ここではジェイムズ・サーバーの童話「たくさんのお月様」の翻訳をやっています。
アメリカの雑誌“ニューヨーカー”で活躍したユーモア作家サーバーが、初めて子供向けに書いたこの童話は、ルイス・スロボドキンの描いた挿絵とともに絵本となり、多くの人に愛されてきました。
かわいらしい話というだけでなく、いろんな寓意がここから読みとれる。子供とはちょっとちがう見方でこのお話を読めないか。そんなふうに思って、ここでは訳しています。
原文はhttp://sujith_v.tripod.com/stories/moons.txtで読むことができます。
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たくさんのお月様
by ジェイムズ・サーバー
むかしむかし、海辺の王国に、レノーラ姫という小さな王女がおりました。レノーラ姫は十歳で、もうじき十一歳を迎えようというところです。ところがある日、レノーラ姫は木いちごのタルトを食べ過ぎて具合が悪くなり、寝こんでしまったのです。王家専属のお医者様がやってきて、熱を測ったり、脈を取ったり、王女様の舌を引っ張ったりしました。お医者様は心を痛め、王様、レノーラ姫のお父さんですよ、に使いをやると、王様もすぐに王女様のところへやってきました。
「姫が心より望むものならば、余はなんなりと使わすぞ」と王様は言いました。「望みあらば申してみよ、な?」
「わたしね」王女様が言いました。「お月様がほしゅうございます。お月様がいただけたなら、また元気になれると思うのよ」
王様には大変かしこい家来を大勢従えていましたので、家来たちの手にかかれば、王様が望むものは、いつだって何だって、わけもないことでした。ですから王様は王女様にも、よし、月を手に入れてやろう、と約束したのです。それから王様は王の間にもどり、呼び鈴のひもをひっぱりました。三回長くひっぱり、それから一回短く引っぱると、すぐに侍従長がやってきました。
侍従長は大きくてよく太っていて、分厚いめがねをかけていたものですから、そのせいで目が実際よりも二倍も大きく見えました。おかげで侍従長は実際よりも二倍もかしこそうに見えたのです。
「余は月がほしい」王様は言いました。「レノーラ姫が月を所望じゃ。月が手に入らば姫もまた元気になる」
「月、ですと?」侍従長は思わず叫び、目がいっそう大きくなりました。おかげで実際よりも四倍かしこそうに見えました。
「さよう、月じゃよ。 つ き、 あの月じゃ。今宵、持って参れ。遅くとも明日までにはな」
侍従長は額の汗をハンカチでぬぐい、それから大きな音をたてて鼻をかみました。「わたくし、陛下にお仕えしてからこちら、きわめてたくさんのものを取りそろえてまいりました。ここにたまたま、これまでにわたくしが入手いたしましたものの一覧表がございます」そう言って、侍従長がポケットから引っぱりだしたのは、長い羊皮紙をくるくると巻いた巻物です。「はてさて」侍従長はその一覧表にちらりと目を走らせて、むずかしい顔になりました。「わたくしが入手いたしましたのは、象牙、サル、孔雀、ルビー、オパール、エメラルド、黒い蘭、ピンクの象、青いプードル、コガネムシにフンコロガシ、ハエ入りのコハク、ハチドリの舌に天使の羽、ユニコーンの角、巨人、小人、人魚、香木、竜涎香、ミルラ樹脂、旅回りの詩人に、吟遊詩人、踊り子、それからバター1ポンドに卵2ダース、砂糖1袋……おっと失礼、こいつは妻がここに書きつけたものでした」
「青いプードルなど記憶にないぞ」王様は言いました。
「ですが表にはちゃんと『青いプードル』と書いてございますし、さらにここに小さくお渡し済みのしるしがついております。ですから青いプードルは確かにお渡ししております。陛下がお忘れになっただけでございます」
「青いプードルはもうよい。余がいま所望しておるのは月じゃ」
「陛下、陛下のお望みとあらば、わたくしはこれまで、はるかサマルカンドでありましょうが、アラビアでありましょうが、ザンジバルでありましょうが、取りに参らせました」侍従長は言いました。「ですが月とはまた途方もないおっしゃりよう。月は五万六千キロメートル、離れたところにございますし、王女様がいらっしゃいますお部屋より、はるかに大きゅうございます。加えて、月は溶融銅でできておりますゆえ、とてもではございませんが、陛下のおためとはいえ、取ってまいることはかないません。青いプードルなら、手配もできますが、月はムリでございます」
