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ここではロアルド・ダールの短編「羊の殺戮」を訳しています。
以前に訳した「南から来た男」と同じく、短編集『あなたに似た人』に所収されています。
この短編はあっと驚く結末と、ある理由から、推理小説におけるこの分野で、古典となっている作品でもあります。
原題は "Lamb to the Slaughter" 直接には屠所に送りこまれる子羊、といった意味ですが、ここではさまざまな含意がなされています。邦訳されている短編集では「おとなしい凶器」とタイトルがつけられていますが、ここではもう少し原文に近い単語を当てはめてみました。
もちろんラム=子羊は出てきます。でも、このラム、なかなか大変な「羊」で……。
原文は
http://www.classicshorts.com/stories/south.html
で読むことができます。



羊の殺戮


by ロアルド・ダール

野菜


 部屋は暖かく、きれいに片づいていた。カーテンをおろし、卓上灯がふたつ――ひとつは彼女の側に、もうひとつは向かいの空の椅子の側に――ともっている。背後のサイドボードには、丈の高いグラスがふたつとソーダ水とウィスキー、砕いたばかりの氷が詰まったアイスペール。

 メアリー・マロニーは夫が仕事から帰ってくるのを待っていた。

 ついつい時計に目がいくのは、やきもきしているせいではなく、針が進むたび、あの人が帰ってくる時間がまた近づいたとうれしくなるからだ。メアリーの周囲や物腰のひとつひとつにいたるまで、ゆったりとした、ついほほえんでしまいそうになるような空気が醸し出されている。縫い物をするためにうつむいたうなじのあたりも、なんともいえない穏やかさがあった。妊娠六ヶ月を迎えたメアリーの肌は、どこか透きとおるようで、口元はふっくらとし、瞳にはそれまでなかった落ちつきまでもが加わって、いっそう大きく黒々と光っている。時計が五時十分前を指すと、メアリーは耳を澄ました。やがて、いつもの時間にタイヤが砂利を踏む音が窓の向こうに聞こえてきたと思うと、ドアがバタンと閉まる音、窓の傍らを過ぎる足音、鍵を回す音がそれに続いた。メアリーは縫い物を脇へどかし、立ち上がると、入ってくる夫にキスしようと進み出た。

「お帰りなさい」

「ああ」

 夫のコートを取るとクローゼットにかけ、部屋を横切って飲み物を作り、強い方を夫に渡して弱い方を手元に置く。それから椅子に戻って縫い物を続けた。向かいに座る夫の、両手ではさんだ丈の高いグラスから、氷がぶつかるカランという音が聞こえた。

 メアリーにとっては、一日のうちのこのひとときが至福の瞬間だった。夫が最初の一杯を干してしまうまで、口をききたがらないことはよくわかっていたけれど、メアリーにしてみれば、黙って座っている夫にも不満はなかったし、一日中ひとりきりで家にいたあとでは、夫の相手をするのが楽しかった。夫がそこにいるだけで豊かな気持ちになれたし、日光浴をする人が太陽に感じるような暖かさを、ふたりだけでいるときの夫から感じていたのだった。椅子にくつろいで座っているその姿も、ドアを開けて部屋に入ってくるところも、大股で部屋の中をのっしのっしと歩いているところも、大好きだった。熱のこもった、どこか遠くから見ているような眼差しが自分の上に留まったままでいるのも、おもしろがってでもいるような唇の形も、そうしてなによりも、疲労に身を任せたまま、ウィスキーの酔いがそれを解きほぐしてくれるのをじっと座って待っているようすが、メアリーにとってはいとおしいのだった。

「あなた、お疲れさまでした」

「ああ、今日は疲れたよ」
そう言うと夫は、ふだんならしないようなことをした。グラスを持ち上げると、ひと息にぐっとあおったのだ。たっぷり半分は、どう少なく見積もっても半分以上は残っているウィスキーを……。メアリーはその動作を見ていたわけではなかったが、おろした夫の手の中で、空っぽのグラスの底に氷がぶつかる音がして、それと知れたのだった。しばらく椅子に身を預けたままじっとしていた夫は、立ち上がるとゆっくりと部屋を横切って、もう一杯作った。

