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ここではアーネスト・ヘミングウェイの短編「殺し屋」を訳しています。
1926年に書かれたこの短編は、のちに『男だけの世界』(Men Without Women) と名づけられた第三短編集に収められることになります。
ここに登場するニック・アダムズは、第二短編集『われらの時代』から、さまざまな短編に登場する人物です。医師であるお父さんと一緒にインディアン女性のお産に立ち会い、生と死の両方を目撃することになる「インディアンの村」での男の子から始まって、ここでのニックはずいぶん成長しています。ここで彼は何を見ることになるのでしょう。
なお文中には原文の"nigger"に対応する訳語をあてています。
原文は
http://home.uchicago.edu/~a789/KILL.html
で読むことができます。



殺し屋


by アーネスト・ヘミングウェイ

銃身を切り詰めたショットガン


食堂《ヘンリーの店》のドアが開いて、男がふたり入ってきた。カウンターの席にすわる。

「何になさいます?」ジョージが尋ねた。

「何にしよう」ひとりの男が言った。「アル、お前は何が食いたい?」

「さてね」アルが答えた。「何にしたらいいか、見当もつかねえな」

外は暗くなりかけていた。窓の外では街灯に灯が入った。カウンターのふたりの男はメニューに目をこらしている。カウンターの反対側の端にいたニック・アダムズはそれを見ていた。ニックがジョージと話していたところに、男たちが入ってきたのだった。

「ローストポーク・テンダーロインのアップルソースがけ、マッシュ・ポテト添え、ってやつにしよう」最初の男が言った。

「それはまだなんです」

「じゃなんだってそんなものをメニューにのっけとくんだ」

「ディナーの料理なんです」ジョージは説明した。「六時になったらお出しできるんですが」
ジョージはカウンターのうしろの壁の時計を見やった。
「まだ五時ですんで」

「あの時計じゃ五時二十分になってるがな」もうひとりの男が言った。

「あれは二十分進んでるんですよ」

「やれやれ、なんて時計だよ」最初の男が言った。「じゃ、食い物は何ができるんだ」

「サンドイッチならどれでも」ジョージは答えた。「ハム・エッグやベーコンエッグ、レバーとベーコン、あとステーキもできます」

「チキン・クロケットとグリーンピースのクリームソース、マッシュ・ポテト添えっていうのをくれ」

「ですからそれもディナーのメニューで」

「食いたくなるのは全部ディナーってわけか、ええ? そいつがおまえんとこの商売のやりかたなんだな」

「ハムエッグならできるんですよ、ベーコンエッグも、レバー……」

「じゃ、おれはハムエッグをもらおう」アルと呼ばれたほうの男が言った。山高帽をかぶり、黒いオーバーの胸元はきっちりとボタンで留めあわされている。こぶりの顔は白く、唇を固く結んでいた。シルクのマフラーを巻き、手袋をはめている。

「おれはベーコンエッグだ」もうひとりの男が言った。アルとほぼ同じくらいの体つき。顔立ちこそちがっても、双子のようにそっくり同じ格好だった。着ているオーバーが窮屈そうなところまで同じだ。カウンターにかがみこむように腰をおろし、両肘をカウンターにのせている。

「飲み物はあるか」アルが聞いた。

「シルヴァー・ビール、ビーヴォ(※ともに低/非アルコールの麦芽飲料、ちなみに1920年代はアメリカの禁酒法時代)、ジンジャー・エールならありますが」ジョージが答えた。

「おれが聞いてるのは、ほんものの飲み物のことだよ」

「いま言ったとおりのものしか出せないんですがね」

「結構な町だな」もうひとりが言った。「町の名前はなんていう?」

「サミットですよ」

「そんな場所、聞いたことがあるか」連れに聞く。

「いいや」相棒が答える。

「ここじゃ夜になったら何してるんだ」アルが聞いた。

「ディナーを召し上がるのさ」連れが答えた。「町中みんなここへ来て、ごちそうをかっくらうのさ」

「そういうことです」ジョージが言った。

「そういうこと、って、ほんとにそうなのか?」アルはジョージに聞いた。

「ええ」

「おっさん、あんた、まったく頭がいいな」

「もちろん」ジョージが答えた。

「んなわきゃねえだろ」もうひとりの小柄な方が言った。「アル、どう思う」

「こいつは間抜けさ」アルが答える。ニックのほうに顔を向けた。「おまえはなんていうんだ」

「アダムズ」

「お利口さんがもうひとり、ってわけか」アルは言った。「こいつもかしこい坊やなんだよな、マックス」

「町はお利口さんでいっぱいさ」とマックスは答えた。

ジョージが二種類の皿、ハムエッグがのったものとベーコンエッグがのったものをカウンターに置いた。付け合わせのフライドポテトの小皿も横に置いてから、厨房に通じる窓口を閉めた。

