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ここではRoald Dahlの短編 "The Landlady"を訳しています。
この作品の初出は1959年で、おそらく作中の時期もその頃なのでしょう。舞台はロンドン西部の街、バースです。ロンドンから140qのところにあるこの街が、古くからの温泉がある保養地として栄えたのは19世紀でした。義務教育を終えたばかり、社会人となって日も浅いビリー・ウィーヴァー君が出張でこの街にやってきたときには、戦後の観光産業はまだ起こる前、かつての「宴の後」がそのままうち捨てられたような街並みだったのでしょう。そんな街でウィーヴァー君を待ち受けていたものは……。

バースのホテル

原文はhttp://www.nexuslearning.net/books/Holt-EOL2/Collection%203/landlady.htmで読むことができます。


女主人


by ロアルド・ダール

オウム


 ロンドンから午後の鈍行列車に乗ったビリー・ウィーヴァーが、途中スウィンドンで乗り換えてバースに着いたときは、夜も九時近くになっていた。駅を出ると、向かいの家並みの上にひろがる澄んだ星空を背に、月がぽっかりと浮かんでいる。凍てついた空気のなか、頬に吹きつける風は氷のやいばのようだった。

「すいません」彼は声をかけた。「このあたりに安く泊まれるところはありませんか」

「『鐘とドラゴン亭』へ行かれてはどうでしょう」赤帽が通りの先を指さした。「あそこなら泊めてもらえますよ。向こうの道を五百メートルほども行けばあります」

 ビリーは礼を言うと、スーツケースを取り上げて、「鐘とドラゴン亭」目指して五百メートルの道のりを歩き始めた。これまでバースに来たことはない。ここに住んでいる人も、誰一人として知らなかった。だが、ロンドンにある本社のミスター・グリーンスレイドは、ここは実に素晴らしい街だと教えてくれたのだった。

「宿屋を探すんだ」と彼は言った。「落ち着き場所が決まったら、すぐに支社へ行って支店長に報告するように」

 ビリーは十七歳だった。おろしたての紺色のオーバーを着て、新品の茶色い中折れ帽をかぶり、新品の茶色いスーツに身を包んで、気分は爽快である。通りをきびきびと歩いた。ここ数日間、何ごともきびきびとこなせるよう努めてきた。きびきびとした態度こそ、成功したビジネスマンすべてに共通する唯一の資質だと判断したのである。本社のお偉方ときたら、いつだって文句のつけようがないほど、すばらしくきびきびしているじゃないか。それはもう、見事なまでに。

 彼が歩いている大通りには、一軒の店もなく、両側にはいずれもそっくりな、背の高い家が続いているばかりだった。いずれも玄関ポーチがあり、柱があり、玄関に通じる四、五段の階段があって、どうやらその昔はしゃれた住宅街だったらしい。だがいまや、暗い中ですら、ドアや窓の木造部分のペンキが剥がれ、白く端正だったにちがいない正面も、手を入れてないせいで、ひびわれ、しみが浮いているのが見てとれた。

 不意に、五メートルほど前方で、一階の窓が街灯に明々と照らされていた。ビリーの目をとらえたのは、上の方の窓ガラスに貼ってある、活字体で書いた張り紙だった。「お泊まり と 朝食」。張り紙のすぐ下には花瓶があって、丈の高く美しいネコヤナギが飾ってある。彼は足を止めた。一歩、そばへ寄ってみた。緑のカーテン(ベルベットのような素材である)が窓の両側に下がっている。両側のカーテンのおかげで、ネコヤナギはたいそう美しく見えた。もっと近寄って、ガラス越しに中をのぞき込んだ。最初に見えたのは、暖炉に燃えている明るい火だった。暖炉の前の絨毯の上には、かわいい小さなダックスフントが、鼻面を自分の腹に押し込んで、丸くなって眠っている。薄暗がりをすかして見る限りでも、その部屋は、気持ちの良さそうな家具がそろっていることがわかった。小ぶりのグランドピアノや大きなソファ、ふかふかの肘掛け椅子がいくつかと、隅には鳥かごに入った大きなオウム。こんなふうに動物がいるというのは、たいていいいしるしだ、とビリーはひとりごとを言った。全体に、たいそう美しく立派な家のように彼の目には映ったのである。きっとここは『鐘とドラゴン亭』などより居心地が良いにちがいない。

