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――消えやすいよろこびを 何で
うたつてゐるひまがあらうか。
アイスクリィムを誰が咀(か)むか。
悲しみは堅いから あまり堅いから
(咀んだり嚥(の)んだり消化(こな)したり)
人はひとつのかなしみから
いくつもの歌を考へ出すのです。
佐藤春夫『詩論』

読むこと、聞くこと、思い返すこと

書く


0.画面のなかの文字


TV番組で、話している人の言葉をそのまま字幕として画面に表示するという演出は、もうめずらしいことではなくなってしまった。バラエティ番組では、誰かが口を開くたびに、大きな字でせりふが先取りされる場合すらある。邪魔だ、意味がない、という批判がありつつも、字幕が定着したのは、最初から最後まで人の話に耳を傾けているより、与えられた文字情報を把握する時間の方が短くてすむからだろう。チャンネルをめまぐるしく変えながら見るような人にとって、一瞬で「何を話しているか」がわかる画面は、ありがたいのだ。どうやらわたしたちは耳を傾ける時間さえも惜しいらしい。

「耳を傾ける時間」といって、なにより思うのが、レコードからCDに変わっての変化だ。CDの登場とともに、音楽を聴くことは劇的に変わったような気がする。レコードの時代は、少々退屈な曲があろうがどうだろうが、基本的にアルバムの最初の曲から始めて、最低限片面を聞き終わるあいだの時間は、ずっと耳を傾けているしかなかった。つまりその時間、聴き手は送り手に拘束されていた。

それがCDになって、曲をスキップしたり、順番を変えて聴きたいように聴くことが可能になった。送り手が考えた構成とは無関係に、聴き手は好きなように聴く。飽きればつぎへ飛ばす。もはや音楽の送り手は、聞き手の時間を拘束することもできなければ、聴き方を拘束することもできなくなった。従来ならシングルカットされた曲をアルバムのなかで聴き直して、ああ、この曲はこういう曲だったのか、送り手はこのように聴いてほしかったのか、と思うことも少なくなかったのだが、いまのように一曲だけ配信で買うこともできるような時代には、送り手の側もそんなことは望めなくなってくるだろう。

人の話を聞くというのは、アルバムの片面を最初から最後まで通して聴くことと似ている。こちらの都合で、途中で端折ったりすることはできないし、相手が言葉を切るまで、こちらは耳を傾ける以外のことはできない。もちろん音楽とはちがって、途中で「え? それどういうこと?」とか「だれのこと? わからない」と話し手に聞くことはできるし、そこをもう一回教えて、と頼むこともできる。けれど、基本的に聞き手の時間は話し手に拘束されている点は一緒だ。

映画にしても、映画館と家でDVDを観ることの何よりも大きなちがいは、映画館では一瞬で映像も、音も流れ去ってしまうということだ。一旦停止も巻き戻しも不可能で、トイレに立ったりしてその場面を見逃してしまえば、話の脈絡も失ってしまう。“わざわざお金を払って劇場に行く”ことで、わたしたちが得るものは、もしかしたらこの緊張感なのかもしれない。

音楽に耳を傾けるのは、一瞬で消えてしまう音を頭の中に繋ぎ止め、つぎの音と結び合わせてメロディを作り上げるということだ。思い返すことをしなければ、わたしたちはメロディさえ聴き取ることはできない。
映画館を出た人は、たったいま観た映画を思い返す。自分の頭のなかで、もう一度映画のストーリーを最初から組み立て直し、あれはどういう意味だったのだろう、と考えながら筋道をつなぎなおしていく。そうしながら、実際に観ていたときは見落としていた細部に思い至ることもある。

同じように、耳を傾けて相手の話が理解できるというのは、わたしたちが聞きながら、相手の話を頭の中で再構成しながら聞いている、ということだ。それ自体は音でしかない言葉を、単語のかたまりに結びつけ、単語と単語をつなぎ合わせて意味のまとまりを作っていく。何の話をしようとしているのだろう、と予測しながら、話が進むごとに自分の推測を修正していく。