「どちらがおたくのでしたっけ」とアルに聞く。

「忘れちまったのか」

「ハムエッグでしたよね」

「まったくたいした天才だよ」マックスは言い、身を乗り出して、ハムエッグの皿を取った。ふたりの男は手袋をはめたまま食べている。ジョージはそれをじっと見ていた。

「何を見てるんだ」マックスがジョージを見返した。

「なんにも」

「何言ってやがる。おれをじろじろ見てただろうが」

「そいつはこのお兄いさんの冗談さ、マックス」アルが言った。

ジョージが笑う。

おまえは笑わなくていい」マックスがジョージに言った。「おまえが笑うようなことじゃないんだ、いいな?」

「わかりました」ジョージが答えた。

「わかりました、だとさ」マックスはアルの方を向いた。「お兄いさんはおわかりになったんだそうだ。ずいぶんご大層な物言いだな」

「そりゃ兄いは学者さんだもんな」アルが言った。ふたりは食事を続ける。

「カウンターのはじっこのお利口な坊ちゃんはなんて名前だったかな」アルがマックスに聞いた。

「おい、お利口な坊ちゃん」マックスがニックに言った。「カウンターの向こうのお友だちのところへ行きな」

「なんで?」ニックが尋ねた。

「なんでもへったくれもねえんだよ」

「あっちへ行きゃいいんだよ、お利口さん」アルが言った。ニックはカウンターの内側へ回った。

「どういうことなんです」ジョージが聞いた。

「おまえの知ったことじゃない」アルが言った。「厨房には誰がいる?」

「黒人でさ」

「黒人たあどういうことだ」

「コックの黒人です」

「こっちに来るように言え」

「なんでまた」

「来るように言えばいいんだ」

「ここをどこだと思ってるんですか」

「ここがどこか、なんてことは百も承知だ」マックスと呼ばれている方が答えた。「それとも俺たちが阿呆に見えるか」

「おまえは阿呆な口を利いてる」アルがマックスに言った。「こんなやつと言い合って何になる。おい」ジョージに向かって続けた。「黒んぼにこっちに出てくるように言うんだ」

「やつをどうしようっていうんです」

「どうもしないさ。頭を使えよ、利口な兄さんよ。おれたちが黒んぼに何をするっていうんだ」

ジョージは奧の厨房に続く仕切りを開けた。「サム」と呼ぶ。「ちょっとこっちに来てくれ」

厨房のドアが開いて、黒人が入ってきた。「どうかしたんですか」カウンターのふたりの男はそちらに目をくれた。

「さて、黒んぼ。おまえはそこに立ってるんだ」アルが言った。

黒人のサムは、エプロン姿のままそこに立ち、カウンターに腰かけているふたりの男を見ていた。「わかりました。旦那」アルはスツールから降りた。

「おれはこれから黒んぼとこの利口な坊やといっしょに厨房へ行くからな」アルが言った。「おい、厨房へ戻れ。坊主、おまえも一緒に行くんだ」ニックとコックのサムを押し立てて、小柄な男は調理場へ入っていった。ドアが背後で閉まる。マックスのほうはカウンターを挟んで、ジョージの向かいにすわった。ジョージを見るかわりに、カウンターの向こうにはまっている鏡に目をこらしている。《ヘンリーの店》は酒場を改装して軽食堂になったのだった。