 とはいえ、寝泊まりできるパブの方が、下宿屋より楽しそうではある。夜になれば、ビールやダーツを楽しんだり、大勢の人と話したりもできるだろうし、きっとそっちの方がずっと安上がりだろう。前にもパブには数日泊まったことがあって、すっかりそこが気に入っていたのである。下宿屋に入った経験はなかったし、正直なところ、少しばかりぞっとしない気持ちもあった。下宿屋と聞くと、なにやら煮すぎたキャベツや、ごうつくばりの女主人、部屋まで漂ってくる薫製ニシンの強烈な臭いなどが連想されてしまう。

 二、三分、ビリーはこのように決めかねていたのだが、どちらかに決める前に、とりあえず『鐘とドラゴン亭』を見てみることにしようと考えた。そこでくるりと向きを変えたそのときである。

 奇妙なことが起こった。一歩下がって窓に背を向けかけたとき、ひどく奇妙なことに、そこにあった小さな張り紙に目が吸い寄せられ、釘付けにされてしまったのだ。張り紙には「お泊まり と 朝食」とあった。「お泊まり と 朝食」「お泊まり と 朝食」「お泊まり と 朝食」……。それぞれの言葉が、まるでガラス越しにこちらを見つめる大きな目のように見えてくる。彼をがっちりと捕らえて離すまい、この家からよそへ行かすまいとしているかのような。やがて気がついたときには、実際に窓の前を横切り、家の玄関を開けようと階段をのぼり、呼び鈴に手を延ばしていたのだった。

 彼は呼び鈴を押した。ドアの向こう、家の奥の方で鳴っている音がしたかと思うと、即座に――まさに音がした瞬間、彼の指が呼び鈴のボタンから離れてさえいないうちに、ドアがさっと開いて女性がそこに現れた。

 ふつうなら呼び鈴を押しても、ドアが開くまで、どう考えても三十秒ほどはかかるはずだ。だが、この女性はまるでびっくり箱を開けたときのように出てきたのだ。呼び鈴を押す――すると、ぽん! 彼はぎょっとして跳び上がった。

 女は四十五から五十歳といったところ、彼を見るとたちまち暖かな、よく来てくれたと言わんばかりの笑顔を見せた。

「お入りになって」にこやかにそう言う。脇へ退いて、大きく開いたドアを押さえたのにつられるように、自分でもはっきりと気がつかないまま、ビリーは足を踏み出していた。自分でもよくわからない衝動にかられたというよりは、あとについて中に入っていきたいという欲望が、抑えがたいまでに高まった、と言った方が正確だろうか。

「窓の張り紙を見たんです」なんとか自分を抑えようとしてそう言った。

「ええ、わかってますわ」

「空き部屋があるんでしょうか」

「もちろん、ちょうどぴったりのお部屋がありましてよ」彼女の頬はふっくらと薄紅色、青い目はとても優しげだ。

「『鐘とドラゴン亭』に行こうと思ってたんです」ビリーは言った。「でも、偶然、ここの窓の張り紙が目に入って」

「あらあら」と彼女は言った。「外は寒いでしょうに、どうぞお入りになって」

「おいくらなんでしょうか」

「一泊五シリング六ペンスいただいています、朝食付きでね」

 途方もない安さだ。彼が、このぐらいなら、と思っていた額の半分にも満たない。

「高いようでしたら」と彼女は言い足した。「少しならお安くもできましてよ。朝食に卵はお望み? きょうび、卵も高くなりましたでしょ。もし卵なしでかまわないっておっしゃるんだったら、六ペンス、お引きしますわ」

「五シリング六ペンスで結構です」彼は答えた。「喜んでここに泊めさせていただきますよ」

「そうなさると思ってたました。お入りになって」

 それにしてもこの人はずいぶん親切だな。まるで、学校に行っている息子が、クリスマス休暇に招待した親友を迎えているような具合だ。ビリーは帽子を取ると、敷居をまたいだ。

