「あいづち名人」への道
かかわってくるのが、恩恵のおかえしであろうと、
復讐であろうと、原理は交換の原理である。
――フランス・ドゥ ヴァール『チンパンジーの政治学』
1.あいづち見習い ―薪割り編―
高校に入って、英語を習いに行くようになったわたしが最初に気がついたのは、アイルランド人の先生が、あいづちをちっとも打ってくれないことだった。わたしの眼にぴたっと視線を合わせたまま、通じているのかいないのか、じっと黙ったままなのだ。こちらはまだろくに言葉も出ないころである。"come" というべきところで "go" と言ったりするような単語の間違いをしたときだけ、訂正をしてくれるが、それ以外はつかえようが言葉に詰まろうが、じっと待っている。そのとき初めて、日本人が相手ではないと、あいづちというのは打ってくれないことを知った。
視線をはね返しながら話し続けるだけで、全身汗びっしょりになった。おそらくそれは単に語学力の問題や、相手が外国人であるという緊張感ばかりではなかったはずだ。あいづちのない話というのが、どれほど緊張感を増し、疲れるものかということに、このとき初めて気がついたのだ。
多田道太郎氏は『しぐさの日本文化』の「あいづち」の章でこのように言っている。
日本人のしぐさということで私がまず思いつくのは「あいづち」である。…『広辞苑』には「相鎚。鍛冶で、互いに打ち合わす鎚」とある。鎚をトンカントンカンと打ち合わす快は、もはや私たちの日常生活からは遠く、正月のもちつきの臼取りの愉快さえ、光景としても日々に遠ざかってしまった。
しかし、あいづちということばは、二人の共同作業の快味をよく伝えているようである。きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく臼取りする人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのではなかろうか。受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかで、より困難でより愉快味のある役割であるようだ。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)
うなずいてもくれない、ふうん、とも、へえ、とも言ってくれない相手に向かって話す経験をしてみれば、あいづちが「共同作業」というのは実にそのとおりだと思う。あいづちの言葉には、ほとんど意味などないのだが、話し手のつぎの言葉は、あいづちによって引き出されるのだ。ここであいづちの例を見てみよう。ここで見事なあいづちを打っているのは人間ではなくて、かの有名な名前のない猫、自慢しているのは「黒」という猫である。ここではあいづちが目立つように、原文にない改行を入れてみた。
元来黒は自慢をする丈にどこか足りないところがあって、彼の気焔を感心したように咽喉をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御しやすい猫である。吾輩は彼と近付になってから直にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。
そこでおとなしく「君などは年が年であるから大分とったろう」とそそのかして見た。果然彼は墻壁の欠所に吶喊して来た。
「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたちってえ奴は手に合わねえ。一度いたちに向って酷い目に逢った」
「へえなるほど」と相槌を打つ。
黒は大きな眼をぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰の袋を持って椽の下へ這い込んだら御めえ大きないたちの野郎が面喰って飛び出したと思いねえ」
「ふん」と感心して見せる。
「いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん畜生って気で追っかけてとうとう泥溝の中へ追い込んだと思いねえ」
「うまくやったね」と喝采してやる。
「ところが御めえいざってえ段になると奴め最後っ屁をこきゃがった。臭えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を今なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。
吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠なら君に睨まれては百年目だろう。君はあまり鼠を捕るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう」
黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出した。
彼は喟然として大息していう。「考げえるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲けていやがる癖に、碌なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」
さすが無学の黒もこのくらいの理窟はわかると見えてすこぶる怒った容子で背中の毛を逆立てている。吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を胡魔化して家へ帰った。この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。
多田氏のいう「きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく臼取りする人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのではなかろうか」というのは、この「名無し猫」と「黒」の会話にもぴたりと当てはまる。黒から話を引き出していくのは「名無し猫」のたくみなあいづちなのである。
ところが多田氏はあいづちは「日本人のしぐさ」だというのである。確かに、英会話教室の講師の多くが、英語の勉強をしている日本人は、"yes" や "yeah" あるいは " I see." と言い過ぎる、と指摘している。日本人の英語の良くない癖だ、と何度となく聞いたが、わたしとしてみれば、つい、そう言ってしまう感覚がよくわかるのだ。英語っぽく話す一番てっとり早い方法は、相手の目を見すえて、うなずきもせず、尋ねられないかぎり黙っていることだ。たとえ電話で相手が言葉を切ったとしても、日本語でしゃべっているときの感覚で、 "yes" とか "yeah" とかと入れてしまうと、聞き手の側はうるさく感じているかもしれない。
もう少し『しぐさの日本文化』から見てみよう。
私たちは論理と感情の世界を区別している。契約について「イエス」か「ノー」というのは論理の世界である。会話においてあいづちを打つのは感情に基づく社会的表現である。この両者を巧みに組み合わせることで、むき出しの真実だけではない人間的世界に私たちは生きているのだ。
ヨーロッパでは相手の感情をくんで、いい振る舞いをすることを「タクト」と言う。一口にヨーロッパと言ってもいろいろある。アメリカやスイスでは「タクト」は少ない。しかしウィーンやパリでは、日本の繊細に負けぬほどのタクトがある。これはどういうことなのか。アメリカやスイスは、異人種異言語が日常的に接触する国である。ウィーンやパリでは、共同の前提となる統一された文化がある。つまり暗黙の了解があるので、その暗黙の了解のうちに相手の感情をいたわることが可能なのだ。アメリカでは、まず論理を通さなければ異人種間の意見の一致を見ることはできない。
ところが、わたしの乏しい経験なのだが、そうとばかりも言えないような気がするのだ。
その昔、アメリカでホームステイしているころ、どういうわけかわたしはよくおじいさんおばあさんから話かけられた。店で買い物をする。お金を払って、どうもありがとう、と言ったあとで、たどたどしく「良い一日を」などと言おうものなら、店にいたおばあさんに、あなたこのあいだからよく見かけるけど留学生なの、と話かけられてしまうのである。質問にはなんとか答えることができても、まだまだこちらからは話もできない。というか、見ず知らずのおばあさんにこちらから一体何を話して良いものやら見当もつかない。いきおい、聞く方専門になる。日本人の癖で、つい、あいづちを打ってしまう。すると、相手はそれはそれは喜んで、いくらでも話が続いていくのだ。
あなた、どこから来たの?……そう、日本なのね、わたしは日本の料理が好きなのよ、トーフゥ、ソイ・ソース、チャイニーズ・キャベッジ、×丁目のお店を知ってる? あそこには日本のものがたくさん置いてあるわよ。……あら、そうなの、あなた、行ったことあるの? それは良かったわ。……あのお店はね、もともとはチェーン店じゃなくてね、わたしの知っている人が経営していたの。あれは1973年のことだった……。
