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中島敦と身体のふしぎ


時とは人の作用の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、
その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有つのじゃ。
――中島敦「悟浄出世」

張り子

1.足し算か引き算か ―『名人伝』に見る教育

このあいだ中島敦の『名人伝』を読んでいたら、おもしろいことに気がついた。

わたしたちはふつう、知識や技術を習おうとするき、いまある自分に何かを「加える」という言葉を使って理解していく。

知識を「得」る。
知識・技術を習「得」・獲「得」する。
身につける。
与えられる。
自分のものにする。
吸収する。
呑みこむ。
経験を重ねる。

上達する、というのも、「上に達する」という意味で、その人がいる場所が高くなる→高さが加わった、と考えられる。さらに技を「磨く」や「洗練させる」も「その質を高めていく」という意味で、「加える」に含めていい。さらに経験を積んだ人間に対しては「ひとまわり大きくなった」という評価のしかたをすることもある。つまり、知識や技術を得、経験を積むというプロセスを、わたしたちは元々の身になにものかを「加えるもの」というかたちで理解しているのである。

『名人伝』でも、主人公の紀昌は飛衛のもとではこの「足し算」型の修行をしていく。

機織り機の下に寝っ転がって機躡(まねき)が上下するのを見て、まばたきをしないための修練を「重ねる」。つぎに「小を視ること大のごとく、微を見ること著のごとく」の訓練として、髪の毛に結んだ虱を見続けるうちに、紀昌はその能力を獲「得」する。

そこで飛衛は紀昌に射術の奥儀秘伝を「授け」始めた。紀昌の腕前の「上達」は驚くほど速い。とうとう紀昌は師から学び「取る」べき何ものもなくないまでになる。
つまり、ここに至って紀昌にはつけ「加える」べき何ものもない状態に至るのである。

では天下に並ぶ者もない名人になったのか。
飛衛は言う。
「霍山(かくざん)には甘蠅(かんよう)という大家がいる。「老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する」。
そこで紀昌は甘蠅のもとに赴くのだが、この甘蠅はいきなり、弓も矢も使わずに鳶を射落として見せる。
「弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆(うしつ)の弓も粛慎(しゅくしん)の矢もいらぬ。」と言うのである。
弓矢を射るのに、その弓も矢も必要でないとは!
ここから紀昌の「引き算」の修行が始まっていく。

ここから先の九年の修行については「誰にも判らぬ」というばかりで、語り手は何もあきらかにしない。だが、修行を終えて山をおりた紀昌がいったいどれほどの名人なのか、だれも知ることはない。その名人ぶりをとうとう披露することもなく、生涯を終えてしまったからである。

ともかくここに見て取れるのは、足して、足して、もう何も足せなくなった地点が最上級ではない、という考え方だ。そこからこんどは「引き算」の修行が始まっていく。
ここで引くのは何か。それは「弓を射る」という技術にとって不要なものだろう。甘蠅のように、弓矢は必要ない。さらにその技術を見届けて「名人」と判定する観客も必要ないし、さらには獲物も必要ない。紀昌の意識の面でも、不要なものをすべて削ぎ落としていったあげく、残ったのは、言葉はあまり適切ではないのだが「純粋技術」だけが、人のかたちをとって現れた、そんな状態だったのではあるまいか。

さて、ではこの「引き算」トレーニング、いったいどういったものなのだろう。わたしたちの身の回りにある「引き算」のトレーニングに該当するような言葉を探してみる。

雑念を払う。
余分な力を抜く。
無我の境地。
禅の言葉には「心身脱落(とつらく)」というのもあるらしい。

プラスのトレーニングなら単純だ。筋力を「つける」には、その筋肉に付加がかかるようなトレーニングをする。知識を「増やす」ためには本を読む。技術を「磨く」ためには反復練習、というように、どうすればそれが「得られる」のか、その状態にない人でもある程度は見当がつく。人に教えるのも、つまり言葉によって伝達することも可能だし、その状態にない人が、その言葉を受けとって、自分の身体へとあてはめていくことも容易だ。

