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病院であった人々



病院


わたしは喘息という持病を抱えている。
発症から四半世紀を超え、それなりに症状も安定し、完全に治るということはないけれど、うまくつきあっていくすべを学びつつある、といったところだ。

検査入院も含めれば、入院した回数も、かなりにのぼる。
病気というのはやっかいなものだけれど、反面、そうでなければ出会うこともないような人たちに会うことができた。
そうした忘れられない人たちのことを、ここで描いてみたい。


1.あるおばあさんの話


このあいだ入院したときは、こちらの体調があまりよくなかったのは最初の日ぐらいで、あとは、朝早くに検査のために病院のなかを右往左往するほかは、ベッドに腰掛けてパソコンを開き、せっせと仕事をしていた。その部屋は小さな三人部屋だったのだけれど、どの人も入ってすぐの、言ってみれば「処置待ち」の部屋だったようだ。

入り口から一番離れた、窓際といっても、窓を開けても見えるのはすぐ隣のビルの煤けたコンクリートの壁だけ、という場所がわたしのいたベッド。それとまったく同じベッドが、カーテンの間仕切りの向こうにふたつ並んでいる。日中でも閉め切ったままのカーテンの向こうにどんな人がいるのか、うかがうことはできなかったけれど、まず、看護婦さんの話しかける調子から、高齢者であることが知れた。

おばあちゃん、とは、さすがに呼びかけないけれど、「○○さん!」という呼びかけからして、すでにわたしなどに対するものとはちがう。
「○○さん、おはよう! 昨夜、どうやった? ちゃんと寝られた?」
必要以上の大声は、耳の遠い相手にはありがたいのかもしれない。けれども、丁寧語を省いたなれなれしい呼びかけ、まるで相手が小さい子供でもあるようなしゃべり方は、優しい、とか、親しみを込めた、というよりは、逆に、上から押さえつけるような、強圧的な物言いのようにも思えた。
「そうなん? それはあかんね。先生に聞いてみようね」
看護婦さんが変わっても、そのしゃべり方はみな同じ。いったいどうしてこのような話しかけ方が定着したものだろう。

それでも看護婦さんと交わす声から、同室の人のおおよその様子は察することができた。
入り口脇の人は、ほとんど寝たきりで、何か聞かれても弱々しい声で答えるだけだったけれど、真ん中の人は、ずいぶんはっきりとした口調だった。朝の検温で、回ってくる看護婦さんに体温を告げる声も、問診のときの返事もしっかりしている。声を聞くだけでは、退院も早そうな感じだった。

わたしが入った翌日のこと。
午前中の巡回検診も終わり、昼食までの静かなひとときだった。

同室のおばあさんふたりが、横になったまま話を始めたのだ。
まず口火をきったのが、隣のおばあさんだった。 病院での自己紹介というのは、自分の病状を告げるところから始まる。自分はどこが悪くて、いつごろから悪くなり始めて……、といったところから、主治医の話、前にかかった病院の話、とひとわたり話したところで、どこがお悪いんです、と相手の容態を尋ねる。
そうした一連のやりとりを経たのち、隣のおばあさんは、わたしなんかこれまで苦労ばっかりでしたわ、と、自分のことを話しはじめた。

わたしはどこそこの生まれで、と出身地を告げたあと、そこの小学校を終えて奉公にいったこと。奉公先の奥さんがきびしい人で泣かされたこと。それでも生活は楽しかったこと。やがてそこの主人の口利きで、出入りの職人と結婚したのだけれど、その相手が酒飲みで、ひどく苦労させられたこと。やがて戦争が始まり、夫は出征し、残った自分は工場で働いたこと。やがて話は戦後の窮乏生活に及んでいった。

話自体は、さして目新しいものではなかった。似たような話なら、いくつも読んだことがある。驚いたのは、本で読む「歴史的なできごと」を、実際に体験した人が、わたしの隣にいる、ということだった。

おばあさんは、おそらくこうした話を、何度も繰りかえしてきたのだろう。自分で編んだ自分の物語。何度も取り出して並べなおした、さまざまなできごと。時間のなかで、それぞれのできごとの角は取れ、手ずれで表面はなめらかになり、ひとつひとつのちがいさえもはっきりとはしなくなっているけれど、繰りかえして話すたびに生き直されたさまざまな「時」。

