手に手をつなぎ、顔と顔を向け合おう
こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
――アポリネール「ミラボー橋」



鏡よ、鏡

鏡

1.鏡のなかへ

おそらく三歳ぐらいのころ、鏡を見ながら、これが自分の顔なんだろうか、と不思議に思ったことを覚えている。自分はこんな顔をしているんだろうか。なんだか少しちがうような気がする。そう思って毎日見るのだが、やはりそこには同じ顔が映っている。やはりこれが自分なのだろうか。

その違和感の正体はなんだったのだろう。
それが三歳ぐらいの記憶だと推測するのは、自分の写真を何枚も見るようになったのが、ちょうどそのころだったからだ。幼稚園に通うようになって、行事のたびにずいぶんたくさんの写真をもらうようになった。大勢のなかに混じっている自分、ひとりだけの自分、さまざまな大きさのさまざまな角度から撮った自分の写真を、繰りかえし眺めたような記憶がある。
自分のイメージが自分の中でできあがっていったのがその時期だろうと思う。そうして違和感を感じたのも、そのイメージと鏡に映る自分の顔とが、どこか食い違っているように思えたのではなかったろうか。
あるいは、もっと単純に、自分は鏡のこちら側にいるのに、どうして自分の姿があちら側に見えるのか、不思議だったのか。
とにかく、そのとき自分はこんな顔をしているのだろうか、と見慣れないものを見るような思いで、しげしげと眺めたことははっきりと覚えている。それが記憶のなかのわたしと鏡とのつきあいの始まりだ。

鏡に映る像はかならずしも正確なものではない。
試しに美容院で、自分の隣にいる美容師さんの顔を鏡のなかで見て、それから自分の眼で見てみると、人によって多少の差はあるにせよ、なんとなくちがう感じがすることが多い。「鏡文字」という言葉があるように、左右反転させてしまうと、多くの文字はひどく読みづらくなってしまう。自分の姿は自分では見ることができないから、鏡に映る顔を「自分の顔」と思っているが、向こうから自分が歩いてきたら、一瞬わからないかもしれない。

それでも、わたしたちは毎日それをのぞきこむ。それを見て身だしなみを整え、自分の顔色や表情から体調や気分を知り、自分の顔に刻まれる年齢を知る。

鏡はきわめてありふれた日常的な道具のひとつだ。それでも、鏡は炊飯器とはちがうし、鉛筆ともちがう。炊飯器や鉛筆が限られた機能しか持っていないのに対し、鏡にはさまざまな機能が備わっている。

え? 物を映し出す機能だけではないのか、って?
とんでもない。それだけなら、こんなに数多くの小説に登場したりはしない。炊飯器が登場する小説はいくつもないし、ご飯を炊く以外のことをやらせている小説を見たことはない。

この鏡、小説のなかではどんな働きをしているのだろう。
小説のなかでは何を映し出しているのだろう。
それを調べに、いざ、鏡のなかへ。


2.驚く鏡、怖い鏡


鏡は、怪奇小説、ホラー小説にはつきもの小道具である。

「鏡」を意味する mirror という英語は、ラテン語 mirari から来ているが、そもそもこの語には「驚く、驚きをもって見つめる」という意味がある。admire「賞賛する」も、miracle「奇跡」もそこから派生した語だ。
おそらく鏡は人間の歴史に登場した当初、神秘的なものであり、驚きを持ってみつめられるものだったのだろう。

まずなによりも、ふだん見ることができない自分の顔が映る。表情が映る。体調が悪ければ顔色が悪いし、内心の喜怒哀楽まで映し出される。そういうところから「真実を映し出す」不思議な力をもつものと考えられても不思議はない。

古代人にとって鏡は、神秘的で、おそろしく、犯しがたい力をもつ存在であった。物がそっくりそのまま映るということが、大変な驚異だったし、光を反射してまばゆく輝くことも不思議な現象だった。中国では早くも、戦国時代以前(紀元前五世紀頃)に鏡が存在していたが、最初はやはり実用品としてより、政治権力の象徴、あるいは特殊な人たちが使う呪術用具であった。とくに魏晋南北朝時代(220−589)になると神仙、道教思想と結びつき、鏡が破邪の力を持つとみなされ、呪術的実修具としてさかんに使われるようになった。

