home この話したっけ>家のある風景



家のある風景



――風景はもともと今日の食物と同じように、色や形のあとに味というものをもっていたのみか、
さらにはこれに伴うていろいろの香りと音響の、忘れがたいものをそなえていたのである。
柳田國男 『明治大正史 ――世相篇』


鍵


1.中古「マンション」のご近所さん

英語を多少なりともかじっていると、どうしても「マンション」という言葉が使えなくなる。
「マンション」と言おうとすると、どうしても英語の mansion 、「大邸宅」とか「屋敷」という意味が頭に浮かんできてしまい、いかにカタカナの発音で「マンション」とはっきり言っても、心のどこかで“はぁ? あれがお屋敷だって?”という気恥ずかしさがこみあげてしまうのだ。

とはいえ、自分が住んでいるところを「うちのアパート」と言っていたら、用があって家まで来た人に「マンションじゃないですか」と咎めるように言われたことがある。
何かその人には自意識過剰、嫌味たらしい物言いに聞こえたようだった。
かといって、英語で相当する condominium をそのままカタカナ風に「コンドミニアム」と発音してみても、その言葉はまだまだ日本語になっておらず、一体何なのかもうひとつはっきりしないし、結局は可能なかぎり建物の分類を呼ばないで、どうしようもないときは、頭の中で「マンション」という言葉をカギカッコで括って使うことにしている。当然そのカギカッコはほかの人には聞こえないわけだけれど。

ともかく現在わたしが住む「マンション」は、建った当時は最新型だったのだそうだが、四半世紀を軽く超え、いまや押しも押されぬ「中古」物件である。
界隈のあちこちで、大規模高層住宅の建築ラッシュが続いているために、遠くから見ると、あたりの最新型「マンション」とはまるでちがう、時代がかった色と形は、そこだけ取り残された昭和の高度経済成長期の化石のようでもある。
ともかくまあそういうところにわたしは住んでいるのだ。

すぐ脇を交通量の多い道路が走っているけれど、反対側の一角には、まだ田圃が残っている。このあいだまで畑も残っていて、春にはキャベツ、夏になればトウモロコシやトマトがなっているのを見ることができたのだけれど、とうとう今年の春先に、アスファルトが敷き詰められて駐車場になってしまった。

田圃の向こうにはコンクリートで囲われた小さな川が流れている。
ときどき台所排水らしい洗剤とおぼしきあぶくが水面をおおっていることもある、相当に汚い川なのだが、川沿いの道からのぞいてみると、ぎょっとするほど大きい鯉が何匹も泳いでいるし、ところどころ、水面に突き出している大きな石の上には、甲羅干しをしている亀もいる。夕方になると、パンの耳をちぎって川の鯉にやっている人を見かけることもあるけれど、ハトも一緒に集まってきて、何にやっているのかわけがわからない。まぁパンの耳を持ってきている人からすれば、鯉だろうが、ハトだろうが、口があるのは一緒、食わせてやっている方から見れば、たいしたちがいはないのかもしれない。

道路の向こうの公園を根城に大量のハトがいて、「マンション」のベランダを別宅にでもされたら困るなぁ、とは思っているのだが、さいわい、ハトが来たのを見たことはない。ベランダの定期訪問客はスズメだけれど、たまにほかの鳥の姿も見る。

ここから少し離れた駅前では、夕方になると、スズメよりひとまわり大きな鳥が、空を暗くするほど飛び回り、びっしりと留まった電線は、その重さでたわんでいる。街路樹はどれも、スピーカーがついているのかと思うほど、耳を塞ぎたくなるほどのさえずりが木を揺らしている。まるでヒッチコックの『鳥』やスティーヴン・キングの『ダーク・ハーフ』を思わせるけれど、それは全部ムクドリだ。
その駅前の街路樹からやってくるのか、それとももっと近くに住処があるのか、ベランダでもムクドリはよくやってくる。一羽で見るときは、オレンジ色のくちばしがあざやかでかわいらしいのだが、ここに集まってこられてはこまるので、エサはやらない。
実はうちのベランダには、分不相応、というか、買ったときには1メートルほどだったのが、植え替えているうちに巨大化し、天井まで届く、もはや鉢植えとはとうてい言えないゴールドクレストの巨木があるのだ。そこに巣をかけられたら、ほんとうに困るのだ。
だが、よく遊びに来る鳥たちは、実は新居候補地の下見に来ているのかもしれない。