そのおばあさんが何歳だったのか、わたしは知らない。けれども明治が終わった1912年以前に生まれた人が、いまなおたくさん生きているのだ。

明治時代、大正時代どころか、戦前のことさえ、わたしにとっては、「いま」の地続きというより、本に出てくる世界、歴史の世界という印象なのに。
「奉公」という言葉や、「出征」「勤労動員」という言葉を、実際に生きた人がいて、現に、わたしのすぐ隣にいる。
それはひどく不思議な感じだった。

もうひとりのおばあさんは、聞いているのかいないのか、相づちもいつのまにか返ってこなくなっていた。それでも、話しているおばあさんは、蚕が糸をはきだしながら繭を作っていくように、自分の物語を紡ぎ続けていた。

まるで、その繭のなかに、おばあさんが生きてきた「時」を、自分の身体と一緒に封じ込め、新たに再生するときを待とうとするかのように。

看護婦さんたちが、高齢者に対して、あたかも幼い子供に向かうような接し方をするのは、年を取ることを子供に、さらには赤ん坊に還ることというメタファーで理解しようとしているからなのではあるまいか。赤ん坊に還り、さらには、赤ん坊が出てきたところに戻っていくのだ、と、どこかでそう思いこもうとしているのではあるまいか。
切り立った崖に向かって、まっすぐに歩いていく、というメタファーで人の生を捉えるのは、ある意味、恐ろしいことだ。それよりは、円環するもの、「行く」のではなく、「還る」ものだととらえていくほうが、よほど〈老い〉にしても〈死〉にしても、受け入れやすい。
日常的に〈老い〉や〈死〉に接しながら生きる人の、それは一種の知恵なのではあるまいか。

同時にこれはまた、日本人が昔から受け継いできた死生観でもある。
小さな子供に、おばあちゃんの生まれ変わり、という。
虫のなかに生まれ変わった人を見る。
こうした死生観は、「奉公」という言葉が当たり前のように使われていたその当時と、それほども隔たってはいない。

過去は、歴史は、過ぎ去ったように見えても、いろんな形でいまに現れている。 わたしはそんなふうに思ったのだった。


2.履歴書


病院の夜は早い。十時には消灯になり、病棟全体が静まりかえる。そうなると、ちょっとした物音や話し声がよく響いたりする。

ナース・ステーションの隣の病室に入院していたことがある。
ナース・ステーションからは、よく看護婦さんの雑談が聞こえた。声を抑えているために何を言っているかまではわからなくても、どうかすると人の名前がはっきりと聞こえてきて、それが自分の担当医だったりすると、ああ、うわさ話をしているのだな、と思ったりした。そういうときはいかにも楽しそうで、ときおり抑えきれないような笑い声が混ざる。 翌朝、朝の挨拶をしながら検温にやってくる、夜勤明けでファンデーションの滲んだ看護婦さんの声を聞いて、ああ、この人が昨日あのお医者さんの悪口を言っていた人か、と思ったりした。

夜中、話し声に目が覚めたこともあった。
若い女性の声が、ね? ね? と何度も念押ししている。
聞こうと思ったわけではなかったが、看護婦さんの雑談とはちがって、抑えようという意識のない話し声は、隅々まではっきりと聞こえてくるのだった。

自分が何を言っても「主人」は上の空。
自分は小さな子供の面倒を見るのに手一杯なのに、何もしてくれない。
おまけに「主人」はああもした、こうもした、だから実家へ帰った。
そうしたら、「主人」のほうから離婚を切り出された……。
「わたし、悪くないですよね? ね?」

何度も繰りかえされる、ね? ね? を聞くともなしに聞きながら、わたしはいつの間にかまた眠ったようだ。

翌日、その声の主がわたしの隣の空きベッドに移ってきた。挨拶に来た彼女は、昨夜の話の内容よりよほど幼い外見をしていた。看護婦さんとの話から、わたしと同じ病気を発病したばかりだということがわかった。

カーテンで仕切られた向こうから、携帯吸入器を使う音がする。ただ、息を吸うタイミングがおかしい。「スプレーを押した瞬間、ハッと思いっきり息を吸い込むんです」とやり方を教えてあげた。
それをきっかけに、わたしたちは少しずつ話すようになった。