「よぉ、切れ者」鏡から目を離さないままマックスが言った。「何か言ったらどうだ」

「これはいったいどういうことなんです」

「おい、アル」マックスが呼んだ。「利口な兄さんが、これはどういうことかだってさ」

「教えてやれよ」アルの声が厨房からした。

「おまえはどういうことだと思う?」

「そんなことわかりません」

「おまえの意見を聞いてるんだ」

マックスは話すあいだも鏡のなかから眼を離さない。

「あまり言いたかないですね」

「おい、アル、この兄いは自分が思ってることは言いたくないんだそうだ」

「大丈夫、聞こえてるさ」アルが厨房から答えた。皿を引く小窓が下りてしまわないように、ケチャップの瓶をつっかい棒のかわりにしている。「あのな、利口な兄さんよ」ジョージに向かって厨房から声をかけた。「カウンター沿いにもうちょっと向こうに行ってくれ。マックス、おまえは左に少し寄るんだ」団体写真を撮る写真屋が位置を決めるように指示を送った。

「教えてくれよ、利口な兄さん」マックスが言った。「これから何が起こると思う?」

ジョージは何も答えない。

「教えてやろうか」マックスが言った。「おれたちはこれからスウェーデン人をやるんだよ。オール・アンダースンっていうでかいスウェーデン人を知ってるか」

「知ってます」

「やつはここに毎晩、飯を食いに来るよな」

「ときどきいらっしゃいますが」

「いつも六時に来るんだよな」

「おみえになるときは」

「おれたちはみんな知ってるんだぜ、利口な兄さん」マックスが言った。「ちがう話をしようか。映画なんかに行くことはあるのか」

「たまに」

「もっと行った方がいいな。おまえみたいな頭がいい兄さんには映画はためになる」

「どうしてオール・アンダースンを殺すんです? あんたがたにいったい何をしたっていうんです?」

「何にもしちゃいねえさ。会ったことさえない」

「これからおれたちがお目にかかるのが最初で最後ってことさ」アルが厨房から続けた。

「ならどうしてそんな相手を殺すんです」ジョージが尋ねた。

「友だちのためさ。友だちに頼まれたことをやるってだけよ、利口な兄さん」

「いいかげんにしとけ」アルが厨房から言った。「べらべらしゃべりすぎるぞ」

「ま、この兄いにもちょっとばかりお楽しみをやろうかと考えただけさ。な、そうだろ、兄貴」

「それが過ぎるって言ってんだ」アルが言った。「黒んぼとうちの坊やはふたりでお楽しみだぞ。修道院の尼さんカップルみたいに、仲良く縛ってやったからな」

「おめえは修道院にいたらしいな」

「いろいろあるんだよ」

「おまえはユダヤ人向けの修道院にいたんだろうさ。そこがお似合いだ」

ジョージが時計を見上げた。

「だれか客が来たら、コックがよそに行ってる、って言うんだ。それでもしつこく言うやつがいたら、そいつには厨房で自分が料理します、って言え。わかったな、利口なお兄いさんよ」

「わかりました」ジョージが言った。「それからどうなるんです」

「そいつは成り行きしだいだな」マックスが答えた。「そのときになってみなきゃわからねえ、ってたぐいの話だな」

ジョージは時計を見上げた。六時十五分になっていた。通りに面したドアが開いた。入ってきたのは市電の運転手だった。

「こんばんは、ジョージ」運転手は言った。「晩めしを頼むよ」

「サムが出てるんですよ」ジョージが答えた。「三十分かそこらで戻ると思うんですが」

「よそへいったほうがよさそうだな」運転手は言った。ジョージは時計を見上げた。六時二十分。

「うまいぞ、兄貴」マックスが言った。「あんた、なかなかどうしてたいした旦那だよ」

「おれが頭を吹っ飛ばすんじゃないかって見抜いてたのさ」アルが厨房から言った。

「いいや」マックスが答える。「そりゃちがうな。利口な兄いはいいやつだぜ。いい男だ。おれはこんなやつが好きなんだ」

六時五十五分になってジョージが言った。「今日は来ませんよ」

そのときまでに食堂には客がもうふたり来ていた。一度はジョージが厨房へ行って、「持ち帰り」を注文した客のためにハムエッグサンドを作ってやった。厨房ではアルに顔を合わせたが、山高帽をあみだにかぶって、銃身を切り詰めたショットガンの銃口のほうを棚にのせて、小窓の横のスツールに腰をおろしていた。ニックとコックは部屋の隅で背中合わせにされて、ふたりともタオルで猿ぐつわをかまされていた。サンドイッチをこしらえたジョージは、油紙に包んで袋に入れて、それを手に店に戻ると、客は勘定をすませて出ていった。

