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わたしが出会ったミュージシャンたち

――もしきみにできるなら、プー横町の家に1時までに帰るの、手伝ってもらえないかな
(Loggins & Messina "House at Pooh Corner")
 

ピアノ

#1.ウーマン・イン・レッド

三歳からピアノを始めたわたしは、幼児教室を経て、五歳になるころには個人レッスンを受けるようになっていた。小さい頃から本人の意思とは無関係に習い事を始めた人間にありがちなことだけれど、その当時、ピアノの練習を音楽と思ったことがない。

レッスンを受けていた先生はおっかない先生で、特に手の形にうるさかった。こちらは小さい子供である。大人と同じサイズの鍵盤を弾こうと思えば、すぐに指はいっぱいにひろがり、手は平らになる。平らになっても、すぐに基本のポジションに戻さず、指を伸ばしたままで弾いていたりすると、竹のモノサシでピシャッと叩かれた。
メトロノームのカッチ、カッチという音に合わせて弾いて、ずれたらまたピシャッ。
ミスタッチをすると、そこでおしまい。そこから曲の先へは行かせてもらえない。
そのかわり、その箇所の練習を、レッスンの残りの時間、延々と繰り返させられる。
これは屈辱だった。たとえ五歳でも、屈辱は感じるのだ。自分のふがいなさが悔しく、涙が出た。それでも先生はやめさせてくれない。
そのころのことで一番良く覚えているのは、涙と一緒に垂れてくる鼻水を舐めながら弾いていたことではあるまいか。涙と鼻水がどちらもしょっぱい味がする、というのも、おそらくピアノ教室で知ったにちがいない。

家でもつぎのレッスンのために、課題曲を毎日練習する。最初は片手ずつ、それから今度は両手で。繰り返すうちに指は少しずつ動くようになっていく。速くも弾けるし、和音も弾ける。ジャンプもできる。最初はとつとつとした運指でも、練習を重ねていくうちに、思い通りに動かせるようになっていく。そうなると、練習というプロセス自体が、いつのまにか喜びになっていたのだった。

土曜日、学校が終わるとお昼を食べて、簡単にさらってから、電車に乗ってピアノ教室に向かう。少し早めに着いて、そこに置いてあるマンガを読んで、前の生徒のレッスンが終わるのを待つ。続きがどうなっているか楽しみで、わたしはこのとき読んでいた『ドカベン』で、野球のルールを覚えたような気がする。特にピアノを弾く男の子がセカンドを守るというのがうれしくて、かなり大きくなるまでセカンドを守る野手が、野球では一番好きだった。

厳しいレッスンが終わると、ホッとしながら駅へ向かう。駅前の小さな駄菓子屋で、30円のアイスを買って、ベンチに座って食べ、それから電車に乗って帰る。
おそらくマンガとアイス、あと、一駅でもひとりで電車に乗るということが楽しくて、わたしは毎週通っていたのだった。もちろんそれは音楽とは無縁の世界だし、自分が「音楽」をやっている、とも思ってなかっただろう。あくまでもそこでやっていたのは指のトレーニングの延長で、それでも、できないことができるようになっていく喜びを、わたしはまず、ピアノを通して知ったのだった。

自分がやっているものが、「音楽」と繋がっていくものなのだ、と、初めて気がついたのは、もう少し後のことだ。
教わっていた先生の個人リサイタルに花束を持っていく役に選ばれたのだ。

そのために、パフスリーヴで胸元に花の刺繍がある、ウエストをリボンで結わえる白いワンピースを新調してもらった。それに合わせた白いエナメルの靴は、つま先の丸いバレリーナシューズで、なんだか急にお姉さんになったみたいでうれしかった。

試着した時を除けば、その日初めて袖を通したワンピースと靴を身につけたわたしは、会場に着くとすぐ、楽屋にいる先生に会いに行った。裾が床まで届く深紅のサテンのロングドレスを着た先生は、髪も結ってお化粧も濃く、ふだんとはちがう人のようだった。