結局は、会話の場が「もちつき」か「ビジネス」か、ということなのだろう。アメリカ人であってもおそらく「もちつきをする」、つまりはあいづちで成り立つような会話をしている場面もあるにちがいない。その言葉は "yes" や "yeah" ではないかもしれないし、その頻度も日本人よりは少ないかもしれないけれど、親密な関係において言葉を引き出すのは、主張したいという本人のモチベーションではなく、相手のあいづちであるはずだ。おそらくそれは外国人であるわたしたちが、そういう場面になかなか行き会うことができないだけではないかと思うのだ。人間は誰かと話をするかぎり、かならずこの「感情に基づく社会的表現」をおこなっているはずだ。
もう少し「感情に基づく社会的表現」を詳しく見てみよう。
2.あいづち修行中 ―見よう見まね編―
たまに、何を言っているのかよくわからないような話し方をする人がいるが、そういう人にはどうやってあいづちを打ったらよいのだろう。先日も、向こうから歩いてきた中年女性にいきなりこう話しかけられた。
「わたし、ずっと線路沿いの道をあるいてきたんです。それなのに道がね、あっちの交差点でこっちにぐーっと曲がってるでしょう、だから全然わからんようになってしまってね。あれ、ほんまにこまりますね」
話はあちらへ飛びこちらへ飛びして、わたしが問われているのは「駅までの行き方」であると理解するまでにしばらくかかってしまった。ふり返って整理してみると、その人の話の力点は、どうして自分が道がわからなくなったかの説明にあったようだ。ふだんの自分は道がわからなくなるような人間ではない、ということをわたしに印象づけようとしていたために、結果的に何を問われているのか、わたしの方はわけがわからなくなってしまったのである。
最初はふつうに始まっても、目的が複数あるような場合(あることを聞きたいのだが、それを知らないことでバカにされたくない、というように)、話の脈絡を失いやすいのだろうか。そういうときに聞き手が「どこにいらっしゃるんですか?」とか、「それってこういうこと?」とかと、交通整理をするように話を誘導していくことができれば、話し手も「いったい何を話してたんだっけ??」とパニックに陥ったりすることはないだろう。
だが、こういう交通整理は、多田氏の言うように、聞き手側が「受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかで、より困難でより愉快味のある役割」を果たしてはいても、あいづちと言えるのだろうか。
むしろ、こういう誘導・交通整理は、「もちつきか、ビジネスか」という区別で行くと、「ビジネス」に属するものと言えるかもしれない。たとえば坂口安吾の『明治開化 安吾捕物』で、探偵役を務める新十郎は、現場にいた人びとから話を聞きだしていく。
反対側の最も近い場所にいたのが、満太郎である。現場から二間ぐらいの所をちょうど通りかゝっていた。
「卒倒なさった御令妹の方へ行こうとなさったのですね」
と新十郎がたずねると、
「いゝえ、ただなんとなくこッちへ歩いてくる途中でした。私は人々のさわぐ様子で何かが起ったと知りましたが、妹が倒れたとは知りませんでした」
「あなたは倒れるお父上の姿をごらんになりましたか」
「倒れる瞬間には見ておりません。倒れた後に、虚無僧姿の田所さんに抱かれて後の姿を見ましたが」
新十郎は、どこへ行こうとしていたのですか、と聞く代わりに、「行こうとなさったのですね」という聞き方をして、質問を剥き出しにしない。警察の尋問とちがって、相手を問いつめず、相手が自発的に話ができるように誘導していく。相手が話しやすいように言葉をはさむのは同じであっても、これはあいづちというカテゴリには入らないだろう。先に見た名無し猫が話の行く先をコントロールできなかったのに対して、新十郎は相手の話を自分の目的の下に誘導しているのだ。
だが、名無し猫にしても、新十郎と同じように、相手とのおしゃべり自体が目的なのではなく、そのあいづちには「相手を良い気分にしてやろう」という思惑があるのだ。こう考えると、あいづちは、かならずしも相手の言葉に心底共感しているからこそでてくるもの、とは言えそうにない。さて、こういう観点から、太宰治の短編『饗応夫人』のなかのあいづちの場面を見てみよう。この「饗応夫人」というのは、太宰の作品にときどき出てくる、自分を顧みず、相手にとことん尽くさずにはおれない人物である。そこにつけこんでくるのが、これまた太宰の作品ではおなじみの、厚かましい笹島という人物である。
