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第二部



 3.母親



 ジョージ・ウィラードの母親、エリザベスは、長身ではあったが痩せこけていて、顔には天然痘の痕があった。まだ四十五歳だというのに、病名も定かではない不調のために、その身体は火が消えたあとの燃えがらを思わせる。ごたごたした古い旅館の中を、いかにも大儀そうに歩き回り、色あせた壁紙やぼろぼろになったカーペットに眼を走らせ、それでも調子がいいときは、汗をかいた旅回りの商人たちが休んで汚れたベッドの間を回って、客室係のメイドがやるような仕事をした。

夫のトム・ウィラードは、細身のあか抜けた男で、肩を張り、軍隊式にきびきびと歩く。黒い口ひげの両端を、いつもぴんとひねりあげ、つとめて妻のことを頭から閉め出そうとしているのだった。廊下をのろのろと歩く背の高い妻の幽霊じみた姿は、自分をなじっているかのようだ。妻のことを考えると、腹が立って、悪態のひとつも吐きたくなる。旅館は赤字続きで、もうずっと、いつ潰れるかわからないような状態が続いており、投げ出せるものなら投げ出してしまいたいのだった。この古びた旅館と、自分と一緒にそこに棲みついている女は、打ちのめされ、朽ち果てつつあるものの象徴のように思える。かつてあれほど希望に満ちて出発したここでの生活も、いまとなっては本来あるべき旅館の亡霊に過ぎない。ワインズバーグの通りを颯爽と、いかにも忙しそうに歩いているときも、旅館と女の亡霊が通りまでついてきているのではないかと怖れでもしているように、ときどき立ち止まってチラッと振り向く。そうして「クソッ、なんて毎日だ」と自棄的につぶやくのだった。

 トム・ウィラードは、町の政治に入れあげていて、共和党の勢力が強い地域で、長年、指導的な民主党員として活躍している。いつか政治的な流れも自分の方に向いてくる、そうすれば報われない奉仕活動にいそしんできた歳月も十分に評価され、報酬となって返ってくるにちがいない、と自分に言い聞かせていたのだった。いつかは連邦議員に、あわよくば知事になることまで夢に見ていた。以前、政治集会の場で、ひとりの若い党員が立ち上がって、自分がいかに献身的に尽くしてきたか自慢を始めたことがある。トム・ウィラードは怒りで顔面を蒼白にしながら、「いいかげんにしろ」とあたりをにらみつけながら怒鳴ったのだった。
「尽くす、というのがどういうことか、一体何を知っているというんだ。おまえなんぞは、ただの小僧っ子じゃないか。わたしが長年ここでやってきたことを考えてみろ。民主党員であることが罪だったころから、ここワインズバーグで党員をやってきたんだぞ。昔は銃を持った連中に追いかけられたことだってあったんだ」

 エリザベスと一人息子のジョージのあいだには、表だって口に出されることこそなかったけれど、深く通じ合う気持ちがあった。エリザベスにしてみれば、とうの昔に死に絶えた、娘時代の夢に根ざした思いが。息子がそばにいると、気が臆して口数も少なくなったけれど、新聞記者の仕事で町中を駆け回っている間は、ときどき息子の部屋に入ってドアを閉め、窓際の小さな机――元は台所のテーブルだったもの――のそばにひざまずいた。そうして祈りとも無心ともつかない一種の儀式を行うのだった。自分はもうほとんど手放してしまったけれど、かつてまぎれもなく自分自身の一部だったものが、どうか息子のなかにふたたび現れますように、それを見せてくださいますように。それが母の祈りだった。

「わたしが死ぬようなことがあっても、おまえが台無しになったりしないよう、どうにかして守ってあげるから」そう声をうわずらせると、固い決意に身を震わせるのだった。その眼はギラギラと輝き、手はきつく握られている。
「わたしが死んだあと、もし息子がわたしのようにつまらない凡人になりでもしたら、戻ってきてやる」ときっぱりと言い放った。
「神様、どうかわたしにその特別な権利をお与えください。いいえ、そうさせてもらいます。そのための報いなら受けます。拳で殴ってくださってもかまいません。わたしの子供がわたしと自分のために何か書くのをお許しくださるのなら、たとえどれほど打たれようと、お受けいたします」一瞬ためらって口を閉ざすと、母親は息子の部屋を見回した。
「それから、息子が小利口でうまく立ち回るような人間にならないようにしてください」と、心許なげに言い添えた。


 ジョージ・ウィラードと母親の結びつきは、表面的にはとりたてて言うほどのこともない、ありふれたものだった。母親の調子が悪く、部屋にこもって窓辺に腰をおろしているようなときは、夜になると様子を見に行った。母親と息子は、連なる小さな家の屋根ごしに、メイン・ストリートが見下ろせる窓辺に坐る。別の方角を向くと、もうひとつの窓からは、メインストリートに軒を並べる店の裏手の路地が見え、突き当たりにはアブナー・グロッフのパン屋の裏口があった。

そこに坐っていると、町の暮らしが織りなす絵模様が、ふたりの目の前で繰り広げられることもあった。パン屋の裏口に、棒きれか牛乳の空き瓶を手にしたアブナー・グロッフが姿をあらわす。このパン屋と、薬屋のシルヴェスター・ウェストが飼っている灰色のネコとは、もう長いこと敵対関係にあるのだった。息子と母親は、ネコがこっそりパン屋の裏口から忍び込むと、じきに飛び出してきて、パン屋が罵り声をあげながら、両手を振りまわし振り回し追いかけるのを眺めた。パン屋の目は怒りで細められ、充血し、黒い頭髪もあごひげも粉まみれだ。ときどきパン屋は怒りにまかせて、もはやそこにはいないネコに向かって、棒きれやガラスのかけらや商売道具までも投げつけた。シニング金物店の裏窓をこわしたこともあった。路地ではネコが、紙くずや壊れた瓶であふれかえる、真っ黒にハエのたかった樽のうしろに身を潜めていた。

