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タイプライター



ペンティメント― ジュリア 

 リリアン・ヘルマン




 ここでは名前のほとんどを仮名にしている。いまとなっては何ら差し支えないのかもしれないけれど、列車に乗っていた大柄な娘は、まだケルンに在住しているかもしれないし、ドイツ人が初期の反ナチ運動を、今日でさえ、どこまで好ましいものに感じているか、定かではないからだ。さらに考慮すべきは、未だ存命中のジュリアの母親と、おそらくこちらも生きているはずの、ジュリアの娘のことだ。同様に、娘の父親がサンフランシスコにいることもまちがいない、とわたしは考えている。

* * *

 1937年に『子供たちの時間』と『来るべき日々』を書き上げたのち、わたしはモスクワ演劇祭に招かれた。これまでこの旅行について書いたことはあったけれど、途中通ったベルリンの部分はいつも省いてきた。というのもジュリアのことを書けるような気がしなかったからだ。

 ドロシー・パーカーと夫のアラン・キャンベルも同じ年の八月、ヨーロッパに行くことになっていたので、わたしたちは古色蒼然たるノルマンディー号で、ともに船旅を楽しんだ。もっともキャンベルは、人の良さそうなふりをしながら裏で女性的な悪口を言い散らすので、これにはずいぶんうんざりさせられたけれど。

 パリに着いてからも、わたしはまだモスクワに行こうか行くまいかと迷っていた。パリでぶらぶらしながら、ジェラルドとサラのマーフィ夫妻と近づきになったり、スペインからやってきたヘミングウェイや、リング・ラードナーの息子ジェイムズ――間もなく国際旅団に加わり、数ヶ月後にはスペインでその生涯を終えることになる――に会ったりしながら愉快に過ごしていたのだった。

 わたしはマーフィ夫妻がすっかり気に入ってしまった。以前からあこがれていたし、興味もあったのだけれど、上の世代に属する人など、所詮自分には関係ない、と思っていたのだ。ふたりは、おそらくカルヴィン・トムキンスがその伝記で言っているとおりの人々だったのだろう(※カルヴィン・トムキンスは"Living Well Is the Best Revenge"『優雅な生活が最高の復讐である』というタイトルでふたりの評伝を書いた)。ふたりの生き方には一種の様式美があった。ジェラルドはウィットに富み、サラは気品があって、しかも賢く、その夏は、息子をふたりとも亡くしたばかりだったのに、彼らの物腰には優雅な威厳といったものがあった。だが、わたしたちのつきあいも歳月を重ねるうち、ふたりの仲は、他人が考えるほど結構なものではなく、まったく問題がないわけでもないのだと思うようになる。終わりになる――つまり、わたしたちの交際が途絶える、具体的には、ジェラルドが亡くなる数年前を指す――よりかなり前に、すでにわたしは、ふたりの生活は、スタイルにがんじがらめにされているのではないか、と思うようになっていた。ライフスタイルというのは、それに意義を認める人にとっては大きな歓びにもなるのだろうが、ライフスタイルが要求する厳格なルールを受け入れ、それに従って生活している当の人間が、それに見合うだけの見返りをつねに得ているとは思えないのだ。

 その夏のパリには、ほかにも大勢の有名人や大金持ちがおり、ドッティ(※ドロシーの愛称)はそうした人々に招かれて、ディナーや郊外での昼食会、やりもしないテニスや、泳ぎもしないプールにまで出かけていた。そのときも、それからのちも、みんながドッティのご機嫌をとろうとするのを、わたしはおもしろく眺めていた。彼女の礼儀正しさはいささか度が過ぎていて、一種の悪ふざけに近いもの、多くの場合ドッティが、お世辞がほしくなったまさにそのタイミングでおべっかを使ってくる連中に対して、軽蔑や嫌悪を隠そうとするためのものだったので、わたしは見ていて飽きなかったのだ。酔いの回ったドッティの礼儀正しさは度を超して馬鹿丁寧になり、ところがその口調たるや滑稽かつ辛辣なもの、もうだれも彼女におごってやろうと思わなくなるだろう、とドッティ自身が、そうしてわたしも、考えるようなものだった。ところがそれはちがっていた。人々は彼女と酒を飲みたがったし、実際、何年もにわたってそうし続けたのだ。けれども人々がともに過ごしたのは彼女の人生のほんの一部だけで、最後にドッティは、自分ひとりの道の途上で息絶えたのである。

 ここでのなにもかもがわたしには目新しかった。ニューヨークでもハリウッドでも、演劇の世界でとりあえずの成功をおさめた若い新人ならだれもが受けるような扱いを、わたしも受けていた。けれどもパリに滞在した数ヶ月間にわたしが受けた招待は、ドッティの崇拝者たちのそれと比べると、所詮二流のものでしかなかった。わたしは大変愉快に過ごしたし、これまで生きてきたうちでも、もっとも楽しかった時期のひとつだ。けれどもある日、したたかに飲み明かした翌朝、わたしはもはや楽しくなくなってしまっていた。わたしは大恐慌時代の子であり、おそらくは一種のピューリタン的社会主義者だったし――このように名前をつけてしまうと、実際よりもはっきりとした印象を与えてしまうけれど――、初期のルーズヴェルト政権が多くの人々に育んだ強い決意に燃えていたのである。ドッティも、わたしたちだれもが抱いていた社会や未来に対する信念を、同じように抱いてはいたけれど、単なるジェネレーション・ギャップ以上の差があった。ドッティが長いあいだ馴染んできたものを、わたしはほしいとさえ思わなかった。ドッティが有名人や金持ちに引きつけられながらも、いつも背を向けてきたのは事実だ。だが、わたしは彼らが気にかかるほど好きになったことは一度としてなかったのである。

 子供のころの親友で、ウィーンで医学を学んでいたジュリアとは、その夏何度か電話で話していたのだが、その飲み明かした朝、ジュリアに、明日モスクワに行く途中ウィーンに寄るから、と電話をかけた。その晩、ひどく遅い時間にジュリアから電話がかかった。

「あなたにやってほしい大切なことがあるの。たぶんやってくれるとは思うけれど、もしかしたら無理かもしれない。とにかく、もう何日かパリにいて、友人と会ってくれないかしら。もしお願いを聞いてくれるんだったら、あなたはベルリン経由でモスクワに直行することになる。その帰りにわたしたち会えるわよ」

 何がなんだかわからない、友だちってだれよ、なんでベルリンなの、とわたしがいうと、ジュリアはこう言った。
「そういうことは言えないの。明日ドイツのヴィザをとっておいて。どうするかは自分で決めてほしい。いま言えるのはこれだけ」

 ジュリアの頼みにそしらぬ顔をすることなどできるはずがなかった。いつだってわたしたちはそうしてきたのだから。翌朝ヴィザの申請のために領事館に行った。領事は通行許可証は発行できるけれど、ベルリンで一晩を超えて滞在することはできないという。ロシア領事館に行ってみると、そのルートでモスクワ入りする人々に対しては、その措置が決して異例ではないことを教えてくれた。

 二日間待ってみて、こちらからもういちど電話しようと決めた日の朝早く、朝食を取りにホテル・ムーリスのダイニングルームにおりていった(ドッティとアランを避け、誘いもすべて断っていたために、アランから、どうしちゃったんだい、なんで部屋に鍵なんかかけて閉じこもってるの、というとげを含んだ詮索がましい二枚のメモが届き、わたしは腹を立て、うんざりしていたのだ)。するとコンシェルジュが、殿方がベンチでお客様をお待ちです、と言う。長身の中年男性がベンチから立ち上がって話しかけてきた。
「マダム・ヘルマンでいらっしゃいますね? 切符をお届けして、ご旅行の手順をお伝えするためにまいりました。ミス・ジュリアのご指示で、旅行案内を預かっております」

 一緒にダイニング・ルームに入り、何をお召し上がりになる? と訊ねると、男はドイツ語で「卵とホットミルク、ロールパンをひとついただいてもかまいませんか? 持ち合わせがないのです」と答えた。

 ウェイターが行ってしまうと、長身の男は言った。「もう二度とドイツ語がわかる素振りをしてはなりません。わたしのミスでした」

 心配しなきゃならないほどわかるわけじゃないわ、とわたしが言っても、男は返事をせず、食事が運ばれてくるまで、取りあげた旅行案内に目を通していた。食事が来るや猛然とそれに取りかかり、あたかも過ぎ去った大昔の日々を懐かしむがごとく、ほほえみを浮かべながら食べ続けた。食べ終わると男はメモをくれた。それにはこう書いてあった。

この人は友人のヨハンです。ヨハンが伝えてくれます。だけど、これはわたしから。無理をしようとは思わないで。できないと思ったら、やっちゃいけない。義理だのなんだのは、なしよ。なんにせよ近いうちに会えるわね。

愛をこめて、ジュリア

 ミスター・ヨハンは「おいしい朝ご飯をごちそうしてくださって、どうもありがとうございました。チュイルリー公園の散歩などいかがです?」と言った。

 庭園に入るとヨハンが、ベンジャミン・フランクリンについてどのくらい詳しいですか、専門的な知識はお持ちですか、と聞いてきたので、何も知らないわ、と答えた。なんでもフランクリンを尊敬しているとかで、わたしがアメリカに戻ったら、良い肖像写真を一枚送ってもらえないだろうか、と言う。やがて唐突にベンチに腰をかけ、寒く湿気の多い日だったにもかかわらず、額の汗をぬぐった。

「ドイツのヴィザは申請しましたね」

「旅行ヴィザよ。泊まることはできないの。ベルリンでモスクワ行きに乗り換えるだけ」

「わたしたちのために、五万ドルを運んでいただけますか? おそらくご面倒なことにはならないはずです、保証まではできませんが。あなたが運んでくださるお金は、すでに獄中にいる同志や、やがて投獄される同志を外に出すための賄賂として使われるものです。わたしたちは小さな組織です。ヒトラーに反対する勇敢な労働者のグループです。共通する特定のイデオロギーも宗教もありません。あなたがこのお金を持って行く相手は――もし承諾してくだされば、の話ですが――、以前は小さな出版社を経営していました。カトリック、共産主義者、思想信条はさまざまです。ジュリアさんはこんなふうに言っておられた。あなたというかたは、自分が怖れるということを怖れているところがある。だから、時として、無理なことでも引き受けようとする。そのことをもういちど考えてみるように、と。あなたにとっても、わたしたちにとっても、大変に危険なことになりかねませんからね」

わたしはハンドバッグのなかをごそごそとかきまわし、タバコに火をつけてから、そのあともしばらくかきまわしていた。男は疲労困憊した様子でベンチに背中をあずけ、そのまま背中を伸ばした。

しばらくしてわたしは言ってみた。「飲みに行きましょう」

「もういちど言っておきます。わたしたちは何も問題は起こらないと考えていますが、そうとばかりはいかないかもしれません。ジュリアさんはそのことをきちんと伝えるように、とおっしゃっていました。もしワルシャワにお着きになるまでにあなたの消息が途絶えでもしたら、ジュリアさんはジョン伯父様を通じて、ご家族に縁故のあるアメリカ大使を動かすおつもりだ、と」

「ジュリアの家族なら知ってるわ。昔はあまり信頼してなかったような気がするけれど」

「そのことをあなたは忘れてはいないだろう、とも言っておいでだった。だから、ジョン伯父はいまでは州知事になっていることも伝えるように、と。伯父様はジュリアさんのことはお気に召さないようですが、その経歴を得るために資金援助はお受けになったようだ。おまけにお母上まで、離婚なさったことで、ジュリアさんの資産にすっかり頼っていらっしゃる」

