街にはザワザワと無数の跫音がむれている。
泥棒の跫音も、パンパンの跫音も。
しかし、人間のふるさとは人間の中にしかないと分れば、
生きることほど、なつかしいものはないだろう。
――坂口安吾『「街はふるさと」作者の言葉』


「真似」る話


1.真似はするもの? しちゃいけないもの?

先日、たまたま電車で知り合いの十代後半の女の子と一緒になった。彼女はA子と仲が良く、いつ見ても一緒にいる印象があったので、わたしは深い考えもなく「今日はA子ちゃんとは一緒じゃないの?」と聞いてみた。

すると、彼女の表情が変わった。「もうA子なんて関係ないんです」
わたしが何とも返事をしないでいると、彼女は「あの子、ひどいんですよ」と堰を切ったように話し出した。

――A子ったらいつもわたしのマネばっかり。わたし、最近メガネ替えたでしょ、そしたら、A子ったらそれまでコンタクトだったのに、わたしと同じセルフレームにしたし、このあいだなんて、わたしが着てたのとそっくりのチュニック、着てきたんですよ、もうわたし、絶対着れなくなった。おまけにね、××を最初に見つけたのはわたしなんです。わたしが最初にCDを買って、貸してあげたのに。それがいまじゃ自分が見つけてファンになったみたいに大騒ぎしてる。そういうの、信じられないと思いません?

言われてみれば、ふたりはよく似た格好をしていたような気もする。それでもほかの女の子たちも、みんな似たり寄ったりの格好をしているのだ。いまどきのファッションに興味もないわたしから見ると、ことさらにA子が彼女のマネをしているとは思えない。それでも彼女からすればそう見えるのか、あれもマネ、これもマネ、となおも言い募る彼女の話を、わたしは駅に着くまで聞かされた。

ひとりになってその話を思い返していると、それまで忘れていた記憶がよみがえってきた。中学一年のときだ。女の子数人に取り囲まれて、なかの一人に「その靴下、やり過ぎじゃない?」と詰問されたのだ。まったく寝耳に水で、どういうことかわからないけれど? と聞き返したような気がする。するとほかの女の子たちも口々に、バインダーにしても、ペンケースにしても、その子のマネばかりしている、というのである。そうして、その日わたしが履いていた靴下も、彼女が気に入っていて、学校によく履いてくる靴下と同じだと言うのだった。

その靴下は、紺色の地にグレーと赤のアーガイル模様がついたもので、母親がイトーヨーカ堂で買ってきたのを、その日おろしたのだ。わたしはアーガイルはあまり好きではなくて、模様がもう少し小さければいいのに、なんだかカッコ悪いな、と思っていたのだった。自分が何と答えたのかまったく記憶はないのだが、言うだけ言って気が済んだか彼女たちはそのまま帰っていったのではなかったか。ともかくわたしとしては言いがかりをつけられたとしか思えず、腹立たしさだけが残った。その靴下も、もう学校へは履いていかなかったような気がする。

人真似は反感を引き起こす。
花咲か爺さんやこぶとり爺さん、舌切り雀などの昔話でも、真似をするのは意地悪なお爺さんやお婆さんに限られる。悪いやつは正直者の真似をして、罰を受ける、というのがお定まりのパターンだ。日本ばかりではない。千夜一夜物語でも、アリババの真似をして盗賊の洞窟に入った兄のカシムは、出るときの呪文を忘れて、戻った盗賊に殺される。イソップでも「金の斧」がある。世界中の昔話が「真似をするのは愚か者」「真似をすると災厄を引き起こす」という教訓を与えているかのようだ。

一方で「学ぶことは真似ぶこと」という言い方もある。
習字を習うときは、かならずお手本をなぞる。踊りを習うときも、手本とする先生の踊りを、できるだけそっくりに真似ようとする。ピアノだって数学の問題の解き方だって、先生が教えてくれることをそのとおりに真似ていく。独創性など発揮するのはまだまだ先のこと、とばかり真似をして、それを自分のものとしていくために徹底的な反復練習が要求される。こういう「真似」は「いいこと」なんだろうか?

わたしたちは自分が真似られた、と感じたとき、なぜ怒りを感じてしまうのだろう。真似をする人間を、一段劣ったものと感じてしまうのはなぜなんだろうか。逆に、真似が奨励される場面というのはどういう時なのだろう。

いろんな小説に描かれる「真似る」ことを見ながら、「模倣」ということを考えてみたい。
良かったら、しばらくおつきあいください。


2.真似される恐怖


英語のことわざに

Imitation is the most serious form of flattery.
 (真似るのは、心の底からお世辞を言っているのと同じ)

というのがある。わたしたちは少なくとも自分より上の立場の人が自分を真似ているとは思わないものだ。同じものを持っていたり、よく似たことを言っていたりしても、逆に、これは偶然だ、わたしはこの人の真似をしたわけじゃない、と、口には出さないまでも、自分の内で言い訳したりする。自分と同じか、自分より劣ると思っている人間に限って、「自分の真似をしている」と思う。

そうしたときに最初に訪れる感覚は、やはり自分の方が上だったことが証明されたような気分、優越感をくすぐられるような思いかもしれない。
だが、優越感は長くは続かない。すぐに不快感が取ってかわり、やがて怒りを覚える。なんとしてもやめさせたいと思う。その怒りの正体は何なのだろう。

ここではその極端なケースを見てみよう。
「ルームメイト」というタイトルで映画にもなった原作『同居人求む』から。

主人公のアリはニューヨークで生活する若い女性。それまで同棲していた恋人サムと仲違いしたために、アパートに一人暮らしすることになった。ところが家賃は高い。そこで新聞に広告を出す。「SWF(独身・白人・女性)のルームメイト募集」。
そこへ応じてきたのがヒルダ。非喫煙者で地味な印象のヒルダに好感を抱いたアリは、ヒルダに即決する。

