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 いっしょにゴハン 




これまで、ずいぶんたくさんゴハンを食べてきた。ひとりで食べることもあったし、大勢で食べたことも、ふたりで食べたこともあった。
はっきりと覚えている食事は多くない。毎日繰り返すことだから、さまざまな日々のさまざまな食事がまざりあって、そのいずれかを取り出すことはむずかしい。

そのいっぽうで、はっきりと記憶に残っている「特別な食事」もある。
そのときの情景や、いっしょに食事をした相手、匂いや空気までもがはっきりと記憶に刻まれている食事がある。
あるいはまた、その料理を食べれば、そのときがそっくりそのままよみがえってくるような料理も。
そんな「ゴハンの風景」を振り返ってみたい。

1.修道院での食事

小学校三年の夏休みのことだった。
当時「飼育係」だったわたしは、一週間ほど、鶏小屋の掃除をしに行かなければならなかった。

鶏小屋があるのは、校舎から離れた校庭のはずれ、ニセアカシアが繁る昼間でも薄暗い木陰だった。
白いペンキが塗ってある小屋は、高さが二メートル強、幅が三メートルほど、奥行きが一メートルぐらいではなかったかと思う。上下で区切られ、上にはチャボが三羽、下にはウサギが二羽いた。どちらも金網を開けて、フンを箒で掃き出し、水を換え、エサをやるのだが、おとなしいウサギはともかく、チャボたちが暴れて逃げ出さないよう、ひとりないしはふたりが箒で押さえている隙に、ほかの人間が内部の掃除をするのだった。

三羽のチャボは、一羽は白く、一羽は黒いぶちがあり、もう一羽は茶色いオスだった。このオスが気が荒い。十年ほど前に掃除をしていたときに、眼をつつかれて失明した、という悪名がとどろいていたのだが、いま思えば、チャボが十歳以上とは考えにくく、寿命がどのくらいかは知らないけれど、おそらくよくある学校の「伝説」のようなものではなかったろうか。それにしても、確かにそのチャボは、生徒たちを黄色い眼でにらみつけ、くぁっ、くぁっ、くぁっ、と猛々しい声をあげるのだった。

学期期間中の、掃除当番も多いときなら問題はなかったのだが、夏休み、当番はたったふたりである。わたしのパートナーはえっちゃんという子で、ふたりとも小柄なほう。チャボたちがいる上の階の床は、わたしたちの胸よりも高い位置にある。簡単な下を終わると、ふたりで胸をドキドキさせながら、ナンバー錠を開け、金網を開いた。えっちゃんが押さえ、わたしが掃き出すのだが、なかなか高い位置は箒がうまくつかえない。もたもたしているうちにえっちゃんが、きゃっ、と悲鳴をあげて、箒を放り出し、しりもちをついてしまった。例の茶色いチャボが、バタバタッと飛び上がったのである。あっ、と思ったときには、外へ飛び出していた。わたしも怖くて身がすくみ、箒を前に出して押さえることなどできなかったのだ。

外へ飛び出したチャボは、とっ、とっ、と走っていく。わたしはとりあえずバタンと金網を閉め、残った二羽が逃げ出さないようにして、それから、えっちゃんとふたりで、なんとかチャボを追いかけていった。

チャボは広い世界に出られた喜びを満喫するかのように、校舎とは反対側の方向へ走って行く。
ところがわたしもえっちゃんも、そのチャボをつかまえるのが怖いのである。とりあえずわたしは箒をもって走ってはいたが、どう考えてもそれで取り押さえられるはずはなかった。

なおもチャボは走り、とうとう同じ敷地にある修道院の裏庭に入っていった。そこがどうやら気に入ったらしく、地面をついばんでいる。
修道院の礼拝所には、何度か入ったことはあったが、普段シスターたちが生活している裏口のほうにはまわったことがなかった。それでも、なんとか助けを借りようと、裏口をノックした。

