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ここでは Ernest Hemingway の短篇 "The Snows of Kilimanjaro"の翻訳をやっています。
1929年、高い評価を得て、商業的にも成功した『武器よさらば』の出版以降、ヘミングウェイは七年間というもの、ふたつのルポルタージュを発表しただけで、まとまった作品を発表することはありませんでした。
その時期は同時に、アメリカに端を発した未曾有の大恐慌が起こり、ジャズ・エイジとも呼ばれた自由奔放な1920年代が終焉した時期でもあります。ヘミングウェイ自身にとっても、1928年の父親の自殺に続いて、1930年には交通事故で重傷を負い、さらには1934年アフリカ狩猟旅行中にアメーバ赤痢にかかるという一連のできごとを通じて、死を間近で体験する時期でもありました。
そうした変動の時期を経て、1936年、沈黙を破って発表されたのが「キリマンジャロの雪」です。
『日はまた昇る』や『武器よさらば』と並んでヘミングウェイの代表作ともされる短篇です。「キリマンジャロ」という山の名は、この作品によって世界に知られるようになりました。
原文はhttp://members.multimania.co.uk/shortstories/hemingwaysnows.htmlで読むことができます。



キリマンジャロの雪


by アーネスト・ヘミングウェイ

kilimanjaro


キリマンジャロは標高6007メートルの雪におおわれた山で、アフリカの最高峰である。西側の山頂はマサイ語で「ヌガイェ ヌガイ」、神の家と呼ばれている。その「神の家」近くに、一頭の干からびた豹のしかばねが凍りついている。豹がこんな高地に何を求めてやってきたのか、理由は誰にもわからない。



「不思議なのは、ちっとも痛くないってことなんだ」彼は言った。「そこで、ああ、いよいよおいでなすったか、ってこっちにもわかるわけさ」

「痛くないってほんと?」

「ああ、全然痛まない。まあひどい臭いは勘弁してくれ。君もうんざりだろうが」

「そんなわけがないでしょう」

「見ろよ」彼は言った。「あんなふうに集まってるのは、こっちを見つけたからか、それとも臭いを嗅ぎつけたからなのか、どっちだろうな」

 男が横になっている簡易寝台は、ミモザが作るふところの広い木陰に置いてあった。陰の外、太陽がぎらぎらと照りつける平原に目をやると、三羽の大きな鳥が猥褻ともいえるような格好でうずくまっているのが見える。空にはさらに十数羽が飛び交い、地面にはその動きに合わせて、黒い影が踊っていた。

「やつら、トラックが故障した日からずっと、あそこを飛んでたんだ」と彼は言った。「地上に降りてきたのは今日が初めてだかね。初めは、いつか小説に使うかもしれないと思って、やつらがどんなふうに飛ぶのか、じっくりと観察していたんだ。こうなっちゃ、笑い話にしかならないが」

「そんな話、聞きたくない」

「ただしゃべってるだけじゃないか。口を動かしてる方が楽なんだ。でも、君がいやならもう黙る」

「わたしがいやなわけないでしょう」と彼女は言った。「わたしにできることが何もないから、ちょっとイライラしてるだけ。でもわたしたち、気楽に構えてなきゃね。飛行機が来るまでは」

「さもなきゃ、未来永劫、飛行機なんて来ないことがわかるまでは」

「ねえ、何かわたしにしてほしいことはない? できることがあるはずよ」

「じゃ、この脚を切り落としてくれよ、そしたらこいつも治まるにちがいない。いや、そんなにうまい具合にはいかないか。それよりひと思いにおれを撃ってくれ。いまじゃ君の腕もたいしたもんだ。なにしろ、このおれが教えてやったんだから」

「そんなふうに言うのはもうやめて。何か読んであげましょうか」

「読むって何を?」

「カバンの中のまだ読んでないものなら何でも」

「じっと聞いていられそうにない」彼は言った。「話してるのが一番楽なんだ。ケンカしてれば時間も過ぎるってもんだ」

「わたし、ケンカなんてしたくない。ケンカはいや。ねえ、もうケンカなんて、ほんとにやめましょうよ、どれだけイライラしてても。だって、今日にもあの人たち、別のトラックで戻ってくるかもしれないし。それとも飛行機が来るか」

「もう動くのはごめんだよ」男は言った。「どこかに移ったって同じことだ。ま、君の気分が晴れるぐらいだな」

「意気地なし」

「人が死ぬってときに、悪態のひとつもつかないで、穏やかに逝かせてやれないものかねえ。おれにガタガタ言って何になるって言うんだ」

「あなた死んだりしないわよ」

「バカなことを言うな。こうやって死んでいくんだ。あいつらに聞いて見ろよ」彼が見上げた先には、巨大で汚らしい鳥が、禿上がった頭を丸めた背中の真ん中に埋めてたたずんでいた。そこに四羽目が舞い降りて、素早く脚を動かしたかと思うと、ほかの三羽に近づいたところで歩調を緩め、身を寄せる。

「あんな鳥なら、どこのキャンプのまわりにだって集まってる。あなたが気がつかなかっただけ。あきらめさえしなかったら、死ぬなんてこと、絶対にない」

「そんな言葉はどこで覚えたんだ。底抜けの阿呆だな」

「じゃ、誰かほかの人のことを考えてなさい」

「おいおい、いいかげんにしてくれよ」彼は言った。「それこそ、おれがこれまでずっとやってきた仕事じゃないか」

 彼は横になってしばらくのあいだ口をつぐみ、かげろうがゆらめく平原の彼方のブッシュを見やった。黄色い大地を背景に、数頭の羊が白い点を描いている。そのはるか向こう、ブッシュの緑を背に浮かび上がる白い色は、シマウマの一群だ。ここは快適な野営地だった。丘を背にして、木は高く生い茂り、水にも恵まれている。すぐそばには涸れた泉の跡もあり、朝になると砂鶏も飛んできた。

「ねえ、何か読んでほしくない?」彼女は尋ねた。男が横になっている寝台の脇に、キャンバス・チェアを置き、そこに腰を下ろしている。「いい風が吹いてきたわ」

「いや、大丈夫だ」

「トラックがそろそろ来るんじゃない?」

「トラックなんて知ったことか」

「大事なことでしょ」

「君の大事なことってのは、えらくたくさんあるらしいな」

「大切なことは、ほんの少ししかない、ハリー」

「一杯やるってのはどうだ?」

「お酒は良くないと思う。ブラックの本にもアルコールは一切避けるように、って書いてあったから」

「モーロ!」彼は怒鳴った。

「はい、ブワナ(旦那様)」

「ウィスキー・ソーダを持ってきてくれ」

「かしこまりました、ブワナ」

「そんなことしないで」彼女は言った。「そんなもの飲むなんて、あきらめたことと一緒じゃない。ケガした体に悪いって書いてあるんだから。毒なんだから」

「とんでもない」彼は言った。「薬さ、おれにとっちゃ」

 こういうふうに何もかもが終わっていくわけか、と彼は思った。やりとげるチャンスは永遠に来ないってことだ。こんなふうに終わるのか。飲むだの飲まないだのでやりあいながら。

右脚が壊疽を起こし始めると同時に、痛みはなくなり、痛みが消えると同時に怖れもどこかへ行ってしまい、いま感じているのはひどい疲労と、こんなことで終わってしまうことに対する激しい怒りだけだ。ここまで来てしまうと、近づきつつある死に対しても、好奇心すらわいてこない。もう何年もおれに取り憑いて離れなかったのに。結局、死そのものというのは、何の意味もないんだな。疲れたというだけで、これほどあっさりとどうでもよくなってしまうとは、おかしなものだ。

 うまく書けるようになるまで大切に取っておいたさまざまなことを、おれはもう、決して書くことはないのだ、と考えた。まあ、何とか書こうとして失敗することもなくなったわけだが。きっとおれには無理だったんだろう。だからこそ、書き始めるのをずるずる先送りし、延ばしに延ばしてきたんじゃなかったか。なんにせよ、もういまとなってはわかりようがないことだが。

「こんなとこ、来なきゃよかった」女が言った。グラスをにぎりしめ、唇を噛んだまま、彼にじっと目を注いでいる。「パリにいたら、こんなことにはならなかったのに。あなた、パリが好きだっていつも言ってたじゃない。あのままパリにいたってよかったし、どこかよそへ行ったってよかった。あなたが行きたいところなら、どこへだってわたしはついていったのに。狩猟がしたいのなら、ハンガリーだってできるんだし、そこでなら快適に過ごせたのに」

「君の金でな」彼は言った。

「そんな言い方するなんてひどい」彼女は言った。「わたしのものはいつだってあなたのものだったじゃない。何もかも捨てて、あなたの行くところならどこだってついて行ったし、あなたが望むことを何でもやってきた。だけど、ここだけは来なかったらよかった」