王様はぷりぷりと怒って、侍従長を追い払うと、かわりに王様お付きの魔法使いを王の間に呼びました。
王様お付きの魔法使いは、やせて小さな男で、細長い顔をしていました。魔法使いのかぶるとんがり帽子は、赤くて銀色の星がたくさんついていて、青くてすその長いローブには金のふくろうがたくさんついています。王様が、余のかわいい姫のために月を取ってまいれ、と申しつけると、魔法使いの顔は真っ青になりました。
「これまでわたくしは陛下のために、ありとあらゆる魔法を使ってまいりました」と魔法使いは言いました。「実を申しますと、わたくし、陛下のために使いました術の一覧表を、たまたまポケットに入れておりまして」魔法使いは底の深いポケットの奧をさぐって、一枚の紙を引っぱりだしました。
「まず最初は『親愛なる王家に仕える魔法使い殿:魔法使い殿がおっしゃった「賢者の石」と称するものを返品いたします……』おっと失礼」魔法使いはもう一方のポケットから、太い羊皮紙の巻物を取りだしました。
「こちらでございました。さてさて、これによりますと、わたくしは陛下のためにカブから血を絞りだし、血からカブを取りだしました。シルクハットからウサギを取りだし、ウサギからシルクハットを取りだしました。花とタンバリンとハトを呪文で呼び出しました。地下水脈を告げる占い棒と、魔法の杖と、未来を告げる水晶玉をさしあげました。媚薬、軟膏、飲み薬、失恋を癒す薬、食べ過ぎを癒す薬、耳鳴りを癒す薬を調合いたしました。さらに調合してさしあげたのは、わたくし秘伝のトリカブトとベラドンナにワシの涙をたらした特別の混合薬、あれは魔女や悪魔、そのほか夜に跳梁するものどもをよせつけぬ効果を持つものでした。そのうえ、ひとまたぎで三十キロメートル跳べるブーツ、ふれたものみな黄金に変える指、透明になれるマント……」
「あれは効かんかった」王様は言いました。「あの透明になれるとかいうマントは、ちっともそうはならなかったぞ」
「いいえ、効果はございました」魔法使いは言いました。
「いいや、効かなかった。あっちやこっちやにぶつかってばかりで、これまでと一向に変わりばえがせんかった」
「あのマントが透明にいたしますのは、身につけた者の方でございます。さまざまなものにぶつからなくするようにはできておりません」
「余にわかったことといえば、たえず何かにぶつかっておった、ということだけじゃ」と王様は言いました。
魔法使いは、また一覧表に目をやりました。「そのほか、わたくしがご用意いたしましたのは、妖精の国のつのぶえ、人を眠らす砂男の眠りの砂、虹の黄金色。さらに、糸ひとまき、針ひとたば、蜜蝋ひとかたまり……失礼、これは家内がわたくしへのことづけのために書いたものでした」
「余がこのたび、そちに頼みたいのはじゃな、月じゃ。姫がな、月を所望しておるのじゃよ、月が手に入らば、また元気になるのじゃ」
「恐れながら陛下、月までは二十四万千キロメートルございますし、しかも月はグリーン・チーズでできております。おまけにこの宮殿の二倍はある大きなものですゆえ、お持ちすることは、誰といえど、できかねることでございます」
王様はカッカと怒ると、魔法使いを住んでいる洞穴に追い返しました。それから銅鑼を鳴らして王様お抱えの数学者を呼んだのです。
王様お抱えの数学者は、はげ頭で近眼、頭にぴったりとかぶさる小さな帽子をかぶり、両耳に一本ずつエンピツをはさんでいました。数学者は白い数字がたくさんついた、黒いスーツを着ています。
「余は、そちが1907年からこちら、余のために解いた問題のあれやこれやなど、聞きとうはないぞ」と王様は数学者に向かって言いました。「余が教えてほしいのは、どうやったらレノーラ姫のために月を取ってこれるか、ということじゃ。姫が月を所望しておるでな。月があれば、また元気になるのじゃと言うておる」
「1907年以来、わたくしが陛下のために解いた問題の数々に、陛下がふれてくださったことはまことに光栄に存じます」とお抱え数学者は言いました。「偶然にもわたくしはそれについての一覧表を携帯しております」
数学者はポケットから太い羊皮紙の巻物を取りだして、それに目をやりました。
