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日付のある歌詞カード 〜"The Sound of Muzak"


♪"The Sound of Muzak"を聞きながら、歌詞について考えてみる


わたしはあんまりいろんな音楽を聞くほうではなくて、それをいうなら映画だってたいして見ているわけではなくて、本だけはちょっとは読んでるかな、とは思うけれど、Webなんかを見ると、実際ものすごい数の本を読んでいる人にいつも驚かされてしまって、「本なんて数じゃないんだよ」って、小さい声で負け惜しみを言ってしまいたくなる。

とくに音楽に関しては、好きなものを繰り返し聞くことですっかり満足してしまう傾向があるために、積極的に情報収集をすることもしない。つまり、いまどんなバンドがいるか、とか、どんな曲がはやってるか、なんて、知らなくても全然かまわない、っていうことなのだ。

だから、おそらくポーキュパイン・ツリーなんていうバンドも、教えてもらうことがなかったら、聞くことはなかったはずだ(これも、幸福な出会いのひとつだ)。だってポーキュパイン・ツリーの曲は、グリーン・デイの"Wake Me Up When September Ends"みたいにモス・バーガーでやたらと流れているわけではないし(わたしは毎週金曜日に行くモス・バーガーで、この曲も、ちょっと前の"Boulevard of Broken Dreams"も、フルコーラス覚えてしまった)、映画の挿入歌になって、ロマンティックなシーンで流れてくる、みたいな感じの曲でもないからだ。

そんなふうにしてめぐりあったポーキュパインの"In Absentia"というアルバムは、この夏の終わりから冬にかけて、ずっとそばにいてくれた。

どれもあんまりハッピーなメンタリティの曲ではないし、聞いていて元気が出る、という曲もない。おおっ、とうなりたくなるテクニックがあるわけでもない。それでも、ポーキュパインにしかない「音」があるし、湿った音と、センティメンタリズムと、微妙に神経にひっかかる具合のバランスがうまくとれてるし、見るからに凝った作り、というのではないのに、あとからひょいっと「仕掛け」に気がついたりもして、聞いていて飽きない。

なによりも、歌詞がどれもきれいに脚韻を踏んでいて、耳に残っていくフレーズの響きが快感なのだ。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの曲に、"nervous"と"service"で韻を踏ませるために、苦し紛れに(じゃないかもしれないけど)アンソニー・キーディスが"nervice"と歌ってる曲があって、そこにくるといつもどうしても笑ってしまうのだけれど、そんな歌詞に比べれば、このスティーヴン・ウィルソンの歌詞は、ずいぶん洗練されている。

本屋に行けば、『ビートルズ全詩集』とか『ジョン・レノン詩集』、『イーグルス詩集』とか、そのほかにもニール・ヤングとかU2とかローリング・ストーンズなんかの詩集まであるのだけれど("It's a gas, gas, gas"なんて、どんなふうに訳してあるんだろう? 「全部、冗談さ、冗談、冗談」だろうか。まさか「ガソリン」や「おなら」じゃないとは思うけど、見るたびに心配になる)、こういうのはどうなんだろう、と思ってしまう。

やっぱり歌詞というのは、音楽という身体、とりわけ歌う声という身体が与えられてないところで、印刷されたものを読むようなものではないと思うのだ。歌われることで、メロディーとリズムを伴って、歌い手の声の響きとともに発音される歌詞。歌詞のすばらしさは、「なにを歌っているか」ではなくて、そこなんじゃないのだろうか。だって、「想像してごらん、私的所有がない世界を」なんて書いてあるのを読んだって、困ってしまうだけでしょ?