母親はひとりでいるとき、パン屋がネコの姿もないのにいつまでも、意味もなく大声で怒鳴り散らかしているのを見たあとで、指の長い、白い両手に顔を埋め、むせび泣いたことがあった。それからは二度と路地の方を見ようとはしなくなり、パン屋とネコの諍いを、なんとか忘れようとした。その光景が、まるで自分の人生のリハーサル、恐ろしいほど鮮やかな予行演習のように思えたからだった。

 ある日の夕方、一緒に部屋に坐っていた息子と母親は、あたりがあまりに静かだったために、なんとなく気まずくなってしまっていた。暗闇が忍び寄り、夕方の汽車が駅に滑り込んだ。窓の下の通りからは歩道を行く足音が聞こえる。列車が出たあとの構内は、深い静けさに包まれた。運送屋のスキナー・リースンも、プラットフォームまで台車を押して行ってしまったのだろう。向こうのメインストリートから、男の笑い声がする。運送屋のドアがバタンと閉まった。

ジョージ・ウィラードは立ち上がって、部屋を横切ると、手探りでドアノブを探す。ドアにたどりつくまで何度も椅子にぶつかったので、床をこする音が響いた。窓のそばでは病気の母親が、いるかいないかさえわからないほど静かに、物憂げに坐っていた。指の長い手、白く血の気の失せた手が、肘掛けの端から垂れ下がっている。

「あなたも若い人たちのなかに混ざったほうがいいんじゃない? 家に居過ぎるのも考えものよ」息子が出ていくとき、決まり悪く思わないですむように、そう言った。
「ちょっと散歩してくるよ」ジョージ・ウィラードはぎこちなく答えた。

 七月のある晩、ニュー・ウィラード旅館を仮の宿としていた旅回りの客もまばらになったために、ただひとつ灯っていたケロシン・ランプの灯も弱められ、薄暗くなった廊下で、エリザベス・ウィラードは思い切った行動に出ることにした。

ここ数日、ずっと調子が悪く寝ていたのだが、息子は顔を見せに来ない。エリザベスの不安は募った。命の微かな残り火が、不安に煽られてパッと燃え上がる。ベッドを抜け出し服を着ると、いよいよ増していく怖れに身を震わせながら、廊下へ出て息子の部屋に向かった。片手を壁紙にすべらせるようにして、肩で息をしながら、なんとか身体をしっかり保とうとした。歯の間から息が漏れる。息子の部屋に急ぎながら、自分はなんと愚かなことをしているのだろう、と思った。
「若い男が気になるようなことが気になっているだけよ」そう自分に言い聞かせる。「たぶん、最近は夜になると女の子と出歩くようになったのよ」

 エリザベス・ウィラードは客に見つかるのを怖れていたが、旅館はもともと彼女の父親のもので、いまでも郡役場に登録されているのは、彼女の名前の方だった。旅館はみすぼらしいために客が減っていく一方で、エリザベス自身、みすぼらしいところだと思っていた。自室は人目につかない角部屋で、働けそうなときには進んで客室のベッドの間を行き来するのだが、好んでやるのは、その客が、ワインズバーグの商売人たちを相手に取引しに出かけている間に片づくような仕事だった。

 息子の部屋の戸口まで来ると、母親は床にひざまずいて、中の物音に耳をすます。息子が歩き回りながら低い声で話すのが聞こえてきたので、唇がほころんだ。ジョージ・ウィラードはひとりごとを言う癖があり、その声を聞いていると、奇妙な話だけれど、母親はうれしくなってくるのだった。その癖が、母親と息子の秘密の絆を強めてくれるように思う。もう何千回も、密かに自分に言い聞かせてきた。「あの子は自分を見つけようとして、手探りしてるのよ。あの子は口先だけの才走った、凡庸なうすのろじゃない。あの子のなかには、なんとかして伸びていこうとする、隠れた何かがある。わたしが自分の中でだめにしてしまった何かが」

 暗い廊下のドアの前で、病んだ母親は立ち上がって自分の部屋に戻ろうとした。ドアが開いて、息子と出くわすのはいやだった。十分に距離をおいてから、廊下の角で立ち止まると、先ほど不意に襲ってきた、身体を震わすほどの弱気を振り払おうと、手を休めて自分を奮い立たそうとした。

息子が部屋にいたと思うと、幸せが胸を浸した。長いことひとりで横になっていると、ふと兆す些細な怖れも、じき、巨大にふくれあがる。だが、いまはもうその怖れもどこかへ行ってしまった。
「部屋に戻ったら、きっと眠れるわ」うれしそうにそうつぶやいた。

 だが、エリザベス・ウィラードはベッドに戻って休むことはなかった。暗がりのなか、震えながら立っていると、息子の部屋のドアが開いて父親のトム・ウィラードが出てきたのだ。ドアから漏れる光を浴びて、父親はノブに手をかけたまま話を続けた。その内容を聞いて、母親は胸が煮えかえりそうになった。

 トム・ウィラードは息子にたいそう期待していた。これまで実際にはうまくいったことなどなかったにもかかわらず、自分を成功した人間だと考えていたのだ。いったんニュー・ウィラード旅館が視界から消え、妻と出くわす心配がなくなると、肩で風を切って歩き出し、町の中心人物であるとでもいいたげな顔をし始める。息子にはひとかどの人間になってほしかった。ワインズバーグ・イーグル紙に口を見つけて息子を押し込んだのも、父親がしたことだった。いまは熱のこもった声で、どう身を処していくか、助言しているところだ。