これは大切だと思った話や、自分が大切だと思っている人の話は、その人と別れても何度も思い返す。思い返し、その時間を自分の中で再現する。思い出として、自分がその時間をもう一度生き直す。

音は消えていく。映像は移ろっていく。それを繋ぎ止めるのは、わたしたちの「思い返す」という能力である。

こういうふうに考えていくと、字幕を出す側というのは、この人の話は耳を傾ける必要がないのですよ、と言っていることと変わりない。一瞬で文字情報を把握して、つぎへ進んでください、それで十分ですよ、と。思い返す必要なんてないんです。一瞬で忘れてくれていいんです。作り手が粗末にしているような番組を、人に見せていいんだろうか、という気もするが、まあそれは作り手が考えればいいことだ。むしろ問題は、こういうものに対する需要があることのように思う。

わたしたちの「読む」「聞く」「思い返す」というあり方が、少しずつ変わっていっているのではないか。そのことを考えてみたい。


1.あらゆる話は物語でできている


たまに何を言っているかわからない人がいる。
もちろんその人にだって伝えたいことはある。だがそこに、自分の観察や憶測や判断や希望までをも交え、おまけに周囲の人びとがどういったか、自分はその反応をどう受け取ったかまでも盛り込んで、情報のカクテルというか闇鍋というか、言ってみれば何がなんだかわからない状態にして差し出すものだから、聞く方も理解に苦しむ。その人自身、これまでにも「あんたの話はわけがわからん」と何度となく指摘されていて気がついているらしく「ごめんね〜、わたしの話はわかりにくくて」とも言うのだが、本人は自分の話がなぜわかりにくいのか、自分が話をしていても「あれ、何を話してたんだっけ」と論旨を見失ってしまうのかを理解していないものだから、一向に改まる気配はない。

そういう人が理解していないのは、あらゆる話は「何がどうした」もしくは「何がどうなった」という「物語」の基本構造を持っている、ということだ。伝えようとしているのは「わたしが学校に遅刻した」という「物語」かもしれないし、「宇宙船に取り残された宇宙人を見つけた子供が宇宙人を故郷に帰してやった」という「物語」かもしれないし、「ストレスをためやすいわたし」という「物語」かもしれないし、「希塩酸の入った試験管にアルミニウム片を入れたら水素が発生した」という「物語」かもしれない。だが、その内容がどんなものであっても、ある場所で起こったことを、時間的な変化に基づいて語っていることには変わりがない。

ためしにちょっと見てみよう。

物語

始め(t1時)

中(t2時)

終わり(t3時)

桃太郎

桃から生まれた

鬼退治に行った

鬼を征伐した

小学生の理科

希塩酸の入った試験管

アルミ片を入れた

水素が発生した

ここでいう「物語」とは、時間の経過にしたがって、「始め」−「中」−「終わり」の順で語られるものを指す。そうして「終わり」はその出来事の結果であり、「始め」にその原因がある。わたしたちが理解する話は、いずれもこの「物語」の構造を持っている。複雑な話というのは、こうしたシンプルな「物語」が、いくつもよりあつまって「束」をなしているものだと考えればいい。

逆に言うと、わたしたちが「理解した」と呼んでいるのは、与えられた話から「物語」を取り出すことができたときの状態なのである。そうして「何を言っているのかわからない…」と思うときは、「物語」の取り出しに失敗したときなのである。

だが、とっちらかった話をしてしまう人が、いつでもコミュニケーションに失敗しているかというと、かならずしもそうではない。きちんと情報を伝えなければならないような場面で、周囲をイライラさせるような人であっても、日常のおしゃべりでは会話のやりとりに一向に支障を来している様子はない(だからよけいに問題が見えにくくなってしまっている、とも言えるのだが)。