「帽子はそこにかけてくださいな」というと、「オーヴァーは預かっておきましょうね」と手を貸してくれた。

 玄関ホールには、帽子もコートもかかっていない。傘もステッキも、一切なかった。

「ここはいま、わたしたちだけなんですのよ」彼女は階段を上がっていきながら、振り返ると、にっこりと笑いかけた。「わたしのちっちゃなお城にお客様をお迎えすることなんて、そうそうあることじゃないんです」

 このおばさん、ちょっとおかしいみたいだな、とビリーは考えた。だけど、一泊五シリング六ペンスってことを思えば、そんなこと、いったい誰が気にする? 「ここに泊まりたいって人なら、いくらでもいるってこと、すぐに気がつかなきゃいけなかったな」ビリーは失礼にならないよう、そう言っておいた。

「ええ、まあ、そういうことね、ええ、もちろんそうですよ。でもね、問題は、わたし、ちょっぴり、選り好みをしてしまうんです、特に――おわかりかしら」

「ああ、そいうことなんですか」

「でもね、いつも準備だけはしておくんです。お昼であろうが夜であろうがこの家へ、しかるべきお若い殿方が、いつお見えになってもいいように、何もかも用意はしてあるんですのよ。ですからね、あなた、ほら、ドアを開けたら、そこに、思っているとおりの方が立っていらっしゃるのをお見かけしたら、ほんとうにどれだけうれしいか」階段の途中まで来たところで、片手を手すりにかけたまま立ち止まると振り返り、寒さで青ざめた唇をしている彼にわらいかけた。「ちょうどあなたみたいな方が」とつけくわえ、青い瞳がゆっくりとビリーの全身を下りていき、足のところまでくると、そこからまた上がっていった。

 二階に着くと、女主人は言った。「この階はわたしが使っています」

 さらにもう一階上がった。「そしてこの階は全部、あなたがお使いになって」と彼女は言った。「ここがあなたのお部屋です。お気に召してくださるとうれしいのだけれど」小さいながらも、なかなか感じのいい寝室に案内すると、電灯のスイッチを入れた。

「あの窓から朝日が入ってくるのよ、パーキンスさん。パーキンスさんでしたわよね?」

「ちがいます」彼は訂正した。「ウィーヴァーです」

「ウィーヴァーさんね、なんてステキなお名前でしょう。シーツを温めるために湯たんぽを入れてありますよ。慣れないベッドでも、シーツが洗いたてで湯たんぽが入っていれば、くつろげるでしょう? もし寒いようでしたら、いつでもガスストーブを使ってくださいね」

「ありがとうございます」ビリーは言った。「ほんとに助かります」ベッドの覆いは取り外してあり、上掛けは一方の端できちんと折り返してある。あとはそこに誰かが入って寝るばかりだ。

「あなたが来てくださって、ほんとうによかったわ」彼の顔に熱い視線を注ぎながら、そう言った。「だんだん心配になってきてたの」

「そりゃどうも」ビリーは明るく答えた。「だけど、ぼくなんかにお気遣いなく」彼はスーツケースを椅子の上に置いて開いた。

「そうそう、晩ご飯はどうなさいます? ここにいらっしゃるまえに、どこかでお済ませになった?」

「腹は減ってません。だけど、そう言ってくださってありがとう」彼は言った。「ぼく、もう寝た方がいいんです。明日、早起きして会社に出て、報告しなきゃならないことがいろいろあるから」

「わかりました。それじゃわたしは失礼しますから、荷ほどきをなさってくださいね。ただ、おやすみになるまえに、一階の居間で宿帳にご記入をお願いできません? ここじゃ法律があって、こんなことで法律を破るわけにはいかなくて、だからみなさんにそうしていただいてるんです」女主人は小さく手を振って足早に部屋を出ると、ドアを閉めた。

 たとえ女主人の頭のネジが少々ゆるんでいるにせよ、ビリーはたいして気にもならなかった。ともかく、あの人は無害だし――これはもう疑問の余地もないことだ――どう見ても親切で、けちとはほど遠いにちがいない。たぶん、戦争で息子を亡くしたかどうかしたんだろう。それで、あんなふうになっちゃったんだ。