「ジョージ、よく聞くんだ。目を覚まさなきゃならんぞ」厳しい口調でそう言う。「そのことについちゃ、ウィル・ヘンダースンから三回も言われたぞ。おまえは何を言われても何時間も上の空の、まるっきり気のきかん娘っこみたいだ、ってな。いったい何の悩みがあるっていうんだ」そう言うと、トム・ウィラードは人が良さそうに笑ってみせた。
「まぁおまえなら大丈夫にちがいない、と思ってるぞ。ウィルにもそう言ってやったさ。うちのジョージは馬鹿者でもなければ女でもない。このトム・ウィラードの息子だし、そのうち目を覚ます、ってな。心配なんぞしとらんさ。おまえがひとこと言いさえしたら、ものごとははっきりするんだ。新聞記者をやっているうち、こんどは作家になりたくなったっていうんなら、それはそれで結構。ただそうするにしても、目だけはしっかりと覚ましておかなきゃな、そうだろう?」

 トム・ウィラードは大股で廊下を歩き、階段をおりて事務所に向かった。暗がりにたたずむ妻の耳に、客のひとりと談笑する声が聞こえる。相手は事務所の戸口脇の椅子に坐ってまどろみながら、気怠い夕べのひとときをなんとかやりすごそうとしている男だ。母親は息子の部屋にきびすを返す。その身体からは、先ほどまでの弱々しさが魔法のように消え失せ、きっぱりとした足取りになっていた。いく千もの考えが頭の中を駆けめぐる。だが、部屋の中から聞こえてくる椅子を引く音や紙にペンを走らせる音を耳にすると、また自分の部屋に戻っていったのだった。

ワインズバーグで旅館を経営する男の細君の胸には、固い決意が生まれていた。長年、密かに、役にも立たない物思いを続けたあげく、生まれた決意だ。
「いまこそわたしが動かなくちゃ。わたしの子を脅かそうとしているものを、わたしが追い払ってやるのだわ」

トム・ウィラードと息子の会話は、ごくおだやかで自然なもので、ふたりの間に一種の理解があるようなのが、エリザベスを苛立たせていた。夫を厭うようになってから何年にもなるけれど、その嫌悪感というのはこれまでのところ、一切感情とは無縁のものだった。夫は、自分が憎んでいるものとは無関係の存在に過ぎなかったのだ。ところがドアのところでほんの二言、三言話しているのを聞いたために、夫こそ自分が憎むものを体現する存在になってしまっていた。暗い自室で両手を握りしめ、あたりを見回す。壁の釘にひっかけた布袋を取って、中から大きな裁ちばさみを出すと、短剣のように構えた。
「あの人を止めなくちゃ」声に出してそう言った。「あの人が悪魔の声となることを選んだんだから、わたしがあの人の片をつけなくては。殺したりしたら、わたしの中のものも切れてしまって、そのまま死んでしまうんだろうけれど。だけどわたしたちはみんな、それで救われるのだわ」

 娘時代、トム・ウィラードと結婚する前のエリザベスの評判は、ワインズバーグではいささか危ういものだった。何年も、いわゆる「芝居狂い」を続ける一方で、父親の旅館に泊まっている旅回りの商人たちと連れだって歩いてみたり、派手な服を着てみたり、泊まり客が通ってきた都会の話をしてくれるようねだったり。男物の服を着て、メインストリートで自転車を乗り回し、町中をぎょっとさせたこともあった。

 当時、長身で濃い色の髪をした娘の胸の内は、混乱しきった状態にあったのだ。気持ちは絶えず揺れていて、それがふたつの表れ方をした。ひとつには変化を、自分の人生を決定的に動かすような何かを、不安混じりに待ちわびる気持ちだった。この思いは、舞台へと向かった。どこかの劇団に入って世間を回り、いろんな人々に会って、自分の内からわき上がってくるものを与えたい、と夢を見た。ときどき自分の思いつきに夢中になったエリザベスは、夜になって、父親の旅館に泊まっているワインズバーグに巡回中の劇団員に話そうとしてみたが、結局はどうにもならなかった。エリザベスが言おうとすることなど、わかろうともしなかったし、たとえ自分の情熱をなんとか言葉にすることができたときでも、座員たちは笑うだけなのだった。
「そんなもんじゃないよ」と彼らは言った。「退屈でおもしろくないのは、ここにいるのといっしょだよ。なんにもなりはしないさ」

 旅回りの商人たちと歩くときは、そうしてのちにトム・ウィラードと歩くときも、これとはまったくちがった。いつでも彼らは、よくわかる、ほんとうにそうだよ、と言ってくれた。町の横町や木陰の暗がりで、彼らはエリザベスの手を取る。そうすると内側にある言葉にできないものがあふれ出し、彼らの内にある言葉にされないものの一部になっていくような気がするのだった。

 揺れ動く思いがもうひとつの表れ方をするのはこのときだ。その思いがあふれ出してくると、しばらくの間は救われたように感じ、幸せでいられた。一緒に出歩いた人間のだれも責めようとは思わなかったし、のちのトム・ウィラードも責める気にはなれなかった。いつもまったく同じ、キスで始まり、奇妙で激しい感情が堰を切ったようにあふれ出したあと、穏やかに終わり、後悔してすすり泣く。すすり泣きながら、手で相手の男の顔にふれ、いつも同じ思いにとらわれるのだった。相手が大きく、ひげ面の男であっても、急に小さな男の子になったような気がする。なぜこの人は一緒に泣いていないのだろう、と不思議に思うのだった。