日頃顔を合わせている家族や友だちであれば、その話から聞くべき「物語」を取り出すこつも飲み込んでいるだろうし、年代や性別、生活環境が近ければ、遠い人より通じやすいだろう。その人のことを普段から「何を言っているかわからん」と突き放して見ている人にはわかりにくい話でも、恋人にとってみれば実によくわかる話にちがいない。

ここから言えるのは、その人の話がわかりにくいかわかりやすいか、というのは、その人の話し方や内容によるというよりは、そこから「物語」を取り出す聞き手による、と言うことができる。うまく聞いてくれる人の助けがあれば、とっちらかりやすい話もまとまりがつくし、突き放されてしまえば、自分の話の迷路で迷子になってしまうかもしれない。

聞き手は、相手の話を周囲の状況や個人的な経験などと結びつけて「何がどうした」という物語に構成しなおして理解する。そうして「何がどうした」という再構成がうまくいけば「話がわかった」と思うし、うまく再構成できなければ「わからない」となるのである。聞き手というのは重要な存在なのだ。つまり、聞き手の聞く力は話そのものを大きく規定してしまう。このことを頭に入れておいたうえで、もう少し、単純な「物語」と複雑な「物語」を見ていこう。


2.目で読む「物語」と耳で聞く「物語」


以前にも書いたことがあるのだが(「読むことと見ること」)、星新一のショートショート「おーい、でてこい」を小学生が演じる劇で見たことがある。

穴がある。誰かが掘ったのだろうか。ずいぶん深いが、底に誰かいるのだろうかと、「おーい、でてこーい」と呼んでみる。返事はない。石を投げてみても、底に届いた音がしない。投げる端からものは吸い込まれていく。一種のブラックホールのようなものなのだろうか。そう思った人びとは、いろんなものをその穴に捨て始める。死体だの、廃棄物だの、ありとあらゆる厄介なものを捨てる。ところがやがてある日、上の方から「おーい、でてこーい」という呼び声。つぎに石が降ってきて……。

ショートショートはここで終わっていて、結末の鮮やかさがいかにも星新一らしい話なのだが、なんとその劇ではそのあとに、「このあと、町の人たちが捨てたものが、あとからあとから降ってきたのでした」というナレーションがつけ加えられていたのである。

最初に台本を読んだとき、蛇足に腹が立ってしかたがなかった。こんな説明がついてしまったら、最後のあざやかさも台無しになってしまうではないか。

ところが実際に劇を見て、この説明がなぜついたか、理由がよくわかったのだった。最後の場面で「おーい、出てこい」と声がして、石が落ちてくる。そこで幕が下りたところ、客席は「え? いったいどういうこと??」と疑問でざわざわし始めたのである。そこへくだんのナレーションが入った。そこでやっと、ああ、そういうことだったの、と観客席の保護者たちの納得する声があちこちから聞こえてきたのだった。

おそらく星新一のショートショートを読んで、どういうことかわからないという人は、あまりいないのではないか。だが、その朗読を聞くときはどうだろう。さらに、それを劇やドラマ・映画などで演じられるのを見るときは。

ためしにここで原作の忠実な映画化といわれる《エイジ・オブ・イノセンス》と原作をくらべてみよう。ここで取り上げるのはイーディス・ウォートンの小説で、女主人公エレン・オレンスカが作品に初めて登場する場面。

それはほっそりした若い女性で、メイ・ウエランドよりほんの少し背が低く、褐色の髪をこめかみのあたりでぴったりしたカールにして細いダイヤモンドの紐で押さえている。この髪飾りのおかげで、どことなく「ジョゼフィーン・ルック」という感じをただよわせていたが、その感じは、胸の下でちょっとわざとらしく大きな旧式の留め金をつけた濃い青のベルベットのガウンのスタイルにも表われていた。このめずらしい服を着た女性は、みんなの注目を集めていることにはまったく気づかないように見えたが、一瞬、ボックスの真ん中に立ち止まり、ウエランド夫人は正面右端の隅の自分の席を譲ってくれると言うのを、遠慮しようと少し押し問答をした末、ついに折れてかすかな微笑を浮かべ、もう一方の隅にすわっていたウエランド夫人義姉、ラヴァル・ミンゴット夫人と並んですわった。