休みの日にベランダから「ピーヤーピーヤー」とえらくおおきな鳴き声がするので出てみたら、ヒヨドリだった。
ローレンツの本に、鳥は横向きが正面なのだ、といったことが書いてあり、そのときのヒヨドリは、おもいっきり横向きで、こちらに目を据えていた。もしかしたら、ヒヨドリに「ガン」をつけられたのかもしれない。

スズメ、ハト、カラス、ヒヨドリやムクドリ、たまに道路をスタスタと走っているセキレイと、中型・小型の鳥に混じって、界隈には一羽だけ、ひどく大きな鳥がいる。
田圃にダイサギが一羽、住みついているのだ。
魚を捕っているのか、川の水量が少ないときにはゆっくりと、まるで竹馬に乗っているように歩いているのを見かけることもある。
数年前、春先から夏にかけて、おそらくいつも見かけるダイサギとそれをひとまわり小さくしたような小型のダイサギが三〜四羽、連れだってたたずんでいたことがあった。あれは子供だったのだろうか、そんな姿を見かけたのは一度だけだ。子供たちは巣立っていったのか、それとも育たなかったのかは定かではないけれど、羽根を広げると二メートルは軽く越しそうな、まっ白い大型の鳥が、編隊を作ってゆっくりと飛んでいる姿は、なにか、遠い世界の風景を見ているようだった。
いまは一羽だけ、ベランダから見ていると、わたしの目の下を、ちょうどハンググライダーかなにかのように、すうっと滑るように飛んでいる。

朝早く、ベランダで洗濯物を干していると、屋上の手すりにダイサギが留まっていることがある。お気に入りの位置なのか、いつも同じ所に立って、頭を持ち上げて嘴を水平にして昇っていく朝日を見ている。
S字に曲がった首を伸ばして、一羽だけ、身の引き締まるような冬の朝の空気のなかでたたずむその姿は、微動だにせず、まるで彫像のようだ。
その姿を見ていると、わたしはつい、こんな想像をしてしまう。
この「マンション」が船、昔の大型船だとしたら。あの一羽だけのダイサギは、まちがいなく、風を切って進む船首の彫像だろう。

朝日に向かって大海原を進む、一艘の巨大な船。
船首に鳥の像をいただいて。


2.土足のままで


日本で生活する外国人は、もちろん自分が住んでいるところを「マンション」とは呼ばず、 condominium の省略形、condo(発音はあえてカタカナで書くと「コンドゥ」ぐらい)と呼ぶ。
わたしはその「コンドゥ」に招かれたことがある。

高校時代に英語を習いに行っていた先生は、アイルランド人とはいえ、日本人と結婚し、日本で生活を始めて四半世紀に及び、サンダル履きのエプロン姿で買い物カゴをさげてスーパーで納豆を買っているのを見かけるような人だったので、「在日外国人」の生活ぶりをこの人から知る、というわけにはいかなかった。

外国人は日本でどんな生活をしているのだろう。
家をどのように使って、何を部屋に飾っているのだろう。
「ホーム・パーティ」に誘ってくれたのは、それほどよく知らない人で、どうやら日本人の頭数をそろえるためだったらしいのだが、本来なら億劫になるような状況ではあっても、私宅を見ることができるという好奇心のほうがそれを上回ったのだった。

当日、一緒に誘われたケニーと待ち合わせてそこにおもむく。
オートロック式の、エントランスの広い立派な「マンション」だった。エレヴェーターで上がり、やぁやぁよく来た、とホストのマルコムに中へ通される。
はいていったローファーを脱ごうとして、“ウチはアメリカン・スタイルなんだ、靴のまま、あがって”と言われた。
見れば、確かにマルコムも、すでに集まっている先客たちも、全員、靴のまま、フローリングの床に立っている。わたしは驚いた。
一緒に来たケニーは、紐を結ばず垂らしている薄汚れたナイキのまま、どんどん中へ入っていく。わたしもあとに続こうとして、玄関の土間から、フローリングの床までの10センチあるかないかの高さに足を上げるのに、ものすごい心理的抵抗を覚えたのだった。

家の中に入っても、靴をはいたままでいることが、気になってしょうがない。
アメリカでなら、気になることもなかった「靴のまま」が、ここが日本だというだけで、ここまで気が咎める自分にも驚いたけれど、なにより、玄関と床のあいだに、一種の「結界」のようなものがあることに気がついたのだった。

