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日付のある歌詞カード 〜"Layla" by Derek & The Dominos


行き場のない思いとそれを見ている自分と


カッコいい曲といってわたしがまず思い浮かべるのは、デレク・アンド・ザ・ドミノスの〈いとしのレイラ〉だ。コマーシャルソングにもなったし、おそらくたいていの人がどこかでこの冒頭部のリフ、♪ラドレファレドレー というギターの音、それに覆いかぶさるように応えるハイトーンの♪ソーファーミードーレー というもう一本のギターの音を耳にしたことがあるはずだ。

これを聴いていると、カッコよさ、というのは、いらない部分をギリギリまでそぎ落としたことで、逆に浮かびあがるシンプルな装飾のエッセンスみたいなものに対する評価なんだなあということがよくわかる。「カッコいい」なんて言葉はあまりに単純すぎて、しかも安易に使われすぎて、何も言っていないに等しいのだけれど、それでも、そうとしか言いようのない場面というのも、確かにあるのだなあ、と。
小学生に聴かせたって、やっぱり「カッコいい」と賛成してくれる。ただこの小学生はイエスの〈ロンリー・ハート〉がお気に入りで、“おう、おう、おんりーはー”(と聞こえるらしい)とサビの部分を一緒になって歌っている子なのだけれど。

〈ロンリー・ハート〉がコマーシャルソングとして時代とメーカーを変えながら、曲の発表と同時にずっと使われているのは、♪ラーシドレレ という、たった一小節(プラスそれに応えるもう一小節)のリフが人の耳をぐいっととらえて、いきなり曲に引きずりこんでいくような力があるからなのだと思う。それと同じように、この〈レイラ》の冒頭も、一度聴いたら絶対に頭に残る。

ただ、リフがカッコいい曲なら、ツェップの“ダーンダーンダダダダダダーン”(これは〈ハートブレイカー〉)だってカッコいいし、クリームの〈サンシャイン・オブ・ユア・ラブ〉のベースとギターのユニゾンのシンコペーションを多用したリフだってカッコいい。けれど〈レイラ〉は、そういうリフを聴いていれば十分、という曲とはちがって、「カッコいい」という言葉だけで片づけられない何かがある。

Layla(いとしのレイラ)

ひとりぼっちの気分になったときはどうするつもりなんだ
だれもそばにはいないんだぜ?
ずっと逃げ隠れしてるけど
そんなのは君のちっぽけなプライドじゃないか

 レイラ、君に跪くよ
 レイラ、お願いだ
 レイラ、惑う思いをなんとか楽にしてほしいんだ

なぐさめてあげようと思ったんだ
きみの男がきみを落ちこませたときにさ
バカみたいにオレは君に惚れちまって
世界はひっくりかえってしまった

 レイラ、君に跪くよ
 レイラ、お願いだ
 レイラ、惑う思いをなんとか楽にしてほしいんだ

一番いい状態を考えよう
オレがどうにかなっちまう前に
どうにもならない、なんて言っちゃダメだ
オレの愛がムダだなんて言わないでくれ

 レイラ、君に跪くよ
 レイラ、お願いだ
 レイラ、惑う思いをなんとか楽にしてほしいんだ


(原詞は
http://www.lyrics007.com/Eric%20Clapton%20Lyrics/Layla%20Lyrics.html


インストゥルメンタルの曲が好きだ。
どういうわけかアルバムにたいがい一曲ほどおさめられているインストゥルメンタルが、一番好きになってしまうことが多いのだ。
ラッシュの《ムーヴィング・ピクチャーズ》だって、〈XYZ〉 が一番好きだし、ドリーム・シアターの《アウェイク》も〈エロトマニア〉が好き。
だったら最初からインスト物を聴けばいいのだけれど、歌があるなかの一曲だからそれが好きになってしまうのかもしれない。

曲のなかのギターソロ、あるいはキーボードのソロというのは、どれだけすばらしくても、なんとなくとってつけたような感じがするのが否めない。
曲に彩りを添えるもの。曲全体に対するアクセサリ。
そんな、本体と装飾、全体と見せ場のような関係ではなく、曲と一体化したようなソロ・パート、そこを抜きに曲そのものがなりたたない、というソロは、あまり多くない。たとえばラッシュの〈ルージング・イット〉のエレクトリック・ヴァイオリンのように、ソロが詞の意味を深めていくような曲は。

ソロと歌が一体となった、というと、やはり思いだすのがこの〈レイラ〉だ。
ボロボロになって、レイラ、レイラ、と相手を呼ぶことしかできないようなボーカルに、悲鳴のようなハイトーンのギターが絡み、それはソロパートに移行してもそのまま続いていく。だから、どこまで歌で、どこからかソロか、判然としがたい。思いかえしても、全体がまとまって甦ってくる。

わたしは弦楽器の経験がまったくないので、もしかしたら見当外れのことを言っているのかもしれないのだけれど、エリック・クラプトンという人は、弦に与える力が、かなり強いのではないか、という感じがする。この人のギターには、懐の深い、独特の豊かな響きがあるのだけれど、それと一緒にちょっとしわがれたような音がして、そんなところから来るのかな、と、アンプラグドヴァージョンのほうを聞いたときに思ったことがある。

この〈レイラ〉でも、もうひとりのギタリスト、デュアン・オールマンのギターと比べると、そのちがいがいっそうはっきりする。
オールマンのスライドギターが研ぎ澄まされた音を響かせながら、悲鳴のように、後ろへ後ろへ残っていくのに対し、クラプトンのギターは、曲を前へ前へと押し出す。まるで、狂おしい思いに急きたてられてでもいるように。