先生はわたしのワンピースを、良く似合っててかわいい、と言ってくれて、わたしをぴったり横に並ばせると、傍にいた見たことのない人に、「白薔薇、赤薔薇で姉妹には見えない?」と笑いながら聞いた。その人は「姉妹じゃなくて親子ですね」と答え、「まぁ、失礼ね」と先生は笑っていたけれど、練習の厳しい声音しか知らなかったわたしは、これがほんとうにあの先生なのだろうか、と何度も見直した。

やがて時間が来て、わたしも用意された花束を抱えて、舞台の袖のパイプ椅子に座って、段幕の隙間から舞台を見ていた。客席は暗く、何も見えない。

スポットライトを浴びて、先生はピアノの前に座った。指が、鍵盤に触れた瞬間、ピアノというのはこういう音がする楽器なのだ、と、全身に水を浴びたように思った。

わたしが弾いていたのはピアノではなかった。
指がどれだけ速く鍵盤の上を転がっていっても、それがどれほどメトロノームに合っていても、楽譜の通りでも、先生の音とは決定的にちがう。
おそらく、これが音楽というものなのだ、と。

拍手の音に、はっと我に返った。両手にじっとりと汗をかいて、花束をくるんだセロファンがべとべとしていた。あわてて真新しいワンピースのお腹のあたりで両手をぬぐって、花束を持ち直して舞台に持っていった。お辞儀をして、花束を渡して、ああ、わたしはすばらしい先生に教わっているのだ、と、拍手を浴びながら、誇らしい気持ちでいっぱいだった。

それから練習にいっそう熱が入ったかというと、全然そんなことはない。それどころか、その後間もなく、あれほど練習しろとやかましかった母親が、手のひらを返したように受験、受験と言い出して、勉強に差し支えるからピアノも受験が終わるまで休みなさい、と言ったときも、やれやれ、これであの練習から解放されるかと思うと、ホッとしたぐらいだ。

中学に入ってから、もういちどピアノのレッスンを再開してはどうか、と言われたけれど、もうピアノはいいや、と思ったのだった。
どれほど先生がすばらしくても、そこまで行こうと思えば、それからどれだけ涙と鼻水を流さなければならないか、そうして、たとえそれだけの練習を積んだとしても、自分にはそこにたどりつけるかどうかわからない、ということを、なんとなく理解していたのかもしれなかった。
まぁ、もうピアノはいいや、と思った瞬間、わたしが立っていた「鳥羽口」のドアは、ぴしゃりと閉じてしまったのだった。


#2.リトル・ドラマー・ボーイ

中学に入って、ブラスバンド部に入部した。
何か新しい楽器がやりたいと思って、とりあえずそれほど肺活量も必要なそうなフルートを始めたのである(じき、とんでもない間違いだったことに気がつくが)。

演奏の中心は高校生で、人数がもっと多くて華やかだった時代には、中学の一年、二年が参加させてもらえるのはパート練習だけ、全体練習は見学だったらしい。だがわたしが入ったころには人数も減って、活動も縮小の一途をたどっていた。女の子が多い木管楽器はそれなりに頭数は揃っていたものの、金管は人手不足で、打楽器は余ったパートから交替で人を出すような具合だった。

ただし、対外的な活動こそほとんどなくなってしまっていたけれど、学内的には新入生歓迎だの文化祭だの演奏の機会は多く、花形の部のひとつだった。なかでも、秋の運動会は、入場行進の演奏や校歌、応援歌から優勝旗授与の「見よ 勇者は帰る」まで、さまざまな演奏を一手に引き受けていて、文化祭と並ぶブラスバンド部の活動の中心でもあった。

わたしが入った年も運動会のシーズンが来て、パートの割り振りが始まった。フルートはそんなに人数はいらない、行進曲のドンドンいうだけの単調な大太鼓なぞ、一年で十分、ということで、わたしにお鉢がまわってきた。シンバルは、そのとき口内炎で楽器が吹けなかった副部長がやることになった。そうして、打楽器隊のリーダーであるスネアドラムは、それまで顔を見たこともない柳原先輩という人に依頼することになったのだ。