ところが「引き算」は言葉で説明するのがむずかしい。雑念をどうやって払ったらいいのか。どうやって無我の境地に入ることができるのか。「雑念を払う、雑念を払う……」と、一心に考え詰めていたとして、仮にほかの考えをすべて追い出すことができたとしても、「雑念を払う」という意識だけは残ってしまう。「雑念を払う」という意識こそ、何よりも除きがたい「雑念」かもしれない。

この「引き算」のトレーニングを描いた小説や映画はないかな、と考えて思いだしたのが、映画《スターウォーズ エピソード5/帝国の逆襲》で、ヨーダがルーク・スカイウォーカーにフォース(理力)を解き放つことを教える場面である。フォースというと何だんねん、という感じなのだが、要はジェダイの騎士が使うことができる超能力のようなものだ。

ジェダイの血を引くルークは、すでにフォースを自らの内に備えている。ただ、その使い方がわからない。その力を引き出し、さらには自分の思うままにコントロールできるようにならなければならない。そのためにヨーダの下で修行するのである。

映画では、ルークは自分が乗ってきた小型宇宙船を「フォースの力で」宙に浮かせる訓練をする。小石ならば宙に浮かすこともできる。ならば、宇宙船が浮かせられないはずがない。宇宙船は「重いから」というのは固定観念じゃ、といった類のことをジェダイ・マスターのヨーダは言うのである。つまり、ルークがこれまで人間(?)として生きるなかで、意識的無意識的に身についた常識や固定観念を取り除くことが修行の第一歩なのである。映画ではルークは逆立ちしていたが、それはおそらく常識や固定観念が教える身体の意識を切り離すには、日常では決して取ることのない姿勢が必要だったのだろう。

このジェダイマスターのヨーダ、なんとなく名前といい雰囲気といい物言いといい、中国の仙人っぽい。これだけの貧弱な例で言ってしまうにはムリがあるがそれでも言ってしまえば、「引き算」のトレーニングには東洋的なイメージがあるように思える。

よく昔の剣豪小説にあるのが、剣の修行をしに師匠のもとに出かけたが、薪割りや掃除や水くみばかりさせられていて、いっこうに剣を教えてくれない、というパターンである。業を煮やした主人公が師匠に剣で切りつけると、師匠はふりむきもせず、木のナベブタでそれをばしっと受け止める、というのを、わたしはいったいどこで読んだのだろう。
ともかく、たいていの主人公はこうしたわけのわからない修行をさせられているうちに、不意に自分の力を解き放てるようになっているのだ。こういう師匠はたいがい小柄で非力(そう)な老人である。そうして、日本ではごくありふれたこうした発想は、西洋の小説ではまずお目にかからない。映画《スター・ウォーズ》がこういう場面を取り入れたのも、一種のエキゾチズムの効果をねらったにちがいない。

この奇妙な修行は、一見、非合理的な感じもするのだが、それを「神秘的」「非合理的」ととらえてしまうのは、わたしたちの側にそれを言葉で言い表す概念的枠組みがないからではないのだろうか。

ただ、ここで思うのは、「力を入れる」にしても「力を抜く」にしても、ともに比喩表現である。どこかから「力」を持ってきて、たとえば腕にそれを注入するわけではない。そうではなくて、自分の意識を腕に集中させることに過ぎない(「意識」も「集中」ももちろんその言葉に対応する実体があるわけではない、メタファーとしての表現なのだが、「人間の概念体系は大部分が本質的にメタファーによってなり立っている」(ジョージ・レイコフ『レトリックと人生』)のだから、メタファーによらない表現などと言い出すと、もう文章など書けなくなってしまうので、ここではそういうふうに書いておく)。

つまり、「力を入れる」というのは、「力を抜く」に対して、身体化しやすいメタファーなのである。竹内敏晴は『ことばが劈かれるとき』で書いていたが、人間には「力を抜く」ことはできないという。力をほかの場所に移すことができるだけだ、と。そうして『「からだ」と「ことば」のレッスン』のなかでは、実際に身体から力を抜いていくトレーニングが紹介される。ふたりが一組になって、一方が相手の身体にふれ、揺する。

 揺するレッスンは筋肉の緊張に気づくことから始め、結果としてそれがゆるみ、ほぐされることになるのだが、一つの部分の筋肉がふっとゆるんだ、という知覚は、必ず、ある「身構え」の脱落感と共にあるのであって、言いかえれば「身構え」が崩れることが「からだがほぐれる」ことに他ならない。精神医学者の森山公夫氏のことばを借りれば、世界との、自分との、他者との、「和解」ということになろうか。… このような意味での日常の「身構え」からの脱出が、深い集中に導かれ、ある「脱自」へと至る、のだ。

