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ここより先、怪物領域

ほかの人間はみんな、心に怪物を持っているんです。
ただ別の名前で呼んだり、怪物なんかいないと信じてるふりをしたり……。
ロバートの地図の世界はきれいで、平たくて、単純でした。
人の住む場所と、怪物の住む場所を区別していました。
その世界がほんとうは、まるくて、場所はみんなつながっており、
怪物とあたしたちをへだてる何ものもない、と知ることはたいへんショックなのよ。
あたしたちは空間の中を一緒にぐるぐるとまわっていて、
そこから下に落ちることすらできないんですものね。
ほんとうに、知るということはおそろしいことね。
―― マーガレット・ミラー 『これよりさき怪物領域』

アヌビス神


1.怪物はどこにいる?

「モンスターペアレント」という言葉を初めて目にしたとき、なんだかイヤな言葉だなあと思った。

確かにそういう言葉で名指されるような人の行為というのは、誰が聞いても眉をひそめずにはいられないものだろう。そういうことをやっている人さえ、自分ではない、別の人が同じことをやっているのを見れば、「世間は食うか食われるかなんだから、自分の利益は自分で守るしかない、ぜひこれからも頑張りなさい」とは言わないような気がする。自分以外の人間が同じことをしているのを見れば、やはり他の人と同じように「なんと自分勝手な行動なんだ」と腹を立てるにちがいない。

誰が見ても理不尽な行動をする人がいる。どれほど注意しようが、理屈を言って聞かせようが、規範を持ち出そうが、まったく聞く耳を持たない。そんな身勝手で社会性の低い人に「モンスターなんとか」とレッテルを張る。

だが、わたしはここで思わずにはいられない。レッテルを張ったあと、周囲の人ができることは、あの人は「モンスター」だから関わらないように注意しよう、ということしかなくなってしまうのではないか。結局のところ、わたしたちの人間関係から排除するしかなくなってしまう。

それでもその人が悪いから仕方がない、ということになるのだろうか?
あの人が悪いのだから仕方がないじゃないか、あの人がそういうふうに周囲をし向けているのだから……、自業自得というものだ、自分の逸脱行為の責任は自分で取るべきだ……一見もっともらしいこの考え方は、わたしにはなんだかとても居心地の悪いものに思えてしまう。だからどうしてもその「モンスターなんとか」という言葉も、イヤな言葉だと思ってしまうのだった。

ところが身近にまさしくそうとしか言いようのない人物が現れたのである。わたしは直接の被害には遭ったわけではない、ただ、被害に遭った人から事情を聞いただけの傍観者の立場だ(明日は我が身、という危機感は多少あるが)。だから、直接に被害に遭った人とはまた感じ方もちがうのだろうが。

その人を仮にX氏と呼ぼう。X氏はある出来事をきっかけに、Y氏の行動にたいそう腹を立てた。その日常のちょっとした行き違いがもとでの小競り合いを取り上げて、X氏はY氏を口を極めて罵倒するわ、家まで押し掛けて謝罪を要求するわ、早朝から電話をかけてくるわ、常軌を逸したふるまいを約三ヶ月に渡ってし続けた。もちろんY氏もただ手をこまねいて事態を傍観していたわけではない。関係部署や地域の世話役に連絡を取り、それらを通じてX氏に話を通そうとした。ところがX氏は仕事は引退しており、数年前に越してきたばかりで地域とのつながりもない。仲裁に入った地域の関係者に対しても逆ねじを食わせる始末である。そんななか、ついにX氏とY氏のあいだに暴力沙汰が発生したのである。暴力沙汰といっても、事件などとはほど遠い、小競り合いに毛の生えたものだったのだが。

X氏Y氏双方の話を聞いてわかったのは、三ヶ月間、来る日も来る日も「謝罪要求」をし続けたのは、X氏の「自分が被害者である」という揺るがぬ確信だった、自分は何も悪いことをしていないのに、「加害者」Y氏は自分にひどいことをした。だからY氏に対して「異議申し立て」をし、「心からの謝罪」を求めているだけだ。そのいったいどこに非がある? というのがX氏の言い分なのである。

