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死者とともに生きる




八月は死者の月だ。
新聞を広げても、まず広島、ついで長崎の原爆記念日が近づいたころから、戦争や原爆の記憶が語られるようになり、日航機墜落の記事がはさまり、終戦記念日まで死者の思い出は繰り返し語られる。

そうしてお盆が来る。

お盆が普通の夏休みになって久しいけれど、お盆と正月は、やはりほかの連休のときとは性格を異にする。お盆休みには、自分が生まれ育った家や婚家の実家に帰省し、普段会うことのない親族に会い、先祖のお墓参りに行く人も少なくないだろう。

この行事に対して、民俗学的な知識も宗教的な知識もないまま書いているのだけれど(どうか詳しいかた、教えてください)、この祖先や死者の霊を家に迎える、というのは、すぐれて日本人的な発想なのではないかと思う。

* * *

欧米のキリスト教的世界観では、生と死の間には、厳然と一線が引かれており、死は永遠の喪失であるという感覚が強いような気がする。

キリスト教の葬儀では、埋葬の際に、つぎのような祈祷文が唱えられる。

In the midst of life we are in death. Earth to earth, ashes to ashes, dust to dust; in sure and certain hope of the Resurrection into eternal life.
われら、生のさなかに死に臨む。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。永遠の生への復活を信じ願いつつ。(私訳)

ここでは、生と死は厳然と区切られ、死んだ肉体は土に還っていくことが告げられるのだ。死者の魂は、天国か、地獄かに振り分けられ、そこから戻ってくることはない。

あるいはまた『指輪物語』のなかの非常に有名な一節に以下のようなものがある。ホビットのフロドがある者のことを「死に値する」と言ったときの、魔法使いガンダルフの言葉だ。

Deserves it! I dare say he does. Many that live deserve death. And some die that deserve life. Can you give it to them? Then be not too eager to deal out death in judgement. Even the wise cannot see all ends.
死に値する、だと! そうかもしれぬ。生くる者の多くが死に値する。また、死ぬ者のうちにも生くるに値する者もおる。おぬしはそういう者どもに生を与えることができるのか? さもなくば、死を与えるという決断など、軽々に下してはならぬ。賢者でさえ、ものごとの終わりまでは見通せぬものなのじゃから。(私訳)

ここで扱われる「死」は重い。そうしてまた限りなく重いものでなければならないのだ、とガンダルフは言っている。「生」と「死」の間には、越えがたい断絶があるのだと。だから、たとえ自分たちに災いを及ぼす者、敵であっても、生きている者を「死」の側に追いやろうとするようなことが、断じてあってはならないのだ、と。

では、その線を実際越えてしまった者に対して、生きている者はどのように感じるのだろうか。
アン・タイラーに『アクシデンタル・ツーリスト』(早川書房)という本がある。
とびきりおもしろい本で、さまざまな読み方ができるのだけれど、ひとつの大きな筋として、十二歳のひとり息子イーサンが、バーガーキングを襲った強盗に射殺されたメイコン・リアリーが、その喪失の痛みから立ち直っていくプロセスが語られていく。

 もし死んだ人間も歳を取るなら、それは慰めにはならないだろうか? メイコンは、イーサンもまた天国で大きくなっているのだと考えると――だから今は十二歳ではなく十四歳になっているのだと考えると――悲しみが少し和らぐような気がした。

(真野明裕訳)

実は最初にこの部分を読んだとき、なぜこの考えにメイコンがそこまで救われるのかよくわからなかったのだ。
この感覚は、死者を身近に感じる日本人の感覚でいくと、むしろひどく自然なものではないか。
新聞報道でも、不慮の死で亡くなった幼児が、学齢期になればランドセルを贈られたり、あるいは学童であれば、卒業証書を贈呈されたりするニュースはめずらしくない。

けれども、西洋的な感覚では、死者と生者の間には、超えることができない、厳しい境界線があるのだ。
メイコンはこの境界線に苦しみ、決して超えられない境界線の向こうに、想像上の「時間」を通わせることで、なんとか橋を架け、死んでしまったイーサンと同じ位相で生きようとした。
そのことに思いが至るまでの道のりが非常に困難であったからこそ、メイコンにとって「救い」になり得たのだ。

わたしはこのことに気がついたとき、初めて、これまであたりまえだと思っていた自分のなかの「日本人の感覚」の特異性に気がついた。

わたしたちの感覚では、死者はひどく近いものだ。
わたしの母は幼いときに母親を亡くしているのだけれど、姉が軽い交通事故に遭ったとき、あるいはわたしが中学に合格したとき、何かあれば子供たちに「死んだおばあちゃんが守ってくれたんだから、お礼を言いなさい」と言って、手を合わせてどこかに向かって祈るように言うのだった。おばあちゃんばかりではない、さらに遡って、母親自身、たいして知りもしない曾祖父や、もっと以前の祖先がつぎつぎに話に登場し、こうした「ご先祖さま」は、ことあるごとにわたしたちを守ってくれたり、悪いことをしないか監視していたりするらしいのだった。

家には仏壇はなかったし、両親ともに生家から離れて生活していたために、墓参りもそれこそ盆と春か秋の彼岸ぐらいでしかなかったけれど、「ご先祖さま」は常に身近にいた。

* * *

「ご先祖さま」ではない「死者」を身近に感じたこともあった。

鴎外の墓を三鷹に訪ねたことがある。
中二のときの現国の先生は、太宰治が好きな文学青年崩れで、この先生の試験問題は中勘助の『銀の匙』や石川淳の『紫苑物語』など、問題を読むだけで楽しくなってしまうようなものだった。結局高校二年まで四年間世話になるのだけれど、この先生を通じて非常に多くの文学者を知り、あるいはたとえ志賀直哉のように高名な文学者であっても、自分が気に入らなければけなしてもいいのだ、ということも知った。

