コーディーリア やがて時が来て、どんな手の混んだ悪だくみでも、
きっと明るみに引出されましょう、
蔽われた悪事もついには辱めと嘲りを受けずには済みませぬ。
では、くれぐれもお大事に。
――シェイクスピア『リア王』

濡れ衣が乾くまで

鞍馬天狗


1.悪夢にも似た……

悪夢にはいくつかのパターンがあるらしい。
わたしの場合は、地中からにゅっと突き出した手に自分の足をつかまれて、地中に引きずり込まれそうになる、というものだ。高熱でうつらうつらしているようなときに、深い眠りに落ちかけるあたりでひょいと出てくるのはたいていこの夢だ。

階段から落ちる夢とか、車が目の前に迫ってくる夢とか、人によってちがいはあるだろうが、たいてい誰でも「自分の悪夢」を持っているのではあるまいか。つかまれたり、落ちたり、追いかけられたりしながら、暗闇ではっと目を覚ます。ドクドクと鳴る自分の心臓の音を聞きながら、ああ、またあの夢だ、と思った経験は誰にもあるはずだ。

もう少し穏やかな悪夢もある。試験で答えが書けなかったり、舞台でせりふを忘れたり、どうやっても目的地にたどりつけなかったり、何度やってもボタンを押すことができず電話がかけられなかったり。「これは困った」という状況から、あがいてもどうにも抜けられない。これまた人によって決まったパターンがあるのではないだろうか。

わたしは以前、濡れ衣を着せられて周囲から責められる、という夢をよく見ていた。身に覚えがないことで、弁明にこれ努めるのだが、だれも耳を貸してくれない。ああ、どうして誰もわかってくれないんだろう、困った、どうしよう……とおろおろしているところで目が覚める。ああ、夢だったのか、助かった、と思う反面、それに相当するような体験が実際にはまったくなかったため、どうしてそんな夢を見るのか不思議でならなかった。いまではほとんど見ることもなくなったのだが、そんな夢を頻繁に見ていた十代二十代のころは、濡れ衣を着せられることを恐れていたというよりは、理解されることへの渇望がどこかにあったのかもしれない。

確かに、ちょっとした行き違いや誤解は日常いくらでもあるが、「濡れ衣」をかけられる、つまり、実際にはやってないことをやったとみんなから責められ、その罪や責任を負わされるような事態に遭遇することは、そんなにあることではないだろう。

だが『フランダースの犬』や『ごんぎつね』を始め、戯曲『オセロ』や『リア王』、トルストイの『復活』など、「濡れ衣」によって主人公たちの運命が大きく変わってしまう作品はいくらでもあるし、ミステリでは濡れ衣をかけられた主人公が、それを晴らそうと悪戦苦闘するという筋書きは定番だ。ヒッチコックの映画でも、たいていの作品で、主人公が濡れ衣をかけられるところから始まっていく。映画にもなったアメリカのTVドラマ「逃亡者」では、妻殺しの濡れ衣を着せられたリチャード・キンブルが、自分の無実を晴らそうと、警察から逃れながらアメリカ中を移動した。このように小説や戯曲、映画、ドラマのなかで「濡れ衣」は大活躍なのである。

濡れ衣というのはいったいどういうものなんだろう。
わたしたちはどうして濡れ衣というテーマを好むのだろう。

ここでは法律的な冤罪とはいったん分けたところで、小説や戯曲に描かれた「濡れ衣」を読みながら、「濡れ衣」について考えてみたい。


2.濡れ衣は何のため?

濡れ衣というのは、もともと文字通りの濡れた衣(ころも)、つまり濡れた服のことだったらしい。「神話の森」というサイトの「濡衣塚」というページを見ると、その「語源」と思われる伝説があげてある。

筑前守佐野近世の娘、春姫は、継母の讒言で「漁師の浜衣を盗んだ」という罪を着せられ、父親に斬り殺される。春姫の霊が泣いて無実を訴えたために、父親は自分のしでかしたことを悔いて出家し、「濡れ衣塚」を作って弔った。

ここから「濡れ衣」という言葉が生まれたのか、それともその言葉から逆に生まれた物語なのかはわからないが、ともかくこの伝説には「濡れ衣」の基本的な構造がよく現れている。

