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ここでは Mary Gordon の短篇 "The Magician's Wife" の翻訳をやっています。
メアリー・ゴードンは、1949年生まれのアメリカの作家です。
1971年にコロンビア大学バーナード・カレッジを卒業後、大学院で創作を学び、70年代半ばから、雑誌に短編を発表するようになりました。以来、"バーナード・カレッジで創作を教えるかたわら、六つの長編(うち"The Other Side" は『海の向こう側』というタイトルで邦訳されています)と三つの短編集("Temporary Shelter"は『わたしはいま結婚している』というタイトルで邦訳があります。"The Magician's Wife" も収録されているようです。※未見)、エッセイ集と回顧録をいくつかを発表しています。作品数は多くはないのですが、現代アメリカを代表する作家のひとりです。
原文はhttp://www.shortstory.by.ru/gordon/magician/index.shtmlで読むことができます。



手品師の妻


by メアリー・ゴードン

アンクル・サム





 ミセス・ヘイスティングスの場合、友だちの多くがそう考えているように、自分のことを何をおいても子供たちの母親であるとは考えていなかった。というのも、ミスター・ヘイスティングスの妻であることに、かぎりない誇りを抱いていたからである。

ふたりが老境にさしかかったころ、世間では夫が“建築家フレデリック・ヘイスティングスの父”として知られるようになったが、夫人はそのことにはむしろ腹立たしさしか感じなかった。息子ときたら、男ぶりの面でも、意外性という意味でも、父親の足下にも及ばないのだから。

確かにフレデリックはビルをいくつも建てたし、あちこちの市役所の前では市長と、州庁舎の前では州知事と一緒に写真を撮った。夫人はフレドリックを誇りに思うべきだったろうし、実際のところ、自慢の息子にはちがいなかった。両親に対しても、非の打ちどころのない子なのだから。息子がいなければ、とうてい現在の暮らし向きを維持することはできなかっただろう。だが、ミセス・ヘイスティングスの息子に対する評価は、自分の料理の腕前や、実際に用意した食事に対する評価と同じようなものだった。もっとも料理の腕前は、というと、結婚してからこちら、さほどの成長は遂げなかったのではあるが。

 夫には、定期的な給与のほかに、手品師としての収入があった。給料だけで満足な暮らしが営めなかったというわけではない。それでも、夫が手品で得る収入がなければ、日々の暮らしはもっとつましいものになっていただろう。

そもそもどうして手品など、始めることになったのか。ミセス・ヘイスティングスと姑は、よくこのことについて議論した。姑は、昔からあんな子だったのよ、と言うのだった。子供の時分から納屋で手品ショーをやってみせてたんだから。

けれどもミセス・ヘイスティングスは、きっかけがそんなものではなかったことを、よく知っていた。新婚旅行がそもそもの発端だったのだ。

ふたりはシカゴでボードビルショーを観たのだが、そこに“驚異のミスター・カズミロ”という手品師が登場し、鳥を出してみせた。その晩、ホテルへ戻る途中、ミセス・ヘイスティングスは夫が何ごとか考えこんでいるのに気がついた。考えに没頭しているときの夫の目は、どんよりと曇って石ころのような色になる。新妻には夫が頭の中で考えごとを転がしているのがわかった。ちょうど虫歯が痛むときに、口の中で飴玉をあちこち転がすように。

朝になって夫が(パジャマを着ている彼があまりに魅力的だったので、ミセス・ヘイスティングスは軽い衝撃を受けた)「メイ、買い物に行こう」と誘った。ふたりは劇場の裏手の奇妙なものばかり売っている店が並ぶ通りを歩いた。平べったい小さなブリキ缶に入ったドーランや、道化師やプリマ・ドンナがかぶるカツラ、コメディアンの小道具。ミスター・ヘイスティングスが最初の手品の道具を買ったのは、そのうちの一軒だった。

ボールで何やらするものと、輪とニセモノの底がついている木の杯だったのを、夫人はよく覚えている。それまで手品の道具を間近に見たことがなかった――ただの一度も、一瞥したことすらなかった。手品の道具は驚くほど高かった―― 十ドルもした ――が、夫には何も言わなかった。なにしろ新婚旅行なのだから。

だが、支払いに口出しすることはなくても、どうしてそんなに高いの、とは聞いてみた。すると夫は、細工には腕が必要だからだよ、手品道具は職人の仕事なんだ、と教えてくれた。ともあれ夫はそうやってスタートを切ったのだと、彼女ははっきりと記憶している。新婚旅行の四日目だった。姑が何を言おうと、夫の手品は結婚前の生活とはなんの関係もない。