「ここが気に入ったって言ってたじゃないか」

「あなたが元気なときはそうだったの。でも、いまは大っきらい。なんであなたの脚がそんなふうにならなきゃいけなかったの? わたしたち、こんな目に遭わなきゃならないような何をしたって言うの?」

「最初にかすり傷ができたときにヨードチンキを塗るのを忘れたってだけさ。感染症に罹ったことなんてなかったから、気にもとめなかった。そのあと悪くなってから、薄い石炭酸溶液を使ったんだ。ほかの消毒薬がなかったからね。そのあげく、毛細血管が麻痺して、壊疽を起こした」彼は相手を見つめた。「それだけのことだ」

「わたしが言ってるのはそんなことじゃない」

「じゃ、もしおれたちが半人前のキクユ族の運転手なんか雇わずに、立派な修理工を雇ってさえいたら、オイルの点検もおさおさ怠らず、トラックのベアリングを焼き付かせるようなヘマもしなかった、とでも?」

「そんなことじゃないんだったら」

「ってことは、もし君が君のお仲間、オールド・ウェストベリだのサラトガだの、パーム・ビーチだのの連中を捨てて、おれに乗り換えたりしなけりゃ」

「だってあなたを愛してたから。そんなこと言うのは卑怯よ。こんなに愛してるのに。これからもずっと愛してる。あなたはそうじゃないの?」

「いや」男は言った。「たぶん愛してはいないな。これまでだって」

「ハリー、なんてこと言うの? 頭がどうかしちゃったんじゃない?」

「ちがうね。どうにかなるような頭すら持っちゃいない」

「そんなもの飲まないで」彼女は言った。「ねえ、お願い。お酒なんてやめて。力を合わせて、できるだけのことをしましょうよ」

「君がやればいい」彼は言った。「おれはもう疲れた」

* * *

 いま彼の脳裡には、トルコのカラガッチ駅があった。彼は荷物を持って立っており、闇を引き裂いてシンプロン・オリエント急行がやってくる。彼はいま、ギリシャ軍が撤退したあとのトラキアを発とうとしているのだ。これも、そのうち書こうと大切に暖めてきた題材のひとつだった。それと、その朝の食事の席で、窓の外、ブルガリアの山々が雪をかぶっているのが見えたことも。

ナンセンの秘書がナンセン老人に、あれは雪でしょうか、と尋ねたところ、老人はそちらに目をやり、いや、あれは雪ではない、と答えた。雪にはまだ早すぎる、と。そこで秘書はほかの女の子たちに、いいえ、あれは雪じゃないんですって、と繰りかえした。雪じゃないのね、とみなが口々に言い、わたしたち見間違えたんだわ、と言い合った。だが、雪以外の何ものでもなく、ナンセンが開始した住民交換計画は、雪の中へ人びとを送り込むことになった。その冬、歩き続けた人びとを死に追いやったのは、その雪だった。(※訳注:ギリシャ−トルコ戦争で休戦時に締結されたローザンヌ条約によって、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定し、約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住することになったことを指している。ナンセンはこの移動に尽力した。ヘミングウェイ自身も希土戦争に特派記者として従軍している)

 あれもまた雪だった。同じ年のクリスマスの週、オーストリアのガウエルタールは雪が毎日降り続いたのだ。みんなで生活した木こり小屋には、大きくて四角い陶器のストーヴが部屋の半分を占領していて、みんなブナの葉をつめたマットレスで眠った。そのとき、血だらけの足の脱走兵が雪の中をやってきた。警察がすぐそこまで来ている、と言うものだから、みんなはウールの靴下を履かせてやり、彼の足跡が雪ですっかり覆われてしまうまで、みんなで憲兵に話かけて引き留めたのだった。

 シュルンツでのクリスマスは、雪があんまり明るかったので、酒場の窓から外を見ると目が痛くなるほどだったが、それでも教会から家路を急ぐ人の姿が見えた。そりのせいでツルツルになり、小便で黄色く染まった川沿いの雪道を上り、松の茂る急な丘を登っていったのも、そこでの話だ。スキーが肩に重かったっけ。それからマドレーネルハウスの上の氷河をみんなで滑り降りたのだ。雪はケーキにかけた砂糖ごろものようになめらかで、粉のように軽い。音もなく急降下していくときのスピードの感覚は、いまだにはっきりと覚えている。まるで鳥が急降下するようだった。

 あのときは吹雪のために、マドレーネルハウスに一週間も閉じこめられたのだ。ランプの明かりの下、タバコの煙のたちこめる中でトランプをやった。賭け金がつり上がるたびに、ヘル・レントが負けていく。とうとうレント先生、すっからかんになったんだっけ。スキー学校の金も、このシーズンの儲けも、元手に至るまで、一切合切だ。鼻の長いレントが、「目隠しポーカー」でカードをつまみあげ、それから開いて見せる。あのころは何かというと、賭け事ばかりやっていた。雪がないといっては賭けをやり、降りすぎたといっては賭けをやる。自分は一生のうち、どれほどの時間を賭け事に費やしてしまったのだろう、と考えた。

 だが、そういうことは、これまで一行たりとも書いていない。あの寒い、明るいクリスマスの日に、平原の向こうに山々がくっきりと姿を現した日に、バーカーが飛行機で前線を越え、オーストリア軍の将校を満載した汽車を爆撃し、散り散りに逃げ出した彼らをマシンガンで掃射したことも。そのあと、一同が飯を食っているときにバーカーがやってきて、その話を始めたときのことは、忘れようがない。恐ろしいほどの沈黙が落ち、突如、その沈黙を破って誰かが言ったのだ。「くそったれの人殺し野郎が」

 自分たちが殺した同じオーストリア人と、時間が経てば、一緒にスキーをする仲にもなった。いや、同じではない。その年、ずっと一緒にスキーをしたハンスという男は、帝国狩猟隊に所属していたから。製材所の上の小さな渓谷に一緒に猟をしに行ったとき、パスビオの戦いやペルティカラやアサローネ攻撃について語り合った。だが、それもまだ一言も書いてない。モンテ・コロナも、シェッテ・コムニも、アルシエロのことも。

 フォラルベルクやアルベルクでは、いったい何度、冬を過ごしたことだろう。四度だったな。キツネを売りに来た男がいたっけ。贈り物を買いに、ブルデンツへ歩いていったときのことだ。上等のキルシュの、サクランボの種のような味や、カチカチになった雪の上を、さらに粉雪が降り積もり、そこを「ハイ・ホー! そう言ったのはローリー!」と歌いながら、恐ろしい速さで滑り降り、最後の急斜面は直滑降、それから果樹園を三度の大回転で駆け抜け、堀を飛び越え、宿屋の背後の凍った道に降りたのだ。スキー板のビンディングを叩いてゆるめ、蹴飛ばすようにしてスキーを外してから宿屋の木の壁に立てかけると、ランプの明かりが窓からもれていた。中をのぞくとけぶったような若いワインの香りがただよう暖かそうな部屋で、アコーディオンを弾いている者たちがいた。

* * *

「パリではおれたち、どこに泊まったんだっけ」いまはアフリカにいる彼のかたわらで、キャンバス・チェアにすわっている女に聞いた。

「クリヨンよ。よく知ってるでしょ」

「なんでそんなこと、知ってなきゃならないんだ」

「いつも泊まってるところなのに」

「いや、いつもじゃない」

「そこと、サン・ジェルマンのパヴィヨン・アンリ四世ね。そこを愛してるんだって言ってたじゃない」

「愛なんてものは、掃き溜めみたいなものさ」ハリーはそう言った。「で、おれはその掃き溜めの上で鬨の声を上げるオンドリなんだ」

「行くとなったら」と彼女は言った。「あとに残るものを、一切合切、残らずめちゃくちゃにしなきゃ気がすまないってわけ? 何もかも根こそぎにしてしまうのね? 馬も妻も殺して、鞍と鎧は燃やさなきゃならないのね?」

「そういうことだ」彼は言った。「おまえのクソ金がおれのアーマー(鎧)だったからな。おれのスウィフト・アンド・アーマーだ(※共にシカゴの精肉業者。肉の冷蔵法・加工法を開発し、巨万の富を得る。おそらく剣と鎧、ソード・アンド・アーマーとこの精肉業者をかけたものと思われる)