「あら、わたしがやるわ」あわてたメアリーは声をかけた。

「座ってなさい」

 戻ってきた夫の手にあったのは、琥珀色をした生のウィスキーが入っているグラスだった。

「スリッパを持ってきましょうか」

「いや、いい」

 メアリーは、夫が少しずつ黄褐色の液体を飲むのを見た。油のような小さな渦巻きがいくつもできているのは、それがひどく強い酒だからだ。

「ひどい話よね」とメアリーは口を開いた。「あなたみたいなベテラン警官を一日中歩き回らせるなんて」

 夫の返事はなく、メアリーはうつむいて縫い物に戻った。夫がグラスを口元に運ぶたびに、氷がカラカラという音を立てる。

「ねえ」と話しかけた。「チーズでも持ってきましょうか? 木曜日だから、晩ご飯の用意をしていないんだけど」

「いらない」

「疲れてて食べに行くのが億劫だったら」メアリーはなおも続けた。「まだそんなに遅いわけじゃないから。冷凍庫には肉だのなんだの、食べる物ならたっぷりあるのよ、だから何も外へ行かなくても、晩ご飯にできるわ」

 メアリーの目は、返事でも、ちらっと笑いかけるだけでも、ほんの少しうなずくだけでもいい、そうした夫の反応を待ったが、そこには何の気色も浮かぶことはなかった。

「ともかく」メアリーはさらに言葉をついだ。「ご飯の前に、チーズとクラッカーか何か、持ってくるわ」

「いらないんだ」

 見開いた目を夫の顔から片時も話さず、メアリーは椅子に座ったまま不安げに身をよじった。「だけど、何か食べなくちゃ。支度ならすぐにできるのよ、食べたくなかったらそれでもいいけど……」

 縫い物をランプのそばのテーブルに置くと、メアリーは立ち上がった。

「座ってろよ」夫が言った。「ちょっとでいいから、じっとしててくれ」

そのときになって初めて、メアリーの心に恐れが兆した。

「さあ、座って」

 メアリーはとまどいの色を濃くした大きな目を夫にすえて、ゆっくりと椅子に身を沈めた。二杯目を干した夫は、険しい顔でグラスの底を見つめている。

「聞いてくれ。君に言っておかなきゃならんことがあるんだ」

「何? どうかしたの?」

 身じろぎもせずうつむいた夫の顔の上半分を、傍らのランプが斜めに照らし、口元や顎を闇の中に置き去りにしていた。左のこめかみがかすかにぴくぴくと動いている。

「たぶん、君にとってはひどいショックだろう」夫は言葉を続けた。「だが、よくよく考えた挙げ句、君にはありのままを話すしかないと決めたんだ」

 そうして夫はそれを打ちあけた。長い時間ではない、せいぜい四、五分のあいだ、メアリーは黙ったまま、ひとこと言うたびに遠くへ行ってしまう夫を、頭のくらくらするような恐怖を感じながら、ただ見つめていたのだった。

「そういうことなんだ」それから夫はこう付け加えた。「そりゃ、いまこんなことを君に言っちゃいけない時期だってことはわかってはいるんだが、ほかに方法がないんだ。もちろんお金は払うし、これから先の責任だって取るつもりだ。だからガタガタ言う必要はないんだよ。少なくとも、おれはそんなことがないように願っている。おれの仕事にも差し障りがあるからな」

 まっさきに、信じちゃだめ、何も聞いちゃだめよ、と本能がささやいた。たぶん、あのひとはなにも言ってやしない、なにもかもわたしが空想ででっちあげたことなんだわ。わたしがやらなきゃいけないことをやって、なにも聞かなかったことにしてたら、そのうち目が覚めて、ああ、やっぱり何もなかったんだ、ってわかるはず。

