ネット時代のお作法・不作法
たとえだれも自分をコントロールしてなくても
線を引くことならぼくたちだってできる
確かにぼくたちが生きているのは大変な時代だけど
厄介ごとだって引き受けていかなくちゃ
―― Rush "Everyday Glory"
1.世界が舞台?
巡回先のブログで、たまに奇妙なコメントが書きこまれているのを見かけることがある。それが一度や二度でなく、同一人物が攻撃的な書きこみを繰りかえしているのを見ると、読むだけでいやな気分になるし、そこの管理をしている人が気の毒にもなってくる。
たとえそういう人が相手でも、冷静さを失わず、忍耐強く筋を通そうとしている人を見ると尊敬してしまうのだが、相手の方はたいていは自分の意見にしがみついたまま、管理者、あるいはほかの閲覧者からの批判に、言葉尻をとらえての攻撃で応じる。当人はそれで反論しているつもりなのだろうが、単に揚げ足取りにしかなっていない。それでも自分の反論が、理論の体をなしていなかろうが、もはや完全に破綻してしまっていようが、言い返していると当人は良い気分でいるのかもしれない。
いつからかインターネットの世界もいくつかの「ルール」が生まれてきた。「荒らしにはスルーで」というのも、そのひとつなのかもしれない。だが、相手を「荒らし」と見なすことなく、誠実に対応を続けている人もいる。「荒らし」には手厳しい批判で返す人、閲覧者までもがその争いに加わって、その結果、ひどく荒れてしまうこともある。
画一的な「ルール」がかならずしも状況にあっている場合ばかりではないだろう。だから「ルール」を定めることがどこまで有効なのかよくわからないし、そういうルールは誰かひとりが提唱して、そこから伝播していくという性質のものでもないように思える。ここでは何もインターネット上のルールを作っていこうという野心的なことを考えているのではない。その前の段階、わたしたちは現実にインターネットでどのような人間関係を築いているのか、どういう関係がより望ましいのか、そういうことを少し考えてみましょう、というのが趣旨なのである。もはや言い尽くされていることなのかもしれないが、わたし自身の経験も交えながら、少し書いてみたい。よかったらおつきあいください。
2.伝わるもの、伝わってしまうもの
以前だったら考えられないことだけれど、インターネットのおかげで、会ったこともない、日常生活を送っているだけなら決して知ることもなかったであろう人とも、メールやコメント欄への書きこみを通じて、知り合うことができるようになった。それは100パーセント、テキストベース、言葉だけのやりとりなのだが、不思議とその人の「てざわり」というか「声」というか、言葉にはならない何ものかが伝わってくる。
人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということに基づいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。
(ゲオルク・ジンメル『社会学』居安正訳 白水社)
日常のつきあいを考えてみれば、朝、顔を合わせたその瞬間に、相手の調子も、虫の居所も、仕事の進捗具合もわかってしまっても不思議はない。だがここでジンメルが言っているのは、もちろん従来の対面をベースとしたコミュニケーションにはちがいないのだが、そうであっても「伝えよう」と思ったこととはちがうことが「伝わってしまう」のは、外見や表情、動作といった、言葉以外の要素のことを指しているのではないだろう。
「どうしてそんなことをするの?」という言葉が、単純な疑問と受けとられることもあれば、叱責と受けとられることもある。あるいはまた詮索と受けとられることもある。問いかけた人間の意図を超えて、聞き手はさまざまにその言葉を理解する。そこで返事によって確かめる。
「何でそんなこと聞くの?」
「ごめんごめん、何もそんなつもりじゃないんだ」
「そんなつもり」がどんなつもりなのかを確かめるために、またわたしたちはつぎの質問をする。言葉というのは、つねにその文字通りの言葉を超えた意味を相手に届け、相手は自分の読みとった意味が正しいのかどうか、確認のために聞き返す。これがジンメルのいう「生きいきとした交流」ということだろう。
となると、たとえ表情や声の調子をともなわない、テキストベースのコミュニケーションはどうなのだろうか。