Aから愛されているBがいる。そこにCが割り込んでくる。CはAの寵愛を得るために、邪魔なBを排除しようとする。CがBを直接排除すれば、AはCを憎むだろう。だからAが自分からBを排除させなくてはならない。そこでCは、AがBを憎むようにBに罪を着せる。それが「濡れ衣」のメカニズムだ。

話の中心をだれに置くかによって、物語はずいぶん変わってくる。「濡れ衣塚」でもシェイクスピアの戯曲『オセロー』でも、だまされるAに当たるのが主人公だ。

『オセロー』で策を弄するCに当たるのはイアーゴー。彼は将軍であるオセローに仕える旗手である。オセローが副官に自分ではなくキャシオーを任命したことに深い憤りを覚えるのだが、その恨みの晴らし方は「恨み塚」の継母よりもう少し手が込んでいる。オセローを苦しめるために、オセローの妻デズデモーナとキャシオーの仲をオセローに讒言するのである。その証拠としてオセローがデズデモーナに与えたハンカチを盗み、キャシオーの部屋に置いておく。

オセロー おれは見たのだ、やつがあのハンカチを手にしているのを。
 ええい、この嘘つきめが! おれの心を石にする気か。
 生贄を捧げるつもりでいるこのおれを。
 ただの人殺しにしようというのか。おれは見たのだ、
 あのハンカチを。

デズデモーナ それはあの人が拾ったのでしょう。
 私がさしあげたのではありません。ここに呼んで、
 ほんとうのことをお聞きください。

オセロー もう聞いた。

デズデモーナ なにをです?

オセロー おまえを思いどおりにしたと。

デズデモーナ え、不義を犯したとでも?

オセロー そうだ。

デズデモーナ そんなこと言うはずはありません。

オセロー もう口がきけぬからな。
 忠実なイアーゴーが万事片をつけてくれた。

(シェイクスピア『オセロー』小田嶋雄志訳 白水Uブックス)

こういうタイプの物語で濡れ衣をかけられる人物は、ひたすら純真無垢、しかも無力である。ここでもデズデモーナは自分を守るすべさえ知らず、あっさりとオセローの手にかかってしまう。さらにやってきたエミリアに対しては、これは自分でやったこと、と、オセローを庇うことまでするのである。

それはなぜか。簡単に言ってしまえば、真相を知った主人公が、それにより一層苦しむためだ。
つまり、このタイプの物語では、「濡れ衣」を見破れなかった愚かな主人公は、その愚かさのせいでかけがえのないものを失ってしまい、その喪失と引き替えに真実を学ぶのである。

読者や観客は「神の立場」から一部始終を見ている。主人公の愚かさにやきもきし、無力で純真な被害者に涙を誘われるが、その一方で、どこか高いところから余裕を持って、全体を見下ろしている自分を意識してしまうこともあるかもしれない。

現実には、わたしたちがこの特権的な立場から一切を俯瞰することはありえない。悪辣な人物が何ごとかをたくらむ場面に行きあわせることはできないし、その悪だくみがまんまと成功するのを、「教えてあげられるものなら教えてあげたい」と思いながら、はらはらして見守ることもできない。まんまとだまされて何の罪もない被害者を排除してしまった主人公が、最後に真相を知ってうなだれるのを見て、「そうなると思った」とつぶやくこともできない。

こう考えれば、わたしたちを神の視点に立たせてくれるこのタイプの物語こそ、本を読む醍醐味、劇やドラマを見る醍醐味を味わわせてくれるものと言えそうだ。

ではつぎに、主人公が濡れ衣を着せられるタイプの物語を見てみよう。このタイプの物語では、だまされるAに当たるのは、周囲の人びと全体であることも多い。


3.濡れ衣を晴らすのは大変だ

スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』には、こんなエピソードが出てくる。あるときクラス全員から徴収したミルクの代金七ドルがなくなった。担任の先生は、その犯人として12歳のクリスを三日間の停学処分にした。

「あのとき、おれは反省して、金を返そうとしたかもしれない」
 わたしは目を大きくみひらいてクリスをみつめた。「金を返そうとしたって?」
「かもしれない、と言っただろ。かもしれないって。シモンズばあさんのところに金を持っていって白状したかもしれない。金はそっくりあったかもしれないけど、どっちみち、三日間の停学はくらっただろう。だって、金は現われなかったんだから。そして、次の週、学校に来たシモンズばあさんは、新しいスカートをはいていたかもしれない」……