(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書)

竹内は同書のなかでそのプロセスを実例を交えながら細かく書いていくが、それでもそれを読んだだけでは実際のところはちっともわからない。書いてあることを仮に、言葉通りに実践したとしても、おそらく、実際のトレーニングとは似ても似つかぬものであろう。つまり、実際にそのトレーニングを経験しないところで、つまりは身体的理解のないところで、そのトレーニングの型、相手へのふれかたや、横になりかた、ほぐしかたなどは、ちょうど「畳の上の水練」のように、言葉を読んだだけではなにひとつわからない。つまり「日常の身構えからの脱出」というのは、言葉による理解ではなく、教え手の身体から学習者の身体へと「型」が受け継がれていくのだろう。

さて、ここでは話を先に進める。
仮に師匠の導きの下、「日常の身構えからの脱出」が可能になったとする。それはいったいどんな状態なのだろう。異様に感覚が研ぎ澄まされた状態なんだろうか。

たとえば、音楽を聴くとする。わたしたちはある旋律を「メロディライン」あるいは「主旋律」という言い方をして取りだす。歌なら、歌手によって歌われるその部分を取りだすのは簡単だ。それでも、インストゥルメンタルの曲でも、交響曲でも、わたしたちはたとえばドヴォルザークの八番、というと、あの二楽章の印象的なメロディを口ずさむだろうし、ラッシュの "XYZ" というと、あのキャッチーなギターとベースのユニゾンを口ずさむだろう。わたしたちはメロディラインなら、とくに音楽の知識がなくても、簡単に全体から取りだすことができる。

つぎに、少し楽器の音も詳しくなってきたとする。たとえばビオラの響きに心引かれるようになる、あるいはベースの刻むリズムが心地よく感じられるようになる。そうなってくると、知らないころは渾然一体となっていた音の中から、ベースやビオラの音が浮きあがって聞こえてくるようになるはずだ。そうなると、同じ曲がこれまでとはずいぶんちがって、ずいぶん立体的に聞こえてくるようになる。

さらに、もっと曲を聞きこむ、あるいはさまざまな楽器のさまざまな音を聞き分けられるようになると、今度はまた、聞こえ方が変わってくる。何の音を聞いているというわけでもない、ヴァイオリンも、チェロも、オーボエも、ホルンもそれぞれに聞こえているのだが、そのどれかを聞いているわけではない、それぞれの音を全体として聞く、という状態にいたる。そうして、おそらくその状態が音楽がよく聞こえているように思う。

わたしたちは、意識があまりにひとつのことに向きすぎるとき、こういう言葉を使って、行き過ぎを抑えようとする。
視野が狭くなる。
まわりが見えなくなる。
聞く耳を持たない。
こういうことを考えていくと、「集中」というのは、全身の感覚が一点に集まるということではないように思えてくる。

わたしたちは、何かを夢中になってやっているときでも、ほかのものを見、ほかの音も聞いている。そういうときは「目に入る」「耳に入る」のような言い方をして、「見る」「聞く」とは隔てているわけだが、実はやはり見もし、聞きもし、匂いを嗅ぎ、あるいは舌が味わうのは自分の唾液だけかもしれないが、なにかを味わい、体のさまざまな部分がさまざまなものに触れているのを感じている。感じているが、そこに意識は向かっていない。

このように、ちょうど、個々の楽器の音色を聞きつつ、そのどれにも意識を向けず、オーケストラ全体として聞いているときのように、見ることを意識せずに見、聞くことを意識せずに聞く、という、五感の意識がすべて「意識しないでいられる状態」というのが、もっとも集中した状態といえるのではないか。最高の力を解き放つ瞬間というのは、そういう状態ではないかと思うのだ。

思うに、「引き算の修行」が目指すものというのは、このすべての意識がどこにも重心がかかることなく、完全にニュートラルな位置にある状態に、任意で入っていけるということではないのだろうか。そう考えていくと

木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。

という表現が非常に納得がいくのである。つまり、知覚のどこにも意識のウェイトがかからず、何かひとつに焦点化しているわけではない。「力」が身体のどこか一箇所にかかっているわけでもなく、どこかが緊張しているわけでもない。こういう身体が完全にニュートラルな状態のことを言っているのではないかと思うのだ。
この状態に至って解き放つのが「フォース」なのか「不射之射」なのか、はたまた何も解き放たないのかもしれない。ともかく「名人」の境地というのはこういうものではないかと思うのである。

こういう状態を「心身脱落」と呼んではダメかしら?