たとえば、インターネットに特有の現象として「なりすまし」というものがある。ある人物がまったく別の人格を装い、ちがう社会関係にある人物としてふるまうのである。日常ではどうしたって不可能なそのことも、限られた情報のやりとりであれば、まったく別の人間に「なりすます」ことが可能なのだろうか。言いかえれば、文字だけなら伝達する情報を、完全に自分のコントロールのもとに置くことが可能なのだろうか。相手にこう受けとってほしいと思う自分のイメージだけを、言葉に託して相手に届けることは可能なのだろうか。
やはりわたしたちは、たとえ文字情報だけのやりとりではあっても、相手について「その他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」ような気がする。それを進んで確かめることはないかもしれない。それでも、さまざまな言葉や文章を通して、わたしたちはその書き手のイメージを、本人が「こう受けとってほしい」のとはちがう形で受けとっている。言葉の意味内容そのものが、本人の意図を超えて伝わってしまう側面を持っているのだ。
たとえば「わたしは××大学を出た」と、話の脈絡とは無関係に言う人がいたとする。その人は「自分は××大に合格できるほど頭が良い」と伝えるためにその情報を送り出しているのだが、聞いている側は「この人にとっては××大出ということを後生大事にしておかなければならないような人なんだ、結局はいまの自分に自信がないんだな」と受け取るように。
そうした印象を通して、わたしたちは相手の「イメージ」を少しずつ修正を重ねながら造り上げていく。いくらテキストベースとはいえ、わたしたちはその向こうに、かならず人の像を描いていくのだ。だからこそ、「なりすまし」はうまく像を結ばないから、否応なくそれがばれてしまう。あるいはたとえ同じ言葉が並んでいても、「誰が書いたか」によって、受ける印象はまるで変わってしまうのである。たとえやりとりしているのは言葉でしかなくても、わたしたちがコミュニケーションをしているのは、その向こうにいる人間なのだ。
ところが、ときどきそれを忘れているのではないか、と思う人がいる。コメント欄に攻撃的な書きこみをする人ばかりではない。気がついてほしいのか、それとも隠しているつもりなのか、いくつものハンドルネームを使い分ける人、まったくちがった人格を装う人。
日常生活で接する姿かたちを備えた他者は、わたしたちに相手が自分ではない存在であることを片時も忘れさせてはくれない。自分の思い通りにしようと思っても言うことを聞いてはくれないし、自分の意見を押しつけようとすれば、背を向けて去っていくかもしれない。だからわたしたちは対面する相手には、言葉を慎むし、自分のわがままも抑えようとする。そういうことができない人は、社会的な成熟度合いの低い人として、それなりの扱いしか受けなくなってしまう。
けれども顔を合わせたこともない、見えるのは液晶画面に浮かぶ文字だけ、となると、その向こうに他者を感じ取れる感受性がなければ、相手は「単なる読み手」、自分のパフォーマンスに拍手喝采してくれるはずの「観客」となってしまう。単なる観客に過ぎないのだから、その観客の拍手喝采を得るためには、対面では言えないようなことも言えるし、自慢話も臆面もなくできてしまうし、嘘だってわからない。日常では顰蹙を買いかねないことも、ついやってしまう。「観客」が拍手してくれなければ、別のハンドルネームで別の役柄を演じてもいい。そこが居づらくなれば、別の舞台を探せばいい。
だがそう思っていることもまた、まちがいなく伝わってしまうのである。
書くという行為は、不可避的にその人自身をさらす行為なのである。ジンメルの言うとおり、「すすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを」伝えてしまうのである。だが、ジンメルはこうも言っている。「このこと(※他の者によって知られれば都合の悪いことを、結果的に知られてしまうこと)は、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である」
つまり、「まちがいなく伝わってくる」その人の像は、その人が伝えようとしたものに比べて、いっそう「生きいき」とした像なのである。だからこそ、わたしたちはもっとその人のことを知りたくなる。だからこそ、交流が存続していく。
だが、やはりジンメルがここで「交流」と呼んでいるのは、対面ベースのコミュニケーションである。インターネット上とのつきあいとはやはり同じではない。インターネットのなかで閉じられた交流は、やはり独特のむずかしさがあるように思う。つぎに話すのは、まだ何もわかっていなかったころの、わたしの苦い経験である。
3.「あなただけ」