「もうやめて」

「わかった。やめるよ。君を傷つけたくないから」

「もう手遅れよ」

「わかった。なら、これからも君を傷つけてやる。その方が楽しそうだ。君と一緒に楽しめたたったひとつのことも、いまとなっちゃ、もうできそうにないしな」

「あら、そんなの嘘よ。あなたと一緒に楽しんだことはずいぶんあったじゃない。おまけに、あなたがやりたがったことなら、わたしだって何でもやってきた」

「おいおい、頼むよ、自慢なんてやめてくれ」

 彼女の方に目をやると、泣いていた。

「なあ」彼は言った。「おれがおもしろくてこんなことをしていると思うか? 自分でもどうしてこんなことをしているのかわからないんだ。自分をなんとか生かしておこうとして、人を不愉快な目に遭わすのかもしれない。話を始めたときはまともだったはずなのに。最初からこんなことをするつもりはなかったんだ。なのに、いまのおれはバカなジジイで、君に対してひどいことを言ってしまう。おれの言うことなんか、気にしちゃいけない。愛してる、ほんとうだ。君だっておれの気持ちはわかってるだろう。いままでこんなふうに人を愛したことはなかった。君のようには」

 いつのまにか、おなじみの嘘、自分がこれまで飯の種にしてきた嘘が口から滑り出していた。

「優しいのね」

「このビッチ」彼は言った。「おまえはリッチなビッチ。これは詩だよ。いま、頭の中は詩で一杯なんだ。たわ言と詩。腐りかけた詩だ」

「もうやめて。ハリー、この期に及んでどうしてそんなにひどい人にならなきゃいけないの」

「何も残していきたくないんだ」男は言った。「あとに残していくのがいやなんだよ」

* * *

 日が暮れている。しばらく眠ったらしかった。太陽は丘の向こうに沈み、平原はすっぽりと闇におおわれている。小動物たちがキャンプのまわりで餌を漁っていた。頭を素早く上下させ、尻尾をシュッと振っている。そのようすを見ていると、けものたちがブッシュからしかるべき距離を保っていることがわかる。例の鳥は、いまは地面で待ちかまえるのは止めたらしく、一本の木に勢揃いして、重たげに留まっていた。数がずいぶん増えていた。身の回りの世話をする少年がベッドの横に腰を下ろしていた。

「メンサヒブ(※奥様)は狩りに行ってます」少年は言った。「ブワナ、何かしてほしいことはないですか」

「結構」

 肉を取りに出かけたのだ。彼が好んで狩りの獲物たちを眺めているものだから、彼の視界となる平原の小さな一画の平和だけは乱すまいと、遠くまで行ったのだろう。いつだってあいつは考え深いのだ、と思った。自分の知っていること、読んだり聞いたりしたこと、何にせよ考えなしにすませるような女じゃないんだ。

 あいつのせいじゃない。あいつに近づいたときには、おれはもう終わっていたんだ。男の言葉には何の意味もないってことが、どうして女にはわからないのだろう。しゃべっているのはただの習慣で、その場の気分を壊さないためでしかないのに。だが、彼の話が意味を失ってからは、女たちとは嘘のおかげでずいぶんうまくいくようになっていた。真実をしゃべっていたころよりもずっと。

 ほんとうは、嘘ばかりついてきたというより、話そうにも真実がなくなってしまったのだ。自分の人生をすっかり生ききったあげく、それが終わってしまい、別の連中相手に、もっと金を使って、とびきりうまくいった場所でそれを再現していただけだ。まあ、新しい場所でも少しはやってみたが。

 考えることをやめれば、万事、順調だった。元来、頭の中が丈夫にできているものだから、たいがいの連中がそうなったように、駄目になったりはしなかった。もう本物の仕事ができなくなってからは、あんなもの、知ったことか、という態度で通した。だが、腹の中ではこいつらのことを書いてやる、と考えていたのだ。大金持ちの連中を、おれはほんとうはこいつらの仲間なんじゃなくて、やつらの国に潜入しているスパイなんだ、そのうちここを出国して、書いてやるんだ、そうなれば、やつらのことを知悉した人間の手による、前代未聞の本となる。

だが、その本が書かれる日は、決してやってこない。書かずにいる日が、安逸をむさぼる日が、かつで自分が軽蔑していたものになってしまった日が過ぎるごとに、おれの能力は鈍り、仕事に向かう気迫は弱まり、とうとう仕事をしなくなってしまったからだ。いまつきあっている連中は、仕事をしていないおれの方が、はるかに気安くつきあえるらしい。

アフリカは、人生の絶頂期、最高の日々を過ごした場所だった。再出発にふさわしい場所だ。今回の狩猟旅行は、快適さは最小限にまで切り縮めた。難行苦行というわけではない。だが、贅沢は一切ぬきだ。それならコンディションを取り戻せる。自分の魂にこびりついた贅肉をそぎ落とすこともできるだろう。ちょうどボクサーが自分の体の贅肉を燃やし尽くすために、山ごもりしてトレーニングに励むように。

 女もここが気に入っていた。ここが大好きよ、と言いもした。刺激的なことや、場所が変わり、新しい連中に会い、楽しい出来事が待っているようなところなら、何だって夢中になる女だから。そのうち、自分でも仕事に向かう意思の強さが蘇ってきたような錯覚さえ味わった。それが、こんな終わりを迎えるとは。彼にはこれが終わりだとわかっていた。背骨が折れたといって自分の体に噛みつくヘビのように、後ろを向いてしまうんじゃない。あいつのせいなんかじゃないんだから。あいつがいなくても、何かほかのことがあったはずだ。嘘で生きてきた以上は、嘘のために死ぬことだ。
そのとき丘の向こうから銃声が聞こえた。

 あいつの射撃の腕はたいしたもんだ。なにしろリッチなビッチだから。おれの才能の心優しき保護者にして破壊者。バカバカしい。おれの才能をめちゃめちゃにしたのは、このおれじゃないか。あの女が自分に贅沢させてくれたからといって、責められる何のいわれがあるだろう。おれが駄目にしてしまったのは、それを使わなかったからだ。自分自身や自分の信じているものを裏切るような真似をしたからだ。飲み過ぎたせいで感受性の刃をすっかり鈍らせてしまったし、ほかにも怠けたり、無精に流されたりもした。理由は、俗物根性、高慢と偏見、売春婦と盗人……。これはいったい何だ? 昔の本のカタログか?

そもそもおれの才能ってのは、いったい何だったのだろう。確かに才能にはちがいなかったろう。だが、おれはそれを使うかわりに、売り物にしてしまったのだ。いつだって、自分が実際にやったことではなく、おれならできる、と言い張ることで、世間を渡ってきた。身すぎ世すぎの手だてにペンや鉛筆を頼るのではなく、ほかのものに頼ったのだ。

おかしな話じゃないか。恋に落ちる新しい相手は、きまって前の女より金持ちだったなんて。だが、そのときだってほんとうに愛してなどいなかった。嘘をついているだけだ、いまの女のように。あいつはこれまでの誰よりも金持ち、この世の金をかき集めたほどの大金持ちで、以前は亭主と子供たちがいたが、愛人をつぎからつぎへと作り、その誰にも満足できないでいた。そこへおれが現れたってわけだ。作家として、男として、自慢の所有物として。だが、もはや愛さえ失せて、ただ嘘をついているだけのいまの方が、ほんとうに愛していたときより、彼女の金に見合うお返しをしてやれるとは、ずいぶん奇妙な話だな。

 人は結局自分に向いた生き方をするしかないらしい。どうやって身を立てているか、そこに才能が現れている、というわけだ。おれはこれまで、自分の生命力を売ってきた。形こそ、そのたびにちがっていたが。愛なんてものにかかずらわないときの方が、相手の金に見合うものを与えてやれる。これもおれが見つけた真理だが、もう書くこともないだろう。確かに書くだけの値打ちはあるが、書くことはあるまい。

 彼女の姿が視野に入ってきた。平原を横切ってキャンプに近づいてくる。乗馬ズボンを履き、手に自分のライフルを持って。一頭の羊をふたりでかついだ少年たちを従えている。なかなかどうして、いまだってきれいなもんじゃないか。おまけにいい体だ。ベッドではたいしたものだし、楽しむことにも貪欲だった。確かに美人ってわけじゃないが、好みの顔だったし、なにしろ大変な読書家だ。乗馬も射撃も好きだし、もちろんたいそうな酒飲みでもある。

亭主が死んだときは、まだあいつも若く、しばらくはふたりの子供にかかりきりになっていた。ところが子供の方は、大人になりかけていたものだから、あいつが邪魔で、近くにいるのも恥ずかしがっていた。だからあいつは乗馬や本や酒に気持ちを向けるしかなかったのだ。暮れ方に本を読むのが好きで、よく晩飯前にスコッチ・アンド・ソーダを飲みながら読んでいた。晩飯になるころにはすっかりいい調子で、食事時にワインを一本空ければ、ぐっすり眠れるくらいに酔えるっていう寸法だ。

 だが、そいつは愛人ができる前の話だ。愛人ができてからはそんなには飲まなくなった。酔わなくても眠れるからだ。だが、色恋沙汰にもあいつは飽きてきた。結婚した相手は、あいつを退屈させるような男ではなかったから、よけいに愛人連中にはうんざりさせられたのだろう。

