所の中を見まわした。やがて、居間の床に日が射し込んでいるのに気づくと、彼は鉢を持ち上げて居間へはこび入れ、スッポンの背中に日が当たるように鉢をおいた。亀やなんかはみんな日光が好きなんだ、とヴィクターは思った。彼は横向きになって床に寝そべり、頬杖をついた。
 スッポンは一瞬彼を見つめたが、やがて非常にゆっくりと、用心しいしい脚をのばして前へすすみ、鉢の丸い境目にぶつかると右へ曲がった。浅い水からからだが半分だけ飛び出した。
 どうやら外へ出たいらしい。ヴィクターは片手でスッポンの両脇をつかんで言った。「さあ、外へ出て少し散歩してもいいよ」

(パトリシア・ハイスミス『すっぽん』『幻想と怪奇 1.』所収 ハヤカワ文庫)

このスッポンと遊ぶヴィクターの描写はなんとも微笑ましい。友だちがいなかったヴィクターに、たったひとりの友だちができたのだ。

夕刻、おつかいを頼まれたヴィクターが、家に戻ってみると、母親が大鍋に湯を沸かしている。なんとかスッポンを助け出すことはできないか。必死でスッポンを外に連れ出す口実を探すヴィクターの目の前で、母親はスッポンを煮立っている湯の中に投げ込んだ。

 これはなんだろう? この音はなんだろう?
 ヴィクターはあんぐり口をあけたまま、鍋の内側にはげしく脚をたたきつけているスッポンをまじまじと見つめた。スッポンは口をあけ、その目は一瞬ヴィクターの顔をまっすぐに見返した。その顔は苦痛にのけぞり、ひらいた口は煮えたぎる湯の下に沈み――それで万事おわりだった。……
 彼は母親をじっと見つめた。母が手を伸ばしかけると、彼は一歩あとじさりした。スッポンのあんぐりあいた口を思い浮かべると、彼の目はとつぜん涙でいっぱいになった。スッポンは悲鳴を上げていたんだが、お湯の煮えたぎる音で聞こえなかったんだ。あのときスッポンはこちらを見上げたけど、助けてもらいたかったんだ。それなのに、ぼくは手をさしのべようともしなかった。ぼくはママにだまされたんだ……。彼はふたたびあとじさりした。「いやッ、さわらないでッ!」
 母親はすぐさま、思い切り彼の頬をぴしゃりとたたいた。

夜中になってもヴィクターは眠れない。闇の中にスッポンの顔が、大きく浮かび上がってくるのだ。ここから出ていきたい。けれど、窓から飛び出して、空中を漂うことさえ、母親に押し留められるにちがいない。そう思ったヴィクターは、台所に行って、包丁を取り出す……。

とても悲しい結末だけれど、ヴィクターを思って胸を痛めても、ヴィクターを怖いと思うことはない。
子供というのは、大なり小なり大人の理不尽さの犠牲になっているのだ。ときに家庭という密室での理不尽は、親にその意図がなかったとしても、子供のある部分を、確実に殺していく。
その子供は、同時にわたしたちが受けた理不尽さの代弁者でもあるのだ。たとえ子供が反撃に転じたとしても、どうしてそんな子を「怖い」と思えるだろうか。


さて、怖いと言えば、内田百閨B『冥途』のなかの一篇、『柳藻』に出てくる女の子は怖い。
これは従来から指摘されていることだが、夏目漱石の『夢十夜』の第三夜、「背負っている六歳の童子が百年前に自分が殺した目くら(原文ママ)であったことがわかって、急に重くなってしまう話」が、その核にある物語である。

お婆さんが女の子を連れて歩いている。「私」は、あとからついていく。女の子の手を引こうとすると、泣きそうな顔になって「私」を拒む。「私」は婆を打ち殺す。そうやって、女の子の手を引いて歩いていくうちに、女の子の手がだんだん冷たくなってくる。泣き声で、歌を歌い始めるのだが、その声は老婆のものだ。手を力いっぱい握りしめると、冷たい手がぽきりと折れる。女の子だと思ったら、老婆だった。

