ここではトルーマン・カポーティの短編『ミリアム』を訳しています。
この作品は1945年、カポーティが十九歳のときに書いたもので、雑誌「マドモワゼル」に発表ののち、翌年、生涯に三度受賞することになるO・ヘンリー賞を最初に受賞することになります。やがてこの作品は『誕生日の子供たち』などと一緒に短編集『夜の樹』に収められます。
現実と非現実のあわいから雪と一緒に舞い降りてきたようなひとりの少女。
どう考えても天使ではなさそうなミリアムは、いったい何者なんでしょうか。
そもそもほんとうに実在したのでしょうか?
原文は http://www2.r8esc.k12.in.us/socratic/resources/Miriam.html
で読むことができます。
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ミリアム
by トルーマン・カポーティ

ミセス・H・T・ミラーがイースト・リヴァーにほど近い、ブラウンストーン造りの屋敷を改装した快適なアパートメント(二間に小さな台所)で一人暮らしをするようになってから、数年になる。ミセス・ミラーは寡婦だったが、H・T・ミラー氏がそれ相応の保険金を残してくれていた。なにごとにもさほど興味を示さず、話に興ずる友人もない、角の食料品店よりさきへ出かけることもまれだった。同じ建物の住人も、ミセス・ミラーのことなど気がついていなかったかもしれない。ありふれた服装、鉄灰色の髪を切り詰めて無造作にパーマを当てている。化粧もせず、平凡で、人目を引くところのない顔立ちのミセス・ミラーは、誕生日が来て六十一歳になった。気の向くままに何ごとかするようなことも絶えてなく、二間の部屋を塵一つない状態に保ち、ときたま煙草を吹かし、自分のために食事の用意をして、カナリアを一羽、飼っていた。
そんなころ、ミリアムに会ったのだった。雪の降る夜だった。夕食の皿を拭き終えてから夕刊にざっと目を通していると、近所の映画館でやっている映画の広告が目を留まった。タイトルがなんだかおもしろそうで、あたふたとビーヴァーのコートに袖を通すとと、雨靴の紐を結んで、部屋をあとにするときに、玄関のあかりをひとつ、つけたままにしておいた。暗闇ほどミセス・ミラーが不安を感じるものはなかったからだ。
細かな雪が静かに降り続いていたが、舗道に積もるほどではなかった。川からの風が交差点を吹き過ぎる。ミセス・ミラーは頭を下げて、真っ暗な穴を掘り進むモグラのように、一心不乱に先を急いだ。ドラッグストアでペパーミントのキャンディーをひとふくろ買った。
チケット売り場の前には長い列がのびている。その最後尾に並んだ。入場までいましばらくお待ちください、と疲れた声がうめくように言っている。ミセス・ミラーは革のハンドバッグのなかをさぐって、チケット代きっかりの小銭をかき集めた。列はなかなかすすみそうもない。退屈しのぎにあたりを見まわしていたミセス・ミラーは、ふと、入り口のひさしの下、端のほうに、少女がひとり立っているのに気がついた。
その子のように長く、不思議な色の髪は、ミセス・ミラーもそれまでに見たことがなかった。白子のようにまじりけなしの銀白色なのだ。つやのあるサラサラとした髪は腰まで届いている。か細く、いかにもはかなげな体つき。気取りのない、そのくせ独特の優雅なたたずまいで、両手とも親指だけを、男仕立ての茄子紺のヴェルヴェットのコートのポケットに突っこんで立っていた。
ミセス・ミラーは奇妙なほどに胸がドキドキしてしまい、少女が自分のほうをちらっと見たときには、優しく笑いかけていたのだった。少女はこちらに歩いてきた。「もしよかったらお願いをきいていただけませんか」
「ええ、喜んで。わたしにできることだったら」とミセス・ミラーは答えた。
「あのね、すごく簡単なことなの。わたしの切符を買ってくださらない? そうでもしなきゃ、あの人たち、わたしを入れてくれないんだもの。お金ならここにあるの」そういうと、しとやかな手つきで十セント硬貨を二枚、五セント玉を一枚渡した。
ふたりは一緒に劇場に入った。案内係りがふたりを休憩所に案内し、あと二十分で映画が終わります、と言った。
「なんだかほんものの犯罪者になった気分」ミセス・ミラーははしゃぎながら、ソファに腰を下ろした。「こういうことは法律違反なのよね? ほんと、悪いことじゃなかったらいいんだけど。お母様はあなたがここにいるってご存じなんでしょう? ね、そうよね?」