巨万の富を抱えたジュリアが一族を支配している絵柄を想像すると、わたしはおかしくなってしまった。十八歳を超えてから顔を合わせたのはせいぜい十数回といったところだったので、わたしが知らないところで、歳月の経過とともに様々な変化があったとしても不思議はない。ジュリアは女子大を卒業するとオックスフォードへ進み、そこからウィーンの医大に移り、フロイトのもとで分析を受けながら学ぶようになっていた。わたしたちは十八歳になるまでの十年間、クリスマス休暇を一緒に過ごし、マサチューセッツ沖をジュリアの小さな船で一ヶ月にわたって航海した夏もあったけれど、そのころわたしたちが頻繁にやりとりしていた手紙には、自分たちの生活についての話はごくわずかしか登場せず、日々の細々としたこと、ほんとうはそれこそが真実でありどんなことより重要だったはずなのに、そういうことはお互いほとんど知らないままだったのだ。

 わたしが知っていたことといえば、たとえばジュリアが社会主義者になったこと――おそらくいつだってそうだったのだろうが――、そうして社会主義者として生き、ウィーンのスラム地区で一部屋だけのアパートに暮らし、巨万の富を、だれであれそれを必要とする人々と分かち合っていたことぐらいだ。自分自身が所有することを認めず、ほしがることをしなかった。奇妙なことに、わたしへのプレゼントは、所有財産の否定ということを免れていたらしい。数々の贈り物はどれもひどく高価なものだったから。ジュリアは長いことわたしの気に入りそうなものを見つけると、送ってくれていた。ウェッジウッドの陶器やトゥールーズ・ロートレックのデッサン、パリで一緒に見つけた毛皮の縁取りのついたコート、めずらしいエンパイヤ・デスクに所蔵していた自分のバルザック全集、ジョージ王朝時代のすばらしい宝石のセット、この宝石を買ったあと、おそらくジュリアには買い物をする時間などなくなってしまったのだと思う。

 わたしはこの白髪混じりの男に言った。「ちょっと考える時間をくださるかしら。ジュリアもそうするように言ってるし」

「あまりつきつめて考えない方がいい。こういうたぐいのことは事前に考えすぎないほうがうまくいくものです。明日の朝、駅におります。運んでくれる決心が固まったら、わたしに、こんにちは、と言ってください。もし自分がそうすべきではないとお考えなら、わたしの横を通り過ぎてください。決心した結果がどうであろうと、あまり悩まれませんように」そう言うと、片手を差し出して、お辞儀をし、庭園を横切って去っていった。

 その日はずっと、サント・シャペル教会やそのまわりで時間を潰した。昼食も夕食も、どうやっても喉を通らず、ドッティとアランがマーフィ夫妻と一緒に夕食に出かける時間を見計らって、荷造りのためにホテルに戻った。ふたりには、明日の朝早く発ちます、モスクワから戻ったときにまたお会いしましょう、とメモを残した。一日中思いは千々に乱れ、結論が出せずにいた。だから横になって、自分自身の見極めがつくまで眠らずにいようと思ったのだ。けれども、決断しなければならない事態に直面すると、それが重要なものであればなおのこと、わたしは決まって眠くなってしまう。おそらく決断というのは直観に従って下すもので、考えて結論を出すというのは、結局のところ、ほかの人の「そうしなさい」に従うことにほかならない、と理解していたからだろう。いずれにせよわたしはぐっすり眠って、起きたときは、急がなければ早朝の列車に間に合わない、という時間になっていた。

 ロビーにドッティとアランを見つけたときは、困ったことになった、と思った。ふたりはわたしを送っていこうと待ちかまえていたのである。その必要はないわ、というわたしの言い方があまりにもかたくなで不器用だったので、裏のある話には驚くほど鼻の利くアランが、一緒に来られちゃまずいような理由でもあるのかい、などと言う。アランがタクシーを呼びに行った隙に、ドッティには謝っておいた。「ごめんなさい。邪険な言い方をしちゃって。だけど、アランがいると、イライラしちゃうのよ」

 ドッティは笑った。「まぁ、リリーったら。アランにイライラしなくなっちゃったら、気がヘンになった証拠よ」

 駅に着いて手荷物が運ばれていくと、わたしはふたりに、もう帰っていいから、とせっついた。ところがアランは何かに興味を引かれたらしい。おそらくわたしがピリピリしていたあたりだろうが。少なくともアラン自身が言うように、これまでモスクワに向けて旅立つ人間を見送ったことがないから、などという理由では断じてなかったはずだ。アランはばかばかしいジョーク、ロシアの俳優に言ってはならないことだとか、キャビアをくすねるのにはどうしたらいいか、などとしゃべり散らし、まさにアランのようなくだらない連中が腹に一物あるときのような態度を見せていた。

 あの白髪混じりの男がプラットフォームをこちらに向かってくる。すぐそばまで来たとき、アランが気がついた。「昨日、チュイルリー公園で一緒にいたやつじゃないか」とっさにわたしがアランに何か言おうとしたとき――いったい何を口にしようとしていたのだろう?――、男はわたしの横を通り過ぎ、それから向きを変えて戻っていこうとした。

 わたしは追いかけた。「ミスター・ヨハン、ちょっと待ってください、ミスター・ヨハン」振り向いた彼に、度を失ったわたしはひどく大きな声で呼んだ。「行ってしまわないで。お願い」

 男は険しい目をしたまま立ちつくし、無限とも思われる時間が過ぎた。それからゆっくりと、ふたたびわたしの方に歩いてきた。まるで注意しながら、ためらいながら、とでもいうように。

 そのときわたしは思い出した。「ただ、あなたにこんにちは、って言いたかっただけなんです。こんにちは、ミスター・ヨハン、こんにちは」

「こんにちは、マダム・ヘルマン」

 アランが横に来た。ここは十分警戒してかからなければ。「こちらはキャンベルさんとパーカーさんです。キャンベルさんは昨日わたしたちを見てらして、そちらがどなたか、とか、わざわざお見送りにいらっしゃるほど、わたしたちは親しいのか、とか、お知りになりたいんですって」

 ミスター・ヨハンはよどみなく答えた。「もしほんとうにそうだったら光栄なのですが。実のところ、ポーランドに発つ甥を捜しているところなんです。客室にいないんです。遅れたんだろう、まったくそれが癖でね。甥の名前はW.フランツ、二等の四号車なんですが、もしわたしが会えなかったときは、どうかわたしが来ていたと伝えてくださったらありがたいのですが」そういうと、帽子をちょっと上げた。「マダム・へルマン、あなたがこんにちは、と言ってくださる機会に恵まれて、大変感謝しております」

「ええ、そうですね」とわたしは言った。「ほんとに、こんにちは、こんにちは、なんです」

ミスター・ヨハンが言ってしまうとアランが言った。「なんて変なことを言ってるんだ。外国人みたいな話し方だったぜ」
「それは失礼」わたしは答えた。「ヴァージニアでしゃべってるときのあなたみたいに訛ってなくてごめんなさいね」

 大声で笑うドッティにキスして、わたしは列車に飛び乗った。緊張のあまり、反対の方向に歩いていた。車掌がわたしの客室の場所を教えてくれたころには、列車はすでに駅を離れていた。目指す車両の手前の連結部に、スーツケースと箱をふたつ持った若い男が立っている。その男が話しかけてきた。「わたしがW.フランツです。甥で、二等客車の四号の。これはミス・ジュリアからのお誕生日プレゼントです」そう言ってわたしにお菓子の箱と〈マダム・ポーリーン〉とロゴの入っている帽子の箱を渡してくれた。そうして軽く会釈するといってしまった。

 わたしは二つの箱を、客室に持って入った。若い女性が二人、左のシートに坐っている。ひとりは小柄で痩せており、杖をもっていた。もうひとりは体格の良い女性で、おそらくは二十八歳といったところ。暖かい日だったのだが、分厚いオーバーを体にしっかりと巻き付けていた。ふたりに笑いかけると、向こうも黙礼を返し、わたしは腰を下ろした。箱を脇に置いたところで初めて帽子の箱にメモが留めてあるのに気がついた。仰天したわたしは、トイレに持っていこうかと思ったが、かえって怪しまれる、と考え直し、そのメモを開いた。そのころのわたしは詩でも、誰かの言葉でも、ものごとの様子でも、なんでも記憶しておくことができたのだが、長い歳月を経るうち、その記憶もすっかり色あせてしまった。だがそのメモは未だに一言一句忘れてはいない。

国境ではお菓子の箱は座席に置いたままにしておいて。この箱は開けて、帽子はかぶるの。あなたが彼らのためにやろうとしてくれることのお礼は言わない。わたしからのお礼も。だけど、わたしがいつもあなたを愛していることは書いておくわ。  ジュリア

 メモを握りしめたわたしは、坐ったまま動けなかった。わたしはおなじみの状態、自分を理解できる年齢になってからこちら、幾度となく経験してきた、不安のあまりに自分の手さえ動かせないような状態に陥ってしまっていた。自分の知性を必要以上に謙遜してみせるほどわたしは愚かではない。だが、知的な面がある一方で、子供の頃からある種の単純な問題に直面すると、出口が見つからなくなるほど複雑にしてしまう、困った一面がわたしにはあったのだ。ほかの人なら即座に把握できることがらが、どうしても理解できない。まさにそのときがそうだった。ジュリアはどこで帽子の箱を開けたらいいのか、教えてくれていない。通路か、トイレへ持っていけば、向かいのふたりに変に思われるだろう。そうやって身動きもならず坐っていたのだが、やがて列車がいつ国境を通過するのか、自分が知らないことに気がついた。ほんの数分後なのか、数時間後なのか。決断しなければならないのだが、わたしにはそれがどうしてもできないのだった。

* * *

 子供のころのことをわたしはあまり覚えていない。その時期が終わりを告げるころ、不幸な思い出を忘れてしまいたいなどというありきたりな理由があったわけではもちろんないのだが、これといった原因もないまま、ただそこから顔を背けてしまったのだ。それが長いこと気になっていたのだが、やがて、人の思い出話というものは、あまり当てにはならないことがわかるようになった。過去の栄光や楽しかったことをあれこれ話してそこに慰めを求める人もいれば、実際にあった、あるいは想像上の過去の苦悩にしがみつき、いまの自分の言い訳にしようとする人もいる。

 自分の思い出のことは、比較的わきまえてきたように思う。確かな時期、夢や幻想が入りこんできた時期、夢が、あるいは夢見る必要があったということが、実際に起こったことをどのように歪曲していったかも。だから、ひとりっ子特有の抑えようのない怒りが、現実の悪夢をさらに歪めるものであることも、早くから理解していた。それでもジュリアについてわたしが記憶していることの隅々に到るまでを、わたしは信頼してかまわないと思うのだ。

 あれから長い歳月が過ぎたいまでも、ジュリアの祖父母が暮らしていた五番街の屋敷なら、明かりがなくても階段を上ることができるだろうし、夜中でも、物であふれかえった部屋の中を通り抜けることができるはずだ。洗練されてはいるがすっかり古ぼけた、行けども行けども続く部屋それぞれの壁は、絵で覆い尽くされ、テーブルの上には値打ちの見当もつかない置物がところ狭しと並べてあった。正直言ってその家で何を話し、何をしたか、わたしはひとつも覚えていないのだけれど、そこに泊めてもらった最初の夜のことはよく覚えている。大晦日の晩の、夜遅いディナーの席に着いていたのだった。コースの途中、魚と肉の間に口直しのためのシャーベットが出された。ジュリアのお祖母さんは「お口のお掃除」と言っていたけれど。わたしたちには水で割ったワインが出され、赤と白のワインとシャンペンは老人たちのものだった(そのときのふたりは本当に年寄りだったのだろうか。いまとなってはよくわからない。ともかくジュリアのお祖父さんとお祖母さんだったのだ)。食卓でどんな会話が交わされたか思い出すことはできないけれど、食後、わたしたちも一緒に音楽室に入っても良いことになった。召使いがすでに蓄音機でバッハのハープ曲〈羊は安らかに草をはみ〉をかけていたので、わたしたち四人はしばらく耳を傾け、やがてジュリアは立ち上がると、お祖母さんの手とお祖父さんの額にキスをして、わたしに、ついてくるように、と身振りで示した。なにもかもが奇妙な儀式のようで、大金持ちの生活というのは、わたしの理解を超えている、とつくづく思ったものだった。