内気で物静かなヒルダは、理想的なルームメイトのはずだった。
ある日急な用事でアパートに戻ったアリは、ヒルダがアリの服を着、アリの靴をはいた格好で鏡にみとれているところに行きあわせる。
最初は腹を立てたアリも、泣きながら謝るヒルダの姿に憐憫をかきたてられ、その場は許してしまう。

ところが後日、ヒルダが外出しているときに、見あたらないスリッパをさがしていたアリは、ヒルダのクロゼットに、自分のとそっくりな服やアクセサリばかりがしまわれているのに気がつく。しかも自分と同じヘアスタイルのかつらまで。

一方、仲違いしたサムはアリに詫びを入れ、ふたりは恋人同士に戻る。ふたりは決める。もういちど同棲生活をやり直そう、ヒルダには悪いが出ていってもらおう。
ところが仕事から帰ったアリは、自分そっくりのかつらをつけたヒルダが、サムと一緒にベッドにいるのを目撃してしまう。ヒルダは振り返って、勝ち誇ったようにアリを見る。

 ヒドラの狙いは何だろう? なぜ文字どおりアリの人生を乗っ取って、アリの人格を奪い、もう一人のアリになってしまったのか? ヒドラはアリのアパートメントに住んでいた。そっくりの洋服を着て、そっくりのアクセサリーと香水をつけた。ときにはアリの服と装身具を身に着けた。アリの名前を使った。仕草やしゃべり方すらも真似た。サムと寝た。
 アリを羨んだ。
 自分というものがなかった。……

ヒドラの内心の炎と嫉妬の激しさを見誤っていた。今となっては、ヒドラがなぜサムを何が何でも奪いたかったか、なぜアリに情事をみせびらかしたかったか、明白である。ついにヒドラがアリに取って代わったこと、アリはもはや確固とした現実の存在ではないことを思い知らせようとしていると言っていい。アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。
 たまらないのはアリ自身がそう感じていることだ。

(ジョン・ラッツ 『同居人求む』 延原泰子訳 ハヤカワ書房)

社会に生きるわたしたちにとって、一番恐ろしいことは何だろう?
それは、だれも自分に気がついてくれないことではあるまいか。そこにいても目を合わせてもらえない。通行人のように黙殺される。教室での陰湿ないじめとして、「シカト」「ハブ(八分)」という言葉で表されるような徹底した無視があるといわれるが、確かにそこにいながら、存在を抹殺されてしまうことは、たえがたい苦しみだろう。

わたしたちは、周りにいる人に目を留める。自分がだれかを認めたように、相手からも自分を認めてほしいと思う。
だから声をかける。「やあ」
相手は顔を上げ、こちらを見たような気がするが、視線はすぐに通りすぎ、そのまま行ってしまう。
たちまち不安になる。「前、会ったとき、何か気に障ることを言っただろうか。それとも自分が何かしたんだろうか」

わたしたちのあらゆる行動の根底には、自分を認めてもらいたい気持ち、「承認」を求める欲求がある。
わたしを愛してほしい、好きになってほしい、すごいと思ってほしい、カワイイと、賢いと、カッコイイと、いや、そこにいると気がついてくれるだけでもいい。ほかの誰とも置き換えることのできない「オンリーワン」、たったひとりの自分がいることを認めてほしい。

自分では自分のことを、何よりも確かなものだと考えている。世界で唯一の、取り替えのきかない存在であると。だが、自分でどれほどそう思っていても、他人が自分を認めてくれなければ、わたしたちはほんとうに「そこにいる」と言えるのだろうか? いないのと同じなのでは? 誰からも認めてもらえないということは、それくらい恐ろしいことだ。

それまでアリの周囲の人々は、アリを「アリ」として認めてくれていた。アリ自身もそのことに何の疑問ももっていなかった。ところがヒルダがアリそっくりの格好をし始めた。アリの格好をしたヒルダは「アリ」として生き始める。誰よりも親しい、アリにとってはかけがえのない存在であったはずのサムまで、ヒルダをアリとして扱う。そのために「アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。」、つまり、アリはアイデンティティを乗っ取られてしまったのだ。

これはもちろん極端な例である。
それでも、わたしたちは誰かが自分の真似をしていると感じると、多少の優越感より、不快感のほうが上回る。それは、自分の真似をする相手が自分になりかわってしまうのではないか、という危機感を覚えるからだ。
いま、自分は周囲から「〜として」承認されている。だが、真似をする人間が出てくると、「〜として」はひとりではなくなってしまう。自分に対する承認を、分かち与えなければならないのではないか。これだけでも十分腹立たしいことなのに、さらにその相手の方が「〜として」承認されることになったら? 自分は承認を失ってしまうではないか!

このように、自分の真似をする人間の登場は、わたしたちの承認を危うくする存在として、不安をかきたてるのだ。

では、今度はヒルダの側、「自分というものがな」く、アリをそっくり真似る側を見てみよう。自分のアイデンティティを犠牲にしてまで誰かを真似るというのは、いったいどういう心理なのだろう。残念ながらこの『同居人求む』では、ヒルダの動機は彼女の「狂気」に求められていて、ここから先は参考にはならない。


3.真似る側の気持ち


「太陽がいっぱい」「リプリー」と二度、映画にもなったパトリシア・ハイスミスの『リプリー』では、主人公のトム・リプリーがリチャード(ディッキー)・グリーンリーフを真似し、さらに彼になりかわろうとする物語である。この作品を手がかりに、「真似る」気持ちを見ていこう。

