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報道の読み方





1.これは同じ出来事なのだろうか


さきごろ、このような記事が新聞をにぎわしたことをご記憶の方も多いのではないかと思います。少し長いですが、ここで記事全文をコピーしておきます(固有名詞は省略しています)。

奈良の妊婦が死亡 18病院が転送拒否

 奈良県* *の* *病院で今年8月、出産中の妊婦が意識不明の重体に陥り、受け入れ先の病院を探したが、同県* *付属病院など19病院に「ベッドが満床」などと拒否されていたことがわかった。妊婦は約6時間後に約60キロ離れた大阪府吹田市の国立循環器病センターに搬送され、男児を出産したが、脳内出血のため8日後に死亡した。

 妊婦は、奈良県* *市に住んでいた* *さん。* *病院によると、出産予定日の約1週間後の8月7日に入院した。主治医は* *さんに分娩誘発剤を投与。* *さんは8日午前0時ごろ頭痛を訴え、約15分後に意識を失った。

 主治医は分娩中にけいれんを起こす「子癇」発作と判断、けいれんを和らげる薬を投与する一方、同日午前1時50分ごろ、同県の産婦人科拠点施設・* *病院に受け入れを依頼したが、断られたという。

 付属病院と* *病院の医師らが大阪府内などの病院に受け入れを打診したが拒否が続き、国立循環器病センターが応じた。* *さんは同センターに同日午前6時ごろ到着、脳内出血と診断され、緊急手術で男児を出産したが、8月16日に死亡した。男児は元気だという。

 * * 病院の * * 事務局長は「脳内出血を子癇発作と間違ったことは担当医が認めている」と話した。搬送が遅れたことについては「人員不足などを抱える今の病院のシステムでは、このような対応はやむを得なかった。補償も視野に遺族と話していきたい」としている。

 * *さんの夫で会社員の* *さんは「病院側は一生懸命やったと言うが、現場にいた家族はそうは感じていない」と話した。生まれた長男は* *ちゃんと名付けられた。* *さんと2人で考えた名前だったという。

ここであえて全文を引用したのは、わたし自身がこの記事を読んで、「18もの病院が受け入れを拒否したことで妊婦は死亡したのだ」というふうに理解したからです。そうして「たらい回し」という言葉が頭に浮かび、なぜそんなことになったのだろう、そんなにも多くの病院がどうして受け入れを拒否するようなことをしたのだろう、と思ったりもしました。もし、どこかひとつでも受け入れてあげていれば、この妊婦さんは助かったのかもしれないのに、と。

ところが後日、この報道とはまったくちがった見方が存在することを知りました。

たとえば「ある産婦人科医のひとりごと」というブログでは、産婦人科の医師の方による見解があきらかにされています(こちらは部分)。

分娩経過中に、突然、母体が子癇発作を起こし意識消失し、母体搬送されて来るような事例は我々も時々経験しますが、これは母児にとって非常に危険な状況です。発症直後より、大勢の専門スタッフによる集中的な治療を要します。万一、地域内の施設より、そのような重篤なケースの母体救急搬送の受け入れ要請があれば、地域基幹病院としては、満床であろうが、とにかく直ちに受け入れ早急に治療を開始せざるを得ないと考えるのが普通です。しかし、肝心の専門スタッフ(産科医、新生児科医、麻酔科医、脳神経外科医、など)が院内に揃っていなければ何もできないので、母体搬送の受け入れを拒否せざるを得ないのかもしれません。

地域の周産期2次医療体制を整備するためには長い年月がかかり、決して一朝一夕に達成できるものではありません。いったん地域の周産期2次医療体制が崩壊してしまえば、それを再び一から立ち上げて軌道に乗せるのは至難の業です。

社会の無理解がこれ以上続けば、他の地域でも同様の事例が今後続発するのではないかと危惧します。周産期2次医療体制は地域の宝です。それが全国いたる所で崩壊の危機にあり、今は、地域ぐるみで、大切に守り育てていかねばなりません。

これを読むと、打診を受けた病院は転送を「拒否」したのではなく、受け入れることが不可能だったのかもしれない、と推測することが可能です。そうして、そのような事態に応えるためには、そのための体制を作っていかなければならないこと、それには時間が(ここには書いてありませんが、おそらくは多大なお金も)かかることがわかります。

このブログ「新小児科医のつぶやき」を読むと、多くの病院が受け入れを断らざるをえなかった事情がさらに詳しく記されています。

これらに必要な物は、産婦人科医、脳外科医、麻酔科医、小児科医がとりあえずまず必要で、さらにICU、NICU、夜間緊急手術スタッフ、十分な輸血量の確保ぐらいは誰でも考えます。さらに手術は帝王切開と脳外科手術を並行して行なう必要があり、ドラマやマンガの設定なら神の手医師が奇跡の腕を振るう山場ですが、実際の現場では例外中の例外の出来事であり、そんな事をやった事のある医師の方が稀ですし、いずれにしても非常に高い水準の技量が求められます。しかも時刻は真夜中です。また受け入れてもリスクが非常に高い症例です。母子ともに非常に危険な状態で、母親は命だけでも救えればラッキーで、母子ともに死亡する可能性が非常に高いものと予想されます。