「晩ご飯の用意をしてくるわ」なんとかか細い声を押し出すと、こんどは夫の方も止めようとはしなかった。

 部屋を歩いていても、足が地についているような気がしない。何も感じられない……ただ、かすかな吐き気がこみあげてくるだけだ、ああ、吐いてしまいたい。もはや何をするにも、ただ機械的にこなしているだけだった。地下の貯蔵庫へ降りていくのも、スイッチをひねって明かりをつけるのも、深い冷凍庫の中に手を伸ばし、なんでもいい、最初にふれたものを引っぱり出すのも。持ち上げてそれを見る。紙にくるまれていたので、それを取って、もう一度よく見た。

 羊のもも肉。

 これなら大丈夫、晩ご飯はラムね。メアリーは細い骨の部分を両手でぶらさげて、階段をのぼり、リビングを過ぎようとしたところで、夫がこちらには背を向けて窓辺に立っているのが目に入った。メアリーはそこで立ち止まった。

「悪いんだが」メアリーの気配を察した夫は、振り向きもせずにそう言った。「おれのぶんはいらない。出かけるから」

 メアリー・マロニーは、考えるより先に夫の近くまで歩いていき、立ち止まることなく、カチカチに凍った大きなラムのもも肉を虚空たかだかとふりあげて、渾身の力をこめ夫の頭上にふりおろした。

 鉄の棍棒でうちかかったのとまったく同じだった。

 一歩さがって見ていると、奇妙なことに夫は四秒か五秒も立ったまま、微かに体をふらつかせている。やがて、カーペットにどたりと倒れた。

 激しい衝撃、大きな音、ひっくり返る小さなテーブル、こうしたもの一切が、茫然自失しているメアリーを現実に引き戻した。じわじわとさむけと驚愕が体全体に拡がっていき、しばらくはただ立ちつくし、目にしているものを信じることもできないままに夫の亡骸を見おろしていた。ばかげた肉の塊を未だ両手にしっかりと握りしめたまま。

そうよ、わたし、殺しちゃったんだわ。

 奇妙なことに、いまになって頭が急にはっきりしてきた。考えがすさまじい勢いでかけめぐる。警官の妻であるメアリーは、罪状をはっきりと予測することができた。いいわ。わたしにとっては同じことだもの。ううん、罪に問われるほうがありがたいぐらいよ。だけどこの子はどうなるの? 人殺しのお腹に子供がいるときは、法律ではどうなっているんだろう? お母さんも子供も、両方死刑ってこと? それとも十ヶ月になるまで待ってくれるのかしら? これまではどうなってたんだろう。

 メアリー・マロニーにはわからなかった。だが、もちろん、いちかばちかそれに賭けるわけにはいかない。

 肉を台所に持っていきグリルパンにのせてから、オーブンの火を強くして、中へ押し込んだ。それから手を洗って、二階へ駆け上がって寝室に入る。鏡の前で腰を下ろし、髪をなでつけ、口紅と頬紅を塗った。笑ってみる。なんだか変だわ。もう一度。

「こんにちは、サム」ほがらかに、はっきりと。

声もどこかおかしい。

「じゃがいもを少しばかりくださいな、サム。そうそう、グリーンピースの缶詰めも」

 こんどは悪くない。笑い方も声の調子もずっと自然になってきた。メアリーはなおも何度か練習を繰りかえした。それから階段を駆け下りて、コートを取り上げると、裏口から庭へおり、通りに出た。

 まだ六時にもならない時刻だったため、食料品店には明かりが煌々とともっていた。

「こんにちは、サム」メアリーは明るい声でそう言うと、カウンターの向こうにいる男にほほえみかけた。

「やあ、いらっしゃい、マロニーの奧さん。お元気そうで」

「じゃがいもを少しばかりくださいな、サム。そうそう、グリーンピースの缶詰めも」

店主は背を向けて手を伸ばし、棚から缶詰めを取った。

「パトリックったらね、疲れているから、今夜は外で食べるのは止めだ、なんて勝手に決めちゃうのよ。いつもだったら木曜日はいつも外で食べることにしてるのね、だもんだから家には野菜なんて少しもなかったの」