2.ひとりでも仙人


中村光夫はどこかで、中島敦は非常に優れた作家で、『山月記』の中国語訳は中国でも大変高い評価を受けた、と書いていた。それに対して誰かが(これは誰であったかまったく思い出せない)そんなことはないぜ、中国人は『山月記』なんかちっとも評価してないぜ、中村は中島のマブダチだったから、そんな「贔屓の引き倒し」みたいなことを書いたんだ、みたいなことを書いていた。いや、後者の文芸評論家がそういう口調で書いていたわけでは全然なくて、それを読んだわたしが、字面の向こうにそういう声を聞いてしまっただけだから、その点はおまちがえなきよう。

さて、わたしは中村光夫の評論はとても好きなのだけれど、『山月記』に関しては、中国人が高く評価するかなあ、という気がしている。いや、中国の人に聞いてみたわけではなく、なんとなくそういう気がするというだけの話なのだが。

というのも、典拠となった「人虎伝」の、さらに元になった「李徴」というのは、ずいぶん淡々とした話なのである。「人虎伝」では李徴が虎になったのは、昔、ある後家とねんごろになったために、後家の家人から命をねらわれる羽目になる。そこでその家に火を放って、一家ことごとく焼き殺した、そのためではないか、とされるのだが、もともとの「李徴」にはそんないきさつなどまったくない。これは後の時代につけ加えられた部分で、「李徴」では、袁さんは虎になった李徴を、とくに不思議がりもせず話を聞いてやっている。

この「李徴」は岩波文庫の『唐宋伝奇』(上・下巻 ちなみに「李徴」は下巻所収)に収録されているのだが、この話のほかにも、宿の女将が泊まり客をロバにしてしまったり、食べ過ぎた人が、大蛇が消化を助けるために食べている葉を、薬として飲んでみたら、自分の身体が溶けてしまったり、ここでは人間と動物がきわめて自由に行き来している。同書に所収されている「杜子春」も、こういう脈絡で読むと、ずいぶん印象が芥川のそれとは異なる。つまりは、『山月記』が元にしている一番根っこにあるのもそんな話なのである。

そこから近代的自我と芸術の問題を展開されてもなぁ、と、作品そのものを評価する前に、一歩、引いてしまうのではあるまいか、というのは、あまりに自分に引きつけすぎた感じ方なのかもしれないけれど。それでもたとえば外国人が『日本霊異記』のひとつをもとに、そこから実存主義的な人間像を取りだし、格調高い文学作品に仕立て上げたら、おおっ、すごい、と思う反面、どこかで、そもそもそういう話じゃないんだけどな、と思ってしまうのではないだろうか。

さて、南伸坊の『仙人の壺』というおもしろい本がある。これは中国の伝奇をもとにしたマンガと、それに「蛇足」という形でひとつずつあとがきがついているのだが、その冒頭を飾るのは「修羊公」という仙人の物語である。

この仙人、寝てばかりいるのだが、ある日、山を下りて「道術をもって景帝に用いられたい」と言って、景帝のところへ行く。そこで王族の屋敷に住むようになるのだが、ここでもやはり寝てばかりいる。ある日、帝の使者が「いつ技倆をお示しになられるのか」と聞くと、すぐさまベッドの上で白い石の羊になってしまった。脇腹に「修羊公謝天子」と謝辞が刻まれている。やがて石の羊は霊台に安置されたが、そのうちなくなってしまった。

それだけの話なのだが、粗筋を書いただけではおもしろくもなんともないかしら。もちろん、何を描いても南伸坊その人の顔が不思議と浮かびあがってくるような筆致によるマンガがそのおもしろさの一因でもあることにはちがいないのだが、帝の屋敷で寝てばかりいるのを、「いつ不思議な術を見せてくれるのだろう」とみんながワクワクしながら待っていて、やがて待ちくたびれてせっついたら、いきなり石の羊になってしまった(しかも脇腹にお礼入り)、というのが、実にわけがわからなくて、しかもおかしい。