 古ぼけたウィラード旅館の隅に押し込まれたような自分の部屋で、エリザベス・ウィラードはランプの灯りをともし、ドアの傍らの鏡台に置いた。ふと思いついて、クロゼットに行き、小さな四角い箱を取り出してこれも鏡台に載せる。箱の中には化粧道具が入っていて、これはワインズバーグで二進も三進もいかなくなった劇団が、ほかの道具と一緒に置いていったものだった。きれいになっておこう、と思ったのだ。髪の毛はまだ黒々と豊かで、三つ編みにして頭に巻きつけていた。階下の事務所で繰り広げられるであろう情景が、脳裏に徐々に鮮明になってくる。トム・ウィラードと向かい合うのに、幽霊じみ、くたびれはてた姿ではいけない、思いもよらないほどの、息を呑むほどの姿でなくては。長身で、高い頬骨が頬に影を落とし、豊かな髪が背中に波打つ、そんな姿が事務所でぼんやりと時間を過ごしている連中の前を、颯爽と行き過ぎていかなければ。静かなまま――素早く、残酷に。仔が危機に瀕しているときに現れる牝虎のように、物陰から音もなく、禍々しい大鋏を構えて登場するのだ。

 喉の奥でとぎれとぎれの嗚咽をもらしながら、エリザベス・ウィラードは鏡台の灯を吹き消すと、闇の中でがくがくと身を震わせながら立っていた。先ほどまで魔法のように身体にみなぎっていた力もいまは失せ、なかば倒れ込むようにして部屋を横切って椅子の背をつかんだ。自分が長い年月の間、トタン屋根ごしに、ワインズバーグのメインストリートを眺めたその椅子だ。足音が廊下に響き、ジョージ・ウィラードがドアを開けて入ってきた。母親の傍らに腰をおろすと話し始めた。
「家を出ようと思うんだ。どこへ行くか、わからないし、何をするかもわからないんだけど、とにかくどこかへ行かなくちゃ」

 椅子に坐っていた母親はしばらく黙ったまま震えていたが、つきあげる衝動に耐えかねたように言った。
「眼をさますのよ。まさかこんなこと、考えてるんじゃないの? 都会へ出てお金を稼ごう、みたいな。実業家にでもなって、見てくれが良くて気の利いた、楽しげな生活がしたい、なんていうことを」そういうと、身をわななかせながら、返事を待った。

 ジョージは首を横に振った。「母さんにわかるようにうまくは言えないんだけど、だけど、ほんと、わかってほしいんだよ」真剣な面もちで言葉を継いだ。「父さんにはこんな話をするのさえ、ムリだからね。試してみる気にもならないけど。意味ないから。何をしたらいいか、わからないんだ。とにかく家を出て、人間を見て、考えてみたいんだ」

 静かな部屋の中に母親と息子は坐っていた。これまで何度もこんな夜を過ごしたように、ふたりは居心地の悪い思いをしていた。やがてふたたび息子はぽつぽつと話し始めた。
「一年や二年はここにいなきゃいけないだろうけど、ずっとそう思ってたんだ」そう言うと、立ち上がってドアの方へ歩き出した。「父さんが話してるのを聞いて、ここにいちゃいけない、って思ったんだ」ドアノブを手さぐりする。部屋のなかの静けさが、母親には耐え難いものに思えてくる。息子の口から出た言葉がうれしくて、大声で叫びたい。だが、喜びを表すことなどもうとっくにできなくなってしまっていた。
「おまえもほかの男の子たちと一緒に出歩いた方がいいよ。家のなかにばっかりいるじゃないか」と母親は言った。
「散歩でもしてこようと思ってたんだ」息子はそう答えると、ぎこちなく部屋を出て、ドアを閉めた。




 4. 哲学者



 パーシヴァル医師は、金色のひげがかぶさった口がだらしなく開いた大男だった。いつも着ている白いチョッキは薄汚れ、ポケットからはつっこんだ黒い安葉巻が何本も頭をのぞかせている。乱杭歯は虫歯だらけ、いささか奇妙な眼をしていた。左のまぶたが痙攣していて、急にばたっと落ちたかと思うと、またパチンと開く。窓の日よけそっくりで、まるで医者の頭の中にいるだれかがいたずらしてひもを引っ張っているみたいだった。

 パーシヴァル医師は、ジョージ・ウィラード青年が気に入っていた。ジョージがワインズバーグ・イーグル紙で働くようになって一年たったころ、ふたりのつきあいは始まったのだが、それも一方的に医師のほうがはたらきかけたからだった。

 その日の午後遅く、イーグル紙の経営者兼編集長、ウィル・ヘンダースンは、トム・ウィリィの酒場に出かけていった。路地を抜け、裏口から酒場へ滑り込み、ジンのソーダ割りを飲み始める。ウィル・ヘンダースンは漁色家で、四十五歳になっており、ジンには若返りの効用があるのではないかと思っていたのだ。漁色家にありがちなことだが、彼も女の話が好きで、一時間もトム・ウィリィを相手にゴシップをだらだら話し続けた。酒場の主人は背の低い、肩幅の広い男で、両手に際だった特徴がある。中には顔に赤く塗ったようなあざがある人もいるが、トム・ウィリィには指と両手の甲にあるのだった。カウンターに立って、ウィル・ヘンダースンと話しながらも、トムは両手をしきりにこすり合わせる。話に夢中になればなるほど、その赤みも強くなるのだった。まるで血の中に浸した両手が、乾いて色あせてきたようにも見えた。

 ウィル・ヘンダースンがカウンターにもたれて、赤い手を見ながら女の話をしているちょうどそのとき、助手のジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル紙の編集室で、パーシヴァル医師の話を聞いていた。

