三角形で見る映画

ハンニバル・レクター:クラリス、第一の原則は単純ということだ。
マルクス・アウレリウスを読みたまえ。
個々のことがらはこう聞いてくる。
そもそもそれはいったい何なのか? その意味は?
彼は何をしているのだ? 君が求めている人物は。
(映画《羊たちの沈黙》より)

海賊船

1.「英雄物語」と「欲望の三角形」


どんな映画が好きですか?
ラブ・ストーリィ? アクション? ミステリ? SF? それともホラー? レンタル・ビデオ屋の店頭では、だいたいそういうジャンル分けがなされている。だが、まったくちがうジャンルの映画なのに、あれ? これ同じ映画じゃない? と思った経験はありませんか?

わたしがそれに初めて気がついたのは、ビデオ屋で《モスキート・コースト》と《シャイニング》を借りてきて、続けて見終わったときだった。一方はハリソン・フォード演じる父親が頽廃した文明の地アメリカを離れ、ボリビアの奥地にユートピアを築こうとして失敗する、裏返しのファミリー・アドヴェンチャー。もう一方は、斧をかついだジャック・ニコルソン演じる父親が、ニヤニヤ笑いを浮かべてドアの隙間からのぞくホラー映画。だが、そういう道具立てを取り払ってみると、どちらも
・隔絶された世界で
・狂気に陥った父親から
・家族(母親)を守るために
・少年が父親を殺す
映画なのである。

なんだ、これは《スター・ウォーズ》じゃないか。同じ筋書きが、語り口と舞台装置さえ変えれば、まったくちがう映画になってしまうのだなあ、と思ったのだった。

のちに松岡正剛の『知の編集術』を読んで、ジョゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』に感動したジョージ・ルーカスが、「英雄伝説の基本構造」をもとに《スター・ウォーズ》を作り上げたことを知った。

「英雄伝説の基本構造」とはこのようなものだ。

(1)「原郷からの旅立ち」
主人公がある必要にせまられて故郷を離れる。ただし、まだその目的はわからない。このとき、その主人公に加わる者がいて、たいていは連れ立つチームになる(『西遊記』の孫悟空たちや桃太郎のキジたちのように)。

(2)「困難との遭遇」
旅はなかなか容易には進まない。艱難辛苦が待っていて、その都度クリアしなければならない。このとき意外な者(みすぼらしい姿、変な意味の言葉)が助言を与える(ヨーダのように)。

(3)「目的の察知」
自分が探していたものに気がつく。ひょんなきっかけで知らされる「失ったもの」や「知らなかったもの」である。探していたものはたいていは「父」であり、「母」であり、「宝物」であり、または「真の敵」である(桃太郎の宝物のように、スーパーマンのクリスタルのように、ダースベイダーの武器のように)。

(4)「彼方での闘争」
かくて敵地や遠方の土地での決戦が始まる。そしてきわどいところで勝利や成果をあげる。彼方での闘争は勝手がわからないという特性がある。それをクリアーしたとき、ついに求めていた目的と出会う。そして、それが意外な真実の打ち明けにつながる(ダースベイダーが実は父だったように)。

(5)「彼方からの帰還」
その地で勝利や成果をおさめた主人公は必ずその地にとどまるように勧められる。が、それをふりきって帰還する。これが『スター・ウォーズ』の「リターン」にあたる。オデュッセイアにもイザナギにも浦島太郎にも、この「リターン」がある。そして帰還を応援したために犠牲になる者も出る。

(松岡正剛『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』講談社現代新書)

キャンベルは世界中にあまねく存在する神話の基本的な構造を、この「英雄伝説」に見る。そうしてルーカスがスクリーン上に生き返らせた「英雄伝説」は、語り口と舞台を変えながら、いまだにハリウッドで量産され続けているのである。《モスキート・コースト》や《シャイニング》ばかりではない。最近ではディズニーのプリンセス・ストーリーの実写版パロディ《魔法にかけられて》も同じ構造だ(ただし主人公のジゼルは「帰還」せず、代役を送り込むが)。