(イーディス・ウォートン『エイジ・オブ・イノセンス』
大社淑子訳 新潮文庫)

ここに出てくる「ジョゼフィーン・ルック」と出てくるのは、おそらくナポレオン・ボナパルトの妻ジョゼフィーヌのことだろう。そうしておそらくこの絵
http://www.antique-prints.de/shop/catalog.php?cat=KAT34&lang=FRA&product=P005320
のような髪型をしているのだ、と言っているように思う。

さて、これに対応するシーンは映画「エイジ・オブ・イノセンス」のなかではこのように描かれる。4分11秒あたりを見てほしい。
http://jp.youtube.com/watch?v=IZlI2fUm05U&feature=related

この描写に対応する映像は一瞬なのである。物語の鍵をにぎるエレンだが、小説では非常に魅力的だが、それだけにはとどまらない、独特の注目を集める女性、という印象を与える描写になっている。だが映像では、言葉で書かれたようなことを「読みとる」ことはできない。せいぜい、青い服を着ていることがわかるぐらいではあるまいか。

百聞は一見に如かずという。確かに「ジョゼフィーヌ・スタイル」(日本語にするなら、「ジョゼフィーン・ルック」よりこちらの方が適切だろう)というのは、参考URLを見なければ、いまのわたしたちにはピンとこない髪型である。言葉をどれだけ費やしても、絵で見るほどはっきりとはわからない。

だが、逆にこのジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの肖像画を見ても、その言葉がなければ、おそらく彼女の髪型に意識が向くことはないだろう。言葉は見るべき点を示すが、映像だけでは、ひどくばくぜんとした印象、せいぜいが「全体から受ける感じ」をつかむぐらいである。その映像をつなぎとめる言葉がなければ、わたしたちの内で像を結ばないのである。

絵を見るときも、何の予備知識もなく見るときに比べて、画家やその画家の様式、描かれた当時の情勢や構図の意味などを知らないのと知っているのでは、見方が全然ちがってくる。映画を観ても、はっきり意味がわからなかったのに、あとで解説を見て「ああ、そういうことだったのか」と思うこともあるだろう。つまり、絵を見ることにしても、映画を見るにしても、わたしたちは描かれることを「言語化」し、「物語」として理解しているのだ。

単純な物語なら、映像だけで「物語」を取り出すことも可能だ。だが、小説で読むような複雑な「物語」、あるいは人の心の動きなどは、映像だけでは十分に引き出せないからせりふという言葉の助けを借りる。だが、それだけではない。わたしたちはすでに知っているいくつかの「物語」のパターンの助けを借りながら映像を観るのである。恋愛映画なら、ふたりは恋愛し、その恋愛がうまくいくか別れるかするのだろう、と予想しながら観ていくし、サスペンスなら、主人公は犯人を追いつめるか、逆に犯人に追いつめられるかして、最後に犯人を捕らえることになるだろう……というふうに。

もちろん、映画の中にはわたしたちの予想を逆手に取って、最後でひっくり返してみせる映画もある(たとえば《ユージュアル・サスペクツ》のように)。パターンが特定されて、先のことごとくが予想がついてしまい、それなりに楽しめても、なんとなくばかばかしいような、つまらないような気がすることもある(ハリウッドの娯楽大作のように)。最後に犯人を捕らえることになるだろうと思っていたのに、逆に主人公が殺されてしまったりすると、裏切られたような、何か傷つけられたような気持ちになってしまう。『シックス・センス』のように最後の最後で頭の中に思い描いていた物語の前提をひっくり返されてしまうような映画には、深い衝撃を受けてしまい、もう一度頭の中で映像を「組立てなおす」ことになる。