シスターのうち、何人かは顔見知りだった。フランス語の授業が週に一度あったのだが、それを教えてくれるのが、外国人のシスターだったのだ(どうでもいいけれど、わたしはこの時期に習ったフランス語など、何一つ覚えていない。いわゆる「早期教育」というものが、どれほどクソの役にも立たないものであるか、身をもって知っているのだ)。

わたしは二年生のときに教わった、東ドイツ出身のシスターが好きだった。余談になってしまうのだが、あるときこの人が、小さい頃に両親と別れ、叔父さんにつれられ、弟と一緒に、貨車に隠れて西ベルリンへ亡命した、という話を教えてくれた。白黒の東ドイツの写真と一緒に聞かせてもらったその話はおそろしく、後に「東ドイツ」と聞くと、そのときに見たモノクロの、ひどく暗い写真を思い出す。ところがわたしときたら、当時『アンネの日記』を読んだばかりで、そのシスターに、ヒトラーは西ドイツにいたんですか、それとも東ドイツにいたんですか、と聞いたのだ。西にも、東にもいました、と答えてくれたのだけれど、どんな思いでその質問を聞いたのだろう、と思うと、当時の自分をひっぱたいてやりたくなる。

ともかく、修道院の裏口から出てきたのは、見たこともない、小柄な中年の日本人だった。チャボが逃げて、つかまえられないんです、と言ったら、それは大変、いまお料理をしてるからちょっと待ってね、と、いったん引っ込むと、ふたたび出てきて、チャボはどこ? とわたしたちに聞いた。あそこです、と指さす。すると、その日本人シスターは、そうっと後ろから近寄って、ぱっと両腕で抱えたのだ。その鮮やかな手際を、わたしはいまでもはっきり覚えている。

しっかりと両手で押さえられて身動きできないチャボは、右や左をキョトキョトと見まわすばかりで、そうしていると、ちっとも猛々しく見えないのが不思議だった。ともかく、シスターのおかげで、無事に鶏小屋に戻すこともできたのだった。

ありがとうございました、とお礼を言ってから、どうした流れでそうなったのかよく覚えてないのだけれど、わたしとえっちゃんは修道院でお昼をごちそうしてもらうことになった。裏口から中に入り、机に食器を並べたりするのを手伝った。見たこともないシスターたちがたくさん入ってきて、ここにはこんなに人が暮らしているのか、とびっくりした。ひどく年寄りの、腰が曲がった外国人のシスターもいた。夏用の薄いグレーのベールをつけたシスターたちが、木のテーブルを囲んだ。

今日はお客様にお祈りをしてもらいましょう、とシスターに言われて、わたしたちは、普段教室で給食を食べる前にしている「日々の糧をお与え下さってありがとうございます」といった内容のお祈りを、いつもどおりに暗唱した。「父と子と精霊の御名によりてアーメン」と十字を切ったところで、ほかのシスターたちが「アーメン」と唱和する。教室とはちがう、大人の声がいくつも響いた。
修道院での食事は、確か、豆とキャベツが入っている味の薄いスープとバターロールだった。あなたたちが食べてる給食のように、おいしくはないでしょう? と聞かれて、そんなことありません、こっちのほうがずっとおいしいです、と答えたら、みんなが笑っていた。

それから後も、礼拝所のほうには何度か入ったけれど、奥の方には行ったことがない。チャボをつかまえてくれたシスターにも、もう会うことはなかった。

豆とキャベツのスープは、いまでもときどき作る。タマネギと米をひとつかみ入れて、リゾットのようにすることもある。鶏肉(チャボではないが)を少し入れるとボリュームも出るし、味も濃厚になる。でも、シンプルな、ごく薄いスープが一番好きなのは、やはりこのときの食事の記憶が残っているせいだろうか。


2.病気のゴハン


ちょっと風邪っぽい、寝込むほど悪くはなっておらず、このままぐらいの状態で、うまくやり過ごせないかなというとき、わたしが作るのが、「風邪退治スープ」。

ショウガとネギとニンニクと干し桜エビをごま油で炒め、スープを作る。スープといっても、ふだんは水を入れて、コンソメのキューブを放り込むだけだ。中に入れる具は、ダイコン、または、その季節なら冬瓜、そしてエビ。
ご飯が食べられるぐらい食欲があれば、ご飯にかけて食べる。ご飯が食べにくいときは、スープだけ。とにかく暖まる。