少女はなにも答えなかった。ボタンを外して、コートをたたみ、膝の上に置く。下に着ているワンピースは、上品な紺色のものだった。首にはゴールドのチェーン、繊細な指先は、楽器でも奏でるかのようにそれをもてあそんでいる。詳しく見るうち、ミセス・ミラーは、少女が際立っているのは、髪というよりもその目のせいだ、と考えた。ハシバミ色の目は、落ち着き、子供っぽい色などどこにも見あたらない。その大きな目が、少女の小さな顔を、すっぽりと吸いこんでしまっているようでもあった。
ミセス・ミラーはペパーミントのキャンディを差し出した。「お名前はなんていうの?」
「ミリアムよ」そう答えたのだが、その声には奇妙な響きがあった。そんなこと、よく知っているでしょう、とでもいうような。
「あらあら、それはおもしろいわね。わたしの名前もミリアムなのよ。ミリアムなんてそこまでありふれた名前ではないわよね。まさかあなたのラストネームはミラーなんかじゃないわよね?」
「ミリアム、ってだけ」
「だけどそれは変じゃなくて?」
「いくぶんかは」ミリアムはそういうと、ペパーミントのキャンディを舌の上で転がした。
ミセス・ミラーは赤くなって、居心地悪げに座り直した。「小さなお嬢さんにしてはずいぶんいろんな言葉を知っているのね」
「そうかしら?」
「そう思うわ」そう答えたミセス・ミラーは、あわてて話題を変えた。
「映画はお好き?」
「実際のところはよくわからない」ミリアムは答える。「これまで見たことがないんだもの」
休憩所は女性でいっぱいになってきた。ニュース映画の爆弾の音が遠くで響く。ミセス・ミラーはハンドバッグを小脇にはさんで立ち上がった。「席に座るんだったらそろそろ行った方がよさそう」そうして言い添えた。「お会いできてよかったわ」
ミリアムはかすかにうなづいてみせた。
雪は週のあいだずっと続いた。通りを行き交うタイヤも人の足音もかき消えて、日々の営みは、あるかなしかの、それでいて見通すこともできないカーテンの向こう側で、ひそかに続いているかのようだった。静けさのたれこめるそこは、天も地もなく、ただ雪だけが風に舞い、窓ガラスを凍てつかせ、部屋をこおらせ、街の生気を吸いこみ、おしだまらせた。一日じゅう明かりが必要で、ミセス・ミラーは曜日の感覚を失った。金曜日と土曜日の区別がなくなり、日曜日に食料品店に行ってしまう。当然、店は閉まっていた。
その夜はスクランブルドエッグとトマトスープを作った。そのあと、フランネルのローブに着替えて、顔にコールドクリームを塗り、ベッドにもたれて半身を起こして、足の下に湯たんぽを置いた。ニューヨークタイムズを読んでいると、ドアベルが鳴った。最初は、部屋をまちがえているのだ、と思った。誰がまちがえているにせよ、そのうち行ってしまうだろう。ところが何度も何度もベルは繰りかえし、やがて間断なく鳴り続けるようになった。ミセス・ミラーは時計を見た。十一時を少し回っている。ありえないことだった。いつも十時には眠っているのだから。
ベッドから下りて、はだしのまま、小走りにリビングを抜けた。「すぐに行きます。ちょっと待って」かけがねに手がかかる。上下左右にがちゃがちゃやっているあいだにも、ベルは一向になりやまない。「やめてちょうだい」大きな声を出した。やっと差し金が外れて、ミセス・ミラーは三センチばかりドアを開けた。「いったいどうしたっていうの」
「こんばんは」ミリアムが言った。
「あら……そうね、こんばんは」ミセス・ミラーはそう言うと、おずおずと廊下に足を踏み出した。「あのときのお嬢さんね」
「出てきてくださらないかと思ったから、ずっと押しっぱなしにしちゃった。いらっしゃるってわかってたのよ。わたしに会えて、うれしくない?」
ミセス・ミラーは何と答えてよいものやら見当もつかなかった。ミリアムは同じ茄子紺のヴェルヴェットのコートを着て、今夜はそれによく合うベレーをかぶっている。白い髪を二本のきらきら光る三つ編みに結わえ、先をひどく大きなリボンで留めていた。
「ずいぶん待ったんだから、せめてなかへ入れてくださるわよね」ミリアムは言った。
「でも、すごく遅いのよ」