さらに受け入れ病院には非常に重い十字架が架せられています。最近の医療では不十分な体制で受け入れる事も非難される時代になっています。義侠心を出して手薄な体制で引き受け、結果として不幸な転帰を取った時には「引き受けた方が悪い」と非難の的になります。「なぜもっと万全の体制の医療機関に送らなかったのか」の厳しい批判です。批判は単なる言葉だけの問題ではありません。莫大な賠償金付きの訴訟が待っています。訴訟が起されればマスコミからのリンチのような社会的制裁が待っています。そんなものを受ければ病院の存亡に関わる事態になりかねませんし、担当した医師は医師生命を断たれてしまいます。

こうした医療の側に立つ方々の見解を読んでいくと、「18病院(のちに19となる)の受け入れ拒否」が死亡の原因であると考えることは、とうていできなくなってきます。

問題なのは、この出来事を「受け入れ拒否による死亡」と理解することが、単にひとつの出来事を理解し損なうことに留まらない点にあります。
誤った理解をもとに「搬送を拒否する病院はひどい」と判断したり、あるいは「医療の質が低下したのではないか」と批判の矛先を向ける。やがてそれは訴訟を支持したり、自分が何らかの形で巻き込まれた際に、誤解をもとに訴訟をする側になっていく。こうした行動こそ、最初のほうで引用した「産婦人科医」さんのいう「社会の無理解」ということなのではないか。そうしてそれは、やがてわたしたち自身に返ってくるのではないでしょうか。

確かにいまは情報を発信する側は、新聞やTVニュース、雑誌などのマス・メディアに限られることなく、インターネットにアクセスすれば、実にさまざまな情報を入手することができます。それでも、逆にその発信者が多すぎることで、いったいどれが信頼に足る情報源かわからなくなり、結局は大手新聞のニュースに依存している情況にはさほど変わりはないともいえます。

今回の報道でもあきらかなように、出来事は見る角度によって、まったく別の様相を呈するものです。わたしたちはこのように一方的な報道をもとに、簡単に判断をくだし、簡単にだれかを犯人扱いし、簡単にだれかを社会から排除しようとしているのではないか。
どうしてこういうことが起こってくるのだろう。
もっと公平無私な報道はできないのだろうか。
あるいはまた、一面的な報道を鵜呑みにすると、いったいどういうことが起こってくるのだろう。
わたしたちは、マスコミの報道をどう読み、どう考えていったらいいのだろうか。
ここではそうしたことを考えてみたいと思っています。







2.出来事の記述

ここではマスコミの具体的な記事に入る前に、もっとおおまかな、わたしたちの出来事を書き起こすときのやり方、ひいては、わたしたちの思考の一種の「クセ」をちょっと考えてみたいと思います。

あなたが電車に乗っている、とします。電車が急に止まった。
あなたはまず、「どうしたんだろう、原因はなんだろう」と思いますね。
まもなく車内放送があります。「前方で人身事故がありました」
それで、あなたの疑問はいったん解決します。
ここであなたは納得します。「ああ、人身事故があったんだな」
だから大学に行って話します。「今日さー、電車で人身事故があってさー、大変だったんだよ、電車が停まっちゃって」

ちょっとまって。
あなたが遭遇した出来事は「電車が停まった」ということのはずです。
ところが人に話すときは「人身事故があって、電車が停まった」と話します。
これはどういうことか。
ここで明らかになるのは、わたしたちは「単独で起こったことを出来事として認識しない」ということです。

いや、地震が起こったりしたら、単独ですぐわかる。
いえいえ、それもちがいます。あなたが経験しているのは、部屋が(地面が)揺れている、ということです。揺れている→これは地震だ、となって、「地震だ!」と叫ぶのです。

仮に、自分が遭遇した出来事だけを人に話すとします。
「今日さー、茅場町で東西線(の電車)が停まっちゃってさー」
話を聞く人は、かならず「で?」と聞き返すはずです。「あ、そう」とそれだけで終わってしまったら、気をつけてください、相手はあなたの話が聞きたくありません。そういう気の毒な人をのぞけば、間違いなく、○○が起こった、という話は、聞き手の「それからどうした?」という反応を引き出します。

ここからわかることは、わたしたちは起こったふたつのことを結びつけて、その最初の方を人に話す、ということです。
だからこそ、ひとつの出来事しか言わないと、それからどうしたのか、という反応を相手に呼び起こすのです。
これをこむずかしく言ったのが、アーサー・C・ダントです。
ダントは「物語文」の定義をこのように定義しました。

私がかかわっている種類の記述は、ふたつの別個の時間的に離れた出来事E1およびE2を指示する。そして指示されたうち、より初期の出来事を記述する。

アーサー・C・ダント『物語としての歴史』(河本英夫訳 国文社)