幼少の頃、両親を亡くし、吝嗇で情愛に乏しい叔母に育てられたトムは、俳優を目指して二十歳の時にニューヨークへやってくる。だが、チャンスはなく、生活に追われ、やがて経理に明るいところから、所得税関連の詐欺をはたらくようになる。

そこに現れたのが造船会社を経営するグリーンリーフ氏。たまたま一度家へ遊びにきたトムを、息子ディッキーの親友と思いこみ、イタリアを離れようとしない息子をアメリカに連れ戻してくれるよう依頼する。

こうしてトムは、イタリアで絵描きのまねごとをしているディッキーに会いに行くのだが、ディッキーのほうはイタリアでの生活が気に入っていて、帰国して父親の跡を継ぐことなど望んでいない。トムは、グリーンリーフ氏の頼みよりも、なんとかディッキーの気に入られようとさまざまに心を砕く。

退屈していたディッキーの側も、トムを歓迎し、やがてトムはディッキーの家に住むようになる。ところがディッキーにはマージというガールフレンドがいた。マージはトムをゲイだと思い、自分たちのなかに入りこんできた邪魔者と見なす。

「マージのところに寄っていくよ」と、ディッキーが言った。「長くはかからないが、きみは待っていることはない」
「そうかい」と、トムは言って、不意に淋しさを感じた。…

 窓が見えるところで、足をとめた。ディッキーが彼女の腰に腕をまわしている。キスをしていた。…トムはひとくいやな気がした。…

 くるりとうしろを向き、階段を駆けおりた。大声で叫びたかった。ガチャンと門を閉めた。ずっと走りつづけ、息せき切って家にたどりつき、門を入ると、手すり壁に身をもたせかけた。…

 彼はディッキーの部屋へ行き、ポケットに手を突っこんで、しばらくの間ゆっくりと歩きまわった。…クローゼットの扉をぐいと引っぱりあけ、なかを覗いた。きちんとアイロンをかけられた、いま流行のグレーのフランネルのスーツがあった。着ているのは一度も見たことはなかった。それを取りだした。半ズボンをぬぎ、グレーのフランネルのズボンをはいた。デッキーの靴をはく。さらに、チェストのいちばん下の引き出しをあけ、真新しいブルーと白のストライプのワイシャツを出した。

 ダークブルーのシルクのネクタイを選び、ていねいに結んだ。スーツは彼にぴったりだった。髪を分けなおし、ディッキーのまねをして、分け目をすこし横に寄せた。

「マージ、いいか、ぼくはおまえを愛していないんだ」トムは鏡に向かい、ディッキーの声音をつかって言った。高い声を出して言葉を強調し、フレーズの終わりでは、喉の奥で多少ゴロゴロいう音をさせた。…「マージ、やめるんだ!」トムはとつぜん降りかえり、マージの喉を絞めているかのように、空をつかんだ。

(パトリシア・ハイスミス『リプリー』佐宗鈴夫訳 河出文庫)

これがトムがディッキーの真似をした最初の経験である。ディッキーにたいして、それまで漠然と抱いていた愛着が、拒否されることによって逆に募り、ディッキーになり変わって、マージを排除しようとする。

こののち、ディッキーはいよいよトムを疎んじるようになり、トムもそこを出ることを余儀なくされてしまう。最後にふたりは旅行に出かけるのだが、そこでもディッキーは冷たい。トムは「憎しみや愛情や苛立ちや欲求不満といった狂おしい感情が心のなかでふくれあがり、息が苦しくなった。殺してやりたいと思った」という感情を抱くようになる。

トムはディッキーに、友情も、付き合いも、敬意も、必要なものはすべて捧げてきたのだ。それにたいして、彼は忘恩と敵意で報いたのだ。トムはのけ者にされていた。この旅の途中でディッキーを殺しても、事故死ですませることができると思った。そして――彼はそのとき、すばらしいことを思いついていた。つまり、自分がディッキー・グリーンリーフになりすますのだ。

こうしてトムはディッキーになりすまし、首尾良くパリでの生活を始める。だが、偶然やってきたイタリアでの共通の知人に疑念を持たれ、その人間まで殺してしまう。警察はトムではなく、ディッキー・グリーンリーフを疑うようになる。

ディッキー・グリーンリーフになりすましているのは、これが最後であることはわかっていた。トーマス・リプリーにはもどりたくなかったし、取り柄のない人間でいるのもいやだった。また昔の習慣に逆もどりしたくもなかった。みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰にでもちょっとずつ愛嬌をふりまく以外、自分はなにもできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。買った当座でもたいしたことはなかったのに、油のしみがつき、しわの寄った、そんなみすぼらしいスーツを着たくはないように、ほんとうの自分にはもどりたくなかった。

ディッキーは、トムにとっては求めてやまない対象だった。自分の思いが受け入れられないことがわかって、激しい愛情が一転、殺意となる、というのは、ミステリではおなじみの展開である。
ただ、この『リプリー』が非常に興味深いのは、殺したあと、トムがディッキーとして生きようとする点だ。

そもそもトムがディッキーを真似たのは、ディッキーに強い愛着を抱いたからだ。
だが、愛着を抱く、ということは、そもそも相手との間に、何らかの共通点を見いだすからではないか。まるっきり違っている相手とは、真似をするどころか、好意すら覚えることはない。

誰かに好意を持つ。そうすると、わたしたちは相手とのうちに、共通点をいくつも見つけることができる。もちろんそんな共通点は、ほかの何万人もの人の内に見て取れるものであっても、そんなことは無視して、特定の相手のうちに、自分との共通点を見つけるのだ。そうするうち、自分のいくつかの性質が、相手の内に、より好ましい形で現れていると思ったとき、ことさらに模倣しようと思わなくても、自分のその部分をごく自然に相手に近づけようとする。あまりに自然だから自分にも意識されないが、これも一種の模倣である。