「利口な兄貴はなんだってできるんだな」マックスが言った。「なんでも料理できるんだな。兄貴なら、どっかの女の子をいいかみさんにしこめるさ」

「そんなもんですか」ジョージが言った。「お友だちのオール・アンダースンは来そうにもないですね」

「もう十分待ってみるさ」マックスが言った。

マックスは鏡と時計をかわるがわる見ていた。時計の針が七時を指し、やがて七時五分を指した。

「来いよ、アル」マックスが言った。「もう行こう。やつは来ない」

「もう五分待とう」アルが厨房から言った。

その五分のあいだに客がひとり入ってきて、ジョージはコックが病気だと告げた。

「ほかのコックを雇ったらどうだ」客が言った。「食堂をやってるんだろう?」客は帰っていく。

「アル、出て来いよ」

「ふたりのお利口さんと黒んぼはどうする」

「大丈夫さ、放っておいても」

「そう思うか」

「ああ、ここはこれでしまいにしようや」

「気にくわねえな」アルのほうが言った。「だらしねえことはやりたかないんだ。おまえ、しゃべりすぎたぞ」

「おいおいなんてことを言うんだ」マックスが言った。「おもしろかったじゃねえか」

「それにしてもしゃべりすぎだ」アルが言った。厨房から出てきた。切り詰めたショットガンの銃身が、窮屈なコートの腰のあたりででっぱっている。手袋をはめたままの手で、オーバーを引っぱった。

「じゃあな、お利口な兄貴」ジョージに言った。「運がいいやつだ」

「そのとおりだ」マックスが言った。「競馬でもやるんだな、お兄いさんよ」

ふたりの男はドアから出ていった。ジョージはふたりがアーク灯の下を通って、通りをわたるのを、窓から見ていた。窮屈そうなオーバーに山高帽という格好のふたりは、寄席芸人のコンビにしか見えない。ジョージはスウィングドアを押して厨房に入り、ニックとコックのいましめを解いてやった。

「こんなことはもうこりごりですよ」コックのサムが言った。「二度とごめんです」

ニックは立ち上がった。口にタオルを噛まされたことなど生まれて初めてだった。

「まったく」ニックが言った。「冗談じゃねえや」せいいっぱい強がってみせる。

「やつら、オール・アンダースンを始末しにきたんだ」ジョージが言った。「オールが飯を食いに入ってきたら、ずどんと一発ぶっ放すつもりだったんだ」

「オール・アンダースン?」

「そうだ」

コックは両手の親指で口の両端を押さえていた。

「やつらはいっちまったんですね?」

「ああ」ジョージは答えた。「もう影も形もないさ」

「こういうのはたまんないですよ」コックが言った。「まったくご免被りますよ」

「あのな」ジョージはニックに言った。「オール・アンダースンとこへ行っちゃくれまいか」

「わかった」

「こんなこたあ放っておいたほうがいいんじゃないですかね」コックのサムが言った。「かかずらわらないほうが、よかありませんか」

「したくなきゃしなきゃいい」ジョージが言った。

「こんなことに巻きこまれたらどうにもならんですよ」コックは言った。「関わり合いにならんのに越したことはありません」

「オールのところへ行ってくるよ」ニックはジョージに言った。「どこにすんでるの?」

コックは顔をそむけた。
「若いもんは自分が何がやりたいか全部わかっとるつもりだからな」

「ハーシュんとこの下宿屋だ」ジョージがニックに言った。

「ひとっ走りいってくるよ」

戸外では、アーク灯がすっかり葉を落とした枝のあいだから明るい灯を投げかけていた。ニックは市電の線路沿いの通りを行き、つぎのアーク灯のところで路地に入った。三軒目がハーシュの下宿屋だった。ニックは階段を二段あがって呼び鈴を押す。女が戸口に現れた。

「オール・アンダースンさんはいますか」

「あの人に用でもあるの?」

「ええ、おいででしたら」

ニックは女のあとについて階段をあがり、廊下のはずれまで行った。
女がドアをノックした。

「だれだ」

「アンダースンさんに会いたいってお客さんがお見えですよ」女が言った。

「ニック・アダムズです」

「入ってくれ」

ニックはドアを開けてなかに入った。オール・アンダースンは服を着たままでベッドに寝転がっていた。昔はヘヴィー級の賭けボクサーで、ベッドに体が収まりきらない。ふたつ重ねた枕のうえに頭をのせていた。ニックの方には目も向けない。
「何のようだ」彼は聞いた。