この先生が、太宰の墓が三鷹の森鴎外の墓の斜め前にあることを教えてくれた(ついでに鴎外の墓の字はあまりよくない、と言っていたのだが、中村不折の字をよくない、と言い切るとは、なかなか大胆な先生だった、と今になって思う。その先生自身、ちょっとした書家で、板書の字はうっとりするぐらいきれいだったのだが)。

そのときに『花吹雪』という短編を読んでくれたのだ。

私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。

(引用は青空文庫)

「清潔」な墓地というのはどのようなものなんだろう、と興味を引かれた。「鴎外の文章の片影がある」というのは、どういうことなんだろう。 場所を教えてもらって、春休みに電車とバスをのりついで行ってみた。

平日の昼間、午前中の墓地は、ひとけがなく、ひどく静かだった。
なにより、寒かったことをよく覚えている。ダッフルコートを着ていたのだが、足先から寒さが立ち上ってくるようで、すっかり冷え切った身体が小刻みに震えた記憶がある。
けれども、日差しだけは春のもので、「森林太郎墓」と大きく刻まれ、歳月を経た墓石を白々と照らしていた。

わたしが知っていた「清潔」という言葉は、そうしたものは扱わなかった。
それまで、わたしにとっての清潔とは、きれいに掃除したあとの洗面台の陶器の白さであり、洗ったばかりのシャツの白さだったのだ。
そうした意味での「清潔」ではなかった。
それでも、太宰が言った「清潔」の意味は、自然と自分のなかに浸透していくようで、このとき、わたしのなかで「清潔」という言葉の意味が、少し、ひろがったのだと思う。

ここに、この清潔な場所に、鴎外が眠っている。
ひどく不思議な気がした。
自分のなかで森鴎外というのは、『舞姫』や『雁』を書いた「文豪」で、自分と同じように肉体を持ち、生き、死んだ人間ではなかった。
けれど、そこに墓があった。
どっしりとして、ひどく現実的なその墓は、鴎外というより、森林太郎というひとりの人間が生き、死んだことのまぎれもない証としてわたしに迫ってきたのだった。

墓を見たい、ただそれだけで、お参りするなどということを思いつきもしなかったわたしは、寒い中、震えながらしばらくそこにいただけで、お線香をあげるでもなく、花を供えるわけでもなく、踵を返した。ただ、鴎外は、このときから、わたしのなかで「生きた人間」として、息づき始めたのだと思う。

* * *

学生の頃、図書閲覧室の書庫で何時間も過ごした。古い本独特のにおいとほこりと静けさのなかで、踏み台に腰掛けて本を開く。その多くは紙が黄ばみ、なかには端が茶色っぽく変色し、ぼろぼろと朽ちかけているものさえあった。わたしが生まれるよりも前に出版された本たち。著者の多くも故人だった。それでもそうした本を開くと、著者が、あるいは登場人物が、ふたたび息をし始め、わたしに語りかけてきた。

『世界は何回も消滅する』(筑摩書房)というアンソロジーに、ティム・オブライエンの『死者を生かす物語』という短編小説が所収されている。

中年の小説家が、夢を見ている。遠い昔に死んでしまった初恋の少女と主人公は、一緒にアイススケートをする。そのとき、この少女は、本と図書館の比喩で死んでいるとはどういうことかを語るのだ。

「いまはさ」彼女は言った。「あたしは死んでない。でも、死んでるときは、そうねえ――よく分かんないけど、だれも読まない本のなかにでもいるようなかんじかな」
「本?」とわたし。
「古い本。図書館の棚にあって、そりゃもう安全そのものだけど、ほんとに長いこと借り出されてないの。じっと待つだけ。だれかが取り出して読みはじめてくれないかなあって期待する毎日」

(青山南訳)

図書館を一種の霊廟、墓所になぞらえる見方は珍しいものではない。
けれど、墓所や霊廟は、果たしてほんとうに、いまここに生きるわたしたちと、縁のない、無関係なものなのだろうか。書庫を訪れ、古い本の語りかける声に耳をすますことができるように、そこを訪れれば、死者たちが話しかけてくれるのではないのだろうか。

そうして、死者の側も、それを待っているのだとしたら。
いや、もう少し正確に言うと、わたしたちが「待っていてくれる死者」に思いを馳せることができさえすれば、おそらく、死者は何ごとか、語りかけてくれるのではあるまいか。それは単に自分が出した手紙が、反転して戻ってきただけにすぎないとしても。
けれども、なんであれものごとの意味は、わたしたちの外側に存在するのではない。〈わたし〉が、〈わたしへと現れるもの〉を対象としてとらえ、意味を読みとり、名づけ、みずからの内へ落とすことでしかない。〈意味〉は、〈わたし〉が付与することによってしか、存在しない。
それは他者であっても同じことではあるまいか。

死を重く受けとめよ、というガンダルフの言葉は、胸の深いところに響く。あるいは逆に「心霊スポット」であるとか、「霊のたたり」などという興味本位のもの言いに、やりきれない感覚を覚えることもある。
それでも。

わたしは、死を地続きとする日本人的な感覚を、愛する。
お盆のたびに還ってくる死者のイメージを愛する。

わたしたちは、生きていくなかで、多くの死や、あるいは喪失を体験する。
けれども、その人を忘れ去ってしまわないかぎり、言葉を換えれば、その人の物語を紡ぎ続けていくかぎり、その人は、「存在のありよう」を変えて、自分とともに自分の中に生き続けるのだと思う。

死は、あるいは喪失は、終焉を意味しない。
死や喪失を機に、自分のなかに息づき始める物語がある。





August.16,2005





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