この話を頭に入れて『名人伝』を振り返ってみると、山からおりた紀昌というのは、実はこんな感じだったのではないだろうかと思ってしまうのだ。
昼寝ばかりしているので、待ちくたびれた人が弓と矢を見せたら、「はぁ? それはなんだ?」という顔をした、という展開である。まあ石の羊になるほどのインパクトはないが、底に流れるものは同じもの、とも思えるのである。

「修羊公」の「蛇足」にはこう書かれている。

 文中に見えるのは、尊敬の念であって、話をナンセンスやアンチクライマックスにしたてようとはしていない。笑わそうとして書かれた文章ではないということです。
『列仙伝』が編まれた目的は、
「不老長生が誤りなき事実であることを説明するため、上古から三代秦漢に至るまでの神仙の事蹟を述べて、集める」ことにある、と明記してあります。…

 昔の人と我々とでは、考えかたも感じかたも違っています。大昔の、しかも外人である中国人が修羊公をどのように評価し、感じていたのか、それは判断しかねることであって、だからこそ、そこに、私は不思議なおもしろさを感じます。
 私の、中国古典、志怪小説を楽しむ楽しみかたもまた、この異質なものとの出会い、その出会いからあぶり出される自分自身、ということになるでしょう。

(南伸坊『仙人の壺』 新潮文庫)

仙人といえば、おそらくは引き算のトレーニングを積み、「日常の身構えを脱出」した人なのだ。そこで仙人が超人的なことをやってのけ、スーパーパワーを見せつけたとしても、それは「日常の身構え」でいるわたしたちの十分に予想しうる範囲だ。わたしたちは、仙人とはそういうことができる人だ、と思っているのだから。「日常の身構えを脱出」した仙人がやるのは、わたしたちの思ってもみないことなのだろう。たとえば石の羊になってみせるように。だから仙人はすごいのだし、同時にそのずれた感じがおかしくもあるのだろう。

『名人伝』の典拠となった『列子』湯問篇では、紀昌が虱の心臓を遠くから射抜くところで終わってしまっている。つまりはそういう射術のトレーニングをした、という、熱中のあまりに度が過ぎてしまった人の話である。考えてみれば、髪の毛に虱をくくりつけて一日中にらんでいるのである。それを来る日も来る日もつづけて、ときどき虱も取り替える(これは干からびてしまったんだろうか)というのは、考えてみればずいぶんおかしい(奇妙という意味の「おかしい」ではなく、あははと「おかしい」)話のようにも思えるのだ。

それをもとに中島敦は弓の名人の話から「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる」という、修行によって到達することのできる人間の理想的な状態を「あぶり出」した。射術を語りながら、同時に芸術論、自身の芸術観を語ってもいるのだろう。
それはそれですばらしいのだが、わたしとしては、もともとのエピソードが持っていた、少しずれた、タガがゆるんだような感じがなくなってしまったのは、少しだけ残念でもある。

ただ、『名人伝』の「紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下った有吻類・催痒性の小節足動物を見続けた。」というレトリックを見ていると、生真面目でどこか悲愴な中島敦も、ここではおもしろがりながら書いているのが伝わってきて、なんとなくうれしくなってしまう。


3.愛すべき乱暴者


さて、『仙人の壺』の第二話は、「金銀の精」としてふたつの話が収められているが、ここでは前半の方を取り上げる。

お使いに出かけた下僕の少年が、来る日も来る日も帰りが遅い。主人が問いただすと、その子は「途中、相撲を挑む者があるのです」と奇妙な言い訳をする。なんでも近くの古塚の前を通るたびに、黄色い服の少年が出てきて、相撲を一番取っていけ、というのだそうだ。それを聞いた主人が、本当かどうか確かめてやろうとついていき、主人の方は草むらに潜んでいた。すると話し通り黄色い服の少年が出てきて相撲を挑む。主人は不意に飛び出して打ちすえると、少年はたちまち金の像になった。それを持ち帰ってその家は金持ちになった、というものである。