「だからさ、言ってみれば、おれはミルク代を盗ったけど、シモンズばあさんはおれから金を盗ったというわけさ。そんな話をしてみなよ。わたくし、クリス・チェンバーズ、フランク・チェンバーズおよびアイボール・チェンバーズの弟がさ。信じるやつがいると思うか?」
「無理だね」わたしは小声で答えた。「なんてこった!」

 クリスは老けた、こわいような笑みをうかべた。「それにさ、金を盗ったのがザ・ビューに住んでいるような、いいとこの子だったら、あのくそばばあがそんなまねをしようという気になったと思うか?」
「いいや」
「そうなんだ。もしおれがいいとこの子だったら、シモンズばあさんはこう言うさ。“オーケー、いいでしょう、今回はこのことをおたがいに忘れましょう。でも、あなたの手首は一発、平手打ちをくいますよ。それに、もしこんなことがまたあったら、そのときは両方の手首に平手打ちをくらわせなければなりません” ってね。だけど、おれだったから……そうなんだ、彼女、ずっと前からあのスカートに目をつけてたんだろう。とにかく、彼女はチャンスをつかみ、ものにした。おれは金を返そうとしたばか者だった。けど、考えもしなかった……まさか教師ともあろう人が……やれやれ、気にしてるのはどっちだ? なんだってこんな話、してるんだ?」

(スティーヴン・キング『スタンド・バイ・ミー』山田順子訳 新潮文庫)

クリスはミルク代を盗んだ。まるで『ごんぎつね』のごんが、兵十の採っていたうなぎを逃がしてしまったのと同じように、その行為が濡れ衣を着せられる根拠になった。

濡れ衣を着せられる人間には、周囲の人が納得するような理由がある。もちろんクリスやごんのように、当人の行動が濡れ衣のひきがねになるようなケースもあるだろう。

そんな濡れ衣に対して、したり顔で「李下に冠を正さず、瓜田に沓を納れず」ということわざを持ち出す人もいるかもしれない。そういうことをしているから、濡れ衣を着せられるのだ、と。

だが、本人にはどうすることもできないことが、濡れ衣を裏付ける根拠になる場合もある。シモンズ先生がクリスの返した金を着服する気になったのは、たとえクリスが返したと主張しても、誰も信じないだろうと見越したからだ。貧困家庭に育ち、兄三人が名だたる不良であるクリスには、そうした濡れ衣を誘発しやすい性質があったのだ。

だが、この濡れ衣を誘発しやすい性質というのは、あらかじめ決まっているものではない。満員電車に乗り合わせたある男性が、隣の女性からいきなり「痴漢」と名指されたとする。その濡れ衣の「理由」は、その人が「男」だったというだけのことだ。

以前、被害者の父親が、かなりの期間、あたかも犯人であるかのように報道され続けた事件があった。犯人扱いする映像が繰りかえし流され、多くの人びとは逮捕される以前に、その人を犯人だと決めてしまっていた(法的にはたとえ逮捕されても、裁判に付されて刑が確定するまでは「犯人」ではないのに)。結局、別の人物が逮捕されて、それが濡れ衣だったことがわかったのだが、そのことはわたしたちに教えてくれたはずだ。ひとたびある人が「犯人」と名指されれば、それが濡れ衣であろうがなんだろうが、わたしたちはその理由をかならず見つけることができるのだ。

たとえその「理由」とされるものがはなはだ疑わしくても、受け容れる側がひとたびそれを信じてしまえば、「濡れ衣」は「真実」に昇格してしまう。

リリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間』では、ひとりの少女がついた嘘がもとで、破滅していく女性たちが描かれる。

マーサ・ドビーとキャレン・ライトはふたりの若い女性。共同で小規模の女子寄宿学校を経営していた。やっと学校運営も軌道に乗ったかに思えたころ、厄介な生徒を抱えることになる。メアリーは不真面目なだけでなく、嘘つきで、悪意に満ちた女の子だった。ある日メアリーはとがめられたことに腹を立て、学校を抜け出して家に戻ると、お祖母さん(ティルフォード夫人)にマーサとキャレンの仲について、悪意きわまる嘘をつく。