ミリアムは無表情に見返した。「だからどうしたっていうの? 入れてちょうだい。外にいちゃ寒いし、わたし、シルクのワンピースを着てるのよ」そういうと、ミセス・ミラーを軽く脇に押しやって、部屋のなかに入っていった。
コートとベレーを椅子の上におろした。確かにシルクのワンピースを着ている。白いシルク。二月に白いシルクを。スカートには美しい襞がついていて、袖は長い。部屋をそぞろ歩くのにあわせて、かすかな衣擦れの音が響いた。「すてきなおうち」ミリアムが言った。「この敷物もいいわね。わたし、青がいちばん好き」コーヒー・テーブルの花瓶に挿してある紙のバラにさわった。「造花」がっかりしたように言う。「悲しいわ。本物じゃないなんて、悲しくない?」スカートを優雅に広げて、ソファに腰を下ろした。
「何かご用だったのかしら」ミセス・ミラーはたずねた。
「座ったらどう」ミリアムは言った。「人が立ってるのを見ると、なんだか落ち着かない」
ミセス・ミラーは足をのせるクッションに腰を下ろした。「どういうご用なの?」もう一度聞いた。
「なんだかわたしが来たのがうれしくなかったみたいね?」
答えに窮したミセス・ミラーは、やがてあいまいに手をふった。ミリアムはクスクス笑いながら、重ねたインド更紗のクッションによりかかった。ミセス・ミラーは少女が記憶していたほど青白い顔をしていないことに気がついた。ほほには赤味がさしている。
「なんでここがわたしの家だとわかったの?」
ミリアムは眉をひそめた。「そんなの、わかりきったことじゃない。あなたの名前はなんだったかしら? で、わたしの名前はなんだった?」
「だけど、わたしは電話帳に名前を載せていないのよ」
「ねえ、もっとちがう話をしましょうよ」
ミセス・ミラーは言った。「あなたのお母様はずいぶんおかしな方ね。あなたのような子供を夜になってもおかまいなしにぶらつかせたりして。おまけにこんなとんでもない格好をさせて。とても、まともとは言えないわ」
ミリアムは立ち上がると、部屋の隅の、カバーがかかった鳥かごを、天井から鎖で吊しているところへ歩いていった。カバーの下からなかをのぞいた。
「カナリアね。起こしてもいい? 鳴き声が聞きたいな」
「トミーにはかまわないで」ミセス・ミラーは気遣わしげに言った。「お願いだから、その子を起こさないで」
「わかったわ」ミリアムは答えた。「だけどどうして鳴き声を聞いちゃだめなのか、わからない」それからこう続けた。「何か食べるもの、ない? おなか、ぺこぺこなの。ミルクとジャムサンドイッチだけでもいいんだけど」
「よく聞いて」ミセス・ミラーも立ち上がって言った。「あのね、おいしいサンドイッチを食べさせてあげたら、いい子ですぐにお家に帰るのよ? もう真夜中を過ぎてるわ、きっと」
「雪が降ってるのに」とがめるようにミリアムは言った。「寒いし、暗いわ」
「あのね、そもそもここに来たのがまちがってたのよ」ミセス・ミラーはなんとか感情を抑えようとした。「わたしにはお天気はどうすることもできない。何か食べたいんだったら、帰るって約束してちょうだい」
ミリアムはおさげで頬をなででていた。考えこんでいるような目、申し出をはかりにかけるような目をしている。鳥かごの方を向いた。「わかったわ。約束する」
あの子はいくつなのかしら。十歳? 十一歳? 台所に立ったミセス・ミラーは、いちごジャムのびんの封を開け、パンを四切れ切った。ミルクをコップに注ぐと、ひと息置こうと煙草に火をつけた。それにしても、あの子はどうしてここに来たんだろう。マッチを持つ手がぶるぶる震えていたが、考えに夢中になっていたために、あやうく指先をやけどするところだった。カナリアが鳴いている。朝だけの、ほかの時間帯には決して出さないような声でさえずっている。「ミリアム」ミセス・ミラーは呼んだ。「ミリアム、トミーにはかまったりしないで、って言ったでしょう?」返事はない。もう一度呼んだ。聞こえてきたのはカナリアの鳴き声だけだった。煙草をひとくち吸って、自分がフィルターの側に火をつけていたのに気がついた。まったく、もう、カッとしちゃいけないわ。
食べ物をお盆にのせて持っていき、コーヒー・テーブルに並べた。すぐ、鳥かごに目をやったのだが、夜かけておくカバーもかかったままだ。なのにトミーはさえずっている。奇妙な胸騒ぎを覚えた。部屋には誰もいない。ミセス・ミラーはベッドルームに続く小部屋に入っていった。戸口で息を呑んだ。