柳原さんは高三で、部は引退していたのだけれど、大学は推薦ですでに決まっており、学校にはあまり来なくなっていて、大学生のお兄さんと一緒にバンドでドラムを叩いているという話だった。
そうしてやってきた柳原さんは、実に驚くべき高校三年生だった。
長い髪は背中までとどき、おまけに口ヒゲははやしている。ガリガリに痩せてレザー・パンツをはき、白いシャツのすそは風にひらひらなびいている。おまけに近くへ行くとタバコ臭い。13歳のわたしからすれば、まったくの大人で、口をきくのも怖かった。

この人と一緒にやるのか、とドキドキしていたら、ちっとも一緒になどやらないのだ。
まず、「バチを持って」と言われて、とりあえず持ってみると、さっそく直された。もっと軽く持って、いや、ちがう、そうじゃなくて、親指の位置はここ、とさんざん直されてから、やっと叩き方に入る。
これがまた大変だった。「一点」で「タイコの面に垂直に落とす」を延々とやらされたのである。
「落とす」
「はいっ」ドンッ。
「駄目、もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「駄目駄目、面でベタッと落ちてる。もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「手首を使うな、肘から落とす。もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「当たった瞬間に引く」
「はいっ」ドンッ。
「一点で」
「はいっ」ドンッ。
「速く」
「はいっ」ドンッ。
「駄目、肘に力が入ってる。力は入れない」
「はいっ」ドンッ。
「打点がずれてる。同じところを叩く」
「はいっ」ドンッ。

たぶん、最初の三日間は、リズムも何もなく、ひたすら「落とす」「はいっ」ドンッ、をやっていたような気がする。渡された譜面が四分音符ばっかりで、ドンドン叩けばいいんだな、と思っていたわたしは、まさかこんな羽目になるとは夢にも思わなかった。

そこからやっと音を消すときの左手の使い方、音を止めるときの叩きかたを教わって、そうなるともう全体練習が始まる日になっていた。

ところが柳原さんは、全体の音を聞くな、自分のスネアに合わせろ、という。

ブラスバンドに入って最初に感じたのは、自分の吹く楽器の音が、ほかの楽器と合わさって音楽を作っていくことの楽しさだった。それまでピアノで自分の音だけを聞いていたわたしには、新鮮な感動だったのだ。

それを聞くな、と言われて、わたしはびっくりした。柳原さんは、わたしの叩くバスドラムが全体の音に引きずられている、というのだ。自分の叩くスネアにだけついてこい、リズムセクションというのはそういうものだ、と。

当時、ブラスバンドで花形だったのは、もちろん第一トランペットだったのだけれど、全体の音を決めていたのは、トロンボーンだった。トロンボーンを吹いていたのは南さんという人で、やたらに濃い眉から「赤鬼」と呼ばれていたのだけれど(下級生も「赤鬼先輩」と呼んでいた)、この赤鬼先輩の音ときたら、ものすごい音量で、時にバリバリと音を割りながら、ブラスバンド全体を、下からがっちり支えていた。
ちょうどわたしの真後ろがこの赤鬼先輩で、段に立つとベルのところがわたしの頭上にくる。そうでなくても大音量の赤鬼先輩は、野外だからいっそう張り切って、ここぞとばかりに吹きまくる。わたしが全体に引きずられる、というより、指揮者の部長も含めて、全体が赤鬼先輩のトロンボーンに引きずられていたのだった。

ところがそれを聞くなという。
そう思って聞くと、柳原さんのスネアのリズムは、微妙にちがう。トロンボーンのリズムが少し後ろへ重心が残る感じなのに対して、比べてみると、まさにその瞬間であることがわかる。加えて、陰気な外見とは裏腹の、芯は固いけれど華やかな音なのだった。

メトロノームに合わせるのには慣れていた。けれども、メトロノームではなく、人の音に合わせる。これはずいぶん感じがちがった。
それでもメトロノームに合わせても楽しくもなんともなかったけれど、人に合わせる、まさに自分のリズムが相手のリズムと一致する、その瞬間は、ひとりでピアノを弾いているときには決して得られない快感があった。
だからわたしは、確かにトロンボーンとは微妙にちがうリズムを、音の洪水の中からかきわけるようにして拾い上げ、それを自分の身体に感じ、なんとか重ねていこうとした。
なにしろちょっとでもずれると、その瞬間、後ろを振り返って、キッ、とにらまれる。単調な四分音符の連続のはずが、異様にスリリングなのだった。