(小泉和子『道具が語る生活史』 朝日選書)

この本によると、「天照大神」の「アマ」は、天香具山とおなじように常套詞であり、実体は「テラス」、つまり、鏡が照り輝くことであるという。アマテラスは鏡のことである、という説もあるのだ。
この天照大神が天石窟(あまのいわと)に隠れてしまったときにも鏡は使われる。

天香山の五百箇の真坂樹を掘じて、上枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、中枝には八咫鏡を懸け、下枝には青和弊、白和弊を懸でて、相与に致其祈祷す。

『日本書紀』岩波文庫

榊の木の上枝に「八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)」、つまり連珠の飾りをかけ、そうして中枝には大きな八咫鏡(やたの鏡)をかけ、下枝には青和幣(あおにきて)と白和幣(にろにきて)(幣(ぬさ)はお祓いに使う道具)をかけて祈ったのだ。

こうした鏡も時代が下るにつれて、徐々に呪術の道具から権力のシンボルへ、貴族の装飾品から日常の道具へと変遷していく。だが今日でさえも、鏡が一種の力を秘めているという考え方は廃れてしまったわけではない。「妊娠中に鏡を身につけていれば葬式や火事の時も悪気をよけられる」(『道具が語る生活史』)という言い伝えは、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3020271.htmlの回答#1、2のアドバイスにも見られるように、現代のわたしたちにも残っている。

怪奇小説のなかでは、鏡は不思議な力を発揮する。
なかでも有名なのが、幽霊やヴァンパイアは鏡に映らない、というもの。真実を映し出す鏡は、もはや生命はなく、実体としては存在しない彼らの姿は映さない。
ドラキュラ伯爵のもとを訪れたジョナサン・ハーカーが、伯爵の正体に気がつくきっかけも鏡だ。

顔を剃ろうとおもって、ひげ剃り鏡を窓ぎわにかけて、ひげを剃りだしていると、ふいに肩に手がさわって、「おはよう」という伯爵の声がした。自分は思わずギョッとして目をみはった。自分が仰天したのは、ひげ剃り鏡のなかに、自分のうしろの部屋の中の全景は映っているのに、伯爵の姿がそのなかに映っていないからであった。おやっと思った拍子に、自分は剃刀でちっとばかり顔を切ったらしいが、その時は気がつかなかった。伯爵の挨拶にこたえたのち、自分はなにを見間違えたのかと思って、もう一度あらためて鏡のなかをのぞいて見た。しかし今度も見間違えではなかった。伯爵は自分の肩のすぐそば、首をまわせば見えるところに立っている。それなのに、その姿は鏡のなかに映っていないのだ!

(ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』平井呈一訳 創元推理文庫)

逆に、見えないものが鏡のなかに見えることもある。

 唐の貞元年中、漁師十余人が数艘の船に小網を載せて漁に出た。蘇州の太湖が松江に入るところである。
 網をおろしたがちっとも獲物はなかった。やがて網にかかったのは一つの鏡で、しかもさのみに大きい物でもないので、漁師はいまいましがって水に投げ込んだ。それから場所をかえて再び網をおろすと、又もやかの鏡がかかったので、漁師らもさすがに不思議に思って、それを取り上げてよく視ると、鏡はわずかに七、八寸であるが、それに照らすと人の筋骨から臓腑まではっきりと映ったので、最初に見た者はおどろいて気絶した。

(岡本綺堂「霊鏡」『中国怪奇小説集』)

鏡の持つ「真実を映し出す」力は、占いにも用いられた。
ただし占いといっても泉鏡花の『草迷宮』では、この物語が語られている当時でさえ、もはや信じられてはおらず、少女のまじないに近い。

「どうせ娘の子のする事です。そうまでも行きますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその洗髪を櫛巻きに結んで、笄なしに、紅ばかり薄くつけるのだそうです。
 それから、十畳敷を閉込んで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへ婦の魂を据える、鏡です。
 丑童子、斑の御神、と、一心に念じて、傍目も触らないで、瞻(みつ)めていると、その丑の年丑の月丑の日の……丑時になると、その鏡に、……前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。