玄関があり、入ってすぐの広めのダイニング・キッチンは、間仕切りがないまま奧のリビングへと続いていく。おそらく左手のドアの向こうにベッドルームが続く、4LDKのマンションなのだった。
間取りからいけば、日本ではよくある「マンション」である。
けれども、日本家屋の空間と、どこかが決定的にちがっていた。なんだろう、どこがちがうんだろう、といろいろ見ていたのだが、なによりも、体の大きなアメリカ人たちほぼ全員が立っていたために、天井がことのほか低く感じられたのだった。

パーティというからには「ホステス」と呼んだ方がいい、そこの家の奥さんのバーバラ(どうでもいいのだが、"Barbara" という発音は、どうやっても「バーバラ」には聞こえない。どう聞こえるかというと「バァ」というのが一番近い)が、わたしに飲み物を勧めてくれた。
ビールはここ(大型のポリバケツに氷がいっぱい詰めてあり、そこに缶ビールがどっさり入っていた)、オレンジ・ジュースはここ(ピッチャーに詰めてあった)、パンチはここ、と指さす先には同じくポリバケツである。
水色で、ふたつきの、よく掃除道具が入れてあったり、たまにゴミが入っていたりする、あのポリバケツ。それになみなみと赤っぽい色の飲み物が入っていて、輪切りのオレンジだかレモンだかが、ぷかぷか浮かんでいるのだった。
それをみんな平気な顔をして、ぶらさげてあるお玉ですくって飲んでいる。
わたしはアルコールを飲めないことがこれほどうれしかったこともない。
手近にあるグラスにオレンジ・ジュースを注ごうとしたら、それはオールド・ファッション・グラスでソフト・ドリンクを入れるものではない、と注意された。ソフト・ドリンクはこのグラスよ。
アメリカ人のこだわりと日本人のこだわりというのは根本的にちがうのだ、と思ったのだった。

初対面の人と、日本に来てどのくらいになる、とか、アメリカではどこに行ったことがある、といったありきたりの会話を交わしていると、何度か会ったことがある、別のところで英語講師をやっているゲイリーが、日本人のガール・フレンドを連れてやってきた。そのミカコとかミキコとかいう女の子は、わたしに向かって英語で挨拶してくる。
日本人相手に英語で話すのもたまらないなぁ、と思ったわたしの気持ちが通じたか、そのミカコだかミキコだかも、さっさとゲイリーと一緒にどこかに行ってしまった。

やがてわたしは平均年齢をひとりで押し上げているようなジョンという宣教師と、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローター・ハウス5』とジョゼフ・ヘラーの『キャッチ22』の比較について、えらく話しこんでしまったのだが、もらいにいったオレンジ・ジュースのピッチャーは、空になっていた。
ダイニング・キッチンとリビングルームには、およそ30人近くが立っていて、部屋も暑くてたまらない。バーバラにオレンジ・ジュースはもうない? と聞くと、あら困った、ウチにはもうないのよ、というので、わたしが買ってきてあげる、と外に出た。エレベーターに行こうとして、わたしはうっかり反対方向へ行ってしまったらしい。曲がると、目の前に非常階段に通じる鉄扉があった。そうして、その前では、ホストのマルコムと、ゲイリーと一緒にやってきたミカコだかミキコだかが抱き合っていたのだった。

"Excuse me,"(失礼)
とだけ言って、そこを離れた。後ろからマルコムが、エレベーターはあっちだよ、と教えてくれた。

オレンジ・ジュースを買って、部屋に戻ると、わたしがなぜ動揺しなきゃいけないんだ、と思うのだが、なんとなくバーバラの目がまっすぐに見られない。マルコムがチラチラとこちらを見ているのも鬱陶しく、オレンジ・ジュースを持ったまま、宣教師のジョンを探す。どうやらジョンは帰ったらしく、妙に疲れたわたしは腰をおろすことにした。
ソファには、わたしが一緒に来たケニーが、缶ビールを片手にひとりで座っている。
うしろのスピーカーからは、抑えた音でマイク・オールドフィールドの〈チューブラー・ベルズ〉が流れている。