まだパソコンをインターネットに常時接続にして日も浅いころだった。
面識もなく、仕事やその人の現実の諸関係も知らない女性と、初めてメールのやりとりをするようになった。ところがやりとりを初めてまだ日も浅いのに、いきなり深刻な、プライヴェートに関わる事情を打ち明けられてしまったのである。深い悩みを抱えていることと一緒に、そういうことが言えるのもあなたしかいない、とあった。それを読んだわたしはすっかり責任を感じてしまったのである。どうしたらよいかわからなかったのだが、考えに考えた結果、おそらくわたしにできることといったら話を聞くことしかない、だがそれで良かったら、わたしはちゃんと聞く、できるだけの誠意をこめて、一生懸命、耳を傾ける、と返事を書いた。
身近にそんな人も知らず、ましてそこまでプライヴェートな事情を打ち明けられた経験もなかった。そんな重要なことを、見ず知らずのわたしに打ち明けなければならないその人の孤独を思うと、こちらの胸まで塞がれるような思いがした。
いまこうやって振り返ると、当時の自分のナイーヴさに何とも言えない気持ちになる。まだ個人的にメールのやりとりをする経験も少なく、メールというものが、ときとして人にそういうことを書かせるものだということも知らなかったのだ。
ところがメール交換が次第に負担になっていった。返事が遅れると、気分を害するようなことを書いたのではないか、と心配するメールが追いかけるように届く。しかも、どれも簡単に返事が書けるようなものではない。メールボックスを開けるのも憂鬱になるような日が訪れた。そのころ、ある出来事が起こったのである。
非常に奇妙な出来事で、わたしには何でその人がそういうことをしたのか未だによくわからない。まあ簡単にまとめてしまえば、その人がメール交換をしている相手はほかにもいるが、その相手よりもわたしの方を重視している、ということを凝りに凝ったやり方で教えてくれたわけだ。
その出来事をめぐって、いくつか要領を得ないメールのやりとりが続いて、わたしはすっかり嫌気がさしてしまった。わたし以外にもメール交換をしている相手がいるのなら、わたしが手を引いても大丈夫、という思いがあったことは否定できない。ともかく、わたしはもうメールを続けることはできない、申し訳ないがやめさせてくれ、と送信したのだった。
そのあとしばらくは、新聞を開くのが怖かった。わたしのメールが引き金になって自殺でもされたらどうしよう、と思った。だが、ひょんなことからその人がもちろん変わりなく、別のところで似たようなことを繰りかえしているのを知った。
まあお元気でいらっしゃって何より、としか言いようがないのだが、ほんとうにわたしはなんとナイーヴだったことか、それを思うとジンメルを引用するのも恥ずかしくなるほど、相手の言葉をそのまま受けとっていたのである。
「自分の情報」を徹底して管理するということは、言葉を換えればゲームのルールを一方が完全に決めてしまうということでもある。相手はその人とつきあうのではなく、明かされた「自分の情報」とゲームのプレイをするしかない。そうして「あなただけ」と書くことで、外の世界を遮断してしまうのだ。
だからこそ、返事が遅くなると、相手が自分の管理の届かないところに行ってしまったようで、彼女は不安になったのだ。このどこに「生きいきとした交流」が生まれる余地があるのだろう。そういうことをして、いったい何が楽しいのか。人を、やがて離れていくとわかっていても、しばらくのあいだだけでも、自分の思い通りに動かすことができれば、楽しいのだろうか。わたしにはよくわからない。
だが、少なくともわたしは最初に彼女の話を聞いたときは、非常に重く受け止めたし、どうするのが自分にできる最善のことか真剣に考えもした。だから、いまだにその人物に関しては怒りを覚えているし(だからこのログも、もちろんそういうバイアスのかかっているわたしの見方なのだ)、サイトの感想などを聞かせてくださる方と個人的なメールのやりとりすることにためらいを覚えるのも、もしかしたらいまだにこのときの経験が尾を引いているのかもしれない。
確かにインターネットの世界は「virtual reality(仮想現実)」と言われる。だが、"virtual" という単語は「事実上の」とか「実際上の」という意味で、現実の Anti ではないのである。たとえその相手と築いたのがインターネットの外に出ない関係であっても、まぎれもなく現実のわたしのありようにその人との関係は影響を及ぼす。そうした意味で、現実と無縁ではあり得ない。