 ミスター・ヘイスティングスは、一度ルーズベルト家の前で手品を披露したことがある。それは1935年のこと。ルーズベルト大統領の孫のひとりがはしかに罹り、その回復期の出来事だった。

おぼっちゃまはたいそう退屈しておられるのですが、お気を紛らわせるようなものがございません、と召使いのひとりが伝えにきた。その召使いは、ラインバック郡品評会の余興に登場したミスター・ヘイスティングスを見ていたのだ。

その晩の悪天候のことは、ミセス・ヘイスティングスもよく覚えている。雷が鳴り響き稲妻が光って、電灯がついたり消えたりしていた。電話が鳴り、女性の声で、もしさしつかえなければ、ハイドパークにお越しいただいて、病気の子供のためにちょっとした手品を見せていただけないでしょうか、と告げたときは、何かの冗談にちがいないとみんな思ったものだった。夫も子供もしばらく本気にはしてくれなかった。そりゃね、うちのひとなら大統領の前で余興をしたってちっとも不思議じゃないわ。車が、それも制服姿のお抱え運転手つきの大きな黒い車があのひとを迎えに来たって、全然おかしくない。

ミセス・ヘイスティングスにとって、運転手と話している夫の姿は、決して忘れられるものではなかったろう。あのひとったら、まるで召使いにあれこれ指図しながら大きくなったみたいじゃないの、と思ったのだ。交わした言葉も、すべて覚えていた。夫は制服を着た運転手に目をやるでもなく、自分の足下に目を落とすわけでもなく、まっすぐ前を見ながら、こう言ったのだ。
「家内を連れて行ってもかまいませんか」

すると運転手は答えた。「どうぞご随意になさってください」
そう言って、ドアを開けてくれたのだ。夫のものおじしないところがよく現れていた。妻がフランクリン・ルーズベルトとエリノアとに会うことができるよう、はからってくれたのである。エリノアの外見は、写真通り、あまりあか抜けなかったし、声はこちらがきまり悪くなるほどのガラガラ声だった。だが、ファースト・レディのふるまいは、のちにミセス・ヘイスティングスがみんなに告げたとおりだった。
「わたしたちにとってもよくしてくださったの。正真正銘のレディだったわ」


 ミセス・ヘイスティングスの人生における輝かしいひとときには、かならず夫の手品が花を添えていた。ルーズベルト家での出来事だけでなく――もしミスター・ヘイスティングスと結婚していなければ、自分の一生に、ルーズベルト一族に会うなんてことが起こっただろうか?――だれしもが経験する、ありふれた毎日のなかで起こるような、はなやかなひとときのことである。自分の誕生日や結婚記念日、子供たちのひとりひとりの大切な日を、かならず手品は盛り上げてくれた。

昔、フレデリックがふくれっつらで、こう言ったことがある。
「ぼくのパーティなんだよ。なのにみんな、お父さんばっかり見てるじゃないか」
そこで彼女は言ったのだった。
あなた、とっても運がいいんだから、感謝しなくちゃ。ほかの子のお父さんなんて、お皿を洗った後の水みたいにつまらないじゃない。手品ができるお父さんと取り替えてくれるなんて言われたら、自分の宝物とだって交換したがるわよ。

するとフレデリックは――この子はこの目をどこで拾ってきたのだろう。濁った茶色の、おりこうさんの目だ。わたしのとも、お父さんのともちがう――こう言った。
「だってそれがどういうことなのか、ほんとのことは知らないんだから」

 フレデリックは父親のようなハンサムとはほど遠かった。とりわけ手品を演じているときの父親のような。ミセス・ヘイスティングスは、髪を後ろへなでつけ、ひげを整えて正装した夫の姿を、いつでも思い出せた。彼には気品があった。ちょうど映画俳優のウィリアム・パウエルのように。町に住む女がみんな、夫のことで自分を妬んでいることを知っていた。整った外見と洗練された物腰、人をわくわくさせるような人物と結婚していたるのだから。

一度、ミセス・デイリー、牛乳屋に嫁いだデイリー夫人が言ったことがある。
「大変でしょうね、旦那さん、暇さえあれば地下室で手品の練習をしてるんでしょ?」

一番下の子供が生まれてからこちら、デイリー夫妻がずっと寝室を別にしているのは、有名な話だった。ミセス・ヘイスティングスは、いつかの晩、夫がベッドの中で見せてくれた手品のことを教えてやろうかと思った。あのひと、わたしのナイトガウンの胸元から、真珠をひとつぶ取り出して、自分の口に入れたかと思うと、花を取り出したのよ、と。

