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ことばを読む ことばで読む



1.わたしたちはことばで考えている

言語のすばらしさは忘れられるということにある。私は紙上の一行を目で追ってゆく。私の目と私の身体は、目に見えないなにかの働きに必要な最小限の演出として、そこにある。表現は表現されるものの前で姿を消す。それゆえ、仲介者としての言語の役割は気づかれないままに過ぎ去る。

M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(みすず書房)



本を読んでいて、ある一節に出くわす。
その瞬間、自分のなかで、ずっともやもやしていたものが、はっきりと形になり、これってこういうことだったのか、と一気に視界が晴れていくような思いがすることがある。

あるいは、ある一節をきっかけに、自分の感情がはっきりと認識されることもある。
ああ、あれってこういうことだったんだ。
自分はいままで気がつかずにいたけれど、あのとき自分は傷ついていたんだ。
かくかくしかじかの理由で、傷ついたんだ。
自分でさえ気がついていなかったけれど、この本を読んで、そのことがわかった。

あるいはまた、こんな経験も。
本を読む。
おもしろかったので、ひとに話す。
あらすじを話していくうちに、自分でもはっきりとはわからなかった細部のつながりが見えてきたりする。
あらすじをひとに話した本の内容は、どういうわけか忘れない。

日常経験するこうしたことは、すべて「ことば」と関係がある。
わたしたちは本を読んでいるとき、「ことば」を読んでいるとは意識していないけれど、じつは「ことば」を読んでいるのにほかならない。
それどころか、目にするありとあらゆるもの、実は「ことば」で見ているのだ。
ふだん、意識することのない「ことば」は、これほど大きな役割をもっているし、おもしろく、またやっかいなものでもあるのだ。

しばらく、「ことば」について、考えていきたい。

メルロ=ポンティの『知覚と現象学』の中に、色名健忘症の患者の話が出てくる。
彼らに、さまざまな色のリボンの寄せ集めの中から、たとえば「青いリボンを集めてください」と言ったとする。
色名健忘症、すなわち、色の名前を覚えることができない患者たちは、一目で「青」を見出すことができず、リボンを互いに並べたり、くらべたりして集めるのに大変に時間がかかるのだという。
そのほかにも、たとえば最後に持ってきたリボンが褪色した色調の青だったとすると、集めてきた青いリボンのグループの中に、同じように褪色した緑や赤などのリボンをつけ加えようとする、というように、通常では考えられない間違いを犯してしまう、というのだ。

この実験は、「青」という色名、いいかえれば、「青」ということばが、わたしたちにどのような作用を及ぼしているかをよく説明している。
つまり被験者は、色覚に障害があって「青という色」が認識できないのではなく、「青」ということばを失ったことによって、目の前に存在するリボンのなかに、「青」という本質を見出して、そのもとにカテゴライズする能力を失ったことを意味するのだ。
逆にいうと、わたしたちは普段ものの「色」を見ている、と思っているけれども、実は色そのものではなく、「色名」ということばを用いて、カテゴライズし、認識している。それを「知覚」と呼んでいるのだ。


同じように、わたしたちは本を読んでいるとき、筆者の考えにふれていると思って読むことはあっても、「ことば」を読んでいるとは思わない。
自分の頭の中にも、話したり書いたり、「ことば」にしたことはないけれど、「考え」がいくつもある、と思っている。

けれども、「ことば」の外皮をまとっていない、なまの「思考」などというものが、はたしてあるのだろうか。
よく知っているものごとであっても、それの名前が思い出せないとき、非常に居心地の悪い思いがする、あるいは、誰かと話しているうちに、漠然としていた考えが、具体的になってくる、といったことは、日常的に誰しもが経験していることだ。

自らの内側にある「思い」を言葉にする。
自分に向けた言葉であっても、他者に向けた外面的な言葉であっても、
なんであれ言葉にするということは、

われわれの思考を自分にあたえるという意味で、それはたしかにひとつの思考経験である、と。思考はなるほど瞬間的に、まるで稲妻の発するような具合に進んでゆく。しかし、そのあとにまだ、それをわがものとする仕事が残っているのであり、表現をつうじてこそ、思考はわれわれの思考となるのである。事物の命名は、認識のあとにもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである。(『知覚の現象学』)