このスープを教えてくれたのは、黄さん(仮名)だ。ほんとうは、たぶん、お酢や香辛料が大量に入っていて、もっと酸っぱくて辛かった。でも、どうやっても味が決まらないので、わたしが作るのは、日本人によるアレンジバージョンである。

黄さんは、中国人留学生だった。
朝、五時ごろ起きたわたしが階下に降りていくと、ちょうど湯葉屋さんにバイトに行こうとする黄さんに会うのだった。
「おはようございます」
「イッテキマスネ」
という挨拶を、毎朝のように交わした。

あるとき、横断歩道の手前で信号待ちをしていると、目の前で、二人の女性が耳慣れない言葉で楽しそうに会話をしていた。
黄さんだ。見たこともないような、明るい、屈託のない顔で、手振りを交えながら楽しそうに会話をしている。わたしの知っている黄さん、表情の乏しい、いつも固い顔の黄さんは、ほんとうは明るい顔の、おしゃべりが好きな人なんだ、と思った。

普段より早く目が覚めた朝、わたしはバイト先でもらった「鉄観音茶」を入れた。階段をおりてきた黄さんに、「中国のお茶をもらったから」とマグカップを手渡して、玄関先のあがりがまちに腰を下ろして、一緒に飲んだ。
「中国のお茶なんだけど、おいしい?」
「これはいいお茶ですネ。おいしい。でもちょっと多い。もう少し、少ない、いいです」

それ以来、ときどき黄さんと一緒に、朝、お茶を飲んだ。
黄さんはほかにもいくつもバイトをかけもちしていて、ほとんど寮にもいない。なかなか話す機会もなかった。
年も五歳ほど上で、寮生の集まりでもあまり自分から話すこともない。
わたしもあまり自分から話すほうではないので、会話といってもたいして続くわけではない。湯葉屋さんでは何をしているの、とか、日本には慣れた? とか、そうしたことを聞いたぐらいだ。

これは朝ではなかったかもしれない。
あるとき黄さんは、パン屋でもらってきたようなパンの耳に、砂糖を少しのせて食べていた。
わたしにもそれをすすめてくれる。ふだん、そのままの形で口にすることもない砂糖の細かな粒を、そのまま口に入れると、純粋な甘さが口いっぱいに拡がった。
「中国人、冷たいものを食べません。油で揚げる」
「知ってる。小さいとき、食べたことある。パンの耳のかりんとう」
「かりんとう?」
わたしは手近にあった広告の裏に「花林糖」と漢字で書いた。
黄さんは漢字をひとつずつゆびで押さえ、中国語で読んだ。わたしもあとに続きながら、たとえ口先で真似をしても、どうしてもちがう日本語と中国語の発声を感じた。

黄さんが寮で食事をすることはほとんどなかったのだが、あるとき、めずらしく台所で料理をしていた。ショウガとネギとニンニクを大量に刻んでいる。
「何を作るの?」と聞いたら、スーパーの袋から餃子の皮を見せてくれた。
留学生同士の集まりがあるのだという。

わたしはそのときちょうど風邪をひいていて、ひどい咳をしていた。お粥でも作ろうと思っていたのだ。
「風邪ですか。よくないです」
そういって、黄さんが作ってくれたのが、そのスープだった。
正式な名前は、聞いたけれど中国語だったのでよくわからなかった。

黄さんが寮にいたのは半年にも満たない間で、そのうち、もっと便利な別の寮に移っていった。気がつけば、ロクに挨拶もなく、トラックで荷物を運び出していなくなった黄さんのことを、必ずしも良く言う寮生ばかりではなかった。出際に、ちょっと揉め事もあったらしい。ただ、わたしはそんな事情は何も知らなかった。