「住むに家無く、最愛の妻子と別居し、家財道具を焼き、衣類を焼き、蒲団を焼き、蚊帳を焼き、何も一つもありやしないんだ。僕はね、奥さん、あの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね、大学の病院の廊下に寝泊りしていたものですよ。医者のほうが患者よりも、数等みじめな生活をしている。いっそ患者になりてえくらいだった。ああ、実に面白くない。みじめだ。奥さん、あなたなんか、いいほうですよ。」
「ええ、そうね。」
と奥さまは、いそいで相槌を打ち、
「そう思いますわ。本当に、私なんか、皆さんにくらべて仕合せすぎると思っていますの。」
「そうですとも、そうですとも。こんど僕の友人を連れて来ますからね、みんなまあ、これは不幸な仲間なんですからね、よろしく頼まざるを得ないというような、わけなんですね。」
奥さまは、ほほほといっそ楽しそうにお笑いになり、
「そりゃ、もう。」
とおっしゃって、それからしんみり、
「光栄でございますわ。」
相手の家で傍若無人にふるまう笹島に対して「饗応夫人」のあいづちは、最初は通り一遍のものに思える。この人は何を恐れているのだろう、どうして笹島などの言うなりになっているのだろうと、あいづちの意味をさぐりながら読み進め、最後のページをめくり終えたとき、このあいづちが決して通り一遍などではなかったこと、ほんとうに、相手を気の毒に思い、「不幸な仲間」に饗応できることがうれしく、喜ばしく感じているのだということを知る。
だが、あいづちに限ってみるなら、この作品は、逆に、あいづちというのは、聞き手の感情をほんとうに映し出しているのだろうか、という疑問を生む。この箇所の「饗応夫人」のあいづちは、むしろ「社会的表現」の影に彼女の本心を隠してしまっているように思えてくる。
あいづち修行者はここでわからなくなってくる。誘導するのはあいづちの役目ではない。しかも、本心から共感していなくても、あいづちはその役目を果たしているらしい。今度は別の角度からあいづちを考えてみよう。
3.あいづち初段者 ―前座で初舞台編―
先日、講演を聞きに行ったときのこと。聴衆の年齢層が比較的高かったせいか、聞きながらうなずいている人が多かった。話の切れ目でうんうんとうなずくものだから、後ろで見ていたわたしからは、頭が動いているのがまるでウェーブのように見えて(というのは少し大袈裟か)、何となくおかしくなってしまった。
会議などでも、特に女性に多いような気がするのだが、聞きながらしきりにうなずいている人がいる。かならずしもその人が相手の言っていることに全面的に賛同しているわけではなく、わたしはあなたの話を聞いていますよ、というアピールなのだろうか。あなたとわたしが一対一で話しているのなら、相づちが打てるんだけど、講演だから、あるいは会議だから、わたしはいま、相づちをうつことができないんです。でもほら、わたしは一生懸命に聞いているのですよ、と。実際、うなずきながら小さな声で、そうそう、とか、ほんとねえ、とかと言っているのを聞いたこともある。
あとで話をしてみると、うんうんとうなずいている人が、ほんとうにしっかり聞いているかどうかは、かなり疑わしいところがある。話を聞きながら、メモを取ったり、それはどういうことなんだろう、とか、これはあのことを言っているのだろうか、などといろいろ考えたりしていたら、うなずくどころではなくなるということもあるのだが、別の面から見れば、そうそう、とうなずくことで、逆にひっかかりも生まれず、良かった、いい話だった、という漠然とした印象だけが残るものなのかもしれない。さっきあれほどうなずいていたのに、この人は一体何を聞いていたんだ、と思ったような経験も、一度や二度ではない。
ところが話す側にまわってみると(講演の経験はないが)、うんうんとうなずいてくれる人はありがたい。大勢に向かってひとりきりで話すというのはしんどいものなのだ。おそらく話とは根本的に「相手に向かってする」ものだからなのだろう。
メモを取っている相手は、確かに自分の話を聞いてくれていることはわかるのだが(もしかしたらへのへのもへじを書いているのかもしれないが)、うつむいて手を動かしている人に向かっては話しにくい。ソッポを向いている人、下を向いている人はもちろん話しにくいし、まして、私語を交わす人、携帯を開く人に対しては、ここから出ていってくれ、と言いたくなる。自分が教わる側だったころには、私語を交わしていても先生の話だってちゃんと聞ける、ぐらいに思っていたのだが、実際、教える側にまわってみると、自分が話しているときに私語を交わされるというのは、「あなたの話を聞くつもりはない」という意思表示にしか思えない。そうなってみて初めて、かつての先生たちが私語に神経をとがらせていた理由がよくわかるのだ。