ことばで考える。そのことが思考だという。
さらにメルロ=ポンティはこう続けていく。

言葉は、言葉を語る者にとって、すでにでき上がっている思想を翻訳するものではなく、それを完成するものだ。ましてや言葉を聞く者にしてみれば、言葉そのものからこそ思想を受け取るのだということを認めなければならない。(引用同)

漠然とした思いがある。
それは未だ混沌としたもので、自分自身にもよくわからないでいる。
本を読む。
ことばが与えられる。
最初はそれは書き手のことばであっても、わたしたちはそのことばを自らのうちに取り込むことによって、自らのものとしていく。
ことばを通じて、書き手の思考に導かれつつ、わたしたちの漠然とした思いが、自分の意識の中ではっきりと形になっていく。

さらに、それをひとに話す。
文章にする。
自分でことばを探し、より的確なことばを選んでいく。
そのことで、思考は鮮明なもの、しっかりしたものになっていく。
同時に、こうやって、わたしたちは「自分のことば」を見つけていくのだ。


では、このような「ことば」とは、いったいどんなものなのだろうか。
つぎはこの「ことば」そのものについて、考えてみたい。




2004-11-04




2.「ことば」は「もの」の名前ではない

「右ってなんですか?」
「左じゃない方です」

「じゃ、左ってなに?」
「右じゃない方です」

こんな質問をして、こう答えられると、何かはぐらかされたような、うさんくさい感じがするかもしれない。
けれども、「上」と「下」、「男」と「女」、ことばが基本的なものになっていけばなっていくほど、その意味は説明しにくくなる。「右と左」と同じく「〜でない方」という言い方でしか、言えなくなってしまう。

それはなぜか。

ことばはほかのことばとの「差異の関係」のうちだけでしか意味を持たないからなのだ。

どこかに「右」という規準になる「もの」があって、私たちはそれを「右」と言っているのではない。
「右−左」という関係のなかで、わたしたちは「右」と「左」を把握しているのだ。

混沌とした世界に切れ目を入れる。
こちら側を、勝手に「右」と呼ぶことにする。
そうでない側を、勝手に「左」と呼ぶことにする。
それが「右」、「左」ということばだ。

そうやって、こちら側にあるものを、「右」というもので括っていく。
「右手」、「右足」、「右耳」、本来ならまったく別々のものを、身体に中心線を引くことによって、同じカテゴリーのなかに入れることができる。
逆に、そもそもは同じひとつの身体だったものに、勝手に線を引くことで、「右手」と「左手」を別のカテゴリーに分類している、ともいえる。

つまり、ことばは線を引くことで、同じものをまとめながら、べつのものを排除しているのだ。

もうちょっと複雑なことばを考えてみよう。

「愛」ということばがある。
「真実の愛」
「過去の愛」
「親の愛」
「心から愛しています」
「あれは愛じゃなかった」

わたしたちはどこかで「愛」という、揺るぎのない、本質的なものがあると思ってしまっている。
けれども、「愛」はことばなのだ。
「愛」ということばがあるからこそ、わたしたちは本来なら、連続して、混沌としている心の中の世界に、切れ目を入れて取り出すことができるのだ。

こういうのが「愛」なのか。
この気持ちは「愛」だ。
胸がドキドキしてるから「愛」なんだな。
なんかちがう。これは「愛」じゃない。
そうやって同じことを何度も繰り返すうちに、いつのまにか「愛」は、常に同一の、確固とした概念であるかのように錯覚してしまう。

ヨーロッパ思想最大の虚偽が存在しているのは、『愛』という言葉による男女の結合においてである。その点では、我々の方が遥かにリアリストである。…… その実質において征服と被征服の関係であり、相互利用の関係であり、または肉体の強力な結びつきにおいて、対象を取りかえないことを道徳的に拘束するこの関係を、神の存在を前提としてのみ成立し得る『愛』によって証明してきたこの百年間に、異教徒の日本人の間に多くの悲劇が生まれた。

(伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫)