「わたくしは陛下のために以下に申し上げる問題の数々を解明いたしました。板挟みにおける板同士の距離、日夜における昼と夜の距離、AとZのあいだの距離。わたくしが計算いたしましたのは、以下に述べる問題についてでございます。「上」とはどれほどの高さか、「かなた」というのはどれほどの距離か、「消え失せる」とは、どうなる状態であるのか。さらに、わたくしは以下のことどもを発見いたしました。ウミヘビの体長、値段のつかないものの価格、カバの体表面積。七転び八起きというときにはいったいどこにいるのか、単数が複数になるためにはどれだけなければならないか。鳥を捕まえるには、尾に塩を落とすとよい、とされますが、ならば海水中の塩分を残らず使えば、いったい鳥は何羽捕まえられるか――もし興味がございましたら、その答えは1億8779万6132羽でございます」
「そんなにたくさん鳥はおるまい」王様は言いました。
「いるかどうかを言っているのではありません。もしいるとすれば、という仮定でございます」
「想像上の鳥が7億羽いようが、そんな話は聞きたくないのだ。余はな、レノーラ姫のために月を取ってやりたいのだ」
「月は四十八万二千八百三、二キロメートル彼方にございます。丸く、ちょうどコインのように平らで、石綿でできており、この王国の半分ほどの大きさでございます。何よりも、空にぺたりと糊付けされております。そのため誰にも取ることはできかねます」
王様はかんかんに怒って、お抱え数学者を追い出しました。それから呼び鈴を鳴らして今度はお城の道化師を呼びました。道化師は王の間に、ゴムまりのようにはずみながら入ってきましたが、その格好はだんだら模様の道化師の服に、鈴がたくさんついた帽子をかぶるものでした。そうして道化師は玉座の足下に腰を下ろしました。
「陛下、陛下のためにわたくし、何ができましょうか」
「余のために何かできるものなど、おらぬようじゃ」王様はひどく悲しそうにいいました。「レノーラ姫が月を所望し、月がなくば元気になることもかなわぬというのに、誰もそれを取ってやろうとは言わぬ。あまつさえ、余が頼むたびごとに、月はいよいよ大きくなり、遠くなっていく。そちにできることは何ごともあるまいが、せめてそのリュートをかき鳴らしてくれ。何か、悲しい歌を、な」
「ほかの方々は月がどのくらい大きくて、どれだけ遠くにあるとおっしゃったのですか」とお城の道化師は聞きました。
「侍従長は五万六千キロ離れておって、レノーラ姫の部屋より大きいと申した。魔法使いは二十四万千キロ、この城の倍大きいと。数学者によれば四十八万二千キロ彼方にあって、王国の半分の大きさらしい」
道化師はしばらくのあいだ、リュートをポロンポロンとつま弾いていました。「みなさま、たいそうかしこい方々ですから」と道化師は言いました。「おっしゃることにまちがいがあろうはずはございません。それぞれに正しいとなれば、月の大きさというのは、その人が考える大きさで、その人が考えるだけ離れた場所にある、ということになります。となると、やらなくてはならないのは、レノーラ姫が月をどのくらい大きくて、どのくらい離れているとお考えか、確かめることですね」
「おお、それは思うてもみんことじゃった」
「わたくし、姫にうかがってまいります」そういうと、道化師は小さな王女様の部屋に、静かに入っていきました。
目を覚ましていたレノーラ姫は、道化師に気がついてうれしそうな顔になりましたが、その顔は青ざめて、声にもひどく元気がありません。
「お月様、持ってきてくれた?」王女様は聞きました。
「いえ、まだでございますが、すぐに取ってまいりましょう。ところで姫は、月がどのくらいの大きさだとお考えですか?」
「わたしの親指の爪より、ほんのすこし、小さいくらい」と王女様は言いました。「だって、お月様に向けて親指を立てると、お月様は隠れてしまうでしょう?」
「では、どのくらい離れているとお考えです?」道化師はまた尋ねました。
「窓の外に大きな木があるでしょう、そのてっぺんとだいたい同じくらいのところね。ときどき一番高い枝に引っかかってるもの」
「それならお月様を姫のために取ってくるのは、かんたんなことでございますな」と道化師は言いました。「今夜、木に登って、お月様が一番高い枝に引っかかったら、姫のために取ってさしあげましょう」
そこで道化師はもうひとつ、思いだしました。「姫、姫は月が何でできているとお考えです?」
「あら」王女様は答えました。「金でできているに決まってるじゃない? おばかさん」