だれかのカバンについているクマのマスコットをもてあそんでいたケニーが、この曲、知ってる? と聞くので、LP持ってる、と答えたら、いきなり、エクソシスト〜、とクマの首を半回転させた(映画「エクソシスト」のテーマ曲なのだ)。
見るとケニーの目のまわりは真っ赤で、相当酔っぱらっているらしい。
“クマちゃん、すわるかなー、あら、たおれた、もう一回、やってみよー”
とクマをなんとかすわらせようとしているのだ。

向こうではゲイリーと一緒にミカコだかミキコだかがベタベタしているし、さらにその向こうではマルコムがこちらを見ている。
スピーカーからは短いフレーズが何度も繰りかえされながら、繰りかえされるたびに、少しずつ少しずつ色合いを変えていく。やがてさざなみのような旋律は、徐々にうねりながら空中に立ちのぼり、空気を細かい音符で満たしていく。
向かいでは“クマちゃん、すわりなさい、すわるんだ、クマちゃん”と、あやしいろれつでケニーが繰りかえしている。
バーバラが、ピザ、食べる人は? と大声で聞いている。
わたしはなんだか頭がクラクラし、自分のローファーのつま先に乾いた泥がこびりついているのを見つけた。
土足で家の中に入ったからだ。汚れた靴のまま家に入ったから、ばちが当たったのだ。
そんな理不尽なことを考えながら、オレンジ・ジュースで酔うことがあるとしたら、まさに今の状態にちがいない、と思ったりしたのだった。


3.家出少女たち


同じ間取りで隣り合い、うっかりすれば間違えそうな同じ扉のドアを開けると、それぞれにまったくちがう空間が出現する、ということを最初に知ったのは、大学の寮生活だった。

自宅から通える大学にも受かってはいたけれど、なんとか親元を離れたかった。
その一心で「都落ち」したのである。
行った先では「自分、田舎はどこやの?」と聞く、中華思想の京都人たちが待っていたのだが。

半ば親とケンカするようにさんざんやりあって、授業料のほかの一切の援助は受けない、と宣言したのはいいけれど、とにかくお金がなかった。
カーテンフックだけ買ってきて、実家から取ってきたギンガムチェックのテーブルクロスにそれを直接ぶちぶちとつきさして留めた臨時のカーテンが、唯一の装飾のようなわたしの部屋だった。やがてそこに貸しレコード屋でもらったマイルズ・デイヴィスの白黒のポスターが、二番目の装飾となるのだが。
備え付けの机とベッド、入学祝いに親戚からもらったミニコンポ、あとは本棚の本をのぞくと、ほんとうに何もない部屋だった。

それでも他の部屋がとりたてて華やかだったり、インテリアに凝っていたりしたわけではない。せいぜいパステルカラーのカーテンがかかっていたり、キャラクターのついたクッションやぬいぐるみがいくつかベッドにのっていたぐらい、やはり寮というのは、そこで生活する場というよりも、単に寝に帰る場所だったのかもしれない。

下宿に遊びに行ったことも何度かあった。

町家に下宿している子がいた。
「ナントカ通りカントカ小路上ル」という、いかにも京都らしい地名の住所をたよりに訪ねていくと、車一台やっと通れるぐらいの広さしかない通りのくせに、路上駐車のやたら多い道だった。向こうから来る車を避けるためにやたら立ち止まりながら、目指す住所に着いてみると、今度は家と家の隙間、暗い中をどんどん入って、途中、中庭を行き過ぎ、さらにまた暗い隙間を奧へ奧へ行った先に、やっとガラスの引き戸があった。立て付けの悪いガラス戸を、ガタガタいわせながら開け、玄関のたたきで靴を脱ぎ、妙に立派な下駄箱のなかに靴を収めると、目の前にある細い急勾配の階段を上っていく。
玄関も暗く、階段も暗く、壁の電気のスイッチを入れようとすると、「ダメダメ、電球が入ってない」と友人は言うのだった。なんでも大家のおばあさんがやたらケチで、下宿生たちが住む建て増し家屋は、共有部分の電球が全部外してあるのだという。
奥まって外光が入らず、昼間でも暗いコンクリのたたきや細い階段が、夜になればどれほど暗いだろう。危ないなぁ、と思わずにはいられなかった。