 やがて息子の片方が飛行機の墜落事故で死んだ。一切合切片づいてみると、もう愛人なんてお呼びじゃない。酒が睡眠薬代わりにならないとなると、別の生き方をしなきゃならん。急にあいつはひとりでいることがとんでもなく恐ろしくなってきた。だが、あいつが求めていたのは、尊敬できる相手だった。

 きっかけは単純だった。あいつがおれの書いた物を気に入り、おれの暮らしにずっと憧れていた。あいつはおれを、自分の意思のままに生きている男だと考えた。おれを手に入れるためにあいつが踏んだ段取り、おれと恋愛関係になったいきさつは、何もかもがありきたりの成り行きだった。それによってあいつは新しい生活を築き、おれはそれまでの生活の残り滓を売り渡したのだ。

 おれは身を守るために、それから安逸をむさぼるために取り引きに乗った。それは否定できないし、ほかにどんな理由があったというのだ? そんなこと、わかるものか。あいつはおれがほしがるものなら何だって買ってくれるはずだ。そんなことはわかっていた。おまけにとびきりのいい女なのだ。じき、ベッドを共にするようになった。ほかの女と同じように。というか、彼女だから、と言った方がいい、なにしろ金持ちだったし、陽気で熱い女だったし、絶対に愁嘆場を演じるようなことはなかったから。だが、いまここで、彼女が築きなおした生活が終わろうとしている。二週間前にただ、イバラでひっかいた膝をヨードチンキで消毒しなかった、というだけのことで。

ちょうど、ウォーターバックの群れの写真を撮ろうと前進していたときだった。ウォーターバックたちは頭を上げ、目を凝らし、鼻先で空気のにおいを嗅いでいた。耳がぴんと広がり、物音を聞きつけたら真っ先にブッシュに飛び込もうと身構えている。そうして写真を撮る前に駆けだしてしまったのだった。

 さあ、あいつが来るぞ。彼は寝台に横たわったまま、頭を動かしてそちらに目をやった。「やあ」

「羊を一匹仕留めたの」彼女は言った。「これでコックにおいしいスープを作ってもらえるし、わたしはクリム・ミルクを使ってマッシュポテトを作るつもりよ。気分はどう?」

「ずっとよくなった」

「すてき。そうじゃないかと思ってたのよ。行くときはよく眠ってたから」

「確かによく寝た。遠くまで歩いたのか」

「そんなでもない。丘の向こう側へ回っただけ。うまく一発で牡羊を仕留めることができたわ」

「君はたいした腕だからなあ」

「好きだから。アフリカもずっと好きだった。ほんとよ。あなたが元気でさえいてくれたら、こんなに楽しいことはないぐらいよ。あなたと一緒に狩猟に来られて、どれだけ楽しいか。この地方だって大好きなの」

「おれだって好きさ」

「ねえ、あなたが気分の良さそうにしてるだけで、どれほどうれしいか、あなたにはきっとわからない。さっきみたいな感じだと、耐えられなくなるの。もうあんなふうなしゃべりかたはやめて。お願い」

「約束する。何を言ったかさえ、もう忘れたよ」

「わたしにひどいこと言わないで。お願い。わたしはあなたに夢中なただのおばさんで、あなたがしてほしいことはなんだってしてあげたいと思ってるだけなの。これまでにもう二度か三度、めちゃめちゃにされたわ。もう二度とそんなことはしないで」

「ベッドの中でなら、何度でもめちゃめちゃにしてやりたいよ」と彼は言った。

「ええ、そんなふうにめちゃめちゃにされるのは大歓迎。わたしたち、そんなふうにやっていくようになってるんだから。飛行機は明日には来るはずだし」

「何でわかる」

「だってそうだもの。もう着く頃だから。男の子たちに言って、のろしを上げるために、木も草もすっかり準備させたの。今日、もう一度見に行ってみた。広くて着陸には十分だし、両端に目印になるのろしの準備もできてるのよ」

「どうして明日来るなんて思うんだ」

「だってそうだもの。いまだって遅すぎるくらいよ。それから町へ行って、あなたの足を治してもらって、それからあのすてきなめちゃめちゃをするのよ。ひどい言い争いなんかじゃなくて」

「飲まないか? 日も沈んだことだし」

「どうしても飲まなきゃいけない?」

「おれはもうやってるところだ」

「じゃ、飲みましょう。モーロ、ウィスキーソーダふたつ」彼女は声を上げた。

「蚊よけのブーツを履いた方がいいな」

「体を洗ってからね」

 徐々に暗くなっていくなかで、ふたりは酒を飲んだ。あたりが闇に包まれてしまう直前、獲物を撃とうにも明かりの足りない薄暗がりの中、一頭のハイエナが丘の方からやってきて平原を横切った。

「あいつめ、毎晩ここを横切りやがる」男は言った。「この二週間というもの、毎晩だ」

「夜中の物音はあいつの仕業なのね。別に気にしてるわけじゃないんだけど。ほんと、いやらしいやつよね」

 一緒に酒を飲んでいると、同じ体勢のまま寝転がっているせいで体が痛むことを除けば、取り立てて苦痛を感じることもなく、少年たちが起こした焚き火の火影がテントに伸びるのを眺めた。こうやって安逸に身を委ねるのはいいものだ、という気分がよみがえってきた。あいつはほんとうによくしてくれる。今日の午後、おれの態度は残酷で、不当なものだった。あいつはいい女だ。実際、たいしたもんじゃないか。その瞬間、不意に、自分が死ぬのだ、という考えが心にひらめいた。

 それは突然襲ってきた。襲ってくるといっても、波が寄せたり、風が吹きつけたりするようにやってきたわけではない。まがまがしい臭いはしたが、向こうには何もなかった。奇妙なことに、ハイエナがそのがらんどうのへりを、身も軽やかに、すべるように歩いていく。

「どうしたの、ハリー?」彼女が聞いた。

「なんでもない」彼は言った。「君は向こうへ移っ方がいい。風上へ」

「モーロは包帯を取り替えてくれた?」

「ああ、今度はホウ酸を使ってみた」

「調子はどう?」

「ちょっとふらふらするな」

「体を洗ってくるわ」彼女は言った。「すぐだから。それから一緒に食事をして、寝台を中に入れましょう」

 彼は独り言を言った。口ゲンカをやめて良かった。これまでこの女とはケンカをしたこともなかったが。以前は惚れた女とは、よくケンカしたものだ。あんまりケンカばかりしていたものだから、とうとうおれたちを結びつけていたものが、ケンカのせいでむしばまれ、駄目になっていった。あまりに激しく愛したせいで、あまりに多くを望んだせいで、おれは何もかもすり減らしてしまった。

* * *

 あのとき、コンスタンチノープルでは一人きりだった、と彼は考えた。パリを発つ前にケンカ別れしてしまったのだ。そのあとはずっと売春婦と遊んだが、ことがすんでも寂しさは消えるどころかひどくなるばかりで、最初の女、彼を捨てて出ていった女に手紙を書き、君への思いをどうやっても消せない……と告げたのだった。

いつかカフェ・ド・ラ・レジャンスの外で、君がいる、と思った瞬間、気が遠くなりそうで、吐き気までこみあげた。また別のときには、どこかしら君を思わせる女を見かけ、ブルヴァールをずっとついていってしまった。そのくせ自分がいま感じているときめきが失せるのが恐ろしく、君ではないことをはっきりさせることもできずにいた。誰かとベッドを共にするたび、君への思いがいよいよ募ってくる。君が何をしたにせよ、そんなことはもう、どうだっていい、君に対する渇望は、どうしようもないのだから……。

彼はこの手紙をクラブで、完全にしらふの状態で書き、ニューヨークに出した。返事はパリの支局宛てにしてくれるよう書き添えて。そちらの方が確実に思えたからだった。

その晩、彼女の不在が耐えがたいまでになり、胸がからっぽになったようで、苦しい気持ちのまま、タクシム広場をうろつきまわり、女の子を拾って食事に連れ出した。それから踊れる店まで行ってはみたものの、彼女のダンスたるやひどいものだ。そこで女の子はそのまま放ったらかしにして、体を揺すりながら、燃えるような下腹部を押しつけてくる、扇情的なアルメニア女に乗り換えた。女は、イギリス海軍砲兵隊の准大尉と一戦交えたあげくに奪ってやったのだ。