「それじゃ肉はどうしましょう、奥さん」

「お肉はいいのよ、ごめんなさいね。冷凍庫に羊のもも肉のいいものがあったの」

「そりゃ、よござんした」

「ねえ、サム、凍ったままお料理しない方がいいのはわかってたんだけど、今日は仕方ないからそうしちゃったの。そんなことしても大丈夫だったのかしら?」

「問題ないと思いますよ。たいしたちがいなんぞありゃしません。このアイダホ・ポテトでかまいませんかね?」

「ええ、それをくださいな、ふたつ」

「何かほかにお入り用じゃございませんか」店主は首を傾げて、愛想良くメアリーを見やった。「食後に何かいかがです? デザートはご主人にお出しになるでしょ」

「ええ、そうね……何かお勧めはあるかしら」

店主は店をぐるっと見まわした。「うまくてでかいチーズケーキをひと切れ、なんていかがです? きっとご主人、お喜びのはずですよ」

「それはいいわね。うちの人の大好物だわ」

買った物を包んでもらってお金を払うと、メアリーはとっておきの笑顔を浮かべて言った。「ありがとう、サム、おやすみなさい」

「おやすみなさい、マロニーの奥さん。まいどどうも」

 さて、と、家路を急ぎながらメアリーは胸の内で呟いた。いま、わたしがやっているのは、家に帰っているってこと。家には夫がいて、夫は晩ご飯を待ってるの。だからわたしはがんばってお料理しなくちゃ。とびきりおいしいものを作るのよ、だってかわいそうに、あの人は疲れているのだから。それからもし、わたしが家に入って、たまたま何か、ふだんとはちがってることとか、不幸なこととか、恐ろしいこととかに気がついたとしたら、それは当然、とんでもないショックで、わたしは悲しくて、恐ろしくて、気が変になっちゃうわ。でもね、わたしは何かが起こってる、なんて思ってるわけじゃない。わたしはただ、野菜を買って、家に帰っているところ。パトリック・マロニーの奥さんが、木曜日の夕方、旦那さんに晩ご飯を料理するために、野菜を抱えて家に帰っているところ。

 そういうことよ、とメアリーは自分に言い聞かせた。当たり前に、自然にしてること。何もかも自然のままにしていれば、どんなお芝居も必要なんかないんだから。

 そんなわけで、勝手口から台所に入ったメアリーは、笑顔で曲をハミングしていたのだった。

「あなた、いま帰ったわ」

包みをテーブルにおろし、リビング・ルームに入っていく。夫が、床に倒れている夫が、脚を折って、片方の腕はねじれて体の下敷きになっている夫がいる。その光景を見て、メアリーは事実、大変なショックを受けた。これまでの歳月、培ってきた夫への愛情と熱い思いがメアリーの内にこみあげてきて、駆け寄るとかたわらにひざまずき、心から、声をあげて泣いたのだった。少しもむずかしいことではなかった。演技の必要などなかったのだ。

しばらくすると、立ち上がって電話をかけた。警察署の番号ならよく知っている。向こうから男の声が応えると、メアリーは泣き声で告げた。「すぐ! すぐ来てください! パトリックが死んでる」

「どなたです?」

「マロニーです。パトリック・マロニーの家内よ」

「じゃ、死んでるのはパトリック・マロニーなんですか?」

「そうよ」メアリーは泣きじゃくった。「床に倒れてるの……きっと、死んでるんだと……」

「すぐそちらに向かいます」

さっそく車が到着し、メアリーが玄関を開けると、ふたりの警官が入ってきた。ふたりともよく知っている警官で――所轄署の人間なら、ほとんど知っているのだ――、メアリーはヒステリックに泣きわめきながら、ジャック・ヌーナンの腕に倒れこんだ。ヌーナンはいたわるように椅子に座らせると、もうひとりの警官オマリーが死体の傍らで膝をついているところに歩いていった。

「ほんとに死んでるんですか」メアリーは泣きじゃくる。

「お気の毒だが……。どうしたんです?」

メアリーは手短に語った。わたしが買い物に行って戻ってみたら、夫が床に倒れていたんです――。メアリーが泣いては話し、話しては泣いているうちに、ヌーナンは死体の頭部に小さな血痕があるのを見つけた。オマリーに見せると、オマリーはすぐ立ち上がって、急いで電話に向かった。

