home この話したっけ>望遠鏡的博愛


望遠鏡的博愛

「聖書の中に記されている最も恵み深いお言葉は
―貧しき者、常に汝らと共にあり―というのでありまして、
貧しき者がこの世にあるのは我々をして
常に慈善を行わしめんとする神のご意志なのであります」ですって!
これじゃあ、まるで貧乏人は役に立つ家畜同様ではございませんか!
ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』

アフリカ

1.野生動物と飢えた子供の大陸?

アフリカのことを初めて聞いたのはいつだったろう。
『おさるのジョージ』や『ジャングル大帝』、『ドリトル先生アフリカゆき』、そういう“野生の王国”というイメージは、ずいぶん小さい頃から抱いていたような気がする。

小学校にあがって、シュバイツアー博士や野口英世の話を教わった。「未開の地」の「原住民」を献身的に助ける立派な人。アフリカの子供たちの写真やスライドを見せられたのは、そのときだったのだろうか。
自分と同じ年頃の子供たち。だがわたしたちとちがうのは、膚の色ばかりではない。頭蓋骨に皮膚が張り付いたような顔には目ばかりが白々と目立ち、枯れ枝のような手足はいまにも折れそう。そのくせおなかだけがまるで風船のようにふくらんでいて、それが太っているのではなく「栄養失調」のせいだと聞かされた。パンもミルクもなく、写真でもはっきりわかるほどに蠅がたかり、衛生状態はきわめて悪い。たまたまその子たちがアフリカに生まれ、自分が日本に生まれたというだけなのに。
わたしたちは、アフリカの飢えた子供たちに心を痛め、自分に与えられているものに感謝し、残した給食を後ろめたく思い、次の日、母親から出してもらった百円玉を募金箱に入れたはずだ。

以来、アフリカというと、「飢えた子供たち」、そうして彼らを救うために募金を、というのがひとつの思考パターンになってしまった。だが、アフリカには飢えた子供たちとサバンナの動物しかいないわけではない。高層ビルもあるし、ビジネス街もある。アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』に描かれるアフリカは、ことのほか美しい。気候もさまざま、宗教も、民族も異なる巨大な大陸に対して、わたしたちの見方はあまりに偏っている。

わたしたちの頭に抜きがたくある“アフリカ=飢えた子供たち=募金を”という図式、これはほんとうに正しいのだろうか。このことを、ポール・セローがニューヨーク・タイムズに寄稿した記事をもとに考えてみたい。

ポール・セローはアメリカの作家で、二十代のころ平和部隊に志願し、マラウィに派遣されて数年間の教師生活を送っている。当時のようすは、いくつかの短編や『わが秘めたる人生』にも記されている。そのセローが、チャリティ活動に精を出すボノに対して、手厳しい批判を投げかけているのだ。

原文はhttp://www.nytimes.com/2005/12/15/opinion/15theroux.html# で読むことができます。





ロック・スターの重荷(The Rock Star's Burden)


by ポール・セロー


 おそらく世の中にはもっと不愉快な話だってあるのだろうが、私にとっては、カウボーイ・ハットをかぶったアイルランド人の金持ちロック・スターがアフリカ情勢について能書きを垂れること以上に気分の悪いものはない。クリスマスということでお涙頂戴の話にはもってこいだ、さしずめ私がスクルージなら、ポール・ヒューソン――彼は自分のことは“ボノ”と称しているらしいが――の、同じくディケンズの小説における役どころは『荒涼館』におけるミセス・ジェリビーだろう。入植地「ニジェール川左岸」のボリオブーラ=ガー村のことをのべつまくなしに言い立てるジェリビー夫人は、コーヒー栽培のために出資し、「ピアノの脚の製造法を教え、それによって輸出を確立する」(※注)計画を立案し、その一方で、人々に金を出させて、なんとかアフリカを救おうとしているのだ。

アフリカの運命は、どうやらステージでの無駄話の種、おおっぴらな意思表示の手段になってしまったらしい。だが、アフリカは致命的な状態で、外部からの援助――有名人のそれやチャリティ・コンサートは言うまでもなく――しかアフリカを救えない、というイメージは、事実を歪曲しているし、思い上がりを招きかねないものでもある。四十年以上前のことだが、私たちは平和部隊の教師として、マラウィの農村部に赴いた。同地を再訪したり、ニュースに接するたび、マラウィが近年、干ばつに見舞われるなど、非常に不幸な状態に置かれていることに胸を痛めている。だがなによりも信じがたい思いに襲われるのが、その解決案とされるものだ。