(泉鏡花『草迷宮』)

もちろん名高い占い師の道具ともなる。
芥川龍之介『妖婆』では、タイトル通り、怪しい占い師のお婆さんが鏡を使う。
本屋の若旦那の新蔵は、自分の家に奉公に来ていた若い娘お敏と恋仲になるのだが、ある日そのお敏はいなくなってしまう。その居場所を知りたくて、霊験あらたかと評判の「神下し」のお婆さんのところに行く。ところがその探していたお敏はお婆さんの下で「口寄せ」をやらされていたのである。

お島婆さんはいざ神を下すとなると、あろう事かお敏を湯巻一つにして、両手を後へ括り上げた上、髪さえ根から引きほどいて、電燈を消したあの部屋のまん中に、北へ向って坐らせるのだそうです。それから自分も裸のまま、左の手には裸蝋燭をともし、右の手には鏡を執って、お敏の前へ立ちはだかりながら、口の内に秘密の呪文を念じて、鏡を相手につきつけつきつけ、一心不乱に祈念をこめる――これだけでも普通の女なら、気を失うのに違いありませんが、その内に追々呪文の声が高くなって来ると、あの婆は鏡を楯にしながら、少しずつじりじり詰めよせて、しまいには、その鏡に気圧されるのか、両手の利かないお敏の体が仰向けに畳へ倒れるまで、手をゆるめずに責めるのだと云う事です。

しかもこうして倒してしまった上で、あの婆はまるで屍骸の肉を食う爬虫類のように這い寄りながら、お敏の胸の上へのしかかって、裸蝋燭の光が落ちる気味の悪い鏡の中を、下からまともにいつまでも覗かせるのだと云うじゃありませんか。するとほどなくあの婆娑羅の神が、まるで古沼の底から立つ瘴気のように、音もなく暗の中へ忍んで来て、そっと女の体へ乗移るのでしょう。お敏は次第に眼が据って、手足をぴくぴく引き攣らせると、もうあの婆が口忙しく畳みかける問に応じて、息もつかずに、秘密の答を饒舌り続けると云う事です。

(芥川龍之介『妖婆』)

やがてお敏は「小さいながら爛々と輝いた鏡の面を見つめていると、いくら気を確かに持とうと思っていても、自然と心が恍惚として」自分を失ってしまう。そうして招き寄せた婆娑羅神に精神をのっとられ、神懸かり状態に陥ってしまうのである。
お敏はむりやり鏡をのぞかされるのだが、ここでは鏡を見ているというより、鏡の方から見られている。この鏡に見られている、という感覚は、志賀直哉の『剃刀』の最後の一文にも通じている。

すべての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた。

(志賀直哉 「剃刀」 
『小僧の神様・網走まで』所収 新潮文庫)

『妖婆』の鏡には何ものか(婆娑羅の神?)が潜んでいるのだが、『剃刀』で擬人化された鏡は、なかに潜むものを暗示しているわけではない。にもかかわらず、一部始終を「見ていた」鏡の存在は、読む者をひやりとさせる。ちょうど喉元に当てられた剃刀のように。


3.鏡のなかの自分


『剃刀』で描かれる「鏡に見られている」という感覚は、鏡に映った自分の像が自分を見ていると感じる経験から来たものだろう。
鏡のなかの像を何の疑問もなく眺めていればどうということもないなのだが、何かの拍子に、なかの像がこちらを見返しているように見えてきたとしたら、これはずいぶん気味が悪いだろう。
フロイトも『不気味なもの』のなかでこんな経験を書いている。
夜行列車に乗って旅行をしていたときのこと。汽車が急に揺れて、客室と洗面所を仕切る扉があいて、寝間着を着た老人が入ってきた。老人がまちがってこちらに入ってきたと思ったフロイトは、説明してやろうと立ち上がったところ、それは鏡に映った自分の姿だった。いきなり現れた像が、やがて自分だとわかった経験は、フロイトにとって非常に不気味なものであったという。