すぐに大勢の人間が家の中に続々と集まってきた。最初に到着したのは、医師、それからふたりの刑事たち、そのうちのひとりは、名前だけは知っていた。やがて警察の写真班が到着して現場を撮影し、鑑識が指紋を採った。死体を囲んで人々はひっきりなしにヒソヒソと話し合い、刑事たちはメアリーを質問責めにした。とはいえその物腰は一貫して親切なものだったが。メアリーは自分の話を繰りかえしたが、こんどは最初から話した。パトリックが戻ってきたとき、わたしはちょうど縫い物をしていたところでした、あの人は疲れていたようすで、ええ、すごく疲れていて、外に食べに行くのは億劫だって言うんです――それからどのように肉をオーブンに入れたか、まで話した。「いまもあそこで焼いてるんです」――それから、食料品店に出向いて野菜を求め、家に戻って床に夫が倒れていたのを発見した……。

「食料品店はどこです」刑事の一人が聞いた。

メアリーがそれに答えると、刑事は振り返ってほかの刑事に何ごとかささやき、その刑事はすぐに外に出ていった。

十五分ほどして戻ってきた刑事は、メモの切れ端を握って戻ってくると、なにごとかささやき、すすり泣きをしているメアリーの耳にも話のところどころが聞こえてきた。
「……まったくふだんどおり……とても愛想がよくて……主人にいいものを食べさせてやりたいと……グリーンピース……チーズケーキ……とても彼女にはそんな……」

やがてカメラマンと警察医がそこを離れ、入れ替わりに入ってきた二人が死体をストレッチャーにのせて運んでいった。やがて鑑識もいなくなる。その場には刑事が二人と警官が二人、残った。だれもがメアリーにはことのほか親切で、なかでもジャック・ヌーナンは、どこかよそへ行かれた方が良くはないですか、妹さんのところへでも行かれては、なんだったら家へ来てもらってもいい、うちのやつに世話させますよ、あいつなら一晩中お側についていてあげられる、と申し出たほどだった。

結構よ、とメアリーは答えた。いまはここをほんのちょっとだって動けそうにないんです。よろしければもうちょっと気持ちが落ち着くまでここにいさせていただけません? ほんとにいま、気分が良くないんです。すごく悪いの――。

なら、ベッドで休まれちゃいかがです? とジャック・ヌーナンが聞いた。

いいんです。このままここにいたいの、この椅子に。もうちょっとしたら、たぶん、もう少し気持ちが落ち着いたら、二階に行くわ。

そこで刑事たちはメアリーをそこに残して、家宅捜査に取りかかった。ときおり刑事が話を聞きに来る。ヌーナンは通りかかるたびに、思い遣りに満ちた言葉をかけるのだった。ご主人は、と言う、何か重たい鈍器で後頭部を一撃されたんだそうですよ、それが金属製のものであることは、ほぼまちがいないんだそうです。いま凶器を探してるとこなんです、ホシはそいつを持ってズラかったか、どこかに捨てるか、敷地のどこかに隠したか。

「よく言うでしょ」とヌーナンは続けた。「凶器を探せ、そうすりゃホシは挙げたも同然、ってね」

やがて、刑事がひとりやってきて、メアリーの隣に座った。凶器になるようなものがお宅にはありませんか? じゃなきゃここらだけでもざっと見て、何かなくなってるもの、たとえばばかでかいスパナだとか、重たい金属製の花瓶とか、そんなものに気がつきませんかね。

スパナとか、金属の花瓶なんて、うちにはありません、とメアリーは答えた。

「大きなスパナも?」

うちにはそんなものはなかったと思います。もしかしたらガレージにあるかもしれないけれど。

捜索は続いた。庭や家の周囲にも警官たちがいることにメアリーは気づいていた。外で砂利の上を歩く音がしていたし、カーテンの隙間から懐中電灯の光がときおりチラチラと洩れていた。日もとっぷりと暮れ、時刻も九時になろうとしていることが、暖炉の上の時計で知れた。屋内の捜索にあたっている四人も疲労が溜まってきたようで、いささか苛立ってきたようすだった。

