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正月の時間

――行く手には嵐が待ちかまえ
周囲の荒れようはすさまじいばかり
見渡せど安らかな港もなく
わたしは家路を思う
ひととき、あなたとともに憩えるなら、と
(Rush "Madrigal")

 
羽根

0.時間の記憶

まだ小学校の低学年のころだ。
カレンダーを眺めていて、クリスマスイブから大晦日までがたった一週間しかないのに気がついて、変な気がしたものだった。

12月に入ると学校はクリスマス一色になる。
やがて、指折り数えたクリスマス会、劇や音楽会があり、ミサがあり、キャンドルサービスがある。それが終わると、いよいよ冬休み、クリスマスイブ、明けてクリスマス。それが過ぎるとこんどは正月を迎える準備が始まる。大掃除、正月の買い物、門松やしめ縄かざり、年賀状、そうしていよいよ大晦日になり、年が明ける。

「もういくつねると お正月」

こんな歌を歌って正月を楽しみにしていたのは、せいぜい幼稚園のころまでだったのだろうが、正月に向かう一日、一日は、手でつかんで数えられるほどにくっきりとして濃密な時が流れていた。

そうして大晦日の夜が過ぎ、新しい年がくる。
明ければ、あたりはしんと静かで、空気は澄み、そこにはほかのいつともちがう、「正月の時間」がながれていた。

いまは正月といっても、ただの連休と変わりがなく、特別な時間を感じることもない。あの特別な時間は、わたしが子供だったからなのか。それとも、いまでは「時間」そのものが、均一で平板なものになってしまったのだろうか。
あのころを振り返りながら、その特別な時間のことを考えてみたい。


1.暮れの夕暮れ

小学校にあがって一年目か二年目のことだった。
年の暮れ、同じ並びの数軒先の家に「やくざ」の親戚が来た、と大騒ぎになったことがあった。

その知らせを持ってきたのは、近所のおばさんだ。
玄関のあがりがまちにすわりこんで、腰だけねじってこちらを向き、片手を口に当ててひそひそ声でしゃべるのを、わたしは母の隣に座って、ひとことも聞きもらすまいと耳をすませた。

――それがね、奥さん、夜中に酒を飲んでやってきたのよ、大声で怒鳴って。ウチは隣でしょ、もう丸聞こえでね、恐かったのなんのって、そりゃもう、生きた心地がしなかった。ナントカ組のナントカっていう親分から盃をもらったんだ、って言ってたわよ。まだ若いのに、幹部級の人なんですって。 * * ちゃん(とわたしに向かって)、おっかない人が来たんだから、外なんか出ちゃだめよ。

「やくざ」がなんなのか、当時のわたしにはよくわからなくて(いまでもほんとうはよくわかっていないのかもしれない)、母に聞いたのだと思う。
するとそのおばさんは指でほっぺたにバッテンを書いてみせ、「こういう人なのよ」といったのだった。
わたしはその仕草を見て、おそらくその人は頬に傷があるのだろうと理解した。

頬に傷のある恐い人。
だがそのイメージは、「親分」からもらった盃を大切にしているということとどうしても結びつかない。それは金でできているかどうかして、高価なものなのだろうか。だから大切にしていたのだろうか。
わたしはその「やくざ」のことをあれこれと想像した。

それからというもの、せっかくの冬休みだというのに、外へ出てはいけなくなってしまった。遊びに行くのももちろん、庭でなわとびをすることさえ咎められる。
母は、大掃除ができない、庭も手を入れなきゃいけないのに、としきりにこぼしていた。

それでも、その「やくざ」が大声を出したりして騒いだのは、最初の日だけだったようで、それからはいたって静かなもの、出歩くこともなくひっそりと暮らしている、という話が伝わってきた。外へ出てはいけない、という禁止が、庭だけならいい、となり、少しのあいだなら家のまわりで遊ぶぐらいなら大丈夫、ということになり、やがて年の瀬が押し迫るにつれて、気がつけば、庭の掃除や草むしりや窓ふきなどを言いつけられるようになっていた。

それでも、まだ大掃除の戦力になる年齢ではなかったのだろう。忙しげに立ち働いている母に、お手伝いすることない? と聞きにいっても、邪魔をしないでくれるのがお手伝い、といわれたりしていた。だからおそらく、庭の植木鉢に残ったアサガオやヒマワリの残骸を片づけたあとは、たいしてやることもなくなっていたのだと思う。