一方、副部長のシンバルは、これまでにも柳原さんとのマッチングは経験済みだったらしく、ステディで、譜面にある強弱記号やアクセントに正確で、正確なだけに心地の良い音を出している。となると、パーカッション隊のハーモニーを乱す可能性があるとしたら、わたししかいないのだ。練習といっても毎回、冷や汗を流しながらやっていたのだった。

確か、行進曲を四曲、あとはなにやかやと、全体で十曲ほど練習したのだと思う。
運動会の当日がどうだったか、いまではもうまったく覚えていない。
ただ、その日があっという間に終わって、大太鼓を部室に持って帰ろうとしたら、柳原さんが代わりにかついでくれて、わたしは柳原さんの音の響きがまだ篭もっているようなスネアを、大切にそっと持って帰ったのを覚えているくらいだ。

運動会が終わってから数日後、柳原さんに学内で偶然出くわした。頭を下げて挨拶したら、照れくさそうな顔で顎を引いて応えてくれたのだけれど、通り過ぎたあと、柳原さんと一緒にいたほかの上級生たちが、うわーっと冷やかしの声をあげていたのが背後で聞こえた。

ほぼ一ヶ月、放課後は毎日一緒にいたのに、私語を交わすこともなかった。
下の名前も知らないままだった。
それでも、リズムはメトロノームとはちがうのだ、生きた人間によって作り出されるのだ、そうして、そのリズムは、伝わっていくと人の内側に同じリズムを生み出していくのだ、ということをわたしはそのときに初めて知ったのだった。

太鼓はアフリカでは昔、伝達の手段だったという。
それが伝達手段となるためには、聞く側も、そのリズムの意味を知っていなければならない。
遠くで正確に刻まれたリズムは、聞き手の耳に届き、さまざまな情報やニュース、そうしてそれを知った人々の感情が共有されたことだろう。
行進曲の太鼓は、人を前に、前に進ませる。それは、おそらく聞く人のうちに眠っていたリズムを目覚めさせ、そうして人をリズムの快感に身をゆだねさせ、自然に歩を進ませるのだ。
楽譜に書かれたリズムに身体を与え、出現させ、そうして人を動かしていく。
わたしはこのとき、リズムというものを初めて知ったのだと思う。

柳原さんがいまどうしているのか、いわゆるミュージシャンになったのかどうか、わたしは知らない。それでも、柳原さんの太鼓の音は、わたしのなかでは高校の上級生ではなくて、ひとりのミュージシャンとして刻まれている。


#3.ピアノ・ウーマン

高校生になったばかりの頃、姉に連れられて「ピアノパブ」というところに行ったことがある。
カッコイイ人を知ってるから、一緒においで、と連れられて行ったのだけれど、なぜ高校生であるわたしを同伴に選んだのか、その理由はもうすっかり忘れてしまった。ともかく、タータンチェックの巻きスカートをはいていたら、そんな子供っぽいカッコはやめてよ、補導されるから、と文句を言われて着替えさせられた。くれぐれも遅くならないようにね、駅についたら電話するのよ、とやかましく言う母親を後にして、電車に乗った。

とにかくパブというだけあって、夜なのである。
わたしたちが店に着いたのは、平日の八時前ぐらいではなかったか。
店の一角にグランドピアノがあり、リズムボックスがリズムをきざんでいた。髪の長い女性がピアノを弾きながら歌っている。店の中はざわざわしていて、三分の一ほどを埋めている客は、あまり真剣に聞いている様子ではなかった。

席に通されるときに姉が小さく手を振ると、その女の人はすこしうなずいて応えてくれた。
席に着くと、若いお兄さんがオーダーを取りに来て、一緒にリクエストカードを渡してくれた。「聞きたい曲、リクエストしてね」と言われたので、わたしは「ピアノと合わせて歌える曲」として真っ先に思いついた Queen の "Nevermore" を書いた。オレンジジュースを注文しようとすると、姉は勝手にカカオフィズか何かを注文し、運ばれてくると、アンタ、水でも飲んでなさい、といって、わたしの分も取り上げてしまったのだった。