「ぼくは《ヘンリーの店》にいたんです」ニックは言った。「ふたりの男が入ってきて、ぼくとコックを縛りあげて、あなたを殺すつもりだって言ってました」

口にしてみるとひどくばかげて聞こえる。オール・アンダースンは何も言わなかった。

「やつら、ぼくたちを厨房に押しこめたんです」ニックは続けた。「あなたが晩ご飯を食べに来たら撃つつもりだったんです」

オール・アンダースンは壁に眼を向けたまま無言だった。

「ジョージがぼくに知らせに行ったほうがいい、って」

「おれにはどうもできねえんだがな」オール・アンダースンは言った。

「どんなやつらだったかっていうとね」

「聞きたかねえな」オール・アンダースンは言った。壁をにらんだままだった。「教えてくれてありがとよ」

「お礼なんていいんです」 ニックはベッドに寝転んでいる大男を見ていた。

「ぼく、警察に行ってきましょうか」

「いや」アンダースンは言った。「そんなことをしても何にもならん」

「ぼくにできること、何かありませんか」

「何も。できることなんて何もないんだ」

「もしかしたら、こけおどしかもしれませんよ」

「こけおどしなんかじゃない」

オール・アンダースンは寝返りをうって壁に向かった。

「ひとつだけ確かなのは」壁に向かって話した。「おれが外に出ていく腹が決まらないってことなんだ。一日中こうしてる」

「町を出ることはできないんですか」

「ああ」オール・アンダースンは言った。「おれはもう逃げ回るのにうんざりしちまったんだ」 彼は壁を見つめていた。 「もう打つ手はなくなっちまった」

「なんとかやりなおすことはできないんですか」

「ダメだ。ヘマをやっちまったんでね」同じ平板な調子で続けた。「どうしようもない。腹が決まったら、出ていくことにしよう」

「ジョージのところに戻ったほうがよさそうだ」ニックは言った。

「じゃ、な」オール・アンダースンは言った。ニックの方に目をやることもなかった。「わざわざ足を運ばさせてすまなかったな」

ニックはそこから出た。ドアをしめようとして、オール・アンダースンが服を着たまま横になり、壁を見つめているのが見えた。

「一日じゅう部屋にこもってるんですよ」下宿屋のおかみさんが階段を下りたところで言った。「具合が悪いんじゃないかしら。わたし、言ったのよ。アンダースンさん、こんなに気持ちのいい秋の日なんだから、外に出て散歩でもなさいな、って。だけどそんな気にはなれないご様子だったの」