だが、ミセス・デイリーが聞きたがっていたのは、ほかならぬそうした内輪の話だったし、ミセス・ヘイスティングスは金輪際、そんな餌は与えてやるつもりがなかった。そこで、ミセス・デイリーに向かって、もったいぶった声で――この声を聞くと夫は「かしこまりました、伯爵夫人」という――「うちのひとは、練習している手品はひとつ残らず見せてくれるのよ」と言った。

ただしこれは、半分しか本当ではなかった。完全に習得するまで、夫は決して人に見せようとはしなかったのだから。だが、たとえ半分の真実でも、ミセス・デイリーのように窓辺に置いたシングルベッドでひとり寝をかこっている人間に対しては、顔色なからしめるには十分だったのである。

 どうして寂しいなどということがあろう。台所にいるときでも、地下室で箱やトランプ、リボンなどを相手に、手品の練習を繰りかえしていることを知っているのだから。ミセス・ヘイスティングスには手に取るようにわかっていた。愛する男が、たったひとり、自分には見えない場所で、何度も何度も練習をしている。自分があっと驚くだけではない。自分たちのことを知っている人間が誰もみな、肝をつぶすような手品だ。キッチンで一緒に食卓に着いて、お金のことや食べるもののこと、誰がいつ何を着ていたなどという会話を交わす方がいいなどということがあるだろうか。

ミセス・ヘイスティングスはもうずっと、夫がたいして好きでもない修理工の仕事を続けてくれているのは、人柄が立派で、思いやりのある性格だからこそだ、と考えていた。夫は、もう仕事なんかやめてしまって、手品一本でいこうか、と、ごくたまに言うこともあった。そのたびに彼女の胸の内で不安の小さな火がともる。あたかも誰かが肋骨の奥でマッチをすったかのように。けれども口に出す言葉は決まっていた。
「あなたはなんでもやりたいことをしてちょうだい。わたしはついていくから」
そうは言っても、彼女が本当に願っていたのは、昼間はよその夫と同じように仕事に出かけ、夜の自分の時間に手品をやって過ごすことだったのだが。

彼は意気揚々と階段を上がってきて、毎晩、妻を求めた。なにしろきみは世界で一番、とびきりすてきな奥さんだから、と言うのだ。彼女もまた夫を求めた。自分の幸運が信じられなくて。夫にくらべたら、自分なんてどこにでもいる、とるに足らない人間だと知っていたから。


 歳月は流れ、ヘイスティングス夫妻もほかの人びとと同様、歳を重ねたが、彼女だけはほかの人とはいくぶん異なっていた。彼女の日々には、誕生や加齢、子供たちに関連する式の数々だけでなく、夫の技術の向上もまた織り込まれていたのだ。たとえば1946年というと、ミスター・ヘイスティングが卵とロープを手放し、スカーフとコインに取り組むようになった年だった。

仕事からの引退も、夫からすればいささかも怖れるものではなかった。ほかの男たちのようにぶらぶらしたり、一時間でできる雑用に一週間かけるような真似をすることもない。ミセス・ヘイスティングスもほかの女のように「そばでうろうろしないで、って言ってもムリなの。自分が何をすればいいんだか、わかっちゃいないのよ」と方々で愚痴をこぼすこともなかった。子供たちの母親であることを決して愛さなかった彼女は、そのぶん、引退した夫の妻であることを愛したのだった。

夫が地下室を端から端まで大股で歩いていく足音を聞くのが好きだった。夫がじっと立ち止まっている「音」に耳を傾けるひとときさえ愛していた。夫が集中しているのが、地下室の天井を通して聞こえてくるように、眼に見える熱の波として床板を立ち上ってくるように思えたのである。

彼女は決して、どういうことがあっても決して、夫の邪魔をすることはなかった。だが、練習が終わる瞬間は、かならずわかるのだ。やがて階段を上がってくる足音が聞こえ、声が聞こえる。
「ビールはあるかな?」
そうして彼女もそれに応える。「ちゃんと用意してあるわよ」
そのときが、彼女の人生のなかで、もっとも幸福な時期だった。夫が早くに退職した、その後の数年間が。


 やがて夫の視力が衰え始めた。最初のうちは、霧がかかったような瞳は、かえって美しく見えたほどだった。なんだかまるで、と彼女はひとりごとを言った。まるで夜が明けたばかりの湖みたい。目が休まるからという医者のすすめで、夫は分厚い、ピンクがかったレンズのメガネをかけるようになった。ほかの男がかけたら、ばかみたいに見えるようなメガネも、あかぬけて姿勢の良い夫にはよく似合った。その歳になっても、夫の外見は、ほかの女たちがミセス・ヘイスティングスをうらやましがるほどで、夕刻、一緒に散歩していると、女たちが自分を見るそのまなざしから、自分が妬まれていることをありありと感じるのだった。