 大晦日がくるたび、この夜のことがよみがえってくる。ふたりともツインベッドに寝転がって、ジュリアがいろんな詩のあちこちを暗唱したのだった。ときおり止まってわたしにあとを続けさせようとするのだけれど、わたしにはなにひとつわからない。ダンテをイタリア語で、ハイネはドイツ語で、どちらの言葉もまるでわからなかったけれど、音の響きはことのほか美しく、わたしの胸はせつなさでいっぱいになった。まるで、この先世界にはたくさんのことが待ちかまえている、わたしが自分の道さえ見つけることができれば、すばらしい、充実したものになるのだ、といわんばかりに。わたしはマザー・グースを暗唱し、ダンの「ジュリア」を暗唱したジュリアは、「わたしに捧げてくれたのよ」とうれしそうに笑う。それってジョークなの、それともほんとのこと? と聞いて、決まりの悪い思いをしたのもそのときだった。

 夜も更け、眠ろうと向こうを向いたジュリアに「もっと聞かせて、お願い、ジュリア、もっと知ってる?」とわたしはせがんだ。するとジュリアはまた明かりをつけて、オウディウスとカトゥルスの詩の一節を暗唱してくれた。名前を聞いてもどこの国の人か見当もつかなかったけれど。

 自分でも気がつかないうちにわたしは耳を傾けるのをやめ、枕に頭をあずけたジュリアの美しい横顔を眺めていた。ランプが、濃い、豊かな髪に淡い灯を投げかける。優雅、あるいは繊細、また、強靱などという言葉をそのころのわたしが知り、また実際に使ったことがあったかどうか定かではないのだけれど、その夜、わたしはこれまでにこんな美しい顔を見たことがない、と思っていたことはまちがいない。後にジュリアの容姿を特に考えたことはなかったけれど、わたしたちがともに成長していくうちに、人がよく「風変わりな美人」とか「だれにも似ていない」とか、なかには知識をひけらかしたい人間が「バーン・ジョーンズふうの顔立ちだ」とか言うのを耳にしたけれど、もちろんジュリアの顔は、バーン・ジョーンズの肖像画とも似ていなければ、いかにも信仰深げな表情とも無縁だった。

* * *

 それから何年も過ぎ、その大晦日の晩と、ドイツへひた走る列車に乗っていた晩との間には、二十年の時があった。その後何年も、さらにジュリアが亡くなってからもずっと、ジュリアに対してわたしが抱いていた愛情、ひとりの少女がもうひとりの少女に対して抱く性的なあこがれ、というにはあまりに激しく複雑な感情について、よく考えたものだ。たしかにそうした側面はあった。わたしにはよくわからないし、たいしたこととも思えない。いまとなっては答えのでない推測ゲームでしかない。わたしたちがキスしたことがない、という事実も、何かを明らかにするものではないだろう。ロンドンの葬儀場で、ひどい修復を施されてすっかり損なわれてしまったジュリアの顔の上に、キスしようと顔を寄せたときも、わたしをためらわせたのはひどい傷跡ではなかった。ジュリアにキスしたことのないわたしがそうすることを、おそらくは彼女も望んでいないだろうと思ったのだ。だからそのかわりに、そっと顔にふれたのだった。

 その大晦日から数年後、わたしは公立学校に転校した(父の経済状態が悪くなって、私立の学費を払う余裕がなくなったのだ)。けれどもジュリアとわたしはほとんど毎日のように会い、土曜日が来ると毎週ジュリアの祖父母の家へ泊まりに行った。だがやがて、わたしたちの生活も変わっていく。ジュリアは夏と冬の休暇にはずっと旅行に行くようになり、帰ってきてからも、わたしがヨーロッパの美人のことを訊ねると、肩をすくめるだけ、見せてくれたのはジュリアの興味を引いた風景のあまり写りのよくないスナップだった。カイロで見かけたふたりの盲目の子供――蠅が媒介する病原菌が原因で失明したらしい――、テヘランの下水を飲む人々、ヴェニスではサン・マルコ寺院の代わりに、ゴンドラの船頭が暮らす粗末なあばらや、聞かせてくれたのは、ヴァチカンの輝かしい絵や建築についてではなく、ローマの下町トラステヴェレの貧困の様子だった。

 帰国したジュリアが額縁に入った写真を見せてくれたことがあった。美しい女性はジュリアの母親で、夫となったイギリス人男性と一緒に写っていた。お母さんに会ってどうだった? と聞くと――それまでただの一度も、ジュリアがお母さんのことを口にするのを聞いたことがなかったのだ――、わたしの顔をまじまじと見たあと、母は「とってもステキなお城」のもちぬしになって、新しいダンナはタダ飯の好きな爵位持ち連中に酒をついで廻ってたわ、と教えてくれた。一緒にイヴリン・ウォーやH.G.ウェルズ、ナンシー・キュナードの名前も出たので、もっと教えてよ、というと、わたしは何もしらない、あの人たちはこんにちは、って言ってくれたけど、わたしはそこを出て、自分の部屋に戻りたくてたまらなかったの、と答えたのだった。

「でもね、わたしがいたのはただの部屋じゃなかった。みんながスイート・ルームを使ってるの。なのに十四人いる召使いの部屋は、どこか地下にあって、おまけに窓がひとつでもあるところはほんの少し。母はその穴蔵を『召使いの部屋』って呼んでたけど。おまけにそこには変な臭いのする風呂がひとつしかなくて、それをみんなで使ってる。母はすぐに学習するってわけ。どこにいようとね。その国のやりかたにはさからわないのよ」

 わたしたちが十六歳のときのイースターの休暇、ジュリアの祖父母と一緒にアディロンダックにある山荘に行ったことがある。彼らが暮らしていたあらゆる場所がそうであったように、そこも大きくて古ぼけていた。老人ふたりはかなりの量の酒を飲み――おそらく以前からずっとそうだったのだろうが、わたしはそのころになるまで気がつかなかったのだ――食事がすむたびに昼寝をしていた。だが夜は遅く、フランスから取り寄せた精緻なジグソーパズルをふたつのテーブルに分かれてやり、先に仕上げた方が、もうひとりに多額の小切手を切るのだった。

 ジュリアがシャンプレーン湖やその界隈でキャンプ――ときには週末ずっと家を空けることもあったのだが――をする許可を、ふたりに求めていた記憶がわたしにはない。いわゆる、キャンプらしいキャンプというのではなかったけれど、毛布や替えの靴下、乾いた靴、缶詰めを持っていった。かなりの距離を歩き、ときどきわたしが鱒を釣り、高い丘に登ったこともある。そこでジュリアがウサギに網を投じ、女の子としては見たこともないような優雅さとスピードで駆けていったことがあった。そのときに皮を剥ぐやり方を教えてくれたのだ。その晩、わたしたちはその肉をベーコンで巻いてあぶって食べたのだが、今日までに食べたいかなる料理もそのおいしさには及ばない。もしかしたらこれまでに読んできた本のなかでも、『ロビンソン・クルーソー』がきわめつけの愛読書、というわたしの好みにもよるのかもしれないけれど。いまだに、どんな島を見ても、あのときのウサギを思って、わたしひとりで、身を潜める場所も道具もなしに、どうやって捕まえたらいいだろう、と夢中になって考える。

 歩いているときでも、釣りをしているときでも、わたしたちが横に並ぶことはほとんどなかった。そう決めたのはジュリアの方で、わたしはそうした彼女にあこがれていたのだ。ジュリアが考えているのは、わたしの理解の及ばないことであり、それを邪魔してはいけないと思っていたし、ひょっとしたらそのころでさえ、ジュリアがだれとも並んで歩きたがらないことに気がついてたのかもしれない。

 夜は毛布にくるまって、焚き火をはさんで向かい合い、わたしたちは話をした。もう少し正確に言うと、わたしが質問してジュリアが話をするのだ。講釈することなく知っていることを分かち与えてくれるという意味で、ジュリアはわたしがこれまでに会った人間のなかでもきわめてまれな存在だった。こんな話をすると、わたしがいかに幼かったか驚くのだが、わたしはフロイトの名前こそ知っていたものの、ジュリアから聞くまでは何を著した人かもはっきりとは知らなかったのだ。カール・マルクスとエンゲルスも、教科書に載っているような『共産党宣言』の著者である、という文章を超えて、理論を持った人間として、わたしの前に現れた。もちろんわたしたちも、ふつうの若い女の子がしゃべるようなことも話した。将来の恋人や結婚相手や赤ん坊のこと、生まれか育ちか、情熱的な恋愛は長続きするだろうか、といった、大人の鳥羽口にさしかかった少女だけが好んで話題にするようなあれやこれやのおしゃべりもしたのだった。

 ある晩のこと、わたしたちは長いこと黙っていた。焚き火の傍らで肘をついて寝そべるジュリアは、ドイツ語文法の本を読み、わたしはジュリアがセンテンスを繰り返すのを聞きながら、その音の響きに笑ってしまった。

 ジュリアが言った。「だめだめ。あなた、わかってないわ。人は先生になるか、生徒になるかのどちらかだけど、あなたは生徒の側ね」

「わたしはいい生徒?」

「あなたが求めているものを見つければね。たぶんすごくいい生徒になれると思う」

 わたしは腕を伸ばしてジュリアの手にそっと自分の手を重ねた。「あなたが好きよ、ジュリア」わたしのことをじっと見たジュリアは、その手を自分の頬に当てた。

 ジュリアがオックスフォードへ行ってしまったのは、わたしたちが十九歳の時だった。そこでの二年目にわたしは訪ねていった。人生の理想的な時期にさしかかって、面差しはこの上なく美しく、身の節々に到るまで優雅さと力強さがみなぎる、といった女性が世の中にはいるものだ。そのときのジュリアがまさにそうだった。だが幼い頃美しかったことにまったく無関心だったように、そのときでさえ意識していないようだった。よれよれで粗末な身なりはだらしなく、靴などはどこかの老人が履いているのをこっそりいただいてきたかのような代物だった。部屋を訪れる者もなく、というのも、ジュリアにすっかり首ったけの若きインド紳士が教えてくれたのだけれど、だれも来させないようにしていたらしい。ジュリア自身は、オックスフォードばかりでなくロンドンのいたるところから招待されていたけれど、わたしが覚えているなかで、ジュリアが敬意をこめて話したのは、J.D.バーナル(※物理学者で『科学の社会的機能』などを著した)とJ.B.S.ホールデン(※生物学者で『人間とは何か』などを著した)だけだった。一度か二度、一緒にロンドンの劇場へ出かけたことはあるけれど、劇の半ばを過ぎたあたりで大きなため息をつくと、劇場でお芝居を見るような気分にはなれないわ、シェイクスピアなら本で十分、そんなことさえいやなときもある、と言うのだった。

 翌年、ジュリアから手紙が来て、イギリスを離れてウィーンの医大へ行く、望み薄ではあるけれど、いつかフロイトの教えを受けることができたら、とあった。

 その年、わたしは手紙を何通も書いたのだけれど、ジュリアから来たのはたった一通、わたしの誕生日に電報が届き、続いてトゥールーズ・ロートレックのデッサンを送ってくれたのだ。これはいまもわたしの家にかかっている。わたしがロートレックのすばらしさを理解できると認めてくれたことがうれしかった、というのも、そんなものはとても理解できなかったからだ。実は、ロートレックについてはクラスの男の子から教えてもらわなければならなかった。このクラスメイトはよくハンバーガーをおごってくれたのだけれど、いま思うと、自分のホモセクシュアルの経験を聞いてもらいたかったのだろう(彼は第二次世界大戦中に華々しい栄誉を与えられたのだが、終戦になる一週間前に戦死したのだった)。