メアリー (慌てて)それに、見たのよ。ある晩、あんまり音がするものだから、誰かが病気かなんかかと思って鍵穴から覗いてみたらね、二人がキスしてて、いろんなこと言ってて、あたし怖くなっちゃったの、だって、何だか普通と違うでしょ、それにあたし――

マーサ (顔を歪め、ティルフォード夫人のほうを向く)この子は――この子、正常じゃないわ。

キャレン もう一度聞いてみて、どうやってあたしたちが見えたのか。……(中略)

メアリー 夜だったわ、あたし、かがみこんで、鍵穴のそばにいたの。

キャレン あのドアには鍵穴はないわ。……(中略)

メアリー (泣き出す)みんなであたしをどなりつける。みんなでごっちゃにさせるんだもの、あたし、何を言ったか自分でもわかりゃしない。見たのよ! あたし、見たんだから!

(リリアン・ヘルマン『子供の時間』小池美佐子訳 新水社)

メアリーの嘘はこれで暴かれたはずだった。ところが学校を辞めさせた子供たちの親は、復学させようとはせず、名誉毀損でティルフォード夫人を訴えたマーサとキャレンは、メアリーに脅された他の子供たちが証言したせいで、逆に敗訴してしまうのだ。

濡れ衣そのものは、ごく単純で驚くほど他愛のないものから始まることもある。だが、周囲がその濡れ衣をひとたび受け容れてしまえば、それを晴らすためには、その証拠とされるものを完全につぶすか、そうでなければ、濡れ衣であることを裏付ける、決定的な証拠を見つけださなければならないのだ。

マーサとキャレンは子供の嘘が引き起こした濡れ衣を、くつがえすことはできなかった。『スタンド・バイ・ミー』では、クリスの親友の「わたし」ですらクリスが真相を告げるまで、それが濡れ衣だということを知らなかった。

多くのミステリでは、濡れ衣をかけられた人物を救うのは、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロといった名探偵である。もちろん「逃亡者」のキンブル医師のように、逃亡しつつ真犯人を捜す超人的な登場人物もいるが、濡れ衣をかけられた人物の多くは捕らえられてしまう。ポワロもホームズもいなかったエドモン・ダンテス(アレクサンドル・デュマ『厳窟王』)もアンディー・デュフレーン(スティーヴン・キング『刑務所のリタ・ヘイワース』)も、長いあいだ獄中に囚われ、大変な思いをして脱獄しなければならなかった。

このタイプの物語を読むわたしたちは、濡れ衣を晴らそうとする主人公に自分を重ね合わせる。主人公の苦しみを共に味わい、事態の動きに翻弄される。そうして主人公と一緒に徐々に明らかになる真実を知っていくのだ。

だが、その真実は主人公を助けるばかりではない。濡れ衣をきっかけに、主人公が思ってもみなかった何かを発見する場合もある。


4.知恵の実の苦さ

もう少し『子供の時間』を見てみよう。
裁判に敗訴したキャレンとマーサは、学校を廃校にせざるを得なくなる。キャレンはメアリーの叔父のカーディンと婚約していたのだが、別れてしまう。世間の好奇の目を避け、もはや学校ではなくなった家でひっそりと過ごすうち、マーサはあることに気がつく。

マーサ (自分に言いきかせるように)変ねえ、何もかもこんがらがってるわ。何かが心の中にある。でも、あるとも知らずうっちゃってある。すると突然、子供が退屈まぎれに嘘をつく――そして、気がつくのだわ、初めてそれが見えてくる。(眼を閉じる)何だかもうわからないわ。思い返してみると、すべて合点がいくみたいだけど。ある意味でわたしなのよ、あなたの人生を破滅させたのは。わたしの人生をメチャメチャにしたのも。そうとは知らずに。(笑顔をつくる)わたしたち二人、すっかり違ってしまったわね、キャレン。わたしって、汚らしくて――(片手を伸ばし、キャレンの頭に触れる)もう一緒にはいられないわ。