「あなた、何をしてるの」
見上げるミリアムの目には、何か尋常ではない色が浮かんでいた。化粧ダンスの横に立つミリアムの前には、蓋を開いた宝石箱がある。ミセス・ミラーに目をすえて、なんとか視線をとらえようとし、それからにっこりわらった。「たいしていいものはないのね」と言った。「だけど、わたし、これ、好き」その手にはカメオのブローチがのっていた。「かわいいもの」
「戻したほうが良さそうね」そう言ったミセス・ミラーは、不意に、支えなしでは立っていられないように感じた。ドアの枠によりかかる。頭が重くなり、動悸を打つ心臓は、何かに押しつけられたようだ。明かりは故障でもしたのか、ちかちかしている。「やめて、お嬢さん。これは主人がくれたものなの」
「だけどきれいなんだもの、わたし、ほしいわ。もらってもいいでしょ」
立ったまま、どう言ったらブローチを取り戻せるだろうか、と必死に頭をめぐらしていたミセス・ミラーの脳裏に、不意に、ここにはわたしが頼れる人間など誰もいないのだ、ということが浮かんだ。自分はたった一人だ。長いあいだ考えたこともなかったが、事実だった。この厳然たる事実に愕然とした。だが、音もなく雪の降りつもる街の、この部屋にはその証拠ならいくらでもある。わたしはそれを無視することも抵抗することもできないのだ、とミセス・ミラーは痛切に思い知らされたのだった。
ミリアムはがつがつと食べ、サンドイッチとミルクがなくなると、指を皿の上で蜘蛛が巣を張るように動かして、パンくずを集めた。カメオはブラウスの上で光りを放ち、その白い横顔は、まるでそれをつけている少女を精巧に模したようだ。「すごくおいしかったわ」少女はため息をついた。「だけど、アーモンド・ケーキとか、さくらんぼとかがあったら、最高よね。甘いものっておいしいわよね、そうじゃない?」
ミセス・ミラーは足置きのクッションに危なっかしく腰を下ろし、煙草をふかした。ヘア・ネットがずりおち、ほつれた髪が顔にたれている。焦点を失った目を見開き、頬には赤い斑点が、まるで平手打ちをされたあとが永久に消えなくなってしまったかのように浮きあがっていた。
「キャンディはない? ケーキとか」
ミセス・ミラーは敷物の上に灰を落とした。目の焦点を合わそうとして、頭をかすかに振った。「サンドイッチを作ってあげたら帰るっていう約束だったわね」
「あら、わたし、そんなこと言った?」
「約束だったわ。それに、疲れているし気分も良くないの」
「イライラしないでよ」ミリアムは言った。「冗談言っただけじゃない」
コートを取り上げて腕にかけると、鏡の前でベレーを直した。それからミセス・ミラーの方にかがんでささやいた。「おやすみのキスをしてちょうだい」
「ごめんなさい、そんな気にはなれない」ミセス・ミラーは答えた。
ミリアムは片方の肩だけすくめ、眉も一方を持ち上げた。「お好きなように」そう言うと、まっすぐコーヒー・テーブルのほうに歩いていき、紙のバラが挿してある花瓶をつかんで、床の固い表面が剥きだしになっているところまで歩くと、力一杯投げつけた。ガラスは四方に飛び散り、バラの花束は、足の下で踏みにじられた。
ゆっくりとミリアムはドアまで歩き、閉める前に振り返ると、ミセス・ミラーをずるがしこくも無邪気にも見える、おもしろがっているような目で見つめた。
翌日、ミセス・ミラーはベッドのなか、一度起きてカナリアに餌をやり、紅茶を一杯飲んだほかは、ずっと寝たきりで過ごした。計っても熱はなかったが、熱に浮かされたように夢ばかり見ていた。夢のなかでのバランスを欠いたような感じは、目を見開いて天井を見ているときも続いた。ひとつの夢が、複雑な交響楽の曖昧でとらえどころのない主旋律のように、別の夢によりあわされ、夢のなかのけしきは、鮮明なシルエットに彩られて、まるで天分を与えられた手が一心不乱に描いたスケッチのようだった。小さな女の子がウェディングドレスを着て草の冠を頭に載せて、灰色の行列を従えて山道を下っていく。人々のただならぬ静けさのなかから、列の最後尾の女が声を上げる。「あの子はわたしたちをどこへ連れて行ってるの?」「だれも知らぬのじゃ」先頭をゆく老人が答える。「だけど、きれいな子だこと」三番目の声が、話に加わった。「霜の華みたいじゃない? あんなにきらきらと白くって」