この曲はクラプトンが親友のジョージ・ハリスンの奥さんに恋をして、どうしようもない思いを歌にしたもの、というのは、有名な話だろう。事実、苦しみと悲しみと憑かれたような物狂おしさがまっすぐに胸に入ってくるような歌い方だし、せっぱ詰まった、歌わなくてはどうにもならないような歌であり、曲だ。これは後年のアンプラグド・ヴァージョンと聴き比べるとよくわかる。アンプラグドもアコースティックギターのいい音がして、クラプトンの声も渋くて、それなりにいい歌だ。それなり、なんてもしかしたら言っちゃいけないのかもしれないくらい、いい歌なのかもしれない。

それでも、そこには歌わないとどうしようもない、歌わないと、自分は死んでしまうかもしれない、というこの頃のせっぱ詰まった感じはどこにもない。おそらく、それは恋愛感情がそこにはもう生きていないからだ。そんな気持ちは思い出になってしまったから、歌はただの歌になってしまった。

恋愛感情っていうのは、根本的に、たったひとりの相手を、社会全体から切り離し、社会にくるりと背を向けて、たったひとりの相手と一対一の関係を築いていこうとするものだから、本質的に反社会的な感情でもある。そういうものを社会の側が飼い慣らそうとして、さまざまな制度を設け、一定の年齢だけに許されるようなものにしてしまった。そういう年代や制度を踏み越えて恋愛でもしたことなら、たちまち「いい年をして」と白い目で見られたり、不倫だのなんだのと叩かれたりもする。
人を好きになることなんて、社会的なモノサシでいくと、いいことでもなんでもない。

たぶん、恋愛感情なんていうものは、あまりに歌や小説の題材になりすぎているものだから、しかるべき相手さえ現れれば、だれもが当たり前のように持つ感情のような誤解がはびこっているけれど、おそらくはそうではない。そういうものとは無縁のままでいる人はたくさんいるような気がする。どうしようもなく相手にのめりこんで、ほとんど正気を失っているような人を、「しっかりしろ」なんて平気で言えるのは、おそらくはそういう人だ。あるいは、「いつか思い出に変わるさ」なんて言える人も。それがどういうことかほんとうに知っている人は、そっと目を背けるしかない。

自分以外の誰かほかの人を好きになる、というのは、どうしようもなく大変なことだ。自分がそれまで生きてきた世界をぶちこわして、相手とともに生きることができるように、自分自身を作りかえていかなければならないからだ。
逆に、ここにはいられない、いまの自分ではいられない、というどうしようもない、狂気に近い感情が、自分自身をぶちこわすために、人を恋愛へと駆り立てるのかもしれない。

一定の条件に当てはまらなければ、まわりからは叩かれる。どうかしているのだ、一時の気の病だと言われる。だからクラプトンはどうしようもない感情をそのまま歌にして、ギターを弾いた。ここでは自分の思いを顕示する一方で、思いに耽溺もしている。

ところが思いのたけをぶつけただけで音楽というものが成立するかというと、そうはいかない。
詞にはなるかもしれない。それでも side と pride で韻を踏ませ、さらにカッコいいリフを骨組みとして曲を作り、演奏するためには、思い惑い、狂気の瀬戸際に立ち、社会に背を向けようとする自分を、冷徹に見ている「俯瞰する目」が不可欠なのだ。狂気を狂気として演奏するには、それをコントロールする冷静な意志力がなくてはならない。

おまけに7分あまりの曲は、3分過ぎあたりからピアノが中心となるまったく別の曲相に突然変わってしまうのだ。わたしは昔からなんでこうなるのかずっとよくわからないでいた。いまでもほんとうはよくわからない。たとえばドリーム・シアターのインスト〈エロトマニア〉は、実にさまざまな表情を持つパートを、要素の反復と旋律の繰りかえしを用いて見事に統一させているのだけれど、そんなふうにうまく統一されているとはいいがたいし、なきゃなくていい、とも思ってしまうのだ。事実、アンプラグドバージョンではあっさりこの部分は削除してしまっている。

それでもやはり危うい均衡の上に、この曲は成立しているし、おそらくこの曲が残っていくのは、前半部分だけでなく、このよくわからなさが理由のひとつでもあると思う。ピアノの不思議に軽やかな旋律は、前半の最後の部分、自己耽溺にどっぷりと落ちこんでしまいそうな気持ちを、引き上げてくれるものでもある。ハッピー・エンディングの暗示などではなく、不均衡は不均衡のままで。

やはりこれは70年の曲、ロックがまだ形式として完成を見る前の、何をやっても良かった時代の曲なのだろう。統一とか、完成とか、もうひとつ言えば、商業的な要請とか、そんなことを考えることもなく、ただ、自分たちの必然だけに従って、曲を作り、演奏することができた、そんな時代だったのだろうと思う。

恋愛に溺れ、おそらく薬物にも浸り、そういうなかで、逆にそれを駆動力としながら曲を完成させていく。綱渡りのような、ギリギリの音がここにはある。クラプトンも若かったし、ロックという音楽も若かったんだろうな、と、同時代を生きてはいないわたしは思う。

ただ、この曲が一時代を超える音楽になったのは、この危うい均衡と、やはりもうひとつは、「物狂おしさ」を知っている人が、クラプトンの痛みも苦しみも、自分のものと重ねあわせながら受け容れてきたからだろう。そうして、ひとがだれかを思って、物狂おしい思いに駆られるかぎり、これからも残っていくのだろう。あの、やたらカッコいいリフとともに。

初出 Feb.01 2007 改訂 Feb.22 2007

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