そのときわたしはなんでまたそんなところに立っていたのだろう。
家の前に立って、短い冬の日が暮れていくピンクがかった空を見ていたのだった。空気は冷たく、ときおり風がふいて、アスファルトの道路の隅に溜まった砂が、パッと巻きあげられる。
あたりにはだれもおらず、風が電線を揺する音が聞こえた。

不意に、若い男が角を曲がってこちらに向かってきた。
その見たことのない男が「盃をもらったやくざ」であることはすぐにわかった。薄い黒いシャツ一枚で黒いズボンをはき、素足に草履履き、髪はひどく短くて白い地肌が見えるほど、整ってきれいな顔立ちの、わたしがそれまで知っていた人のだれにもない、その当時はそんなボキャブラリはまだ持っていなかったけれど、いまのわたしなら「荒れた」とでもいうのだろう、なんというか、研ぎもせずほったらかしにした、錆びかけた包丁のような感じがあった。
わたしは頬の傷がどんなものなのか確かめたくて、胸をドキドキさせながら、近くまでくるのをじっと待った。

なんだ、傷なんかないじゃん。△△のおばさん、まちがえたんだ。

男はすれちがいざま、わたしに一瞥をくれて、そのまま行ってしまった。あんな薄いシャツで靴下もはいてなくて寒くないんだろうか、とわたしが見送っていると、その男は数軒先の家に入っていったのだった。

すぐに家に入って頬に傷がなかったことを母に報告した。
それから母が何と答えたか、また、ジロジロ見たりしたことを怒られたか、などといったことはまったく記憶に残っていない。それからその人がどうなったかもわからない。その家で新年を迎えたのだろうか。その人にとって、正月はどんな時間が流れていたのだろう。

ほんの一瞬の出来事なのに、年の暮れの夕方、不意に吹きつける風や、ピンク色の空に、向こうから胸元を開け、裾をなびかせていた黒い薄いシャツと白い顔がよみがえってくる。
ただ、その光景に、不思議なことにひとりの女の子が見えてくる。レンガ色のセーターを着て、髪を垂らした女の子。見えるはずのない自分の姿がそこにある、不思議な記憶の光景である。


2.街角の子供

いまとちがって正月三が日の商店街は静かだった。まぶたをおろしたようなシャッターが壁のように続いていき、わずかに店の区切りを示すのが、張ってある賀正と印刷された白い縦長のポスターだった。

 新年は四日より営業致します。

数字のところだけが書きこむようになっていて、なかには五だとか、たまに七という数字が記入されている店もあった。

スーパーだって三が日はお休みだ。
だから暮れの買い物は大変だった。お正月を迎える準備、大掃除を機に取り替えるさまざまなもの。そうして毎日いかなるときでも消費しつづけていくケの食べ物と、特別なハレの食べ物。
暮れの買い物はふだんとは量がちがったし、大量の品物を抱えて帰るその気持ちは、サイフの心配をする必要がない子供にとっては、豊漁のあとと同じだった。

人であふれかえる近所の商店街は、母とはぐれないように急ぎ足になっても、どうしてもわたしだけ遅れてしまう。あいだに入ってくる人をかきわけ、見失わないように母の背に目を凝らしてついて行く。どれだけ歩調を速めても、どうかすると見失い、ほとんど半べそをかきながら歩いていくと、ずいぶん先に振り返ってこちらを探している母を見つけたこともあった。

しめ縄飾りを父と一緒に買いに行っていたのはどこだったのだろう。
よく晴れた空の下、左右にずらりと露台が並ぶ通りを、父に手を引かれてぶらぶらと歩いた記憶がある。あるいは、こんどはわたしが小さな弟の手を引いて歩いた記憶。弟がしめ縄飾りについている橙を「小さいミカン」と呼ぶので、あれはダイダイだよ、と教えてやると、「ダイダイ」という言葉の響きがおかしいらしく笑い転げたので、わたしも何度も「ダイダイ」と繰りかえし、そのたびに弟は身を折って笑うのだった。

そうした露台のなかには盆栽を売っているところもあった。
当時、何度か箱庭を作る機会があったわたしは、その箱庭の中に盆栽の木を植えてやったら、それはそれは立派な箱庭ができるにちがいないと思い、ひとつ買ってくれ、どうしてもひとつほしい、と父にねだった。
これがいい、とわたしが指したのは、おそらく高い鉢だったのだろう。売っているおじさんに、おじょうちゃん、目が高い、と誉められたのはうれしかったが、父は、とんでもない、と首を横にふり、買ってもらったのはそれよりずいぶんみすぼらしい、それでも確か、松だったのだろうと思う。