火曜日の朝、目が覚めたときには、気分もずいぶん良くなっていた。目を射るような日差しがブラインドのすきまから斜めに差しこみ、病的な幻も霧散した。窓を開けると、雪は解け、春のように穏やかな日だった。汚れない生まれたての雲の群れが身を寄せ合って、季節外れなほど青くひろびろとした空に浮かんでいる。低く軒を連ねる屋根の向こうに、川が見え、タグボートの煙突の煙が、穏やかな弧を描きながら風にたなびいていた。大きな銀色のトラックが通りに積もった雪を除雪し、機械が唸る音が風に乗って運ばれてくる。
部屋を片づけて、食料品店まで出向いて小切手を現金に換え、シュラフトの店まで足を伸ばして、朝食をとり、ウェイトレスと楽しいおしゃべりをした。なんてすばらしい日、まるで祝日のよう。家に帰るなんてもったいない。
レキシントン街行きのバスに乗り、八十六丁目まで北上した。ここでちょっと買い物をしよう、と考えたのだ。
買いたいものも、必要なものも、当てがあるわけではなかったのだが、ぶらぶらと歩きながら、行き交う人のうち、きびきびと忙しそうな人にばかり目が向いた。そうした人々を見ていると、自分がのけものにされたようで、なんだかどぎまぎした。
三番街の角の交差点で待っているとき、ひとりの男を見かけた。がに股の老人で、ふくらんだ包みをいくつも腕に抱えて、前かがみで立っている。みすぼらしい茶色のコートに格子縞の帽子。不意に自分がその老人と、笑みを交わしていることに気がついた。親しみなどこもらない、ただ、互いを認めたために、一瞬、冷ややかな笑みを浮かべたというだけだ。だが、相手がこれまでに会ったことのない人間であることにはまちがいなかった。
老人は高架鉄道の橋脚の脇に立っていたのだが、ミセス・ミラーが通りを渡ると、向きを変えてついてきた。すぐ真後ろを歩いている。目の隅で、ショーウィンドーに揺れる男の姿をじっと見ていた。
そのブロックのまんなかあたりで立ち止まると男と向き合った。男もやはり立ち止まり、にやにやしながら頭を反らした。何が言える? 何ができる? こんな真っ昼間、八十六丁目で。愚かなこと。自分の無力さにうんざりしながら、ミセス・ミラーは足を速めた。
つぎの二番街は寂れた通りで、がらくたの寄せ集めでできている。石畳のところ、アスファルトのところ、セメントのところ。うち捨てられた雰囲気がどこまでも続いていく。ミセス・ミラーは五ブロック歩いたが、だれひとりとして行きあわず、そのあいだも雪を踏む男の規則的な足音は、ずっとついてきていた。花屋にさしかかったが、それでもまだ足音は続いている。急いで店に入り、ガラス越しに老人が行き過ぎていくのを見つめた。前方にまっすぐ目を向けたまま、歩くペースを落とすこともなかったが、ひとつだけ奇妙な、意味ありげな仕草をした。挨拶でもするように、帽子をひょいと指で傾けたのだった。
「白いのを六本でしたね?」花屋が聞いた。「ええ」ミセス・ミラーは言った。「白いバラを」そこからガラス製品を扱う店に行き、花瓶をひとつ選んだ。ミリアムが壊したものの代わりになるだろう、と考えたのだが、おそろしく高かったうえに、花瓶自体も(彼女の見たところ)グロテスクなほど俗悪なものだった。そのあとも、説明のつかない買い物は続いた。まるであらかじめ計画が、知らないままに立ち、どうすることもできないような計画があったかのように。
さくらんぼの砂糖漬けをひとふくろ買い、ニッカボッカ・ベイカリーという店で、四十セント出してアーモンド・ケーキを六個買った。
数時間もすると、あたりはふたたび寒気におおわれた。冬の雲が曇ったレンズを通したように太陽を翳らせ、気の早い夕闇が空をすっぽりと覆った。湿ったもやが風と入り交じり、通りの両脇の溝に積み上げられた雪にのぼってはしゃいでいる子供たちの声も、もの寂しくうつろに響いていた。やがて最初の雪がひとひら舞い降りてきたかと思うと、ミセス・ミラーがブラウンストーンのアパートに帰りつくころには、ふりしきる銀幕となって、足跡がついた先から消していった。
白いバラを花瓶に活けて飾る。さくらんぼの砂糖漬けは陶器の皿の上で輝いた。砂糖をまぶしたアーモンド・ケーキは、手が伸びるのを待っている。カナリアはブランコの上で羽根を羽ばたかせ、種が入ったえさ筒をついばんでいた。
五時きっかりにドアベルが鳴った。ミセス・ミラーにはだれが来たのかわかっていた。部屋着のすそをひきずりながら、部屋を横切った。「あなたなの?」そう声をかけた。