道化師はレノーラ姫の部屋を下がると、お城の金細工師のところへ行って、レノーラ姫の親指の爪よりもちょっと小さいぐらいの、丸いお月様を作ってくれるように頼みました。職人は、それに金のくさりをつけたので、王女様が首にかけることができるようにもなりました。
「わしが作ったのは、こりゃなんだ?」できあがると、金細工師が聞きました。
「お月様さ」道化師が言いました。「そいつはお天道様にある月さ」
「だがな、月ってえのは」金細工師は言いました。「八十万キロも離れてて、ブロンズでできてて、ビー玉みたいにまん丸なんだぜ」
「そいつは親方が考えてる月さ」道化師はそう言うと、お月様を手に、部屋を出ていきました。
道化師がレノーラ姫にその月を持っていくと、姫はたいそう喜びました。つぎの日には、姫もすっかり元気になって、起きあがって、庭に遊びに行くこともできるようになったのでした。
ところが王様の心配がなくなったわけではありません。夜になればまた、空に月が輝くことを王様は知っており、それをなんとしてもレノーラ姫に見せてはならぬと考えたのです。もし見てしまったら、首にかけている月が本物ではないとわかってしまうではありませんか。
そこで王様は使いをやって侍従長を呼び、こう言いました。「今宵、空に月が出ても、レノーラ姫に見せてはならんのだ。何かよい方法はないか」
侍従長は何か考えこんでいるような顔つきになって、おでこを指でトントンと叩いていましたが、やがて言いました。「おあつらえむきの方法がございます。レノーラ姫さまのために、真っ暗闇になるような眼鏡を作らせましょう。姫様に月がごらんになれぬよう、真っ暗闇にしておけば、月が空に輝こうが見ることはかないません」
これを聞いた王様は、ぷりぷりと怒って、激しく首をよこに振りました。「もしそんな真っ暗闇の眼鏡をかけたなら、姫がいろんなものにぶつかってしまうではないか。それでまた具合が悪くなるかもしれないのだぞ」
そう言って、王様は侍従長を追い払うと、今度はお付きの魔法使いを呼びました。
「月を隠さねばならん」と王様は言いました。「そうすれば、今宵月が出ても、姫が見ることはかなわんはずじゃ。どうしたらよいものかの?」
魔法使いは逆立ちをし、その手を離して頭で立ち、やがて起きあがるとこう言いました。「良い方法を思いつきました」魔法使いは言いました。「柱を立てて、黒いヴェルヴェットのカーテンを張りめぐらせばよろしい。カーテンは宮殿を、ちょうどサーカスのテントのように、すっぽりと覆います。そこでレノーラ姫も、カーテンの向こうは何もご覧になれませんし、夜空に輝く月もお目には入りませんぞ」
王様はカッカと怒って、両腕を振り回しました。「黒いヴェルヴェットのカーテンなど垂らした日には、空気が入ってこなくなるではないか。レノーラ姫は息ができなくなって、また具合が悪くなってしまうかもしれぬことを、何と心得る」そう言うと、魔法使いを追い返すと、今度はお抱え数学者を呼びました。
「何ごとかなさねばならん」王様が言いました。「姫に今宵、空に輝く月を見せぬために。もしそちが物知りというのなら、この難題を解いてみせるのじゃ」
お抱え数学者はぐるぐると円を描いて歩き、それからこんどはかくかくと四角く歩き、そのあとぴたりと立ち止まりました。「わかりました!」と数学者が言いました。「夜ごと、王宮の庭で花火を催すのです。銀色に輝く噴水や、金色の滝、それが消えれば今度は空いっぱいに、たくさんの花火をまるで昼間のように明るく。そうすればレノーラ姫も月などご覧になれようはずもございません」
王様はかんかんに怒って、ぴょんぴょんと跳ねました。「花火などあげたら、レノーラ姫が眠れぬではないか。姫が一晩中、眠れないようなことになれば、また病気にならんともかぎらん」そうして王様は数学者を追い出したのでした。
王様が顔を上げると、外は暗くなっており、水平線の向こうから、いまにも明るい月の縁が顔をのぞかせようとしています。王様はぎょっとして飛び上がると、呼び鈴を鳴らしてお城の道化師を呼びました。
お城の道化師は、ゴムまりのようにはずみながら王の間に入ってくると、玉座の足下に腰を下ろしました。
「陛下、陛下のためにわたくし、何ができましょうか」
「余のために何かできるものなど、おらぬようじゃ」王様は悲しそうに言いました。「月がまた上ろうとしておる。じき、レノーラ姫の部屋を照らすであろう。そうして姫は月がまだ空にあるのを見て、自分の首にかかっている金の鎖についているのが月などではないことを知るのじゃ。そちのリュートでわしのために何か弾いてくれ、きわめつけの悲しい曲を。月を見れば、姫はまた病気になってしまうにちがいない」