やがて、わたしのリクエストした"Nevermore"のイントロが聞こえてきた。レコードに合わせてときどき一緒に弾いていたわたしは、なんだ、そんなにうまくないじゃん、と失礼なことをちょっと思った。
やがて歌が始まった。フレディ・マーキュリーの声とは似ても似つかぬ、静かな、淡々とした歌い方だった。もともとが一分少々の大変短い曲は、当たり前だけれどコーラスもなく、静かなまま、あっという間に終わった。なんだかきれいな水が流れていったみたいだ、とわたしは思った。こういうのも、アリなんだ。

それからキャロル・キングとか、ロバータ・フラックの“優しく歌って”とか、そんな曲をいくつか歌うと、今度は客の女性がユーミンか何かを歌う伴奏をする。本を引っ張り出して弾くそういう曲は、いかにも慣れていないようすで、ミスタッチも多かった。それでも生のピアノをバックに歌えるお客さんはうれしそうだった。

姉はカメラを取りだして、写真を撮り始めた。ひとり残されたわたしは、なんとなく所在なくなって、鞄から鉛筆を取り出して、ペーパーナプキンにピアノを弾いているその女の人の横顔をスケッチした。少しもつれた細い髪の毛、小さな顎からつづく細い喉。

やがてピアノからは“酒と薔薇の日々”が流れてきて、その人はピアノを弾きながら軽くおしゃべりして、「次のステージは九時からです」とくくった。そうして立ち上がると、飲み物のグラスを持って、わたしたちの席にやってきたのだった。

「こんにちは」と挨拶してくれて、わたしたちはしばらく話をした。
もっぱらその人がわたしに、クイーンが好きなの? とか、ほかにはだれを聴くの? といったことを聞いてくれていたような気がする。やがてわたしの落書きに目を留めると、「わぁ、すごーい、ジョニ・ミッチェルの歌みたい。これ、もらっていい?」と言った。端の湿ったペーパーナプキンに描いた落書きのようなスケッチに意外な反応が返ってきて、わたしはちょっと驚いた。この人は本気なんだろうか、それともお愛想でそんなことを言っているのだろうか。
「もしこんなものでいいのなら、もっとちゃんとした紙に描きますけど」とわたしが言うと、「ううん、これがいいの。歌の中にね、“紙のコースターにあなたの顔を描いた”っていうのがあるの。それみたいだから、すごくうれしかったの」と教えてくれた。
「ジョニ・ミッチェル」を知らなかったわたしがそれを言うと、「つぎのときに歌ってあげる。わたしが一番好きな人なの」と教えてくれた。

つぎのステージでその人は、ジョニ・ミッチェルの曲を数曲歌ったように思う。
どれも、初めて聴く曲ばかりだったのだけれど、不思議なメロディラインの曲は、その人の細い、張りのない声にはよく合っていた。英語の歌詞が何を言っているのかはわからなくて、どの曲がそれなのかもわからなかったけれど、語りかけてくるようなその歌は、ああ、何を言っているかわかったら、と思ったのだった。

歌う、というよりも、メロディに乗せて語るような。けれど、そんな歌い方にもかかわらず、不思議なくらい、素直な声だったし、ピアノの音だった。この人が「うれしい」と言ったら、ほんとうに「うれしい」んだ。だから、たぶん、わたしの落書きのようなスケッチでも、うれしかったんだ、と思った。

それから次のお客さん、少し年配の女性、おそらく多少声楽か何かを習った経験のありそうな人が、“サン・トワ・マミー”を熱唱した。朗々と声を張り、マイクをハウリングさせながら歌うバックの覚束なげなピアノ音が、何か痛々しいような感じさえした。