袋に入れてもらい、だんだん重くなってくるのをふうふういいながら両手でささげて持って帰ると、母に、なんでまたそんなものを、とあきれられたのだった。おそらく箱庭にはしなかったと思うのだが、その盆栽がどうなったか、まったく記憶には残っていない。間もなく忘れ、そのうちに枯らしてしまったのだろうか。

母に連れられて、電車に乗ってデパートに行くこともあった。
遠出をするのは楽しかったが、人でごったがえすデパートはうんざりするほど暑く、自分のものを買ってもらってしまうと、あとはただ買い物が終わるのを待つだけになり、早く帰ろう、と文句を言いでもしたのだろう、屋上で遊んでいるように、といくばくかの小銭を持たされ、母が買い物を終えるまで待つように言われたのだった。

乗り物を二、三度乗ってしまえばなくなるぐらいの金額をにぎりしめ、急にひとりになって心細く、どうしようかと迷っていたのだと思う。
わたしより少し上の男の子が寄ってきて、アメをとってやるから、と言って、わたしにお金を出せ、と言ったのだった。
わたしはもちろんその男の子が少し怖かったけれど、それでも相手は同じ小学生、知らない大人に感じる怖さとは全然質がちがっていた。

それはどういうゲーム機だったのか、お金でコインを何枚か買い、そのコインを落としてアメにぶつけ、下に落とす、というようなものではなかったかと思う。
ともかくあっという間にお金はなくなり、その男の子はひどくあわてて、滑稽なぐらい何度もわたしに謝り、ごめん、もういっかい、絶対今度は取り返すから、と両手を合わす。そんなことをするその子は、もはやちっとも怖くはなかったが、そのかわり、もう話をするのもイヤになって、わたしは別の方に歩いていった。ところがその子はあとをついてくる。困っていたところに母があがってきて、ほんとうにホッとしたのだった。

おそらくわたしが母に訴えたのだと思う。
母がその子に向かって、厳しい口調で何か言うと、その子はそのまま踵を返して、どこへともなく消えていった。

それから十年ほどして、わたしは高校生になっていた。
駅で小学校の高学年ぐらいの男の子から、お金をせびられたことがある。

――電車賃を落としてしまったから、百円ください。

――お金なら、駅員さんに頼んだら貸してくれますよ。わたしもまえ、定期券を落としてそうやって駅員さんにお金を借りて家に帰ったことがあるから。

するとその子はくるりと背を向けると人混みをぬって向こうへ行き、今度は別の人に同じことを言っているらしかった。そこでも断られたのだろう、行き交う人のあいだをするすると抜け、券売機や改札の前で立ち止まっている人につぎつぎに声をかけていく。

まるで浅瀬を泳ぐ魚のようなその子を見ていると、もちろん遠いあの日に屋上で会った男の子と同じ子であるはずはなかったが、わたしにはふとその子を思いだし、同じ子かもしれない、と思ったのだった。

暮れの人混みの中を、券売機の前から改札へ、緑の窓口の前へ、そこから駅の外へ、また中へ。黄土色で胸のところに赤い太い縞が二本入ったセーターを着ただけ、上着も着ずにいた細い魚のようなその男の子は、その服装までも、デパートで会ったあの日の男の子と、どういうわけかそっくり同じのように思えて仕方がないのだった。

いまもどこかにそんなふうに小銭をねだりながらうろうろしている男の子がいるような気がする。それは人間の子というより、人間の子の姿を借りた、何か別の、都市の隙間に潜む座敷わらしとかそんなものではないのだろうか。


3.椰子の木の台所

大晦日になると、朝から家中になますのための酢の匂いや、煮染めを煮る匂いが漂い始める。

料理の手伝いができるようになったのは、中学生になってからだ。
里芋や、まっ赤な金時ニンジンや、クワイの皮むき。クワイは芽を落とさないようにするのがむずかしい。わたしはこのクワイが好きだったのだけれど、家の中では人気がなくて、毎年、わたしがひとりで食べていたようなものだった。
あとはせいぜい根菜の下ゆでと、フライを天ぷら鍋からひきあげるぐらいだったけれど、コンロばかりでなく、ストーブも持ちこんで、いくつもの鍋の、それぞれにちがう煮物の味見をするのは楽しかった。

毎年やっていたような気がするお節料理の手伝いも、大学受験が近づくとすることもなくなったから、実際に手伝ったことなどほんの数回だったのだろう。
それでも小さい頃から、母が台所に入って料理を作り始めると、何のかんのとのぞきに行ったのだった。

――なにか、おてつだいすることなあい?