黄さんは、中国に戻ったら、共産党員になりたい、と言っていた。
「中国人、みんな共産党員になりたいです」と。天安門の記憶もまだ新しい頃だったので、ひどく驚いた。なんでそう思っているのか聞いてみたかったけれど、そこまで親しくなかったわたしは聞くこともできなかった。
黄さんは、共産党員になっただろうか。
湯葉の作り方を、いまも覚えているだろうか。

黄さんが教えてくれたスープは、形を変えて、わたしのレパートリーになっている。


3.粗茶ですが……


ご飯なんて、大学へ入るまで、家庭科の調理実習以外では、炊いたことがなかった。 もちろん、ほかの料理など、なにをかいわんや、である。

お菓子なら、ごくたまに作ったことはあるけれど、それ以外のことでお勝手に立つのを、母は決して喜ばなかった。ほかに自分の部屋を持たなかった母の、そこはささやかなプライヴェート空間だったのかもしれない。

大学に入って、寮生活が決まった。けれどもそこは小規模な寮で、賄いがついていない。寮生は台所で自炊する。

アンタなんかに自炊ができるわけがない、学食で三食すませちゃいなさい、と母は言っていたが、なんのかんのと出費が続き、あっというまに三食外食なんていうことができる状態ではなくなった。

炊飯器を買うお金もない。商店街のはずれにある金物屋で、小ぶりの鍋をふたつ買って、ひとつで米を炊き、もうひとつでおかずを作ることにした。

鍋でご飯を炊く、というのは、経験がないので、本屋で料理の本を探した。ところが鍋でご飯を炊く方法、なんて、どこにも載っていない。
鍋で炊く、というのは、一種の飯盒炊さんのようなものだ、と頭を切り換え、アウトドア関連の棚に行ってみた。
沸騰したら、火を弱めて十五分、それからひっくりかえして、蒸らす、とある。ガスならともかく、野外の焚き火で火を弱めるなんて、そんなに簡単なことではないだろうに、と思ったのだが、幸い、わたしはほんとうに飯盒炊さんをするわけではないので、弱火にして十五分、ということだけ、覚えて帰る。ひっくり返して蒸らす、は鍋の場合関係ないので、本にあったように、十分ほど、そのまま蒸らそう。

一緒に米と、とりあえず豆腐と醤油、あじのひらきも買って帰る。
米をしゃっ、しゃっとといで、米の上にそっと置いた手のひらがみずにかぶるくらいの水加減。よくしたもので、せっぱ詰まると、あんなにキライだった家庭科の、これだけは結構好きだった調理実習の記憶がよみがえってくる。しばらく水につけて、炊き始める。沸騰したら弱火で十五分(何かの景品の共有タイマーが、冷蔵庫にマグネットで貼りつけてあった)、それから蒸らす。

あじのひらきもガスレンジで焼く。何度もひっくり返したので、できあがったころはずいぶんぼろぼろになっていたが、それでもなんとか焼けた。豆腐の一丁というのは、ずいぶん量があるのだな、ということも、始めて知った。こんどはだしのもとと味噌も買ってこよう。

そんな具合で、初めての自炊は、われながらほれぼれとするできばえだった。

ところが、そのうちさまざまな不具合が起きるようになった。

まずなによりも、ひとりで食べる量というのはしれている。豆腐にしても、野菜にしても、魚にしても、なかなか「一人前」という量は売っていない。それを使い切るためには、毎日料理し、使い切るという工夫をしなくてはならない。なによりも、いったん自炊を始めたら、それを毎日続けなくては、かえって不経済なことになる。

一本のダイコンを使い切る。キャベツ半分を使い切る。毎日のように、料理の本を立ち読みした。役に立ちそうな特集が載っている二百円の「オレンジページ」を買って帰ったこともある。

それでも、使い切れないレタスから、奇妙な色の液体が垂れてきて、共同の冷蔵庫の野菜室を汚し、顰蹙をかったこともあるし、うっかり切り干しダイコンを煮た小鍋を置き忘れ、色とりどりのカビをはやし、吐きそうになりながら鍋を洗わなければならない羽目に陥ったりもした。