スティーヴン・ウィルソンは"The Sound of Muzak"という曲のなかで、いま流行の音楽、軽くて、気持ちを盛り上げてくれて、使い果たされて、忘れられていく音楽のことを歌う。

怒ってるわけじゃない。ちょっと斜に構えてみせて、拗ねたような、どうでもいいんだけどさ、みたいな調子で歌う。だけど、「この世界のすばらしいもの」と音楽のことをいうとき、ああ、この人は、ほんとうにそんなふうに思ってるんだな、という気持ちが、伝わってくる。

「夢を与えたい」とか、「勇気を与えたい」みたいな物言いがある。ほかにもヴァリエーションとして「音楽を(あるいはスポーツを、人を、動物を、地球を、熱帯雨林を、クジラを…)愛する気持ちを訴えたい」っていうのもある。だけど、「夢」だとか、「勇気」だとか、「ナントカを愛する気持ち」なんて、小包みたいに人から人へ手渡しできるようなものではない。たとえ歌だとか、スポーツだとかを媒介にするにしてもだ。そんなことを平気でいえる人というのは、ずいぶんものごとを簡単に考えているとしか思えない。そういう気持ちは人に強制されて育まれるものではないし、自分の内側にあることをこれ見よがしにするものでもない。そっと、自分の内で大切にしておけばいい。で、たまに、「これ聞いてみて、すごくいいよ」っていうだけで、ほんと、十分だ。ああ、相手も自分が大切に思ってるものが気に入ってくれるといいな、って、心の中で願いながら。

スティーヴン・ウィルソンは、自分の大切に思ってる気持ちを、ほかの人にも分かち与えようと大きな声で訴えるんじゃなくて、そっとひとりごとのように、とっても整った形の歌詞にした。そうして、それは遠く離れたわたしにも伝わってきて、教えてくれる人がいなきゃ、間違いなく聞くこともなかった曲が、わたしの世界を少しだけ広げて、豊かにしてくれた。これもまた、幸福な出会いだ。

The Sound of Muzak


音楽の響きが聞こえている
観客席の間を漂っている
気分をハイにするプロザックは
ずるずるとあとを引いていく

いずれ音楽なんてものは
楽しませるものじゃなくなるんだろう
感情を抑えつけ、
頭のなかを中和するだけのものになるんだろう

その魂は搾り尽くされ
激しさは鈍くなり
人口統計表を見れば、何が求められているのかわかる

この世界のすばらしいものがだめになっていく
だめになっていってるんだ
所詮ばかげたまちがいのひとつだから、だれも気にしちゃいないけど
そう、だれもたいして気になんかしちゃいないんだ

いまじゃ音楽の響きは銀色に光る円盤に入ってくる
安っぽいスリルを生み出すように加工されている
反乱を呼びかける歌を聴いていると
怒りもかきたてられるけれど
それを作っているのは
君の倍くらいの年の億万長者

その魂は搾り尽くされ
激しさは鈍くなり
人口統計表を見れば、何が求められているのかわかる

この世界のすばらしいものがだめになっていく
だめになっていってるんだ
所詮ばかげたまちがいのひとつだから、だれも気にしちゃいないけど
そう、だれもたいして気になんかしちゃいないんだ


※原詞はこちら
http://www.lyricsondemand.com/p/porcupinetreelyrics/thesoundofmuzaklyrics.html


In Absentia
In Absentia
Porcupine Tree

タイトルの"Muzak" これは商標登録もされているのだけれど、バック・グラウンド・ミュージックのことだ。一連目のプロザック、これは抗鬱剤で、これまた商品名。ミュージック、ミューザック、プロザックときれいに韻を踏んでいるだけじゃなくて、音楽が商標登録され、商品化されている、ということを暗に示している。

もう少しいうと、一連目の二行目、原詞では"Drifting in the aisles"となっているんだけれど、これは"rock ... in the aisles"というイディオムとかけてあって、「(観客を)酔わせる、感動させる」という意味で、この音楽が一応ロックではあるけれど、実際はそうではない、観客を酔わせることもなく、ただ漂っている、といっているわけだ。

ついでにもうひとついっちゃうと、そのつぎに"Elevator Prozac"が続くんだけど、"elevator music"ということばもある。これは「きれいだけれど、とりたてて個性のない音楽」という意味。確かに"elevator music"っていうのは、抗鬱剤みたいなところがあるかもしれない。

三連目の"Demographic"、これはほんとは"demographics"で「実体的人口統計」、つまり平均年齢や収入なんかを分析するための統計データのこと。だけど、music, Muzak, Prozak, と韻を踏むために、最後の s は落としてある。この統計データがどんな音楽が受けるか割り出してくれる、そうして、音楽はそれに従って産出される、といっているわけだ。