キャレン (震えた、たよりなげな声で)そんなのみんな、本当じゃない。あなたは何にも言わなかった。明日になれば、あたしたち、忘れるわ。

マーサ 明日? いいことキャレン、わたしたちにはもう、明日なんてものはありはしない。わたしたちはね、ほら、子供たちがごっこ遊びでよくやるでしょう、あんなふうにでっちあげなくちゃならないのよ、明日のない世界で話す言葉を。

(『子供の時間』)

だが、「それ」はほんとうに最初からマーサの心の中にあったのだろうか。
「心の中」という。そのような言い方をすれば、まるでわたしたちの体のどこかに器のようなものがあって、そこにさまざまな「感情」が蓄えられているような気がするけれど、実際にはそんなものがあるわけではない。わたしたちは自分に与えられたいくつもの言葉のうち、あるものに反応し、以前から「それ」がそこにあったように誤認するだけではないのか。

婚約者もいたキャレンにとって、濡れ衣は何の意味も結ばなかった。だがマーサは濡れ衣をかけられたことで、逆に一種の方向付けが与えられたのではなかったか。濡れ衣をかけられることがなければ「友情」で収まっていたキャレンへの気持ちは、濡れ衣をかけられたために、自分が「汚らしい」と呼ぶものになってしまった。だが、「それ」が友情なのか、「汚らしい」ものなのか、いったい誰に判定ができるだろう。

志賀直哉は『ハムレット』から『クローディアスの日記』を著した。このなかでハムレットから王殺しの濡れ衣をかけられたクローディアスは、自分の心の中を問ううちに、自分にほんとうに殺意がなかったのか、わからなくなってくる。殺意の有無ばかりではない、もしかしたら自分が殺したのかもしれない。自分の行動なのに、自分でもよくわからなくなってくる。

眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘されているのだなと心附いた。いやに凄い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。

(「クローディアスの日記」『清兵衛と瓢箪・網走まで』)

殺したか、殺していないか。現実の行動には曖昧なところなどないはずだ。だが、考えていくうちにわからなくなってくる。殺したいという意識も確かにあったような気がする。濡れ衣をかけられたことで、マーサもクローディアスも「自分の気持ち」がとてもたったひとつの言葉のうちに収められるものではないことに気がついていく。

アガサ・クリスティのミステリ『杉の柩(ひつぎ)』では、濡れ衣をかけられた主人公は、それを晴らそうとしない。誰かを庇っているわけではないのだ。その人物は、ある瞬間に殺意を抱いた自分を許せず、そのために自ら罪を引き受けようとするのである。言葉を換えれば、おびただしい言葉が当てはまる、流動的で曖昧模糊とした感情のうちのひとつに責任を取ろうとする。

濡れ衣という。けれどもそれを実際に思い浮かべたことのある「わたし」は、そのことに対して、何の責任もないと言えるのだろうか。ほんとうに、それまで思ったこともなかったのだろうか。、「あるとも知らずうっちゃって」いただけではなかったか。

このタイプの物語は、わたしたちに人間の感情の曖昧さを教えてくれる。濡れ衣が、濡れ衣ではなかったのかもしれない、と気がつく登場人物に寄り添って読み進むうちに、今度は自分のことを問い返さずにはいられない。このとき物語はわたしたちの姿を映し出す鏡となるのだ。

ここからさらに、濡れ衣を晴らすことを拒んだ登場人物たちを見ていこう。


5.濡れ衣を晴らすより大切なこと

アメリカの作家ジェーン・スマイリーの『大農場』という作品は、シェイクスピアの『リア王』を、1970年代のアメリカのアイオワ州の大農場に舞台を置き換えたものである。単に舞台と時代を移し替えただけでなく、長女のゴネリルに当たるヴァージニアの視点で物語が語られていく。

ここでのコーディリアに当たるキャロラインは弁護士。理詰めで論理的で、長女、次女と父親のあいだの確執をまったく理解しようとしない、冷たい女性として描かれる。

確かに戯曲の『リア王』を読んでいても、コーディリアの態度はあまりに理詰め、という印象がなくもない。父親が、愛の言葉をそんなにもほしがっているのなら、少しぐらい聞かせてやっても、という印象を受ける。

だが、コーディリアはほんとうに理詰めで冷たい娘なのだろうか。もし冷たくはないのであれば、彼女が「冷たい娘」という濡れ衣を晴らそうとしなかったのはなぜなのだろうか。ここではそのことを見てみたい。