部屋に入ると、手を伸ばせば届きそうな裏の家の窓から、人の頭がこちらを覗いている、と、ぎょっとしたら、それはマネキンの頭部だった。
「あそこに美容専門学校に行ってる人がいるみたい。あれでいつもヘアメイクの練習してるらしいんだけどさ、わかっててもあんなふうに窓辺に置かれてたら、やっぱりギョッとするよ」
そう言われてみれば、薄笑いを浮かべた鼻の高いその人形は、茶色っぽい髪の毛に、びっしりと細いカーラーを巻いていた。すっぽりと頭を覆うカツラではなく、マネキンの頭に植毛してあるタイプのものらしかった。一瞬、怪談にありがちな、人形の髪の毛が伸びる、というような話を思い浮かべたりもした。

その下宿は、玄関や階段こそ暗かったものの、南向きの窓は大きくて、畳敷きの六畳間には、秋の金色の日差しが、部屋の三分の二ほどまで差し込んでいた。窓からは軒をつらねた家々が見えるばかりだったが、どこも低かったせいか、二階の部屋の日当たりだけは、申し分がなかった。
話していると、咳払いがふすまの向こうから聞こえてきて、ふすま一枚隔てた向こうには、別の人間が生活しているというのも、さぞ気を遣うことだろう、と思った。そう思って聞くともなしにけば、本のページをめくる音さえ聞こえてくるのだ。

手を伸ばせば届くような場所にも人が暮らし、ふすまの向こうでも人が暮らす。顔見知り、挨拶ぐらいはするのだろうが、それでも赤の他人である。そこでの暮らしは、さぞ息を潜めたものになるだろう。事実、そこに入ってから、わたしも友人も、ささやき声でしか会話を交わしていないのだった。

窓のない部屋で下宿生活を送る友人もいた。
そこは町家が並ぶ地域ではない、ゴミゴミと低層のビルや、戸建て住宅が雑多に並んでいる地域だった。そこであらかじめ学生下宿として建てられたその建物は、玄関を入り、階段をあがっていくと、ちょうど柄のまっすぐな歯ブラシのように、廊下が一本通って、そこにドアが一列に面して並んでいる。そのドアを開けると、個人の部屋になっているのだった。

その下宿は最近内装を新しくし直したらしく、室内はまるでログハウスのように、剥き出しの板張りだった。赤っぽい色のパイン剤が部屋一面を覆っていて、電灯をつけるとその壁が反射して、かなりなまぶしさになる。作りつけのベッドも同じ材質でできていて、そこに白い丈の低い家具を置いていた友人の部屋は、なかなかおしゃれないい感じの部屋だった。
ところがその部屋には窓がないのだった。窓のない部屋は、電灯をつけていないと昼間でも真っ暗で、ほんの少しいただけでもわたしなどは息が詰まるように思ってしまった。

やがて、その窓のない部屋の子の姿を見なくなってしまった。選択の教養科目が同じというだけ、学部がちがっていたために、会わない期間が長くなっても、なかなか気がつかなかったのだ。同じ学部の子に偶然会ったとき、そういえば最近会ってないんだけど、と消息を聞いてみると、なんでも失恋がきっかけで精神状態が不安定になって、結局大学を辞めたのだという話を聞いた。
部屋にひとりいると、壁が迫ってきたり、寝ていると天井がさがってきたりする幻影を見るようになっていた、という。
うわさ話の域を出るものではなかったが、あの部屋では、いかにも起こりそうなことだと思った。

それにしても一体大家は何を考えてあんな部屋を作ったのだろうか。
すぐ隣にビルが建っていて、窓を作っても何も見えないから、元々あった窓をつぶしたのだ、と彼女が言っていたのを思い出す。それでも、いくらビルの汚い側面でも、窓のない部屋よりは、ずいぶんマシだったはずだ。
窓は、何もそこから外を見るためだけのものではない。採光の役割も、換気の役割もあったはずなのに。窓のない部屋は、まるでアンネ・フランクの隠れ家のようなものだった。

親元を離れ、金銭的にも余裕のない「家出」少女たちが、とりあえず居を定めたのは、そんな場所だった。生活の場はひと部屋だけ、トイレも、炊事・洗濯をする場も共同だった。下宿生の子たちは、銭湯に行かなければならなかった。
親元で生活しているあいだは、「自分の部屋」はもちろんそういうものだった。トイレも台所も浴室も、自分の部屋にないのがあたりまえだった。
だがそれは、その外に「自分の家」という空間があってこその「部屋」だった。
ところが、いざ一人暮らしを初めて見ると、外側に「自分の家」などありはしない。部屋を出るといきなり、そこは「外」なのだった。