 数ヶ月ほどしてから、アン=マリー・トラヴァースから手紙が来た。アン=マリーもわたしたちと同じ学校に通っていたのだが、おぞましい夏のキャンプも一緒だったわたしの方が、ジュリアよりつきあいは深かった。アン=マリーは利口な子で、媚びるようなところがあり、そのお行儀の良さというのは、幼いうちから表面的には従順な態度を身につけた女にありがちの、底に怒りを秘めた種類のものだった。当時、アン=マリーはウィーンかその近郊にいたようで、思いがけない手紙――わたしたちはかれこれ四、五年は会っていなかった――には、通りでジュリアにばったり会ったこと、そうして「冷たくあしらわれた」こと、ジュリアが送っている奇妙な生活、政治的な活動をし、お金持ちではないふりをして、社会主義者や労働者階級の暮らす「貧民街」フローリツドルフ地区で生活をしていることがみんなの噂になっている、といったことが書いてあった。そのほかにも、ジュリアは医大では二番の成績で、首席もやはりアメリカ人、ただしドイツ系であるらしい、サンフランシスコ出身の大変優秀な彼は、ノルウェーふうの美男子、だけどわたしの(つまり、アン=マリーの)タイプじゃない、といったことも書いてあった。アン=マリーを知っていれば、彼女がひとつの文章の中で「ドイツ系」と「ノルウェーふう」をともに使うのは、けなしたい気持ちと、あこがれる気持ちが入り交じっているからだ、とすぐわかる。アン=マリーはほかにも自分の兄のサミーがつい先日自殺を図った、と書いていた。それから、あなたはまだ作家になろうか、それとも建築家になろうか、と悩んでるの? とも書いてあった。この手紙には奇妙なところ、内容によるものか、言葉の調子か、わたしにはよくわからなかったけれど、とにかく読んでいやな感じがしたのだった。

ひと月ほどして、すっかり手紙のことも忘れてしまったころ、今度はアン=マリーの兄のサミーから電話があって、夕食に誘われた。いまエルバに住んでいて君のことを考えてるんだ、と。同じことを夕食の席でも繰りかえし、四杯目のウィスキーをあおったあとにビールを流しこみ、わたしに処女かどうか聞いたりする。わたしのことなど興味を持ったこともなかったそれまでのサミーとは別人のようで、このあと何か言いたいことがあるのだろう、と思った。ハーレムにある〈スモールズ〉に腰を落ちつけたわたしたちは、さらにウィスキーとビールを重ねていたのだが、明け方の四時ごろ、べらべらしゃべっていたサミーがこんなことを言い出した。なんで離婚なんかしたんだ、兄貴のエリオットと結婚すればよかったのに、デトロイト出身の女房は大金持ちだったが、大恐慌ですっからかんになっちまったんだ、だからやつはいまフリーだよ、君にはお似合いだと思うがな、ま、おれからしたら、やつなんかただ顔がいいだけの退屈なやつだが。この話には続きがあった。おれは妹のアン=マリーに結構いかれてたんだ、だって、おれが十八であいつが十六のとき、おれたち寝たことがあったからな。おそらくここでわたしが腹立ちのあまり声を出してしまったせいなのだろう、こんなことをわたしに向かって言ったのだった。そういう君はなんだっていうんだ、ジュリアとのことなら、みんな知ってるんだぞ。

 奇妙な具合に変わってしまったアメリカの風習はいくつもあるけれど、そのひとつがこれだ。わたしが若かった頃、もちろん酔っぱらいはすぐに殴り合ったものだったけれど、いまのように、なにかあると酒場でナイフを振り回して争うようなことはなかった。そのころ、殴り合いをしてもケンカが終われば手を差し出し、もうひとりがそれを拒んだという話は聞いたことがない(ジェイムズ・サーバーが昔、有名なもぐり酒場だった〈トニーズ〉で、わたしに向かってウイスキーのグラスを投げつけたことがある。ハメットはサーバーを壁に叩きつけ、さらにサーバーはテーブルの上のグラスをハメットに向かって投げつけた、それが誤ってウェイターのトニーのいとこに当たったのだ。トニーは警察を呼び、こういうことを繰り返すサーバーの野郎にはもう長いことうんざりしてたんだ、とわめいた。その場にいた誰もが、そのとおりだ、と言い募ったけれど、ほんとうに警察が来たときには、わたしたちは仰天してしまい、みんなで警察に出向いて、なんでもない、ただ酔っぱらいがうっかりしてグラスを割っただけなのだ、と陳述したのだった。その後サーバーがわたしを好きになってくれたとは思わないが、それを言うなら、その前だって好いてくれていたわけではない。なんにせよ居合わせただれも、そのことについてはもう二度と口にすることはなかった)。そういうわけで、〈スモールズ〉のテーブルでその瞬間にわたしがやったことに関しては、なんら奇妙な点があったとは思えない。ただわたしはテーブル越しにサミーの横っ面をひっぱたき、立ち上がってテーブルをひっくり返して家に帰っただけである。翌日、女の子が電話をかけてきて、サミーは自分が何を言ったのか記憶にはないのだが、とにかく申し訳なかったと思っている、と伝え、夜になって大きな花束が届いた。数日後、またその女の子から電話がかかってきた。だからわたしは、サミーのことを悪く思っているわけではないけれど、十七のころより二十五になった今の方が、始末に負えない飲んだくれになってしまったみたいね、と言ってやった。するとその娘は、わかりました、サミーにそう伝えておきます、というのだった。

 わたしはアン=マリーに返事を書いて、ジュリアが何を考えていようが、どうしようが、それはジュリアがそうすることに意味があると考えた結果であるはずだ、だから思想信条や生活についての悪口なんて聞きたくない、と言ってやった。ところがわたしの手紙は戻ってきた。開封されなかったのか、再び封をし直されたのかは定かではないけれど、戻ってきた理由をわたしが知ったのはその一年後だった。

 それからほどなく、こんどはジュリアから、ウィーンへいらっしゃい、フロイトが迎えてくれたの、「間もなく起こるであろうホロコースト」について、あなたが知っておいたほうがいいことがいくつも起こっている、といった内容の手紙が来た。わたしはハメットと一緒に生活を始めたからいまここを離れたくない、だけど、たぶん来年にはそちらへ行くわ、と返事を書いた。その後のジュリアからの手紙には、ヒトラーやユダヤ人、急進主義者、ムッソリーニ、といったことが書いてあった。1933年から34年にかけて、わたしたちは頻繁に手紙をやりとりした。わたしは自分が戯曲を書こうとしているけれど、望み薄であること、それでもハメットがわたしを引っぱってくれていることをつづった。『子供たちの時間』というタイトルはどう思う? と聞いたのに、つぎの手紙でわたしが聞いたことを忘れてしまっていることがわかって、落ちこんだりもしたけれど、その手紙ではジュリアは、オーストリアの武装政治グループやヒトラーの脅威、「イギリスやフランスがドイツ型のファシズムの危険を認識しようとしないことは、犯罪に等しく、同じファシズムでももう一方はただそれを気取っているだけだ」、と怒りをあらわにしていたのだった。ジュリアの手紙には、わたしの理解できないこともたくさんあったけれど、そのころまでにはナチがわたしたちの生活に影響を及ぼしてくることは、だれもがわかるようになっていた。

 その時代のことを、当時わたしたちが見たままに「歴史」として書き表すことは、わたしにはできない。もう少し正確に言うと、わたし自身が見たことを歴史としては書けないのだ。記録があるわけではないし、いつ、何を理解していったのかも定かではない。ヒトラーによって――ムッソリーニのほうは馬鹿げた制服を着込んだほら吹きとして、わたしたちは眼中に入れていなかったのではなかったか――わたしたちは急進主義、あるいはわたしたちが急進主義と呼んでいたなにものかのもとに身を投じ、わたしたちの荒削りで生まれたばかりの確信は、やがて対立を生み、醜い闘争へと展開していったのだった。けれども1930年代の初頭に、わたしが知っている人々がやったことといえば、せいぜい抗議のプラカードを掲げるか、ニューヨークやハリウッドにやってきた、わずかばかりのドイツの亡命者から衝撃的な話を聞いたり、あれやこれやに募金する以上のものではなかった。わたしたちは、反ユダヤ主義にはいい気持ちはしなかったけれど、これもドイツでは昔からある話だった。なかには今回はそれだけではすまない、と考える者もいた。だが多くは、無知なペンキ屋が何かをわめいている(※ヒトラーは若い頃ペンキ屋をしていたことによる)ぐらいのことだ、わたしたちの世代から見れば、「進歩的」で「文化的」なドイツ人のことだから断固として拒否するだろう、と考えていたのだ。

 だが、1935年、あるいは36年にもなると、それまで半分も理解できない、あやふやで他人事だったものが、恐ろしい悲劇であることが徐々に明らかになってきて、自分は何を信じるのか、それに対して何をするべきなのか、速やかに評価を下さなければならなくなったのだ。1920年代の反逆者たち、わたしの上の世代の人々は、もはやスコット・フィッツジェラルド的な意味での反逆者でしかなかった。彼らは自分の血を無駄にし、酒の臭いがそんなに強くなければ嗅げたかもしれない未来を見ようとしなかった。フィッツジェラルド自身はこうしたことを理解していたから、新しく急進派に転身した元の友人たちを、当然のことながら憎んだのだった。けれども1920年代の反逆者たちは、わたしにはいつだってひどく奇妙に思えた。連中のほとんどは、しゃれて洗練された喜劇役者に過ぎず、金持ち社会のために、安い出演料で演技しているだけだ、と情け容赦なく考えたものだった。わたしがずっと求めていたのは、新しい急進主義だった。

 1934年にハメットとわたしはロングアイランドに住み心地の良い家を借り、ハメットが『影なき男』で得た金を、湯水のように使っていた。この年は、ふたりして飲んだくれた一年だったと言えよう。わたしもハメットや、入り浸っている連中と同じくらい飲んだけれど、最年少だったし、自分のさらす醜態にはほとほと嫌気がさしていた。しかも『子供たちの時間』もうまく進まず、元来つきあいのいいたちのハメットは、飲む酒の目安を軽めにすることに決めた。口にするのはシェリーとポートワイン、ビールだけ。おかげでハメットが飲んだくれることはなくなったが、必要最小限の食事も取らなくなり、気分はささくれ立ち、意地の悪いあてこすりを繰り返すようになった。わたしは何もかもから逃げ出したくなってしまった。ヨーロッパへ行く費用は、ハメットが用立ててくれた。

 戯曲を書き上げるまでは戻らないつもりだったので、お金はできるだけもたせる必要があった。まっすぐパリに向かい、小さくて安いホテル・ジェイコブに滞在することにして、誰にも会わないことにした。一日に一度散歩に出かけ、二度の食事は労働者が集まる店で取り、フランス語の新聞や雑誌を苦労して読んだ。新聞や雑誌ではたいしたことはわからなかったけれど、それでも人民戦線の結成を知った。その年、パリでファシストの暴動が起こった――起こるべくして起こったのだ。だが、いまもそのころもたいした違いはないけれど、たいていのアメリカ人がそうであるように、わたしにしてもヨーロッパで起こっている政治的混乱など、自分の生活とはひどく遠いものに感じていた。事実、ニューイングランドの私立学校でふたりの女性の人生を破滅させてしまった少女を描いた戯曲とは、かけ離れた世界だったのだ。

 けれども一ヶ月、だれにも会わないでいると寂しくなってきたし、仕事にも飽きてきた。ジュリアに電話をかけ――パリについたばかりのころ、何度か話をしていた――数日、ウィーンで過ごしたいわ、と言ってみた。するとジュリアは、いまは時期が悪いわ、それに盗聴されてる電話でこんな話をするのもよくない、そのうち会いましょう、時間と場所は連絡するから、と言う。電話が盗聴されることもあるのだ、生活が、スパイに監視されることだってあるのだ、ということをわたしが知ったのは、そのときが初めてではなかったか。わたしはすごい、と思い、わくわくしたのだった。