ところが相手と自分の現れの差がひどく大きなとき、言いかえれば、自分が好意を抱き、自分もこうありたいとお手本にしている相手と比べてみて、いまの自分はつまらない、何でもない存在だ、いまの自分ではあの人が周囲から得ているような承認など、決して与えられるわけがない、こんな無意味な、何でもない自分なんて……、と思ったとき、わたしたちは意識的に、相手をモデルとして模倣を始める。

真似をしていれば、モデルが周囲から得ていた承認を、自分もお裾分けのようにもらうことができるのではないか。真似をしている自分を認められたように思えば、徐々にそれも板についてくる。それが「自分らしい」振る舞いとなり、真似をしているときの自分こそ、本来の自分のあるべき姿だ、と思うようになる。これこそ自分の真の姿だ、「油のしみがつき、しわの寄った、そんなみすぼらしいスーツを」脱ぎ捨てるように、過去の自分を脱ぎ捨て、そこにいるのはモデルそっくりの「新しい自分」だ。

ヒルダは自分が「アリ」として生きるために、邪魔なアリを排除=抹殺しようとした。トムはディッキーを排除して、ディッキーとして生き始めた。だが、ひとつの点で一致する。模倣を始める前の自分を認めていないことである。自分自身が自分の承認をしていない。こんなダメな自分だから、社会から承認されるはずがないと思っている。ここで、承認欲求と模倣欲望が結びつく。やがてそれは手本の排除に向かっていく。
それにしても、好意から始まった真似ることが、これほどまでに暴力的になっていくものなのだろうか。それともこれは単にミステリだから?
今度はもう少し別の角度から見てみよう。


4.ライヴァルか模倣か


ヒルダやトムは、いかにもミステリや映画の登場人物らしいキャラクターである。現実にはそこまで徹底した「真似」をする人は、なかなかいそうもない。
さて、つぎにはもうちょっとありふれた、模倣とは関係なさそうな三角関係のドラマを見てみよう。
サイトの翻訳の項にも載せているイーディス・ウォートンの「ローマ熱」である。

この「ローマ熱」という短編では、アライダとグレイスというふたりの中年女性が登場する。このふたりには、過去にこんないきさつがあった。

ローマに滞在していたアライダは、デルフィン・スレイドと婚約していた。そこへ「ちょっと見たことがないほど美しい」グレイスが現れる。
このグレイスもまたデルフィンに夢中になる。それに危機感を抱いたアライダは、策略を用いてグレイスを出し抜く。そうして、首尾良くデルフィンと結婚する。

これだけ見れば、アライダとグレイスはよくあるライヴァル関係、恋愛の勝者と敗者である。ところが不思議なことに、恋愛の勝者であるアライダのほうが、同じ時期、結婚したグレイスの監視がやめられない。おとなしい男性と結婚したグレイスの、地味で平凡な生活を、飽き飽きしつつも監視せずにいられない。

これはどういうことなのだろう。
ライヴァルとは、主人公の前にたちふさがる障害ではないのか。そうして、ライヴァルを打ち倒した主人公は、勝者としてハッピーエンドを迎えるのではないのか?
この点に関して、作田啓一の『個人主義の運命』はこう指摘する。

ライヴァルが主体よりも一歩先んじている限り、主体はライヴァルを尊敬し、ライヴァルのように「なりたい」と願います。この同一化の作用(…)によって、主体はライヴァルの客体に対する欲求を模倣します。そのために、初めから主体の中にあった客体への欲求はさらに強化されます。言いかえれば、もしライヴァルがいなかったなら、それほどでもなかったはずの主体の欲求が、ライヴァルの介在によって格段に高められるのです。極端な場合には、ライヴァルがいなければ、潜在的であるにとどまったかもしれない欲求(もちろん特定の客体への欲求)が、ライヴァルのおかげで活性化する、ということもありえます。

(作田啓一『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』岩波新書)

アライダは、美しいグレイスに「なりたかった」。だから、グレイスがデルフィンを好きになったのを模倣した。もちろんそれ以前から婚約はしていた。けれど、恋愛感情が燃え上がったのは、グレイスがいたからこそだ。だからこの小説にはアライダがどれほどデルフィンのことを愛したかは一言も描かれない。デルフィンからの一通の手紙だけを心のよすがとしてきたグレイスの思いしか描かれない。

実はわたしたちは「ライヴァルの存在が欲求を活性化させる」ことをよく知っている。恋愛ドラマも映画もマンガも、煮え切らない恋人をその気にさせるために、主人公はお見合いをしたり、ほかの異性の存在をほのめかしたりする。それもつまらない相手では自分まで安っぽく見られてしまう。だからお見合いの相手は医者とかエリートサラリーマンと相場は決まっている。

わたしたちが「欲しい」と思うものは、ほかの人が欲しいものだ。みんなに人気のある人は、それだけでステキに見えてくるし、逆に自分が好きな人がだれにも認められないと、それほどたいした相手でもなかったかな、と思うようになってしまう。
つまり、わたしたちは何かを、あるいは誰かを自分のものにしたいという欲求は、自前のものではなく、だれかの模倣であることを、心のどこかで知っているのである。

わたしたちは、自分の欲求というのは自分自身のものだと思っている。ところが実際は、何かを欲望するということは、誰かの欲望を模倣するということなのだ。
ラ・ロシュフコーは「恋愛について語られるのを聞いたことがなければ、誰も恋をしているなどと思いもしなかったろう」と言ったが、わたしたちがある特定の人に心を引かれ、その人のことばかり考えてしまうような状態を「恋をしているんだ」と気がつくのは、恋愛小説や、恋愛を歌った歌や、映画やマンガがあるからだ。逆に、そういうものが先にあり、それをさまざまなかたちで繰りかえし学習するからこそ、わたしたちはその状態に導かれているともいえる。