わたしたちは、小説を読むときも、人の話を聞くときも、絵を見るときも、音楽を聴くときも、映画やドラマを見ているときも、自分の頭にあるいくつかのパターンをもとに、「これから〈これ〉はどうなっていくか」を予測しつつ、いま自分が聞いたり見たりしたものを参照しながら、予測を修正していく。そうして最後までいって振り返り、「何がどうした」という形で理解する。

小説は映像にくらべてはるかに複雑だ。映画化・ドラマ化された作品は、原作をずいぶん単純化している。それは時間的な制約もあるが、それだけではない。根本的に「言葉を読む」ことと、「映像を読む」ことのちがいがあるのだ。

もう少し、この「言葉を読む」ということについて考えてみよう。


3.言葉の「もの」化

先日のこと。
Aさんに会ったら、Bさんがわたしのことを探していたという。Aさんがさっそく「Bさんに連絡してあげる」といって携帯を取り出すので、わたしはてっきりAさんが電話をかけてくれるのだろうと思っていた(わたしはBさんの番号を知らなかった)。

ところがAさんはメールを打ち始めた。短いメールだったので、すぐに打ち終わり、送信も完了したのだが、わたしの方はメールなんかで連絡したら「いつになるかわからないのではないか」と思ったのだ(実際、わたしはパソコンのメールさえ、一日に数回しかチェックしない)。ところがすぐに折り返しメールの着信音が鳴り、Bさんからそちらへいく旨の返信が届いた、と思ったら、まもなくBさん本人が姿を現した。実際に電話をかけたのとどれほども変わらない。緊急の用件であればてっきり電話をかけるものだとばかり思っていたわたしは、自分がずいぶんずれているような気がしたのだった。

Bさんと打ち合わせを終えてから、なぜ電話ではなくメールを使うのか、Bさんに聞いてみた。すると、メールの方がお金がかからないからなのだそうだ。なるほど。だが、おもしろいと思ったのはそれに続く言葉だった。
「それにメールだと、あとで件名を見ただけで、あのとき何をしたかが思い出せるでしょ」

確かにメールの件名が引き金になって、誰と何を話したか、かなりのところまで思い出すことができるというのはよくわかる話だ。携帯メールを頻繁に使う人にとって、メールは一種の備忘録であり、同時に日常の記録ともなっているのだろう。

そういえば昔、家計簿をつけていた母が、「家計簿はお母さんの日記。これを見たらその日、何を食べたか、何をしたかわかるから」と言っていたのを思い出す。改まって日記という体裁をとらなくても、レシートやカードの請求記録、図書館の貸出票など、さまざまなものが、日々の記録となって残っていく。いまに残る大昔の土地の権利書や地租の台帳は、当時の生活を知る重要な手がかりである。

このように、文字に残すというのは、空間に出来事をつなぎ留めておく方法なのである。書きつけておく媒体はさまざまに変わっても、なんであれわたしたちが「書き残す」ことの目的は、これにつきると言ってもいい。

だが、文字を持たない言語は地球上に数多く存在する。逆に、音声を持たない言葉は存在しない。こう考えると、言葉とはまず「音声」なのである。文字を使うわたしたちにとって「書き残しておくこと」は、ごく身近なこと、当たり前のことなのだが、本来は話されるものである言葉を文字に記す、つまりは視覚的な空間のなかに相手の話を再構成するということは、もしかしたらひどく変なことなのかもしれない。

W-J.オングの『声の文化と文字の文化』のなかでは、まだ文字というものが登場しなかった時代のホメロスの言葉と、文字が登場して以降のプラトンの言葉のちがいをこのように指摘する。文字がなく、詩は人びとに語って聞かせるしかなかった時代のホメロスの言葉には「陳腐な常套句」が多用されていた。