これまたえらく乱暴な話で、帰りが遅くなるほどの相撲というのは、いったい何番くらい取っていたんだろう(まるで相撲の出稽古のようなものではないか)、とか、行きだけで帰りは出てこなかったのか、とか、それとも主人は下僕の出入り時間まで細かく目を光らせている、メイドが水を飲まないよう、冷蔵庫のペットボトルにマジックで線を引いている東南アジア在住日本人商社マンの奥さん並みにせちがらい主人だったのか、とか、「その家は金持ちになった」って、おいおい主人が独り占めかよ、とか、例によってツッコミどころは満載なのだが、南伸坊が突っこむのはここだ。

中国の志怪小説のたぐいを読んでいて、いつも気になるのは、人々が妖怪と呼ばれるようなものに、ひどく乱暴であるところです。
 まるで情容赦がない。妖怪らしいものが出たとたんに、考えもなしにいきなり棒でぶつケースが多い。

(『仙人の壺』)

だが、南大人描くところの少年は、ちっとも「妖怪」のようには見えない。おそらく元の話も殴ったら金の像になったから「妖怪」だったのだ、という話であって、殴った段階では妖怪か、相撲好きな少年か、わからなかったのではあるまいか。というか、「こいつ、妖怪じゃあるまいか」と、ふつうの人はあまり思わないような気がする。となると、草むらに隠れていて、いきなりコドモを殴りかかるとんでもないおじさんの話なのである。

ところでわたしは中国の歴史にも漢籍にも疎くて、『史記』などは高校の漢文の授業で習ったときに読んだくらいなのだが、なんというかえらく荒っぽい世界だなと思った記憶がある。もちろん教科書に載っていた「鴻門の会」周辺の話というのは、当然戦争をやっているのだから荒っぽいのは当然なのだが、いまとは身体感覚自体がずいぶんちがっていたのではないかと思えるのだ。この棒でぶん殴る、というのも、この時代の感覚はいまに当てはめるわけにはいかないだろう。そもそもいまは道で相撲を一番取ろうじゃないか、と誘ってくる子供がいるなんてことは想像できない。殴る、というのも、ある種、この往来での相撲の延長にあるような気がする。

さて、中島敦は「わが西遊記」という形で、「西遊記」を元に、連作短篇を書こうとしていたことがある。内省的な悟浄を語り手とする、中島版「西遊記」は、作者の早逝のために、「悟浄出世」「悟浄歎異」の二作品が書かれるに留まった。

「出世」では、三蔵法師に巡り会うまでの、内省的なカッパ、常に不安を感じ、何かを求めつつ、いったい何を求めているのかもわからない、周囲と言葉を同じくすることもできない悟浄が遍歴のあげく、疲れて眠りこけ、夢の中で観世音菩薩摩訶薩から、玄奘法師に従うようにお告げを受けるところまでが語られる。
そうしてつぎの「歎異」では、一行の面々、とくに悟空の魅力が中心に語られる。

 悟空の身体の部分部分は――目も耳も口も脚も手も――みんないつも嬉しくて堪らないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏の蜂のようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣な気魄にもかかわらず、どこか遊戯の趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっして死ぬ覚悟なんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(妖怪を退治するなり、三蔵法師を救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。

悟浄はまぶしいものを見るように、あこがれをもって、自分の対極にいるかのような悟空を見る。現実にこの連作は、この二作より先には書きつづけられることはなかったのだが、あくまでも個人的な印象なのだが、この悟空は、『弟子』の主人公、子路へと受け継がれてゆくのではあるまいか。

「弟子」は孔子の弟子、子路を描いた作品である。もちろんいくつかのエピソードを通して、孔子や多くの門下生の人柄が立体的に浮かびあがってくるのだが、この作品の魅力はやはり子路の人柄に負うところが大きい。そうして、この子路という人物は、いきなり乱暴者として登場する。エセ賢者がどれほどのものだ、と「左手に雄鶏、右手に牡豚を引提げ」て、いきなり孔子のところへ殴り込みにくるのである。
即座に孔子に説得されて門弟となるのだが、その最期に至るまで、「愛すべき乱暴者」という側面がどうしてもついてまわり、そうしてそれが彼の一生を美しく彩っているように思えるのだ。