砲兵隊が外へ出ろ、と言ったものだから、石畳の暗い通りでやり合った。顎の横へ二発、強烈なパンチをお見舞いしてやったが倒れない。これは楽にはいかないぞ、と腹をくくった。砲兵隊はこっちの体に一発打ち込んできたかと思うと、すぐさま目の脇を強打してきた。そこでこっちも相手の左半身に思い切り殴りかかった。確かな手応えがあったが、砲兵隊はこちらに手を延ばして、コートをひっつかんできた。袖がちぎれる音がした。相手の耳の後ろに二発、こぶしを振り下ろし、それから右手で何度も殴りつけながら、相手の体をはねのけた。砲兵隊は仰向けにばったりと倒れ、そのとき憲兵が走ってくる足音が聞こえてきたので、女を連れて逃げ出した。

タクシーをつかまえて、ボスフォラス海峡に沿ってルメリ・ヒサルまで車を走らせ、そこをひとまわりしてから、ひんやりした夜気のなかを戻り、ベッドを共にした。女は外見そのままの、やや熟しすぎではあったが、なめらかな肌はバラの花びらを思わせ、蜜をしたたらせ、やわらかな下腹部と豊かな胸、腰の下に枕をあてがう必要もなかった。明け方の光のなかで、いぎたなく眠りこけている女が目を覚ます前にそこを出、ペラ宮殿に行った。目の回りにあざを作り、片袖のなくなったコートを小脇に抱えたまま。

 その夜、アナトリアに向けて発ったが、その旅を終えて覚えていたことは、一日中行けども行けどもケシの花畑が続き、それがみなアヘンを採るために植えられているのだと聞いて、ひどく奇妙な気がし、とうとう距離感までもがおかしくなってしまったことだ。ところが到着するや、こちらもやってきたばかりの王太子軍の、西も東もわからないような将校が、こちらに向かって攻撃を開始してしまい、大砲が味方の連隊めがけてぶっ放す始末で、それを監視していたイギリスの観戦武官は、子供のようにわめいたものだった。

 その日彼が初めて目にした死者は、白いバレエスカートのようなものをはいて、先がそりかえり、ポンポンのついた靴を履いたギリシャ兵だった。トルコ軍が陸続と進軍してくると、スカートをはいた兵隊たちが逃げていく。こちに向かって向けて発砲していた将校たちも、やがて逃げだし、彼も、イギリスの観戦武官も一緒に逃げ出した。肺が痛くなり、口の中に銅貨を噛んだような味が広がり、岩陰で立ち止まって振り返ると、相変わらずトルコ軍は一団となって迫ってくる。それから彼は、二度と振り返りたくない、想像を絶するような光景を目の当たりにし、その後、さらにひどい光景を目撃した。だからパリへ戻ってからも、そのときのことを話すこともできなかったし、ほかの連中が話題にすることすらも耐えがたかった。

通りかかったカフェでは、アメリカの詩人が自分の前に、空けたグラスの受け皿を前に積み上げ、ジャガイモづらにバカのような表情を浮かべて、ダダイズムの話をしていた。相手のルーマニア人はトリスタン・ツァーラという名前の、いつも片メガネをかけ、頭痛に悩まされている人物だった。

アパートに戻ってからの彼は、妻とはふたたび愛し合うようになり、ケンカすることも、相手に腹を立てたりすることもなくなって、家に戻った喜びを味わっていた。そこへ支局から手紙が回送されてきたのだ。彼がトルコで書いた手紙の返事が、その朝、パリのアパートの食卓へ、お盆に載って運ばれてきた。筆跡を見たとたん、寒気に襲われ、なんとかほかの手紙の下に隠そうとした。だが妻は「あなた、誰からの手紙?」と言い、新生活の始まりも終わってしまったのである。

 女たちと過ごした楽しい日々を思い出した。それからケンカしたことも。女ってやつは、ケンカに最高の場所を絶対に見逃さない。いったいどうしてやつらはこっちの気分が最高のときを選んで、ケンカをふっかけてくるのだろう? ケンカのことも書いたことはない。というのも、初めのうちは、誰も傷つけたくなかったからだ。そのうち、そんなことを書かなくても、書くことならいくらでもあるように思えてきた。だが、いつかは書くことになるだろうとずっと思ってはいたのだ。書くべきことは、実にたくさんある。世界が変わっていくのも、目の当たりにしてきた。単に事件というだけではない。もちろん事件も人も、目撃したことはいくつもあるが、もっと微妙な変化、時代が変われば人がどのように変わっていくかも、決して忘れずにいた。おれはその中にいて、目に焼きつけてきたのだから、それを書くのはおれの義務だった。なのにもう書くこともできなくなってしまった。

* * *

「気分はどう?」体を洗った彼女がテントから出てきた。

「いいよ」

「何か食べられそう?」後ろからモーロが折りたたみのテーブルを持ってやってきた。続いてもうひとりの少年が皿を運んでくる。

「書かなきゃならん」彼は言った。

「スープを飲んで。体力をつけてからよ」

「おれは今夜死ぬんだ」彼は言った。「体力が何になる」

「メロドラマはやめて、ハリー、お願いよ」彼女は言った。

「鼻を利かせてみちゃどうだ。おれの太股はもう半分がとこ、腐ってるんだ。いまさらスープが何になる。モーロ、ウィスキーソーダを持ってこい」

「お願い。スープを飲んで」彼女は優しい声でそう言った。

「わかった」

 スープは熱すぎた。飲めるようになるまで、カップを持っていなければならず、それからどうにか吐かずに呑みこむことができた。

「おまえは立派な女だ」彼は言った。「おれなんかに構わない方がいい」

 彼女はじっとこちらを見ていた。雑誌の『スパー』や『タウン・アンド・カントリー』で有名な、みんなに愛されてきた顔。いささか衰えが見えるのは、酒のせいとベッドのせいか。だが、すばらしい胸もみごとな太股も、背中を優しく愛撫してくれる小さな手も、『タウン・アンド・カントリー』は教えてくれない。雑誌でも評判の、華やかな笑顔を見ているとき、ふたたび死がやってきたのを感じた。今度は急に襲ってきたりはしなかった。ふわっと、ちょうど風がろうそくの炎をゆらめかせ、炎を立ち上らせるようにやってきたのだった。

「あとでオレのぶんの蚊帳を出して、木から吊してくれないか。火も焚くんだ。今夜はテントには入らない。わざわざ動く必要もない。いい天気の夜だ。雨も降りそうにない」

 人はこうやって死んでいくのか。耳にも定かではない、ひそやかなささやきに包まれて。よし、ケンカなんかしないぞ。決めた。ただ一度きりの得難い体験をしているときに、それを無駄にするようなことはできない。いや、おそらく無駄にしてしまうのだろう。何もかも無駄にしてきた。だが、もしかしたらそうしないですむかも。

「口述するのを書きとってもらえるかな」

「速記は習ってないの」彼女は言った。

「それでもいい」

 もちろんそんな時間はない。だが、うまくやりさえすれば、あらゆることを、たったひとつのパラグラフに凝縮できるような気もした。

* * *

 丸太小屋がある。隙間を白い漆喰でふさいである。湖に面した丘の上だ。ドア横の柱には、小さな鐘がつるしてあって、食事時になると、みんなにそれで知らせる。家の裏手は畑になっていて、その向こうには森が広がっていた。小屋から船着き場までは、ロンバルディ・ポプラが一列に続く。岬沿いには別の種類のポプラも生えていた。

道が一本、森のすれすれを通って丘の上へ向かい、道すがら彼は黒イチゴを摘んだ。そのうち丸太小屋は燃えてしまい、暖炉の上のシカの脚のラックにかけてあった銃も焼けてしまった。後で見たら、銃把が焼けて、弾倉の中で弾の鉛が溶けてしまった銃が、灰の山の上に放り出されていた。その灰は、大きな鉄製の石鹸を作る鍋で煮て、灰汁となった。祖父に、焼けた銃で遊んでいい? と聞くと、駄目だ、と言われた。それは依然として祖父の銃だった。祖父は、新しい銃を買い求めることはなかったし、狩りに行くこともなかった。家は同じ場所に、今度は板で建て直され、白く塗られた。ポーチからはポプラの木立ちが見えたし、その向こうに湖も見えた。けれども銃はもうなかった。丸太小屋の壁、シカの脚にかかっていた銃は、灰の山に放り出され、誰もそれには手を触れなかった。

 戦後、シュワルツバルトでマスの棲む川を借たりことがあるが、その川に行くには、二通りの道があった。ひとつはトリベルクから渓谷を下りていき、白い道に近い木陰の道を進んで、谷を迂回する。やがて脇道に入って丘を上ると、小さな農場とシュワルツバルト特有の大きな家がいくつも並んでいる。そこを過ぎると、川に行く手を阻まれる。おれたちが釣りを始めたのは、まずこっちの道だった。

 もうひとつの道は、急な坂を上って林の端まで行き、そこから丘の尾根づたいに松林を抜け、牧草地のはずれまでいったところで、そこを突っ切って橋に出るのだ。川沿いには樺が生えていたが、川そのものはごく小さな、幅の狭いものだった。澄んだ水は流れが速く、樺の根元をえぐりながら流れていき、淵がいくつもできていた。