英語の"head"と日本語の「頭」が示す範囲がちがうように、言葉がちがえば、切り分けられる範囲も変わってくる。
明治より前の日本人は、「愛」という切り分け方をせずに、「慈悲」(他者にたいする気持ち)や「恋」(男女間の恋愛)という切り分け方をしていた。
そこに、キリスト教と密接な関係をもつ「愛」ということばが、キリスト教抜きで移植された。従来は「恋」という切り分け方をされてきた心の状態に、そのことばをむりやり当てはめることで「無理、空転、虚偽をもたらした」、というのが伊藤の論理だ。

ことばは、ことばどうしの関係の中でしか意味をもたない、恣意的なものだ。
そのことばひとつを、どれだけつきつめても、そのことばの意味は見出せるものでない。

これは、近代言語学の祖、ソシュールの思想の根本的なもの(たぶん)だけれど、丸山圭三郎はそこからさらに大変おもしろいことを考えた。

動物は自分が生存できるよう、周囲の世界を切り取り、意味づけをおこなっている。
本能によって、食べられるものと食べられないもの、自分に危害を及ぼすものとそうでないもの、というように、世界を切り分けている(身分け)。

それに対して人間は、ことばを持ってしまったがゆえに、世界をことばによって切り分け、カテゴライズする。
イヌにとって、自分の右脚と、お隣のポチの右脚が「同じもの」であるはずがない。
けれども、ことばによって世界を切り分けることで、わたしの右手、あなたの右手、キティちゃんの右手を「同じもの」に分類してしまう。
そうやって、ことばによって世界を再構成しているのだ(言分け)。

そもそも人間は「身分け」の世界と「言分け」の世界を二重に生きていた。
ところが徐々に、ことばによって切り分けられ、再構成された世界が、身体的な知覚の世界を浸食しているのだという。

わたしたちはさまざまなことを「知りたい」と思う。
小さな子どもは、「あれはなに?」という質問を繰り返す。
「あれ」と指さすことで、世界を切り取り、ことばで再構成しようとしているのだ。
そのつぎに、「どうして?」と聞き始める。
そうやって、ことばによってその存在に意味を与えていこうとする。

このことは、子どもにはとどまらない。
なにか他者が行動を起こしたとき、まず思うのが「なぜ、そういうことをやったのか」ということである。
地震などの天災が起こったときでさえ、「どうしてこんなことが」と思い、意味をどこかにもとめずにはいられない。

人間における最も根源的な欲求とは、世界に意味をあたえようとする欲求であり、この〈意味への渇き〉こそ、他の動物にはまったく見られぬ自殺や殉教の現象がこれを明示しているとおり、人間にあって、生命保存その他のどんな〈生物学的〉欲求にも優先する。人はいかなる境位にあっても、苦痛には堪えられても無意味な世界に生きることだけには絶対に堪えられない。人間に本質的なこうした〈意味への渇き〉に答えようとするもの――それが文化による無秩序の秩序化、カオスのコスモス化の営為なのである。

(竹内芳郎『意味への渇き』筑摩書房)

人間は、ことばを持つことによって、「意味への渇き」を持つ存在となってしまったのだ。


さて、「イヌ」ということばは、「イヌ」の存在を殺す、といった人がいる。 つぎはその話を。




2004-11-06




3.他者のことばを読む



近所に動物病院があって、ときどきそこで犬を見かける。
大きい犬、小さい犬、毛の長い犬、ふわふわの犬、短い毛がつやつやと黒光りしているような犬、よくもさまざまな種類がいるものだなと感心してしまう。
ただどれほど外見がちがっていても、どれも犬だと思い、ほかの動物とまちがえたりはしない。
つまり、私たちはすでに「犬」ということばの枠組みを持って、その生き物を「見て」いるからだ。
いいかえれば、私たちは世界を見ているのではなく、ことばを見ている。

「犬」ということばは、日本語を知っている人ならだれにでも通じる。
それは「犬」ということばが、具体的な犬という存在、世界に一匹だけしかいない「この犬」から、動き、はね回り、白くて大きな耳だけが茶色で、スリッパをいつも噛み破ってしまって……といった個別的な要素をすべて引きはがすことで成立しているからだ。
わたしが指す「犬」と、あなたが指している「犬」がちがっていては、ことばとして通用しない。
ことばは抽象化、シンボル化することで、成り立っている。
抽象化する、ということは、具体的な「もの」の存在を無化することだ。

ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、どのような概念的把握も殺害に等しいと述べた。それをコジェーヴはこのように説明している。

例えば、「犬」という意味(ないし本質)が感覚的な存在の中に受肉されている限り、この意味(本質)は生きている。すなわち、それは実在する犬であり、走ったり、飲んだり、食べたりする、生きている犬である。だが、「犬」という意味(本質)が「犬」という語の中に移行すると、すなわちその語がその意味によって開示する感覚的な実在とは異なった抽象概念となると、意味(本質)は死んでしまう。つまり、「犬」という語は走らず、飲まず、食べない。語の中で意味(本質)は生きることをやめる、つまりは死んでしまう。

(アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』国文社)

「犬」とことばにした時点で、具体的な犬、目の前の、世界中にたった一匹しかいない犬の存在は消えてしまう。
こう考えていくと、ことばのもつ暴力的な側面に気がつかざるをえない。

ヘーゲルのこの洞察は、コジェーヴを経て、バタイユやブランショ、ラカン、レヴィナスらに受け継がれていく。

ブランショは言う。

言語は、この世においては、何よりもまず、能力である。語る者は、力を備えたものであり、暴力をふるう者である。名付けるとは、名付けられたものを遠ざけて、それをひとつの名前という便宜的なかたちで所有する暴力的な行為である。

(モーリス・ブランショ『来るべき書物』筑摩書房)

自分とは異なる他者を理解しようと思えば、私たちは他者のことばを聞く以外に方法はない。
他者みずからが語る「ことば」。
身ぶり、動作、顔が語る「ことば」。
出身地や仕事、生年月日や血液型など、他者について語られた「ことば」。
私たちは、そうしたさまざまなことばを聞き取り、読み取り、意味を与え、さらに自分のことばを付与していく。

もしそうすることで、その他者を理解し得た、と思うなら、言いかえれば、そうした「ことば」のうちに他者そのものが立ち現れていると思い、他者がこれまで生きてきた歴史も、経験も、思考も、感情も、そのことばを通して自分の内に取り込むことが可能であると思うなら、いまそれができなくても、将来的にそうすることが可能だ、と思うなら、それは他者を自分のことばによって「名付け」、所有しようとする「暴力的な行為」にほかならない。

「ことば」は決して他者を出現させることはない。
私たちが読みとる意味は、決して他者には一致しない。
そうして、さまざまな「ことば」を語り続ける他者は、つねに新たな意味を生成し続ける。
他者は、つねに私たちの理解をすり抜ける。

そのようなことば、暴力性を秘めた、あらたに生みだされ続けることばを、私たちはどのように使い、読み取っていけばよいのか。

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。
丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。
酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。
高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。
きれいということはできない、美ではないりんごだ。
分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。
……
りんごと呼ぶ必要もないりんごだ。りんごでなくてもいいりんご、りんごであってもいいりんご、りんごであろうがなかろうが、ただひとつのりんごはすべてのりんご。
……
いくら食べてもいくら腐っても、次から次に枝に湧き、きらきらと際限なく店頭にあふれるそれ。何のレプリカ、何時のレプリカ?
答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに……

(谷川俊太郎『りんごへの固執』 詩集『定義』より)

ここにあるのは、ことばで「もの」の領域にひたすら近づきたいと願う、詩人の苦闘だ。
どのように切り取っても、どれほど重ねても、「りんご」ということばは決してものとしてのりんごを出現させることはできない。
かならずことばをすりぬけてしまう「りんご」。
それゆえことばはもういちど、「りんご」に近づこうとする。
再度、別の方法で切り取り、意味づけようと、もうひとつことばを重ねる。
無限に繰り返し、迫ろうととし続ける、誠実なことばの使い手の姿がここにある。