ところが彼女には見舞客がやたら来る。ふたりいる子供は、まだ小さいから、という理由で、お見舞いには来られないらしいのだが、彼女と同年輩の、男の子や女の子がひっきりなしに来る。そのたびに大きな声で話をする。泣いたり笑ったりしながら自分の生活をことこまかに話していくので、すぐにわたしも彼女の伝記が書けるほど、いろんなことを知ってしまった。
わたしの半生とはずいぶんちがう彼女のこれまでの日々。
そうして、その彼女は、わたしと同じ病気を抱えて生きることになったのだ。

わたしがもうすぐ退院、というころ、彼女が「お願いがあるんですけど」とやってきた。
退院したらすぐ、アルバイトを始めるのだという。
そのために履歴書を書かなければならないのだけれど、書き方がわからないのだ、と。
「学歴って、どういうこと? ここに何を書いたらええのん?」
「高校の入学年と、卒業年から書くといい。高校に入学したのは何年?」
「ええ〜? 何年やろ……」
「あなた、何年生まれ?」
「×年」
「早生まれじゃないね?」
「早生まれ? 早生まれ、って何?」
生年に十六を足して入学年を割り出し、書き込む。
その横に、○○高校入学、と書いたのだが、なんと高校名の漢字がちがっている。こうだよ、と教えてあげて、いきなりボールペンで書くのではなくて、最初は鉛筆で下書きした方がいい、とアドバイス。
入学年に三を加えて、じゃ、ここに△年、○○高校卒業、って書いて、というと、
「わたし、途中でやめてん」という答えが返ってきた。
わたしの知識のなかに、「中退」というケースはどう書いたらいいのかストックはなかったのだけれど、とにかく×年 ○○高校中途退学、と書くことにした。

ここで生まれ、ここでずっと育った彼女は、ここを離れてどこにも行ったことはないらしかった。バイトはいくつもしてきたけれど、いつでも知り合いの店での手伝いだったらしい。このように履歴書を出して勤める(それもパートタイムだったけれど)のは初めてなのだという。

「中退」が、何の略語かも知らない、中途の「途」も書けない。
わたしとさほど年もちがわないのに、ふたりの子供を抱え、いまは両親の実家に身を寄せているらしいけれど、離婚したあとはそのパートタイムの仕事で生活できるのだろうか。

退院してしまえば、接点のまったくないわたしたちである。病院の外来で顔を会わすことはあっても、それ以外で接することはもうないだろう。
この履歴書が、彼女の仕事に少しでも有利に働くように、わたしは「資格」や「特技」の項目に知恵を絞った。
普通免許はある? 簿記とか何か、資格持ってない? そろばんは? 書道は段、持ってない?

彼女はタバコを吸うのだった。
看護婦さんにも、お医者さんの回診のときにも、やめるように言われながら、その当時はまだ病棟の外れにあった喫煙所でタバコを吸っているところを何度も見かけた。

退院前に、わたしは自分がもらったお見舞いのお菓子を彼女にあげて、タバコだけはやめるんだよ、と言っておいた。喘息持ちが、タバコなんて吸ってたら、死ぬよ。
わかってるんだけどねー、と、気の弱そうな笑いを浮かべる彼女に、やめるんだよ、ほんとに、脅しじゃないんだからね、子供残して、死にたくないでしょ、ともういちど脅してから、わたしたちは住所交換して別れた。

退院してから気になって、パートはどうなった? とハガキを出してみた。まいにちはたらいています、というキティちゃんの絵ハガキの宛名は、わたしの名前の漢字を一度まちがえて黒くぬりつぶし、その横にもういちど書き直していたのだけれど、その字もやっぱりちがっていた。


3.牢名主と騒動


わたしの経験では、病棟は、階やブロックで男性の病室と、女性の病室が遠く隔たっているところが多かったけれど、一度入院した小規模の病院では、廊下を隔ててすぐ向かいが男性の大部屋だった。

病院の生活というのはまったく単調なものだ。
朝の検温があって、外来が始まる前の時間に検査を受ける。それから回診があって、あとはもうすることがない。
三度の食事はこうした毎日のなかでのささやかな楽しみなのだった。

食事はいつもステンレスの大きなカートで運ばれてくる。
その病院では、エレベーターからカートが出て来るや、毎度、牢名主のようなおじさんの「メシが来たぞ〜」という怒鳴り声が、あたりに響くのだった。
もちろん病室まで賄い婦さんが運んでくれることになっている。だが、そのおじさんの声で、立ち居に不自由のない入院患者の多くは、ぞろぞろと病室から出てきて、自分の名札がついたお盆を持って、病室に帰っていくのだった。なかには点滴スタンドをずるずる引きながら、片手でお盆を運ぶ人もいる。そんな人には、その牢名主のおじさんが、手助けをしてくれるのだった。