何も私は人道的支援や災害救助、エイズに関する啓蒙活動や、薬を安く提供していくことなどを指しているのではない。あるいは、「マラウィ子供村」のような、小規模ではあるがしっかりした監視活動にも異論はない。私が言いたいのは「もっと金を」主義、アフリカに必要なのは、いま以上の名声を利用したプロジェクトや、ボランティアによる労働、債務免除である、という考え方についてなのだ。そろそろ私たちももっと分別を持ってもいいころだ。献金に対して一ドル残らずの会計報告が出されないかぎり、私は自分の個人資産を募金や政府援助に当てるつもりはない――実際には報告など出されたためしがないのだが。これまで通りの方法を続けて、これ以上多量の金をドブに捨てることは単に無駄だというだけではなく、有害でもあるのだ。さらには、いくつかの明らかな点を無視している。

私がマラウィで働いていた60年代初頭より、教育状態が低下し、疫病が蔓延し、公共サーヴィスが悪化しているのが事実なら、その原因は外部からの援助や献金が不足しているためではない。マラウィは長年に渡って、何千人もの外国人教師や医師や看護師、巨額の経済支援を受け入れてきた。にもかかわらず、将来の展望のある国から破綻国家に転落したのである。

六十年代半ば、私たちは近い将来、マラウィ国内で教師の需要は満たすことができると考えていた。事実、そうなるはずだったのである。ところが現地で教師を育成するための小規模のボランティアを派遣するかわりに、何十年にも渡って、平和部隊の教師たちが派遣され続けた。その結果、マラウィ人たちは、低賃金で社会的地位も低い教師を避け、未開地区の学校で教えることはアメリカ人ボランティアに全面的に頼る一方で、教育を受けたマラウィ人たちは国外へ移住してしまったのである。マラウィで大学が設立されたが、迎え入れられるのは外国人教師たちばかりで、政治的な理由から、その地位につくマラウィ人はほとんどいない。医学の教授陣も同様に外国からやってきた。看護学校を卒業するマラウィ人も出てきたが、イギリスやオーストラリア、アメリカに移住してしまい、その結果、マラウィには依然として外国人看護師が必要なのである。

2000年、マラウィ教育相は教育予算から数百万ドルを着服した罪状で告発された。同様にザンビアでも大統領が国庫横領事件で告発を受けており、またナイジェリアでは石油資源の浪費に余念がない。そこでいったいどうなったか? ものごとを単純化したがる連中が、アフリカの問題を解決するためには、引き続き債務免除と援助の増額が必要であると訴えたのである。ゲイツ財団(the Bill and Melinda Gates Foundation)の不毛なパーティに出席した私は、近隣諸国が窃盗強迫にかられたようなふるまいをしているのに対して、ボツワナでは責任ある政策が採られ、成果を上げていることを指摘した。こうした横領が起こるのも、援助資金供与者が問題のある統治や不正選挙、さらにこれらの国々が直面する根の深い問題に目をつぶっているからなのだ。

ゲイツ氏は自分の莫大な資産という重荷から逃れたいと正直に語った。そうして信頼されるアドバイザーのひとりがボノである。ゲイツ氏はコンピューターをアフリカに送りたいという――正気の沙汰ではないとまでは言わないが、非生産的な思いつきだ。私なら鉛筆と紙、モップとほうきを送りたい。私が見てきたマラウィの学校では、そうしたものが実際に必要なのである。派遣教師の増員もしない。マラウィの人々には自らの意志で祖国にとどまり教師となってほしい。公的資金で医学や教育の訓練を受けたアフリカ人に対しては、国民としての紐帯や崇高な目的といったことを通して祖国で働くよう、説得すべきなのである。