 ウィル・ヘンダースンが姿を消すやいなや、パーシヴァル医師が現れたのだ。まるで診療所の窓から、編集長が路地を抜けるのをずっと監視していたのではないか、と思うほどだった。表のドアから入ってくると、椅子を見つけて自分から腰をおろし、安葉巻に火をつけて脚を組み、やおら話しを始める。君はひととおりの処世術を身につけなきゃいけないぞ、と青年を熱心に説得するのだが、その処世術たるや自分自身、きちんと定義づけることもできないものだった。

「ちゃんと自分の目を持っている人間なら、おれが自分で医者だと言ってても、患者なんてほとんどいやしないことを知っているはずだ」とまず切り出した。「それにはわけがある。偶然じゃないし、おれの医学の知識なんて、ここの連中と似たり寄ったり、たいしてあるわけじゃないんだが、それが理由でもないんだ。理由ってのは、おれが患者を来させないようにしているからだ。もちろん表になんて、出しはしない。実はおれの性格なのさ。おれの性格、っていうやつは、考えてみりゃ奇妙なところがいっぱいある。どうしてこんな話を君に始めたんだろう。黙ってれば、君もおれを信用してくれただろうに。君に尊敬してもらいたいんだ。ほんとだ。なんでだか、わからないんだが。だからこうやって話してるんだ。考えてみりゃ、おかしいことだよな?」

 医者はときどき、延々と自分の話をすることがあった。話のどれもが、ジョージ・ウィラードには、実際に起こった、意味深いものであるように思える。しだいにこの太った薄汚い男に引かれるようになり、午後になってウィル・ヘンダースンが出ていったあとで、医者がやってくるのを楽しみにするようになったのだった。

 パーシヴァル医師がワインズバーグにやってきたのは、五年前だった。シカゴから汽車に乗って、ここに着いたときは酔っぱらっており、さっそく手荷物係のアルバート・ロングワースと喧嘩を始めたのだった。原因はトランクがどうのこうのということで、医者が町の留置場に連行されて片がついた。釈放されると、メイン・ストリートの南側にある靴修理店の二階に部屋を借り、診療所の看板を出した。患者はほとんど来ず、来たとしても支払いもできないような、ひどく貧乏な連中ばかりだったのだが、彼の方は必要な金には困らない様子だった。夜は診察室で寝ていたが、そこはお話にならないほどの汚さで、食事は駅の反対側にある小さな木造の建物、ビフ・カーター食堂ですませていた。その食堂は夏になるとハエがいっぱい飛び回り、ビフ・カーターの白いエプロンは、床よりさらに汚い。パーシヴァル医師は一向に気にする様子もなかったが。すたすたと店に入ってくると、医者は20セントをカウンターに置いて、「なんでもいいから、この金で食わせてくれ」と言って笑った。「客に出せないような食い物を使い切っちまえばいいさ。おれにとっちゃ、なんだって一緒なんだ。おれのような一流人士にでもなると、何を食うかなんてことは、気にもならなくなるのさ」

 パーシヴァル医師がジョージ・ウィラードにする話は、どこが始まりということもなく、終わりというところもなかった。みんな作り話、嘘八百だと思うこともあったが、考え直して 、確かに真実のエッセンスのようなものがこめられている、とも思うのだった。

「おれはいまの君と同じように記者だったことがある」パーシヴァル医師は話し始めた。
「アイオワ、いや、イリノイだったかな、とにかくよく覚えちゃいないんだが、まぁどっちだっていい。もしかしたらおれは身元を隠そうとして、はっきりしたことが言いたくないのかもしれないぞ? 君はいままでオレのことを変なやつだと思ったことはないかね?何の仕事もしていないのに、必要な金は持ってるっていうのを、変だと思ったことはないか?」

「ここに来る前に、大金を盗んだのかもしれないし、人殺しに関わってるのかもしれない。そう疑うだけの根拠はあると思わないか? もし君が、ほんとうに頭の切れる記者だったら、おれのことを調べてみる気になるだろうな。シカゴでクローニンという医者が殺された事件があったな。聞いたことはないかい? 数人が医者を殺し、トランクに隠したんだ。朝早いうちにそのトランクを市街地から運び出した。それを急行便の荷馬車のうしろに積んで、連中は素知らぬ顔で運転席に座ってたんだ。みんながまだ寝ている静かな通りを抜けていった。そこへ太陽が湖からのぼったんだ。おかしいだろう? 考えてみろよ、荷馬車を走らせながら連中が、何食わぬ顔で、いまのおれと同じようにパイプをふかしたり、おしゃべりしてるところを。もしかしたらおれも連中のひとりだったのかもしれないな。もしそうだとしたら、話はずいぶん妙なものになってくるな。そうじゃないか?」
またパーシヴァルの話は、自分の身の上に戻っていく。
「まぁとにかく、そこにいるころ、おれもいまの君と同じように新聞記者だったんだ。走り回って、記事になるようなちっぽけな話を集めていたのさ。おれのおふくろもやっぱり貧乏で、洗濯物を引き受けていたんだ。おふくろの夢は、おれを長老派教会の牧師にすることで、おれもそれを目指して、せっせと勉強してたのさ。

「おやじは何年も前から頭がおかしくなっていた。オハイオ州デイトンの精神病院に入ってたんだ。おっと、うっかり口を滑らせてしまったな。これは実はなにもかもオハイオ、このオハイオでの話なのさ。おれのことを調べるつもりなら、これはおれという人間を組み立てるためのひとつの手がかりだな」

「兄貴のことを話さなくちゃな。いままでの話も全部、そのためだったんだ。それを言おうと思ってたんだ。兄貴は鉄道関係の塗装が専門で、ビッグ・フォー鉄道に勤めていた。このオハイオ州を走っている鉄道さ。ほかの男たちと一緒に、貨車に寝泊まりしちゃ、町から町へ、転轍機とか、遮断機とか、橋や駅なんかの鉄道の施設にペンキを塗りに移動していた。