そういうことばかりでなく、わたしの資質の問題もあった。

実は、ふっと意識が離れるのだ(遠のくわけではない。その点は大丈夫)。

単純作業をしていると、次第に意識は、現在の自分がやっていることからさまよい始める。読んでいる本のことや今日あったできごとから連想の枝が四方八方に伸び始め、あっというまに頭の中はジャングルさながらになり、気がつくと自分がターザンのごとく、木から木へ飛び移っている。そういえば、そのことはあの本にあったんだっけ、と思うと、矢も立てもたまらず、自分の部屋にかけあがり、すっかり鍋のことは忘れてしまう。
それでどれほど鍋の底を真っ黒に焦げ付かせてしまっただろう。

煙が出てる……と、ほかの部屋にいた寮生が驚いて台所にかけこむと、タイマーがやかましく鳴り、鍋から煙がもうもうと出る中、こんろの前の床にすわりこんで本を読んでいるわたしを発見する、などということも、しばしばあるのだった。
焦げ付かせた鍋は、水につけて、翌日、焦げをこそげおとせばどうにかなるけれど、食べられなくなったおかずやご飯は、痛手だった。

こうしたさまざまな失敗を繰り返した後、結局、あっという間にできるもの、料理するとしたら、ごく単純なものを作るだけ、というあたりに落ち着いたような気がする。

ナベ

なんとか毎日の自炊にも慣れ、涼しい風が吹き始めたころだった。
高校のころ英語を習っていた先生が、連休を利用して、観光がてら、わたしの様子を見に行くことにした、という連絡を受けたのだ。それも前日である。明日にはそちらに着く、というのだ。

わたしは大慌てで掃除し、翌日駅に出迎えに行った。
どこかでお茶でも、と思っていたのだが、とにかくわたしのところへ行きたい、という。
休むのは、そこで十分です、とウィンクまでされてしまった。

とにかくコーヒーでもいれようと思っていると、先生は「お茶がいいです」という。
お茶、と言われて、困った。普段飲むお茶は、缶入りのウーロン茶くらい、当時のわたしには、お茶を入れて飲む、という習慣がなかったのだ。
それでも、確か春先に生協で安い煎茶を買った記憶がある。悪くならないように、冷凍庫に入れて置いて、そのままになっていたはずだ。

あわてて冷凍庫の奥を発掘すると、ほかの寮生のシーフードミックスやらアイスクリームやらの底に、わたしの名字をマジックで書いた煎茶が出てきた。

お湯を沸かし、共同の食器棚から、湯飲みと急須を取り出す。適当におちゃっぱを入れ、煮立ったお湯をそのままどぼどぼと注いだ。それをお盆にのせて、部屋に戻る。
駅前で買った洋なしのタルトと一緒に、そのお茶を出した。急須から湯飲みに注ぐとき、いろんなところから垂れて、ひどくきまりが悪かった。
飲んだお茶の、まずかったこと。
タルトは「これはおいしいですね」と喜んでもらえたのだけれど。

わたしが教わった英語の先生は、日本人男性と結婚して、滞日期間も四半世紀に及ぶ。外国人向けの茶道も師範だかなんだかで、自宅には、小さな茶室まで持っている、という人だったのだ。
その人に、わたしは薄黄色の絵の具を溶かしたようなお茶を出してしまったのだった。味も、なんだかそんな味だった(もっとも絵の具を溶かした水は飲んだことはないけれど)。

そのときのことを思い返すと、未だにもうしわけない気持ちでいっぱいになる。

それから一念発起して、お茶の入れ方を本で調べ、自分でいろいろ工夫しながら入れてみるようになったのだ。
もちろん安い番茶には番茶なりの入れ方がある。
高い玉露には、それにふさわしい入れ方が。
急須や湯呑みも、少しずつ買い揃えた。よくしたもので、気に入ったものを探すうち、だんだん「いいもの」もわかってくる。ほんとうに「良いもの」は、手が出せなくても、辛抱強く歩き回っていれば、「陶器市」などで、掘り出し物を見つけることもある。焼き物の写真集を見たり、陶器展を見に行くこともあった。