私がいた当時のマラウィは、三百万人の人々が暮らす緑豊かな国だった。それがいまでは河に浸食され、木々は伐採された国土に千二百万人が住む。堆積物は河をせき止め、毎年洪水が一帯を壊滅させる。かつて土砂を防いだ木々は、燃料や自給用作物の栽培のために伐採された。マラウィには建国以降の四十年間に二人の大統領があらわれた。初代は自ら救世主と称した誇大妄想狂、二代目は詐欺師で、彼が最初になした公務は、自分の顔を紙幣に印刷することだった。そうして昨年(※2004年)新しい大統領、ビング・ワ・ムサリカが就任したが、政権誕生早々マイバッハ、世界で最も高額の車を購入するつもりであることを宣言したのである。

四十年前、私が教えていた学校の多くは、現在では荒廃している――落書きで覆いつくされ、窓ガラスは割れ、雑草が伸び放題だ。貨幣ではこの状態をどうにもすることはできないだろう。私の友人のひとりでもあるマラウィ高官は、私の子供たちに、ここに教えに来てほしい、とにこやかに訴えた。「お子さん方にとっても良い経験になりますよ」と。

もちろん、息子たちにとっていい経験となるだろう。アフリカで教えたことは、わたしがこれまでにやってきたことのなかでもっともすばらしいことのひとつだ。だが、私たちが見せた手本は、何の役にも立たなかったらしい。友人のマラウィ人の子供たちは、もちろんアメリカやイギリスで働いている。外国人が何十年もやっていることを、アフリカ人が自発的にやるよう働きかける人など、どこにも見あたらない。教育を受け、能力のあるアフリカ人の青年たちは大勢いるし、彼らは平和部隊のボランティアよりも、はるかに大きな成果をあげられるだろうに。

アフリカは美しい土地である―― 一般的に描かれているよりさらに美しく、平和で、回復力があり、たとえ裕福とは言えないにしても、本来なら自給自足できるところだ。だが、アフリカが未完成に見え、かつまた世界の他の国々とあまりに異なって見えるせいで、人はそこに立つ自分のなかに、ちがう姿を見てしまう。誇大妄想的で、自分の価値を世界中に見せつけようとする人々を引き寄せるのである。そうした連中はあらゆるかたちでやってくるし、その存在は目立つ。お節介な白人の有名人たちはとりわけ派手に映るのである。先ごろブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーがエチオピアにやってきて、アフリカの子供たちを抱き上げ、世界中の人々に向かって慈善活動するよう講釈をたれたが、その姿は即座に私の脳裏にターザンとジェーンの姿を呼び起こした。

テンガロン・ハットをかぶってジェリビー夫人を演じるボノは、自分こそアフリカの病理の解決策を握っていると信じているだけでなく、あまりに大きな声でそれをわめきたてるので、ほかの人々までが彼の言い分を信用してしまったらしい。2002年には前財務長官ポール・オニールと一緒にアフリカを訪問し、オニールに債務放棄を促した。つい先ごろもホワイトハウスの昼食会に出席したボノは、「もっと金を」主義を講釈し、どうしてアフリカ諸国への援助には、その地域ならではの困難がつきまとうのか、ご高説を披露したのである。

だが、ほんとうにそうなのだろうか。マラウィをよく見さえすれば、そこが彼の祖国アイルランドの以前の姿に生き写しであることに気がつくはずだ。どちらも何世紀にもわたって続いた飢饉や宗教紛争や内紛、秩序に従おうとしないいくつもの種族や、傲慢な氏長、栄養失調、凶作、因習的な宗教家、歯科疾患、変わりやすい天気という特徴を備えている。マラウィの抱く怒りは、イギリスの不在地主と司祭の支配下にあった人々のそれと同じなのである。

ほんの数年前まで、アイルランドでは合法的にコンドームを買うことはできなかったし、離婚をすることもできなかった。にもかかわらず(ちょうどマラウィとおなじように)、ビールならバケツ何杯分でも手に入ったし、暴飲は国民全体に渡る悪癖だった。無為無策の島アイルランドは、ジョイスの言葉によると「自分が産んだ子豚を食らう母豚」、ヨーロッパにおけるマラウィで、こうした理由から主な輸出品は移民だった。