ダントはこういう文章を「物語文」と呼びますが、これは物語における文章という意味ではありません。
「この構造はまた、ある意味で通常行為を記述するすべての文に現れている」と言っているように、あらゆる出来事を記述しようと思ったら(話すこともふくめて)、かならずこういう形になります。

そうして、このふたつの出来事は、かならず「原因」と「結果」の形になっています。
「人身事故があって電車が停まった」(「人身事故があった」という「原因」と「電車が停まった」という「結果」)
「雨で洗濯物が乾かない」(「雨が降っている」という「原因」と「洗濯物が乾かない」という結果)
「小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある」(「二階から飛び降りる」という「原因」と「腰を抜かす」という結果)

ところが、出来事がふたつあれば、なんだってつなげられるか、というと、そういうことはありません。「電車が停まった」ということと「人身事故」は簡単に結びつきますが、「朝、コーヒーを飲んだ」ということは、通常結びつきません。「朝コーヒーを飲んで、電車が停まった」とはあまり言わないのです。これはどういうことなんでしょうか。

「人身事故」と「電車が停まる」というふたつの出来事は、結びつきやすい。
「コーヒーを飲む」と「電車が停まる」というふたつの出来事は、結びつきにくい。
実は、それだけのちがいでしかありません。(このことはあとでもういちど考えます)。

ここで、道を歩いていて転んでしまったAさんがいるとします。転んだAさんはあたりを見まわす。それは、もうひとつの「出来事さがし」のためです。
「なんで転んだんだ」(キョロキョロ)→「あ、あの石だ!」→「石に躓いたんだ」。
「転んだ」という出来事からさかのぼって、石を発見し、その石に躓いたから転んだ、と因果関係を認識し、さらに、その原因となる出来事を「起こったこと」と認識し、あー、石に躓いて転んじゃった、と自分にも言い、人にも告げ、ブログに「今日の出来事」として書くのです。

けれどもAさんが転んだのは、ほんとうに石が原因だったのでしょうか。

もしかしたら、足が疲れていて、ふだんにくらべて足があがらず、ひきずるように歩いていたために、ふだんだったら躓かないほどのでっぱりにも躓いてしまったのかもしれません。そうすると、疲労が原因で転んだのかもしれない。

あるいは、その疲労というのも、最近職場に配属されてきた新しい上司がイヤなヤツで、気分が鬱々として晴れず、夜も良く眠れない。だから、石に躓いたのも、上司が原因で、となると、上司が来たから転んだともいえる。

いやいや、地球に重力があるから転んだとも言える。もし地球に重力がなければ、そもそも石に躓くことさえなかったでしょう。

「今日転んだ」という出来事ひとつとっても、無限といってもいいほどの記述が可能です。そうして、そのどれもがその人にとっての「事実」なのです。
わたしたちは出来事を、時間的に離れたもうひとつの出来事と結びつけて認識します。 そうして、その「もうひとつの出来事」の選び方は任意なのです。

新聞記事も、当然記述です。ダントの言う「物語文」で書かれています。
上で紹介した新聞記事でも、焦点となる出来事は「妊婦さんが亡くなった」ということです。
そうして、その「原因」とされる一連の「事実」は、書き手の判断によって選択されたのです。

歴史家のE.H.カーは「事実」ということに関して、このように言っています。

実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。むしろ、事実は、広大な、時には近よることも出来ぬ海の中を泳ぎ廻っている魚のようなもので、歴史家が何を捕えるかは、偶然にもよりますけれども、多くは彼が海のどの辺で釣りをするか、どんな釣道具を使うか――もちろん、この二つの要素は彼が捕えようとする魚の種類によって決定されますが――によるのです。全体として、歴史家は、自分の好む事実を手に入れようとするものです。歴史とは解釈のことです。

E.H.カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳 岩波新書)

カーがここで言っているのは、歴史的記述のことですが、あらゆる記述は、先のダントの指摘にもあるように、「ふたつの出来事を関連づけ、そうして時間的に先に起こったことを記述する」という形式が取られます。

事実を記述する、ということは解釈を記述するということなのです。






3.「原因」と「結果」という迷宮

これまで見たことを簡単にさらっておきましょう。
わたしたちは出来事に遭遇すると、そこから過去を探って、もうひとつの出来事を引っ張り出し、そのふたつを結びつけて「出来事」として認識する。
そうして、それを記述するときは、先に起こった出来事を中心に記述する。
この先の出来事は、通常「原因」と呼ばれ、のちに起こった出来事は、「結果」と呼ばれることになります。

わたしたちがメディアから情報を得ようとするのは、「起こったこと」だけでなく、「その前に起こったこと」を知りたいからです。
「その前に起こったこと」を知るためには、調査活動が必要ですから、そうした手段を持たない一般の読者は、メディアにそれを期待します。そうしてそれを読むわたしたちは、メディアが見つけ出した「先行する出来事A」が起こったから、「出来事B」が起きたんだ、と認識します。つまり、ここで「出来事A」は「出来事B」の原因であると理解されるのです。