道化師はリュートをつま弾きました。「かしこい方々はなんとおっしゃいましたか」と道化師は聞きました。
「連中が考えた方法で月を隠すならば、姫が病気になってしまうようなものばかりじゃったよ」
道化師は今度はちがう曲を、とても静かに弾きました。「あのかしこい方々なら、何でも知っておいででしょう。そうして、もしあの方々が、月を隠すことはできないとおっしゃるならば、ほんとうに月は隠せないものなのでしょうね」
王様は、また両手で頭を抱えこみ、深いため息をつきました。突然、玉座から飛び上がって、窓を指さしました。「見よ!」王様は思わず大きな声を出しました。「月がすでにレノーラ姫の部屋を照らしているではないか。だれか説明できるものはおらんのか。姫の首から金の鎖で月がさがっているというのに、空では月が輝いているわけを」
道化師はリュートを弾く手を止めました。「かしこい方々が月は大きすぎるし遠くにありすぎる、とおっしゃっておられたときに、月をどうやって取ったらいいか教えてくださったのはどなただったでしょう? レノーラ姫にあらせられる。となると、レノーラ姫は、かしこい方々よりもなおかしこく、月のことならずっとよく知っておいでだということです。だから、姫様にうかがうことにいたします」王様が止めるよりも早く、道化師は王の間からするりと抜けると、幅広の大理石の階段を上がって、レノーラ姫の部屋へ行きました。
王女様はベッドに横になっていましたが、目をぱっちりと見開いて、窓の外、夜空に輝くお月様を眺めていました。王女様の手のなかできらきらと光っているのは、道化師が王女様のために作らせたお月様です。道化師の顔には、たいそう悲しそうな表情が浮かび、目は涙でいっぱいになりました。
「レノーラ姫様、どうか教えてください」道化師は悲しい声で言いました。「どうして空にお月様が輝いているのでしょう。姫のお首からさがる金の鎖の先にあるというのに」
王女様は道化師を見て、声を上げて笑いました。「かんたんなことよ、おばかさん」王女様はそう言いました。「わたしの歯が抜けるでしょう、そしたら新しいのがそこにまた生えてくる。そうじゃなくて?」
「もちろんそのとおりでございます」と道化師は言いました。「森で角を失ったユニコーンも、また額の真ん中に新しい角が生えてきますね」
「そういうことよ。それに、お城の庭師がお花を切ったあとにだって、そこにこんどはちがう花が咲くでしょう?」
「そういうことは一向に思いいたりませんでした」道化師が言いました。「毎日、朝の光が出てくるのと一緒なんですね」
「そうよ、お月様も同じなのよ」レノーラ姫は言いました。「たぶん、なんでもそういうふうになってるんだと思うのよ……」姫の声はだんだん小さくなって、やがて消えてしまい、道化師にも姫が眠りに落ちたことがわかりました。そこで道化師は、すやすやと寝入ってしまった王女様に、そっと上掛けをかけてあげたのでした。
でもね、王女様の部屋を出る前に、道化師は窓のところへ行くと、お月様に向かってウィンクしたんですよ。だって、道化師の目には、お月様が自分に向かってウィンクしたように見えたんですもの。

― The End ―
月はどこにあるか
このあいだ柄谷行人の『差異としての場所』を読んでいたら、こんな愉快なエピソードに行きあった。
ソ連の人工衛星スプートニクがはじめて打ち上げられた次の日、湯川秀樹は教室で、「これで万有引力の法則が証明されたね」といったそうである。人工衛星の出現に理論的にはすこしも驚かなかった研究者・学生も、この発言にはさぞかし驚いただろう。その話を読んで、私自身今さらながら驚いたのは、その時まで万有引力の法則が証明されたわけではなかったという事実である。半ば中世人であったニュートンは、この世界を創った神の偉大さを示すために物理学をやったのであり、同時に、そのような信仰にもとづいて万有引力の法則を仮設したのである。
そのエピソードを知ってから、私は湯川秀樹という人が好きになった。彼は、近代合理主義と、「世界は合理的であるはずだ」という非合理的な信念とがまったく異質であることを知っていた人であった。つまり、「科学的であること」と「科学」とは、根本的にちがうのである。
(柄谷行人『差異としての場所』講談社学術文庫)