「ジャック」メアリーは通りかかったヌーナン巡査部長に声をかけた。「もしお忙しくなければ、わたしに一杯、いただけません?」

「かまいませんよ、持ってきてあげましょう。このウィスキーでいいんですね?」

「どうもありがとう、でもほんの少しだけ。きっと気分がしゃっきりすると思うんです」

ヌーナンはグラスを渡した。

「あなたも一杯ぐらいお飲みになったらよろしいのに。お疲れでしょう、だから、ね。ほんとうに良くしてくださったのだから」

「うーん。ほんとは規則違反なんですけどね、じゃ、気付けに一杯だけいただこうかな」

部屋にやってくる人間はひとりずつ勧められて、ウィスキーを一口ずつ飲んだ。ばつが悪そうな顔をしてグラスを手に突っ立った男たちは、そこにいるメアリーに対して、へどもどと慰めの言葉をかけた。キッチンへぶらぶらと入っていったヌーナン巡査部長が、すぐに出てきた。「マロニーの奥さん、オーブンにまだ火がついてますよ、肉がまだ中に入れたままになってるみたいだ」

「あら、大変!」メアリーは大きな声を出した。「そうだったわ!」

「火を切りましょうか、奥さん?」

「ジャック、そうしてくださらない? どうもありがとう」

ふたたび巡査部長が戻ってくると、メアリーは涙に濡れた大きな目を見開いて、彼の方をじっと見た。「ジャック・ヌーナンさん」

「はい?」

「あの……もしよろしかったらでいいんですけど、みなさんにお願いしたいことがあるんです」

「いいですよ、マロニーの奥さん」

「あのね」とメアリーは話しはじめた。「ここにおいでのみなさんは、パトリックのお友だちだった方々でしょう、だから、パトリックを殺した犯人の男を捕まえようとなさってくださってるのね。だけどみなさん、もうすっかりお腹が空いていらっしゃるでしょ、だって晩ご飯の時間なんてとっくに過ぎてるんですもの。パトリック、ああ、神様、パトリックの魂にお恵みを、ともかくあの人だったら、許してくれないと思うんです。もしわたしがみなさんを、なんのおもてなしもしないで帰したとしたら。ですから、オーブンの中のお肉を全部召し上がってくださらないかしら。いまごろきっとちょうどいい加減になってるはずだから」

「それはちょっと……」ヌーナン巡査部長が答えた。

「お願い」メアリーは手を合わせた。「お願いよ、どうか召し上がって。わたしはそんなもの耐えられない、あの人がここにいたときからずっとこの家にあったものなんだもの。でも、みなさんだったら大丈夫でしょう? みなさんに片づけていただけたら、これほどうれしいことはないんです。お食事が終わってからまたお仕事をなさったらいいじゃないですか」

四人は相当ためらっている様子だったが、確かに腹も減っていたし、結局はみんなでキッチンに入って、てんでに食べることにしたのだった。メアリーは座っている場所から動きはしなかったけれど、話し声に耳をそばだたせていた。彼らの声はもごもごとした素っ気ないものだったが、それも口いっぱいに肉をほおばっているせいだ。

「チャーリー、もっと食えよ」

「みんな食っちゃまずいだろう」
「かみさんが片づけてほしがってるんだ。そう言ったじゃないか。望みをかなえてやろうぜ」

「わかったよ。なら、もう少しおれにもくれ」

「ホシは気の毒なパトリックを、えらくどでかい棍棒かなんかで殴ったんだな」中のひとりが言った。「医者が言ってたんだが、頭蓋骨が粉々に砕けてたってさ、ちょうど大かなづちかなんかで殴ったような具合だ」

「だったら見つけるのはすぐだな」

「そのとおりだ」

「誰がやったにせよ、必要もないのにそんなでかいものを持ってうろうろしているわけがないからな」

ひとりがおくびをもらした。

「おれのカンじゃ、この敷地のどこかにあるな」

「ああ、おれたちの目の前に転がってるんだろうさ。ジャック、おまえはどう思う?」

隣の部屋でメアリー・マロニーは声を殺して笑い始めた。




The End




ミステリの楽しみ


楽しみとしての読書、エンタテインメントの一ジャンルとして、ミステリは根強い人気がある。
本来ならば、人殺しはおぞましいもののはずである。そんなおぞましい「人殺し」の話を、わたしたちはどうして「楽しむ」ことができるのだろうか。