ところが「出来事A」というのは、そもそも「出来事B」が起きてしまってから、遡航的に見つけ出されたもうひとつの出来事でしかありません。そんなものをなぜ「原因」と呼べるのでしょうか。

「人身事故がある」→「電車が停まる」:因果関係として結びつきやすい。
このときは、わたしたちはそのまま「人身事故があったので、電車が停まった」という形で理解します。「はじめ」と「終わり」で区切られた出来事である。 では、こんな事例はどうでしょう。
「裏の畑で犬が吠えた」→「そこを掘ったら宝箱がでてきた」
これは非常に特殊な因果関係です。だから、この結びつきにくいふたつの出来事をつなげるために「物語」が要請されます。

わたしたちは人でも、出来事でも、物語の形でしか理解することはできません(※参照「物語をモノガタッてみる」)。
むかしむかしあるところに正直なおじいさんがいて……
こういう「物語の枠組み」を使うと、「裏の畑で犬が吠えた」→「そこを掘ったら宝箱がでてきた」ということも、立派に「原因」−「結果」として受け入れることができるのです。

そうして、「畑を掘ったら宝箱が出てきた」という出来事は、選び出す「先行する出来事」によって無限のバリエーションをもつ物語になっていきます。
いやいやそういえば、ゆうべ夢で、裏の畑を掘りなさいというお告げがあったんだった。
そのことを思い出したおじいさんは、「ないているポチ」ではなく「夢のお告げ」を出来事Aとして取り上げるかもしれません。そうなると
夢で、裏の畑を掘りなさいというお告げがあったおじいさんがそこを掘ったら宝箱がでてきました。
と、おじいさんの「物語」は修正されます。
その結果、同じ出来事であっても、物語はまったくちがうものになっていきます。

多くの場合、わたしたちはあたりまえのようにふたつの出来事を結びつけ、そこに原因と結果を見出していますが、多くの場合、その因果関係は経験的・習慣的にあまりにも密接になっているので、あらためて考えることもありません。雨が降っているときに、傘をささずに歩けば、体は濡れる。アイスクリームを食べ過ぎれば、体重が増える。夜更かしすれば、翌朝眠い……というように。

けれども、出来事はそういうものばかりではない。
「デンマーク国王が死んだ」(出来事A)ということと「弟のクローディウスが王位を継承した」(出来事B)というふたつの出来事をつないだ「デンマーク国王が死んで、弟のクローディウスが王位を継承した」という文章を、もしハムレットが受け入れていれば、ここで物語は終わります。
けれども、ハムレットはこの物語を受け入れなかった。
ハムレットが受け入れなかったのは「クローディウスが王位を継承した」ということですが、彼はさらに出来事Aをさかのぼろうとし、「なぜ王が死んだのか」と、出来事Aに先行する出来事を探そうとします。

1.デンマーク国王は老年だった。
2.デンマーク国王は諸外国とのうち続く戦争で、心身共に疲労していた。
3.デンマーク国王は三十歳になっても落ち着かない息子に心を痛めていた。
4.デンマーク国王は王位を狙われていた。
どれも先行する出来事には変わりはないのですが、ハムレットはこの4こそ「原因」であると考えるのです。

わたしたちが新聞を読んだり、TVのニュースを見たりするのは、予想していない、また、その意味がよくわからない出来事Bが起きたとき、先行する出来事Aを知りたいからです。そうして、この出来事Aというのは、出来事A1、A2、A3……、と、いくつもの可能性が考えられ、本来ならばどれとも容易には確定できないものです。だからこそ、その記述は慎重さが求められるのです。

ここで問題になってくるのが、この結びつきやすさは単に個人の恣意性を超えている、ということです。

わたしたちの社会には、すでにいくつかの物語がストックされています。王が死に、ついで王妃が死んだときは「悲しみのあまり」、王が死に、王妃が王の弟と再婚すると、「弟は邪な思いを抱いて、王を亡き者にした」、と、多くの人に受け入れられやすい、原因と結果の物語があります。わたしたちは自分たちがすでに知っている「人は見かけによらない」「人間は金で動く」「人間は欲」「金持ちは裏で悪いことをしている」……という物語を逆に出来事にあてはめて理解しようとします。そうして、その物語に沿ったかたちでの「先行する出来事A」が選択されるのです。

この物語は、時代に応じて形を変えていく、という特徴があります。「ストーカー」という言葉が社会にストックされると、「ストーカー」がらみの事件が新聞をにぎわすし、「出会い系殺人」という言葉がストックされると、似たような事件があちこちで起こります。それはそうした犯罪が、急に増えたというよりも、それまでにはなかった物語の枠組みで出来事ふたつを結びつけ、記述しようとするあらわれともいえます。

「出来事B」が起こり、取材によって、いくつかの「先行する出来事A1-n」を見つけた記者の頭の中には、これまでにストックされたいくつかの物語があるでしょう。そうして、その中のひとつが選び出され、同時にふさわしい「先行する出来事Axが選ばれて記述されます。