さて、そんなあまたの「英雄伝説」映画のなかから、ここでは《パイレーツ・オブ・カリビアン》を取り上げてみたい。

まず、一作目の《パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち》は、きれいに「英雄伝説の基本構造」を踏襲している。

ジャマイカのポートロイヤルで成長した孤児ウィル・ターナーは、拉致されたエリザベスを助けるために船に乗り込むことになる。その途上で協力者ジャック・スパロウと出会う。(「原郷からの旅立ち」)
 ↓
海賊船の一員となって船旅を続けるうちに(「困難との遭遇」)、自分が海賊の子供であることを、ジャック・スパロウの口から知る。エリザベスを拉致したキャプテン・バルバロッサが父の敵であることも(「目的の察知」)。
 ↓
ジャック・スパロウとともに彼を倒し(「彼方での闘争」)、エリザベスを獲得して帰還する(「彼方からの帰還」)。

ところが《呪われた海賊たち》は、《スターウォーズ》にはない、不安定になりかねない要素があった。主人公ウィル・ターナーとエリザベス、ジャック・スパロウは三角関係となっていくのである。それも、ジャック・スパロウはよくあるラブストーリーの三角関係における主人公の恋路を邪魔するだけの存在ではない(そういう作品の多くは「ライヴァル」と言うにはとうてい足りない、金持ちというだけの男だったり、頭の軽いただの「ウッフン」(@鹿島茂)だったりする)。ところがウィル・ターナーにとってのジャック・スパロウは、自分が海で生きていく上での手本(モデル)と仰ぐ存在なのである。

ウィル・ターナーがポートロイヤルにいるころ、身分違いであることを理由に、エリザベスに近づこうとさえしなかった。ところがその彼が海に出てエリザベスに積極的に相対することができるようになったのはなぜか。それはジャック・スパロウがエリザベスに引かれたことが引き金になっていたからではなかったか。このようなウィル/エリザベス/スパロウの三角関係のなかには、ジラールのいう「欲望の三角形」が見て取れる。

作田啓一氏の『個人主義の運命』では、ルネ・ジラールの『欲望の現象学』を援用しながら、主体と手本でありながら同時にライヴァルでもあるふたりの関係をこう説明する。

ライヴァルが主体より一歩先んじている限り、主体はライヴァルを尊敬し、ライヴァルのように「なりたい」と願います。この同一化の作用(S.フロイトの用語)によって、主体はライヴァルの客体に対する欲求を模倣します。そのために、初めから主体の中にあった客体への欲求はさらに強化されます。言いかえれば、もしライヴァルがいなかったなら、それほどでもなかったはずの主体の欲求が、ライヴァルの介在によって格段に高められるのです。

(作田啓一『個人主義の運命』岩波新書)

このように、自分が相手に引かれるのは、自分の意志だと主体は思っている。ところがそれは誤認であって、実は「自分がそうなりたいと心に決めた人物」の模倣をしているのである。こういう手本は「欲望の媒体(あるいは媒介者)」とばれる。

もちろん「英雄伝説」映画でも、三角関係を内包するようなケースはあった。
たとえば《バック・トゥ・ザ・フューチャー》で、過去の世界にタイムトラベルしたマーティは、17歳の自分の父親が、同じく17歳の母親に出会う場面に介入してしまい、母に一目惚れされてしまう。このままでは過去を改竄する羽目になる、とマーティは父を励まし、なんとか勇気づけながら、父と母を結びつけようとする。

《バック・トゥ・ザ・フューチャー》自体の構造は、ダメ高校生マーティが過去の世界にタイムトラベルすることで、自分のほんとうの夢を見いだし成長していく、という「英雄伝説」そのものなのだが、父親/母親/マーティの関係のなかでは、主体が父親、客体が母親、そうしてマーティは媒介者の働きをする。そうして、媒介者マーティは絶対にこの三角関係の主体にはなれないのである。