 数分後、スーツケースの中身を取り出してから手を洗うと、足取りも軽く一階へ下り、居間に入っていった。女主人はそこにはいなかったが、暖炉の火はあかあかと燃え、相変わらずその前には小さなダックスフントがぐっすりと眠っている。部屋は暖かく、すばらしい居心地だ。ぼくはツイてるぞ、と思いながら、両手をこすり合わせた。まったくなかなかのところじゃないか。

 ピアノの上に宿帳が広げてあったので、彼はペンを取り上げ、住所と名前を書き込んだ。そのページには、彼の名前の上に、ふたつだけ、名前が記されていた。誰でも宿帳に記入するときにそうするように、彼もその名前をしげしげと眺めた。ひとつはカーディフから来たキリストファー・マルホランド、とある。もうひとつはグレゴリー・W・テンプル、こちらはブリストルからだ。

 変だぞ。不意に彼の胸にそんな思いが兆した。クリストファー・マルホランド。何か引っかかる。

 一体全体どこで、こんな名前を聞いたんだろう。どこにでもあるような名前じゃない。

 学校にいた? いいや。じゃ、姉貴の何人もいた彼氏のひとりだったんだろうか。いや、親父の友だちか。いや、ちがう、そんな関係ではない。

クリストファー・マルホランド
カーディフ カテドラル通り 231

グレゴリー・W・テンプル
ブリストル サイカモアドライヴ 27

 いまでは二番目の名前にも、最初の名前同様、心あたりがあるような気がしてきた。

「グレゴリー・テンプルだって?」声に出して言うと、記憶をさぐった。「クリストファー・マルホランド……?」

「それはもう、ステキな青年でした」背後で声が聞こえた。振り返ると、女主人が大きな銀製のお盆にお茶の用意をして、部屋に入ってきていた。お盆を体の正面のやや高い位置で、まるではね回る馬の手綱であるかのように、しっかりと捧げ持っている。

「この名前、聞いたことがあるような気がするんです」彼は言った。

「そうなんですの? おもしろいこともあるものね」

「絶対前にどこかで聞いたはずだ。変ですよね。たぶん、新聞で読んだんだ。ともかく、有名人の名前じゃありませんよね。有名なクリケットの選手や、サッカー選手みたいな、そんな関係の人じゃない」

「有名ねえ」彼女はそう言って、お茶の盆をソファの前の低いテーブルにおろした。「いいえ、ちがうと思うわ。あの方たちは有名人ではありませんでした。でも、ほんとうにきれいな顔立ちの人でね、ふたりとも。それだけは確か。背の高い、若くてハンサムな人たちでしたよ、ちょうどあなたみたいにね」

 もう一度、ビリーは宿帳に目を落とした。「ここ、見てください」日付けを指さしながら言った。「最後の日付は二年前だ」

「そうでしたかしら?」

「ええ、そう書いてある。クリストファー・マルホランドはそれより一年近く前だ――いまから三年以上経ってる」

「あらまあ」頭をふりながら、ため息を静かに品良くつきながら、彼女は言った。「そんなこと、考えたこともありませんでした。光陰矢の如しって、ほんとうなんですね、ウィルキンスさん」

「ウィーヴァーです」ビリーは言った。「ぼくはウィーヴァーです」

「ごめんなさい、そうでしたわね!」大きな声を出すと、ソファにすわりこんだ。「わたし、ぼうっとしてしまって。ほんとにごめんなさい。こっちの耳から入っても、反対側から出ていってしまうんですのよ、ウィーヴァーさん」

 「あのですね」ビリーが口を開いた。「これって何だかほんとうに、とてつもなくへんてこなことのような気がするんです」

「そんなはずはないと思いますけれど」

「そうだなあ。どっちの名前も――マルホランドもテンプルも、単に別々の名前として記憶しているっていうだけじゃなくて、言ってみたら、どういうのかな、奇妙な具合に関連しているような気もするんです。ちょうど、ふたりとも同じ種類のことに関して、名前が知られているみたいに。ああ……そうだな……たとえばデンプシーとタニー(※アメリカのプロボクサージャック・デンプシーとジーン・タニーのこと。1926年と27年に対戦した)とか、チャーチルとルーズヴェルトみたいに」