実はほんとうにおもしろいエピソードはこのあとに出てくるのだが、そうなるとサーバーの童話とはいよいよ離れてしまうので、涙を呑んで割愛する。興味があるかたは短い文章なので「ブタに生まれ変わる話」、読んでみてください。いや、ほんとにブタに生まれ変わる話が出てくるから。
わたしたちは「引力」の存在は、誰にも否定しがたい事実で、客観的で、揺るぎのないものだと思っている。ところがそれは1957年にいたるまで、実にニュートンが『プリンキピア』を発表した1687年から300年近く、仮説、すなわちこれもまた一種の物語に過ぎなかった、というのである。
わたしたちは、月が地球から約40万キロメートル(正確には38万4400キロメートル)離れていることを「知って」いる。ついでにいえば、月のおおよその大きさも、月の外殻が何でできているかも「知って」いる。けれどもわたしたちがほんとうに侍従長や魔法使いや数学者や金細工師より、あるいは王女より月のことをよく知っている、と言えるのだろうか。そういうことも、単に「科学的物語」として、知っているだけではないのだろうか。そうした知識は、わたしたちがふだん何気なく口にする「月が昇る」「月が沈む」という言葉より、実感を持ってわたしたちの内に根を張っているのだろうか。
人によっては、「月が昇る」というのはおかしいから、大地が沈んでいく、と言うべきだ、という実感を持って、月を眺めているのかもしれない。あるいは、飛行機に乗って、地上で見る月とはちがった月を見たことがある人にとっては、地上で見る月は、空高くから見た月を、単に思いださせるきっかけにすぎないのかもしれない。道化師が「月の大きさというのは、その人が考える大きさで、その人が考えるだけ離れた場所にある、ということになります」と言うとおり、誰もが少しずつちがう「月」を見ているのだろう。
このことは、言葉を換えれば、わたしたちは誰もが自分の作り上げた物語のなかで生きている、ということになる。その物語にはたえずさまざまな情報が入り込み、さまざまな影響にさらされているために、他の人と重なり合う部分が多いから、ふだんはあまり気がつかない。けれど、どうかした拍子に、その物語の食いちがいに気がつく。そうしたとき、多くの場合、わたしたちは自分のそれが「正しい」と思い、それとは異なる物語を、まちがっているとか、非科学的だとか、迷信だとか、宗教的だとか、あるいは冷たいとか、人間の感情を理解していないとか、さまざまに呼ぶ。なかなか自分が自分の作り上げた物語に生きている、「その人が考える大きさで、その人が考えるだけ離れた場所にある」ものを「月」と呼んでいることに気がつかない。
道化師は、どうしてそれに気がついたのだろう。それは、自前の「月の物語」を持っていなかったからだ。自前の物語を持っていなかったから、自分が何も知らない、ということを知っていたし、王女に聞くこともできた。そうして、だれも思ってもいなかったことだが、王女は王女で自前の物語を持っていたのである。
この寓話は、かしこい、というのはどういうことなのだろう、ということを、わたしたちに考えさせる側面がある。子供もやはり、子供なりに、世界観を持っているし、それなりに筋の通った理解のしかたをしている。子供なりの自前の物語を持っている。それを、行政の執行者や、技術者や、学者のそれと較べて、どちらがより「科学的である」と判定することなど、いったい誰にできるのか。
けれど、それだけでもないようにも思う。わたしたちは、ほしいと言うとき、知らないと言うとき(知らない、というのは、知識がほしいということだから、結局は同じことだ)、他者とつながることができるのではないか。
王女のように、あるいは王様のように、そうして、道化師のように。
自分は知っていると思っている者は、誰ともつながることはできない。そうして、自分の物語の中に自足して生きるしかない。けれど、他者に向かって「ほしい」と手を伸ばすことは、自分の物語を他者に向かって開くことでもある。あるいは、他者の物語を、自分の内に取りこむことでもある。人というのは、そういう形でしかつながることはできないのだ、と、そうして、ほしいと求めていくことが、他者に何かを与えることになるのだと、眠ってしまった王女は教えてくれるように思うのだ。
初出Sep.30-Oct.03 2007 改訂Oct.05, 2007
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