多くのアフリカ人にとって、大陸奥地へ向かうより、ニューヨークやロンドンへ行く方が簡単だというのは、気分が暗くなるような話だ。ケニヤ北部の大部分は立ち入り禁止区域である。エチオピアとの国境付近のモヤレという町に行くためには道すらなく、そこにいるのはやせこけたラクダと追いはぎだけだ。ザンビア西部は地図には載っておらず、マラウィ南部は未知の土地、モザンビーク北部は未だに地雷の海である。それに対してアフリカを出るのはきわめて簡単だ。だが先ごろの世界銀行の調査でも、アフリカの小規模から中規模の国にとって、技能を持つ人々が西側諸国に移民することが、きわめて深刻な事態をもたらしていることが確認されている。

現実にはアフリカに有能な人々が不足しているわけではない――貨幣さえも足りないわけではない。援助金提供者の保護者ぶったご来訪は、アフリカの自尊感情に対する暴力にほかならない。だが、責任ある指導部が不在であったにもかかわらず、アフリカ人たちはかれらがどれほど回復力を備えているかをこれまで証明してきた――決してその功績は認められてはこなかったのだが。もういちど言おう。アイルランドがおそらくは回答のモデルのひとつなのである。何世紀にもわたってアイルランド人たちは外国に望みを託してきたが、教育や合理的な政府、国内にとどまる人々や、勤勉な労働によって、アイルランド人自身が自分の国を、経済的にどうしようもない国から、繁栄した国家へと変貌させることができたのである。ある意味で――ミスター・ヒューソン、聞こえているかね?――母国にとどまることの意義を証明したのは、アイルランド人なのである。

ニューヨーク・タイムズ 2005-12-15






2.博愛ではなく自分の問題として


以上がニューヨーク・タイムズに掲載されたポール・セローの寄稿の全文訳である。セローのボノ批判の論点ははっきりしている。ボノのチャリティ活動に代表されるような資金援助及び人的派遣はアフリカの役に立つどころか、自立を妨げるものである、ということだ。

ただ、この記事を読んで疑問に思ったのは、あえて名指しの批判をしなければならないほど、ボノの活動が「アフリカの自立を妨げる」までの成果をあげているのだろうか、ということなのである。ひとりの人間が、アフリカの運命に影響を及ぼすほどの影響を与えられるものなのだろうか。逆に言うと、ひとりの人間のスタンドプレーがアフリカの運命に影響を及ぼすほど、アフリカの問題って簡単なものだったの? ということでもある。南北問題というのは「解決策の見つからない袋小路」ではなかったのか。

この記事は2005年のものだが、今年はマラウィ関連ではマドンナの国際養子縁組がずいぶん報道された。おそらくポール・セローはこの件に関しても眉をひそめていたにちがいない。さらにマドンナは、ひとりの男の子と養子縁組をしただけでなく、エイズ孤児に対して500万ドルの私財を孤児院などの建設費用に投じたと報道されている。個人の私財としては相当な額(マドンナにとってはそうでもない?)であっても、孤児院や付属の病院を建設し、さらにそれを基金とするとして、いったいいくつくらいの孤児院が運営できるものなのだろう。もちろんその規模とも関わってくるのは言うまでもないが、建設費や施設設備費、人件費などを考えると、現実にはいくつも作ることは不可能だろう。そうして、それがマラウィ全体にとって、どれほどの影響を与えることになるのだろうか。

エイズ孤児支援NGO・PLASの記事
http://plas-aids.org/blog/2007/01/weekly_news_2.htmlによると、マラウィのエイズ孤児は55万人、とある。
まったく何の役にも立たないとまでは言わないが、少なくともマラウィの「自立を妨げる」にはほど遠いものであることはまちがいない。こうした援助というのは、それこそ「誇大妄想的で、自分の価値を世界中に見せつけようとする人々」がそうしたければすればいい、それで現実に助かる人もいるのだから、という程度のものなのではあるまいか。

ただ、セローの主張には、非常に重要なポイントがあるように思うのだ。

たとえばボノだけでなく、ほかのあらゆる人や団体のチャリティ活動に共感するわたしたちは、アフリカを助けの手をさしのべてやらなければならない「子供」とみなしてはいないか。

募金をはじめ、医薬品や食料品、日用品や衣類や学用品や本、あらゆる支援の呼びかけには、かならずと言っていいほど子供の写真が使われる。やせこけて目の大きな子供たち。確かに、そういう写真は、わたしたちの同情心を呼び起こす。かわいそう、助けてあげなければ。そうしてアフリカ全体をそういう目で見てしまうことになる。これは非常に問題がある。なぜ子供なのか。アフリカは子供しかいないわけではない。アフリカは子供ではない。