その日はそのステージの途中で帰ったように思う。それでも、姉にせがんで、もう一回だけ見に行った。それ以上は母親が許してくれなかったのだ。
そのときは名刺をくれた。肩書きに"piano & vocal" とだけ記されていて、住所は所属のレコード会社の名前が書いてあった。けれどもその名前はまったく聞いたことがない。
それを察してか、その人の方から「○○を知ってる? あの人と同じ会社なの」と教えてくれた。「来年の春には、レコードを出すのよ。そのときは、聴いてね」

年が明けると、わたしは毎月、本屋でレコードの新譜情報に目を走らせて、その人の名前を探した。春になり、春が過ぎて夏になっても、その人の名前は見つからなかった。
そのかわり、わたしはその"A Case of You"が入っている、ジョニ・ミッチェルの"Blue"というアルバムを繰りかえし聴いた。

ジョニ・ミッチェルも同じように、声を張らずに、話をするように歌うシンガーだった。それでもその人の声は、おそらくさまざまな経験を経て、その自分の経験を、一種、私小説ふうに歌うジョニ・ミッチェルとはちがって、もっと癖のない、なんともいえない素直な響きがあったように思う。その素直さは、決してプロのミュージシャンとして成功していくことを助けてはくれないだろう、と思わせるような。

音楽をやっていく、というのは、どういうことなのだろう。
それからあと、この人のことを思い出すたび、そのことを思った。趣味として続けていくのではなく、それを職業とする、ということは。

「売れる」ためにはいくつかの要素があって、おそらくそれを満たしていることが、まず何よりも前提となっているのだろう。けれども、それだけではなく、プロデュースされ、商品として店頭に並ぶというプロセスを経なければならないのだ。そのプロセスは、悲しいことだけれど、かならずしもその人が、どんな音楽を生み出そうとしているのかとは、あまり関係がない。

この文章を書くためにその人の名前を検索子にかけてみたけれど、ヒットすることはなかった。本名かどうかもわからないし、また違う名前で、いまも音楽活動を続けているのかもしれない。
それでも、あのきれいな水が流れていくような"Nevermore"を、できることならもう一度聴いてみたいような気がする。



  あなたをひとケース   ジョニ・ミッチェル

わたしたちの恋が終わるちょっとまえにあなたは言ったわね
「ぼくは北極星みたいに変わらないよ」
だからわたしはこう答えた
「ずっと暗い中にいるってことね?
そうしてほしけりゃわたし、いつもバーにいたっていいわよ」
わたしはアニメのコースターの裏に
TV画面の青い光の照らす中で
カナダの地図を描いた、そう、カナダよ
その上にあなたの顔を、二度重ねて描いたの

ああ、あなたはわたしの血の中を流れる聖なるワイン
ひどく苦いけれど、とても甘いワイン
あなたなら、ひとケースだって飲める
そうしたってわたしはちゃんと立っていられるわ
きっとこの足で立っていられる

わたしはひとりぼっちの絵描き
絵の具箱の中で暮らしている
わたしは悪魔が怖いけれど
怖れを知らないひとに惹かれる
あなたがこう言ったときのこと、わたしはよく覚えているわ
「愛は魂にふれるんだね」
そうよ、そうしてあなたはわたしの魂にふれた
だからあなたの一部がわたしの中からあふれだし
どうかするとこんな詩の中に出てくるの

ああ、あなたはわたしの血の中を流れる聖なるワイン
ひどく苦いけれど、とても甘いワイン
あなたなら、ひとケースだって飲める
そうしたってわたしはちゃんと立っていられるわ
きっとこの足で立っていられる

女の人に会ったの
あなたの唇によく似た口元のひと
そのひとはあなたの生活を知っていた
そのひとはあなたのうちにいる悪魔も、やったことも知っていた
そのひとは言ったわ
「彼のところに行けばいい
できるものなら、一緒にいればいいわ
だけど血を流すことは覚悟しておいてね

ああ、あなたはわたしの血の中を流れる聖なるワイン
ひどく苦いけれど、とても甘いワイン
あなたなら、ひとケースだって飲める
そうしたってわたしはちゃんと立っていられるわ
きっとこの足で立っていられる


(※原詞はこちらhttp://www.lyricsfreak.com/j/joni+mitchell/a+case+of+you_20075257.html


初出May 28-30, 2006 改訂June 1, 2006

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