 ミセス・ヘイスティングスは、夫がものを奇妙な具合に、たとえば新聞をずいぶんおかしな角度で持っていることに気がつくようになった。最近では地下室でかんしゃくを起こして鼻を鳴らし、職場でならこれまでにも口にしたことはあったかもしれないが、家の中では聞いたこともなかった言葉で毒づくのを、たびたび耳にするようになった。

なにより悪いのは、ものを落とす音が何度となく聞こえてくることだった。夫がほうきやちりとりを探しに来ても、ミセス・ヘイスティングスはいつも縫い物にかがみこんだり、本を読んでいるふりをした。

 医者は、進行をくい止めることはできません、と言った。事実、時とともに夫のできないことはふえていった。だが驚いたのは、夫が決して腹を立てたりしないことだった。わたしだったら、絶対に腹が立ってしょうがないのに。夫は自分にできることがひとつずつ失われていくことを受け入れるのだった。ちょうど食事が終わるのを受け入れるように。

ついにある晩、ミスター・ヘイスティングスは妻に言った。
「いまはきみがぼくのたったひとりのお客さんだ。コウモリみたいに何も見えなくなっちまったからね。失明同然の手品師なんて、世間じゃ誰も相手にしてくれやしないのさ」

 わたしは、あのひとがわたしだけを相手に、リビングで手品をやってみせてくれた方がうれしいのだろうか。それとも観客席にすわって、思いもかけないところから、いろんなものを取り出すのを目を丸くしている大勢の観客の顔を眺める方が好きなのだろうか。

たいていは、びっくり仰天している顔や、うらやましげな顔を眺める方が好きだ、と思うのだった。そちらを好ましく思うのは、もともと自分がそういう人間だからなのだろう。彼女は夫のように、根っから良い人間ではなかった。ミスター・ヘイスティングスという人は、妻が五百回見ても決して見飽きることのない手品をやったあとで、妻の手を取り、「いまのは君だけのためにやったんだよ」というひとだった。ほとんど何も見えなくなったいまの自分の目を、妻への贈り物に、自分が吹いて磨いた完全なガラス細工に変えてみせるひとだった。

 * * *

 七月四日にそんなことをするだなんて、何もかもフレデリックが悪いんだわ、とミセス・ヘイスティングスは思った。そもそも言い出したのは孫たちであることも十分に理解していたのだが。

夫はときどき孫たちを連れて地下室に降り、手品道具を見せてやっていた。そんな折りには、初心者同然だったころの、いまとなっては目を閉じたままでできるような手品を披露してやることもあったのだ。孫が手品にも、夫その人にも夢中になるだろうことは、ミセス・ヘイスティングスにとって想像に難くないことだった。なにしろ優しくて、秘密の技をあとからあとから繰り出す完全無欠のお祖父ちゃんである。孫たちが見せびらかしたくなるのも当たり前だ。こんなお祖父さんはどこを探してもいないのだから。

理解できないのは、フレデリックが子供たちのばかげた思いつきに同意したことである。どんなときでも分別臭いのが、フレデリック最大の長所ではなかったのか。いったいどうして自分に一言の相談もなく、父親にあんなことをさせようとするのだろう。

 孫が結束してお祖父ちゃんを見せびらかそうとした。ぼくのおじいちゃんは手品師なんだよ、と友だちに教えてやるために、七月四日の独立記念日、町の見本市でマジック・ショーをやってよ、とせがんだのである。あげくのはてにフレデリックまでそれに加わったのだ。

 最初はミセス・ヘイスティングスも、それを話す夫の顔を見ながら、それもいいだろう、と思っていた。というのも、どうして夫がそんな顔をするのかわかっていたからである。夫の目の前にひろがるのは、身内ではない人びとがあっと驚く顔だった。いまや自分からは失われ、何も埋め合わせることができないもの。妻でさえ、差し出すことはできないものだった。リビングにすわってたったひとりの観客となり、誇らしさで胸を一杯にしていようと、どれほど愛していようと、自分はもう何度も見て、すべてを知っていた。

 だからミセス・ヘイスティングスも、夫に向かっては、すばらしいことだわ、とか、わたしも鼻が高いわ、とか、孫たちにはきっと一生忘れられない思い出になりますよ、などと言わないわけにはいかなかった。

だがそのころは、あのひとも昔からの手慣れた品目を上演するにちがいない、と考えていたのだ。それなら大丈夫だと。観客も夫の外見や、フレデリックの父親であることをかんがみて、おそらくは夫を愛してくれるだろう。