だが、日常であれば、相手との関係から生じた影響は、否応なくさまざまな回収先を持っていく。会っておしゃべりするばかりではない、一緒に何かを経験することもあるし、そこから新しい人間関係が広がっていくこともある。恋愛となると別だが、それ以外の相手と「あなたしかいない」という関係にはなりようがない。ところが個人のメールという閉じられた関係のなかでは、一方がそれ以外の出口をふさいでしまえば、そこからどこにも出ていくことができなくなってしまうのだ。
「生きいきとした交流」が望めなくなれば、そこで窒息しそうなメールの交換を続けるか、途中でおりるしかなくなってしまうのである。
いまのところ、ほかに出口の見あたらないところで、ひとつの話題を超えて深く関わっていくというのは、わたしには正直、ちょっとしんどいことなのである。
さて、メールが閉ざされたなかでの言葉のやりとりであるとしたら、それを観客のいるところで行うのが、掲示板やブログのコメント欄を通じたやりとりである。そこでもやはり苦い思い出がある。
4.議論は虚しい
その昔、ある掲示板に、痴漢行為を認めれば、さらに重大な性犯罪を未然に防ぐことになるのではないか、というとんでもない書きこみをする人物が現れた。
それを読んで、思わずカッときたわたしは、それを批判する意見を述べた。もちろんわたしばかりではない。あまりにつっこみどころが多すぎる意見に、彼はたちまち集中砲火を浴びることになった。
ところが彼の側は、相手の批判の揚げ足を取るばかり、論争にもならないのだが、決してへこたれることはない。結局、騒ぎが大きくなるだけ大きくなって、元の書きこみは管理者の側から削除されて、なかったことになったのだった。
集中砲火を浴びた当人がまったくノンシャランとしていたこともあって、その最中、わたしはまったく気がつかなかったのだが、まさに彼の状態はスケープゴート、彼をやりこめるために、一対全員という構図ができあがっていた。全員が、なんとか彼に自分の否を認めさせ、謝罪させようとしていたのである。謝罪して、考え方を改めないなら、そこから出ていけ、と。
これこそ「いじめ」の構造そのものではないか。冷静になって考えてみて、自分がその一員に加わっていたことにやりきれない思いがしたのだった。
そのとき、わたしは自分の「正しさ」を確信していた。彼の「誤り」を確信していた。そのために、見方を変えれば自分がどういうことをやっているかに思いは至らなかった。
しかもそれだけよってたかって彼の意見を変えさせようとしたにもかかわらず、結局彼は最後まで自分の考えを変えることはなかった。たとえどれほど「正しい」意見であっても、人ひとりの「まちがった」意見を変えさせることなどできはしないのだ、彼が耳を傾けさえしなければ。外からの圧力で人の考えなど変えさせることなどできないのだ、と思い知らされた経験でもあった。
以来、わたしは基本的に論争をしないことにしている。
たとえ「これはひどいな」という意見を見たとしても、たとえそれに対する反論を頭のなかで考えてみたり、親しい人に「こういう意見を見たけれど、おかしくはないか」と話すことはあるかもしれないが、直接、その人に向かって、たとえばコメントを書きこむようなことはしない。拠って立つところが明らかにちがっている場合、議論自体が成立しないからだ。
もしかしたら、たとえ見解が対立したとしても、事実と照らし合わせてみれば、正しい見解は明らか、と思っている人が多いかもしれない。ところが、「事実」だけならどんな「事実」だって見つけることができるのだ。
たとえばアポロが実際には月面着陸していない、と、まことしやかに主張している人々が依拠しているのは、いくつもの「事実」ではあるまいか。陰謀論にしても、トンデモ論にしても、主張する人々は、それを証明するために、おびただしい資料のなかから「事実」をかき集めている。彼らに対して、それが事実ではない、と別の「事実」を対峙させても、まったく不毛なだけだ。
歴史家のE.H.カーは「事実」をこのようなものだと言っている(※さらに詳しくは「報道の読み方」などでふれています)。
実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。むしろ、事実は、広大な、時には近よることも出来ぬ海の中を泳ぎ廻っている魚のようなもので、歴史家が何を捕えるかは、偶然にもよりますけれども、多くは彼が海のどの辺で釣りをするか、どんな釣道具を使うか――もちろん、この二つの要素は彼が捕えようとする魚の種類によって決定されますが――によるのです。全体として、歴史家は、自分の好む事実を手に入れようとするものです。歴史とは解釈のことです。