それだけの掌篇なのだが、これは怖い。荒涼とした不気味なイメージのなかに、不安と恐怖が詰め込まれている。
ストーリーや因果関係というものが、どれほど怖さを緩和するものなのか、このひどく空白の多い物語を読むと、逆によくわかるような気さえする。

ここでわたしたちがこの女の子が怖い、と思うのは、「私」が怖がっているからだ。「私」の恐怖を受け取って、読んでいる側も、ゾッとする(そして、この恐怖を感じない読者にとっては、この作品も何がなんだかよくわからないものだろう)。


さて、ここでもまとめてみよう。
1.子供の怖さの根拠を、邪悪、悪魔の化身などという生来的なものに求めても、それだけでは説得力を持たない(少なくとも文化的基盤を異にするところでは、受け容れられない)。
2.子供がたとえ怖い行動に出たとしても、因果関係が鮮明であるときは、その子供に恐怖は感じない。
3.子供が周囲の大人や環境を写し出す鏡として働くとき、作中人物はその子供に恐怖を覚える。そのとき読者も怖くなる。

そう、子供そのものは怖くはないのだ。見ている大人が、その子供のなかに何を見るか、によって、怖さは決まってくる。
これは、あらゆるものに当てはまる公式である。昔のひとはこう言った。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」


3.自分がコワイ

その昔、わたしはたまたまビデオ屋で『シャイニング』と『モスキート・コースト』、二本のビデオを借りて、続けて観た。
二本目の『モスキート・コースト』を観ながら、ひっくり返りそうになってしまった。
これは、同じ物語ではないか!

1.理想主義的で影響力の強い父親、優しい母親、賢い長男という家族構成の一家が、文明社会から隔絶された新天地に移住する。
2.パラダイスであるはずのその地で、父親は少しずつ精神の平衡を欠いていく。
3.長男は一家を守るため、結果として父親を死に追いやり、家長として文明社会に復帰する。

スティーヴン・キングの原作の『シャイニング』、わたしはこの作品の根底には、エリザベス・ボウエンの『猫は跳ぶ』があると思っているのだが、『猫は跳ぶ』同様、一般的には「幽霊屋敷もの」に分類されるべき作品だろう。
原作の怖さの中心は、あくまでも山奥のホテルの不気味さ、そこに残っている、人間の怨念の禍々しさだ。主人公の少年の持つ「かがやき」が禍々しさを呼び覚まし、力を与えてしまう。そうした場所に、同じようにかつて「かがやき」を持っていたはずの父親は呑み込まれていくのだ。

映画が強調するのは、次第に狂気に陥っていく父親の姿だ。その結果、映画のホテルは、不安感を煽る舞台にはなっているけれど、ホテルそのものが何かするわけではない。原作ではホテルの崩壊とともにハッピー・エンディングが訪れるけれど、映画はそんなものは約束しない。

いっぽう、『モスキート・コースト』、これはホラーではまったくないのだが、映画と原作の物語の大筋は同じでも、映画はこんなに穏やかに描いちゃいけない、といいたくなるほど、原作はシビアだ。
ユートピアなどどこにも存在しないのだ、求めてはならないのだ、と、これ以上ないほど痛切に思い知らされる。後にユナ・ボマーが現れてアメリカを震撼させたけれど、わたしがユナ・ボマーのニュースを聞いて、まず思い出したのは、『モスキート・コースト』の父親だった。文明に対する感じ方も、結局は白人至上主義的なところも、ひどく似たものに思えたのだった。
父親のユートピアの夢から逃れるために、死に瀕する父親を見捨てる(結果的に「父殺し」を果たす)主人公の心の動きが、痛かった。


さて、この「父親がコワイ」系列の物語はほかにないだろうか、と考えたら、やはり先にもにあげた夏目漱石の夢十夜』の第三夜に行きつく。

背中におぶった六つの子供は、自分を「御父さん」と呼ぶし、確かに自分の子のようだ。ところが言葉遣いは対等だし、どうやら何もかも見通しているようでもある。

 何だか厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言のように云っている。
「何が」と際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。

(夏目漱石『夢十夜』)

この子供は、いったい何者なのだろう。
背中の子供は「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と言う。
自分は百年前に、人を殺したのだ。