台所をのぞきにいくと、母はちょうど出ようとしているところだった。

――じゃあね、黒豆を煮てるから、煮汁が少なくなったら教えて。
おかあさん、居間の掃除が残ってるから。

鍋の番を残して、母は台所を出ていった。
わたしはコンロの前に立って、ときどきフタをあけて煮汁の具合を確かめる。湯気と一緒にふわっと甘い匂いは立ち上るのだが、何度見ても、ぶくぶくあぶくが立つだけで、一向に煮汁は減っていかない。
台所の時計を見上げても、秒針が動くのがいやにのろい。一周するのがこんなに遅かっただろうか。

北向きのすりガラスの窓から午前の淡い日が入ってくる。
流しには、ボウルに入って水にさらしてあるゴボウやレンコン、ツノが生えたようなクワイが置いてある。
おせち料理を詰めるための重箱やタッパーウェアが棚の上に重ねてある。
一足早く大掃除をすませた台所は、ふだんより明るい。

何かを持ち上げたりおろしたりしている、どたん、ばたん、という音に混じって、聞こえてくる母の声はひどく遠いのに、裏の家から洩れ聞こえてくるラジオの音なのだろう、アナウンサーの声は、はっとするほど近い。「大晦日の今日」とニュースを読み上げる声が、かえってあたりの静けさを際立たせていた。

すでに何十回目かに鍋のふたを少しだけ上げて、まだまだ煮汁が減っていないのを確かめ、急いで本を取りに行って、走って戻ると、裏のラジオから歌声が聞こえていた。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月

まだ学校でそんな歌を習うような年ではなかった。歌詞をはっきりと聞き取ったとも思えない。それでも、それが異国に流れていった椰子の実の歌だということはわかったのだろうと思う。いささか季節外れのその歌を聞きながら、自分が知っている九十九里から見た太平洋を思ったりしたのではなかったか。

詞を書いたのが島崎藤村であるどころか、島崎藤村がだれなのかも知らない頃だった。この歌が、椰子の実をうたいながら、同時に故郷から遠く離れた自分のことをうたっているものだということも、もちろん知らなかった。
そうして、やがて自分がその椰子の実のように、家から離れて、ひとりで異郷に流れついていくことも、そのときはまだ何も知らないのだった。


4.除夜の鐘を聞いた夜

年があけるとセンター試験が待っている年の大晦日の夜だった。

部屋では母が自分の子供のころの正月の思い出を話していた。
すでに何十度と聞いていて、その話の一部始終は聞かなくてもわかっていた。小さな頃は繰りかえし聞いて飽きなかった話が、そのころには話が始まるだけで、苛立たちを抑えるのに苦労するほどだった。

わたしは手紙を書いていた。予備校の夏期講習で知り合った他県の子と、夏以来、頻繁に手紙のやりとりをしていたのだ。

受験勉強をしなければならないことはよくわかっていた。それでも、やらなければならない、と思っただけで、プレッシャーに押しつぶされそうで、机の前にすわっても、どうやっても参考書や問題集には手が伸びず、わけもなく長い手紙を書いたり、無関係な本を読んだり、長々しい日記を書いてみたりするばかりだった。

それでも手紙の最後は、決まったように、勉強する決意を書いた。
模擬試験の判定も、滅多にB判定にさえ届かない。このままではダメだ、自分に足りないのは、無心に勉強することだ、と。
繰りかえすたびに、その決意は立派なものになり、文章は磨き上げられた。それでも自分が書いたことを実行することはどうしてもできなかった。

年末に相手から届いた手紙には、第一志望を京都に変更したことが書いてあった。
それまで、自宅から通える大学に行くこと以外、考えたことすらなかったわたしは、そういう選択もありうるのだと、目を開かれるような思いでそれを読んだ。

ここにはいられない。

焦げつくような思いが、高校も半ばぐらいになると、しきりに胸のうちに兆すようになっていた。
一方で、自分がこの家を出ていくということがどうしても想像できない。母も、あなたはどこにも行かなくていい、ここから大学に通って、ここから仕事に行けばいい、喘息もあるし、ずっと家にいるのが一番良いのよ、と、ことあるごとに言うのだった。