「なんておもしろいお話なんでしょう」女主人は言った。「でもね、もうこちらへいらっしゃって、わたしの隣りにおかけになって。おやすみになる前に、お茶とジンジャー・ビスケットを召し上がってくださいな」

「どうぞおかまいなく」ビリーは言った。「こんなことをしていただくにはおよびません」ビリーはピアノの脇に立ったまま、カップだの皿だのと忙しく準備する手をじっと眺めた。小さく、色白で、爪の赤い手が、めまぐるしく動き回っている。

「きっとその名前をぼくは新聞で見たんだ」ビリーは言った。「あとちょっとなんだけどな。あとちょっとで思い出せそうなのに」

 記憶の鳥羽口まで来て、中に入れないというときほど、いらいらが募ることはない。絶対、あきらめるもんか。

「ちょっと待ってくださいよ」と彼は言った。「ちょっと待って。マルホランドですよね……クリストファー・マルホランド……イギリス西部を徒歩旅行してたイートン校の生徒の名前じゃなかったっけ。ある日突然……」

「ミルクは入れてかまいません?」女主人は言った。「お砂糖はどうしましょう?」

「お願いします。それで、あるとき急に……」

「イートン校の生徒ですって?」女主人は割り込んだ。「いいえ、ちがいますよ。絶対にそれはありません。マルホランドさんがわたしのところへいらしたときは、確かにイートンの生徒さんじゃありませんでした。ケンブリッジの学生さんでしたから。ねえ、こちらへいらっしゃって、わたしの横で、気持ちの良い火で温まってくださいな。ね。お茶の用意もできてますから」女主人は自分の横の空いた場所をぽんぽんと叩き、坐ったままビリーに笑いかけると、彼がそこに来るのを待った。

 ビリーはのろのろと部屋を横切り、ソファの縁に腰を載せた。テーブルの目の前に、ティーカップが置かれる。

「さあ、遠慮なさらないで」彼女は言った。「ここ、気持ちがいいでしょう?」

 ビリーはお茶を口にした。彼女も同じことをした。三十秒ほど、ふたりとも口を利かなかった。だがビリーには、彼女が自分をじっと見つめていることがわかっていた。半身をひねって彼の方を向き、カップの縁越しに視線をじっと自分の顔顔に注いでいるのが、はっきりと感じられる。ときどき何か奇妙なにおい、彼女の体から発散される、独特なにおいが鼻先をかすめた。少しも不快な臭いではなく、何かを彷彿とさせるようなにおいだ――だが、一体何を彷彿とさせるのだろう? わからない。クルミのピクルスか。真新しい皮のにおいか。それとも病院の廊下のにおいだろうか。

 しばらくのち、女主人がふたたび口を開いた。「マルホランドさんはお茶が大好きだった。あんなにお茶をたくさん飲んだ人を、わたしはこれまで見たことがなかったわ。あのかわいいマルホランドさんは」

「つい最近、ここをお出になったんでしょう?」ビリーは言った。頭の中では、ふたつの名前が引っかかったままでいる。いまでは、新聞で読んだことまで思い出していた――見出しで読んだのだ。

「出た、ですって?」彼女はそう言うと、目を丸くした。「あらあら、あの方はどこにもいらっしゃったりしてませんよ。ずっとここにいらっしゃるんです。テンプルさんもね。おふたりとも四階にいらっしゃるんですよ、ご一緒に」

 ビリーはカップをゆっくりとテーブルに戻し、相手をまじまじと見つめた。女主人はそれに笑顔で応えると、白い手を延ばして、彼のひざを、心配しなくて大丈夫、とでもいうように軽く叩いた。「あなた、おいくつでいらっしゃるの?」

「十七です」

「十七歳ですって!」声が高くなった。「おやまあ、理想的な歳じゃないの! マルホランドさんも十七だったわ。だけど、あの方、あなたよりちょっと小柄だったわね。ええ、確かにそうだったわ。それに、歯がそんなに白くなくて。あなたはほんとにきれいな歯をお持ちね、ウィーヴァーさん。気づいてらした?」