ホメロスの時代のギリシア人がなぜ陳腐な常套句を評価したのかといえば、たんに詩人だけではなく、声の文化に属する人々の認識世界ないし思考の世界全体が、そうした決まり文句的な思考の組立に頼っていたからである。ことばがもっぱら声であるような文化においては、いったん獲得した知識は、忘れないように絶えず反復していなければならない。知恵をはたらかすためにも、そしてまた効果的にものごとを処理するためにも、固定し、型にしたがった思考パターンがどうしても欠かせなかった。

しかしプラトン(427?-347? B.C.)の時代までには、ある変化がすでに起こっていた。…ギリシアのアルファベットがおよそ紀元前七二〇年から七〇〇年ころに作られてから、ここにいたるまで数世紀がたっていた(…)。記憶をたすける決まり文句のなかにではなく、書かれたテクストのなかに、知識をたくわえる新しい道が開かれたのである。このようにして、精神は解き放たれて自由になり、より独創的で抽象的な思考をめざすことが可能になった。…プラトンがその理想国家から詩人を排除したのは、(たとえプラトン自身ははっきりとそれを意識していなかったとしても)本質的には、かれが、自分は、書かれた文字によってかたちづくられた新しい認識の世界に属していると思っていたからである。この新しい世界のなかでは、伝統的な詩人のだれもが愛用していたきまり文句や陳腐な常套句など、もはや、ものを作り出すことの邪魔になる、時代おくれの遺物だったのだ。

(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
桜井直文 他訳 藤原書店 1991)

書かれた文字のなかに、思考を保存することができる。そのことによって初めて、思考を積み重ねることも、それをもとにしての推測や、そこからの飛躍が可能になる。文字を使うことで初めて複雑で自由な思考が可能になったのだ。

決まり決まった「昔話」は、やがてより複雑な筋を持つ小説へと変わっていった。伏線をはりめぐらした推理小説も、はっきりした筋がないようにさえ思えるポストモダン小説も、「書く」ことで初めて可能になっていったのだ。

だが、このことはすばらしいことばかりではなかったはずだ。文字を持たない人びとにとってのコミュニケーションは、その話を保存する方法は、聞く側が記憶しておくしかないのだから、おそらくは文字を使うわたしたちとはくらべものにならないほど、話し合いは真剣なものであったにちがいない。聞き手は相手の言うことに耳を傾け、重要な箇所は自分も繰り返して口にしながら、自分の頭に刻みこんだはずだ。そう考えると、記憶の力を含め、現代のわたしたちより「聞く力」は高かったと言えるのではあるまいか。

現代のわたしたちは文字を媒介としたコミュニケーションにすっかり馴染んでしまった。本や新聞・雑誌、手紙やメール、手段はさまざまでも、共通するのは、声による話を「もの」化して送り手から切り離し、受け手に送り届けられるという点だ。基本的に受け手は送り手の都合に合わせることなく、自分の都合のいい時間にそれを読むことができ、途中で止めることもでき、読み返したり、最後だけ読んだりすることも可能である。それでもそれを理解しようと思えば、つまり「そこに何が書いてあったか」を自分のなかで再構成しようと思えば、途中とばし読みにするにせよ、とにかく最初から最後まで読まざるを得ない。文字の助けを借りることができない情況ほど不自由ではないが、やはり自分の時間を書き手に譲り渡さないわけにはいかない。

だが、読み手はたとえ黙読していようが、どこかに書き手の声を聞いているはずだ。たとえ書き手が名前を持たないものであろうと、新聞記事には新聞記事の「声」があるし、広告には広告の「声」がある。まして書き手を知っていれば、受け取る「声」はそれぞれにちがうはずだ。たとえ受け取るのは液晶画面に浮かび上がる文字であっても、そこから受ける印象は、送り手によってまるでちがう。わたしたち自身が「もの」を声に戻して「聞いて」いるからなのだ。