おそらくお盆の名札で覚えるのだろう、牢名主はほとんどの患者の名前を知っているらしかった。
食事がすんでお盆を返し、それから歯を磨きに行きかけたわたしは、あるとき牢名主に呼び止められたのだった。
「* * さん、あんた、学生か」
たぶんそこに来て、三日目かそこらだったのだと思う。職員でなく、自分の名前を知っている人間がいることに、何か落ち着かない感じがした。
どこの大学か、と聞くので、なんで答えなきゃいけないんだろう、とは思ったが、なかなかうるさ型のようにも見えるおじさんに逆らうのもめんどくさいので、とりあえず答えておいた。
そこならよく知っている、うちのところの若いモンも、そこを出たやつがおるからな、と、どうやら自分が会社の経営者であることを言いたいらしかった。わたしが何も言わないので、自分の会社が何をやっているか、どういうところと取引があるのか、と、話しはじめた。
困ったなー、まだまだ話を聞かなきゃならないのかなー、と思っていると、通りかかった看護婦さんがわたしを救出してくれた。「ほらほら、××さん、若いお嬢さんを困らせちゃダメよ」
それからその看護婦さんはわたしと並んで歩きながら
「××さんは、ここ、長いからね。悪い人じゃないんだけど、退屈してるのよ」と教えてくれた。

エレベーターホールには、本来はお見舞いの人のためのものなのだろう、自販機やソファが置いてある一角があった。そこには例の牢名主や、ほかにもどこが悪いのか、どう見ても元気そうな若い男性が数人、「とぐろを巻く」ということばがまったくふさわしい様子で、よくたむろしていた。傍を通りかかると、ぶしつけな目でこちらをじろじろ見る。それがいやで、検査のときもなるべく階段を利用して、その近くには近寄らないようにした。

ある昼下がり、病室のベッドで本を読んでいると、廊下の向かいの大部屋から、病院には場違いな男の怒鳴り声が響き渡った。自分のところからのぞいてみると、崩れたスーツ姿のふたりの男と、例のエレベーターホールでとぐろを巻いているメンバーのひとりが、あわやつかみ合い、という状態になっている。とぐろの両腕を、後ろから抱えているのが牢名主だった。

そこへ事務長が走ってやって来た。
事務長といっても、若い男性で、わたしが入院の手続きをしたとき、いろいろ教えてくれたのがそのお兄さんだった。しゃべり方にしても動作にしても、何となくフェミニンな感じのする男性で、女性の多い職場で働くとこんなふうになるのかな、と思ったのだ。 ところが「ここと、ここに記入してくださいね」という、穏やかな物腰の、自分とそれほど年も違わないような相手の名札には「事務長」とある。このお兄さん、偉いんだ、と思うと、わたしはなんとなくおかしくなったのだった。

ところが、そのフェミニンな事務長は、毅然とした態度で見舞客に向かって出ていくように告げ、ワシはそいつに用があるんじゃ、という相手に対して、胸と胸、鼻と鼻がふれあわんばかりの位置まで迫り、にらみ合ったのだった。
「警察を呼びますよ」という最後通牒に、とうとう相手は顔を伏せ、奥に向かって「また来ちゃるからな」と捨てぜりふを残して帰っていった。その捨てぜりふに、また何か言い返し、あとを追いかけていこうとするとぐろにたいして、牢名主が「おまえも落ちつかんか」と宥めた。

実は、そんな騒ぎを見たのも生まれて初めてだったわたしは、やるじゃん、と感心して、事務長の方を見た。事務長は、おさまりきらないざわめきの余韻のなかで、つっ立ったまま、自分のぶるぶる震えている両手を見ていたのだった。


4.病院で働く人たち


また別のときのこと。
眠れない夏の晩、窓を開けて、病院の看板を照らす白色灯をスタンド代わりに、本を読んでいた。
目の前を環状線の高架が走り、車が通るたびに、ビュン、と音がしてコンクリートの壁が振動する。そのコンクリートを、わたしの病室の真下にある救急の赤いライトが、くるくる回りながら照らしていた。