まずリア王は、老いた自分が国王の座から降りることを一同に向かって宣言する。国土を三つに分けた。その領土のひとつを姉の婿であるアルバニー公爵、次女の婿のコーンウォール公爵、そうして末娘の夫となるはずのフランス王とバーガンディ公爵のいずれかに譲ることを明らかにする。それにつづくのがこのせりふである。

さあ、銘々言ってみるがよい。娘達、今や権力、領土、煩わしき政(まつりごと)の一切を、みずからかなぐり捨てようとしている私だが、お前達のうち、誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい。最大の贈物はその者に与えられよう。情においても義においても、それこそ当然の権利と言うべきだ。ゴネリル、長女のお前から先に答えて貰おう。

(シェイクスピア『リア王』福田恆存訳 新潮文庫)

それに対して長女のゴネリルはこのように答える。

お父様、私がお父様をお慕いする気持は、とても言葉では尽せませぬ、物を見る喜び、無限の空間、その中を動き廻る自由、それもお父上には代えられない、どのような高貴な宝物も高が知れている、祝福、健康、美、そして名誉に溢れた生命そのものにも等しいお方、かつて子が捧げ、世の父が受けた限りの深い情愛を懐(いだ)き続けて参りました、貧しい息に託して言い表せるものではございませぬ。何に譬えて「これ程に」と申しましたところで、すべて私にはもどかしゅう覚えます。

ゴネリルの言葉につづいて、コーディーリアはこう独白する。

(傍白)コーディーリアは何と言ったらよいのか? ただ心に思うだけ、後は黙っていればよい。

ふたりの姉から自分を愛しているとの言葉をふんだんに受けとって気をよくした父王は、最愛の娘コーディーリアがいったい何と言ってくれるか、楽しみに待ち受ける。

コーディーリア 申し上げる事は何も。

リア 何も無い?

コーディーリア はい、何も。

リア 無から生ずる物は無だけだぞ、もう一度言ってみろ。

コーディーリア 不仕合わせな生まれつきなのでございましょう。私には心の内を口に出す事が出来ませぬ。確かに父君をお慕い申し上げております、それこそ、子としての私の務め、それだけの事にございます。

リア 何と、コーディーリア? もう少し言葉の端を繕うて言え、吾が身の仕合わせを毀したくないならばな。

コーディーリア お父様、お父様は私を生み、私を育て、私を慈しんで下さいました。その御恩返しは当然の事、私はお父様のお言附けを守り、お父様をお慕いし、お父様を心から敬っております。でも、お姉様方はなぜ夫をお持ちになったのでしょう、もしおっしゃる通りお父様お一人に心を捧げておいでなら? 私でしたら恐らく、一旦嫁ぎましたからには、誓いをその手に受けて下さる夫に、私の愛情はもとより心遣いや務めの半ばを割き与えずにはおられませぬ。ええ。私ならお姉様方のように結婚などしないでしょう、お父上一人にすべてを捧げたいと思うなら。

王はこの言葉に腹を立て、「貴様の真実を貴様の持参金にするがよい」と、娘を捨てる。

ここでは「口にされた言葉」という観点からコーディリアのせりふを見てみることにしたい。わたしたちはある種の言葉は、相手に向かって言った瞬間に、ちがうものに変質してしまったように感じた経験はないだろうか。

たとえば「信頼」という言葉がある。
ほんとうに相手を信頼しているのなら、そんなことは言う必要がない。ただ黙って信頼していればいい。それを「あなたを信頼してますからね」というのは、逆に信頼していないから、何か自分の希望に反することをするのではあるまいか、と危惧していて、釘を指すために言うのではないか。

あるいは森鴎外の「最後の一句」で、主人公のいちが言った「お上の事には間違いはございますまいから」という言葉が、なぜ周囲の役人たちの胸に「ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響している」ように感じられたのか。ほんとうにいちがそう思っていたのなら、いちはそんな言葉を言う必要はなかったのだ。そうではなくて、「献身のうちに潜む反抗の鋒(ほこさき)」がその言葉をとって現れたのである。