「あたりまえじゃない」ミリアムが言い、その甲高い声が廊下に響いた。「ここ、あけてよ」
「帰ってちょうだい」ミセス・ミラーは言った。
「お願い、急いで……重たい荷物を持ってるんだから」
「帰りなさい」ミセス・ミラーは言った。居間に戻って煙草に火をつけてから腰を下ろし、落ちついてベルが何度も何度も鳴る音を聞いた。「もう行きなさい。あなたを入れるつもりはないから」
ベルが止んだ。時間にしておそらく十分ほど、ミセス・ミラーは微動だにしなかった。何の音もしなくなったので、ミリアムは行ってしまったのだ、と判断した。忍び足でドアまで歩き、細目に開けてみた。ミリアムは段ボール箱の上に半ば寝そべるようにしてすわり、両手で美しいフランス人形を抱いていた。
「ほんとうに出てこないつもりか、って思っちゃった」不機嫌そうに言った。「ねえ、これを入れるの手伝ってよ、すごく重いから」
呪文にかけられて無理やり動かされていたわけではないのだが、どういうわけか言われるがままになっていた。ミセス・ミラーが箱をなかに運び、ミリアムは人形を持って入る。ソファに丸くなるミリアムは、コートもベレーも取ろうとせず、ミセス・ミラーが箱をおろして、身を震わせながら立ち、荒い息を鎮めようとしているのを、おもしろくもなさそうな顔で見ていた。
「ありがとう」ミリアムは言った。昼の光の下では、しなび、やつれてしまったようで、髪も輝きを失っていた。愛おしげに抱いているフランス人形は、鮮やかな白いかつらをつけて、うつろな目はミリアムの目に慰めを求めている。「びっくりさせるものがあるの。箱のなかを見てちょうだい」
ひざまずいたミセス・ミラーは、ふたを開けてもうひとつの人形をとりだした。それから、青いワンピース。映画館で初めて会ったときに着ていたもの。箱の残りをあらためて、ミセス・ミラーは聞いてみた。「服ばっかりじゃない。どうして?」
「だってわたし、あなたと一緒に生活することにしたんだもの」ミリアムはそういうと、さくらんぼの柄をつまみあげた。「わたしのためにさくらんぼを買ってくれただなんて、ステキじゃない」
「そんなこと言ってもだめなの。お願いだから、帰って――ここを出て、わたしをひとりにしてちょうだい」
「……おまけにバラとアーモンド・ケーキもある。ほんとにすごく優しいのね。このさくらんぼはおいしいわ。いままでおじいさんと一緒に住んでたの。ほんとに貧乏で、おいしい食べものなんてなかった。だけどここだったらわたし、幸せになれるわね」言葉を切ると、人形をぎゅっと抱きしめた。「ねえ、わたしのものをどこに置いたらいいか、教えて……」
ミセス・ミラーの顔が溶けて、醜く赤い皺だらけの面があらわれた。泣き出してはみたものの、不自然な、涙も出ないむせび泣きで、長いあいだ泣かないでいるうちに、泣き方さえ忘れてしまったようだった。用心しながらあとずさりして、ドアに手がかかった。
手探りで廊下を進み、下の階へおりる。最初にたどりついた部屋のドアを狂ったように叩いた。背の低い赤毛の男が出てくると、ミセス・ミラーは男を押しのけてなかに入った。「おい、ちょっと、いったいどういうことだ?」と男が言った。「あなた、どうかした?」若い女が台所から手を拭きながら出てきた。ミセス・ミラーはその女の方に向き直った。
「聞いてください」叫ぶように言った。「こんなふうに押しかけて恥ずかしいのですが、わたしはミラーと申します。上の階に住んでおります……」両手を顔に押しつけた。「ばかげた話だとお思いでしょうが……」
若い女はミセス・ミラーを椅子のほうに連れて行き、そのあいだ男は落ちつかなげにポケットの小銭をじゃらじゃら言わせていた。「で?」
「わたしは上の住人なんですが、うちに女の子が来たんです。わたし、その子が怖くて。帰ろうとしないし、追い出すこともできなくて……なにか怖いことをしでかすような気がするんです。もうカメオは盗られましたし、でも、つぎにやろうとしているのはもっと……もっと恐ろしいこと!」
男が尋ねた。「親戚の子かなんかでしょ?」
ミセス・ミラーは首を横に振った。「だれだかも知らないんです。名前はミリアムっていうらしいのですが、はっきりしたことはなにもわからない」