セローの言う「アフリカは美しい土地である―― 一般的に描かれているよりさらに美しく、平和で、回復力があり、たとえ裕福とは言えないにしても、本来なら自給自足できるところだ。」という点を、わたしたちは忘れてしまっている。
そうして、その自給自足を困難にしていることの原因の一端は、わたしたちにも関連していることなのである。

 飢えたアフリカの惨状は今日はほとんど恒常的に先進国のメディアの映像にも登場して同情をそそっているが、この飢えたアフリカは「豊かな社会」への、巨大な食料輸出国である。「一九八一年のアフリカの輸出額は石油もふくめ七五〇億ドルだが、そのうち一〇〇億ドルが食料輸出による収入である。」それはアフリカの全耕地の半分以上が、「自分たちの食料を栽培しているのではなく、輸出向けの熱帯食料や農産物原料を栽培しているからである。セネガルなどでも耕地の三分の二は時刻ではあまり消費しない落花生であり、これが灌漑の利くセネガル河流域をおおっている。その結果、生存食料――キャッサバ芋、ヤム芋、ミレット(粟の一種)、陸稲等――は、灌漑装置の少ない限界的地域で細々と生産されている。」(西川潤『飢えの構造』)

(見田宗介『現代社会の理論 ―情報化・消費化社会の現在と未来』岩波新書)

『現代社会の理論』にも引用されているスーザン・ジョージの『なぜ世界の半分が飢えるのか 食糧危機の構造』(朝日選書)を見ると、さらにいっそうそのことが詳しく述べられている。

1973年のエチオピア飢饉は偶然に起こったわけではない。

十六世紀以来、アワシュ渓谷のアファル族は、一年のうち八ヶ月を占める乾期の間、アワシュ川に潤された豊かな低地で牛を放牧していた。だが、すぐれた牧草地はまたアグリビジネスが最も欲しがった土地でもあり、政府はここを譲り渡したのである。……

アワシュ渓谷の植民地化は、以前からそこで生活していた人びとの間に新しい事態を生み、彼らは突然、気まぐれな天候の下にさらされることになった。そのうえ、さして肥沃でもない土地に多くの人々が集まった結果、牧草が不足してまず家畜が飢え、それが人間の栄養失調へとつながっていった。

(スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか ―食糧危機の構造―』小南祐一郎・谷口真理子訳 朝日選書)

自然災害が飢餓の直接の原因であっても、豊かな土地が輸出用の商品作物に奪われてしまった結果、自分たちの生きるために必要なものを自分たちの手で作るということを禁じられた結果であることを考えると、その享受者である側が、そうした国々の飢餓に無関係ではありえない。飢えたかわいそうな子供たちを助けるための慈善活動としてではなく、自分たちの問題でもあるはずなのだ。

以前、こんな投書を見たことがある。
レストランで食事をした。近くの席で食事を残したまま席を立つ一家があった。その皿のに残された食事を見て、「あれだけあればアフリカの子供たちを何人救えるだろう」とうちの子が言った、という内容である。もちろん、そんなことをいう愚かな我が子をこっぴどく叱りつけた、という続きはなかった。

実際、一品少なく注文して、その浮いたお金を支援グループに募金でもしない限り、食事を残そうが残すまいが、それを食べる人間の体重にしか影響はない。加えて残飯で「飢餓の子供を救える」という発想は、セローの言う「思い上がり」ではないのか。貧乏人は麦を食え、飢えたアフリカの子は残飯を食え、とでも?