「松山鏡」という民話がある。
越後の国の松山というところに住んでいた娘が幼い頃に母を亡くした。だが、母から形見にもらった鏡にうつる自分の姿を、母と信じて慕ったという話だ。そもそもはインドの民話だったのだが、中国を経てその後、日本に伝わったのだという。この話は能にもなった。
この話のポイントは、娘が鏡に映る自分の姿を、一度も自分だと思わず、母親と思いこんでいた点である。娘は自分の顔を知らなかったのだ。

鏡に映るのは自分の像であると十分に知っていても、ときにそれが揺らぐこともある。ガルシア・マルケスの短編『鏡の対話』には、鏡を前にしたときの違和感が描かれる。
金融業の事務所に勤める主人公が、朝、目を覚まして鏡に向かう。

 彼は鏡に向かってちがった表情を作って見せた。その表情は、光の束となって、鏡に楽しげな映像を送るはずだったが、反射してきた光は――彼の意に反して――グロテスクに歪んだ表情を浮かべていた。…

 彼は革砥で冷たく鋭利な剃刀の刃を研いだ。すでに薄れはじめた蒸気の中に、再びもうひとつの顔が浮かんで見えてきた。その表情は、複雑で歪んだ姿をしてぼんやりと浮かび、ある種の数学的法則によって幾何学が新しい立方体を、光が何か特殊な造形を試みているかのように見えた。その顔は彼の目の前にあり、彼自身と少しも違わぬ早さで脈打ち、鼓動していた。水蒸気が凝結したガラスの向こう側の顔が、微笑みのようでもあり、同時にまた嘲笑でもあるような笑いを浮かべていた。

 彼は微笑んだ。(鏡の中の男も微笑んだ)今度は――自分に向かって――舌を突きだしてみた。(鏡の中の男も――彼に向かって――舌を突きだした)鏡の中の男の舌は、粘っこい黄色い色をしていた。《胃の具合が悪いようだな》と、彼は顔をしかめて(言葉には出さずに、表情だけで)診断を下した。彼はもう一度微笑んだ。(鏡の男も再び微笑んだ)しかしそのとき、自分に返ってくる笑みの中に何かばかげた、わざとらしい、うさん臭いものが含まれていることに気がついた。櫛で髪をとぐ。(鏡の男も、髪をといた)彼は櫛を右手に(鏡の男は左手に)持っていた。だがすぐに、彼は気まり悪そうに男を見た。(そして表情が元に戻った)彼は、まるで間が抜けたように鏡の前に立って顔をしかめている自分の行為が、我ながら奇妙に思えた。

(ガルシア=マルケス「鏡の対話」
『青い目の犬』所収 井上義一訳 福武書店)

鏡の前に立って、ひげを剃るまでの、時間にすればせいぜい二〜三分といったところだろうか。ところが鏡に映る彼と、鏡の前に立つ「彼」のあいだに、しだいにずれが生じてくる。
「ひとつの顔」から、やがて(鏡の中の男)へ、さらに「彼」と(鏡の中の男)は別個の存在となっていく。そうして、髪を梳かす瞬間、決定的に動作はずれてしまう。彼は右手で、(鏡の男は左手に)櫛を持つ。
だが、この(鏡の中の男)も、主人公が第三の視点(鏡を見ている自分を見ている視点)に立つやいなや、消えてしまう。

ガルシア=マルケスは朝の寝ぼけ眼、お湯からたちのぼる蒸気など、ふだんの鏡の像を揺らがせる舞台装置を用意する。梶井基次郎は、夜遅くの鏡だ。

 夜晩く鏡を覗くのは時によっては非常に怖ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れて来る故か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽の腫れ面という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あぶり出しのようにまた現われたりする。片方の眼だけが出て来てしばらくの間それに睨まれていることもある。

(梶井基次郎『泥濘』

「自分」という存在は、自分にとってもっともなじみ深いものである。鏡のなかにいる像も、「自分だ」と思っているかぎりでは、見慣れた、ごくあたりまえの存在である。だが、こうした作品は、鏡のなかの像を揺らがせることによって、わたしたちがふだん「自分の顔」と抱いているイメージの危うさを拡大してみせる。
幽霊屋敷の出口には、たいていどこでも鏡が置いてある。闇の中で、不意に向こうから近寄ってくる思いがけない自分の姿。
これこそ、フロイトの言うとおり、どんな幽霊よりも不気味なものなのかもしれない。