 ところが待っていても、一向にジュリアから連絡はない。わたしが電話をかけてから二週間後、新聞の一面を、オーストリアのナチ部隊に援護された政府軍が、ウィーンのフローリズドルフ地区にあるカール・マルクス広場を爆撃した、というニュースが飾った。その地域を統括している社会主義労働者が襲撃に抗し、二百人が殺害されたとある。“第四共和国”という名前の小さなレストランでこの記事を読んだわたしは、食事を途中にしてアドレス帳を確かめに、ホテルへ駆け戻った。ジュリアの住所はカール・マルクス広場ともフローリズドルフとも関係がない。寝ることにして横になり、いらない想像をするんじゃない、と自分に言い聞かせた。朝の五時、電話があり、男がフォン・ジンマーと名乗った。こちらはウィーン、ジュリアが入院している、と。

 ウィーンまでのことも、二度と見ることのなかった街の様子も、病院の名前も、何語を使って病院まで行き、さらに中へ入ったのかも、すべてが記憶から抜け落ちてしまっている。だが、それからあとのことは、なにひとつ忘れてはいない。そこは貧しい地区に建つ小さな病院だった。病棟には四十人ほどの人がいた。ジュリアのベッドはドアをあけてすぐのところ。顔の右側がすっぽりと包帯でおおわれ、そこから頭部をまわって左側のほとんども、左眼と口だけ残して巻きつけてあった。ベッドカバーの上に右腕が出してあり、右足は見えなかったが台の上に載っているようだった。病室には白衣を着た人も数人はいたけれど、介護をしている人のほとんどは私服で、十二、三歳の少年がわたしに椅子を持ってきてくれ、ジュリアにドイツ語で声をかけた。「お友だちが来ましたよ」そういうと、ジュリアが左の眼でわたしを見ることができるよう、頭の向きを変えた。ジュリアはわたしが眼に入っても、眼も手も動かすことはなく、ふたりともおし黙っていた。この最初のお見舞いのことは、何ひとつ、記憶から漏れてはいない。記憶しておくべきできごとのほうがなかったのだ。しばらくしてジュリアが右腕を持ち上げて、部屋の中央を示したので、わたしが少年を見ると、バケツを運んでいた彼は看護婦に何ごとか話しかけた。看護婦はベッドにやってきて、ジュリアの頭を反対に向け、明日またいらっしゃい、と言った。受付を通り過ぎようとしたとき、さきほどの少年が廊下で待っていて、ホテル・ザッハーに部屋を取れという。そこは高すぎるから、荷物を持ってよそを探しに行こうとしたところ、ホテルのフロントにはメモが言付けてあり、そこならばわたしの身は安全であり、しかもそれはジュリアにとっても一番良いのだ、とあった。メモには、ジョン・フォン・ジンマー、と署名されていた。

 その夜、もういちど病院に戻ろうとしてトロリーバスを降りると、午前中とは様子が一変していた。その界隈が警官に厳重に包囲されていたのだ。警官とは異なる制服に身を包んだ者たちもいた。病院側は病棟に入ることはできない、という。患者は手術を受けた後で、眠っている、と。何の手術ですか、とわたしがたずねると、患者とどういう関係があるのか、と聞いてくる。わたしのドイツ語も、そのほか諸々のことも、限界にきてしまっていた。病院の受付で、ジョン・フォン・ジンマーの住所も聞いてみたのだけれど、そんな名前は知らない、というばかりだった。

 次の日も、さらにその次の日も、中には入れない。三日後にやっと、きれいな顔の妊婦、どう考えても小さすぎるみすぼらしいコートに身を包んだ女性がわたしを病棟のなかに入れてくれた。例の男の子がわたしに同じ椅子を持ってきて、ジュリアの頭をそっとこちらに向けた。右足の下にもはや台はなく、それを見て万事順調なのだと思った。まもなくジュリアは右手を持ち上げて、このときはわたしの手に触れた。わたしはその手をじっと見た。昔から、いくら背が高いといっても大きすぎると思っていた。無骨で、ずんぐりとして、みっともない手だと。ジュリアは手を、まるでわたしが考えていることがわかったとでもいうように引っ込めたので、わたしはもういちどその手を取った。しばらくそうやって坐っていると、ジュリアは自分の唇を指して、包帯で巻かれているためにしゃべれないのだ、と示した。それから窓の方向に手をあげ、何かを押す動作をした。

「どういうことかわからないわ」と言ってから、それがジュリアに数年ぶりに話した最初の言葉であることに気がついた。ジュリアは同じ動作を繰りかえし、もう続けられない、というように目を閉じた。やがてわたしも頭を壁にもたせかけ、椅子に腰掛けたまま眠りこんでしまった。お昼近くに看護婦がやってきて、もう行くように、と促した。ジュリアのベッドはすでに運び出されていたので、看護婦が言っているのは、ジュリアが「手当を受けている」ということだろう、と考えた。

 ウィーンに来てからの三日間、昼といわず夜といわず、どこにも行かず、散歩すらせず、出かけるのは日に一度、病院から一区画離れた安いレストランで食事をするときだけだった。そこは英語を話す老人がやっている店で、なんでも若い頃、ピッツバーグに住んでいたらしかった。わたしは自分がいる場所のことを理解しているとはとても思えなかったし、この街に何が起こったのか、どうしてそんなことが起こったのかもわからなかった。自分が何もわからないことが、ただ恐ろしく、じっとしているよりほかのことができるとは思えなかった(怖くなると、わたしはいつも、しゃべることも行動することもできなくなって、眠りこんでしまいそうになるのだ)。始終、フォン・ジンマーをどうやって捜したらいいだろうか、と考えていたが、そのうち、彼のほうがわたしに会いに来るにちがいない、と思うようになった。四日目の夜の十時頃、読むものもなくなって、かといって落ち着かない気持ちのままでは眠れそうにもなく、いらだったあげく病院のそばのあのレストランまで歩いていくことにした。ところが店は閉まっていたので、そこから真夜中を過ぎるまで、考え事をしながら歩き回った。自分がいかにジュリアの生活を知らずにいたかということ、このところほとんど会うこともなくなってしまっていたこと、ジュリアの身にいま何が起こっているのか、何も知らないこと……。

 ホテルに戻ってみると、病棟のあの少年が通りの向こうに建っていた。すぐに気がついたわたしは、通りを渡ってこちらにやってくるのを待った。少年はわたしに折り畳んだ紙切れをくれた。それから頭を下げ、歩いていった。

 ホテルのロビーでメモを開くと、弱々しい手跡で「まだまだやらなくちゃ。明日、よそに移されます。いますぐパリに戻って。ザッハー・ホテルにあなたの住所を言付けておいてね。愛をこめて。ジュリア」と綴られていた。

 パリに戻ってから、子供のころのことを思い出した。一緒にラテン語の勉強をしていたジュリアとわたしは、交替で訳しては、間違いを直し合った。そうしてどちらかがもうひとりに「まだまだやらなくちゃ」と言う。あまり頻繁にそう言い合うために、いつのまにかわたしたちのあいだの冗談になってしまっていたのだ。

 一ヶ月パリにいたが、連絡はなかった。ドイツ人の友人が、わたしに代わってウィーンの病院に電話してくれたのだが、病院側はジュリア、という名前には心当たりがない、ここにいたという記録も残っていない、という。その友人は、大学にも二度電話をかけて、ジョン・フォン・ジンマーのことを聞いてもみたが、一度目はもう在籍していない、と言われ、つぎの時は、住所に関する記載はない、と言われたのだった。

 そういう状態で、わたしはニューヨークに戻り、『子供たちの時間』を書き上げた。好評で迎えられた初日から三日目の夜に、ジュリアの祖母に電話をかけてみた。老婦人は酔っていたようだ――わたしたちが子供の頃からそんなことはしょっちゅうだったのだが――わたしがだれだか理解してもらうまでにひどく手間取り、やがて、あなたがどなただろうが、そんなことはどうでもいいわ、ジュリアのことは何にも知りません、モーガン銀行だってわかっちゃいないんだから、モーガンはあの子宛に、ヨーロッパ中にものすごい額のお金を送り続けているのだけれどね、ジュリアはほんとうに気が変になってしまったのよ。

 一年後、ジュリアから届いた手紙をわたしはなくしてしまった。書かれていた内容をよく覚えている反面、ジュリアにとってはほとんど外国語のようになってしまった英語を使って、どのように書いていたか、わたしがすでに知っていると信じて疑わない数々のことがらを、どのように語っていたかについては、はっきりとは覚えていない。手紙には、ナチズムとドイツのこと、世界中に社会主義革命を起こさなければならないこと、ジュリアが子供を産んだこと、リリーと呼ぶとうれしそうにすること、でも、そのリリーには何を言ってもうれしそうなのだが、といったことが書いてあった。現在の住所はないけれど、手紙はパリの大学通り16番地アパートメント3号室気付で送ってほしい、とも。わたしはすぐに、わたしの名前をつけてくれてありがとう、と返事を書き、それからさらに二度書いた。するとやっとチューリヒ消印の絵はがきが届いたのだった。

 アン=マリーからわたしを夕食に誘う電話がかかってきたのは、それからどのくらいあとのことだったのだろう。いいわよ、といいかけたとき、アン=マリーが、自分の友だちがジュリアに会った、と言い出した。ジュリアはなんでも反ファシスト活動とかと呼ばれるひどく危険なことをやってるんですって、おまけに自分の財産を湯水のように使ってね、赤ん坊が生まれたって知ってる? 正気の沙汰とは思えないわよね、望まれずにうまれてくる私生児なんてかわいそう。そこでわたしは、街を出るところだからご一緒できないわ、と返事をした。アン=マリーは、あら残念、わたしたち、あんまりニューヨークに来ないのに、ところで『来るべき日々』の初日を見る機会があったんだけど、正直な感想を言わせてちょうだいね、わたしたち、あんまりああいうの好きじゃなかったわ。わたしは、そう思ったところで別に法律違反ってわけじゃないし、好きな人ばかりじゃないことはよく知っている、とわたしは答えた。そこからまたジュリアの話が出て、わたしが知らなかったジュリアの足について何か言ってから、わたしに向かって、わたしの主人に会ってちょうだい、と言い出した。あなたも知ってるはずよ、ウィーンの医学校で同級生だったの、いまは外科医としてサンフランシスコで開業して、ずいぶん繁盛しているのよ。彼ったら頭がいいだけじゃなくて、それはもうきれいな顔をしているの。わたしは女が男の容姿をとやかく言うことを嫌悪していたので――そのころには“すっごく魅力的”というのがおなじみのいいまわしだった――、いらいらしてくるのを隠すために、結婚したのは知ってたけど、お相手の名前は知らなかったわ、と聞いてみた。あら、ジョン・フォン・ジンマーよ。わたしの息を飲む音がアン=マリーにも聞こえたにちがいない。笑い声をあげると、今度ニューヨークに来たら電話するわ、それにしても、あなたどうしてサミーに会ってくれないの、兄のサミーよ、いつも自殺しようとしてる。わたしはあれからサミーと会うことはなかったが、どう考えても自殺に成功した様子はない、というのも、ほんの数ヶ月前に“スージーの社交欄”に彼の近況が書いてあったから。

 その後、アン=マリーがジョン・フォン・ジンマーと一緒にいるところに一度だけ会った。1970年で、わたしがバークレーで教えていたときのことである。サンフランシスコのレストランで、最新流行の装いに身を包んだ六、七人の連れと一緒にいたアン=マリーは、わたしを見つけてキスをし、なにやらしゃべり散らしたあとで、住所を交換した。フォン・ジンマーはわたしの頭の後ろの壁にじっと目を据えたまま、終始無言だった。明日電話する、という約束を、わたしたちのどちらも果たさなかったけれど、フォン・ジンマーにはどうしても会っておきたかった。古いことをひとつ、問いただして置く必要を感じていたのである。レストランで会った数日後、わたしはフォン・ジンマーの診察室に歩いていった。けれども、ヴィクトリア朝様式の家の傍に立っているうちに、気が変わった。いまでは答えが返ってくるはずのない質問をしなくて良かったと思っている。

* * *

 さて、1937年のその日、ドイツ国境に向かってひた走る汽車に坐ったわたしは、帽子の箱から目が離せないでいた。大柄な娘はフランクフルト新聞を読み、痩せた娘は本を膝の上に開いていたけれど、読んでいるようには見えなかった。おそらく、昼食の用意ができた、というアナウンスに、わたしははっと過去から現在の自分に戻ったのではなかったか。コートを取りあげてから、思い直して戻した。