いきなり外気に身を晒してしまった「家出」少女たちは、また元の「家」に戻った者もいただろう。
けれど、自分の部屋を取り囲む、たとえそれが薄くても、最低限の外壁を備えた場所に移るため、少しずつ自分の足場を築いていったのだ。そうしながら、「家出」少女たちは、徐々に一人前の生活者になっていったのだった。


4.子供部屋


大学に入ってから帰省して自分の部屋に入ると、ひどく奇妙な感覚を覚えたものだ。

その家に越してから、北東の六畳間はずっとわたしのものだった。
自分の部屋ができたのがうれしくて、壁にロープを渡してさまざまなものをつり下げて、「楽屋じゃないんだから」と母親に叱られたこともあったし、ピアノの裏に返ってきた答案を丸めて隠し、あとで大目玉をくらったこともあった。机の下がお気に入りの場所で、引き出しのある側によりかかり、丸くなって座り、とめどもない物思いにふけったり、悲しいことを考えて、涙を流したりもした。

白い棚が欲しくて交渉しても聞き入れられず、こちらの希望を無視して木目の棚を買われてしまい、休みの日に苦労してペンキを買ってきて塗り直したこともあった。
買ってきた安い刷毛は、どうやっても毛が抜けて、塗り直しても塗り直しても毛がついてしまう。途中で腹を立て、投げ出してしまいそうになったのだが、その残骸があまりに悔しくて、泣きながら最後まで塗ったのだった。おかげで毛があちこちにへばりついている悲惨な棚もあった。

十年近くをその部屋で過ごし、柱にマジックで書いた落書きも、机の端のシールも、壁に貼った青木繁の馬の絵も、天井板一枚一枚の節目さえも、よく知っている部屋だった。

ところが大学に入って、たったひと月後、五月の連休に帰ったのに、どうも落ち着かない。少し体に合ってない洋服を着ているように、自分と部屋とがしっくりこないのだった。

自分の身体の一部は、京都に残しているような。
京都の生活と、いまこの部屋にいる自分が結びつかない。そんな奇妙な感覚を味わったのだった。

それまで、「自分」はただひとりの人間のはずだった。
十代の半ばぐらいから、「自分」が何者かを考え、こうありたい「自分」の像を模索し、「自分」を作り上げるのだ、と考えていた。
そうして、たとえいまはその途上にあるにせよ、自分はたったひとりしかいないし、自分を世界で一番よく知っているのも、この自分だと思っていた。

ところがその部屋に戻ってきた「自分」が、妙に食い違っている。
何か、不思議にリアリティを欠いているような、反面、京都に残してきたはずの生活が、長い夢を見ていたのかもしれない、とも思い、この感覚、自分がふたつに裂かれてしまったような感覚というのはなんなのだろう、と思ったのだった。

連休が終わって寮の部屋に戻ってみると、ああ、自分の場所に帰ってきた、という感覚、自分がまたひとつになったような実感があった。
かならずしも十分に馴染んでいるとは言いがたい寮の部屋だった。私物も少なく、自分の痕跡よりも、押入にある「米帝打倒」という落書きのほうが、よほど存在感を主張していた。毎朝、ふとんを上げるたびにこの落書きを目にし、「米帝」というのは、おそらくアメリカ帝国主義のことなのだろうけれど、どうやったらそんなものが「打倒」できるんだろう、仮にできたとしても、よその国にそんなことをして、一体どうするつもりなんだろう、と考えた。畳の焼けこげも、壁のクロスが一部はげかけているところも、自分とは関係のない痕跡のほうがたくさん残っていたのだけれど、それでも、わたしの日常生活の現実は〈ここ〉にあるのだ、と思えたのだった。

そうして、この「自分」という感覚、アイデンティティともいう、自分が自分であるという感覚は、かならずしも一枚岩のようなものではないのだ、ということを、初めて理解したのだった。
ちがう場所、さまざまな場面、種々の関係のなかで、さまざまなあらわれれ方をする、さまざまな自分がいて、それが自分なのだと。

その後、家に帰るたびに、その部屋はわたしによそよそしいものとなった。
子供部屋に別れを告げはしなかったけれど、その部屋を出たわたしは、文字通り、「子供時代に別れを告げ」たのだった。