E.H.カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳 岩波新書)
ここから言えることは、どんな意見に対しても、必ず反論はできる、必ず反証は可能だということである。たとえ彼以外の人全員が眉をひそめるような意見であっても、主張している人物は、どこからか「事実」を見つけてくるだろうし、自分に対する反対意見は決して聞こうとはしないだろう。トンデモ論を主張する人に欠けているのは、「事実」ではなく、バランス感覚なのである。バランス感覚の欠けている人間の意見を変えさせたり、誤りを認めさせたりすることは、言葉には不可能なのだ。
とんでもない意見を持っている人間をみたら、そこから立ち去ることだ。もちろん批判の論点を頭の中で整理したり、あるいは自分の主張として自分のブログで訴えることはかまわない。けれども、とんでもない人物にそれをぶつけたところで、決して感心して自説を引っ込めるようなことはしてくれない。してくれるはずがない。
そうしてまた、どんなとんでもない意見であっても、それを主張する権利は認めてやらなくてはならないのである。デュルケームのいう「あらゆる社会のうちに心理学的に異常な個人が存在することが社会的には正常なのである」(『正常現象としての犯罪』、中山元『思考の用語辞典』からの孫引き)という言葉は、確かにその通りなのだ。「とんでもない人」の存在が許されない社会は、ずいぶんおそろしいものだろう。それはインターネットのなかでも同じだ。
それでも論争好きな人はいるのかもしれない。
自分の主張を展開させていく言葉の運用能力に自信のある人。「争い」という状態を楽しむことさえできる人。けれど、残念ながら、そういう人も、相手が一歩も譲歩しなければ、議論は平行線をたどるだけだ。
もちろん論争に勝つことはできる。だが、それには条件がある。
・相手とあなたが同じ理論の土俵に乗っていること
・相手があなたの意見に耳を傾ける度量を持っていること
・相手があなたの意見をきちんと理解できる知性を持っていること
つまり、あなたが論破できるのは、その論点においては意見を異にしているかもしれないが、それ以外の点ではあなたと多く意見を同じくした、知的で人間的にも優れた人物なのである。
だが、そんな相手なら、論破するより、相手と自分の一致点を探った方が良くはないか。話し合うなか、自分自身の意見も変わり、相手も変わり、結局は双方の意識が深まっていくような、そんな話し合いができる相手なんじゃないだろうか。
なのにそういう相手であるにもかかわらず、自分の方が正しいのだ、間違っている相手を屈服させずにはおれない、と一歩も譲るつもりがないとしたら。
もしかするとあなたは
・相手の意見に耳を傾ける度量を持っておらず
・相手の意見をきちんと理解できる知性を持っていない
のかもしれない。
5.なぜ論争は起こるのか
日常生活で、たとえば会議などで議論のための議論、自分のパフォーマンスを見せるための議論を始めようとすれば、かならず大きな抵抗に遭うだろう。具体的に何かをやっていこうとする人々のなかにあって、そのように言葉をもてあそぶだけの人間は邪魔なだけだ。言葉だけなら一万歩だろうが、百万歩だろうが、一歩も踏み出さないで、いくらでも言うことができるが、現実に百歩歩こうと思えば、一歩から歩き始めて、百歩、歩き続けなければならない。
ところが、こうしたインターネット上では、ともに言葉のやりとりだけになるので、仮に片方が現実に足場を持ちながら、自分の考えや言葉をそれになんとかリンクさせていこうとしていても、そうした努力は一切インターネット上には現れない。現実に、なんとか百歩歩こうと努力している人に対して、それだけしか歩けないのか、と、嘲笑を浴びせかけることも可能なのである。しかも、一歩も踏み出すことなく。
だが、百万歩歩く、と言葉で言うだけで、ほんとうに歩きもしない人が楽しいのだろうか。インターネットの検索機能を使えば、料理についておびただしい知識を持つことは可能だ。けれど、実際には食べたこともない料理のことに、どれだけ蘊蓄を披露しても、虚しいだけではないのだろうか。
こんなところでこんな文章を思い出すのは筋がちがうのかもしれないが、わたしはどうしても小林秀雄が西田幾多郎を評したこんな言葉を思い出すのである。