《スター・ウォーズ》でも同様の処理がなされている。ルーク・スカイウォーカーとレイア姫は姉弟で、ルーク、レイア、ハン・ソロの関係においてはルークは主体の座をハン・ソロに譲る。

ルークやマーティのような媒介者は、主体をおびやかす存在にはならない。このような「主体の客体へ向かう行為に現実に関与してこない」(『個人主義の運命』)媒介者は「外的媒介」と呼ばれる。

「外的媒介」があるなら、反対に「内的媒介」もある。「内的媒介者」というのは、夏目漱石の『こころ』におけるKのような人物なのである。

「先生」がKを下宿に呼び寄せたのはなぜか。実は「先生」は「お嬢さん」が自分の相手としてふさわしいという承認をKに与えてほしかったからではないのか。同時に、このような女性を妻とする自分を、Kに向かって誇りたかったのではないか。

だから「先生」がKを下宿に連れてきた時、すでに一つのアンビヴァレンスに陥る運命が予定されていました。Kが彼女に合格点を与えなかったなら、先生はこの手本の意見に従って対象選択を諦めなければなりません。Kとの師弟関係は続きますが、愛の断念はつらい。逆にKが彼女を愛するにいたるなら、Kによって合格点を与えられた女性を「先生」は求めないわけにはゆかず、Kは「先生」にとってライヴァルとなるでしょう。それは愛の断念よりもつらい。「先生」はKに対する尊敬と憎しみのアンビヴァレンスに陥りました。そして客体を獲得し、手本(モデル)を喪失する結果となりました。

(『個人主義の運命』)

主体と媒介者の距離が近い「内的媒介」にあっては、三者がうまくおさまるハッピーエンドはあり得ない。たとえば《アパートの鍵貸します》の主人公バドは、出世を夢見て、自分の部屋を、ゆくゆく自分がそうなりたいと思っている上役のあいびきのために貸し出している。ところが人事部長の相手は、自分がひそかに好意を抱いているフランだった。「ひそかな好意」が積極的な愛情に変わったのは、人事部長の愛人だったからだと考えられるし、その意味で人事部長はバドにとっての「内的媒介」なのである。結局バドは会社を辞めてフランを獲得する。つまり、映画の終わる時点で、主体と「内的媒介」は、なんら関係がなくなる。

《パイレーツ・オブ・カリビアン》でも、ウィル・ターナーの海賊経験も一時的なもの、ポートロイヤルに英雄として凱旋し、めでたくエリザベスと結婚式をあげ、ジャック・スパロウは海賊船に乗って去っていくとしたら、映画は「英雄物語」として完結し、ジャック・スパロウも「外的媒介」の位置にとどまったのである。

ところが《呪われた海賊たち》はヒットし、続編が作られることになった。主体ウィル・ターナーも客体エリザベスも、みんな媒介者ジャック・スパロウと同じ海賊の世界の住人になってしまうのである。これでは主体と媒介者の距離が短くなりすぎ、「欲望の三角形」のドラマになってしまって「英雄物語」にはなれない。事実、二作目以降は「英雄物語」の構造を維持できないばかりか、ジャック・スパロウの父親まで出てきて、いったい誰が主体なのか、およそ判然としない映画になってしまう。

かといってエリザベスをふたりが争う「欲望の三角形」のドラマにもなれないのである。《デッド・マンズ・チェスト》といい《ワールド・エンド》といい、客体であるエリザベスは独自の意志をもって動きまわる。客体というのは求められる存在なので、自分から動いてもらっては困る。それがフェミニズム的視点なのか何なのか知らないけれど、このエリザベス、動く動く。おまけにその動く目的がいまひとつよくわからない。話がとめどなく拡散してしまった印象のひとつはそこにあるだろう。