「ビッグ・フォーは駅を気色の悪いオレンジに塗るんだ。まったくゾッとするような色さ。兄貴はいつもそのオレンジまみれになってたな。給料日には飲んだくれて、ペンキだらけの服のまま、金を持って家に帰ってきたもんだ。おふくろに渡すんじゃなくて、台所のテーブルに山を作っとくんだ。

「あの気色の悪いオレンジのペンキまみれの服で、家の中をうろうろとしてたな。いまでも目に浮かぶよ。おふくろの小さい目は、いつも充血して涙目になってたんだが、そのおふくろが裏の小屋から家に入ってくる。そこで他人の汚れ物を、たらいにかがんでごしごし洗ってたのさ。家に入ってきたおふくろは、テーブルのそばに立って、石けん染みだらけのエプロンで、目をこする。

「『さわるんじゃねえ! 金に指一本、ふれるんじゃねえぞ』って、兄貴は怒鳴るんだ。それから、自分で五ドルか十ドル取って、大股で飲み屋に行ってしまうんだ。自分が持ってった金をみんな使っちまうと、また取りに帰ってくる。おふくろにはびた一文わたさずに、ちょっとずつちょっとずつ持ち出していって、結局全部使い果たしてしまうまで、家にいた。それから仕事に戻って、ほかの連中といっしょに、また鉄道のペンキ塗りを始めるのさ。行ってしまうと、家にいろんなものが届くようになる。食い物とか、そんなものさ。ときにはおふくろの服や、おれの靴がとどいたこともあったなぁ。

「おかしな話だろ? おふくろはおれなんかより兄貴の方をずっと大切にしていた。兄貴はおれにもおふくろにも、優しい言葉のひとつもかけたりはしなかったし、おれたちが三日も置きっぱなしの金をちょっとでもいじろうもんなら、いつだって怒鳴り散らすわ、脅かすわ、で、大変だったんだ。

「なんのかんの言っても、うまくいっていた。おれは牧師になるために、勉強したり祈ったりしていた。まったくアホらしくなるほど祈祷の文句を口にしていたもんだ。聞かせてやりたかったなぁ。おやじが死んだときも、おれは一晩中祈った。ちょうど兄貴が町で飲んだくれたり、おふくろやおれのものを買ってくれたりしたときみたいに。晩飯が終わったら、金がのっかってるテーブルのわきに膝まずいて、何時間も祈った。だれも見てないときは、一ドルか二ドル、かっぱらってポケットに入れたりもした。いま考えりゃお笑いぐさだが、その当時はとんでもないことだと思ってたさ。いつだって忘れたことはなかった。おれは新聞社で働いて、週に六ドル稼いでだが、いつもそっくり持って帰って母親に渡していた。兄貴の金の山からくすねたはした金は、自分のために使ったが、買ったのはつまらないものさ、菓子だとか、タバコだとか、そんなものだ。

「おやじがデイトンの精神病院で死んだときは、おれがそこに行った。社長から金を借りて、夜汽車で行ったんだ。雨が降っていた。精神病院では、おれのことを王様みたいに扱ってくれたよ。

「そこで働いてるやつらは、おれが新聞記者だって知ってたんだ。だからびびりまくってた。おやじが病気になったのは、職務怠慢だか不注意だか、何か原因があったんだ。おそらくおれが新聞にそのことを書くんじゃないか、って思ったわけさ。そんなつもりは、毛ほどもなかったんだがな。

「ともかく、おれはおやじの遺体がある部屋に入っていって、亡骸に祝福を与えた。なんでそんなことを思いついたのか、自分でもよくわからん。まぁペンキ屋の兄貴でも、笑おうと思ったりはしなかっただろうがな。おれは遺体を見下ろして、両手を広げた。院長や職員がやってきて、羊みたいにビクつきながらつっ立ってたっけ。お笑いぐささ。おれは両手をひろげて『この死者に祝福あれ』と言った。それがおれが唱えた文句さ」

 はじかれたように立ち上がって話を打ち切ると、パーシヴァル医師はワインズバーグ・イーグル紙の編集室、ジョージ・ウィラードが坐って聞いている部屋の中を、行ったり来たりし始めた。医者の動きは不器用で、しかも編集室は狭かったために、たえずいろんなものにぶつかった。「こんな話をしたりして、おれもバカだよな。ここに来て、なんとか君と知り合いになろうとしたのは、こんな話をするためじゃなかったんだ。ほかのことを考えてたんだ。君は以前のおれと同じ記者だから、君のことが気になったのさ。結局はほかのやつらとおんなじバカで一生を終わるかもしれない、と思ったんだ。だからそうならないように警告するし、これからもし続ける。君を見つけたのも、そのためだ」

 パーシヴァル医師は、ジョージ・ウィラードの人に相対するときの態度について話し始めた。このひとは、たったひとつのことしか頭にないのかもしれない、とジョージ・ウィラードは思う。ぼくに、人間はみんな卑しいのだ、と思わせたいんだ。
「君がひとかどの人間になれるよう、胸を憎しみと軽蔑でいっぱいにしてやりたいな」とさえ、言ってのけた。「おれの兄貴を見てみろ。まったくたいしたタマだぜ、ええ? あいつはみんなを憎んでいた。どれほど馬鹿にしきった目つきで、おれやおふくろを見ていたか、君には見当もつかんだろうな。なら、兄貴は、おれやおふくろより偉くなかったか? 君だったらわかるだろう、実際に偉かったんだよ。兄貴には会ったことがなくても、おれの話を聞いたら、その感じもわかるだろう。それをわかってほしかったんだ。兄貴は死んだ。酔っぱらって線路に寝っ転がっているところを、貨車に轢かれて死んだ。ほら、兄貴やほかの仲間たちが寝泊まりしていたあの貨車さ」