自分がやりたいと思うことはひどく漠然としていて、どうやっても焦点を結ばない。考えれば考えるほど曖昧になっていくようで、結局は自分には何もできないのかもしれない、と、ゾッとするほどの心細さを覚えたりもした。
そんな先のことなど考える必要はないのだ、いま自分の目の前のことをひとつずつやっていくしかないのだ、と自分に言い聞かせようとしても、そんなどこかから借りてきたような言葉が自分の奥深くに届くはずもなく、どれだけ決意をくりかえしても、いささかも実行には結びつかない。
胸は塞がれたようで、深く息をすることもできないような日を過ごしていた。

もうすぐ除夜の鐘がなります。
来年、わたしはこの鐘をどこで聞いているのでしょうか。

手紙の最後にそう書いて、封をすると、それを見計らったように鐘が鳴り出した。

ゴーン、とひとつ。
それに応えるかのように、遠くの鐘が鳴った。
鐘の音は、夜の静けさを際立たせるかのようだった。
近くから。遠くから。さらに遠くから。別のところから。
遠く、近く、低く、高く、余韻を残しながら消えていく音もあれば、すぐにつぎの音がかぶさる音もあった。

鐘の音に合わせて、近所のイヌが遠吠えを始めた。
鐘の音も、イヌの耳には仲間の遠吠えに聞こえるのだろうか。それとも血に流れる遠い記憶が、そのもの悲しい声を上げさせるのだろうか。
別のイヌが遠吠えに応えた。
夜の静けさにも慣れたわたしの耳は、静けさに塗り込められた奧に、さまざまな音を聞き分けていった。
鐘と鐘の音のあいだを縫うように、通りを初詣に行くらしい一団が笑いさざめきながら通っていく。
またひとつ、どこかで鐘の音が加わる。
車のエンジンをかける音。
今日は終日走るらしい電車の音が遠くから響く。

母の声が、もう寝なさい、と言っていた。

わたしは、ここを出ていくのだ、と思った。
ほんとうに、もうここにはいられない。
京都も、いいかもしれない。

わたしは何かが見えるかのように、硝子窓の向こうの闇に目をこらした。
そうやって目をこらせば、闇の向こうに未来が見えるかのように。

また鐘がひとつ鳴った。


5.夕暮れの初詣

一夜明けると、新年。
小さな頃には着物を着せてもらって、家族全員で初詣に出かけていたような記憶もあるが、いつのまにか行かなくなり、お詣りに行くとしても、来客だのなんだのと慌ただしい元日や二日のあと、母の気が向けば、三日あたりに近所の神社にぶらりと行くような感じになっていた。

ところが幼稚園から小学校の途中まで、カトリックの学校に通っていたわたしにとって、いつからか「神様」は、金髪の髪を肩まで垂らし、髭をはやして十字架にかけられた「イエズス様」になっていた。
そうなると、自分は神社に行って、だれに祈っているのだろう? という疑問が生まれてくる。

まだ信仰がどうとかという年齢ではなかった。
「イエズス様は聖櫃のなかにいらっしゃいますよ」とシスターが祭壇を指して言うのを聞いても、お祈りのときは「天にまします我らが父よ」と言っているじゃないか、だから神様がいるのは天だろう。だったらシスターはなんであのなかにイエズス様がいらっしゃる、なんて言ったんだろう。あの中にあるのは何(それともだれだろうか? えらく聖櫃は小さいけれど)なのだろうか。そのうち誰にも見つからないように、こっそりのぞいてやろう。
宗教の時間がくると、いつもそんなことを考えていた。

学校では「お祈り」の機会も多かった。
頭を垂れて十字を切り、「父と子と精霊との御名によりてアーメン」と言う。
給食を食べる前には、「与えてくださった糧」を感謝する。
礼拝の時間に、わたしたちの罪をお許しください、と祈るときにも、かなり真剣に手を合わせていたように思う。
――このあいだ、給食が食べられなくて、お腹が痛い、と嘘を言ってしまってごめんなさい。どうか許してください。

ただ、神様に何かお願いする、というのは、ちがうのではないか、といつからか気になりだしたのだった。
クラスメイトたちが、今度、テストで百点が取れるようにお祈りした、徒競走で一番になれるようにお祈りした、美術展で金賞が取れるように……、などといっているのを聞くにつけ、そんなことを祈ってはいけないような気がしたのだ。「イエズス様」はサンタクロースではないだろう。してほしいことをお願いする、というのは、ちがうのではないか。
よい子になりますから××をしてください、なんて、神様相手に取引をして良いものなのだろうか。