わたしの母親は、話をしているときに、わたしがちょっと他のことをやったり、上の空になったりすると、「聞かないんだったらもう話さない」と、すぐに怒り出す人で(いまだにそうだが)、いったんそういう状態になると、いつまでもすねてしまって、後々厄介なので、とにかく聞くときは聞いている体勢にならなくてはならなかった(そのうち、いかにも聞いていそうな顔をして、まったく別のことを考える、という技をわたしは編み出すことになるが)。だが、まさか学校の先生までもが母と同じように、たくさんいるうちの生徒のひとりやふたりが私語を交わしていることで傷つくとは思えなかったのだ。だが、実際自分がその立場になってみると、聞いていない人に向かって話すのは、なんともいえない徒労感を覚える、つらい、悲しいことだというのがよくわかる。
うなずくという動作はいったいどうして話し手を力づけるのだろう。
ところで、以前話をしているとき、横で、まだ一歳には間がある、喃語はしきりに口にするが、まだ意味のわかる言葉はほとんど発さないぐらいの月齢の赤ちゃんが、こちらを見て、しきりに「おーちこおーちこ……」と繰り返していたことがあった。「おーちこ」ってなんだろう、と思って、おもちゃや身の回りのものをひとつずつ指して「おーちこ(ってこれのこと)?」と聞いても、知らん顔をしている。わからないのであきらめて、大人同士で話していると、また「おーちこおーちこおーちこ……」と繰り返すのである。
やがて気がついた。大人同士の会話は、赤ちゃんの耳には「おーちこおーちこ」と聞こえるのだ。そうして、まねをすることで、赤ちゃんも会話に参加しているつもりだったのである。
赤ちゃんは、新生児であっても、親が笑いかければ、同じように、歯のない口元でにっと笑い返す。舌を出すとまったく同じように舌を出す。新生児がいったいどうして、相手の口と自分の口が同じもの、と理解できるのだろうか。舌を出すという同じ動作ができるのだろうか。おそらく赤ちゃんはそういうことを理解して、親の動作を模倣しているのではないのだろう。この模倣は、赤ちゃんはほとんど無意識のうちにやっているのだろう。
大人になっても、この無意識の模倣は起こる。知らない人から笑いかけられれば、あれ、わたしに? と頭では思っても、自然に顔はほころんでいる。人が、ぱっと宙の一点に目をやれば、何だろう、と思う以前に、わたしたちもそちらを向いている。「あっち向いてホイ」という遊びなど、その最たるものだろう。向かい合う相手が指さす方向を向かないのは、ものすごい意志の力と、反射神経を必要とする。指さす方につられるわたしたちの身体反応というのは、そのくらい強いものだ。
以前も別のところで引用した、コミュニケーションダンスの事例を、ここでもまた紹介しよう。
ウィリアム・コンドンはコミュニケーションの現場を超低速で撮影したフィルムを観察し、話し手の身体各部の微細な動きが音声と完全に同期していることを発見した。これはまあ予測できることである。だが彼が次に聞き手の身体の動きを調べると、驚くべきことにそれは話し手の動きと、まるで鏡に向かい合うように同期していたのである。コンドンはこれを「相互シンクロニー」と名づけた。「このような相互シンクロニーの現象は、生後わずか二〇分の新生児にも見られ、そして、自閉症など一部のコミュニケーション障害を例外として、同期のリズムがくずれることはきわめて稀であった」(※佐々木正人『からだ:認識の原点』東京大学出版会)という。
相互シンクロニー現象は、まさに私たちの身体が話相手の身体の動きをなぞることによってその話を身体レベルから理解しているのだということを示しているだろう。しかもこの同期は、相手の動きを見て自分の身体を操作するのではなく、相互的コミュニケーション活動の流れに導かれる形で、全く意識することなく呼応する身体によって行われるのである。……
コミュニケーションの場が成立しているとき、しばしばそこは外界から切り離され、「自分たちだけの世界」が成立しているように感じられる。私たちは確かに何かを共有しているのを感じ、話題についての理解だけでなく、同じ気分を分かちあう。笑いは確実に伝染する。私たちは心身の全体で互いに同期しているからである。コンドンがフィルムに見た身体の動きは、この心身活動の表面にすぎないだろう。私たちは相手の言葉を「頭でわかる」だけでなく、身体でも理解しているのである。この身体的レベルでの理解を支えているのは全身の「なぞり」活動にほかなるまい。
(尼ヶ崎彬『ことばと身体』勁草書房)