わたしは人生で必要なことのほとんどは、こんなふうに本を読んで学んだ。
ただ、そのきっかけは、お話にならないほど情けないものであることが多いのだけれど。

4.今日もゴハンを

小学校の低学年ぐらいまで、家での食事の時間は苦痛だった。
あわただしい朝なら、まだごまかしがきく。
けれども、夜はそうはいかない。
もうずいぶん箸を動かしたような気がするのに、茶碗の中もお皿の上も、ちっとも減っていない。なのにおなかはもういっぱい。胸のあたりまで、飲み込んだものが溜まっていて、これ以上、一口だって食べられそうにない。
案の定、いつものように母親の叱責が始まる。

ごはん粒を一粒ずつ数えるみたいな食べ方はやめなさい。
まるで毒でも食べさせてるみたい。
そんなに食べたくないのなら、食べなくていい。
あなたが鶏なら食べる、って言ったから、あなたのためにわざわざ作ってあげたのに。

いま、自分で食事を作る側になってみると、常時三品から四品を出していた母が、毎日どれほどの手間と労力をかけていたか、非常によくわかる。

誰でも自分のやったことに対しては、評価がほしくなる。
専業主婦である母親にとっての評価というのは、おいしそうに食べる家族の表情であり、「ごちそうさま」の声だったのだろう。

そのころだって、わたしは漠然とそうしたことは理解していたのだ。
それでもやはり、食べることは苦痛だった。
ほかにも食べられない仲間のいる給食より、家の晩ご飯のほうがきつかった。

十代になったころから、身体も少しずつ大きくなって、なんとか食べられるようにはなった。それでも、とっさに自分が食べなければいけない量を目算し、食べきれるかどうか判断する、という癖は、長いこと抜けなかった。

つぎの食事が楽しみになったのは、いつからだろうか。
高校二年のとき、交換留学生となってアメリカにホームステイした。そのときからだったような気がする。
そこの家には、成人して家を離れた子供のほかに、ふたりの子供と、血のつながりのない養子がひとりいた。

最初に着いたときの歓迎の食事は、スパゲティ・ボロネーゼ(いわゆるミートソース)と豆のサラダとパンだった。
それからあとも、このメニューは、人を招ぶときにはやたらと登場した。スパゲティとパンだと食べる人数が少々前後しても対応できるし、ミートソースは大目に作って、余れば冷凍しておけばいい。そういう融通のきく料理だったのである。
ともかくアメリカの食事はまずい、という話をさんざん聞かされていたわたしは、おいしいことに驚いた。

食事の後片づけは、子供の仕事。一番下で八歳のテリに教えてもらいながら、軽く下洗いした食器を皿洗い機に入れるやりかたを覚えた(いっそ手で洗った方が早いように思えたのだけれど)。
そこの家では、ひとりがどれだけ食べなければならない、という決まった量があるわけではないし、連絡さえしておけば、食事をしなくても、あるいは、ダイエットしてるから、と、食べなくても、逆に、急に友だちを招んでもいいのだった。
たいていは豆が入ったボールやパイレックスに入った煮込み料理がテーブルの中央にどさっと置いてあり、めいめいがそれを取って食べる。
家でも給食でも、全部食べなくては、ということが固定観念になっていた。
だが、食べる量を決めるのが自分であっても、それはいっこうにかまわない。自分の身体なのだ。
このあたりまえのことに気がつくために、わたしはアメリカまで行かなければならなかったのだった。

ある日、ホストマザーと一緒に買い物にいったとき、「何か食べてみたいものはある?」と聞かれた。
わたしは「TVディナーが食べたい」と言ってみた。

日本にいるころ、本に出てくる「テレビ・ディナー」というものを知った。その言葉通りに、テレビを見ながら食べる「ディナー」なのである。冷凍食品なのだが、三品ほどがひとつのトレーにのって、レンジでチンするというもの。おそらくアメリカではいやになるほど食べることになるにちがいない、と思っていたのだが、そこの家ではいっさい出てこないのだった。