だが、恋愛ドラマを見て恋愛に憧れるのと、身近な人間を模倣することは、ちがうように思える。事実、アライダは自分がグレイスを模倣しているとは思いもつかないだろう。逆に、自分の婚約者に手を出そうとするグレイスこそ、自分を模倣している、と思うかもしれない。それはどうしてなのだろう。ここでも『個人主義の運命』は回答を与えてくれる。

自分の欲望の達成を妨げ、自分を軽侮している人間をあがめ、この人間の欲求を模倣しているという事実を認めることは、主体の自尊心を苦しめます。手本=媒介者に対する崇拝と恨みという相半する感情(フロイトの用語を借りればアンビヴァレンス)によって引き裂かれた主体は、自己の内部の矛盾から免れようとして、媒介者の中にもっぱらライヴァルの役割を見ようとします。そして本来の役割であった手本の役割を認めることをいやがります。主体は媒介者を手本としてあがめ、彼を模倣している事実を、客体や他の人々に隠すだけではなく、自己自身にも隠そうとします。こうしてライヴァルとしての媒介者への敵意だけが表面にあらわれてきます。

先に見たヒルダやトムのように、自分は何者でもない、自分の価値はゼロだ、と思っている自尊心の極端に低い人間ならともかく、わたしたちの多くは、自分にはそれなりの価値があると思っている。だれもが認める芸能人やスポーツ選手にあこがれ、彼らを真似ることは、それほど恥ずかしいことではないが(それをやっているのも自分ひとりではないし)、身近な人間の真似となると、自尊心が許さない。それではまるで、相手の方が上だと自分が認めたようなものではないか! だからアライダはグレイスを、単なるライヴァルとしてしか認めようとしない。

だが、一方でどれだけ隠そうとしても、アライダは密かに気がついてもいるのである。だからこそ、優っているのは自分だ、勝利者は自分なのだと、ほかのだれでもない、当のグレイスに認めさせずにはいられなかった。自分は何もかも知っているのだと策略を打ちあけたのも、過去のグレイスを笑いものにすることで自分の卓越を公然化するためだった。ところがすべてを打ちあけて明らかになったのは、自分の愛の不毛のほうだったのだ。

さて、模倣にはこうした否定的な側面しかないのだろうか。今度は別の角度から、模倣の肯定的側面をさがしてみよう。


5.「学ぶ」ことは「真似」ぶこと


技術でも知識でも、何かを身につけようと思ったら、わたしたちはかならずお手本を必要とする。人間は何かが「自然に」できるようになったり、わかるようになったりはしない。たとえ「ひとりでにできるようになった」と思っているとしても、実は何らかのかたちでそれをやっている人を見て、「見よう見まね」でやっているだけのことだ。

そこで登場するのが「先生」である。
「教え子」というのは、先生の知識や技術を習得するために、先生の真似をする。その先生に対する敬意の念が強ければ強いほど、真剣に模倣に努めるだろうし、先生と同じになろうとするだろう。
そういう「先生と教え子」の模倣はどうなっていくのだろうか。

『個人主義の運命』では「師弟関係を正面から扱っている」作品として、夏目漱石の『こころ』をとりあげる。一見、「先生」の友人であるかのような「K」は、「手本とライヴァルが同一人物の中に並存する」存在である、というのである。

 私の解釈では、「先生」はたとえ策略のいけにえになったとしても、お嬢さんが結婚に値する女性であることを、尊敬するKに保証してもらいたかったのです。そしてまた同時に、このような女性を妻とすることをKに誇りたかったのです。…

「先生」がKを下宿に連れてきた時、すでに一つのアンビヴァレンスに陥る運命が予定されていました。Kが彼女に合格点を与えなかったなら、先生はこの手本の意見に従って対象選択を諦めなければなりません。Kとの師弟関係は続きますが、愛の断念はつらい。逆にKが彼女を愛するにいたるなら、Kによって合格点を与えられた女性を「先生」は求めないわけにはゆかず、Kは「先生」にとってライヴァルとなるでしょう。そしてもし「先生」がこの競争に打ち勝つなら――事実はそうなったのですが――Kは手本としての位置からすべり落ち、以後先生は生きてゆくにあたっての指針を失うことになるでしょう。それは愛の断念よりつらい。「先生」はKに対する尊敬と憎しみのアンビヴァレンスに陥りました。そして客体を獲得し、手本(モデル)を喪失する結果となりました。

(『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』)

『こころ』では、Kは「先生」の師(手本)であり、同時に恋愛ではライヴァルとなった。けれども、通常の師弟関係でも教え子はある段階に達すると師のライヴァルとなる。

中島敦の『名人伝』は、「天下第一の弓の名人になろうと志を立てた」紀昌という男の物語である。紀昌は当今並ぶもののない名手と謳われた飛衛のもとで修行を積み、腕を上げていく。そうしてある日こんなことを考える。

 もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。
 彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。

(中島敦『名人伝』)

このときは互いの力が拮抗していたために、飛衛はことなきを得た。だが命を狙われた飛衛は「紀昌に新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考え」、さらなる師甘蠅を紹介する。
模倣者が手本を追い越すときというのは、穏やかにはいかないようだ。

もう少し、ちがう作品を見てみよう。太宰治の『駆け込み訴え』はどうだろうか。
これはイエス・キリストを銀貨三十枚で売った弟子ユダの物語である。このひと息で語りおろされたような短編は、こんな言葉から始まる。

 申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

ユダは自分がイエスにどれほどひどい目に遭わされたか、縷々訴える。わたしを軽蔑した、わたしが世話をしているのが傲慢だから悔しいのだ……。だがそう言いながら、つづけてこんなことを言わずにはおれない。