 八月のある日、パーシヴァル医師はワインズバーグで予期せぬ出来事に遭遇する羽目になった。このひと月、ジョージ・ウィラードは、毎朝一時間、診療所で過ごすようになっていた。医者のほうが、ぜひ来てくれ、書きかけの小説を読んでほしい、と言い出したからだった。この本を書くために自分はワインズバーグに来て生活するようになったんだ、とまで、言い切ったのだった。

 八月のその朝、ウィラードがやってくる前に、診療所ではひと騒動あった。まず、メインストリートで事故が起きた。馬車を牽いていた馬の群れが汽車に驚いて暴走した。そうして小さな女の子、百姓の娘が馬車から放り出されて死んだのだ。

 メインストリートにいた人々はみな動転し、医者を呼んでこい、という怒鳴り声があがった。町の開業医が三人、すぐにやってきたが、子供はすでに息がなかった。ひとだかりの中、ひとりがパーシヴァル医師の下に走ったのだが、医者のほうは、死んだ子供を見に、診療所を空けることはできない、とにべもなく断った。医者がその必要もないのに無慈悲に断ったことは、だれにも知らされないままうやむやになってしまった。それどころか、医者を呼びに階段を上がって来た人間は、断りの返事を聞く前に、あわてふためいて引き上げていったのである。

 ジョージ・ウィラードが診療所に入っていくと、事情をまったく知らないパーシヴァル医師は、恐慌を来してがたがたと震えていた。「おれが行くのを断ったもんだから、町の奴ら、怒鳴り込んでくるにちがいない」興奮した医者は言い張った。「おれが人間の本性を知らないとでも思うのか? 人間がどうなるかってことも。おれが断ったのは、噂になるだろう。そのうちみんなが集まって、その話をするようになる。そうして、みんな、ここに来るだろう。言い争いになって、おれを吊してしまおう、と言い出す。つぎにここに来るときは、ロープを持って来るんだ」

 パーシヴァル医師は恐怖におののいていた。「胸騒ぎがするんだ」激しい調子で言った。「おれが言ったようなことは、午前中にはまだ起こらんかもしれん。夜まではもつかもしれん。だがいずれは縛り首になるんだ。みんな喜ぶだろうな。メインストリートの街灯に、おれは吊されるんだ」

 汚らしい診療所のドアまで行くと、パーシヴァル医師は通りに通じる階段を、おそるおそるのぞきこんだ。 戻ってきた医師の目には、先ほどまであった恐怖に替わって、いぶかるような色が浮かんでいる。つま先だって部屋を横切り、ジョージ・ウィラードの肩をぽん、と叩いた。「まぁ、いますぐじゃなくても、いつかは、だ」と、頭をふりながら囁き声で言う。「最後にはおれは磔にされるのさ。意味なんかまるでない磔に」

 パーシヴァル医師はジョージ・ウィラードに哀願するような口調になった。「おれが言うことをよく聞かなくちゃならん」まるでかき口説くように続けた。「もし何かあっても、おれが書けなかった本を、君なら書いてくれるよな。言いたいことは簡単なことなんだ。あんまり簡単すぎて、しっかり気をつけてなければ、忘れてしまいかねない。つまり、この世の人間は、だれもがみなキリストで、みんな磔にされるんだよ。それがおれが言いたいことだ。忘れるんじゃないぞ。何が起ころうと、絶対に忘れてはいけないことなんだ」




5. 誰も知らない



 用心深くあたりを見まわすと、ジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル紙の編集部のデスクを離れ、急ぎ足で裏口から外へ出た。暖かく曇った夜で、八時にもならないというのに、新聞社の裏手の路地は真っ暗だった。どこかの杭につながれているらしい馬の群れが、闇の中、固い地面を踏むコツコツという音が聞こえる。足下から飛び出したネコが、闇の中へ消えていった。ジョージ・ウィラードは神経質になっていた。一日中、頭を一発殴られてぼーっとしたかのような仕事ぶりだったのだ。路地に入ると、怯えでもしたかのように、身体がぶるぶるっと震えた。

 ジョージ・ウィラードは暗い路地を、注意深く、慎重に歩いていた。ワインズバーグのどの店も、裏のドアが開いており、人々が店の明かりを背に座っているのが見えた。マイヤーボウム雑貨店では、酒場のおかみ、ミセス・ウィリィが買い物かごをさげて、カウンターの近くに立っていた。対応しているのは店員のシド・グリーンで、カウンターに身を乗り出して、何か一生懸命に話をしている。

 ジョージ・ウィラードは身体をかがめると、裏口から外へ伸びる明かりの帯を飛び越えた。闇の中を走り出す。エド・グリフィスの酒場の裏で、町一番の飲んだくれ、ジェリー・バードじいさんが地べたに寝っ転がっていた。投げ出した両足に、走ってきたウィラードがつまずくと、じいさんは、は、は、は、ととぎれとぎれに笑った。

 ジョージ・ウィラードは思い切ったことをやろうとしていた。一日中、なんとかその冒険をやりぬく決意を固めようとしてきて、ついに足を踏み出したのだ。ワインズバーグ・イーグル紙の編集室で、なんとか考えをまとめようとしながら、六時からずっと坐っていた。

 決心がついたわけではない。ただ、立ち上がって、印刷室で校正をしていたウィル・ヘンダースンの横を急いで通り過ぎ、路地を駆けてきたのだ。

 すれちがう人々を避けながら、通りをつぎつぎと抜けて行く。道を何度も横切った。街灯の下を通るときは、帽子を目深にかぶった。考えるだけの勇気も湧いてこない。頭の中にあるのは、怖れ、それも、これまで知らなかった類の怖れだった。この冒険がうまくいかなかったらどうしよう、怖じ気づいて、引き返すようなことにでもなったらどうしたらいいだろう、と思うだけだった。