ミセス・ヘイスティングスは夫のスーツに自分でアイロンをかけた。何週間も前から。練習のつもりで何度となくかけた。それから手持ちの服の中から、夫を讃えるのにもっともふさわしい一枚を探した。結局、一番飾り気のないドレス、黒いコットンの半袖のドレスを選んだ。いかにも年寄り向けのデザインではあったが、一切の装飾を斥け、自分が高い地位にあることをわきまえた、歳を重ねた女性にふさわしいドレスだった。長い髪は銀色のリボンで束ねることにした。

 だが、数週間ほどが過ぎたころから、ミセス・ヘイスティングスは徐々に落ち着きを失っていった。水がじわじわと漏れていくように胸の内の暖かみが失せていき、ちょうど洞穴に入ったときのような、冷え冷えとした空気がそこを満たしていった。夫がやろうとしていたのは、前々からやってきたような、目をつぶってもできるような手品ではない。もっと新しい、複雑なものをやろうとしている。夫が出してくれという小物から、そのことがわかった。ひもではなくリボンを、木綿のハンカチーフではなくてスカーフを。

いままでのように、本番前に妻の前で演じたときも、ミスター・ヘイスティングスの手つきはぎこちなく、いろんなものを落とした。見えないせいで、手順通りにいかないのだ。だけどあのひと、ときどき、失敗したことさえ気がついてない……。トランプの札はしばしばちがうものだったし、スカーフの色もまちがっていた。そうした夫の滑稽で、いかにも老人らしい姿を見ていると、ミセス・ヘイスティングスの体中の生気という生気が喉のあたりに集まってきて、平たいかたまりになるような気がするのだった。

だが、夫には言わなかった。どうしてもそんなことはできなかった。あのひとには言えない。あなたの人生の最高の時は終わってしまったのよ。あなたはひとりの老人なのよ、などとは。

もっと簡単なものをやってはどうかしら、と言うことさえできなかった。そんなことはできない。そんなことはこれまで、一度も言ったことはなかったから。夫が何をしようとしているのかも、彼女にはわかっていたから。夫は滑稽に見える危険を押してまで、観客からありったけの驚きと、いまだかつてないほどの愛を得ようとしているのだ。

 その前夜、ミセス・ヘイスティングスは眠ることができなかった。夫のいとおしい、白い身体を見つめていた。白くなった胸毛の生えた胸は、結婚当時の若者のまま、広く、たくましかった。翌日、ミセス・ヘイスティングスは熱湯を指にかけてしまい、包帯を巻いて見に行かなければならなくなった。フレデリックはそれを見て、いらだたしげに言った。
「お母さんもわざわざ今日、そんなことしなくてもいいのに」

 その日のフレデリックのいでたちは、まったくバカげたものだった。赤、白、青の縦縞のズボンをはき、カンカン帽の下から、薄くなりかけた髪とまばらな口ひげがのぞいている。彼のもくろみは、見事に外れたようだ。父親の方は、白いスーツにブルーのシャツ、それに赤いネクタイをしめ、フレデリックがなんとかしてかもしだそうとしたお祭り気分を、見事なほどあざやかに体現していた。

 ステージは郡庁舎の芝地にしつらえられていた。最初にメソジスト教会の女性聖歌隊がミュージカルの曲をいくつか歌った。つぎにアンクル・サムの衣装を身につけた銀行頭取の娘がバトンを回し、アコーディオン弾きが登場した。フレデリックがステージに上がったのはそのあとである。同僚がみんな、口笛を吹き、足を踏みならして野卑な歓声をあげる。ミセス・ヘイスティングスは息子が注目を集めているのが恥ずかしくてたまらなかった。

「さて、身びいきと非難されるのは避けたいところなんですが」と彼は口を開いた(おそらく何かの冗談、仕事にまつわる冗談にちがいない。男たちが全員、無作法な笑い声をあげているところをみると、おそらく下品な冗談なのだろうとミセス・ヘイスティングスは推測した)。「家族のなかに才能がある者がいるというのに、どうして謙遜して隠さなければいけないのでしょう。わが父、アルバート・ヘイスティングスは、最上級の手品師であります。過去においては、かのフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領に手品を披露するという栄誉に浴しております。わたくしがかねがね申し上げておりますように、ルーズベルト家に良いものは、わたくしたちにとっても良いものなのであります」

 男たちの中からふたたび笑い声が上がった。フレデリックはさっと片手を上げた。「レディース・アンド・ジェントルマン、驚異の男、ヘイスティングス!」

 アルバートは最初から舞台裏にいた。あのひとと一緒にいなくて良かった、とミセス・ヘイスティングスは思った。きっとあのひとはわたしが怯えているのに気がつくだろうから。それどころか、わたしの怯えがあのひとに感染するかもしれなかったんだから。
真後ろの女性が肩を叩いた。「さぞかし鼻が高いでしょうね」ミセス・ヘイスティングスはしっ、と唇に指を当てた。夫が口を開こうとしているところだ。

 もう何年も、夫の前口上は、ほとんど同じものだったのだが、今日の話には一箇所、これまでには聞いたことのない色彩があった。彼女はそれが気になった。感謝します、だなんて。観客に向かって、手品をやらせていただいて、大変ありがたく思っています、と繰りかえし言っている。やらせていただいてありがたい、だって?