さて、ここで、もういちど冒頭の奈良の出来事を見てみましょう。

これが新聞報道の第一パラグラフです。

 奈良県* *の* *病院で今年8月、出産中の妊婦が意識不明の重体に陥り、受け入れ先の病院を探したが、同県立医大付属病院など19病院に「ベッドが満床」などと拒否されていたことがわかった。妊婦は約6時間後に約60キロ離れた大阪府吹田市の国立循環器病センターに搬送され、男児を出産したが、脳内出血のため8日後に死亡した。

新聞記事では「先行する出来事」は「19病院での受け入れ拒否」が選択されています。ここでの「物語」は、「ベストを尽くそうとしなかった医者たち」です。だからこそ、記事の最後に、客観報道としては必要がないはずの

 * *さんの夫で会社員の* *さんは「病院側は一生懸命やったと言うが、現場にいた家族はそうは感じていない」と話した。生まれた長男は* *ちゃんと名付けられた。* *さんと2人で考えた名前だったという。

という記述があるのです。
いっぽう、この出来事はこのように書くことも可能です。

子癇発作から脳出血を起こした妊婦に緊急治療が必要となったが、これの治療が可能である病院が夜間でもあり、なかなか見つからず、受け入れ病院を見つけ出すのに2時間以上かかった。

ここでは「先行する出来事」は「子癇発作から脳出血」が選択されています。
そうして、この「文例」を考案したブログの管理者氏は、この文章で一文を括っています。

救急体制の速やかな整備が求められる。

受けとる印象がまったくちがうのは、ここで描かれている物語が、まるで異なる物語だからなのです。たとえ「出来事B」が同一であっても。

わたしたちは、出来事を理解するために、つまり「出来事A」と「出来事B」のつじつまを合わせるために、物語の力を借ります。

そうして、発端となる出来事、わたしたちにとっては「結果」として認識される出来事が「よくないこと」の場合(報道の多くはそうなのですが)、わたしたちは「だれが悪かったのか」と、あたかも推理小説を読んで、そのなかから犯人を捜そうとするように、記事を読みながら「犯人」を求めます。そうして「原因」となる「出来事A」を引き起こした「犯人」を見つけるのです。

その「先行する出来事A」が、どこまで「出来事B」と関連しているのか。ほんとうのところ、その解明にはさまざまな調査や統計や実験、あるいは長い時間が必要なのかもしれないのに、わたしたちは書かれていることをそのまま受けとり、犯人を見つけてしまうのです。

では、「犯人」を見つけたわたしたちは、どうしようとするのでしょうか。
つぎはそのことを考えてみましょう。









4.犯人探しの問題


この「犯人探し」で問題になってくるのが、いったん「犯人」とみなされてしまうと、たとえ「犯人」と確定していなくても、ふだんだったら見過ごされているようなささいな過ちや、ちょっとした不注意、あるいは逆に親切な行為までも、つまりはいかなることでも、その人が「犯人」である「根拠」に結びつけられてしまうことです。

これは「いじめの構造」とよく似ています。

「いじめはいじめられるほうにも問題がある、というのはまちがいである」という考え方も徐々に一般的になってきて、ほんとうにうれしい限りですが、かならずしもその理由はきちんと説明されていないような気がします。

これも実は、「原因」と「結果」という物語のあらわれなのです。

「いじめ」という現象がP君にたいして起こっているとします。
それを目の当たりにしたあるQ君は、そこから先行する出来事を探します。
あいつは過去先生にチクッた。
この出来事を探そうとした時点で、「いじめられても当然」という認識まであと一歩です。 チクりであろうがなんであろうが、おそらくあらゆる人物に、該当する何らかの出来事は見つかるからです。

ほかの人間なら問題にはならない同じ出来事が、いじめられているP君にたいしてだけは、重要な出来事として、意識にのぼってくる。
こうして、Q君は「Pは先生にチクるようなやつだ」と、ダントの言う「先行するできごとE1」として認識するのです。

「先生にチクる」は、決してP君の専売特許ではありません。
具合が悪そうなR子さんに気がついて、「先生、R子さんが具合が悪そうです」と告げるのも、「先生にチクる」ことです(まぁそういう行為を「チクる」とは言いませんが)。

ほかにいじめられているS君のことを「先生、S君がT君たちにいじめられているみたいです」と告げるのも、「先生にチクる」ことです。

給食の牛乳に虫が入っていた。「先生、牛乳の中に虫が入っています」と言うことも、たとえば牛乳屋さんから見るならば「アイツ、先公にチクりやがって」ということになるかもしれません。

道路の向こうにいる知り合いに挨拶しようと思って手を上げたら、タクシーが停まってしまった経験がだれにもあるはずです。ここで「片手をあげる」という同じ行為がさまざまな人によって、さまざまに解釈されるように、「あることを先生に告げる」という行為がさまざまに解釈される。「いじめられているP君」に関しては、あらゆることがその「理由」となるのです。同じことをQ君もR子さんもS君もやっていても、P君だけが問題にされる、というのは、「原因」が「結果」を説明するために遡航的に見つけ出されたことだからにほかなりません。