一度、あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏(あぶら)を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。

このように、ユダは「あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ」というほどイエスを愛している。だが、ユダが密告したのは、トムがディッキーに疎まれたように、自分がイエスから「きらわれ」「意地悪く軽蔑」されたからなのだろうか。
ユダが最初に殺意を覚えたのは、イエスに頭から香油をかけたマリヤのふるまいを、ユダが叱ったあとのイエスの態度による。

その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままで嘗つて無かった程の異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽かに赤らんだ頬と、うすく涙に潤んでいる瞳とを、つくづく見直し、はッと思い当ることがありました。ああ、いまわしい、口に出すさえ無念至極のことであります。あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、では無いが、まさか、そんな事は絶対に無いのですが、でも、危い、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか? あの人ともあろうものが。あんな無智な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。取りかえしの出来ぬ大醜聞。私は、ひとの恥辱となるような感情を嗅ぎわけるのが、生れつき巧みな男であります。自分でもそれを下品な嗅覚だと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能を持って居ります。あの人が、たとえ微弱にでも、あの無学の百姓女に、特別の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありません。私の眼には狂いが無い筈だ。たしかにそうだ。ああ、我慢ならない。堪忍ならない。私は、あの人も、こんな体たらくでは、もはや駄目だと思いました。醜態の極だと思いました。

ユダはイエスが自分を軽蔑している、邪険にしていると繰りかえし、自分のことも「下品」と貶める。そう言うのも、師であるイエスの目から自分を見ているからこそである。イエスの視線を模倣して自分自身を軽蔑し、軽蔑する自分と軽蔑される自分とに分裂しているのがユダなのである。
イエスを模倣するユダは、同時に軽蔑される側でもある自分の自尊心を保つために、いよいよイエスに依存し、崇めていく。あれほど偉い人なのだから、自分を軽蔑してもしかたがない、と、懸命に納得する必要があるのである。
彼とほかの弟子のちがいはその点である。ほかの弟子がひたすら崇拝するだけなのに対し、ユダは「自分の欲望の達成を妨げ、自分を軽侮している人間をあがめ、この人間の欲求を模倣している」(『個人主義の運命』)のである。
イエスを模倣するユダが、一方で、いよいよイエスを崇めるのに対し、もうひとりの軽蔑されるユダ、商人であり、冷静に事態を眺めるユダは、イエスの限界を見てとる。

もはやこの人は駄目なのです。破れかぶれなのです。自重自愛を忘れてしまった。自分の力では、この上もう何も出来ぬということを此の頃そろそろ知り始めた様子ゆえ、あまりボロの出ぬうちに、わざと祭司長に捕えられ、この世からおさらばしたくなって来たのでありましょう。私は、それを思った時、はっきりあの人を諦めることが出来ました。そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一途に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑うことが出来ました。

ここでユダが「はっきりあの人を諦めることが出来」たのはどうしてなのか?
それは、軽蔑されるユダがイエスを「もう駄目」と見限っただけでなく、自分を軽蔑するユダ、師を模倣する弟子のユダが、師を諦めるということによって、自分が師を上回ろうとしたのである。

心ゆかしい夢想者は自分を欲望の断念することによってライヴァル以上に自分を高めたいという底意をもっている、という点です。欲望の断念の競争において、主体はライヴァルに打ち勝った、と信じたいのです。

(『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』)

ユダはイエスを売ることで、師弟関係を逆転させようとしたのだ。


6.模倣と承認


わたしたちは言葉も知らず、立つことも、歩くこともできない状態で生まれてきた。 赤ん坊は話をしている両親を見て、懸命に真似をしようとして喃語を口にする。食べている大人を見て、なんとか自分も食べてみようと手を伸ばし、口に入れる。

やがてしゃべったり、歩いたりが自由にできる幼児になってくると、今度は「ごっこ遊び」を始める。両手を広げて走っている子供は、飛行機になったつもりだし、ワンワンと鳴きながらイヌになる子もいる。

やがてもう少し大きくなると、その「ごっこ遊び」も変わっていく。
ままごとで「お母さん役」「お父さん役」「お姉さん役」「赤ちゃん役」とさまざまな役割を設定し、真似をすることによって、家庭という最小単位での社会が、それぞれの役割を持つ人によって維持されていることを認識していく。お店屋さんごっこでは、売り手と買い手を真似ることで職業の役割を意識し、おもちゃの銀行券をやりとりすることで貨幣の役割を知る。

つまり、人間は「模倣」を通じて人間となっていくのである。

だが、わたしたちにとってそれほど本質的な行動である「模倣」であるが、一方で、わたしたちは「物真似」「コピー」をオリジナルに較べて劣ったものと見なす。真似を「独創性のないもの」として軽蔑するし、共通点を見つけると、後続の作品を「パクリ」と呼んで批判する。
「〜はこう言った」「〜にはこう書いてあった」という人に対しては、「あなたの考えはどうなの?」と、あたかもその人独自の「考え」なるものがどこかにあるように聞いていく。

だが、ことばというものが本質的に模倣であることを考えると、模倣ではない考えなど、どこにもありはしない。同じように社会に生きるわたしたちのあらゆる行動は、学習という模倣によって身につけていったことだ。

わたしたちはなんとなく、自分の奥深くにひっそりと、「ほんものの自分」がいる、と思っている。周囲とは関係のない、揺るぎのない、たったひとりしかいない純粋な自分。
おそらく「模倣」と「独創」や「オリジナリティ」を対置し、前者より後者を尊いものとする考え方は、そういうところから来ているのだろう。