4.鏡とナルシシズム


鏡がまだ普及していなかったころ、人は自分の顔を見たことがなかったのだろうか。
先にも引いた「松山鏡」が、あくまでも一種のおとぎ話のように感じるのは、娘が自分の顔をずっと知らないでいることが可能だったのだろうか、と思ってしまうからだ。母親が持っていたぐらいなら、身近にいるほかの人が持っている可能性も高いだろう。
そもそもはインド伝来の話に、わざわざ作品の舞台に「越後松山」を選び、物語のタイトルにまでかぶせているのは、能を見たり、物語を聞いたりする都の人々にとって「越後松山」は鏡を見たことのない人がいても不思議はない「鄙の里」だったのかもしれない。

鏡が普及していない時代であっても、実際には水に映った姿を見るなどして、人々は自分の顔は知っていただろう。
水面に映る顔といって思いだすのはナルキッソスだ。ギリシャ神話にはナルシシズムの語源にもなったナルキッソスの話がある。

川の神ケフィソスの息子ナルキッソスは、多くの女性から愛されるが、ことごとく拒絶する。ニンフのエコーも拒絶され、悲しみのあまり洞窟に閉じこもって死んでしまう。復讐の女神ネメシスは、水面に映った自分の姿を愛するように、ナルキッソスに罰を与える。そうして泉の水を飲もうとしたナルキッソスは、自分の姿に焦がれて死んでしまうのである。

自分の姿に恋いこがれた、といっても、呪いでそうなったのである。にもかかわらず、ナルキッソスをかわいそうに、と思う人はあまりいない。
ナルシシストは憎まれる。あからさまに自慢する人間が、逆にその社会性の欠如を軽蔑されるのは当然としても、「どうして女はみんなおれのことが好きになってしまうんだろう」と妄想に浸っているだけの無害な人間も、おなじように、もしかしたら自慢よりさらに疎まれる。電車のなかでお化粧をする女の子が、ひところさかんに叩かれたのも、それがナルシシズムを感じさせる行為だからなのだろう。

だが、わたしたちはだれでも多かれ少なかれ、ナルシシズムを備えている。太宰治の『思ひ出』の主人公は、「多かれ」の方だが、自分の部屋で主人公と同じことをしてみた経験は、おそらくだれにもあるはずだ。

 私は顏に興味を持つてゐたのである。讀書にあきると手鏡をとり出し、微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて思案にくれたりして、その表情をあかず眺めた。私は必ずひとを笑はせることの出來る表情を會得した。目を細くして鼻を皺め、口を小さく尖らすと、兒熊のやうで可愛かつたのである。

(太宰治『思ひ出』)

萩原朔太郎は「鏡」と題する一行詩を書いた。

 鏡のうしろへ廻ってみても、「私」はそこに居ないのですよ。お孃さん

(萩原朔太郎『宿命』)

さらにその自註にはこう書き添えている。
「 鏡 戀愛する「自我」の主體についての覺え書。戀愛が主觀の幻像であり、自我の錯覺だといふこと。」

確かに恋愛は朔太郎がいうように、「主観の幻像」、わたしたちが愛しているのは鏡に映った自分の姿なのかもしれない。
だが、この林芙美子の『晩菊』はどうだろう。かつての恋人を迎える五十六歳の女性きんが、鏡の前で身支度をする場面である。

別れたあの時よりも若やいでゐなければならない。けつして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆつくりと湯にはいり、帰つて来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になつたガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赧くしびれて来た。五十六歳と云ふ女の年齢が胸の中で牙をむいてゐるけれども、きんは女の年なんか、長年の修業でどうにでもごまかしてみせると云つたきびしさで、取つておきのハクライのクリームで冷い顔を拭いた。鏡の中には死人のやうに蒼ずんだ女の老けた顔が大きく眼をみはつてゐる。化粧の途中でふつと自分の顔に厭気がさして来たが、昔はヱハガキにもなつたあでやかな美しい自分の姿が瞼に浮び、きんは膝をまくつて、太股の肌をみつめた。

(林芙美子「晩菊」

昔の恋人に会うために化粧するきんは、他者の目で自分を見つめる。「死人のやうに蒼ずんだ女の老けた顔」という評価は、およそナルシシズムとは無縁のものだ。
鏡は他者の目を与えてくれるものでもあるのだ。