コーディーリアの「ただ心に思うだけ、後は黙っていればよい。」というのは、おそらくそういう意味だ。自分の胸の内にある思いに誠実であろうとしたからこそ、コーディーリアはあえて自分の思いを口にすることを拒んだのである。

「言葉でなら何とでも言える」という言い方がある。ゴネリルやリーガンの言葉も、まさにそれを体現しているような言葉である。彼女たちは、権力と領土とを得るために、「愛」という言葉を引き替えにしようとする。ちょうど自動販売機に硬貨を入れるように、最大級の賛辞を父親に送って、望むものを得ようとしている。ここでの言葉は、何ら「実」を伴わないものだ。

おそらくわたしたちはそのことを知っている。だから、「口先三寸」とか、「言葉でなら何でも言える」とか「所詮、言葉は言葉だ」という言い方で、自らを戒めているのだ。

だが、一方でわたしたちのコミュニケーションは、言葉のやりとりを基本に置くしかないから、ある場面においては、できるだけ自分の気持ちに近い言葉を選び、言い回しを考える。気持ちと言葉のあいだのどうしようもないずれに、ときに苛立ちながら、それでもなんとか気持ちと言葉の両方に誠実であろうとしている。

もしコーディーリアが父親の望む言葉を望み通りに告げるとすると、どうなるだろう。単に自分の言葉を権力や領土と引き替えにすることによって、自分の父親に対する思いを「ほかのもの」に変質させるだけではない。同時に、父親を口先だけの言葉をありがたがる人間へと貶めることにもなるのだ。今、自分の思いは相手に理解してもらえないかもしれないが、いつかきっとその思いは届くはず。それが相手に対する信頼ということでもある。自分の愛に誠実であるために、そうして、父親に対する敬意と信頼から、コーディーリアはあえて「冷たい娘」という濡れ衣を進んで着たのである。

同様の行為は、芥川龍之介の「奉教人の死」にも見て取れる。傘張の娘が孕ったという濡れ衣を「ろおれんぞ」はかけられるのだが、それを晴らそうともせずに、「非人」に落とされる。それを晴らすことは、「ろおれんぞ」にとって、『でうす』の教えに背くことなのである。

彼、彼女たちは、簡単に濡れ衣を晴らすことができる。だが、彼らはそれを晴らすことより、自分を超える者に対して誠実であろうとする。そう行為することで、その思いはより誠実なものとなり、強さとなってその人物を支えることになる。だからこそ、彼らは濡れ衣を引き受けていくことができるのだろう。

では最後に、濡れ衣をかけてしまう側を見てみよう。


6.濡れ衣をかけてしまったら

『子供の時間』では、メアリーの嘘を聞いたティルフォード夫人は、半信半疑ながらもほかの子供たちの保護者に電話をかけて、またたくまにその嘘を広めてしまう。
フォークナーの「乾いた九月」では、ミス・ミニー・クーパーの「ウィル・メイズに暴行された」という訴えを、妄想だと知りながら、マクレンドンの煽動に乗る。

こうした人びとは、単にだまされたとは言えない。彼らもまた「濡れ衣をかけた人びと」であると言えるだろう。

「子供たちの時間」で、真相を知ったティルフォード夫人はキャレンに詫びを入れる。できるだけの償いをさせてほしい、と。

キャレン ……それで、あなたは、ご自分の良心にほっと一息つかせるために、こうして出かけて来たのですね。でも、わたしはあなたの告白を聞いてさしあげようとは思っていませんの。息がつまりそうでしょう、え?(激しく)苦しくて、早く息をつきたいでしょう。え? あなたは過ちを犯したから、それを正さないかぎり気が休まらない。正義の側につきたいのでしょう。あたしたちの手を借りて、また正義の人になりたいのね。ところがとんだ見当違いでしたわ。…(略)…

ティルフォード夫人 (非常な努力を払って自制しながら)わたくしが伺ったのは、自分で息がつきたかったからではありません。そうではない、と神かけて誓います。何か――何でもいいからできることをしようと思って来たのです。息はもう、つけないものとわかっていますよ、キャレン。これから先ずっと。…(略)…

キャレン そう、あなた自身のもの、一生背負って生きてゆくわけですね。(しばらくの間、夫人の顔をまじまじと見る)わたしにとってはもうすんでしまったことですけれど、あなたには、終わりはないのですね。