いまでもその部屋はそこにある。
けれども、とうてい「わたしの部屋」と呼ぶことはできない。


5.わたしの「田舎」


弟が生まれた年だから、わたしが三歳の夏休みのことだ。
出産を目前に控えた母に連れられて、中国地方の母の実家に行った。

そのときの記憶というと、竹藪のなかを通ったら、うっそうと繁る竹に息が詰まりそうになり、雀のお宿を探しにいったおじいさんもこんなだったのだろうか、と思ったことと、祖父が庭に動物園の鳥舎のように大きな鳥小屋を作って、そこに何十羽もカナリヤやセキセイインコを飼っていたことぐらいだ。

それ以来、毎年ではなかったけれど、お盆やお正月、あるいは法事のときなどに、そこをときどき訪れた。
そこをわたしの「田舎」と呼んでいいものなのだろうか。自分の「田舎」というにはあまりに遠いもののような気もする。

新幹線の駅から、在来線に乗り換えてしばらく行くと、小さな駅に着く。
母が通学で使っていた頃と同じ建物だという、小さな木造の駅舎を出て、赤いだるま型のポストが目印の、文房具屋と駄菓子屋のあいだの道を抜け、山に向かって歩いていく。やがて山道に入り、うっそうと繁る竹藪を横目で見ながら登るのだ。
竹藪の反対側には、大きな農家の白い漆喰塀が延々と続く。遠くにお寺の屋根が見えるようになると、少し開けた場所に出る。そこの門をくぐっていくと、広い庭があって(鳥小屋があったのはごく短い期間だった。半ば道楽で始めた小鳥の飼育は、お金がかかるばかりだったとかで、すぐやめてしまったのだった)、元は土蔵の、いまはそこを改造して叔父が住んでいる離れや、昔は牛小屋だったという離れの向こうに主家があった。

玄関を入ると土間で、その土間はお勝手のほうまで続いていた。入ってすぐのあがりぐちに、まず部屋があり、そこには低いテーブルが置いてあって、まわりを座布団が囲んでいる。たいがいまずそこでもてなされ、その奥につづく座敷の一角にある仏壇に、行くとまず、手を合わせるよう言われた。
庭に面した側には縁側が続いていて、ガラス戸は日がいっぱいにさしこみ、晴れた日の座敷は明るかった。玄関から出入りしたのは最初のうちだけ、すぐにその縁側から出入りするようになったのだった。

その座敷の隣の小部屋がわたしたちの寝泊まりに当てられていて、夜、寝ていると、お線香の匂いがして祖父がお経を読む低い声を夢うつつに聞いた。
確かその部屋には天井板が貼ってなく、黒々とした梁が剥き出しになっていて、ひどく高い天井裏に、細く続くその声が、線香の煙のように立ち上っていった。

みんなが食事をする茶の間は、奥座敷から一段低い、土間のお勝手に続く部屋だ。
ちゃぶ台をふたつつなげて、板張りの上に座布団を敷いて座る。一番多いときには、二十人近くが卓を囲んでいたのではなかったか。親戚とはいえ、知らない人ばかりで、学校のことなどあれこれと聞かれながらする食事は、気疲れするものだった。

ところがわたしが小学校の高学年になったぐらいだったと思う。
ある年、勝手口から見る光景がまるで変わっていて、愕然としたのだった。
窓の向こうはうっそうと木の生い茂る裏山で、昼でも薄暗かったのに、その年、磨りガラスの向こうは白々と妙に明るく、窓を開けると目の前にはなにもなかった。
山の斜面の宅地造成の工事が始まっていたのだ。
むきだしになった赤土のなかに、ブルドーザーはお盆休みのためか、ところどころにうち捨てられたように、ちょうど砂場に、子供が忘れていったおもちゃのブルドーザーが転がっているように停まっていたのだった(ちょうどお盆休みかなにかだったのだろう)。翌年にはすでにアスファルトが敷き詰められ、一部では家さえ建っていて、さらにその翌年には、色とりどりの屋根のマッチ箱のような家並みが出現していたのだった。

お盆やお彼岸でそこに行くときは、たいていみんなで連れだって、花やバケツ、ひしゃくやお線香やロウソクを手に手に持って、お勝手口から山道をくだり、お墓参りに行っていた。ところが、宅地造成がほぼ完了したころには、ブロック塀で仕切られた一角に、お墓も窮屈に寄せ集められていたのだった。