「落ちついてくださいな、奥さん」女はそう言いながら、ミセス・ミラーの腕をさすった。「ハリーがその子のようすを見てきますから。ね、行ってあげて」ミセス・ミラーは言った。「ドアは開いています……5Aです」
男が出ていくと、女はタオルを持ってきて、ミセス・ミラーの顔を拭いてくれた。「お優しいのね」ミセス・ミラーは言った。「ばかみたいなことをしてしまってごめんなさい、これもみなあのいやな子が……」
「大丈夫よ、奥さん」女は慰めた。「お楽になさって」
ミセス・ミラーは腕を曲げてそのうえに頭をのせた。眠っているのかと思うほどに静かになった。女はラジオのつまみをひねった。ピアノの音とハスキーな歌声が静寂を満たし、女は足でリズムをとりながら、ずっと楽しそうにしていた。「わたしたちもあがったほうが良さそう」女が言った。
「もうあの子に顔を合わせたくないの。近くには行きたくない」
「そうなのね? だったらまず警察を呼べば良かったのに」
やがて階段を下りてくる男の足音がした。大股に部屋に入ってきたが、しかめっ面で首の後ろをぼりぼり掻いている。「だれもいなかった」男は心底、当惑しているようすだった。「出ていったにちがいない」
「ハリー、そんなバカなこと」女はきっぱりと言った。「わたしたち、ずっとここにすわっていたのよ。逃げたんだったら、それに気がついたはず……」男の鋭い視線に気がついて、女は急に言葉を切った。
「部屋なら全部見た。で、だれもいなかった。人っ子ひとりいなかった。そういうことだ」
「だったら」ミセス・ミラーは立ち上がって言った。「教えてください、大きな箱はありませんでした? それか、人形は?」
「いいえ、奥さん。何も」
そこで女の声が判決を申し渡すように響いた。「なるほど、そういうことね……」
ミセス・ミラーは自分の部屋にそっと入っていった。部屋のなかほどまで進むと、そこにじっと立ちつくす。そうね、なにも変わっていない、とも言えるわね。バラ、ケーキ、さくらんぼ、どれもあるべき場所にある。でも、ここは空っぽ。家具だとか、身の回りのものだとかがなくなっているのより、もっと空ろな感じがする。生気というものがまるでなく、おしだまって、まるで葬儀場みたい。ソファが見たこともないもののように、目の前に不気味な姿をさらしている。ミリアムがそこに身を丸めていたならば、ここまで身が苛まれるような、ゾッとするような気分も味合わずにすんだだろう。段ボールの箱を置いたはずの場所をじっと見ていると、一瞬、足置きクッションが狂ったように回った。窓の外を見た。確かに、川はほんものの川だし、雪もほんとうに降っている――とはいえ、ひとはなにごとであれ、確かな証人などにはなれはしない。ミリアムは、そこに、あんなにも生き生きとしていたのに――それにしてもあの子はどこに行ってしまったのだろう? どこに、いったいどこに?
夢のなかで動いているように、椅子に身を沈めた。部屋のかたちが溶けていく。暗く、よりいっそう暗くなり、それをどうすることもできない。明かりをつけるために片手をあげることさえできないのだった。
目を閉じると急に自分が浮かびあがっていくような感覚に襲われた。どこか深い、暗緑色の海の底から浮かびあがる潜水夫のように。恐怖に駆られたり、深い苦痛に苛まれたりしているとき、あたかも神の啓示を待つように、心はただ待つだけという瞬間が訪れる。静謐の糸で織り上げられた布が思考をおおってしまうのだ。眠っているかのように、あるいはまた超自然的なトランス状態にあるかのように。そうしてこの静謐のあいだ、人は理性のもつひっそりとした力に気がつく。そう。ミリアムという女の子と、ほんとうに会ったわけではなかったとしたら。通りでは意味もなく怯えてしまったのだとしたら。結局のところ、ほかのすべてのことと同様、たいしたことではない。たったひとつ、ミリアムに会ったことで失ったものがあるとすれば、それは自分が自分であるという確信だ。だが、いまはふたたび自分が、この部屋にいる人物のことならよくわかっているような感覚が戻ってきた。ひとりぶんの食事を作り、カナリアの世話をし、信頼に足る人物。それは、ミセス・H・T・ミラー。
満ち足りて耳を澄ませているうち、二種類の音に気がついた。タンスの引き出しが開き、そして閉じる。終わったかと思うと、長い間をおいて――開き、閉じる。やがて徐々にその固い音がささやくようなシルクの衣ずれの音に変わっていった。繊細で、微かな音はしだいに近づいてきて、強度を増し、やがて壁がその振動で震えだし、部屋までもがささやく音の波に呑みこまれてしまう。ミセス・ミラーは体をこわばらせて目を見開いた。まっすぐこちらを見つめる鈍い目。