するとホストマザーは、「あんな食べ物は、レイジーで教養のないシングルの男性が、それこそテレビを見ながら食べるものであって、ちゃんとした人間が食べるものじゃないのよ」と、指を振って言うのだ。それでも、わたしは本で読んで、日本では食べることができないから、なんとしても一度食べてみたいのだ、と主張した。あと、中華料理のテイクアウトも(これは、紙の箱に入った焼きそばを食べる、という感覚が新鮮で、おもしろかった)。

そういうわけで、テレビ・ディナーを買ってもらい、その日の夕食はそれを食べた。
なんというか、アメリカのファスト・フードには、どれも共通するにおいと味があるのだけれど、まさにそのエッセンスともいうべきにおいと味で、それでもわたしは実際に試すことができて、たいそう満足した。
「どう?」と聞かれて、もちろん普段の食事のほうがずっとおいしいけれど、アメリカ文化を体験できて良かった、と答えると、そこの家の末っ子が「ぼく、いつもこんな晩ご飯がいいなぁ、ミートローフやポークビーンズばっかりで、家のご飯はダサイ」みたいなことを言ったのだ。だれそれんちはカップヌードルが晩ご飯なんだ、そういうのにしようよ。

このとき、つくづく、子供というのは自分の家しか知らないものなのだ、と思ったのだった。わたしがそうだったように、自分のいるその小さな世界がすべてなのだ。だから、自分がどれほど恵まれていても気がつかない。

ナベ

それからずいぶんゴハンを作ってきた。ときどき、毎日の代わり映えしないこの作業にウンザリすることもある。作ることが義務になってきたな、と思うと、外で食べることにする。
そうしてまた、作る気力を取り戻す。皿を洗う気力も、魚焼きのグリルを洗う気力も一緒に。
外でおいしいものを食べれば、これはどういうふうに作るんだろう、と考えることでレパートリーも増え、新しい食材を試してみるきっかけにもなる。

食事の用意をして、食べて、また後かたづけをして。
これは、来る日も来る日も続く。

変なことを言うようだけれど、徳川家康が言ったとされる「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し」という言葉がある。もしほんとうに家康がそんなことを考えていたとしたら、なんだかつまらないおじさんだな、と思う。

生きていくのが大変だ、なんてことは、量子力学を理解することとはわけがちがう。どんなにぼんやりした人間だって知っていることだ。その大変さの度合いは、もちろん人によってずいぶんちがうだろうけれど、たとえ端から見てどれほど恵まれていようと、真剣に生きていれば、当人にとっては切実な「重き荷」が、かならずある。そんなものはない、わたしは完全にハッピーだ、何の憂いもない、なんていう人間は、ずっと好きだった人から、自分も好きだ、といまさっき言ってもらった人か、自分に嘘をついているかのどちらかだろう。

それこそ「重き荷」を背負って、つまり、負荷をかけてジョギングしてる人だっている。なんでそんなことができるか? それは、なによりもそうすることが楽しいからだろう。トレーニングして、心肺機能をあげて、速く、あるいは遠くまで走れるようになるのは、すごく楽しいことなんじゃないんだろうか。

「重き荷」を背負って歩いていたら、足腰だって強くなる。そのうちにその荷物は重くなくなる。そしたらもっと重いものを持ってみる。それってつらいことなんだろうか。
義務だとしたら、それはつらいことだろう。
けれど、毎日続くことから、新しい興味を見つけることができたら。
単調な毎日の向こうに、先へつながっていく何かを見つけることができるとしたら。
これはちょうど、メロディラインしか知らない曲を何度も聞くうちに、それまで気がつかなかったベースの音が、突然聞こえてくるようなものなのかもしれない。ベースの音を追いかけて、主旋律とはちがう、もうひとつの旋律があることを知る。すると、曲全体までも、立体的に聞こえてくる。これまで同じ曲を聴いていたのに。ただ、自分がベースラインに気がついただけなのに。

たぶん、それが毎日の生活っていうことなんだ、とわたしは思う。これをマスターしようと思えば、量子力学の勉強と同じで、特別の時間とエネルギーをかけなくてはならない。

そうして、ゴハンの用意をして、それを食べて、後かたづけをする、というのは、曲をささえるベースラインみたいなものだ。メロディじゃないし、ギターやドラムみたいに派手な音も立てない。だけど、ベースラインがなかったら、音楽は成り立たない(古典音楽だってそうだ。言い方はちがうけど)。

今日もわたしは堅実なベースの弾き手となって、ゴハンの用意をする。
おなか、すいた?