加えて、これはジョニー・デップ独自の解釈なのかもしれないが、ジャック・スパロウはウィル・ターナーの方を実は愛しているのかもしれないと、いくつかの場面でほのめかしている。とくに、ウィル・ターナーが殺されるシーンで、ジャック・スパロウの浮かべる表情は、その感情を示唆しているように思われる(どうもジョニー・デップは《チャーリーとチョコレート工場》でも感じたのだが、両性具有性を付与することによって役柄に深みを与えることができるとどこかで思いこんでいるのではあるまいか。ジョニー、それは誤解だと思うよ)。その結果、いよいよこの三角関係はわけのわからないものになってしまった。

結局三作目では「さまよえるオランダ人」伝説を結末に持ってきて、なんとかけりをつけようとはしているが、なんとも焦点の定まらない、何がなんだかよくわからない映画になってしまったのである。

結論:「欲望の三角形」と「英雄伝説」は相性が悪い。


2.恋愛ではない「三角形」


さて、主体が客体を求めるのは別に恋愛に限ったことではない。多くのミステリ映画では、さまざまな探偵・刑事・捜査官が殺人犯を求める。多くの場合は主体→客体という直線的な関係だが、《羊たちの沈黙》は「欲望の三角形」を取っためずらしい映画である。

まず、この作品の主体は当然クラリス・スターリング、彼女が求めるのは、連続殺人犯のバッファロー・ビルである。そうして、この映画を特異なものとしているのが、媒介者であるハンニバル・レクターの存在である。この媒介者は、クラリスと別世界の住人であり、この事件を通じてのみ、一瞬その世界が交錯する。その意味で、彼はクラリスにとっての外的媒介者で、ふたりの関係は非常に安定している。

さて、物語は以下のように進行する。
FBI訓練生であるクラリスは、特殊施設に収監されているレクターに会いに行く。バッファロー・ビルと名乗る犯人が女性を殺害して皮を剥ぐという犯罪を重ねているのだが、その犯人のプロファイリングのために、同じく異常犯罪者であり、なおかつ精神科医でもあるレクターに協力を依頼しに行くよう、上官からの命令を受けたからである。彼ならば、犯人のプロファイルができるだろう、という判断である。

レクターは犯人を最初から知っている。その意味で、主体から先んじている。だがそれはレクターがプロファイリングに長けていたためではなく、自分の患者だったからだ。レクターのもとにおもむいた時点でのクラリスは、FBIとレクターとの駆け引きの道具でしかなかった。だが、媒介者レクターの手引きによって、クラリスは犯人(客体)を求める主体へと確立されていく。

FBIの訓練生に対してレクターが仕込んでいくのは、異常者の心理を推理することではなく、「異常」ということに目をくらませられないことだ。物的証拠を捜し、そこから手がかりを得、犯人を絞り込んでいく。生活や住んでいる場所、性的嗜好、身長や体つき。レクターが教えるのは、あくまでも実証的な積み重ねである。彼はクラリスに聞く。「そもそもそれはいったい何なのか? その意味は?彼は何をしているのだ? 君が求めている人物は」と。

クラリスの周囲は欲望と駆け引きが渦巻いている。クラリスはそのなかで駆け引きの道具にされず、欲望に飲み込まれることなく、思惑にだまされず、嘘の中から真実を見分けていかなければならない。嘘をつき、駆け引きし、だまそうとするのは異常な犯人ではない。正常とされる人びとである。

サイコ・ミステリの常道は「異常者を捜せ」である。《セブン》にしても、異常者が見つかったのは図書館の貸し出し記録だった(わたしも気をつけよう)。だが《羊たちの沈黙》のユニークな点は、主体クラリスが客体に向かうようになったのは、そうして最終的に到達できたのも、媒介者レクターの視点を、自分の拠って立つ点としたからなのである。異常か正常かなどという区別は、真実を覆い隠すものでしかない、という点だ。

クラリスはその意味でレクターを完璧に模倣する。そうして、模倣することによって、自分を苦しめてきた「羊たちの鳴き声」、自分の力が及ばなかったがために殺されてしまったかわいそうな「子羊」を助け出すことに成功する。客体の獲得によって、クラリスは自らの内にあった恐れをも克服したのである。