トリベルクのホテルは、主人にとっては願ってもないシーズンだった。とても気持ちのよいところで、すぐにみんなはすっかり仲良くなった。ところが翌年はインフレに見まわれ、主人が前年に蓄えた金では、ホテルを再開しようにも備品を買う資金にも不足する始末で、彼は首をくくることになった。

こうした話なら書き取らせることもできるだろう。だが、コントルスカルプ広場の情景は、口述ではできそうもない。花売りが通りで花を染め、染料が石畳の道を流れ、その上をバスが走る。老人たちや老婆たちはワインやワインの搾りかすで作った安酒で酔っぱらってい、子供たちは寒気のなかで鼻を垂らしていた。すえた汗の臭い、貧困と泥酔の臭いが流れてくるのは、カフェ・デ・ザマトゥールだ。住んでいたアパルトマンの一階にあったバル・ミュゼットの娼婦たち。玄関番の女は、自分の部屋にフランス共和国親衛隊の騎兵を引っ張りこんでいて、馬の毛を建てたヘルメットを椅子の上に置いていた。

廊下を隔てた向かいの部屋の、女の亭主は競輪選手だった。ある朝、簡易食堂の店先で『ロート(自動車)』紙を開き、亭主が最初に出場した大きなレース、パリ−トゥール間レースで三位に入賞したときの喜びようといったら。顔を紅潮させ、笑顔満面、黄色い新聞をにぎりしめたまま、泣きながら階段を上っていった。バル・ミュゼットを経営している女の亭主はタクシーの運転手で、ハリーが早い飛行機に乗らなければならないときには、ドアをノックして起こしてくれ、それから出発前にバーのカウンターで一緒に白ワインを一杯飲むのだった。あの界隈にいた連中なら、みんなよく知っていた。というのも、誰もが貧しかったからだ。

 あの広場のあたりには、二種類の人間がいた。酒に目がない人種とスポーツに目がない人種だ。酒飲みは酒で、スポーツ狂いは運動することで、貧困の憂さを晴らした。共にパリ・コミューン兵士の子孫で、自分が政治的にどのような立場を取るべきか、理解するのに何の苦労もいらなかった。自分たちの父親や親戚や兄弟や友人たちを射殺したのが誰なのか、彼らはよく知っていた。コミューンが瓦解して、ヴェルサイユの軍隊が突入してパリを占領すると、荒れた手をした人びと、帽子をかぶった人びと、労働者の目印がついている人びとを片っぱしからつかまえて処刑したのである。

貧困のただなかで、通りの向こう側に馬肉屋とワイン協同組合のある区画で、彼はあらゆる作品に通じる第一歩を踏み出したのだ。パリのなかで、この区画ほど彼が愛した場所はなかった。好き勝手に茂った木々、古い白漆喰の家の、下方だけ茶色に塗った壁や、円形広場の細長い緑色のバス、歩道に流れた紫色の花の染料、セーヌ川へ向けて急な角度で下っていくカルディナル・ルモワーヌ通り、反対側に伸びるムフタール通りの狭い、混み合った界隈。パンテオンに向けて上っていく通りと、いつも自転車で走った通り。界隈で唯一、アスファルトで舗装されたその道は、タイヤをなめらかな感触が伝わった。幅の狭く丈の高い家並みの間を抜けていくと、その先にはポール・ヴェルレーヌが亡くなったという、のっぽの安ホテルがあった。住んでいたのは二間しかないアパルトマンだったから、月六十フランでそのホテルの最上階の部屋を借り、そこで物を書いた。そこからは屋根や煙突、パリの丘が残らず見渡せた。

 アパルトマンから見えたのは、薪と炭を売る店だけだ。その店ではワインも売っていたが、実にひどい代物だった。金色の馬の頭の看板が出ているのは馬肉屋で、黄金色や赤い色をした馬の胴体がぶらさがっていた。緑色は共済組合の建物で、そこでワインを買った。ワインは質が良く、しかも安かったのだ。そのほかに見えたのは、近隣一帯の漆喰の壁と窓だ。夜になって酔っぱらいが通りに寝っ転がり、うめいたりうなったりという典型的なフランス人の酩酊状態――表向きにはそんなものは存在しないかのように喧伝されているが――を呈し始めると、隣人たちは窓を開けて、ひそひそとおしゃべりが始まる。

「おまわりはどこ? 用もないときばっかりうろついてさ。どこかの管理人の女とよろしくやってるんだろうさ。警察を呼ばなきゃ」
そこで誰かが窓からバケツの水をぶちまけると、うめき声も止む。
「どうしたんだい? 水ぶっかけたって? ああ、そりゃ賢いやり方だ」それから窓が閉まる。

マリーという彼の家の家政婦は、八時間労働制に反対して言ったものだ。「うちの人が六時まで働くんだったら、帰りがけに引っかけてくるとしても、ほんの一杯かそこらですよ。それが五時までしか働かないとなると、毎晩すっからかんになるまで飲み倒すことになっちまう。労働時間の短縮だのなんだのって、苦しむのはいつも女房の方なんですからね」

* * *

「スープをもう少しどう?」女が彼に聞いた。

「結構。だが、どうもありがとう。うまかったよ」

「もう少しだけでも飲んでみたら」

「ウィスキーソーダの方がいいな」

「あなたには良くないわ」

「そう。おれには良くない。コール・ポーターがそんな曲を書いてたな。『あなたがわたしに夢中なのを知っているときは』…」

「あなたが知ってるのは、わたしが飲んでほしがってるってこと」

「そりゃそうだな。ただ、おれには良くないんだよ」

 こいつがいなくなったら、思う存分飲んでやる、と彼は思った。いや、飲みたいだけってわけにはいかないか、ここにあるだけだ。ああ、疲れたな。えらく疲れた。しばらく眠るとするか。こうやって横になっていても、死はここにはいないな。別の通りを回って来ることにしたらしい。ふたり連れだって、パリの街を自転車に乗り、舗道をすべるように、音もなく走っているのだ。

* * *

 そう、パリのことは書いたことがなかった。いつも胸の内に暖めてきたパリのことは。だが、まだ書いていないほかのことは、どうしたらいいんだ。

 あの牧場、銀ねず色のセイジのしげみ。灌漑溝をすばやく流れれていく水の澄んでいたこと。うまごやしの濃い緑色。踏み分け道を上って山中へ入ってゆく。牛の群れも夏のあいだは鹿のようにおとなしい。秋になって山を下ろすときの牛は、絶えず物音を立て、鳴き声を上げ、もうもうとほこりを上げながら、のろのろと進む一群だ。山並みの向こう、夕暮れのあかね色の陽のなかに、山のいただきがくっきりと浮かぶ。月明かりのなか、その道をなおも下りていくと、渓谷は明るく輝いていた。そういえば、視界がまるできかない暗い森のなかを、馬の尻尾につかまって歩いたこともあった。書くつもりでいた話はまだまだあった。

 半端仕事をやっている頭の鈍い少年が、ひとりで農場の留守をまかされたことがある。乾し草は誰にもやってはいけないと言われていたところに、フォークス家の爺さんがやってきた。少年は前にフォークス家に雇われたことがあって、爺さんにはひどく殴られのだった。その爺さんが、少し餌を分けてくれという。少年が断ると、爺さんはまた殴ってやろうか、とおどした。少年は台所からライフルを取ってきて、納屋へ入っていく老人を撃った。みんなが農場へ帰ってきたのは、老人が死んでから一週間も過ぎてからで、遺体は牛の囲いの中で凍りつき、体の一部は犬に食われていた。

ともかく残った遺骸を、おれが毛布にくるみ、ロープでしばって、少年にも手伝わせてそりに載せた。ふたりがかりでそりを引き、百キロ先の町まで行って、少年を警察に引き渡したのだ。少年の方は、自分が逮捕されるとは夢にも思っていなかった。自分はただ言われたまま、義務を果たしたのだし、一緒に行ったおれは友人だ。てっきり褒められるとばかり思っていたのだ。老人の遺骸を引っ張るのも手伝ったし、みんなにも老人がひどい人間で、自分のものでもない飼料を盗もうとしたことがわかってもらえたと思い込んでいたのである。保安官が少年に手錠をはめたときには、わけがわからない、という顔になり、やがて彼は泣き出した。この話も書くつもりで取っておいたのだ。あそこでは少なくとも二十やそこらのおもしろい話に出くわしたのに、ただのひとつも書いてはいない。どうしてなのだろう。