同じように、わたしたちは自分の行為に関しても遡航的に「あのときああしていれば、こういうことは起こらなかったのに」と考えます。そうやって「ああ」しなかった自分を責めたり、反省したりします。けれども、そういうことが言えるのは、「出来事」が起こってしまったからなのです。

たとえば、コーヒーを飲もうとする。カップを取り上げる。カップの重さを手に感じる。湯気がたっている。少しすする。すする音がする……。
わたしたちはふだん、そういうことを気にしてはいません。ところが「すする音」に顔をしかめる人がいたら、自分がすすった音を、そのとき初めて意識する。
このように、出来事は無限に起こっています。
仮に「ああ」していたとして「こういうこと」が起こらなかったとしても、別のことが起こります。そうしてそれは、わたしたちには決して予想がつかない形で起こります。そうしてわたしたちはそこでまたふりかえって「そうしていたらよかったのに」と頭を抱えるのです。

こうした原因究明の姿勢が個人のうちに「反省」としてある段階では、それは決して悪いことではありません。あるいは、集団として、自分たちの組織のあり方の「反省」は、かならずその組織の運営に役立っていくでしょう。
けれども、わたしたちは多くの場合、他人にそれを向けてしまいます。

「あのとき、あの人がああしたから、こういうことが起こってしまったのだ」と考えて、その「あの人」を「犯人」として、「お前がああしたからこういうことが起こったのだ」と糾弾を始めることが、正当なことだと言えるでしょうか?
「あの人がああした」というのは出来事が起こってしまったあとに、遡航して見つけ出された「原因」にほかならないのに。
もちろん、出来事が起こるさまざまな要因のひとつとなったのかもしれません。そうでないかもしれません。

備えあれば憂いなし、と、さまざまな起こりうる事態に対処することは大切なことです。
けれども、百パーセント、不備のない状態というのは、絶対に不可能です。
何ごとかは確実に起こり、起こってから、わたしたちはそのことの「原因」を探しだし、ああ、こういうことをしてなかった、と気がつきます。
「原因」と「結果」はそういう関係にあるのです。

ところがわたしたちはそこから「犯人」を見つけ、さらに「犯人」をスケープゴートにしていきます。









5.犯人探しから排除へ


昨今、目立つ現象に、最初のメディア(新聞やニュースなど)の報道を見て「犯人」を探し出した週刊誌やワイドショーが「犯人」を叩く。それと連動する形で、あるいは昨今ではマス・メディアを先行する形で、一般の人が電話やメールで抗議する、ということがあります。そうしてこれはときに、批判の域を超えた、一種の魔女狩りの様相を呈するものとなっています。

ひとりの人間を標的にして、大勢の人間が批判を加える。そうして、批判することで人々は結束を強めていく。

これも教室におけるいじめの構造と一緒です。
スケープゴートにされる子が選ばれ、やがてクラス全員を巻き込んでいく。いじめを正当化する理由はかならず見つかります。そうして最初は傍観するだけだった子供たちも、その批判に賛同したり、あるいは自分が標的にされることを怖れてその中に加わっていく。
ひとりのスケープゴートを選ぶことによって、クラスは逆にまとまっていくのです。

ほんの少し前に、個別的な無数の葛藤、互いに孤立した敵対する兄弟の無数のカップルがあったところに、再び一つの共同体があらわれる。それは、単に構成員のひとりがその共同体に吹きこんだ憎悪の中で、完全に一つになったものである。異なった無数の個人の上に分散された一切の悪意、てんでんばらばらに散っていた一切の憎悪は、爾来、ただ一人の個人、贖罪の牡山羊の方に収斂してゆく。

ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』(法政大学出版局)

こうしたことは、いまに始まったことではありません。16世紀から17世紀にかけての「魔女狩り」は犠牲者は数十万人にのぼるといいますし、ナチスのホロコースト、アメリカでの赤狩りも同じ構造をもっています。

新聞が煽る、マスコミが煽る、ということではなしに、人間は昔から集団として結束していくために、集団内部から「いけにえ」を選ぶことで結束を強め、自分たちの正しさを確認しようとしてきたのです。

さらに、現代の先進諸国ではこれを促進する要因があります。
日本や欧米諸国では、ものがあふれています。わたしたちは実際の必要をはるかに超えて、消費し、さらに「この秋着たい服」と、広告によって消費が煽られています。

この消費を煽る広告は、いったい何を語っているのか。

広告の《表向きの》言説には、製品Xを使用したおかげでへつらいの賞賛に包まれることのできた人物が登場している。彼らのようにしなさい、そうすれば必ず同様の賞賛が得られるでしょう、と広告は語る。…(略)…だがここでは表現されていないが、より深い水準で表現されている言説がある。…(略)…

もてはやされるとともに仲間に対して見事なほど無関心な主人公は、全く明らかに自律的な存在であり、彼の欲望は自発的なものであり、その彼が製品Xを選ぶとすれば、それは当然彼自身の判断によるものである。…(略)…