こうしてクラリスがバッファロー・ビルの逮捕を独力でやってのけたのと軌を一にして、媒介者ハンニバル・レクターも自らを自由の身とし、自分の世界に戻っていく。この映画では媒介者と主体は一時接近することはあっても、本質的には異なる世界の住人(捜査官と犯罪者)なのである。距離の遠い外的媒介者に対して、主体は従順な敬意を抱くことはあっても、ライヴァル意識を抱くことはない。

さて、この「欲望の三角形」を見事なまでに作品化した『羊たちの沈黙』は、非常によくまとまったおもしろい映画に仕上がった。
ところがこの役割を変えていくとどうなるか。

つぎの『ハンニバル』では、主体はレクターへと移り、客体はクラリス・スターリング、媒介者(これは主体を助けるのではなく、逆に主体をつけねらうことによって、結果的に主体と客体を結びつけるという役割を果たす)は、かつてのレクターの被害者、復讐の鬼と化しレクターをつけねらうメイスン・ヴァージャーとなった。

ところが動きまわるレクターは、逆に彼の老いが強調されてもはや魅力はなく、求められる側に回って動かないクラリスには何の魅力もない(演じるのはジョディ・フォスターを十倍くらいに薄めた印象のジュリアン・ ムーアだ)。『羊たちの沈黙』に較べて、なんともふぬけた映画になってしまったのである。

結論:「三角形」は話に深みを与える。だが役の割り当てには注意が必要である。


3.二重の「三角形」


ウィル・ターナー/エリザベス/ジャック・スパロウという三者も、クラリス/バッファロー・ビル/レクターという三者も、主体−客体−媒介者、という構造ははっきりしていた。だが、わたしたちの現実の世界では、だれもが相互に主体−客体−媒介者という役割を交換し合っている。ある人から見れば、自分が主体であり、Aをめぐって友人Bはライヴァルとなる。Bから見れば、自分の方がライヴァルである。どちらがどちらの模倣をしているのか、もはや判然としない。

《ガタカ》に出てくる「欲望の三角形」は、その意味でわたしたちの現実に近い。

舞台は近未来、ガタカというのは一企業なのだが、その会社がやっている事業は宇宙探索、ロケットを宇宙に打ち上げる会社なのである。宇宙開発と探索を一企業が担っているような未来というのは、果たして「国」というものがあるのだろうか。警察さえ、もしかしたら民間組織なのかもしれない。

この近未来社会では遺伝子操作はあたりまえのこと。裕福な人びとは、「優秀」な遺伝子をデザインして子供を作る。そうして生まれた遺伝的疾患を持たず、左利き、近眼、低身長といった「欠陥」を持たない子供は「適正者」として位置づけられる。貧しかったりして遺伝子操作を受けられず、その結果「欠陥」を持った子供は「不適正者」として、望む職種にも就けず、社会の底辺に生きることを余儀なくされてしまう。

主人公のヴィンセントは、遺伝子操作を拒否した両親の下に生まれ、その結果、心臓疾患を抱えることになってしまった。90%の確率で三十歳までに重篤な心臓病を発症する、という宣告を受ける。それを悲しんだ両親は、二番目の子供のアントンのときには遺伝子操作を受ける。そこでからだが弱く、近眼で、背も低い「不適正者」の兄と、優秀な「適正者」の弟が育っていく。

ところが主人公のヴィンセントは不適正者には門戸が開かれることのない宇宙飛行士を夢見る。そのために並々ならぬ努力をするのだが、ガタカに入れるのも掃除夫としてである。そんなとき、仲介する人物が現れて、元オリンピックの銀メダリストで、いまは交通事故のために半身不随となったジェロームのDNAを手に入れることができるようになる。ガタカへの入社試験は尿検査によるDNA鑑定だけ。ジェロームの尿サンプルを提出したヴィンセントはめでたくガタカに入社することができる。こうしてヴィンセントとジェロームの奇妙な共同生活が始まる。