通常、ふたりの人間がもめごとを起こした場合、端にいるものは双方の訴えに耳を傾け、「どちらがどれほど悪いか」と比較する。どちらも同じ程度悪い、と判断すれば、確かにあんたがそうしたくなる気持ちはわかるが、相手だって理由があったのだ、ここはお互いに悪いところは認め合い、双方とも謝罪して、これから先、なんとかうまくやっていこうじゃないか、と仲介の労を取る。

ところが一方の反応が、原因となった行動に対して極端に過剰である場合には、その過剰な側に「そういう考え方や行動はおかしいではないか」と注意する。そうして端の指摘にも耳を貸さず、「自分は被害者である」「自分はなにひとつ悪くない」と言い張ってやまないだけでなく、それ以降も過剰な要求を続ける人物を、周囲は「モンスターなんとか」とレッテルを張る。そう呼んでどうするかというと、先にいったように、関わらないようにする、つまり共同体から排除するのである。

わたしが今回“X氏”を間近で見て奇妙だと感じたのは、そもそもX氏がY氏を「ひどい」と思ったのは、X氏が期待する「良好な人間関係」を満たすような行動を、Y氏が取ってくれなかったからなのだ。自分が望む人間関係を相手が築いてくれないとわかったとき、あなただったらどうします? いきなり怒り出したりします?

おはよう、と声をかけて相手が返事をしてくれないとき、両手がふさがっているのに、出てきた相手が扉を少しのあいだでも押さえてくれないとき、ちょっとあれやって、と相手に頼んだのに断られたとき、つまりは自分の期待する行動を相手が取ってくれないとき、わたしたちが考えるのは、まず「なんでだろう?」ということだ。

自分のこれまで行動を振り返って、相手に対して何か気に障るようなことをしただろうか、自分のこういうところが悪かったんじゃないか、と反省してみたり、あるいは相手にはそうできない事情があったのかもしれないと、自分の立場を離れて事態を眺めてみたり。あるいは別の人に話を聞いて、その人のひととなりを知ろうとしてみたり、あるいはまた自分の期待の方を修正しようとしてみたり。なんにせよ、即時的にはムッとするかもしれないが、本格的に腹を立てるというのは、かなりあとの方の行動のはずだ。

それはどうしてか。簡単な話だ。自分が怒ってしまったら、相手とは「良好な人間関係」を決して築けないことが明らかだからだ。
だれかを好きになったときというのは、その最たるものだろう。好きだと告げて、相手から気持ちに応えることはできないと返事をされて、がっかりすることはあっても、相手に向かって怒りだしたりはしないはずだ。そんなことをすれば自分の好きな人が、いっそう自分から離れていってしまうからだ。

さらに、自分と「良好な人間関係」を築けない相手に腹を立てて攻撃でもしたことなら、相手ばかりではなく、それ以外の人とも「良好な人間関係」など決して築けないことも明かだからだ。「モンスターなんとか」などと呼ばれでもするようなことになれば、もうその人は誰とも人間関係を築くことはできない。

X氏のような人は、そのぐらいのこともわからないのだろうか? 自分を苦況に追い込んでいるのはほかならぬ自分自身なのに。

わからないのだろう。自分が「被害者だ」と思いこんでいるから。自分が「正しい」と思いこんでいるから。
「正しい」か「正しくない」か、という基準なんて、社会の一員であって初めて意味のある基準なのに。自分にしかあてはまらない基準というのは、実のところ、基準などにはなり得ないのに。


2.悪いものを悪いと指摘するのは簡単だ


ここまでで確認しておきたいのは、「モンスターなんとか」と呼ばれる人が、そこまで理不尽な行為に出ることができるのは、「自分が被害者だ」「自分に対して害をなす人間は、許してはおけない」「断固、正義が行使されるべきだ」という意識に凝り固まっている、という点だ。どれだけ奇妙な論理、その人にしか通用しない「論理」であっても、その人にとって「理」があるのは自分であり、自分が被害者なのである。