製品Xに結びついたこの自己充足こそが、取りまき連中の賞賛を主人公にもたらすのである。もはや他者を模倣しなくてもよく、他者のほうがあなたを模倣する、あなたもこの楽園に到達するためには、と広告の第二の言説は語る。あなたのなすべきことはただひとつ……模倣することです、と。

デュムシェル/デュピュイ 『物の地獄 ルネ・ジラールと経済の論理』
(織田年和/富永茂樹訳 法政大学出版局)

一方で、わたしたちは「自分の考えを持て」「自分らしくあれ」と言われ、自分でも「ほんとうの自分」「わたしらしい自分」を認めてほしい、と思っています。
ところが「ほんとうの自分」など、いったいどこにいるというのか。誰が自分を認めてくれるのか。どこにもいないじゃないか。
満たされない思いを抱えて、ふと脇を見ると、賞賛に取り囲まれた「誰か」がいます。

その「誰か」――美しいモデルや海外でも活躍するスポーツ選手――が持っている/身につけている/乗っているものをあなたが買えば、あなたもその人になれる。
広告が言っているのは、それだけではないのです(いくらわたしたちだって、「ヒデ」と同じカメラを持っても「ヒデ」にはなれないことは知っています)。
そうではなくて、これを自発的に選ぶあなたは、未だ持っていないほかの人から、「ヒデ」と同じように「自分らしくあることができる」人とみなされる、つまり、模倣される側に回ることができると広告は呼びかけている、とデュムシェルは言います。

わたしたちがある物が「ほしい!」と思うのは、それがすばらしいからでも、それを所有していればみんなから「スゴイ」と思われるからでもなくて、だれかを模倣しなくてはならないような自分ではなく「ほんとうの自分」、逆に、ほかの誰かが真似たくなるような自分になれるからだ、と、わたしたちはどこかでそう思っている。
ところが新製品は、瞬く間につぎの新製品に取って代わられ、わたしたちはつぎのそれが「ほしい!」と思わされます。そうして、わたしたちは慢性的な欲求不満を募らせてゆく。

大量に生産され大量に消費されることを必要とする「物」は、物が本来持っていた価値を失って、「××とはちがう」という記号でしかなくなっていきます。
自分らしくあるための行動が取れるのは、もはや消費活動に参加する道しか残っていないのに、そこに入っていくと、今度は果てしのない「物の地獄」、買えなかったときには、あれほどすばらしく見えた「それ」が、手に入れた瞬間に輝きを失い、別の人が持っている「あれ」が欲しくなる世界が待ち受けている。
わたしたちが置かれている現代社会というのは、そういったところなのではないか。

第三項排除現象は、狭い意味での宗教的空間や人種差別にかぎられるのではなくて、経済、政治、文化のあらゆる領域に見られる。それも日常的に見られ、気づかれないほどに自明の事実となった。…(略)…

現代人は、群集的人間であり、模倣欲望に憑かれた鏡的人間である。この時代では、分身的人間群がたえず全員一致を極端に強要する時代である。どの時代にもありえなかった特異な時代である。現代では模倣欲望がきわめて強大になり、人間のなかに巣喰う模倣性と伝染性は巨大になる。

今村仁司『排除の構造』(ちくま学芸文庫)

学校でいじめが原因とされる自殺が報道され、いま「いじめ」問題が何度目かにクローズアップされていますが、おそらくそれは、学校という集団が、わたしたちが所属するほかのどんな集団よりも、拘束力にしても、取りこむ力にしても、圧倒的に強いからにほかならないために、より目につきやすい形であらわれているということではないのでしょうか。学校ばかりでなく、おそらく職場でも、地域でも、あるいは何らかの事件をきっかけにする形で、実際にさまざまな局面で排除現象は日々、起こっている。
「新小児科のつぶやき」の管理者さんのコメントに見られる「批判は単なる言葉だけの問題ではありません。莫大な賠償金付きの訴訟が待っています。訴訟が起されればマスコミからのリンチのような社会的制裁が待っています」というのも、排除行動の現れのひとつと考えることができます。

たしかにこの問題は簡単ではありません。
それでも、できることから始めていかなくてはなりません。それは、少なくとも「こういう状態を引き起こした犯人探し」であってはならない。
そこで、マス・メディアによる報道の読み方を少し変えてみることを提案したいと思うのです。








6.報道をどう読むか


どれだけインターネット上でニュースサイトが乱立しても、実際に取材活動が行える手段を持っているのは、マス・メディアに限られます。 多くのニュース・サイトが「一次情報」としているのは、新聞だし、映像はニュースに拠っています。
それだけにニュースを読んだり見たりするわたしたちの「リテラシー」(活用する能力)が問われているともいえます。

一方で、マス・メディアの報道のありかたを批判する声も高まっています。
確かに、さまざまな事件の取り上げ方を見ても、そのやり方はどうなんだろう、と思うものも少なくないし、冒頭で取り上げた、出産中に意識不明に陥って亡くなられた妊婦さんをめぐる報道のように、医療現場で働く人に対して、誤った見方を引き起こしかねないようなケースもあります。