ふっとタバコの煙がただよってきて、窓から見下ろすと、救急のライトの下で、白衣姿の男性が三人、地べたにしゃがんでタバコを吸っていた。ちょうどコンビニの前でたむろする高校生そっくりの格好だった。車が通りすぎるときの風に乗って、話し声がときおり運ばれてくる。

突然、三人ともいっせいにタバコを缶に投げ捨てて立ち上がった。微かに聞こえる救急車の音が、だんだん近くなる。三人とも道路まで出て、救急車を待ちかまえていた。しゃがんでいたときは丸まっていた背中が、いまは空気を吹きこまれでもしたように、緊張して、ぴんと伸びていた。

救急車がバックで入ってくる。車から降りてき救急隊員と話をする人、後ろの扉を開けて、ストレッチャーを押す人、奥から看護婦さんも走って出てきた。

そのときの、一挙手一投足がつぎのことに結びついていくような、一切の無駄を排した敏速な動きは、長く心に残った。後にアン・タイラーの『アクシデンタル・ツーリスト』(真野明裕訳 早川書房)のこんな一節を読んだとき、このときの記憶は改めてよみがえってきたのだった。

あのときは冬だったんだけれど、窓辺に建って外を眺めていると、自分が今暖かくて安全なところにいるってことが、なんだかとっても嬉しくなってきたりしたものよ。よく救急病棟の入り口を見おろして、救急車がやって来るのを見てたわ。もし火星人がたまたま救急病棟の近くに着陸したら、その火星人はなんて思うだろうなんて考えたことない? 火星人は、救急車がサイレンを鳴らして飛び込んで来ると、みんなが機敏にそれに対処して、救急車のドアを開け、担架を持ち上げて急いで運ぶのを見るわけよ。“なんとなんと”って火星人は言うでしょうね。“なんて甲斐甲斐しい惑星なんだ。なんて甲斐甲斐しい生きものなんだ”って。火星人は、わたしたちがいつもそんなふうにしてるわけじゃないとは思わないの。で、“なんて甲斐甲斐しい種族だろう”って言うわけ。

救急車

中学のときだった。
夜中、眠れないまま横になって、自分の抱える病気のことや、家族のこと、これからのことなど、いろいろ考えていると、ふいに不安に胸が押しつぶされそうになって、横になっていられなくなったことがある。

起きあがって階段を下り、玄関脇の自動販売機の明るい光に引き寄せられるように、そちらへ歩いていった。そこへ、奥から白衣姿の男性が歩いてきた。

わたしはその検査技師さんを知っていた。
小学校のときの同級生のお父さんだったのだ。何度か家へ遊びに行って、夜勤明けか何かで家にいるそのお父さんと一緒に、モノポリーや人生ゲームをやったのだ。確か、花札も教えてもらったような気がする。「いのしかちょう」という言葉をわたしが知っているのも、後にも先にもただいちどきり、このかずちゃんのお父さんに教えてもらったときの記憶だ。

かずちゃんのお父さんもわたしのことを覚えていて、耳から採血をしながら、あるいは心電図を取りながら、中学のことを聞かれたり、かずちゃんが入ったという軟式テニス部の話を聞いたりしたのだった。

かずちゃんのお父さんは、わたしの分のジュースも買ってくれて、誘われるままに奥の検査室についていった。そこで、たぶん、顕微鏡をのぞかせてもらったりしたのだと思う。
ジュースを飲んで、ちょっと話をして、それからわたしは自分の病室に戻るためにその部屋を出た。非常灯だけがともる暗い廊下で、検査室を振り返ると、腰の高さにある横長い磨りガラスがはまった窓から、検査室のオレンジ色の灯があたりを照らしていた。

わたしが寝ているあいだも、かずちゃんのお父さんはそこにいるのだ、と思った。
ほかにも、この病院のなかには、さまざまな人が起きているのだ、と。
そんなふうに、わたしが寝ているあいだにも、起きている人たちがいて、そういう人たちがわたしを守ってくれているのだ、と思った。
たとえ、わたしが気がついていなくても。
わたしのところからは見えなくても。

だから、わたしは生きていける。わたしは大丈夫。

いまでもわたしは、暗い廊下を照らすあのオレンジの灯が、遠くでわたしを守ってくれているのだと、どこかで思っている。




初出May 03-06 2006 改訂May 07 2006




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