あるとき、そのことをシスターに聞いてみた。
何と答えてくれたのか覚えていたら良かったのだが、残念ながらまったく記憶にない。ともかく「ちがうのではないか」というわたしの気持ちを覆すような返事ではなかったのだろう。

――お祈りというのは、神様とお話することなんですよ。
わたしはそこの学校にいるときのどこかの段階で、そんなことも聞いたのだが、もしかすると、それはこのときのことだったのかもしれない。


元日の神社のあまりの混雑はいやだったけれど、人波が落ちついた三日目あたりの神社の雰囲気は好きだった。
雅楽の音を聞くことができるのもこのときだけで、社殿の奥の方から、ドン、ドン、という太鼓の穏やかで深い音や、流れ出た音がどこにもいかず、ちょうど水をためるようにあたりを満たしていくような篳篥(ひちりき)の音が聞こえるときは、しばらく足を留めて聞き入ったりもした。
いかにもお正月らしい空気。お正月らしい時間が流れていく。
だから、初詣自体はいやではなかったのだ。

けれども、自分が十字を切るかわりに手を打って、頭を下げて、願い事をする、というのはいったい誰に(あるいは何に)しているのだろうか、とどうしても考えてしまう。お賽銭をあげて、願い事をする、というのも、どうも納得がいかなかった。これは取引じゃないんだろうか? たった5円で自分の願い事を叶えてもらおうなんて、ずいぶん虫が良くはないか?
だから、そのうち母に行こうと誘われても、行かない、と断るようになった。

中学受験を控えた正月、例によってそう断ると、今年は行かなくちゃ、と言われたのだった。

――今年は特別。合格できるよう、神様にお願いしておかなくちゃ。

――それはおかしいよ。
わたしが受かる、ってことは、だれかほかの子が落ちるってことでしょ? だれかを落としてください、ってお願いするのと一緒だ、そういうことはしちゃいけないと思うんだ。

――また屁理屈ばっかり言って。この子ったら……。

ともかく、わたしはそのときには行かなかったのだった。
そんな暇があるんだったら、勉強してた方がいいよ、そんなことまで言ったのかもしれない。

おそらく翌々日の五日のことだったと思う。
塾の冬期講習を終えて、家に帰っている途中だった。

年が明けて、気がつけば暮れに比べて日も長くなっていた。ほんの去年、といっても数日前、五時ともなれば暗くなっていたのに、そのとき、空はまだばら色に染まっていたのだった。
その夕空を背に、神社の緑の屋根が見えた。ふと、神社に寄ってみようかと思った。

露店はすべて閉まって戸板が打ち付けてあり、店の人の姿もどこにもなかった。
両側の石灯籠には灯がともり、あたりをぼうっと照らしている。わたしの前を数人の人が足早に歩いていく。太い松の木に巻いたしめ縄の白い神が、ひらひらと揺れていた。

お詣りをする決心もつかないまま、ぶらぶらと参道を歩いていると、後ろからバンがやってきて、あわてて端へ避けた。わたしを追い越した先で停まったバンから、白い着物に浅黄色の袴をつけた神職の人が下りてきた。神職の人はスタスタと前へ行き、石段を上がると一礼して、社殿をまわって奧へいった。あとを歩いていたわたしも同じように頭を下げ、そちらへ行くわけにもいかず、正面のお賽銭箱の前に出た。そこには背中を丸めて頭を垂れ、一心に祈っているおばあさんの姿があった。

ここまで来て踵を返して帰ってしまうのは、神職の人や祈っているおばあさんに失礼な気がして、わたしも鈴を鳴らして、誰にとも考えず、願い事もせず、なんとなく頭を下げ、手を打って、もういちど頭を下げた。

石段をおりたところで振り返ると、おばあさんはまだ頭を下げたままだった。取引とか、そんなものではないのだ、とわたしは思った。そこでは、時間が停まっているのだ。「お話」することは、時間を停めるということなのだ。あそこは、そういう場所なのだ。

鳥居をくぐったところで、もう一度社殿を振り返ってみた。
空はすでに群青色で、灯籠の灯がずいぶん明るくなっていた。浅黄色の袴の神職の人が、またバンに乗り込むのが見え、エンジンをかける音が静かな参道に響いた。おばあさんのところはもう見えなかった。
時間はまた流れ始めたようだった。





初出Jan.4-9 2007 改訂Jan.13 2007

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