それでも、これもすべてマス・メディアが悪いのだ、という見方を、わたしはしようとは思いません。

そもそも記述というものは、ある出来事が起こってから、先行する出来事を探し出し、そのふたつを結びつける、恣意的な解釈であるからです。そうして、それは「原因」と「結果」をつないで物語を作ることによってしか、出来事を認識できない、わたしたちの思考のクセに起因しているものだからです。

あらゆる記述は、かならず「結果論」です。
そうして、そのなかにはかならず「原因」、つまり「犯人」が含まれています。
あらゆる記述がそうであるということをまず知ったうえで、わたしたちはそのつぎのことを考えていかなければならないのだと思うのです。

出来事を知ったわたしたちは、それが悲惨であればあるほど、正義感が強く刺激されて「いったい誰が悪いんだ?」という方向に意識は進んでいきます。そうして、報道を見ると、そこには原因がありますから、容易に「犯人」を見つけることができる。
そうして、犯人を糾弾し、そんなヤツがいるからこんなことが起こるのだ、そんなヤツは共同体から追い出してしまえ、という発想をするようになります。

もちろん、こうしたことは、いまに始まったことではない。
昔から人間の集団は、その集団が危機に瀕したとき、集団の内部にいる「誰か」を排除することで、集団を再生し、浄化し、結束を強めてきたという歴史があります。
けれども、現代の消費社会によって、そうした排除の構造は、いっそう促進されているのではないか。

一方で、アイデンティティを持つことは重要である、と言われながら、「自分らしくある」「自分が認められる」場面というのは、消費行動以外ではなかなかむずかしい。
絶え間なく消費を呼びかける広告(TVにしても新聞・雑誌にしても、広告があふれています)を見ながら、わたしたちは互いに互いを模倣しあい、一方で、「差別化」し、自分が選択しないものを排除するということを日常的にやっていきます。微妙な差異によって一方が他方を排除する、そうして、自分が排除される側ではないことを、つねに確認し続けていなければ、落ち着かない状態に追いやられています。

そうした意味で、もしかしたら、いまのわたしたちは、かつてないほどスケープゴートを必要としているのかもしれません。

マス・メディアは毎日毎日、さまざまな「事件」を報道します。
事件Aでは、A’という犯人を明らかにし、それが下火になると、事件Bでは、B’という犯人を告げ、さらに数日すると事件Cでは……、と報道していきます。

わたしたちは、そうした犯人を糾弾し、排除しながら、自分が排除される側ではなく、する側、集団の一員であることを確認しているのかもしれません。
ちょうど、教室でいじめられている子に向かって「こういう理由があるんだから、いじめられて当然」と思っているクラスメイトのように。
けれど、事件Dでの犯人D’が自分ではない、という保障はどこにもないのです。

マス・メディアが悪い、と犯人をもうひとり作ってしまっても、そんなことをしても意味がありません。
ならば、どうしたらいいのか。
今村仁司はこのように言います。

一般に、個々人は、互いに、異者である。異者を同一性の文法にのせて、「秩序のなかでの他者」に作りかえることが、人間社会の余儀ない作法である。異者が「同一性枠内での他者」に切り換えられる(つまり「市民的人間」になる)としても、だれでも自己の内部に、完全には同一化されざる異者をかかえている。ふつうはこの異者性を抑圧し忘却しているが、これを根絶することはできない。

社会のなかで生きる人間は、すでに自分の内部で異者の排除と差別という社会性のドラマと同じドラマを生きているのである。自己の内部の異者に気づくことからはじめるのが、排除と差別の回路を断つ第一歩である。自分の内部の異者を見ることは反省の努力である、そこでこそ理性の能力が試される。社会の文脈で、犠牲者の位置に立つ覚悟性も、自己内反省のたえざる反復に支えられる。認識の努力と倫理の実践とは、ここでは不可分のことである。天性無垢の人なら難なくやりとげることを、われわれ凡庸な人間は、認識と反省という理性の力をかりなくてはならない。思想という無力なものが、なお口にされなくてはならない理由あるいはその存在理由は、まさにここにあるだろう。

今村仁司『近代性の構造』(講談社メチエ)

あらゆる問題は、当事者によってしか解決することはできません。
だから、わたしたち自身が、当事者となる。自分の問題として考える。
そうして読むときは、あらゆる記述は「原因」−「結果」からなるものであり、そのなかに「犯人」が描かれているのだ、ということをわきまえて読む。「事実」というものは、記述者の解釈にほかならないのだということを知る。集団の中の異者を探し出し、排除するのではなく、ひとりひとりが異者でありながら集団を形成しているのだ、という認識に立つ。

「自分の問題」として考える。
そのために、報道を読む。そういうものとして読む。

それが報道の読み方ではあるまいか、とわたしは考えるのです。






初出 Oct. 21-27 改訂 Nov.06, 2006

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