「見かけほどしっかりした歯じゃないんです」ビリーは答えた。「奥は詰め物だらけで」

「テンプルさんは、もちろん、もう少しお年が上でした」女主人はビリーの返事を意に介さず、言葉を続けた。「テンプルさんは、ほんとうは二十八歳になってらしたんです。でも、全然わかりませんでしたよ。ご自分でそうおっしゃるまでは、ちっともそんなふうに思わなかった。体には傷跡ひとつなくて」

「何ですって?」ビリーは聞き返した。

「あの方の肌は、まるで赤ちゃんの肌みたいでしたよ」

 しばらく沈黙が続いた。ビリーはティーカップを取り上げ、もう一口お茶を飲む。そうして受け皿にそっと戻した。相手が何か他の話をするのだろうと待っていたが、女主人はしんと押し黙ったままだ。彼はそこに坐って、自分の正面にあたる部屋の隅をじっと見つめたまま、下唇を噛んだ。

「あのオウムですけど」とうとう彼は口にした。「あれ……最初に窓から見たときは、ぼく、完全にだまされちゃいました。本気で生きてると思っちゃってましたから」

「残念ながら、もう生きてはおりませんのよ」

「あんなことができるなんて、さぞかし器用なんでしょうね」と彼は言った。「生きちゃいないだなんて、ちっともわからないですよ。どこでやってもらったんですか」

「わたしがやりました」

「あなたが?」

「ええ、そうです。わたしのベイジルちゃんにも会ってくださいました?」そう言うと、あごをしゃくって、暖炉の前で気持ちよさそうに丸まっているダックスフントを示した。ビリーはそちらに目をやった。そこで初めて、その犬がオウム同様、静かなまま身じろぎもしないでいることに気がついた。ビリーは手を延ばして、背中にそっとさわってみた。背中は固く、冷たい。指先で毛を一方になでてみると、その下の灰味がかった黒い膚が見えてきた。完全な状態で保存されている。

「これはまたすごい話だな」彼は言った。「見事な手際ですよ」犬から目を離すと、自分の隣りに坐っている小柄な婦人に、賛嘆のまなざしを向けた。「ここまで仕上げるのは、ずいぶん大変だったでしょうね」

「とんでもない。うちのかわいいペットが死んでしまったら、わたし、詰め物をして剥製にするんです。お茶をもう一杯いかが」

「いいえ、結構です」ビリーは答えた。お茶はかすかに苦く、アーモンドのようなにおいがしたが、彼はたいして気にも留めなかった。

「宿帳に記入してくださいましたわね?」

「ええ。書きましたよ」

「それはよかった。だって、あとでもし、わたしがあなたのお名前を忘れてしまっても、ここに来て見てみれば、いつだって思い出せますものね。いまだにわたし、毎日のように忘れてしまって、そうしてるんです。あのマルホランドさんと、それから、それから……」

「テンプル」ビリーは言った。「グレゴリー・テンプル。つかぬことをうかがいますが、この二、三年のあいだ、ここにはあのふたり以外の客はいなかったんですか」

 片手でティーカップを高く掲げ、小首を心持ち左に傾けて、目の隅でビリーを見上げると、また優しい微笑を見せた。

「いいえ」彼女は言った。「あなただけ」



The End






あとは言わない


古典的な推理小説では、すべての犯行が行われたのちに、探偵が関係者一同を集めて、「さあ、みなさん」と、事件の最初にさかのぼって謎解きを始める。そうして山場で「犯人はあなたですね」と名指しすることもあれば、「さあ、みなさん」は、犯人がつかまったのち、安心はしたものの、未だ理由がわからなくて混迷のなかにいる人びとに対しての種明かしである場合もある。

いずれにせよ、これからどうなるのだろうとページをめくる手ももどかしく、ドキドキしながら先を読み進んでいた読者も、ここですっかり落ち着いてしまう。この場面は、サスペンスとは無縁で、見方によっては興ざめな場面なのである。とはいえ、この箇所がないと話は宙ぶらりんのままで終わってしまい、「これはいったい何なんだ」と読者は裏切られたように感じる。