そこにはなによりも、これは「絵空事である」という約束事があるように思う。

生きることは選択することであり、わたしたちは多くの場合、〈そうしたいこと〉ではなく、〈そうしなければならないこと〉を選択する。
ところがエンタテインメントでは、それがミステリであれ、恋愛であれ、コメディであれ、現実のわたしたちが選択できないことを、登場人物たちは自ら進んで、あるいは巻き込まれて余儀なく、選択していくのだ。
エンタテインメントの楽しみは、あくまでも、「どうしてそうなった」ではなく、「それからどうなる」の楽しみである。現実のわたしたちが選択できない行動を選んでいった登場人物が、それからどうなっていくのか。わたしたちは、それを高みから見物するのだ。

こうしたミステリも、ディテールを描きこんで、リアルな世界を築いていくタイプのものもあるけれど、逆にリアルさを徹底して漂白していくタイプのものもある。ここで取り上げた「羊の殺戮」は後者の代表的なものと言えるだろう。

メアリー・マロニーが営む生活は「幸福で非の打ち所もないもの」、それが突然崩壊するのも、夫の話によるものだけであり、その詳細さえ読者には明かされない。「おそらく情事めいたものがあったのだろう」というだけで十分なのだ。
そうしてメアリーの手による殺人も、一瞬で、血の臭いもしない。わたしたちの意識は、ダールのたくみな語りに乗せられて、それはいったいどんな話だったのだろう、とか、それまでにメアリーはまったく気がつかなかったのだろうか、とか、どうしてまたそういうことをしてしまったのだろう、とかということをすり抜けて、「それからどうなる」一点に絞られる。

ここに登場する人物たちは、主人公を除けばみなE.M.フォースター言うところの「扁平人物」である。
パトリック・マロニーは「幸福な生活の破壊者」、ジャック・ヌーナンはメアリーに苦もなく操られる「間抜け」、ほかの登場人物たちもドラマの背景のひとつで、それぞれに顔さえない。

ならばメアリーはどうなのだろう。「幸福な若妻」であり、「殺人犯」であり、やがて生まれてくる子供のために、罪をすり抜けようと画策する「策士」でもある。
その心理はわたしたちがよく知っているものであるために、わたしたちを驚かしはしないものの、それでも物語の始まりとは予想もつかないところへ行ってしまっている。彼女はステレオタイプながら、ややひらべったい球型人物、といえるのかもしれない。

ところで、メアリーの行動に驚かされながらも、その心情に共感し、彼女がうまく逃げおおせることを願いながら先へ読み進んでいくわたしたち、というのは、どうなんだろう。

日常生活の中では、人を殺すというのはとんでもない罪悪だと思い、犯人が逮捕されれば、ああ良かった、と思い、適正な裁きが下るのを待つわたしたちは、他方で「絵空事」というお約束の下では、殺す人間に共感し、罪をすり抜けたその「知恵」に「してやったり」と思うのである。

短編集『あなたに似た人』(ハヤカワ文庫)の巻末には、都築道夫のこんな言葉が紹介されている。

ダールは大ざっぱに言って、ふたつのテーマしかあつかわない。賭博に打ち込む人間たちの心の恐ろしさ。それと人間の想像力の恐ろしさ、つまり、実際にはなんの現象もないところでも、人間があつまるとその想像力から、こんな恐ろしいことも起こるのですよ、という恐ろしさ。

もちろん、想像することと行為に移すことのあいだには、決定的な隔たりがあるだろう。それでも、ダールのミステリを楽しむわたしたちの想像力には、こうした恐ろしい側面が実際にある、ということなのだろう。

わたしたちはミステリを楽しみながら、一方で、自分の想像力が孕むこうした「恐ろしさ」を認めながら、なんとか飼い慣らし、自分のコントロールの下に置こうとする試みでもあるのかもしれない。



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初出Nov.07-Nov.10 2006 改訂Oct.03, 2008


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