自分だけの想像の世界に浸る人は、他者の目を遮断してしまう。
電車などの公共の場であるにもかかわらず、他人の視線を遮断して、鏡に見入っている人は、果たして正しく自分の姿を認識することができるのだろうか。その視線の先にあるのは、ありのままの自分の姿などではなく、想像上の自分の姿、言い換えれば、鏡によってイメージを与えられたその人の欲望の姿なのではあるまいか。
自分だけの世界から出ることができない者は、ナルキッソスのように、やがて滅びるしかない。


5.わたしは鏡


わたしたちが鏡に向かうのは、多くはひとりきりのときだ。だから鏡はきわめて私的な空間に置かれるものである。だが、夫婦ともなると、私的な、奥まった空間を共有することになる。

谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』はもともと新聞の連載小説で、現在でも岩波文庫には新聞連載時そのままの小出楢重の挿絵が載っている。文中には鏡に向かっていることを示す記述はないのだが、挿絵では、主人公の妻、美佐子が鏡に向かって髪を整えるうしろ姿が描かれている。夫の要(かなめ)は画家の位置、つまり妻の後ろからその姿を見ているのだ。

 座ぶとんを二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついていた要は、着飾った妻の化粧のにおいが身近にただようのを感じると、それを避けるようなふうにかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、というよりも衣裳の好みを、なるべく視線を合わせないようにしてながめた。彼は妻がどんな着物を選択したか、その工合で自分の気持ちも定まるだろうと思ったのだが、あいにくなことにはこのごろ妻の持ち物や衣類などに注意したことがないのだから、――ずいぶん衣裳道楽の方で、月々なんのかのとこしらえるらしいのだけれども、いつも相談にあずかったこともなければ、何を買ったか気をつけたこともないのだから、――今日の装いも、ただ花やかな、ある一人の当世風の奥様という感じよりほかは何とも判断の下しようもなかった。……

 美佐子はいつのまにかマニキュールの道具を出して、膝の上でセッセと爪を磨きながら、首はまっすぐに、夫の顔からわざと、一、二尺上の方の空間に目を据えていた。…

 要は妻がはいったあとの風呂へつかって、湯上がりの肌へ西洋浴衣(バスローブ)を引っかけながら十分ばかりで戻って来たが、美佐子はその時もぼんやり空を見張ったまま機械的に爪をこすっていた。彼女は縁側に立ちながら手鏡で髪をさばいている夫の方へは眼をやらずに、三角に切られた左の拇指の爪の、ぴかぴか光る尖端を間近く鼻先へ寄せながら言った。

(谷崎潤一郎『蓼食う虫』岩波文庫)

一緒にいる要と美佐子は、たがいに「なるべく視線を合わせないようにして」いる。
というのも、なんとか自分も妻も、心理的にも社会的にも傷を負うことなく別れようと考えているからなのである。「要にとって女というものは神であるか玩具であるかのいずれかであって、妻との折り合いがうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれらのいずれにも属していないから」である。要は「外人娼婦」のもとに通い、妻にも阿曾という恋人がいる。こうした複雑な関係にあるふたりを谷崎は、交錯させない視線、というかたちでまず描き出す。

わたしたちは対面するとき、相手の表情から自分が相手の目にはどう映っているか、かなりのところまで知ることができる。そこに鏡がなくても、自分の顔に何かついていたら、相手の顔を見ただけでわかるし、相手が気遣わしげな顔をしていれば、自分の顔色が悪いのを知ることができる。つまり、相手は自分を映し出す鏡でもある。向かい合うふたりは、お互いがお互いの鏡となる。

正面から向き合うと、自分が相手を見ていることが相手にわかる。自分の目に相手がどう映っているかも相手にわかってしまう。だから要は正面から美佐子を見ない。
美佐子の側もそれを知りたくないので、向かい合っても「夫の顔からわざと、一、二尺上の方の空間に目を据えてい」る。