もちろん"The Sound of Muzak"は、かの有名なミュージカル"The Sound of Music"のパロディでもある。もとの歌はおおざっぱにまとめると「丘にのぼったら、自然がさまざまな音楽を聞かせてくれて、わたしの心は喜びでいっぱいになる」みたいな歌だ。 それを受けて、いまの音楽はそんな気分を人工的に作り出してるんだ、というわけ。そう思って聞いてみると、サビの部分はミュージカルのメインテーマの一種の変奏にも聞こえなくはない。

曲の方は、Aメロ(詞だと1,2連目)とBメロ(3連目)が7拍子で、サビが4拍子。 この7拍子は3拍子+4拍子の繰り返しになっている。 3+4っていうところがミソで、一拍ずつ残っていくのだ。

たとえば、逆の例で考えると、ジャズのスタンダード"Take 5"、これは3+2でひとつ足りない。そのためにつぎへつぎへとかぶさるように旋律が転がっていって、なんとも心地良いグルーヴ感を形成するしくみになっている。 この曲では逆に余った一拍を、ギターのリフと半拍遅れて叩くスネアがさらに強調して、ストレスをためていくつくりになっている。

スティーヴン・ウィルソンは声量もないし、正規の発声をしてないから、声を張るとふるえてしまう。だから、このちょっと拗ねたような歌い方しかないのかもしれない(ライブではどんなふうに歌うんだろう?)。この少し鼻にかかった声は、コックニー訛りの、こもった英語の発音とよく合っていて、悪くない。みんながみんな、ラブリエさんやフレディ・マーキュリーみたいに声量があるわけじゃないし、若い頃のボノみたいに、異様なテンションで、いまにもぶちっと切れそうな声で歌えばいいってもんでもない。スティーヴン・ウィルソンの声も、十分「アリ」だと思う。

ともかく印象的なギターのリフと、湿ったドラム(このドラムは独特の湿った音を出していて、曲を構成する大きな要素になっている。この曲でスネアが抜けてたら、絶対ヘンだ)で曲が始まり、Aメロが始まり、ちょっとずつ、微妙にストレスを溜め、さらにエコライザーをかけたBメロがいっそうストレスを溜め、そうしてサビの4拍子で一気に開放する。そういう仕組みだ(耳で聞いただけだから、ちがってるかもしれない)。

このサビの部分、"going down" という歌詞といっしょにメロディラインもおっこって、それがコーラスのいい感じの響きとあいまって(このコーラスの人はアルバムのほかの曲でもそうなんだけど、メインの声にとってもいい感じで乗せていく)、ものすごく気持ちいい。

Aメロ、Bメロ、サビ、っていう単純なつくりのふりをして、結構音のほうにも細かい仕掛けがしてあって、なによりも歌詞の響きとメロディがきれいに合っている。いい感じだな、と思っていると、ザラつく音のギターソロがあったりして、どこまで計算して作ったのかよくわからないのだけれど、計算してあるとしたら、すごいポリフォニーだ。だけど、なんとなく作っちゃったらそうなっちゃったのかもしれない(笑)。いや、ほんとに、このスティーヴン・ウィルソンという人は、歌詞にしても曲にしても、どこまで考えて作ったんだろう? と考え込んじゃうところがあるのですよ。

ただ、この曲を聞いて、やっぱりこんなふうに思うのだ。
確かにロックっていうのは、昔は反逆の音楽だった。
そうした歌い手・作り手のある人たちはドラッグで死に、別の人たちは商業主義にからめとられてしまった。そうではない人は、中年になった。自分たちが絶対に信じない、といっていた、当の年齢になってしまった。

歴史は教えてくれる。
どんな理想を描いた反乱グループも、権力を握るや、確実に腐敗していく。
批判する声は鋭くても、将来を描く見取り図はロマン的で、夢のようなものでしかない。

そうでないありようはないんだろうか。
年をとっても、成功しても、権力を手にしても、腐敗したり、堕落したりしないようなありようというものは。

スティーヴン・ウィルソンも、いまはこういう歌を歌っていい。
だけど、もう何年かしたら、確実に自分がそれを向けられる側になる。
問題は、そのとき、どう答えるか、なのだよ。

初出 Feb.18 2006 改訂 Feb.28 2006

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