西田氏は、ただ自分の誠實といふものだけに頼つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしてゐる誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、神様だけが知つてゐる。この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外國語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステムを創り上げて了つた。氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、創意が不足してゐた爲でもない。
(小林秀雄「學者と官僚」『小林秀雄全集第七巻』所収 新潮社)
西田があの時代、ひとりきり「誠實な思索」を積み重ねてた、というのは非常に厳しいことだったろう。だが、いまはそういう意味での「孤獨」はありえない。たとえたったひとり、自分の部屋にいても、そこには仮想的な「他者」に取り巻かれている。
空想の中でケンカしても、恋愛しても、楽しくはないだろう。だが、それを見ている人がいるとわかると、もはや空想ではない。「仮想的な現実」が単なる空想とちがうのは、証人がいる、ということでもある。観客がいるから、「仮想的な現実」はリアルなものとなっていく。それが日常、わたしたちが生活する世界ではない、と何よりも本人が知っていても、その本心を隠して、架空のケンカや恋愛を続けていくことになる。観客はそれを見て、賞賛したり罵倒したりする。そのことによって、いよいよ「仮想的な現実」は強固なものになる。
だが、この賞賛や罵倒は、果たしてどこまで「他人といふものの抵抗」となりうるのだろうか。その人が周囲の人々を、自分のパフォーマンスの「観客」とみなしているうちは、単なる書き割り、決して「抵抗」にはなり得ないのではあるまいか。
虚構は虚構なのだ。帰っていく実体はどこにもない。
にもかかわらず、そこから憎悪や快楽すらもが生産されていく。こうなってくると、もうそのなかでパフォーマンスを続け、罵倒や賞賛を浴びている人は、自分が楽しんでいるのか、苦しんでいるのかすらわからなくなってくる……。
言葉は言葉でしかないのだ。現実と、自分の言葉をリンクさせる筋道を、どこかに持ち続ける。少なくともその努力だけは続けていかなければならないだろう。たとえばそれが、料理についての知識を持つだけでなく、実際に食べてみる、本のタイトルと作者とあらすじを知っているだけでなく、実際にページをめくって一冊本を読んでみる、という程度のことであっても。現実は「一歩」からしか始まらない。一歩さえ踏み出してみれば、現実と「仮想的な現実」の圧倒的な落差をも知ることができる。わたしたちが「仮想的な現実」に押しつぶされてしまわないためには、この落差をつねに実感しておくことが必要だろう。
わたしは昔からある種の人を密かに「焼き畑農業家」と呼んでいる。人を何かの手段としてしかみなさず、自分の目的のために利用する、という人間関係しか作ろうとしない人だ。こういう人は、それ以外の人間関係もありうることを知らないから、そんな自分を恥じることもなく、至極あからさまに、会っていきなり情報だけを聞き出そうとしたり、「これ教えて」と聞きにきて、聞くだけ聞いたらそこから先はなしのつぶてになってしまったり、頼まれたことを引き受けたら、ついでにこれもやって、だの、前やってくれたことは役に立たなかった、だのと言ってきたり。終わってみればこちらに徒労感しか残らないような人たちだ。こういう人はたいてい一度しか相手をしてもらえないから、土地が荒れたらつぎの草地を探しに行く。そうして今度はそこに火をつける……。
「焼き畑農業家」は、考えてみれば気の毒な人でもある。それ以外の人間関係、つまり、ただ一緒にいるだけで楽しいというような人間関係が、人とのあいだに成立しうる、ということを知らないのである。
だからこそ、わたしのサイトでは、利益とは無関係の、ささやかなおしゃべりの場を提供したい。本をめぐるおしゃべり、あるいは、音楽や、今日あったささやかなできごとや、子供のころの記憶。そうして言葉のやりとりを通じて、その向こうにいる人の声に耳をすませるような。
「インターネットの作法」があるとしたら、ただひとつ。それは文字の向こうに人がいることを忘れない、ということだ。この文字を打ち込んだ人。自分の書いたものを読んでくれる人。もしかしたら意見がちがうかもしれない、考え方もちがうかもしれない。それでもそういう人とも楽しくおしゃべりするために、どのようにふるまうのか。そのことをいつも意識に留めておく、ということではないのだろうか。
わたしに言えるのは、あまりにありきたり、ささやかなことでしかないのだけれど。
それでもまた、おしゃべりしましょう。