さて、仮に、その「モンスターなんとか」をわたしたちが一致団結して排除しようとする。そんなとき、わたしたちが依拠する論理はどんなものだろう。

わたしたちの共同体に害をなす「『モンスターなんとか』は加害者、わたしたちは被害者」「『モンスターなんとか』を許してはならない」「『モンスターなんとか』を排除して住み良い共同体を作ろう」「正義が行使されるべきだ」……
これはまるっきりその「モンスターなんとか」と同じではないか。ちがうのは、彼もしくは彼女がひとり、せいぜいがふたり、対するわたしたちは大勢、というだけである。

これが一対一の争いなら、非常にわかりやすい。先にもあげたX氏とY氏のもめごとの成り行きを見ていたわたしはおかしなことに気がついた。

些細なものといっても暴力沙汰は暴力沙汰、警察の介入などもあったりして、X氏は自分の否を認め謝罪した。ところがこんどはおさまらないのはY氏の側である。自分は三ヶ月にも渡って精神的に苦痛を味わったのだ、たかだか謝罪ひとつで相手を許せるものか……。なおもくどくど訴え続けるY氏の方を、今度は周囲はうっとうしく感じ始めたのである。

まるでフォークダンスをするように、立場というのは容易に入れ替わる。それこそニーチェの『善悪の彼岸』ではないが、「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とな」ってしまうのである。

ところがひとりの理不尽は目立っても、集団の理不尽は目立たない。たとえ同じことをやっていても、ひとりならば「モンスターなんとか」とレッテルを張っておしまいにできるが、集団でそれをやると、集団全員が「モンスター」なものだから、だれひとりそれに気がつかない、ということになる。ほんとうにわたしたちが恐れなければならないのは、ひとりの突拍子もないことをする「モンスターなんとか」ではなくて、「気がつけばあなたもわたしもモンスター」の状態の方だろう。

であるとするなら、そういう「X氏」に対して、どういう対応を取ったらいいのだろう。具体的な方策というのは、それぞれの場で、それぞれに立てるしかない。だが、それでもわたしたちの周りにいる「X氏」とどうつきあっていくか、ここで考えることは無意味ではないと思うのである。

幸いなことに、わたしはこれまで大きなもめごとを(中学生の時なら一度あるが――興味のある人はサイトのどこかを探してみてください(笑)――それ以来はおそらくはないはずだ)経験したことはないし、おそらくこの文章を読んでくださっているあなたも、「モンスターなんとか」とレッテルを張られる可能性は低いだろう。むしろ、おそれるとしたら、不幸にして「モンスターなんとか」の標的となってしまうケースなのだろう。

だが、それも、わたしたちが「モンスターなんとか」にならないですんでいるのは、ほんとうは些細な偶然が積み重なった結果でしかないのかもしれない。X氏とY氏が容易に立場を入れ替えたように、わたしたちだって「モンスターなんとか」になってしまうかもしれないのだ。排除ではなく、彼らとなんとかうまくつきあっていくことは、とりもなおさず自分がその「モンスターなんとか」にならないですむ、ということでもあるのではないだろうか。ここではそういうことを考えてみたいのだ。


3.「なんでそんなことをするんですか?」


まず、わたしたち自身のことを考えてみよう。
たとえばわたしたちが、あるグループのなかで、何らかの責任のある立場なら、そこに少々気にくわない人間がいたところで、その人間に対して過度に攻撃的に出るようなことはしないのではあるまいか。役割には果たすべき責任があり、周囲の人びとに対して配慮する義務がある。それぞれの地位や役割に応じて、果たすべき責任や行動が決まってくるのである。気にくわない客に対してであろうが、理不尽な要求をかざしてくる親に対してであろうが、わたしたちの対応は、個人的感情ではなく役割によって決まってくる。

逆に言うと、「モンスターなんとか」はそこを突いてくるのだ。一対一の個人なら、理不尽な行動をすると相手に殴られるかもしれない。相手に対して「おまえはおれに対してこうすべきだ」と主張したところで、相手が「そんなの知るか」と言ってしまえばおしまいだ。