長い間の習慣で夫の気持ちを鋭く反射する彼女は、自分も同じ感傷にひき込まれるのを恐れるかのようにことさらすき間なく身を動かして、妻たるもののなすべき仕事をさっさと手ぎわよく、事務的に運んでいるのであるが、それだけに要は、彼女と視線を合わせることなくよそながら名ごりを惜しむ心でぬすみ見ることができるのであった。

美佐子は鏡になるまいとして、視線を逸らす。ぬすみ見る要の視線は、相手を「物」にする。

あるいはまた、向かい合う一方が、まるで鏡に映った像になったように、相手の姿を模倣してしまうこともある。

ミセス・スレイドとミセス・アンズレイは、実際上も、また比喩的な意味でも、長いあいだ向かい合って暮らしていた。東73番街20番地の客間のカーテンが新しくなると、通りを隔てた23番地は、かならずそれに気がついた。そればかりではない、人の出入りも買い物も、旅行も、記念日も、病気でさえも、非の打ち所のない夫妻の単調な物語のあらゆる面にいたるまで。どんな些細なことがらも、ミセス・スレイドの目を逃れることはできなかった。

(イーディス・ウォートン「ローマ熱」私訳)

若い日、アライダとグレイスはともにデルフィン・スレイドを愛した。アライダは策略を用いて勝者となり、ミセス・スレイドとなったのだが、それでもグレイス、おとなしいホレイス・アンズレイと結婚したグレイス・アンズレイの監視がやめられない。まるで鏡をはさんだ人と像のように、ミセス・スレイドはミセス・アンズレイの向かいで暮らす。

というのも、アライダは美しくひかえめなグレイスを自分の理想像としていたのだ。デルフィン・スレイドも、知り合ったのは自分が先だが、グレイスが愛するようになったのを模倣して、デルフィン・スレイドに執着していく。
だが、鏡に映る像になってしまったアライダは、脅かされたように感じて不安になり、被害者意識も生まれ、相手を支配しようとする。策略を弄して勝者となったはずなのに満たされることがない。
この監視が終わるのは、デルフィン・スレイドの地位があがって、グレイスの姿がアライダの理想の姿ではなくなったときだ。だが、その時期も長くは続かない。ともに夫を亡くし、娘の母親となってローマで再会したアライダは、ふたたび相手に対して、激しい憎しみがかきたてられる。自分が勝者であったことを相手に認めさせずにはいられない。

たとえ鏡がなくても、人は人を映し出す鏡となる。あるいは、ときに鏡に映った像となることもある。鏡を使わなければ自分の姿がわからないように、自分の感情も、自分の欲望も、他者という鏡を使うことでしか知ることはできない。


6.鏡がたくさん


さて、そろそろ鏡のなかの旅も終わりにしよう。最後のガイドはミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』だ。

 テレザは自分の身体を通して自分を見つめたいと努めた。そこでしばしば鏡の前に立った。母親がそんなことをしているテレザを見つけることをテレザは恐れたので、鏡をのぞくことは秘められたささやかな興奮という性格を持っていた。

 彼女を鏡に引きつけたのはうぬぼれではなく、自分自身というものを見ることの驚きであった。彼女は身体のメカニズムの計測パネルを見ていることを忘れていた。顔の特徴の中に、彼女自身を認識させる心を見ているようにテレザには思われた。鼻が空気を肺に送る管の終わりにすぎないということを忘れていた。鼻が自分の性格の忠実な表現だと見ていた。

 テレザは自分を長いこと見つめていたが、時折自分の顔の中に母親の特徴が見えて、それがさまたげになった。そこで自分をさらにじっと見つめ、自分の顔の中には自分自身のものだけが残るように、意志の力で母親の人相を見ないようにし、取り除こうと努めた。それがうまくいったときはしばしの陶酔に浸るのであった。心は身体の表面へとあらわれてきて、それはまるで軍隊が甲板の下から勢いよく出てきて、甲板をうめつくし、天に向かって手を振り、歌っているかのようであった。

(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳 集英社)

わたしたちは他人が身体を持っていることは、ふだん見ているから知っている。けれども、それとおなじように自分の身体を見ることはできない。鏡の前に立つことで、自分が他人と同じような身体を持つ存在であることを知ることができるのだ。