(『子供の時間』)

それが濡れ衣かどうか、彼らにはわからない。表面的にはけしからぬスキャンダルだったり、「暴行事件」だったり「盗難事件」としか思えない。彼らは純粋な正義感から、濡れ衣をかけられた人物を追いつめ、非難し、排除する。

だが、濡れ衣を扱った物語では、かならず真相が明らかになる。そのときが濡れ衣をかけられた側にとっては悪夢の終わりだが、無実の人間を追いつめ、非難し、排除した側は、その罪を背負っていかなければならない日々の始まりとなる。

そして同時に彼らが背負う罪は、最後のページを読み終え、本を閉じたわたしたちの課題ともなるのだ。


7.濡れ衣とわたしたち

ここで「濡れ衣」ということをもう一度整理しておきたい。
「濡れ衣」とは、事実無根の罪を着せられることである。冤罪が、あくまで法律的な罪に限られるのに対し、濡れ衣というと、もう少し意味が広く、その人が属する社会規範からの逸脱一般を指す。「教室の窓ガラスを割ったのはお前だろう」と身に覚えのない言われようをしたときに、「それは濡れ衣だ」と言うことはあっても、「それは冤罪だ」とは言わない。

濡れ衣が単なる誤解と異なるのは、濡れ衣をかけられた人・誤解された人ともに、自分に責任のないことで不都合を被るが、誤解は「誤解されたこと」以上の不都合を伴わないのに対して、濡れ衣は罪であるから、その結果として罰を引き受けざるを得なくなってくる。その罰は、多くの場合、共同体からの排除というかたちを取る。

同じくクラスという共同体からの排除を意味する教室での「いじめ」が濡れ衣と異なるのは、いじめが何の理由も必要としないのに対して、濡れ衣は、罪を犯したことの告発があり、排除はあくまでもその罰なのである。

濡れ衣が濡れ衣として成立するのは、罪の告発を受けた人物が、ほんとうはやっていない場合のみである。だが、濡れ衣をかけられた人物と、真犯人以外はそれが「濡れ衣」であることを知らない。共同体は正義感を持ち、全員一丸となって濡れ衣をかけられた人物を糾弾する。そのために共同体の団結力は増し、安定する。

濡れ衣をいったんかけられてしまえば、周囲の人びとは、かならずその理由を発見する。そのためにいったん濡れ衣がかかってしまうと、それを濡れ衣と周囲に認めさせることは大変に困難なこととなる。

さて、わたしたちの多くは、日頃、こうした濡れ衣は、自分とは縁もゆかりもないことだと思っている。幸いなことに、誰かを陥れなければならないほどの悪意を持たなくてすんでいる。

だが、事実かどうか定かではなくても、みんながそう言っているから、何か怪しそうだから、という曖昧な理由で、誰かを犯人に仕立ててしまうかもしれない。確たる根拠もないまま、みんなで一緒になって、責めたり、批判したりするかもしれない。

「濡れ衣」の恐ろしさは、晴らすことの困難さばかりではない。自分は「みんなのために」正しいことをやっているつもりで、特定の誰かに対して濡れ衣をかけているのかもしれないのだ。こうした「濡れ衣」を扱った作品は、現実には不可能な、さまざまな角度から事態を眺めることによって、わたしたちに立ち止まることを教えてくれる。

さらに、濡れ衣とまではいかなくても、日常のなかで誤解されたとき、わたしたちは、まず何とかそれを晴らそうとする。誤解を解こうとし、時には自分以外の人間に責任をかぶせることまでして、自分が悪くないことを説明しようとする。だが、文学作品は、それ以外のやり方もあることを教えてくれる。

「みんな」にわかってもらうことだけが最善のことではない、と。

わたしたちにはコーディーリアやろおれんぞのような生き方は、実際にはむずかしいかもしれない。それどころか自分のやったことを一生引き受けていこうとするティルフォード夫人のような生き方すら困難で、そんな場面に遭遇しても口をぬぐって知らん顔をしてしまうのかもしれない。けれどもそういう生き方もありうることを知っておくことは、わたしたちを少しだけ強くする。彼らのように強くありたいと願い、そう行動する以外に、ひとは強くなることはできないのだから。

初出June 13-20 2008 改訂Feb.20 2009

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