 痩せた娘が聞いた。「いいコートね。暖かい? 何の毛皮?」

「アザラシよ。ええ、暖かいわ」

 娘は帽子の箱を指さして聞いた。「帽子も毛皮なの?」

 わからない、と言いかけたが、自分がずっと緊張していたために麻痺したようになっていて、これ以上会話を続けることなどできそうもない、そこで箱を開けることにした。高さのあるふわふわとした銀ギツネの帽子が出てきたので、ふたりの口から嘆声が漏れた。手にしたまま、わたしがじっと見つめていると、大柄な娘が「かぶりなさいよ、コートとよく合ってるわ」と言った。

 まだ箱を開けてみる前から、それまでかぶっていた毛糸の帽子をどうするかということについても迷っていたように思う。毛糸の帽子を脱ぐと、立ち上がって窓の間の細長い鏡の前で、毛皮の帽子をかぶってみた。帽子はてっぺんと両脇がぶあつく、内側に手を入れてみると、裏地に太い縫い目があって、内側と縫い目に沿って、みっしりと詰め物がしてあることがわかった。そのせいでかぶり心地がよくなく、脱ごうとしたとき、メモに、帽子はずっとかぶっているように、とあったのを思い出した。

 ためらっているわたしに、大柄な娘が声をかけてきて、自分はお昼を食べに行くけれど、サンドウィッチでも買ってきてあげましょうか、と言う。わたしは、食堂車へ行きたいけれどいつ国境を越えるかわからないから、と答えてすぐに、自分が愚かにも、のちのち危険な羽目になるかもしれないことを言ってしまったのに気がついた。痩せた娘が、国境を越えるのは、午後も遅い時間よ、と教えてくれて――娘は小さな箱を開けて、干し肉のようなものを食べていた――、もし荷物が心配なら、わたしがここで見ていてあげるわ、食堂車は高いから行けないし、と言った。太った娘も、わたしだってお金があるわけじゃないけど、医者に温かい食事とワインをとってから、薬を飲むように言われてるの、と言った。

わたしはこの娘と一緒に食堂車に行き、コートはお菓子の箱の上にかけておくことにした。わたしたちが着いたテーブルには、ほかに乗客がふたりいたが、娘は自分がパリで勉強していたこと、肺疾患を「患い」、ケルンへ戻っているところなのだ、と話した。博士論文が書けるかどうかわからない、病気は骨まで冒しているから。隣に男がいるために、わざと聞こえよがしに脈絡のないことを矢継ぎ早にじゃべっているのだとわたしは思っていたのだが、ふたりが席を立ってからも、彼女のおしゃべりは続き、話の切れ目には辺りを見回して、神経質そうに顔をひくひく動かすのだった。昼食がすんで、わたしはホッとした。お菓子の箱のことも心配だったのだが、客室に戻ってみると、もとのまま触れられた様子もなく置いてある。まどろんでいた痩せた娘が、わたしたちの気配に目を覚まし、ドイツ語で、満員の列車がどうこうと大柄な娘に話しかけ、彼女のことをルイーザと呼んだ。それで初めてふたりが知り合いだったことがわかったのだが、黙って坐っていたわたしは、どうしてそのことでこんなにも不安な気持ちになるのだろう、としばらくのあいだ、いぶかしく考えていた。それから自分に言い聞かせた。こんなふうになんでもかんでもに神経をとがらせていたら、ほんとうに神経をとがらせなければならないときに、動けなくなってしまうぞ、と。

 それから数時間というもの、わたしたちはまどろんだり、本を読んだりしていたのだが、やがて痩せた娘がわたしの膝を指でそっとたたいて、もう五分か十分もすると、国境を越えるわ、と教えてくれた。恐怖の感じ方は人それぞれにあると思うが、わたしの場合、決まって身体が火照るか、冷え切るかで、どちらにせよ外気とはいっさい無関係にそうなってしまう。待っているあいだにわたしの身体は熱を帯びてきた。汽車は次第に速度を落として停まり、わたしは外に出ようと立ち上がった――すでに大勢の人々が列車を降りて検問所に向かって歩いており、前の車両には手荷物を検査するために男たちが乗り込んできていた――コートと新しい帽子はそこに置いたままにしておいた。客室を出かけたとき、痩せた娘が言った。「コートと帽子はあったほうがいいわ。風が強いから」

「どうもありがとう。だけど寒くないのよ」

娘の声が鋭くなった。「コートがきっと必要になります。帽子も頭にかぶっていると、ステキだし」

 わたしはもう何も聞き返したりしなかった、というのも彼女の語調に有無を言わせぬものがあったからだ。席に戻ってコートを羽織り、裏地に縫い込まれた詰め物のせいでいっそう重く感じられる帽子をかぶると、ふたりの娘を先に行かせて、鏡の前で具合を直した。プラットフォームに出ると、同室のふたりは、ほかの客室から出てきた数人の乗客の先にいる。大柄な娘はそのまま進んだ。痩せたほうはハンドバッグを落とし、拾い上げながらすっと脇へ寄り、そのまま歩いてわたしの後ろに並んだ。わたしたちは黙ったまま列に並んで、制服姿のふたりの男が立つ検問所まで進んだ。前の男がパスポートを調べられているとき、痩せた娘が言った。「一時通行証は時間がよけいにかかるかもしれないけれど何でもないわ。心配しないで」

 ほかの人より時間がかかるということはなかった。他の人と大差ない時間でそこを通り抜け、乗客の整然とした列について、列車に戻った。痩せた娘はわたしのすぐ後ろにいたのだが、列車の階段をわたしが上ろうとしていると、「ごめんなさい」と言ってわたしを脇へ押しのけ、先に中へ入った。客車に戻ってみると、大柄な娘は席に坐って、隣の客室でふたりの税関職員が、手荷物を開けて見せている乗客と愛想良く交わしている話にじっと耳を傾けていた。

「手荷物の検査にはずいぶん時間がかかるのよ」痩せた娘はそう言いながら、身を乗り出してわたしのお菓子の箱を取りあげた。勝手にリボンをほどくと「いただくわね。わたし、チョコレートには目がなくて。ほんとにありがとう」と言ったのだ。

「やめてちょうだい、お願いよ」そう言いながら、わたしという人間は、つくづくこうしたことには向いていないと思い知らされていた。「おみやげに持っていくつもりなの。お願いだから、開けたりしないで」

 税関職員が入ってきたときには、痩せた娘が封を切った箱を膝に乗せ、お菓子をむしゃむしゃ食べているところだった。その数分のあいだに起こったことは、荷物をすべて網棚からおろした職員が、わたしの荷物を、相客ふたりより念入りに調べたことしか覚えていない。大柄な娘があれやこれやとしゃべり続け、わたしの通行許可書のこともなにやら話題になっているようだった。ええ、このかたは劇作家で、演劇祭に行かれるのだそうですよ、などと(それから二日後、わたしはやっと、自分がモスクワ演劇祭に行くことや、自分が何者であるかなど、一言も話さなかったことに気がついた)。それからヘルマンという名前が、わたしには半分も理解できない会話に出てきた。税関職員のうちの一人が「ユダヤ系」と言い、大柄な娘が、ユダヤ系ばかりとは限らない、と言って、いくつもの人や土地の名前をあげていたが、わたしにはとてもついていけなかった。それから職員はわたしたちに礼を言うと、荷物をきちんと元通りにして、一礼するとドアから出た。

 その後数時間のうちにわたしの身体は熱くなったり、冷えたりするのをやめ、その日はもう怯えることはなかった。痩せた娘はお菓子の箱にもう一度リボンをかけ直してくれたけれど、列車が駅に着くまで、もうだれも話したりしなかったのではあるまいか。赤帽がやってきてわたしの荷物を取りあげると、わたしは自分に言い聞かせた。ここから緊張してやっていかなければならないのだ、国境の検問所でお金が発見されたのなら、まだフランスにも近かったから、それほど大事にはならなかったのだ。いまこそ慎重に、頭を働かせ、当然沸き起こってくるはずの恐怖心に立ち向かうときなのだ。ところがそんな「とき」は一向に訪れない。たいてい、何の脈絡もなく恐怖に襲われ、危機に瀕したときには逆にぼんやりして眠くなってしまう自分の性格のそうした側面がおかしくなってしまった。

 だが、その日はほんとうに何も危険なことは起こらなかった。痩せた娘がわたしのすぐ後ろにいて、改札口までの長い道のりを歩いていった。人々がキスしたり、握手したりする光景がいたるところで繰り広げられている。五十年配の男女がこちらに向かって歩いてくると、女の方が腕を広げてわたしを抱きしめ、英語で話しかけてきた。「リリアン、お会いできてうれしいわ。だけど、ほんの二、三時間しかこちらにいらっしゃらないなんて、なんて憎らしい、だけどそのあいだだけでも、わたしたち、楽しくやりましょうね」そのとき、わたしにぴったりと寄り添うようにしていた痩せた娘が「お菓子の箱をこの人に渡して」と言った。

「またお会いできてほんとうにうれしいわ。おみやげがあるのよ、おみやげは――」ところがそういうよりも早く、箱はわたしの手を離れ、わたしは改札の方向に押し出されていった。改札よりかなり手前で、わたしはその女性の姿も痩せた娘も、見失ってしまっていた。

 男の方が言った。「あの改札を抜けるんだ。そこの駅員に、駅の近くのレストランを聞く。〈アルベルトの店〉を教えてくれたら、まっすぐそこに行きなさい。もし違う名前を言うようだったら、そこへ行って、外の様子を見て、引き返して〈アルベルトの店〉に向かう。そこは君の正面にある扉のちょうど真向かいにあるから」
改札口で駅員にレストランを聞いているうちに、その男はわたしの脇を通り過ぎていった。

駅員は、ちょっとそこをどいてください、いま忙しいんだ、教えてあげるから少し待ってください、と言う。わたしは駅の中に長いこといたくなかったので、通りを渡って〈アルベルトの店〉に向かった。回転ドアを通って中に入ったわたしは、テーブルに着いているジュリアの姿を見て、ショックのあまり棒立ちになってしまった。ジュリアは半ば腰を浮かせ、わたしの名前をそっと呼んだ。わたしはとめどなく涙をあふれさせながらそちらへ行った。傍らにもたせかけた二本の松葉杖を見て、それまでずっとそうであってほしくないと願っていたことが事実だったのがわかったから。テーブルで身体をささえて立ち上がろうとしているジュリアが言った。「大丈夫、うまくいってる。お祝いにキャビアを頼んだわ。アルベルトは買いにやらせなきゃならなかったけど、じきに来るでしょう」

 わたしの手をしばらく握っていたジュリアはやがて口を開いた。「うまくいってるわ。何もかも。大丈夫、もう何も起こらないわよ。さ、再会を祝して、食べたり飲んだりしましょ。ずいぶん長いこと会わなかったわね」

「どのくらい一緒にいられるの? 乗換駅はここからどのくらいかかるの、モスクワ行きの汽車の駅は?」

「乗り換えまで二時間よ。だけどわたしたちはそんなに一緒にはいられない。駅まであなたに付き添っていく人がいるのだけれど、その人が、明日の朝ワルシャワに着くまであなたと一緒に汽車に乗ることになってる人を見つける時間だって必要だから」

 わたしは言った。「あなたみたいな人はどこにもいない。前よりもっときれい」

「わたしの脚のことで泣いたりしないで。切断したんだけど、義足の出来がよくないの。だから、出来るだけ早く、二、三ヶ月うちにはニューヨークへ行って、いいのを作ってもらわなきゃ。リリー、わたしのために泣かないで。涙を拭くのよ。仕事を終わらせてしまいましょう。帽子を脱ぐの、こんなところでは暑くてかぶってなんていられない、っていうふうに。髪を梳かしながら、わたしたちのあいだに帽子を置いて」