それでも、話された言葉が音声を持つということは、同時に声の調子や抑揚を持つということでもある。内容以上にその人の気持ちを自然に伝えるそうした要素を抜きに、書かれた言葉は送り届けられる。会って、言葉もないままに気持ちをやりとりすることはできても、文字を使ってそういうことはできない。つまり、文字は話し言葉より情報志向的であるといえる。

ツールの進歩のなかで、わたしたちのやりとりは「何がどうした」「何がどうなった」という時間性・因果性をその内部に含んでいる「物語」ではなく、「Aとは○○である」「Bとは××のことだ」という、時間性・因果性を抜いた、単なる情報のウェイトが徐々に大きくなってきている。「物語」にしても、自分が取り出すのではなく、要約や結論だけ、というように、それだけを提示されたものを求めるようになっていきつつある。

こうしているうちに、人の話に耳を傾け、そこから自分で「物語」を引き出す能力が、徐々に落ちてきてしまっているのではないかと思うのだ。

こう考えると、バラエティ番組に出てくる字幕の性質もはっきりとしてくる。あれはわたしたちが書かれているものを読むのとは反対に、現在話をしているその人と深く結びついている話をその人から引きはがし、短い文字にまとめることによって「もの」化し、一目でわかる情報として送り届けようとしているのである。

だが、わたしたちは日常でもこういうことを現にしているのではあるまいか。話している人の話を遮って、「要点は何?」と聞くことによって。ある程度の長さのあるものを読むうちにじれてきて、結論だけを知ろうとするとき。映画を観る代わりに、あらすじだけ読んで、観たような気になったり。

 話すためには、もう一人の人間あるいは人びとを相手に話さなければならない。…
なぜなら、どんな現実あるいはどんな空想(された情況)を相手に話していると思うかによって、つまり、どんな反応が返ってくると思うかによって、わたしの言うことは違ってくるからである。だからわたしは、おとなと小さな子どもに対して、まったくおなじメッセージを送るようなことはしない。話すには、話そうとしている相手の精神と、話しはじめるまえに、すでにある意味でコミュニケーションができていなければならない。そうしたコミュニケーションができるのは、〔相手との〕過去の関係をとおしてかもしれないし、また、視線を交わすことによってかもしれない。…あるいは、その他無数にあるやりかたのどれかによってかもしれない(〔そうしたことが可能なのは〕ことばは、ことば以外のものによってもつくられている一つの〔全体〕状況の一様相だからである)。

つまり、わたしの発言がかかわりうる他人の精神を、わたしは〔話すまえに〕なんらかのかたちで感じとっていなければならない。人間的なコミュニケーションは、けっして一方向的なものではない。それは応答を要求するだけでなく、あらかじめ予想された応答によって、まさにその形式と内容においてかたちづくられているのである。…

わたしがメッセージをもって他人の精神のうちに入るには、あらかじめその他人の精神のうちになんらかのかたちで入っていなければならない。そしてその他人もまた、わたしの精神のうちに入っていなければならないのである。なにをことばで表現するにせよ、わたしは一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」もっていなければならない。

(『声の文化と文字の文化』)

話をすることがすでに他人を想定し、他人の精神のうちに入っていくという行為であるとするなら、わたしたちの聞く能力の低下は、他人の精神のうちに入っていく能力、他人を想定する能力の低下とは言えないだろうか。そうして、そのことは結局のところ、話を貧弱なものにする、ひいては自分を貧しいものにしていく、ということにしかなっていかないのではあるまいか。

バラエティ番組に出てくる字幕スーパーは、一瞬で情報を伝えてくれるありがたいサインなのだろう。つまり、この番組は耳を傾ける必要はないのだというサインである。だからそのサインが出てきたらわたしたちがやるべきこと。リモコンを持ってチャンネルを変えるということだ。もちろんスイッチを切ってもかまわない。



初出Sep.26-Oct.02 2008 改訂Oct.07 2008

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