ところが役割を担っている人間は、自分の感情より果たすべき責任を優先しなければならない。理不尽な要求をしてくる客であっても、「お客様」として応対することが「期待される役割行動」であれば、自分の感情を押し殺してでも丁寧な応対を心がける。「モンスターなんとか」はそれにつけこんで、いっそう無理難題を言い募る。

ところで、「動機」ということについて、C.W.ミルズという社会学者はおもしろいことを言っている。

動機は、ある行為の「原動力」となる内的状態と言うよりは、人びとが 自己および他者の行為を解釈し説明するために用いる「類型的な語彙」である。

( C.W.ミルズ「動機の語彙」
作田 啓一・井上俊 編『命題コレクション 社会学』所収筑摩書房)

わたしがする何かをするときの「動機」というのは、そのたびごとにわたしのなかから新しく生み出されるのではない。たとえ自分の自由な意志で何かを決意したと思っていても、実はそれが無意識のうちに誰かの模倣をしていたり、小さい頃からしつけられた規範であったり、つまりは社会に共有知識としてストックされたパターンの中から選択されているのだ、とミルズはいう。

ここで重要なのは、ある行為の動機が他人を納得させられそうにないときとき、わたしたちはそういう行動をなるべく避けようとするに違いない、ということである。

役割や地位のない、社会的に孤立している人間は、期待されている役割がない。しかも、ある行動について、誰かに説明する必要もないとしたら。孤立した人間が、他人が説得できないから、こういうことをするのはやめようと考えるだろうか。わたしたちはとうてい「理解できない動機」、つまり社会にそういう「動機の語彙」がない犯罪をすでにずいぶん見てきた。だが、そういう犯罪は「動機が不明」なのではなく、社会的に孤立した人物が、他人を納得させようと思わず、自分にしか通用しない論理で行為したのではあるまいか。

そう考えていくと、共同体による意識・無意識の紐帯が弱い人物の方が、「モンスター化」しやすい、ということになる。

もともと孤立している人間が、孤立しているがゆえに、他人と望ましい人間関係が築けない、と腹を立て、突拍子もないことをしでかすのが「モンスターなんとか」であるとしたら、その人物を排除することは、もともと排除されかけているのだから、ものすごく簡単だが、問題の解決にはまったくなっていかないだろう。排除された彼・もしくは彼女は、さらに突拍子もない行為を仕掛けてくるかもしれない。「動機不明の犯罪」は、もしかしたら、彼らなりに共同体と関係を結び直そうとしているのかもしれないのだ。

あるいはまた、うまくその「モンスターなんとか」を排除できたとする。だが、つぎの端にいる人間が、なんらかのきっかけで別の「モンスターなんとか」になる可能性はきわめて高い。

おそらく「モンスターなんとか」を生みださない一番いい方法は、一緒にいて不愉快な人間を「モンスター」と見なさないことなのだ。そのようなレッテルを張ることによって、関係に決着を与えないことだ。変な言い方だが、日常的に、イヤな人間を、イヤだと思いながら、それでも自分が苦しくならない方法を探る。もちろん人に「あいつ、イヤなやつだろ? そう思うだろ?」と同意も求めず、なんとか最小限の接触に留めながら、かといって関係を切ってしまわない。そうして、たとえ何かが起きても、それほど極端なことでなければ、あるていどは「仕方がない」と割り切りながら、成り行きにまかせることだ。


4.ささやかな、あまりにささやかな提言


わたしたちはどこかで「備えあれば憂いなし」的な発想をしてしまう。事故や不測の事態が起こると、すぐ「誰の責任だ?」と考えてしまうのだが、実際のところ、わたしたちはどこまで制御が可能なのだろう。たとえばいましきりに「地球温暖化」ということが言われているけれど、地球の温度を制御することがほんとうにできるのだろうか(たとえばスーパーのレジ袋をもらわないとか?)。おそらくわたしたちは未来に対する不安があって、それが「温暖化対策」という名の制御願望になっているのではないのだろうか。おっと、話がばらけた。