「こんばんは」ミリアムが言った。
The End
ミリアムとは誰なのか
この短編を読んだ人なら誰でも、この少女ははたして実在したのか、すべてはミセス・ミラーの幻想だったのか、と一度は考えるにちがいない。
実在したのだ、と考えるには、彼女はいったい誰なのか、とか、どこに住んでいるのか、とか、目的はなんなのだ、とか、説明がつかない要素があまりに多すぎる。
一方、ミリアムを見たのはミセス・ミラーしかいないところから、すべて一人暮らしの孤独感から来る幻影、としてもかまわないのだが、それにしても、この幻影がものを食べたり飲んだりする仕草はいやになまなましいし、現に、カナリアに影響を及ぼしている。
柴田元幸の『アメリカ文学のレッスン』のなかにも、「幽霊の正体」という章で、この『ミリアム』が少しだけとりあげられていて、その前の部分で「アメリカ文学の場合、「幽霊の正体見たり 自分自身」が一般法則ではなかろうか」とある。そこで、ミリアムをもうひとりのミセス・ミラーとして見る見方も出てくる。名前が同じということは、まさにその証拠なのではあるまいか。
ミセス・ミラーのひととなりを明らかにする場面で、原文は、
Her activities were seldom spontaneous.
となっている部分が冒頭にある。わたしはここを「気の向くままに何ごとかするようなことも絶えてなく」と訳してみたのだけれど、この spontaneous という単語には、〈衝動的な〉、とか、〈気の向くまま〉、という意味のほかに、〈無意識のうちに出てくる〉、とか、〈自然発生的〉な、ぐらいの意味もある。つまり、ミセス・ミラーは自分の「無意識」の領域までも、十分に管理していると思っている、という含意がどこかにあるような気がする。ミセス・ミラーは一貫して「ミセス・ミラー」「「ミセス・H・T・ミラー」という社会的な役割で記述され、本名の「ミリアム」で呼ばれることはない。
無意識の部分を管理し、安定した暮らしを営んでいる・ミラーを、もうひとりの「ミリアム」がおびやかす。このもうひとりの「ミリアム」は、日頃ミセス・ミラーが管理し、抑圧している無意識の部分ではないのか。
ミセス・ミラーはカメオのブローチを奪われる。そのブローチはどういうわけかミリアムに生き写しだ。あるいは、同じ白い髪のフランス人形。まるで二枚の鏡に無限の像が写るようだ。
では、ミリアムがミセス・ミラーの無意識であるとしたら、彼女は何をしにやってきたのだろう。少なくとも、ミセス・ミラーを幸せにするつもりではないことは確かだ。一歩ずつ追いつめ、ほかの人が来ると隠れ、神の啓示を待ち望むミセス・ミラー、もういちどアイデンティティを取りもどしたかのようなミセス・ミラーのもとに、ふたたび現れるミリアム。
けれど、ミリアムがいない部屋は、まるで葬儀場なのではなかったか。ミリアムが現れる以前からそうだったのであって、単にミセス・ミラーが気がつかなかっただけではなかったか。
ミセス・ミラーは外の世界、明るい日の下で、老人に会う。彼もまた、もうひとりのミセス・ミラーではなかったか。雪の夜、ミリアムに脅かされるように、日の下でさえ、実は無意識はそこにいるのではあるまいか。
ミセス・ミラーは考える。「ひとはなにごとであれ、確かな証人などにはなれはしない」。
ところでこの作品は、出版する前に「最後の五行は削ったほうがいい、そうすればとてもすぐれた作品になる」とアドヴァイスされて、カポーティはそれを実行したのだという(ローレンス・グローベル『カポーティとの対話』文藝春秋社)。
カポーティも「それだけで単なるいい作品がすぐれた作品になった」と言っているのだけれど、その五行には何が書いてあったのだろう。おそらくカポーティが言うとおり、その削除は作品にとって重要な削除だったのだろうとは思う。それでも、やはり気になるのだ。
目を合わせたあとミリアムはいったいミセス・ミラーに何を言ったのだろう? そうして、何をしたのだろう? どこへ連れて行ったのだろう?
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