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おまけ


ナベ 修道院風スープ

(※二人分 所要時間約10分)
◆材料
タマネギ……半分くらい。
キャベツ……二枚くらい。
豆水煮……缶詰めのものや袋入りのものを売っている。百円くらい。
コンソメの素
塩、胡椒
◆つくりかた
(※というのもおこがましいくらいなのですが……。)
・豆以外の野菜を切る。
・水カップ2、コンソメの素1個とともに煮る。
・全体に柔らかくなったら塩・胡椒で味を調える。

※もちろん野菜は何でも可、水を入れる前に野菜を植物油で炒めると、全体にコクが出ます。
ベーコンやツナ缶を入れても、ささみを少し入れても、残り物のケンタッキーフライドチキンをほぐしていれても、また違った味わい。
とにかくこれをもとにいくらでもヴァリエーションがひろがります。スープが沸騰してから、ショートパスタや、コメ、カチカチになったフランスパンを入れると朝ゴハンになります。


ナベ 風邪退治スープ

(※二人分 所要時間約20分)
◆材料
ショウガ……ひとかけ
ネギ……5cmぶんくらい
干し桜エビ……一袋(10g前後入ったもの)
ダイコン……10cmぶんくらい
エビ……ブラックタイガーでも何でも。量はお好みで。
コンソメの素……1個
しょうゆ、塩、胡椒……好みで
◆つくりかた
・ショウガとネギを刻む。
・ダイコンは4cmくらいの乱切りにする。
・エビには軽く料理酒をかけておくといい。
・ナベでショウガとネギを炒める。
・桜エビを加えてさらに炒める。
・水3カップとコンソメの素、ダイコンを入れる。
・ダイコンがやわらかくなったところでエビを加える。
・エビが煮えたらしょうゆ、塩胡椒を入れてできあがり。

※このまま食べても、ご飯にかけても、春雨を入れてもおいしい。好みですりごまを加えたり、ラー油を垂らしたり、XO醤やオイスターソースを加えても。できればサンラータンふうに酸っぱくしたいんだけど、これはうまくいったことがないんです。どなたかご存じでしたら、教えてください。


ナベ ボロネーズ・ソース

(※四人分 所要時間約30分)
◆材料
ニンニク……ひとかけ
タマネギ……1個
ニンジン……1本
ピーマン……1個
セロリ……1/2本(葉っぱも)
牛挽肉……300g
ベーコン……2枚くらい
トマト水煮缶……1個
植物油……小さじ1くらい
コンソメの素……1個
塩、胡椒、あればスパイス類(ナツメグやグローブなど)
◆つくりかた
・野菜はひたすらみじん切り。ベーコンは細切り。
・鍋に植物油をひいて、弱火でベーコンを焼く。
・油が出たところで野菜のみじん切りを入れて炒める。
・さらに挽肉を入れて炒め、塩・胡椒。
・肉がポロポロになったらトマトの水煮缶とコンソメの素を入れる。
・中火でかきまぜながらへらで字がかけるくらいまで煮詰める。
・ここらへんで別の鍋でお湯を沸かす。
・塩・胡椒して火を弱火に。
・スパゲティが茹だったら、できあがり。

※ベーコンは入れなくてもいいです。だけど、そうするとずいぶん味が淡泊になって、あっさりしたのがいい人はそれでもいいけれど、もう少しパンチを効かせたい、と思ったら、バターをちょっと入れるといい。ほんとはとろ火で1時間くらいかけて煮込むのが正しいんでしょうが、わたしは中火でガーッと作っちゃいます(笑)。

初出March.11-15 2006 改訂March.17 2006




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