「さあ、みなさん」抜きで、サスペンスが最も高まったところで、スパッと終われないものか。その試行錯誤がハードボイルド・ミステリを生んだ。ハードボイルドの探偵たちは振り返らない。読者同様、何も知らないところから、ひとつずつ知識を増やしていき、すべてを知った瞬間に話は終わる。終わらないものもあるが、まあその部分は蛇足だ。

では、読者がすべてを知る前に終わってしまったらどうなるだろう。肝心の「何が起こるか」の一歩手前で終わってしまうのだ。それがこの「女主人」である。

このあと何が起こるかわからない。もしかしたらこの女主人は、単に剥製づくりが趣味の、世捨て人のような人なのかもしれないし、消息が途絶えたふたりの宿泊客も、不幸な偶然だったのかもしれない。「何かが起こる」というのも、単に読者の妄想なのかも。ビリーは何も気がつかないまま、卵つきの朝ご飯を食べて、出張を終え、ロンドンに帰っていくのかもしれない。「かすかに苦く、アーモンドのようなにおいがした」のも、もしかしたらアーモンドオイルでも垂らしてあったのかも(笑)。

ところでこのアーモンドのようなにおい、というのは、古典的推理小説ではおなじみのフレーズで、他殺体の口元からアーモンドのにおいがただよう、どうやら青酸カリで毒殺されたらしい、というのを、わたしはこれまで何度目にしてきたことだろう。ただ、実際に青酸カリが混入してあると、アーモンド臭を感じるどころか、強烈な苦みを感じるものらしい。アーモンド臭は胃酸と反応した結果だという。古典的な推理小説ではアーモンド臭でおなじみの青酸カリだが、多少誤解があるようだ(わたしは長いことロースとしたアーモンドの香ばしい匂いだとばかり思っていた)。

アーモンド臭はともかく、「女主人」というのは、まだ何も起こっていないからこそ、わたしたちが話に引きつけられる、という好例のような作品である。

もちろんわたしたちを引きつける道具立ては、導入部から揃っている。ひとけのないモーテルに、ふらふらと迷い込んでしまう被害者は、ヒッチコックの映画の方が有名な、ロバート・ブロックの『サイコ』を思い出させる。犯人の趣味も含めて、このふたつは重なり合う要素が多いが、ほぼ同時期の作品ながら、初出はこちらの方が先。ただ、ブロックがこれを読んだ、というよりも、1957年明らかになったエド・ゲイン事件に、ブロックもダールも着想を得た、と考えた方が適当だ。なにしろこのエド・ゲイン、1947年から54年にかけて、少なくともふたりを殺害し、それだけでなく、墓を暴いて、多くの女性の遺体を解体したのだから、このことが明らかになった当時、どれほど世間は驚いたことだろう。実際の事件は言わずもがな、それをずいぶんストーリーで中和した『サイコ』や、時間を経て、ハンニバル・レクターという介在者を登場させた『羊たちの沈黙』でさえも、暗く、陰惨な印象が強い。だが、それに対して、登場人物を上品な中年女性に置き換えた『女主人』は、何も起こっていないことともあいまって、どこかおとぎばなしのようだ。

昔話には「三枚のおふだ」や「ヘンゼルとグレーテル」のように、道に迷った子供が、山姥や魔女の家にたどりつく、という種類の話がある。この短篇は、その変奏とも言えるのだ。

社会に出て間もないビリーは、「パブ」に象徴されるような男の世界への道筋を示される。けれども、その途中で、自分があとにしてきた「家」、母親が自分をいつでも迎えてくれる「家」に、無意識のうちに入ってしまう。そこで待ち受けているのは、恐ろしい「母親」である。この「母親」は、息子を終生手元にとどめておくために、恐ろしい計画を胸に抱いている。

ビリーは自分がどんな状況に置かれているのか、話の終わりに至っても、何も気がついていない。このあと彼に、生き延びるために知恵と勇気をふりしぼった「三枚のおふだ」の小僧さんや、ヘンゼルとグレーテルのような「覚醒」と「成長」のチャンスは与えられるのだろうか。果たしてビリーは大人になれるのだろうか。

ダールは、何かが起こりそうな気配だけふりまいて、あとは何も言わない。



初出July 27-August 05, 2009 改訂August.13, 2009
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