 ルイーズ・トラニアンが父親の家の台所にいるのが見えた。ケロシンランプの灯で、皿を洗っている。家の裏手、建て増しでもしたように張り出した台所のスクリーンドアの向こうにルイーズは立っていた。ジョージ・ウィラードは柵のところで立ち止まり、身体の震えを鎮めようとした。自分と冒険を隔てているのは、ちっぽけなジャガイモ畑だけだ。呼ぶ勇気を奮い起こすまで、たっぷり五分かかった。
「ルイーズ! ルイーズったら!」
声が喉にひっかかる。かすれた囁き声にしかならない。

 ルイーズ・トラニアンは片手にふきんを持ったまま、ジャガイモ畑を横切ってやってきた。「あたしがあんたとデートしたいだなんて、なんでそんなこと思ったのよ」つっけんどんにそういう。「なんでそんなこと思ったわけ?」
 ジョージ・ウィラードは返事をしなかった。黙ったままふたりは柵を挟んで、闇の中に立つ。
「行きなよ。父さんが中にいる。あとで行くから。ウィリアムズの納屋で待っててよ」


 この新米記者は、ルイーズ・トラニアンから手紙をもらったのだ。手紙は朝、ワインズバーグ・イーグル社に届いた。ごく短い手紙は「つきあいたいんだったらいいわよ」とある。だから、暗い柵のところで彼女が見せた態度には、すっかり面食らってしまった。 「ずうずうしい女だなぁ。まったくなんてやつだ」ぶつぶついいながら、通りを歩いて、トウモロコシが植わった空き地が続く一帯を通り過ぎた。とうもろこしは肩のあたりまで伸びていて、歩道ぎりぎりまで植えてある。

 家の玄関から出てきたルイーズ・トラニアンの格好は、皿を洗っていたときに着ていたギンガムチェックの服のまま、帽子はかぶっていなかった。ドアノブに手をかけたまま、中にいるだれか――ジェイク・トラニアンじいさん以外にありえないが――と話している姿がよく見えた。ジェイク爺さんは耳が遠かったので、ルイーズも怒鳴っている。ドアがしまると、狭い横町は闇に閉ざされて静かになった。身体の震えはいっそうひどくなる。

 ウィリアムズの納屋の暗がりに、ジョージとルイーズは、口もきけないままつっ立っていた。ルイーズはとくに顔立ちが良いというわけでもなく、しかも鼻の横には黒いすすがついている。深鍋をどうにかしたあとに、鼻をこすったんだな、とジョージは思った。

 ジョージは神経質に笑い出した。「今日はあったかいよね」この手でルイーズに触れてみたい。度胸がないな、と思った。汚れたギンガムのひだにさわってみるだけでも、とびきりいい気持ちがするにちがいない。ところがルイーズは、はぐらかすようなことを言い出した。「あんた、自分はあたしなんかより上等だ、くらいに思ってるんでしょ。言わなくたってわかるんだから」そう言いながら、身を寄せてきた。

 ジョージ・ウィラードの口から、堰を切ったように言葉があふれだした。通りで会ったとき、ルイーズの目の奥に潜んでいた色を思い出し、それから寄越してきた手紙を思い出した。疑念が消えた。ルイーズをめぐって取りざたされる町の噂を考えると、自信が湧いてくる。ジョージは大胆で攻撃的な、まったくの男になった。ルイーズに対する思いやりなど、どこにもなかった。「こっちへこいよ。大丈夫だよ。誰にもわかりっこないさ。知りようがないんだから」と、かき口説いた。

 ふたりは幅の狭い煉瓦の舗道を歩いていった。煉瓦の隙間から、丈の高い草が伸びている。煉瓦がはげてしまったところもあって、道は荒れてガタガタだった。ルイーズの手を取ると、その手もやはり荒れていたが、うれしくなるほど小さな手だった。「遠くには行けないもの」静かな落ち着いた声でルイーズは言った。

 小川にかかった橋をわたって、トウモロコシが植えてある別の空き地の前をすぎた。そこで町の通りが終わって、舗道が細い道になった。道沿いにウィル・オバートンのイチゴ畑が広がり、板が山積みになっている。「ウィルはいちごの箱をいれておく小屋を、ここに建てるつもりなんだ」ジョージはそう言うと、ふたりで板の上に腰をおろした。



 ジョージ・ウィラードがメインストリートに戻ってきたのは、十時を過ぎていて、雨が降り始めていた。三度、メインストリートを端から端まで行ったり来たりした。シルヴェスター・ウェストのドラッグストアがまだ開いていたので、なかへ入って葉巻を一本買った。店員のショーティ・クランドールが出口まで送ってくれたので、いい気分になった。日除けの下で雨を避けながら、ふたりは五分ほど立ち話をした。ジョージ・ウィラードは、満ち足りた気分だった。とにかくだれかと話したかったのだ。町角を曲がって、ニュー・ウィラード旅館へと歩を進めながら、低く口笛を吹いた。

 ウィニー洋品店の前の歩道は、高い板塀が立っていて、サーカスのポスターがべたべた貼ってある。口笛をやめて、暗がりの中、自分を呼ぶ声に耳を澄ますかのように、じっと動かずに立った。やがて、もういちど神経質な笑い声をあげた。
「文句を言われるようなことをしたわけじゃない。だれにもわかりゃしないさ」
意固地になってそうつぶやくと、家に向かった。





初出Oct,8-18 改訂Oct.22





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