「あの人は外に行きたくないんです」

「気分が悪いなんてお気の毒」女主人が言った。「とってもいい方なんですよ。もうせんにはリングにあがってらしたんですってね」

「そうらしいですね」

「顔を見ただけじゃそんなことはわからないわよね」女主人は言った。ふたりはドアの内側で立ち話をしていた。「たいそう優しい人なんですよ」

「じゃ、おやすみなさい、ミセス・ハーシュ」ニックは言った。

「わたしはハーシュじゃないの」女が言った。「ハーシュさんはここの家主。わたしはここの面倒をみてるだけ。わたしはミセス・ベルよ」

「じゃ、おやすみなさい、ミセス・ベル」ニックは言った。

「おやすみなさい」女が答えた。

ニックは暗い路地を抜けてアーク灯が照らす角までもどり、そこから線路沿いに「ヘンリーの店」に戻っていった。ジョージは店の、カウンターの向こうにいた。

「オールには会えたかい」

「うん」ニックは言った。「部屋にいて、出ていくつもりはないんだってさ」

ニックの声を聞きつけたコックが厨房の戸を開けた。

「そんな話は聞くのもごめんですぜ」そういうと、ドアを閉めた。

「あのことは話したのか」ジョージが聞いた。

「もちろん。だけどなにもかもわかってるんだってさ」

「どうするつもりなんだろう」

「どうもしないんだよ」

「殺されちまうぞ」

「そうだろうね」

「たぶんシカゴで面倒なことになったんだな」

「そうだろうね」

「えらいことだな」

「ほんとにそうだね」

ふたりはしばらく黙っていた。ジョージが布巾に手を伸ばして、カウンターをふいた。

「オールはなにをしたんだろう」ニックが言った。

「だれかを裏切ったんだ。そんなことをしたら、殺されちまうからな」

「この町を出ていこうかな」ニックが言った。

「それもいいな」ジョージが言った。「そうしたらいい」

「ぼく、耐えられそうにないや。殺されるってわかってて、ああやって部屋でじっと待ってる、って思うと。ぞっとするよ」

「まあ」ジョージが言った。「そんなことは考えないにこしたことはないな」



The End




水面下の氷山


山高帽に黒いコート、手袋をして、真意を隠して冗談とも本気ともつかない掛け合いを続ける二人組、という、のちのミステリや映画で定番のような「殺し屋」(あるいは殺人課の刑事、宇宙人、もしくは政府の秘密エージェント、あるいは“ピンキーとキラーズ”)、そうしたキャラクターのルーツがこのヘミングウェイが創造した「殺し屋」である。そういえばブライアン・デ・パルマの映画《アンタッチャブル》での殺し屋は、ひとり、白ずくめ、パナマ帽に白い絹のマフラーと、きれいにヘミングウェイの「殺し屋」をひっくり返していた。

この強烈なイメージを持つ殺し屋に引かれて、わたしたちはストーリーのなかに入っていく。そうして、繊細なニック・アダムズや《ヘンリーの店》の店主ジョージ、コックのサム、元ボクサーのオール・アンダースンに出会っていく。

ヘミングウェイには有名な「氷山理論」というのがある。「氷山の一角」という言葉にもあきらかなように、1/8しか姿を現さない氷山のように、ヘミングウェイが描くのも1/8だけ、そうして残る7/8は読者の想像に委ねる、というのである。

細部まであざやかな物語の水面下には、どんな「7/8」が隠されているのだろうか。

食堂で、殺し屋たちが着々と準備を進めるのは、オール・アンダースンの死の舞台である。そうしてオール・アンダースンは下宿の自室にこもって、せまりくる死を横になって天井、あるいは壁を見つめながら待っている。作品中にはひとこともふれられていないが、これは「死」を準備し、もたらそうとする人々と、それに期せずして立ち会うことになった人々、そうしてそれを待ち受ける人物の物語なのである。

殺し屋と同じくらい強烈なイメージを持っているのが、オール・アンダースンである。ベッドからはみだすような大きな体、懸賞金ボクサーという経歴。殺し屋を雇うような敵をどうして作ってしまったのだろうか。

ところがニックが知らせに行っても、壁を見つめるだけで、オールは驚きも動揺もしない。なんとか反応を引き出そうと、ニックはさまざまに言葉を重ねるのだが、やがてそれにも背中を向けてしまう。こののち、オールは腹を決めて出ていくのだろうか。それとも殺し屋と対峙するのだろうか。それともオールはすっかり絶望してしまって、生きながらすでに死んでしまっているのだろうか。オールの「これまで」が明らかにならないように、「これから」も明らかにはされない。

そのオールのことを思って「耐えられない」と感じるニックのこれからも、わたしたちは知ることはできない。いきなりやってきた殺し屋に、縛り上げられ、猿ぐつわをかまされ、狙われている相手にそれを告げにいっても、当の相手はまったく予想もつかない反応を示す。
おそらくこんな経験をしたのちのニックは、とうてい、これまでと同じように世界を見ることはできないだろう。

描かれる、だれもがありありと目に浮かべることができるような、映画かミステリの一場面のような場面(それもすべて、この短編がルーツになっているのだが)の向こうに、ある「死」のメタファーは、わたしたちにさまざまなことを考えさせる。オール・アンダースンの確かな肉体のイメージ。登場人物のなかで、だれよりも確かさを感じられる彼の肉体は、死に怯えながらどうにもできない人間のイメージなのか、それとも静かに対峙している人間のそれなのか、迫り来る死の影に呑みこまれてしまったもののそれなのか。

海面下の氷山を思い描くことは、わたしたちに委ねられている。そうして、それぞれの氷山を描くことで、このヘミングウェイの短編は、「わたしのもの」になっていくのだろう。



初出Dec.24-27 2006 改訂Dec.30, 2006


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