* * *

「どうしてそんなことになったのか、教えてくれ」彼は言った。

「何のこと?」

「何でもない」

 この女も、いまではそれほど飲まなくなった。おれを手に入れたからだ。だが、仮に死ななかったとしても、この女のことを書くことはないだろう、と彼は思った。彼にはそのことがわかっていた。連中のことは、誰も書くものか。金持ちなんて退屈なやつらで、酒びたりになるか、四六時中バックギャモンにうつつを抜かすかのどちらかだ。退屈だし、話がくどい。

そういえばかわいそうなジュリアンという男がいた。彼は金持ちに対して、一種ロマンティックな畏敬の念を抱いており、実際にそのことを小説にまで書いていたのである。書き出しはこうだ。
「大金持ちというのは、ぼくたちとはまるでちがう種類の人間だ」

すると誰かがジュリアンに言った。その通り、なにしろやつらはたくさん金を持ってるからな。ところがこの言葉も、ジュリアンの耳にはユーモラスには響かない。ジュリアンは、金持ちは特別な魅力を備えた人種だと信じていて、そうではなかったことがわかったときには、ほかの何にも増して、意気消沈してしまってた。

 意気消沈するような人間など、彼はずっと軽蔑してきた。相手を理解できるからといって、受け入れてやる必要はない。おれはどんなことだって乗り越えられる、と考えていた。気にさえしなければ、何にも傷つけられたりはしないのだから。

 そうだ。死など気にするのはやめるのだ。彼がずっと怖れていたのは、苦痛だった。人と比べて痛みに弱いというわけではない。だが、あまりに長く続けば、それに呑み込まれてしまう。だが、ここへ来て、ひどい苦痛を味わい、もう耐えられそうにないと思ったとき、苦痛は止んでしまったのだった。

* * *

 彼は昔のことを思い出していた。砲兵隊将校のウィリアムスンが、ドイツ軍偵察隊が投げた手榴弾の直撃を受けたときのことだ。

夜、ちょうど鉄条網をくぐって、こちらに来ようとしていたときのことだった。彼は悲鳴を上げ、殺してくれ、とみんなに懇願した。太った男で、極めて勇敢で、いささかこれみよがしなそぶりをしてみせるところがあったが、立派な将校だった。それが、その晩、鉄条網を越えようとしたところでやられ、はらわたが飛び出し、鉄条網にからんだところを、敵の照明弾に照らし出されてしまったのだ。みんなで彼を連れ戻し、生きてはいたものの、はらわたの一部は、切り捨てなければならなかった。おれを撃て、ハリー、頼むから撃ち殺してくれ。

以前、議論になったことがある。担うことのできないほどの苦難を、果たして神は人に与えることがあるだろうか、と。ひとりが、苦痛がある閾値を超えてしまえば、人間は自動的に息絶えるものだと自説を展開した。だが、彼はその晩のウィリアムスンのことが頭を離れなかった。ウィリアムスンは、彼が自分のために取っておいたモルヒネの錠剤を残らず与えるまで、生きながらえていた。しかも、モルヒネを飲んでさえ、しばらく苦痛は続いたのだ。

* * *

 しかし、それにしてもいまのおれはずいぶん楽なものだ、と思った。これ以上ひどくならないのなら、いったい何を思いわずらうことがあろう。あとはただ、もうすこしましな話し相手がいてくれさえすれば、いうことはないのだが。

 自分はいったい誰にいてほしいのだろう、としばらく考えてみた。

 いや、何をするにせよ、あまりに長いことかかずらわり、時間をかけすぎてしまえば、だれもいなくなる。みんな行ってしまうのだ。パーティーは終わり、まだそこに残っているのは、女主人とおれだけだ。

 どうやらおれは、ほかのことと同様、死ぬことすらも飽きてきたらしい。

「もううんざりだ」彼は声に出してそう言った。

「どうかした?」

「何をするにせよ、どうやらおれは、時間をかけすぎるらしい」

 彼は、焚き火の手前の彼女の顔を見つめた。椅子に身を預け、温和な輪郭が炎に照らされている。眠そうだ、と思った。すぐ近く、炎の投げかける光の届かないところで、ハイエナのうろつく音が聞こえた。

「ずっと書いてきたんだが」彼は言った。「それにも疲れたな」

「眠れそう?」

「ぐっすりとね。君も中で休んだらいい」

「あなたと一緒に坐っていたいの」

「妙な感じがするのか」彼はたずねた。

「ううん、ただちょっと眠たいだけ」

「おれもだ」彼は言った。

 ふたたび、死の気配を感じた。

「おれが一度もなくしたことがないのが、好奇心ってやつでね」彼女に話しかけた。

「あなたは何にもなくしてなんかない。あなたぐらい完全な人って、わたしは見たことがないもの」

「よせよ」彼は言った。「女に何がわかるっていうんだ。そいつはなんだ。おまえの直観ってやつか?」

 そう言ったのは、ちょうどそのとき、死がやって来て、寝台の足下に頭をのせたからだ。その吐息が嗅げるほどだった。

「死神が大鎌としゃれこうべを抱えて出てくるなんて、信じちゃ駄目だぞ」話を続けた。「そいつは自転車に乗ったふたりのおまわりかもしれないし、小鳥かもしれない。ハイエナみたいに大きな鼻面をしてるのかもしれない」

 そいつはいまや、彼の体によじのぼってこようとしていた。そのくせ、もはやいかなる態も成してない。単に空間を占めている、というだけだ。

「そいつにあっちへ行くように言ってくれ」

 だが、そいつは去るどころか、いっそう迫ってきた。

「きさまはいったいどれだけ臭い息をしていやがるんだ」そいつに向かって彼は言った。「臭いやつめ」

 そいつはなおも距離をつめ、もはや話しかけることすらできない。彼が口がきけないのを見て取ると、さらににじり寄ってきた。黙ったまま、何とか払いのけようとしたが、そいつはのしかかり、胸にありったけの重さをかけてきた。そのままそこにうずくまってしまったので、彼はもう身動きすることも口を開くこともできなくなってしまった。そこへ女の声がした。「ブワナがお休みよ。寝台をできるだけそっと持ち上げて、テントの中に入れて」

 向こうへ行けと言うこともできず、うずくまったままのそいつはいっそう重くなり、息もできない。だが、それから寝台が持ち上げられると、急に具合がよくなり、胸の重みも消えてしまった。


 朝だった。だが、夜が明けてから、しばらく時間が過ぎていた。飛行機の音が聞こえてきた。ひどく小さな機影が、空に大きな弧を描いている。少年たちが駆け出し、灯油を使って火をつけた。あらかじめ、平らな地面の両端に積み上げた乾し草が用意してあったのだ。朝の風が煙をキャンプの方へ吹き寄せる。飛行機は二度旋回すると、高度を下げて滑るように降下してきた。やがて機体は水平になり、すべるように着地した。歩いてくるのは、懐かしいコンプトンだ。ズボンをはき、ツィードのジャケットに茶色いフェルトの帽子をかぶっている。

「おい、どうした」コンプトンが言った。

「脚が駄目になっちまった」彼は言った。「朝飯はどうだ?」

「ありがとう。お茶を少しもらうよ。なにしろ機がプス・モスだ、メンサヒブ(※奥様)は乗せられないんだ。ひとり分の席しかない。ま、トラックがこっちへ向かってるからな」

 ヘレンはコンプトンを向こうに引っ張っていき、話をした。コンプトンが前にも増して陽気なようすで戻ってきた。

「すぐに乗せてやる」彼は言った。「あとで奥方を連れに戻ってくるよ。アルシャで降りて給油しなきゃならん。すぐにも出立した方がいい」

「お茶はどうする?」

「ほんとはたいして飲みたいわけじゃなかったんだ」

 少年たちが寝台を持ち上げ、緑色のテントの脇を通って岩沿いに進み、平原に出ると、明々と燃えさかるのろしの横を過ぎた。草はすっかり燃え尽きて、いまは風が炎を煽っている。その先に小型飛行機が停まっていた。彼を乗せるのは大変だったが、いったん乗ってしまえば、皮の座席に深く身を横たえることができた。片脚はそのままコンプトンの座席の方まで伸ばす。コンプトンもモーターをスタートさせて乗り込んだ。彼はヘレンと少年たちに手を振り、カタカタというエンジン音が、やがてなつかしいうなり声に変わると、コンプトンはイボイノシシの穴に気をつけながら、機体の向きを変えた。ふたつのかがり火のあいだをエンジンのうなる音を立てながら、ガタガタと進み、最後にがたんとはねあがると離陸した。眼下ではみんな立ちあがって手を振っている。

丘のかたわらのキャンプも、やがてすっかり平らになり、見渡す限り平原が広がっていた。木立ちもブッシュも平面になり、いまは干上がってしまった水辺に通じる獣道の跡が見えてきたかと思うと、思いもよらなかったところに新しい水辺があるのが見えたりもした。