わたしはこの『弟子』を最初に読んだ高校生のころから、それにしてもなぜ子路なのだろう、という気がしてならなかった。秀才でありながら、弁舌爽やかな子貢とはちがって、名誉を求めず学問に没頭した顔回こそ、中島敦に最も近しい存在ではなかったか、と思えたのである。子路とは顔回とちょうど反対の位置にある存在ではないか。

だが、「悟浄歎異」をあいだにおいてみると、何かそれも納得がいくように思う。中島敦が、とくに、自分の残された日の長さを知り、それと競争するように作品を書いていった彼が、なによりもひかれたのは、「没利害」で行動する人の美しさ、なにより、動く身体の美しさだったのではあるまいか。

 すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動の気に欠ける憾みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それの伴わないものが悪しきことだ。

新潮文庫の『李陵・山月記』の瀬沼茂樹による解説では、この『弟子』と芥川龍之介の『枯野抄』が比較してある。

 芥川龍之介に『枯野抄』があり、『弟子』一編は『枯野抄』を思わせる。芭蕉の死にあった門弟達の近代人風の心理をさまざまに書きわけてある『枯野抄』は、夏目漱石の死にあった弟子達のありさまを、彼自身の心理を託して書いたといわれるように、龍之介独特のシニズムの所産である。しかし、『弟子』は、孔子と子路の性格や運命が描かれているといった方がよい。もちろん、孔子の人格が思想とともにみごとな人間像をつくり、生き生きと描き出されているからこそ、弟子の子路の一生がその性行とともに美しく描き出されもするのである。中島敦は、龍之介のように、シニズムをもって料理することなく、むしろ子路の人物・性行を愛して、写しだしている。

(瀬沼茂樹『李陵・山月記』解説 新潮文庫)

シニズムというかなんというか、『弟子』と較べると、芥川の『枯野抄』はなんともいえないやりきれなさが募る。死につつある芭蕉を取り巻く門人たちの、刻々と移り変わる心理を追いつつ、それぞれの背景、芭蕉との位置関係を描き分けていく筆捌きは確かに見事なのだが、それもよどんだ沼をかきまわして、あおみどろだのなんだのがつぎつぎと浮かびあがってくるのを見せられたような気がしてしまうのだ。

それにくらべて『弟子』の世界がどれだけ清冽であることか。これを読むと、人を尊敬するということはその人を高めるのだということがしみじみとわかってきて、こちらの胸まで洗われたような気がしてくる。確かに芥川も漱石を尊敬する部分があったのだろうが、それは子路が孔子を仰ぎ見るような、みずからをまるごと委ね、その師の下で学ぶことによって自分自身を作り上げていこうとする性格のものではなかったはずだ。

なによりも『弟子』にあって『枯野抄』にはないのが、人の身体である。『枯野抄』には、意識しかない。死につつある身体を前に、人の意識のみが交錯していくのである。

わたしのからだ、という。わたしは身体を持つ、ともいう。そのとき、持つわたしとは、言葉によって表出されるわたしの意識なのだろうか。身体とは、単に意識の入れ物なのだろうか。

わたしたちは何よりも身体としてこの世に生まれた。ところが言葉の世界に入っていくうちに、次第に身体も言葉を通して意識するようになっていく。言葉を介さない身体の感覚というのを徐々に失っていく。

『名人伝』に見るマイナスのトレーニングも、その身体感覚を取りもどすためのものではなかったか。子路のいう「快感の一種のようなもの」とは、わたしたちの身体に刻まれた、遠い記憶、身体が身体としてある喜びのようなものではなかったか。

喘息という、呼吸を困難にする病を持つ身体に閉じこめられた中島敦は、だからこそ、逆に身体としてある喜びを、理想として思い描くことができたのかもしれない。

血が迸り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃の下で、真赤に血を浴びた子路が、最期の力を絞って絶叫する。
「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 全身膾のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。

 魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴(子羔)や、それ帰らん。由や死なん。」と言った。果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目することしばし、やがて潸然として涙下った。子路の屍が醢にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、醢は一切食膳に上さなかったということである。

三十三歳の六月に『弟子』を脱稿し、十月『李陵』をとりあえず書き終えた中島敦は、十二月の初め、その短い一生を終える。





初出July.01-03 2007 改訂Aug.05 2007

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