 ジュリアのコートは前が開いていた。わたしが帽子を席においたとたん、ジュリアは用意していた安全ピンで、コートの内懐深くに留めた。

「わたしはこれから化粧室に行く。もしウェイターが手を貸そうとしたら、あなた、手を振って追っ払って、わたしについてきて。化粧室の鍵はかかるようになってる。もしだれかがドアを開けようとしたら、あなた、ドアを叩いてわたしを呼んで。たぶんそんなことは起こらないとは思うけれど」

 ジュリアは立ち上がると、松葉杖を一本取りあげて、わたしに反対側に来て、と合図した。アルベルトとおぼしき人間とドイツ語で話をし、わたしたちは広い店のなかを進んでいった。化粧室のドアの内側に、松葉杖を差し込むタイミングが早かったために、変な角度で引っかかり、いらだって松葉杖をむりやり外そうとした。

 だが、化粧室から出てきたときのジュリアは、わたしを見てにっこり笑った。席に戻りながらジュリアは声高にドイツ語で、化粧室の話をあれこれしたあと、英語になってわたしに言うのだった。「あなたがドイツ語がわからないって忘れてた。わたしが言ったのはね、ドイツの公衆トイレはいつもきれいだ、わたしたちの国のよりもきれいだ、とくに新体制の下では、みたいなこと。下司野郎どもが。人殺しどもが」

 ふたたび席に着くと、キャビアとワインが運ばれてきて、ジュリアはウェイターに愛想をふりまいた。ウェイターが行ってしまうと、ジュリアが言った。「ああ、リリー。うまくいった。ほんとうにうまくいったの。もうだいじょうぶ。だけど、あなたには知る権利があるわね、あなたが運んでくれたのはわたしのお金だった。わたしたち、それでたぶん五百人、ううん、うまく交渉したら千人の命を救える。だから、あなたはわたしのいい友だちってだけじゃなくて、もっと大切なことをしてくれた人なんだ、って、わかっておいて」

「ユダヤ人?」

「半分くらいはね。あと、政治運動をしてる人。社会主義者、共産主義者、古くからのカトリック系の反体制活動家もいる。ここで弾圧されてるのはユダヤ人だけじゃないの」そう言うとジュリアはため息をついた。「この話はもうおしまい。わたしたちは今日できることしか今日という日にはできないのだし、今日できることはあなたがもうわたしたちのためにやってくれたから。ワインより強いお酒がいい?」

 いらないと答えるわたしに、ジュリアは、さぁ、早く話して、もうあまり時間がないわ、できるだけいろんなことが聞きたいのよ、と言う。だからわたしは自分が離婚したこと、ハメットと暮らしている日々のことを話した。ジュリアは『子供たちの時間』は読んでいて、あれはよかったわ、と言ってくれた。つぎは何を書く予定?

 わたしは言った。「もう書いちゃったの。二番目の戯曲は失敗だった。あなたの赤ちゃんのことを教えて」

「よく太っててかわいい子よ。うちの母に似てるから、そこが気にならなくなるまで、ちょっとかかったけど」

「すごく会いたいわ」

「会わせてあげるわよ。義足を作りに帰るときに連れて行くから。あなたのところで育ててもらったほうがいいかもしれない。もし、あなたさえかまわなければ、だけど」

わたしは何の考えもなくこうたずねた。「今日会えない?」

「あなた、気は確か? こんなところにあの子を連れてこれるとでも思うの? あなたの身を守るためにわたしがどれだけ危険を冒したか、これがもうぎりぎりのところなのよ。そのつけは、今夜も明日も……」それから笑顔になった。「赤ちゃんはミュルーズ(※フランスアルザス地方にある地方都市)にいるの。とってもいい人たちと一緒に。国境を越えたときはいつも会うことにしてる。足のことで帰国したらあなたに預けようかしら。あの子もヨーロッパにはいないほうがいいかもしれない。ヨーロッパはもう赤ん坊にはいい環境じゃなくなってしまってるから」

「わたし、まだ家もないし、アパートだって賃貸だけど、赤ちゃんのために家を買うわ、もしあなたが連れてきてくれるなら」

「もちろんよ。だけど家なんてどうでもいい。あなたは良くしてくれるに決まってるもの」それからジュリアは声をあげて笑った。「あなたは子供のときと同じように、大人になっても怒ってるの?」

「たぶんね」わたしは答えた。「よそうとは思うのだけど、このざまよ」

「なんでよそうとするの?」

「あなたはわたしの近くにいるわけじゃないから。そしたらそんなことは聞くまでもないわ」

「あら、わたしはいつだって怒ってるあなたが好きだった。信頼してた」

「じゃ、あなたがそんな意見を持ってるただひとりの人ってわけね」

「人の言うなりになって、怒ることをやめちゃいけない。怒りはまわりを落ち着かなくさせてしまうかもしれない、だけど、あなたにとっては意味があるの。あなたが怒る人だから、今日、こんなふうにお金を運んでくれた。決めた。あの子はあなたに預けることにする。父親がとやかく言うはずがないし。赤ちゃんにも、わたしにも関わりを持ちたがってないから。確かに悪い人じゃない。よくいる出世街道をひた走っていくタイプってだけ。どうして彼とつきあったりしたんだろう、フロイトは、よせって言ったんだけど、ま、ともかくそんなことはたいしたことじゃない。赤ちゃんは、いい子よ」

 ジュリアはにっこりしてわたしの手を軽く叩いた。「いつかフロイトに会わせてあげる。あら、わたし、何を言ってるんだろう。たぶん、もうフロイトに会うことなんてないだろうに――わたしがヨーロッパで生きていられるのも、もうそんなに長いことじゃないのかもしれない。松葉杖は目立つから。あなたの護衛が通りに来たわ。窓の外に見えるでしょ? さあ、立ち上がって、行きなさい。通りを渡って、タクシーをつかまえて、二〇〇駅に行くように言って。別の人がそこで待ってるはず。その人は、あなたが安全に列車に乗れるように、それから明日の朝ワルシャワに着くまで大丈夫なように、傍にいてくれるから。その人はA号車の13番室。あなたの切符を見せて」

わたしは切符を渡した。

「左側の客室だと思う」と言うと、ジュリアは声をあげて笑った。「左よ、リリー、左。あなた、右と左がわかるようになった? 北と南の区別はつくようになったの?」

「いやよ。あなたを残して行きたくない。汽車が出るまで一時間以上あるじゃない。もうちょっとだけでも、一緒にいたい」

「だめよ。まだ何かまずいことが起こらないとも限らないし、万が一にもそうなったときのために、助ける時間の余裕も見ておかなくちゃ。二、三ヶ月したら、ニューヨークに行くから。モスクワに着いたら、パリのアメリカン・エクスプレス付けで手紙を書いて。数週間ごとに荷物を取りに行ってるから」ジュリアはわたしの手を取って、唇に当てた。「わたしの大好きな友だち」

 それからわたしはジュリアに押し出されるままに歩き出した。ドアのところで振り返り、おそらくそちらに戻りかけたにちがいない、ジュリアは首を横に振ってから、あらぬ方向に顔を向けてしまった。

 駅まであとをついてきているという男のことは、よくわからなかった。列車に乗っているはずの男も見なかったけれど、何度か、中年にはまだ間がある年代の男が客室の前を通り過ぎ、その同じ男が、夕食のときに隣の空いた席に腰掛けたが、最後までひとことも話しかけることはなかった。

 夕食をすませてから客室に戻ると、車掌が、もしお望みなら、お持ちの旅行鞄ふたつを通路に出していらっしゃれば、ドイツ−ポーランド国境の検査のときに、おやすみになったままでいられますよ、と教えてくれた。わたしは、貨車に衣裳トランクがあるから、と車掌に伝えて、税関職員に渡すように、と鍵を預けてから、生まれて初めて睡眠薬を飲んだ。おそらくそのせいだろう、わたしの乗った列車が翌朝七時にワルシャワ駅に入るまで、目が覚めなかった。外を見ようとカーテンを開けると、人が忙しく行き交っている。窓のすぐ下には、昨夜食堂車でわたしの隣にいた男が立っていた。手で何かのそぶりをするのだが、わからないので首を横に振った。するとまわりを見まわして、自分の右側を指す。わけがわからず、もう一度首を振ると、男は窓から離れた。まもなくノックの音がして、わたしは立ち上がってドアを開けた。隙間から、イギリス訛りの声が聞こえてきた。「おはようございます。お別れの挨拶に来たんです。良いご旅行をお続けください」それから声をぐっと低めて続けた。「あなたのトランクはドイツ側の手に渡りました。国境は越えましたから、あなたにもう危険はありません。二、三時間は知らん顔をして、ポーランド人の車掌にトランクのことを聞くんです。モスクワからの帰路はドイツ経由ではなく、もう一方のルートを通ってください」それからふたたび大きな声になった。「ではご家族にもよろしく言っていたとお伝えください」それだけ言うといなくなった。

 それから二時間、わたしはベッドに不安な思いで腰掛けて、つぎに取らなければならない行動にひるみそうになりながら、トランクにつめたまま行方不明になってしまった洋服のことを考えたりした。服を着替えてポーランド人の車掌に、ドイツ人の車掌から鍵を預かっていないか、と聞いてみた。車掌は憤慨しながら、トランクはドイツの税関職員に押収されてしまったんです、そういうことはよくあるんですよ、でも、おそらく数日のうちに、モスクワのあなたがいらっしゃるところに届くと思います、いや、ちっとも特別なことじゃないんです、ドイツの豚どもはきょうび、こういうことを平気でやるんです、と教えてくれた。

 確かにトランクは、二週間後、モスクワに届いた。内装はずたずたに切り裂かれ、底板は毀されていたが、なくなっていたのはカメラと四、五冊の本だけだった。そのときも、いまも、トランクが行方不明になったこととジュリアのあいだに何か関係があったのかどうかはわからない。その後三十年間、わたしはドイツの地を踏むことはなかったし、ジュリアと話をすることも、もはや二度となかったからである。

 ジュリアには、モスクワから、そうしてパリへ戻る途中、プラハから手紙を出し、その後、内戦さなかのスペインから帰国したあと、ニューヨークからも手紙を出した。三、四ヶ月後、ジュネーブの消印が押してあるはがきが届いた。「スペインへ行ったなんてすごいじゃない。行って何かわかることがあった? 三月にニューヨークに行くから、そのとき話しましょうね」

 けれども三月が来、四月が過ぎてもジュリアからは何の音沙汰もない。わたしはジュリアの祖母に電話をかけたが、わかりきったことだったけれど、何も得るものはなかった。お祖母さんが言うには、ジュリアからはもう二年、何も言ってきていない、とのこと。ところであなたはなんでジュリアのことをいつも案じているの? わたしが十月に会ったことを言うと、電話はそのまま切れてしまった。ちょうどそのころ、ジュリアの母親の写真が雑誌に載っているのを見かけたが、それによると、また再婚した、という。今度の相手はアルゼンチン人で、わたしがその名前を覚えておかなければならない理由などあるはずもなかった。

 1938年5月23日、間違った住所が記載されていたために二日前の日付がついた電報を、ロンドンから受け取った。

ジュリアサツガイサル」
ロンドンホワイトチャペルロード ムーアソウギジョウオイデコウ」
イチドウダイヒョウシオクヤミモウシアゲマス

差出人のところには、ジョン・ワトソンの名があったが、住所は空白だった。

 泣くことができればいくぶんなりとも気持ちが楽になるようなときに、決して泣けないわたしは、代わりにまるまる二日間ひたすら飲み続けたので、そのあいだのことはなにひとつ覚えていない。三日目の朝、わたしはジュリアの祖母の家へ行ったのだが、執事はまるでわたしがこの家に災厄をもたらすとでもいうように通りまで出てきて、ご主人様と奥様は世界一周の船旅に出かけておいでです、お帰りになるのは八週間後でございます、と言った。船の名前を尋ねると、身分証明書のご提示を、と言われる。こうしたやりとりをしているうちに、わたしは、孫娘が死んだっていうのに、ガタガタぬかしやがって、おまえもじいさんばあさんもみんな一緒にくたばってしまえ、と怒鳴ってしまっていた。その晩のわたしがあまりひどい状態だったせいだろう、ふだん自分がどこにも行きたくないために、わたしまでどこにもやりたがらないダッシュが、君はいますぐロンドンに行った方がいい、と言っのだった。