鏡に映ったのが、自分の姿であると最初からわかっているわけではない。ほかの人がいるから、鏡に映っているのが自分であることがわかるのだ。
もしほかに人間がいなかったら、その世界でたったひとりの人間は、鏡に映っているのが自分だとは気がつかないだろう。ここでアダムとあるのは、あのアダムとイヴのアダム、カレーニンとはテレザの飼っている犬の名前である。

 アダムが《天国》、泉をのぞき込んだとき、自分が見ている者が自分であることをまだ知らなかった。テレザが女の子として鏡の前に立ち、自分の身体を通して自身の心を見ようと努めたことを彼は理解しないであろう。アダムはカレーニンのようであった。テレザはカレーニンを鏡のところへ連れていってよく楽しんだ。カレーニンは自分の姿が分からず、それに向かって信じがたい無関心と放心した様子で対した。

鏡は、遠い昔、ナルキッソスがそうしたように、わたしたちの自分に向かう欲望を呼び起こす。鏡に映ったわたし。このわたしを見て。このわたしを好きになって。この気持ちのまま向かい合う相手は、朔太郎が言うように、単なる鏡でしかない。

その一方で、鏡の前に立つことは、自分を他人の目で見ることでもある。自分の姿を他者のひとりとして見ることもできる。こうやって、わたしたちは自分が「人間のひとり」であることを知るのだ。

テレザは「自分の身体を通して自分を見つめたいと努めた」。
わたしたちはひとりきりで自分のことを考えるとき、自分の考えや、自分の感情や、自分の感覚に意識は向かうが、身体を備えた存在であるとはあまり意識されない。自分についての思いは、自分のなかにあるかぎり、どこまでいっても幽霊のようにとらえどころのない姿だ。

そこで身体を備えた他者があらわれる。他者に見つめられ、他者にふれられる。そうすることで、わたしたちは自分が他者とおなじように身体を持つ存在であることを知る。鏡の前に立つとき、それが自分の姿であることを知る。

それは意識だけの自分、目で見える手や足といった部分部分の自分が、統一した自分となっていくプロセスでもある。だから、テレザを自分の支配下にたえず置こうとしている母親に見つかることを、テレザは恐れるのだ。

テレザは自分の顔のなかに母親を見る。それは単に似ているということにとどまらない。鏡となった自分が映し出している母親の姿でもあるのだ。母親の支配から逃れるためには、その姿も消さなければならない。鏡は自分と他者との関係をも映し出す。



ところで「子供は大人の鏡」であるとか、「学校は社会を映し出す鏡」であるといった言い方がある。ここで使われる鏡のメタファーは、人々のありようを映し出すもの、ぐらいの意味で使われているのだろう。

あるいは、ジョン・チーバーの小説、たとえば「とんでもないラジオ」では、このラジオは様々な人の生活を映し出す役割を果たしながら、同時に、表面は平穏で豊かなウェスコット夫妻の内側、決して平穏でもなければ満ち足りてもいない側面を映し出す鏡の役割を果たしている。
そうして、この小説自身がアメリカの中産階級を映し出す鏡でもある。
さらに、アメリカに限らず、ふだん気がつかないでいるわたしたち自身の見栄や欺瞞も映し出す。

あらゆる文学は鏡だし、あらゆる物や出来事も鏡になる。わたしたちはあらゆるものを鏡として見ることができるのだ。
ふだんあまりに当たり前で気がつかないものを、鏡を通して見ることで、少しちがう位置から見ることができる。

鏡に映った自分は、左右が入れ替わっているし、ありのままの自分ではない。鏡によって、立つ位置によって、微妙に見え方もちがってくる。だが、そのためにふだん気がつかないものに気がつくこともある。

自分自身が鏡になっていることもある。自分が何を映しているのか、それを知るためには、また別の鏡が必要になる。
二枚の鏡を向かい合わせたときのように、世界には無限の鏡がある。無限の像を映し出している。

至人之用心若鏡
不將不迎、應而不藏
故能勝物而不傷

 至人の心を用うるは、鏡の如し
 将(おく)らず迎えず、応じて蔵(おさ)めず
 故によく物に勝(た)えて傷(そこな)われず

(莊子「應帝王」)


初出 May. 17-24 2007 改訂 May. 31, 2007

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