ヴィンセントはガタカのなかでもトップクラスの成績を収め、いよいよ念願の土星の衛星タイタンを探索する宇宙船に乗り込むことになる。ところがヴィンセントの周囲で殺人事件が起き、ヴィンセントが落としたまつげから、かつて掃除夫として勤務していたヴィンセントが容疑者となってしまう。だが、弟や恋人、そうしてジェロームの助けによって真犯人は見つかり、ヴィンセントは無事宇宙へ旅立つことができる、というのがおおざっぱなストーリーである。

主人公のヴィンセントという名前はおそらくゴッホからきたものだろう。ヴィンセントとくれば弟はテオドールだが、《ガタカ》のなかでは弟の名前はアントン、ゴッホが最初に絵を教わった従兄弟でもあるアントン・モーヴの名が取られている。なぜ弟がテオドールでないかというと、ゴッホを支えたテオの役目は、何人かの人物によって分かち持たれているからなのだ。

弟のアントンは捜査官として(だが、彼がかばうのは犯罪の隠蔽までで、「不適正者」である兄が「適正者」の自分を越えて宇宙へ行くことは許そうとしない)、アイリーンは恋人として、医師はヴィンセントを自分の息子の手本になれば、との願いをこめて。

ヴィンセントがなりすましたジェロームは、もちろん最大の援助者で、主体であるヴィンセントと彼の求める「宇宙」を現実に媒介していく役割を果たす。だが、ヴィンセントにしてみれば、「適正者ジェローム」として生きてはいても、ジェロームになりたいわけではない。ヴィンセントにとってジェロームは「尿」であり「血液」であり、「髪の毛」なのである。その意味でジェロームは「主体の客体へ向かう行為に現実に関与してこない」外的媒介者に過ぎない。

ヴィンセントを主体、宇宙を客体、ジェロームを媒介者とする三角形をポジの三角形とすると、ここにネガの三角形ともいうべきもうひとつの「欲望の三角形」が見えてくる。

それは、ジェロームを主体、宇宙を客体、ヴィンセントを媒介者とする三角形である。元水泳の銀メダリストですばらしいDNAを持ったジェロームは、自殺に失敗して半身不随となった。そこにヴィンセントが現れる。

ここで興味深いのは、なぜジェロームがヴィンセントを「手本(モデル)」になっていったのだろう、ということだ。ジェロームは「適正者」であり「不適正者」であるヴィンセントに引かれる理由はないように思える。だが、ふたりが共同生活をするうちに、心を通わせるようになっていく。

身近に生活することで、お互いの存在が鏡になって、自分のあり方を映し出す。「宇宙」を望むことによって自己を確立しているヴィンセントに対して、ジェロームは自分を自分であらしめているのは、過去のふたつの銀メダルでしかないことに向き合わざるを得ない。やがてジェロームは、ヴィンセントの欲望を自分の欲望とする。「宇宙」が彼の「夢」となったのである。単にDNAを提供するだけでなく、彼はヴィンセントを助けるために、腕だけで螺旋階段をよじ登ることまでする(この映画には海と、ヴィンセントがそこで泳ぐシーンが何度か出てくるが、ジェロームが「泳ぐ」のは海から切り離された場所だ)。自分の体では決してその対象に届かないことも理解しているジェロームは、自分を抹殺することによって、自分のDNAをヴィンセントに統合しようと考えるのだ。ここでは内的媒介に客体を獲得させるために、自分を殺そうとする主体が描かれる。

ポジとネガの二種類の三角形があるように、この映画からは二種類のメッセージが読みとれる。たとえ遺伝子によって人生の成否があらかじめ決まっているような社会であっても、自分の手で人生を切り開く努力は可能だ、そうしてその努力はかならず協力者を生む。これがポジのメッセージであるとしたら、ネガのメッセージはこうだ。ひとつの才能を開花させるためには、多くの礎が必要なのだ。才能は、決して遺伝子で決まるのではない。同時に、個人の努力によってのみ、開花できるものでもない。そこには多くの協力と、そして犠牲をも要求するものなのである。