相手の身体の動きは、わたしたちの身体の動きを触発する。以前、雨の日にスリップして自転車が転んだ場面に行きあったことがある。わたしの前を歩いていたふたりづれは、同時にぱっと身をこわばらせ、ひとりは「うっ」と言い、もうひとりは「きゃっ」と言った。たとえ自分が経験したわけでなくても、わたしたちの身体は共感するのだ。梅干しを口にする人を見れば、わたしたちの口の中には唾がたまってくるし、怒鳴り声をだしている人を見れば、たとえ自分には関係がなくても、わたしたちの身体は緊張する。これを考えていくと、「話をする人の動作」はわたしたちに「聞く」という身ぶりを触発すると考えられる。そしてまた、わたしたちの「聞いている」という身ぶりが、相手の話を触発しているのではあるまいか。
「聞いている」という身ぶりは、さまざまな文化によって異なる現れ方をするだろう。日本人のように、頻繁にあいづちを打ったり、うなずいたりする文化もあれば、相手の眼をじっと見つめ、ほとんど身動きもせず「一心に聞く」という文化もあるのだろう。けれどもそれは「聞いている」という身ぶりであることには変わりはないはずだ。おそらくあいづちを打ってもらえなかったわたしのとまどいは、異なる文化に直面したとまどいだったのだろう。
4.あいづち師範代 ―移り変わるコミュニケーションのなかで―
大勢が集まるような場では、私語がひどく、たとえマイクを使っていてもろくに話も聞こえないようなことが、最近ではめずらしくなくなってしまった。わたしのころだって、大教室の授業はやかましかったが、最近の大学は、わざわざ私語禁止を謳っているところもあるようだ。そんな教室は、はたして静かなのだろうか。
学生ばかりではない。小学校の参観日でも、廊下で私語の花を咲かせる保護者のせいで、教室での授業にも差し支えることもあるらしい。
いつのまにかわたしたちは、誰か話をしているというだけでは、聞く構えを取らなくなってしまったのかもしれない。自分が相手を選ぶ、という意識が強くなり、その相手と認められなければ、たとえ話をする人がいても、自分を「聞き手」の側に置くことはしなくなってしまったのだろうか。
しかも、携帯の登場によって、「相手と話をする」ことは、対面が条件ではなくなってしまった。もちろん以前から電話はあったが、携帯は、それを「いつでも、どこでも」にした。さらにメールは相手の反応を直接知覚することなくコンタクトを取ることができる。電話なら「仕事中なんだけど」という相手の迷惑そうな声が返ってくる可能性だってあるが、メールなら、相手の不機嫌と向かい合う恐れもない。メールを打って、「話す」「聞く」という関係に入らないまま、送ってしまえばいいのだ。
対面のコミュニケーションでは、どれだけ言葉をつくろっても、声でわかったり、顔つきでわかったりする。あいづちがちょっと熱心すぎたり、逆に気がなかったり、文字にしてみれば、「へえ」「そうなの」「ふうん」という、ほとんど意味のない言葉が、人の身体を経ることによってさまざまな感情を伝えるのだ。
身体抜きの言葉に対して、わたしたちの身体はどのような反応をしていくのだろう。身体抜きの相手の言葉は、どこまで相手と言えるのだろう。携帯メールを媒介にして、わたしたちはどのようなダンスを踊っていくのだろう。
いまではだれかと対面で話をしているような場面でも、平気で携帯を取り出すことができるようになってしまった。その態度は、あなたはわたしが携帯メールを送っている相手より重要ではないんですよ、という身ぶりではないのだろうか。「相手を前にした自分」の身体は、以前に比べて、ずいぶん鈍感にはなっていないのだろうか。
誰かが話し始める。その相手の身ぶりは、わたしに「聞く」という態度を引き起こす。わたしは耳を傾け、ときにうなずき、あいづちを打ち、さらに相手の話を引き出す。同じように、わたしの話を引き出すのも、相手の身ぶりだ。その話がどこへ向かうか、わたしにも、相手にもわからない。けれどもわたしたちの話は続く。時間は夢のように過ぎていく。それが「あいづち名人」であるとすれば、その「名人」は目指すに足る存在ではあるまいか。
おそらく、そのためにはもっともっと人の話を聞くことだ。ときに気のないあいづちを打ち、ときに通り一遍のあいづちを打ち、ごくまれに、心の底からあいづちを打ち、あるいはまた、大勢を相手に話している人の言葉に耳を傾け、うんうんとうなずいてみせる。ときに怒られ、ときにいやな思いをし、いつまでたっても終わらない話に辟易し、ときにこちらから怒鳴り返し、恥ずかしい思いをし、相手の放射する「何ものか」に自分の身をさらすことだ。
それが人間が大昔からやってきた、「人と話す」ということなのだから。
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