ここに、一種の〈父親殺し〉の物語を読みとることができる(※子の部分の詳しい考察は「『夢十夜』「第三夜」を考える」にて)。
自分が背負っているのは、かつて自分が殺した父親である。それは同時に、自分の子でもある。
自分のなかには、拒むこともできない、父親の血が流れ込み、そうしてそれは否応なく、自分の子にも受け継がれていく。父祖を持ち、子孫へと受け継ぐこの「血」というものは、見方を変えればひどく不気味なものではないか。

『モスキート・コースト』でも、『シャイニング』でも、社会から隔絶された場所で父親はどうして精神のバランスを欠いていくのだろうか?
社会の中で生きているときには外に向けられていた意識が、自分の秘密の部分、普段、向き合うことをしなかった部分と向き合ったためではないのか。

自分の内にある、わけのわからないもの。
もしかしたら、百年前に人を殺した、その記憶かもしれない。そのくらい、得体の知れない、わけのわからないもの。
それは、自分のなかに流れ込んでいる、父祖代々受け継がれてきた「血」。

自分に流れ込んできた「血」に向き合ったとき、それが受け容れがたいものであれば、それは、さらに自分を経て、受け継がれていく次の世代の「血」に、怒りの矛先は向かうのではあるまいか。
コワイお父さんが息子に向かっていくのは、血を途絶えさせるためなのだ。

コワイのは、自分なのだ。
自分を襲おうとする禍々しいものは、幽霊や悪魔として、自分の外側にあるものではない。
たとえ何か「出た」としても、それが「出た」のは、自分がそこにいるからなのだ。

* * *

ツヴェタン・トドロフは、超自然現象を扱う物語を三つのカテゴリーに分類している(『幻想文学論序説』創元ライブラリ)。
1.驚異:合理的に説明しようのない、超自然現象が起こる。
2.怪奇:合理的説明が可能なもの。
3.幻想:合理的な説明と、超自然現象の間で、物語は決定不可能。

そうしてトドロフがあげる「幻想」の例は、先にもあげた『ねじの回転』だ。
「驚異」の物語と読めば、幽霊は実在し、家庭教師の娘は、超自然の悪を向こうに回して、雄々しく闘う存在である。
「怪奇」の物語と読めば、幽霊は娘の病んだ精神の生み出したもので、それによって子供を死に追いやったことになる。
「幻想」と読むとはどういうことか。この物語はそもそも曖昧な、どちらともとれるものである、とすることだ。けりをつけず、曖昧なまま、受け容れることだ。

『ねじの回転』ばかりでなく、『黄色い壁紙』もその系譜に属する。

怪奇物語には、幽霊屋敷であったり、動物であったり、普段、とくになんとも思っていなかったものたちが、突然、牙を剥いて襲いかかってくる、という種類のものがある。
それも、驚異(家に怨念が籠もっている、おそろしい化け猫だった……)に属するもの、怪奇(主人公が実は殺人を犯していて、後ろ暗いことがあったので、、本来ならなんでもないものに、自分の後ろ暗さを投影してしまった)に属するもの、そうして、その両方の間で揺れ動くものがある。

わたしたちが怖い、と感じるのは、1よりも2よりも、3ではあるまいか。
たとえ、いくら怖い描写がなされていても、それなりに説明がついて(たとえ合理的でなくても)、話にけりがつきさえすれば、すっきりと終わることができる。本をぱたんと閉じて、普段の生活に戻ることができる。

けれども、どちらともつかない物語、決定不可能なまま、揺れている物語は、わたしたちを落ち着かせることはない。

しかもその怖さが、外側から来るものではないとしたら。驚異を生み出しているのも、普段気がつかないでいる自分の一部、わたしたちが勝手に見て脅えているのも、実は自分の知らない一面を写し出す鏡だとしたら。 本を閉じて終わりにしようにも、そんなことはできないのだ。
わたしたちは、出口のない迷路に取り残されたままだ。
さっき見たと思ったものは、なんだったんだろう。
自分が呼び出した幽霊か、鏡に写った思いもよらない自分の姿か。
わからない。こんな疑問には、答えようがない……。

そこに、何が見えていますか?





July.27-31,2005





※ご意見・ご感想こちらまで