十年前、否、五年前だって、決してそんなことを言いはしなかった。これじゃまるで、お情けでダンスを申し込んでもらえたさえない女の子じゃない? 話なんて早く終われば良いのに、と思った。だが、観客は喜んでいる。彼のことをひとりの老人として愛しているのだ。だが、それが夫が求めていた愛なのだろうか? あのひとが追い求めていたのはそんなものじゃない、と彼女は思った。

 助手役の孫が舞台に上がった。ミスター・ヘイスティングスは、どなたもお疑いなきよう、この助手は公明正大そのものであります、と言った。まず、その子が三枚のトランプを引く。単純な手品で、すぐに終わった。彼女の目には、観客の拍手喝采が、あまりに過大であるように映った。これは簡単な手品なのに。手始めの、空気を暖めるためだけのものであることを、彼女はよく知っていた。

 二番目は魔法の袋の手品だった。小さな袋から、夫は卵をひとつ、オレンジをひとつ、ぶどうを一房、最後にひと瓶のシャンペンを取り出した。「いつも妻にはこの袋を持って、スーパーに行くように言っているのですが、どうにも聞いてもらえません」と言って、客席の最前列にすわっているミセス・ヘイスティングスを身ぶりで示した。夫が舞台から自分に目を留めてくれたときにいつも感じる、興奮に身が震えるような思いを、またしても味わった。ここに至ってやっと彼女の緊張もほぐれてきた。

 つぎの手品は、何枚もの大きな木の札にリボンを通す手品だった。孫に、リボンのたばを持っていてくれないか、と頼んだ。ここではリボンが寸分のたるみもなく、張っていることが大切なのだ。ミセス・ヘイスティングスには、夫がリボンを通さなくてはならない穴を見つけるのに手こずっているのがわかった。穴をひとつ抜かした。おかげでリボンを一本引っぱっても何も起こらなかった。札が微動だにしないまま、リボンだけさっと抜けるはずだったのに。だが、リボンを全部引っぱっても一本も動かない。夫は観客の方を向いた。その仕草は、ひどく年寄り臭かった。「紳士淑女の皆様方、まことに申し訳ございません」と言ったのだった。

 そこで客席から声援があがったのである。夫は拍手喝采に包まれた。ミセス・ヘイスティングスはどれだけ連中を憎んだことだろう。観客たちはとまどいながらもある種の共犯意識を抱いているらしい。客席の一体感というのは、多くの場合、観客が自分から遠い、はるかに離れた舞台に立つ人間を愛したり、逆に憎んだりすることから生まれるものだが、いまの観客を結ぶ一体感の正体は、愛でもなければ憎しみでもなかった。ひとりの老人がそこにいることにいたたまれない思いを抱き、早く終わってしまえばいいのに、と切に願っている。その気持ちを隠そうと、やたら拍手喝采していることが、ミセス・ヘイスティングスにはありありと見て取れた。彼女はじっとすわったまま、微動だにしなかった。

 せめてつぎの手品がうまくいってくれさえしたら! だが、スカーフの手品は、居間で披露したときからうまくいってなかったのだ。ミセス・ヘイスティングスは息が留まりそうだった。吐き気がする。あのとき、うまくいかなかったわよ、と言えばよかったのだ。勇気がなかったんだわ。いまあのひとは大勢の赤の他人の前で、バカにされようとしている。フレデリックの同僚の前で。

「紳士淑女の皆様方、ここにありますのは魔法の箱、魔法の洗濯箱であります。家内にはいつもこれを使えと申しておりますが、うちのやつときたらどうにも頑固ものでして」

 ミセス・ヘイスティングスはこれからどうなるかがわかっていた。箱の一方から色のついたスカーフを入れ、反対側から白いスカーフを引き出す。だが、居間で夫が引き出したのは、自分が入れたのと同じ色のスカーフだった。それを指摘することは彼女にはできなかった。しかも、夫はちがっていることに気がつかなかったのである。

目の前で、夫はおなじことをやった。だが、少なくともあっという間に終わった。色のついたスカーフを、自分では白だと思っているスカーフを高く掲げ、頭の上でひらひらとはためかせ、観客に向かって深々とお辞儀した。