シマウマは小さな丸い背中だけとなり、ヌーは並べた指のように隊列を作って平原を横切っていた。ヌーの大きな頭が小さな丸となり、その丸がいくつも這いずっている。飛行機の影が彼らの上に落ちると、散り散りになって影から逃げていった。だがその姿も、いまや小さな点となり、動きも離れているせいで、ひどく緩慢だ。

平原は見渡すかぎり、灰色がかった黄色で、目の前に見えるのは、コンプトンのツィードの背中と茶色のフェルト帽だ。やがて機は最初の丘陵地帯にさしかかり、ヌーの群れが上っているのが見えた。つぎの山脈にさしかかると、緑のかたまりが盛り上がったような森や、うっそうと茂る竹林の斜面が広がっていく。そこからまた深い森が現れ、ノミで彫ったような山頂と谷間を越えると、ゆるやかな丘が続き、そこからまた平原となった。急に暑くなり、地面も紫がかった茶色となり、飛行機は熱気でガタガタと揺れた。コンプトンが振り返り、彼がどうしているか確かめた。前方に黒々とした山並みが迫ってきた。

 やがてアルーシャには向かわず、機体は左に向きを変えた。どうやらガソリンは大丈夫だと判断がついたのだろう。見下ろすと、細かく揺れ動くうす桃色の雲が、地面や空中をたなびいていた。どこからともなくやってきた、吹雪の襲来を告げる雪のようにも見えたが、すぐに南からやってきたイナゴの群れだとわかった。やがて飛行機は高度を上げ、どうやら進路を東へ取っているようだった。すると、突然あたりは暗くなったかと思うと、嵐に突入していた。激しい雨は滝さながらで、なんとか嵐を抜け出したところでコンプトンが振り向き、にやっと笑いながら前方を指さした。そこには視界一杯に、まるで世界全体がそこにあるかのように、広く、大きく、高く、陽を浴びて信じられないほど真っ白に輝く、キリマンジャロの四角い頂きがあった。ああ、自分はここに行こうとしているのだ、とわかった。

 ちょうどそのとき、闇の中でハイエナが鼻を鳴らすのをやめ、奇妙な、人間のような、ほとんど泣き声のような声を出した。女にもその声が聞こえて、胸になんともいえない不安が兆した。それでもまだ目を覚まさなかった。

夢の中で、彼女はロングアイランドの実家にいた。娘が社交界にデビューする前夜だったのだ。なぜか娘の父親もそこにいて、彼はとても無作法な振る舞いをした。そこで、ハイエナがあまりにやかましく鳴くせいで、彼女の目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるかわからず、恐怖が襲ってきた。それから懐中電灯を取り上げ、傍らの寝台を照らした。ハリーが寝入ってから、そこに運び込んだのだ。蚊帳の下に、彼の体が浮かび上がったが、どういうわけか彼の片脚は、蚊帳の外に突き出しており、その脚が寝台のへりからぶら下がっていた。包帯が全部ずり落ち、そこはとてもではないけれど、正視できるようなものではなかった。

「モーロ!」彼女は悲鳴をあげた。「モーロ! モーロ!」

 それから彼女は呼んだ。「ハリー、ハリー!」声をいっそう張り上げる。「ハリー! おねがい、ハリー! 答えて」

 返事はなく、呼吸の音も聞こえない。

 テントの外ではハイエナがまた、さきほど彼女を目覚めさせた異様な声をあげた。だがその鳴き声も、胸の鼓動にかき消されて、彼女の耳には届かなかった。






The End






死の経験


死を描いた作品なら山のようにある。小説では、主人公が死に、ヒロインが死に、脇役が死に、端役もあっけなく死んでいく。ハムレットのようにべらべらと心境を語りながら死んでいく者もいれば、ヒ素を飲んでから乞食の歌う猥歌を背景に息絶えるまでのボヴァリー夫人の死の床に、わたしたちを無理矢理立ち会わせるような作品もある。

死を描くことで、作品の劇的要素は一気に高まるし、緊迫感も生まれる。お涙頂戴にすることもできるし、さらにはストーリーにケリをつけることもできる。だが、わたしたちに「死」そのものを経験させる作品は、実はそれほど多くない。

たとえばトルストイの『イワン・イリイチの死』では、冒頭で主人公の死が報告されたのちに過去に戻り、病に冒されたひとりの男が、少しずつ死にたぐりよせられながら日を過ごしていくことが語られる。作品を読み進みながら、わたしたちはイワン・イリイチと共に彼の過去を振り返り、身勝手な妻にいらだち、やがて彼が突き当たった真実を理解し、そうして彼が見た最期の光をわたしたちも見る。

ただ、この光はあくまでイワン・イリイチの光であって、わたしたちを照らしたりはしない。なるほど、こういうこともあるのだろうな、と思うにせよ、それはあくまでもイワン・イリイチがたどりついた先にあるものであって、彼を離れては存在しない光だ。

ヘミングウェイのこの作品でも、同様に「白い雪」という形で、この輝かしい光のイメージは登場する。だが、読んでいるわたしたちは、まだそれが死だということを知らない。搬送される彼が見ていた光景だろうとばかり思っている。だが、つぎの瞬間、その光に満ちた純白の場所は消えてしまい、わたしたちの前には闇が広がり、そこにハリーの身体は亡骸となってむごたらしくあることが、ヘレンの口から明かされる。ヘレンが見るのは、わたしたちが知っている「死」だ。もはや動かなくなった冷たいむくろ。まぎれもなく生きていたときそのままの外見なのに、生命が失われ、音も立てず、一個の「物」と化した「それ」。だとしたら、あのキリマンジャロの山頂へと登っていったのが、死の経験だったのか、とわたしたちは先ほどの経験の意味を知る。わたしたちのあらゆる経験がそうであるように、あとになってわかることによって、ハリーの死の経験は、同時にわたしたちの経験ともなっていくのだ。

「キリマンジャロの雪」が、ヘミングウェイのアフリカでの狩猟経験と、そこで罹患したアメーバ赤痢の経験をもとにした作品であることは、たいていの解説に書いてある。このとき、実際にキャンプから小型飛行機で搬送され、キリマンジャロの山頂を見たという。その経験が、最後の場面で生かされていることはまちがいないだろう。だが、ここで描かれる主人公の死は、直腸潰瘍と右人差し指の敗血症をヘミングウェイにもたらしたアメーバ赤痢の延長上にあるものではあるまい。むしろ、「死の経験」は、こうした個別の経験を離れたところにあるように思える。

壊疽から自分の死が近いことを知ったハリーは、これまでの日々を振り返る。だが、それは単なる過去ではない。彼が書こうとして暖めてきた題材だった。

二十代のヘミングウェイは、ルーブルへ通ってセザンヌの絵を見ながら、描写を学んだ。「本質」が姿を現す瞬間をとらえようと目を凝らし、その状況を的確に描きだす表現を探した。「「神聖な」とか「栄光」とか「犠牲」などという空虚な言葉」(『武器よ、さらば』)を排し、情感を、川の名前や部隊の番号、日付などの具体的な名詞の中に閉じこめる。ヘミングウェイにとっての言葉は、それを受けとった読者が、自由に想像を羽ばたかせるためのものではなく、作家がつかみとった「本質」を、的確に、あやまたず、読者に打ち込むのだった。そのために彼は、「ほんもの」「純粋な表現」を求めた。「ほんもの」「純粋な表現」ならば、個人の経験の枠を超えることができる。それが可能になるような言葉が見つかるまで、書きたい題材があっても、それを作品にすることはなかったのである。作中ハリーの「書かずにいたこと」とは、同時にヘミングウェイにとっての「書かずにいたこと」だったのだろう。

だが、死を目前にして、書こうとして書かずにきたことを思い返して、いったい何になろう。ハリー自身もそう考える。だが、それでもなお、ハリーは「あらゆることを、たったひとつのパラグラフに凝縮できるような」表現を探す。つまりそれは、仮に死が目前に迫っていようと、自分の本質を表現するような行為をなすことで、死に抵抗し、そこに自由を保証しようとしたことにほかならない。ハリーにとっては、そうして、ヘミングウェイにとっては、自分の本質を表現するような行為が〈書くこと〉だったのだが、同時にそれは、死に抵抗することの内に、自分の生を生ききろうとする人の、普遍的な姿でもあるのだろう。

わたしたちは最後に、冒頭のエピグラフで描かれた豹は、高みを求めて登っていったハリー自身の姿であったことを知る。そうして、ハリーの死を通して、わたしたちもまた死を経験し、それからまた日常に戻っていく。

だが、その日常は、前と同じではない。キリマンジャロの頂上近くに、ひからびた豹のしかばねが凍りついていることを知っている。そうして、一度、死の経験をくぐっている。



初出 Aug.30 - Sep.11 2010 改訂Oct.01, 2010

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