だが、わたしたちは実際はそんなに揺るぎのない確固とした存在としてあるわけではない。さまざまな関係において、さまざまな役割を果たし、さまざまに移ろいゆくのがわたしたちだ。模倣によって、役割を学び、社会の一員となっていくわたしたちは、どこまでいっても「模倣」から自由にはならない。模倣ではない考えなどどこにもないように、模倣ではない行動も、どこにもない。

だがここまでで見てきた小説に描かれる「真似」「模倣」は、いずれも暴力と結びついている。
『同居人求む』では、アリの外見をそっくり真似たヒルダは、アリの恋人を横取りし、アリを抹殺しようとする。
『リプリー』では、決して自分を受け入れてくれないディッキーを殺したトムが、ディッキーに成り代わっていく。
『ローマ熱』では、自分のモデルであるグレイスを、しばらくのあいだ引っ込んでもらうために病気にさせようとアライダは策略を巡らせる。
『こころ』では、「先生」がKを自殺に追いこんだとまでは言えないかもしれないが、自分とお嬢さんの婚約が、Kにどれほどのダメージを与えることになるか、少なくとも「先生」は十分に知っていたはずだ。
『駆け込み訴え』では、ユダはイエスを売る。

どうしてこんなことが起こるのだろう。
それは、肥大した自尊心が模倣を受け入れられないからではないか。これらの小説ではいずれも、模倣する側は、自分が模倣していることに気がついていようがいまいが、模倣することで傷ついている。その自尊心を回復するためには、モデルの側を排除しなければならないと思いこむようになる。
だからこそ、模倣は一種の暴力性を帯びてくる。

これは真似をする人間が不可避的に陥ってしまう陥穽なのだろうか。

だが、『名人伝』でには暴力と無縁の子弟関係も出てくる。
紀昌は飛衛を殺そうとした。飛衛は、そのような事態を避けるために、自分よりさらなる弓の名人である甘蠅を紹介するのである。この甘蠅のもとで修行に励んだ紀昌は、どうなっただろうか。

 甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙のごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、弓矢を執っての活動などあろうはずが無い。

(中島敦『名人伝』

彼が名人であるかないかは、それを判定する人の存在が必要になってくる。彼の腕を認める人がいなくては、ほんとうの名人かどうかはわからない。だが、弓を射る技術ということに限れば、承認も、自尊心もまったく無関係である。極め尽くした紀昌にとっては「天下一の名人であること」など認めてもらう必要はなかった。そこで彼は模倣の暴力性から免れるのである。

同じく中島敦の『弟子』では、孔子の弟子、子路の生涯が語られる。子路は自分と孔子の考えのどうしようもないずれ、ちがいは認めつつも、生涯、孔子を師と仰ぎ、孔子の弟子以上の承認を求めない。


これは小説だ、いま、わたしは別に誰かの模倣をしているわけではない、慣れないことをするときは、隣の人のやり方を真似ることもあるけれど、日常的にだれかの真似をしているわけではない、と思う人の方が多いだろう。だが、ほんとうにそうなのだろうか。

コマーシャルや雑誌の広告の多くは、製品だけをクローズアップするのではなしに、俳優やスポーツ選手や有名人が手にしているところを映し出す。それはどうしてか。

 近代に特有で、流行として組織されている模倣=競争は、他人が持っているモノを持とうとする努力としてだけではなく――あるいは、まったくそのようなものとしてではなく――、他人のスタイルを模倣しようとする努力として、特徴づけることができる。伝記というものは、主人公にはけっして見えなかったような形でその人の人生全体を見せてくれるからこそおもしろいのだが、それとほとんど同様に、他人のスタイルは、一つの全体を構成しているので、人を惹きつけうるのである。スタイルが自然に見えれば見えるほど、またそうするための努力が少ないように見えれば見えるほど、それは魅力的になりうる。なぜかというと、わけても、私たちが自分自身のスタイルを考えだそうとして、「自然な」自分の姿を思い浮かべようとしても、非常に難しいからである。

(…略)

 ブランメル(※19世紀に紳士服の流行をリードしたボー=ブランメル)とウォーホルが自己陶酔しているように見せかけたのは、自分自身を売るため、つまり彼らのスタイルが他者の目に望ましいものに映るようにするためであったが、ファッションモデルは身につけた衣裳や装飾品を売るためにポーズをとっている。実のところはしかし、それらはまったく同じことなのだ。流行の宣伝は、宣伝一般の多くがそうであるように、写真に写っている個々の商品だけでなく、消費のスタイルも売り出しているのである。今日の自分自身を売物にする人々は、とりわけ芸術家がそうだが(…)売るべき作品も持っている。だが、それを売るためには、まず自分という人間について触れ回るのである。

(ニコラス・クセノス『稀少性と欲望の近代 豊かさのパラドックス』北村和夫・北村三子訳 新曜社)

連日マスコミにはさまざまな「有名人」が登場する。「何を選ぶか」の指針を与えてくれるのがそうした「有名人」である。
多岐に渡る「有名人」の、さまざまな「素顔」が報道される。彼や彼女が好きなのものは何で、趣味は何、聞いている音楽は何……。
わたしたちはそのなかから「ほんとうの自分」「自分がなりたい自分」の手がかりを与えてくれるようなモデルを選び出す。そうしてそれぞれのモデルを模倣していると意識もしないまま、模倣していく。こういうことは、たいてい「ライフスタイルの選択」と呼ばれるが。

同じ「有名人」を模倣している人も多い。
わたしたちにとって「有名人」は「遠い」人々だが、「モデル」とわたしたちがライヴァルになることはない。だがともに「エビちゃんのファッション」を手本としているA子とB子のあいだにはライヴァル意識が生まれていく。このとき、A子とB子はともに「エビちゃん」を模倣しているのだが、何かのきっかけで(たとえば先にその靴を買ったという理由で)A子は「B子が自分を真似ている」と考えるかもしれない。自分が「近い」相手を模倣している、ということは、自尊心が許さない。そこで、近い関係にあっては、「模倣される」のはつねに自分、「模倣している」のは自分ではない誰か、ということが起こる。