 失敗したことに気がついていない。観客たちは困惑していた。恐ろしい沈黙が落ち、やがて何が起こったか、観客にも飲み込めてきた。すぐにフレデリックが拍手し始めた。観客たちもミスター・ヘイスティングスにスタンディングオベーションを送った。夫は奇妙なほど年寄りじみた、彼女がこれまで見たこともない足取りで、舞台裏に引っ込んでいった。

 フレデリックがふたたび舞台に上がった。軽食がどうとか、軽食の用意をしてくれたご婦人方に感謝するだとかと言っている。ミセス・ヘイスティングスは椅子に坐ったまま、怒りに身を震わせていた。

よくもまあ、あんなふうにいけしゃあしゃあとしていられるものだわ。自分の父親が恥をかかされたというのに。それも全部、おまえのせいなのよ。一体、どのつらさげて観客の前に立ってるの。ゲームがどうとか、賞品がどうとかって、あのひとたちはみんな、あなたのお父さんが老醜をさらすのを目の当たりにしたのよ。どうしてお父さんのところへ行って、力づけてあげるとか、どこかよそへ連れて行ってあげるとか、しようとは思わないの? あなたが悪いのよ、フレデリック。あなたが鈍いんだか、ひょっとしたら父親に対する悪意があったのかどうかは知らないけれど、お父さんがみんなの見ている前で、失敗してしまったのよ?

「食事が取れる場所に連れてってあげるよ」フレデリックが母親に腕を差し出しながらそう言った。母親に向かって言葉をかけているあいだも、ほかの人に会釈するのに忙しい。

 ミセス・ヘイスティングスは激しい剣幕で息子の方に向き直った。

「どうしてこんなことをお父さんにさせたの?」

「何をさせたんだって?」

「あの手品よ。あんなひどい目に遭わせたことよ」

「お父さんは乗りに乗ってたじゃないか。すごく楽しんでたよ」

「みんなに失敗を見られてしまったのよ」ミセス・ヘイスティングスは食いしばった歯の間から言葉を押し出すようにそう言った。

「それもいいじゃないか、お母さん。お父さんはうまくいったと思ってるんだから」

「ひどい屈辱じゃないの」

 フレデリックはやれやれ、と頭を振りながら、さほど興味もなさそうな目つきで母親に目をやった。それから先に立って歩きだした。だがその歩調は、彼女には少し速すぎる。あの子ったら、誰か話ができる相手を探しているんだわ。肩越しにふり返ったフレデリックの顔つきには、何かにじれている若い娘さながらの表情が浮かんでいた。

「ひと皿取ってきてあげようか?」と彼は聞いた。

「自分のお父さんに対してあんなひどいことをするような子に、何もしてもらいたくありません」

 彼は足を止めて母親が追いつくのを待った。

「お母さん、お父さんって人はね、あなたの倍ほども人間が上だよ」彼は母親の方を見ないでそう言った。「いや、三倍かな」

 ミセス・ヘイスティングスは息子に寄り添った。見上げるまなざしには、息子が生まれて初めての、愛情と呼んでさしつかえのない感情がこもっていた。生まれて初めて、息子との血のつながりに誇らしさを感じた。ミセス・ヘイスティングスは息子の腕に手をかけた。






The End






「老年」という未知の領域


まだ幼い頃、目の前にいるおじいさん、おばあさんに、若い時代があったこと、さらには自分と同じ年齢のときがあったことを知って、驚いたことがある。おじいちゃんの子供の頃は、ここいらは田んぼが広がっていて……こっちの方には電車も走っていなくて……という話を聞いていても、あたり一面、広がっている田んぼなら想像がついても、このおじいさんの「子供の頃」は想像できなかった。まして、自分がうまくいけばこのおじいさんと同じ年齢になるということは、想像の埒外だった。

もちろん、誰にとっても自分がまだ経験したことのない年代は、想像のなかにしか存在しないものだ。だから、小学生になったら、中学生になったら、と思い描く自画像は、きわめて断片的なもので、いざその年代になってみると、あの頃は何もわかっていなかった、という感慨を抱くことになる。身近なモデルを捜しても、話を聞いてみるのと、自分が実際に経験することはまるでちがう。ちょうどグルメ雑誌を読むのと、実際に自分が口に入れてみるのがまるでちがうように。

けれども、老年期を描いた小説は、自分がまだ経験したことがない世界である老年期の一面を、「こういうものだ」と教えてくれる。ひとりの人間が小説の中で生き、その存在を通して人生の姿を明らかにしてくれる。実際の「とある老人」と会話するよりも、「老年期」というものについて、教えてくれるのだ。