そうなってからも何度かお参りに行ったはずなのだが、はっきりと覚えているのは、春の記憶だ。
お墓の敷地こそ窮屈になっていたが、斜面には視界をさえぎるものもなく、春の陽がいっぱいに差していた。新幹線がすぐ近くを轟音を挙げて走っていき、国道を走る車の音はひっきりなしだったが、それでも高くヒバリの鳴き声も聞こえていた。そうして、遠くにマッチ箱ほどの大きさの海が、陽にきらきらと輝いているのが見えたのだった。

そこに埋められている人で、わたしが知っている人はいなかった。
名字さえ、わたしには馴染みのない、母の旧姓だった。
それでも、何度も話に聞いてひどく身近に感じられる、二十代で亡くなった祖母が、そこに埋められているのだな、と思ったのだった。そうして、わたしはそのおばあさんに手を合わせた。二十代で亡くなった人に、「おばあちゃん」と呼びかけたら、叱られるかなぁ、などということをばくぜんと考えながら。

そこを最後に訪れてから、もう二十年近くが過ぎている。
それでも、わたしが感じる「田舎」に一番近い場所は、そこなのかもしれない。


6.家の記憶


これまで、いくつもの家に住んだし、いくつもの家に入っていった。一軒の家だったこともあるし、単なる部屋だったこともある。ひとりで住んだこともあるし、何人かで一緒に住んだこともある。

住むようになってしばらくすると、家は意識にのぼらなくなってくる。
ところが他人の家に行くときは、その「家」が強烈に意識される。招待してくれたその家の主を超えて、「家」が圧倒的な存在感を持って、迫ってくる。
「家」はそこに住む人間の単なる「入れ物」とは言いがたい。単なる「入れ物」ならば、あんなに強烈に意識するはずがない。家は、そこに住む人の一部なのだ。

逆に、ふだん意識に上らないはずの自分の家が、引っ越したとき、あるいはだれかが家に来たとき、つまり自分の日常から逸脱すると、急に意識されるようになってくる。そうして、日常を取りもどすにつれ、また「家」のことは意識からこぼれおちてしまう。

わたしが初めて家族を離れ、長年住み慣れた家を離れて、新しい場所に移ったとき、どこか方向感覚を失ったような気がした。東西南北がやたらはっきりしている京都の街だったのに、自分の内に方向感覚を失っていたのだ。

そのとき、わたしは「家」が自分の感覚の起点となっていたことを知った。
そうして、寮の一室が自分の「家」になっていくとともに、わたしはふたたび方向感覚を取りもどしていたのだった。
そのときはすでに長年暮らした自分の実家は、「実家」となり、いま、ここにいるわたしの「家」ではなくなっていた。

「家」はまず、「入れ物」としての形を持つ。
木造の一軒家、二階建て、マンション、そうして建物の中の一室。
そうして、「家」というのは、「入れ物」ばかりを指すのではない。
「家」の中に入れられる家具調度の類は、そこに住む人間を伝える。生活をしていくうちに、家具調度類は生活を反映させていく。
そうなると、「家」は同時に生活の一要素であり、ひいては自分自身の一部ともなっていく。

隣家の犬の声がやかましいアパートの一室に住んだことがある。そこで生活した期間が短かったこともあるけれど、そこでの生活の記憶が妙に希薄なのは、あまりに犬がやかましかったせいで、その部屋と深い関係を結ぶことができなかったのではないか、と思う。「自分の家」という意識は、犬の声によってさえ左右される。

家は、雨露ばかりではない。
外の世界や外部の視線から、わたしを守ってくれる。
家にいれば、保護され、安心感を抱く。そうやって、わたしは家と絆を結んでいく。

建物であり、物理的な存在でありながら、それを超えてわたしの意識と結びつき、さまざまな記憶の背景となっている家。
同じような家は、何千軒、何万軒とあるのに、わたしの「家」はただ一箇所。



ここがわたしの家
ここがわたしの住むところ
……
明るい灯がともる
でもそれはわたしの目ではない
わたしの魂はどこ
わたしの疲れた心はどこにある
知りたいのはそういうこと
答えはどこにあるのだろう
答えはわたしの家のなか

エルトン・ジョン "House"
初出Nov.15-22 2006 改訂Nov.26 2006

▲Topこの話したっけHome




※ご意見・ご感想はこちらまで


home