 このとき出かけた記録をわたしは残していないために、いまも記憶にあることはただひとつ、傍らに立って、修復されてはいるけれど、顔の左側に残るナイフの傷跡は隠しようもなかったジュリアの亡骸を見おろしていたことだ。葬儀屋は、努力はしたんですが、顔に斬りつけた跡はどうしても隠すことはできませんでした、隠すことができない傷というのがどの程度のものかご覧になりたかったら、身体のほうを見ればわかります、と言う。わたしはそこを出て、通りにしばらく立っていた。やがて葬儀場に戻ると、昼食を取っていた男がメモを渡してくれた。

 親愛なるミス・ヘルマン、お越しいただけると考えていましたが、ご無理を申し上げたのかもしれません。その際のために、写しをニューヨークのご住所にもお送りしております。ご家族が希望されるご遺体の処遇、この並はずれた女性の葬儀がどこでどのように執り行われることを望んでおられるのか、我々には不明です。貴殿はお知りになる権利があると考えるのでお伝えしますが、ジュリア様はフランクフルトの同志宅にてナチの襲撃を受けました。我々が奪還し、ロンドンにて延命に努めましたが、残念な結果となりました。この場にてお力添えできないことを申し訳なく思います。得難い女性に対する哀悼の意を闘いにつなげ、いつの日にか復讐を誓うものであります。

同志代表 ジョン・ワトソン 黙祷

 その日はそれで葬儀場を離れ、夕方、電話でジョン・ワトソンの住所を知らないか聞いてみた。ジョン・ワトソンなんていう名前は聞いたこともないですよ、ご遺体を取りにうかがったのは、ドクター・チェスター・ロウのお宅で、ダウンシャーヒルの30番地です、と言う。行ってみるとそこは、改築されてアパートになった屋敷で、ドクター・ロウなどという名前は、標識のどこにも見あたらなかった。そこでやっと、わたしが訪ねていくことで、危険に瀕している人をいっそう厄介な事態に追い込むことになるのかもしれない、と思いいたった。

 わたしは遺体と一緒にデ・グラス号で帰国し、今度はジュリアの母親に連絡を取ろうとした。同じ執事がわたしに、奥様のお住まいをお教えすることはできかねます、奥様はお嬢様がお亡くなりになったことはご存じでいらっしゃいます、と答えた。わたしは遺体を火葬に付し、灰はいまなお、遠いあの日と同じ場所にある。

* * *

 ほんとうならロンドンから帰国するときに、ミュルーズに行ってみなければならなかったのに、わたしはそれをしなかった、というか、そのことを思いつきさえしなかったのだ。ロンドンでみじめな気持ちで過ごしていたときも、船で帰国するあいだも。火葬が終わってから、ジュリアの祖母に手紙を書いた。ジュリアには子供がいます、その赤ちゃんがミュルーズに住むある家族に預けられていること以上は知りませんが。ミュルーズはそれほど広い市ではないので、アメリカ人の子供を捜そうと思えば、それほど大変ではないでしょう。返事は来なかった。おそらくわたしも来るとは考えていなかったのだろう、だからもう一度、こんどはきつい調子の手紙を送ってやった。すると、ご大層な法律事務所のご大層な名前のもちぬしから手紙が届いた。わたしだけがその存在を信じている子供に関しては、「このような特殊な事例を鑑み」、しかるべき手段が講じられており、今後、わたしにはいかなる「疑わしき結果」であっても報告してやろう、というのだった。

 数ヶ月のあいだ、毎晩のようにジュリアの夢を見た。ジュリアはいつも、初めて会った頃の年格好だった。ハメットが、君はひどい様子をしているぞ、そんなに心配なら、どうしてミュルーズの弁護士か探偵に連絡を取ってみないんだ、と言う。映画監督のウィリアム・ワイラー、わたしはワイラーと二本映画を一緒に作ったことがあるが、その彼がミュルーズの出身で、一族はいまでもそこでデパートを経営しているという。あまりに古い話だから、いつ、どのような方法で、ワイラーがミュルーズに住む弁護士の名前を調べてくれたのかはっきりと記憶にはないのだが、とにかくワイラーは見つけてくれて、しばらくして、操作は難航しているが、もし赤ん坊がいまもミュルーズにいるのなら、ゆくゆくは、かならずや赤ん坊を見つけ出すことになるだろう、と手紙が来た。

 三ヶ月後、大戦が勃発し、西ヨーロッパに居住している誰からも連絡は来ないという状態が、1944年3月にソ連経由でロンドンに行ったときまで続いた。ロンドンでの二日目――そのときロンドンに行ったのは、イギリス政府の依頼で、ドイツのV2爆弾が投下されたときの波止場の人々の様子を、ドキュメンタリー・フィルムに収めるためだった――自分があの葬儀場のすぐ近くにいることに気がついた。葬儀場の場所はわかったが、あたりは爆撃を受けて粉々に破壊されてしまっていた。

* * *

 この話で書き残したことがひとつだけある。1950年代初頭、ロングアイランドに住むルースとマーシャルのフィールド夫妻の地所でピクニックをしていたときのこと、わたしは石垣に坐っていたのだった。隣の男がオナシスという人物――わたしはその名前を聞いたのは、そのときが初めてだった――のことや、オナシス氏に対するアメリカ政府の訴訟のことをひとしきり話したあと、わたしの方に向き直り、こんなことを言い出した。「父もやはり弁護士で、あなたがジュリアのことで手紙を書いた相手が父です。ぼくとジュリアは祖父母のいとこの孫ということになるんです」

しばらくしてわたしは返事をした。「そう」

「父は昨年亡くなりました」

「あなたのお父様は、あれから二度と手紙をくださらなかった」

「あの、ぼくは弁護士じゃないです、銀行員です」

「ジュリアの家族はどうなったの?」

「祖父、祖母ともに亡くなりました。ジュリアの母親はアルゼンチンにいて……」

「くそったれよ、みんな」

彼はわたしに笑いかけた。「みんないとこの仲なんですよ」

「あの人たちが見つけたくなかかった赤ん坊は見つかったの? あなたが誰だろうと、どうだっていい」

「赤ん坊のことなんて、何も聞いていません」

「わたしはあなたの言うことなんて、信じない」そう言って石垣から降りると、ルースには、気分が悪いから帰るわ、と書き置きを残して、車で家へ帰った。



The End


初出 Apr.09-21, 2006 改訂 Apr.25, 2006




ジュリアは存在したか


リリアン・ヘルマンの短編集『ペンティメント』より、全体では三番目に置かれている「ジュリア」の章の全訳である。『ペンティメント』に関しては「亀」を、リリアン・ヘルマンに関しては「リリアン・ヘルマン――ともに生きる」を参照されたい。

『ペンティメント』の最初の詞書きのように、古くなって透き通ってきた絵のような、淡い色調の、輪郭の曖昧な、層のように積み重なったさまざまな出来事から、その奥に生きた人々を描き出そうとした作品のなかでも、この「ジュリア」は「ベルリンに闘争資金を運ぶ」という物語の大きな筋があって、全体のなかでは多少肌合いが異なる作品となっている。

確かにそのストーリーはドラマティックなもので、「ジュリア」は1977年フレッド・ジンネマンによって映画化された。そうして、第五十回アカデミー賞の監督賞、〈ジュリア〉に扮したヴァネッサ・レッドクレーヴが助演女優賞、〈ダシール・ハメット〉に扮したジェイソン・ロバーズが助演男優賞を獲得した(個人的にはアン=マリーに扮したメリル・ストリープが、ムカムカするほどイヤな女をムカムカするほどうまく演じていて――なんとこれが初出演!――、一番記憶に残っている)。

リリアン・ヘルマンが『ペンティメント』を発表した1973年から、「実在のジュリア」探しが行われた。特に1983年、ミュリエル・ガーディナーが自伝『暗号名はメアリ―ナチス時代のウィーン』を発表し、その序文のなかで、ヘルマンの「ジュリア」と自分の背景や経歴が酷似していること、にもかかわらず、「ジュリア」で描かれたような事実はもちろんのこと、ヘルマンに面識はないことを明らかにしたことで、「ジュリア」が「事実無根」「作り話」と激しい攻撃にさらされることになった。

だが、改めて読み返してみて、一体何が問題なのだろう、と思うのである。

わたしが「ジュリア」を知ったのは、中学か高校の時に映画を見たのが最初なのだけれど、そのときからこれはフィクションだろうと思っていた。
パリからベルリンに着き、ジュリアに会うまで、リリアンの護衛に五人、さらにベルリンでひとり、ワルシャワまでひとり、計七人が充てられる。そこまで人を割いて、ヘルマンに金を運ばせる必要性があるのだろうか、と思うのだ。

むしろ、これはいかにもハリウッド的な展開と理解した方が、納得がいく。

ただし、映画「ジュリア」はさておいて、『ペンティメント』に所収されている短編「ジュリア」を見ていくとき、ストーリー「リリアンが金を運ぶことに成功するか否か」だけを追っていると、この作品の半分も読んだことにはならないだろう。
事実、金を運ぶことに絡む部分は全体の四分の一にも満たない。むしろ、ここにはそれ以外の物語がいくつも書き込まれている。

たとえばこれは、アメリカのいくつもの世代の物語、と読むこともできる。
ジュリアの祖父母にあたる世代の人々。
アメリカの繁栄の基礎を築いたのち、「大きくて古ぼけた」家に住み、なすすべなく日を過ごしている老人たち。
ドロシー・パーカーやマーフィ夫妻を初めとする、1920年代、ジャズエイジの人々。わたしたちには馴染みがないために、はっきりとこの部分を理解することはできないのだが、特に文化の面で一時代を築いた彼らが、次の時代にはまったく無力だったこと。
そうして、ジュリアやリリアン、あるいは名前も出てこない、ナチスと闘い、個々人としては破れていく、新しい世代の人々。
この「ジュリア」は、さまざまな世代の人々のタペストリーとして読むこともできるのである。

ここで描かれているジュリアを、もう一度振り返ってみよう。

少女時代から何カ国語も操り、古典の造詣も深い。
美しいだけでなく、ウサギを捕まえ、料理する野性味も備えている。
フロイトの下で学び、医者として成功する道もあったのに、その方向には背を向け、反ファシズム運動に身を投じる。

おそらくはヘルマンが描いた理想の女性像が〈ジュリア〉なのだろう。
けれども、あらゆる登場人物は、作者の手を通して描かれる、という意味で、作者の分身でもある。 作中ではことさらのように〈リリアン〉の未熟さ不器用さを強調して書くヘルマンは、おそらくは自分のある部分を〈ジュリア〉に投影させてもいるはずだ。

そうした意味で、この物語は決して「事実無根」ではないだろうし、「金を運ぶことに成功したかどうか」だけで読んでいてはつまらない。

この作品にははっきり描かれてはいないけれど、いくつかの仕掛けがある。「現実にあった出来事」の装いを取っているのもそのひとつの「仕掛け」といえるだろうし(実在する人々を登場させることで、いっそうリアリティは増す)、ハリウッドで映画の脚本を手がけた人らしいな、と思わせるところもある。
ジュリアは何で大けがをしたのか。
「お菓子の箱」の意味は?
ジョン・フォン・ジンマーを訪ねていったリリアンは、一体何を聞こうとしたのか、そうして、なぜ聞かずに帰ってしまったのか。
……
ほかにもいくつも問いを立てることはできるけれど、どうかそうやって「仕掛け」を見つけてください。
訳すのがヘタで、ぎこちない文章と仕掛けの見分けがつかなかったら……、すいません、それはわたしの責任です。



初出 Apr.09-21, 2006 改訂 Apr.25, 2006



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