相手にこうしてほしい、と期待することにしても、自分ではない他者の行動を、どこかで制御しようとしているからではないのか。突拍子もない行動を取る人間に、共同体の一員として責任ある行動を取ってほしいと期待して、そうしてくれないから、と言って、批判したり怒ったりするのは、やはりちがうような気がする。別に相手の側にもそうしてくれと求めるつもりはないけれど。

こんなとき、わたしはいつもE.M.フォースターの言葉を思いだす。

寛容という美徳は、まことに冴えません。たしかに、おもしろみはなく、愛とはちがって昔からマスコミには人気がありません。消極的な美徳なのです。要するに、どんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから。寛容を讃える詩を書いた人は誰もいませんし、記念碑を建てた者もいません。ところが、これこそ戦後にもっとも必要な美徳なのです。これこそ、われわれの求めている健全な精神状態なのです。各種各様の民族を、階級を、企業を、一致して再建にあたらせることができる力は、これ以外にはありません。

(E.M.フォースター「寛容の精神」
『民主主義に万歳二唱』所収 小野寺健訳 みすず書房)

E.M.フォースターは、驚くなかれ第二次世界大戦が始まって二年後の1941年(日本はこの年に参戦する)この講演をおこなった。ロンドンが壊滅的な空爆を受ける前、イギリスも容易な勝利を確信していたころ、フォースターは「再建」を訴え、戦後の精神として「寛容の美徳」を提唱したのである。

フォースターは言う。「世界には人間があふれています。…その相手は大部分が知らない人間で、なかには嫌いな相手もいます。」そういう相手にはどうしたらいいのか。解決策はふたつある、という。

一つはナチ流のやりかたで、ある民族が嫌いなら、殺し、追放し、隔離し、その上でわれこそは地の塩なりと豪語しながら闊歩する方法です。もう一つはこれほど魅力的ではありませんが、それこそ大体において民主国家のとる方法でして、私はそっちのほうが好きであります。ある民族が嫌いでも、なるべくがまんするのです。愛想としてはいけません。そんなことはできませんから無理が生じます。ただ、寛容の精神でかまんするように努力するのです。こういう寛容の精神が土台になれば、文明の名に値する未来も築けるでしょう。それ以外、私には戦後世界の基礎は考えられません。

フォースターがこのことを主張してから半世紀以上が過ぎたけれど、わたしたちはまだこのことが上手にできるようにはなっていない、というか、風潮の針はフォースターに反して、徐々に不寛容の側に傾いていっているような気がする。

嫌いでもいいから、がまんする、がまんしながらそれでもつかず離れずの関係を維持していく。できれば共同体の一員として、そういう彼らにも何らかの責任を担ってもらう。

もちろん理不尽な要求に対して、「寛容の美徳」で応えろと言っているわけではない。現にそれを訴えたフォースターも、戦争中、ナチに対する批判を積極的に続けていった。理不尽な要求に対しては、攻撃にさらされている人を孤立させず、さまざまな立場・役割から批判していくことが必要だ。だがそのときに、基準となるのは「善い−悪い」ではないように思うのだ。

彼らなりの奇妙な論理で正義を確信している相手に対して、「善悪」を持ち出してもかみ合わないばかりだ。彼らに訴えるのは、「その行為が誰に、どういう影響を及ぼすのか」ということだ。その行為で一番不利益を被るのは、あなた自身ではないか。そういうことを言い張るあなたとは、わたしは関係を築いていけない、と。

聞いてくれるかどうかはわからない。けれども「寛容の美徳」とは、こうした説得をねばり強く続けていくときにこそ、発揮されるものではないかと思うのだ。

おそらく「何ができるか」という問題は個別具体的なもので、一挙に解決できるような「魔法の言葉」はどこにもないと思う。それぞれの場面で、それぞれに考えていくしかない。
それでも、さしあたってはまず「モンスターなんとか」と呼ぶのを止めることから始めようと思うのである。



初出July.29-30, 2008 改訂Aug.15 2008

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