相手のうちに「自分の真似」を見いだすのは、かならずしも客観的な根拠を必要としない。というのも、誰もが同じ大量生産品を持ち、誰もが同じソースから情報を得ているのだから。わたしたちが「自分だけ」を見いだすのは、そうした「ほとんど同じ」もののなかの、極めて些細な「ちがい」なのである。その些細な「ちがい」が重なり合ったとき、「わたしの真似をするのはやめて」と怒りを爆発させることになる。真似をする相手を許せなく感じ、排除したくなる。

わたしたちは自分が世界にたったひとりしかいない人間、かけがえのない人間であると承認してほしいと思って、日々を生きている。
これをすると、そうなれるのではないか。
これができれば、そうなれるのではないか。
何をするにしても、結局はこの承認を求めている。

一方で、自律した人間はすばらしい、という考え方は根強い。社会全体が独創性を持った「天才」の出現を待ち望んでもいる。そうして、あちこちに登場したさまざまな「天才」が、日々報道され、人々の承認を得ていく。
多くの人々は、模倣する側である自分に、いやおうなく気づかされていく。

カズオ・イシグロの『日の名残り』は、老年になって初めてこのことに直面した人物の物語ともいえる。
主人公のミスター・スティーブンスは、執事の規範のような父親を手本に、半生をダーリントン卿に仕えて過ごしてきた。

ミスター・スティーブンスは「執事はイギリスにしかおらず、ほかの国にいるのは、名称はどうであれ単なる召使い」と信じ、その職を誇りに思っている。

 品格の有無を決定するものは、みずからの職業的あり方を貫き、それに堪える能力だと言えるのではありますまいか。並の執事は、ほんの少し挑発されただけで職業的あり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込みます。そのような人にとって、執事であることはパントマイムを演じているのと変わりません。ちょっと動揺する。ちょっとつまずく。すると、たちまちうわべがはがれ落ち、中の演技者がむき出しになるのです。偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的あり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。

(カズオ・イシグロ『日の名残り』土屋政雄訳 中公文庫)

だがダーリントン卿は、あまりに高潔な「イギリス紳士」であるために、逆にナチスにつけこまれ、そのプロパガンダとしてイギリス国内でさまざまな活動を行う。ダーリントン卿をいさめる手助けを求められたミスター・スティーブンスは、主人にまちがいがあるはずはないと断り、執事としての役割を果たすことに全力をそそぐ。

戦後、ダーリントン卿は自らの誤りを認め、失意のうちに逝去する。そうしてミスター・スティーブンスは屋敷とともにアメリカ人の主人に仕えることになる。だが、どれほど完璧な執事を演じようと、新しい主人との齟齬は深まるばかり。そうして最後に気がつくのである。

ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意志でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?

ミスター・スティーブンスは自分の人生を振り返り、「選ばずに、信じた」という。自分の意志を持たなかった、という。
だがそれは正確ではない。いかなる選択もそれはミスター・スティーブンスの意志でなされた選択なのである。ミスター・スティーブンスが悔いているのは、自分が父親と代々受け継がれてきた「イギリスの執事像」をもとにモデルを作り上げ、それを模倣してきたことだ。「選ばずに、信じた」のは「あるべき執事像」がおこなった選択である。振り返ってみて、自分が自分として選択しなければならなかった場面で、「あるべき執事像」の模倣をしたことを後悔しているのである。

だが、人間にどうやって「自分だけ」の選択ができよう。いかなる選択も、ある役割が要求する選択である。その役割は、すべて何らかのモデルを持つものなのである。その人にできるのは、どの役割を選ぶかの選択であり、どのモデルを模倣するかに過ぎない。ミスター・スティーブンスは「選ばずに、信じた」と言っているが、そうではなくて、「イギリスの民主主義を護るために何らかの役割を果たす」というモデルを持たなかっただけ、いくつかのモデルを比較し、よりよい判断をする、という方法がとれなかっただけの話なのである。

わたしたちは模倣をすることで、人間となっていった。
まず、わたしたちが何か「自分だけ」の側面を持っている、という考え方を改めよう。
そうして、模倣を創造とを対置させて考えるのもやめよう。模倣の要素のない創造などありえない。「独創的な考え」は「模倣の組み合わせ」だ。

わたしたちそれぞれの「かけがえのなさ」というのは、物や量ではない。物や量なら所有したりも喪失したりもする。そうではなくて、わたしたちがさまざまな局面で築いていく関係のなかで、かけがえのない存在になることができるものなのだ。
模倣をしながら生きていく自分が、同じように模倣をしながら生きいく相手を認めること。
相手を排除するような関係に陥らないためには、それしかないのではあるまいか。

いまは失意のうちにあるミスター・スティーブンスも、やがてまた新しいモデルを見つけることができるかもしれない。最後にミスター・スティーブンスは日の名残りが消え、桟橋にあかりが点るのを見に来た人々を眺めながら思う。「いま、ここから見ておりますと、じつに楽しげに笑い合っております。人々が、どうしてこれほどすみやかに人間的温かさで結ばれうるのか、私にはじつに不思議なことのように思われます」。そうして、結びつける役割を果たすものとして、ジョークに思いいたる。「本腰を入れてジョークを研究すべき時期に来ているのかもしれません」。



 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。
おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽りかざりて名をたてんとす」とそしる。
おのれが心に違えるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚の性うつるべからず、偽りて小利をも辞すべからず、かりにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

吉田兼好『徒然草第八十五段』
初出 June. 24-30 2007 改訂 July. 10, 2007

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