ここでなぜ主人公にゴッホの名前が与えられたか考えてみよう。ヴィンセントの宇宙に対する情熱のなかに、ゴッホの絵に向けられた情熱が暗示されているのはまちがいない。だが、単に情熱だけではなく、現実を切り開いていくのは、一種の「狂気」、社会が「狂気」と呼んで遠ざけ、封じ込めようとする、社会の秩序には決して収まらない「激しさ」を、一見穏やかで、おとなしそうなヴィンセントの方が備えていたことを暗示しているのではないか。「適正者」で、優秀な遺伝子のもちぬしであっても、金メダルに手が届かなかったジェローム(演じるジュード・ロウは激しさと狂気をうかがわせる)は、自分を滅ぼそうとすることしかできない。秩序を変えていく力と激しさを持つのは、「不適正者」ヴィンセントなのである。遺伝子の突然変異を起こすのは「異常」な遺伝子であるように。

セピアがかったなめらかな未来の情景には過去の風景が重ね合わされている。ガタカの制服は、宇宙服ではなく50年代風のゆったりしたダブルのスーツ。ビルはフランク・ロイド・ライトあたりが建築した1950年代のビルのようにも見える。

わたしたちの身体を構成する元素は、宇宙で生まれて死んだ初期世代の星で作られたものだ。それが隕石となって地球に落ち、海の中で原始生命の誕生という奇跡が起きた。ヴィンセントがこれから向かおうとしているのは、自分の遠い故郷である場所なのである。海を内部に抱えたヴィンセントは、もしかしたら奇跡を起こすことになるのかもしれない。

この過去と未来の二重写しに対応するように、ポジとネガの二重の三角形は、この映画は深い奥行きをもたらしている。

結論:三角形はひとつだけとは限らない。表に出てこない三角形を見つけることで、さらに深く映画を味わうことができる。


4.おまけ


もちろん映画のなかには、解釈なんてどうでもいい、ただ画面に浸っているだけでいい、という映画もある。わたしにとっては《あの頃ペニー・レインと》という映画がそうだ。ただもう"Tiny Dancer"や"Every Picture Tells a Story" が流れるだけで胸がいっぱいになってしまい、ストーリーなどどうでもいい、登場人物たちの表情、バスの外を流れる風景、疲れたような、どこか放心したような彼らの顔に当たる光、そうして背景に流れる音楽、もうそういうものを見たり聞いたりするだけで、わたしは幸せになる。そんなふうに解釈などという作用を経ずに、ただ深く結びつけられる映画、どうしようもなく愛してしまう映画というのは、だれにもあるものだろう。

それに対して映画のなかに構造を見つける楽しみは、曲を聴きながら、そのコード進行を聴き取る楽しさのようなものだ。ちょっとしたコツと注意がいる。でもそれさえ身につければ、曲がぐっと深みを増してくる。そうして、バッハの“G線上のアリア”とプロコル・ハルムの“青い影”と、サイモンとガーファンクルの“America”とビートルズの“Let It Be”が同じコード進行(最後のは「ほぼ」がつく)をしていることに気がつくと、なんだか楽しくなってくる。同じコードにもかかわらず、まったくちがうメロディラインを聴くことで、もっと曲が深く味わえるようになってくる。

そんな楽しさを味わおうと思ったら、映画のなかの「三角形」を見つけるのが一番手っ取り早い。ハンニバル・レクターの教えを思いだそう。
「正常か異常かは問題ではない。そもそもそれはいったい何なのか? その意味は? 彼は何をしているのだ? 君が求めている人物は」
大丈夫、三角形はバッファロー・ビルよりずっと簡単に見つかる。



初出July.29,30 2007 改訂July.20 2008

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