「手品師の妻」という短編小説には、妻から見た夫の老いが描かれる。若い娘が夢中にならずにはいられない、颯爽とした青年。しかも彼は、自分との新婚旅行のさなかから、ありきたりではない、手品師(magician は同時に魔術師、魔法使いという意味でもなる)というもうひとつの顔さえも持ち始めたのである。

ルーズベルト一家の前で手品を披露したことさえある彼が、次第に年老いて、指先も思うにまかせなくなり、しかも白内障を患ったあげく、視力をほとんど失ってしまう。ゆっくりと下り坂を降りていく夫を、妻は何ともいえない思いで見つめている。

だが同時に、この短編が描くのは、夫を見ている妻の姿でもある。夫に対して新婚旅行のときと同じ気持を抱き続ける妻は、夫が手品に熟練し、仕事と両立させ、しかも手品によって相当の収入を得て、成長を遂げていくのに対し、料理の腕前と同じく、成長や変化とは無縁である。子供が産まれ、成長し、成人して家族を持つようになっても、妻は成長を拒むかのように、夫だけを見つめている。そんな妻だから、夫の老いは受け入れがたい。衆人環視の中で老いをさらした夫のことを思って、屈辱感に身を震わせ、息子をなじるのだ。

だが、そんな母親に向かって、息子は
"You know, Mother, Father is twice the person you are,…(略)…Three times." (「お母さん、お父さんって人はね、あなたの倍ほども人間が上だよ……いや、三倍かな」)と言うのである。

息子は父親の中に、母親にはない、どんな優れたものを見たのだろうか。
老いを老いとして受け入れること。しかもそれを恥じることなく。
父親の姿を「すごく楽しんでたよ」と言う息子は、自分の父親がそういう境地に達していると感じたのだろう。

子供の身長が伸びたり、あることができるようになったりすることを、人は「成長」と呼ぶ。あるいは、好ましい変化が起こると「進歩した」という。

けれども、「成長」がある地点を超えると、もはや「成長」とは呼ばれなくなり、変化が好ましいものでなくなれば「退歩した」とか「堕落した」などという。そう考えていけば、「成長」も「老い」も、「進歩」も「堕落」も、変化しつづける人間や物事のほんの一断片をとらえた、観察している人の恣意的な判断ということになるのではあるまいか。

人間は置かれた環境の影響を受け、絶え間なく起こっていくさまざまな出来事の影響を受け、流れる時間の影響を受け、変わり、変わり続けていく。変わらずにいようと思ったとしても、部屋の明るさを一定にしようとする電灯が、太陽の位置によって刻々と照明の強さを変えていくように、目に見える部分、意識に浮かび上がる部分に変化がないよう、その人自身は変化し続けているのだ。

ミスター・ヘイスティングスは、手品の腕が上がるのを受け入れてきたように、老年期を受け入れていった。そうして老人である自分がふたたび舞台に立てるチャンスが与えられたことを感謝した。だが、老境にさしかかっても、新婚時代の気持ちをそのまま夫に対して抱いているミセス・ヘイスティングスは、手品が上達することは認められても、夫の老いは認められなかった。さらに、「子供たちの母親」であることにさほど目を向けなかったように、自分が夫と同様に老年期に入っていることにも目を向けなかった。

ところが息子は父親の中に、「老いを恥じることなく人前にさらし、しかもそれを楽しんでいる」姿を見て取る。父親がほんとうにそう感じていたかどうかはわからない。けれども、息子は父をそのように理解したのだ。

息子の言葉を聞いて、ミセス・ヘイスティングスは夫を愛しているのが自分だけではなかったことに気づいたはずだ。しかも、その息子は、「颯爽とした夫」ではなく、「年老いた父親」を愛している。いまの、ありのままの父親を愛することのできる息子に、母親は誇りを感じたのだろう。

わたしたちはこの短編を読むことを通して、少しまえまでには巧みにできていたことができなくなったり、力がなくなったり、早く走れなくなっていたり、という、何ものかが自分から離れていくような、冷え冷えとした感覚を味わうことになる。それが、老年というものなのだろうか、とも思う。けれども、それと同時に、それさえも自分がこれまで経験してきたさまざまな変化の、別のありようだということも理解できるのだ。

変化というのは、単に自分が変わるだけではない。環境の中に生き、環境に働きかけつづける人間の変化は、かならず環境をも変えていく。自分の変化の結果がさまざまなかたちで刻まれていく。

時は、流れるのではなく、積み重なっていく。ときに、自分の血を分けた息子というかたちで。あるいは、周囲の人びとに及ぼした影響、というかたちで。あるいは、生きていくことで感じる抵抗、というかたちで。

わたしたちは、「老い」ということのもうひとつの姿を、この作品を通じて垣間見るのである。

初出 Jan.26-Feb.03 2011 改訂April 01, 2011

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