では、読み手は、他者のことばをどう読んでいけばよいのだろう。
ブランショはこのように語る。

人々は、詩人の言葉は主人の言語だと思いたがる。つまり、詩人が語るとき、語られるのは或る至上の言葉である。危険に身を投じ未だかつて言われていないことを言い、おのれが聞き取っていないものに名前をつけ、つねにただひたすら語り、かくて自分が何を言っているかも知らぬような、そういう人間の言葉だ、というわけだ。……
だが、芸術や文学の言葉をこんなふうに解釈することは、それを裏切ることである。その言葉のなかに存在する要請を無視することである。……
文学作品のなかに、言語が、そこではまだ、何の力も持たぬ関係であるような場所を、いっさいの主人性や隷属性と無縁な裸形の関係の言語であるような場所を、回復すべく試みなければならぬ。(『来るべき書物』 )

たとえばある種の文学作品を前に、これは「詩だから」「芸術だから」と、読み取ることを放棄したまま、ただありがたがろうとする態度がある。
自分なりに線を引き、切り取り、価値づけよう、自己に結びつけようとするのではなく、「主人の言葉」と崇めることで、ことたれりとする読み方である。

あるいはまた、明確に線を引くことができず、自己に結びつけることができない部分を、むりやり、自分がよく知っている思考や論理に合わせて切り縮め、強引に我がものにしよう、所有しようとする態度がある。
これは逆に作品を隷属させようとする暴力的な行為にほかならない。

他者の語ることばに耳を傾ける。
自分なりに線を引き、切り取り、自分なりに意味を与えることで、自分に結びつけていく。
分からない部分は、分からないまま受け入れ、受け入れることで自分を変えていく。
そうしてみずからのうちに、他者に応えることばを生み出していく。
だが、他者のことばは、私のことばとは決して一致しない。
ずれ、いつもそれてしまう。
それゆえに、もういちど私は線を引き直し、切り取り直し、ことばを語ることで、また新たな意味を与えることになる。

「いっさいの主人性や隷属性と無縁な裸形の関係の言語」はこの無限の繰り返しによってしか、生まれないのではないだろうか。

鑑賞とか批評とかいうものも、作品の背後に客観的な作者の意図が神様の意志のように存在していて、それをあぶり出す行為ではない。作品ばかりでなく私たちを取りまいている世界自身が、見られ、読まれ、聞かれる存在です。つまり絵であれ、文学であれ、哲学の論文であれ、音楽であれ、あるいは文化現実であれ、また文化現実に分節される以前の〈カオス〉であれ、読みとられる行為によって生命をもつというか、新しい生を生きるのではないか。

(丸山圭三郎『ソシュールを読む』岩波書店)

世界に意味を与えるのは、私の「ことば」だ。
世界のなかの私に命を与えているのも、私の「ことば」なのだ。




この少し前の部分で、ブランショはこのように言っている。


名付けるという行為は、存在せぬことが出来る存在にのみ与えられた。…… かくて、言語は、われわれをあの主人と奴隷の弁証法のなかに投げこみ、われわれは、この弁証法に終始つきまとわれるのである。主人は、死の危険をおかして、最後までその道を辿ったがゆえに、言葉を口にする権利をえた。かくて、ただ主人だけが、命令にほかならぬ言葉として、語るのである。奴隷は、つねにただ聞くだけである。聞くことしか出来ぬ人間は、語られる言葉に左右されるわけだから、つねに二次的な存在にすぎない。だが、聞くことというこの従属的で二次的なめぐまれぬ側面が、結局最後には、能力の場であり真の主人性の原理たるおのれの姿を明らかにするのである。


これはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を下敷きにした部分である。
二人の人間が会い、たがいに相手に人間としての承認を求めて、命がけで闘う。
死んでも自分を守ろうとした側が主人になり、死に怯えて闘うのをやめた方が奴隷となって主人に仕える。
ところが主人は相手を奴隷にしてしまったために、対等な相手からの承認を得ることはできない。
一方奴隷は、主人のために働くことを強いられるけれども、労働を通じて、自立して生きるようになる。
主人は奴隷の労働に依存しているので、実は自立した存在ではなくなっている。
ここでふたりの位置は逆転し、主人は奴隷に依存した奴隷となり、奴隷は主人に仕えながら、主人の主人となる。
つまり、ここでいう「主人」とは、存在せぬことが出来る存在、すなわち、死ぬことを怖れなかった人間であり、「名付ける」人間のことである。


2004.11-08