わたしがこれまで生きてきて、ひとつだけ、確信を持って言えることがある。自分に解決できるのは、自分の問題だけだ。ほかの人の問題は、決してわたしが解決することはできない。

だが、ひとりだけで生きているわけではないわたしは、さまざまなかたちで他の人と関わっている。わたしの問題はわたしだけの問題ではなく、他の人の問題にも関連している。わたしが自分の行動を見直し、何かを改めることによって、少し変わっていくこともあるのではないか。おそらくそれはひどく迂遠なことだろうし、知っていかなければならないことや、勉強したり考えたりしなければならないこともたくさんあるだろう。けれど、何かを変えていこうとしたら、そうすることだけなのではないかと思うのだ。

まず、わたしたちが食べているものがどこから来ているのか、いったいだれによって作られているのかを知る。たとえば『エビと日本人』(村井吉敬 岩波新書)を読んで、エビの養殖に携わるインドネシアの人々の労働や、マングローブ林の破壊を知る。
そこからどうしたらいいのか。それは一緒に考えていきましょう。

確かにそういう迂遠な方法ではなく、直接行動、たとえば募金や物資の援助などに引かれる気持ちは理解できる。だが、それこそセローの指摘するように、いったい何に使われているのか、誰のために使われているのかをはっきり知っておかなければならないだろう。「窃盗強迫にかられたようなふるまい」をする連中の新車の購入資金になるぐらいなら、「くだらない」という改心前のスクルージでいるほうがどれだけましかわからない。

ディケンズの『荒涼館』ではエスターはジェリビー夫人に対して「望遠鏡で地平線を見渡して義務を探し求める」前に、「ご自分のお宅の務め」を果たすべきだと考える。なにが「ご自分のお宅の務め」なのか。自分の家のなかに、気づかずにいる死角があるのではないか。望遠鏡をのぞく前に、これから先も考えてみたい。

その昔“ライブ・エイド”という取り組みがあった。そのチャリティ・コンサートであがった収益は、いったいどこに行って、どのような成果をあげたのだろう。それを誰か知っている人はいるのだろうか。
ボノにせよ、ブラッド・ピットにせよ、マドンナにせよ、そういうことがやりたければやればいい。人間はある程度有名になると、自分は本業以外のこともできるということを見せたいものらしいから。だがそういうことは、どこまでいってもそれ以上のものにはならないのではあるまいか。

ジェリビー夫人はアフリカでの開発計画を滔々と述べたあと、こう続ける。

「ほんとうに満足ですわ。この計画のためには、少ないながらもわたくしのあらんかぎりのエネルギーを捧げなければなりません。」

ジェリビー夫人は「開発」を謳い、ボノは「支援」を訴える。けれども、共通するのは「あるべきアフリカ像」を勝手に描き、それをアフリカの側にも、アフリカの人々以外の側にも押しつけようとしている点だ。ボノが描く「飢餓も貧困もないアフリカ」のために、アフリカ以外に住む人々は、金を出せ、あるいは、債務を免除せよ、と。だが、この作品が書かれた19世紀から今日に至るまで、「ジェリビー夫人」は何人も現れ、その結果が今日のアフリカに現れているのではないか。

だとしたら、わたしたちが考えなければならないのは、「あるべきアフリカ像」ではなく、自分の問題、自分の家の問題だ。そうして、そのことはなんらかのかたちでアフリカともつながっていくと思うのだ。

ジェリビー夫人は、先の言葉につづいてこう言う。

「わたくし、あなたがアフリカのことをお考えにならないなんてふしぎのように思いますのよ」

だから、わたしも考える。飢えた子供としてではなく。





:スクルージというのは、ディケンズの小説『クリスマスキャロル』の主人公。
金だけが生き甲斐の老人スクルージが、クリスマスに訪れた幽霊の導きによって改心するというのが『クリスマスキャロル』のおおまかな筋である。
マラウィに対して資金援助をするつもりはないというポール・セローは、自分を吝嗇なスクルージになぞらえているのだ。

一方「ジェリビー夫人」というのは、同じくディケンズの小説『荒涼館』に出てくる登場人物。ここでもちょっとふれられているように、ニジェール川左岸のボリオブーラ=ガーに入植地を開くことに夢中になるあまりに、自分の子供は捨てて顧みない人。ディケンズはアフリカより近くのものは目に入らない彼女のことを「望遠鏡的博愛」と称して、批判的にとらえている。

そのジェリビー夫人の対局にあるのがエスターで、ディケンズはエスターにこう言わせている。

「私たちの考えではたぶん」と私は躊躇しながら「まず第一にご自分のお宅の務めをなさるべきだと思います。それを忘れ、おろそかにしているかぎり、たぶん、ほかのどんなお仕事をなさってもだめなのではないでしょうか」

(『荒涼館1』青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫)

「ピアノの脚」うんぬんの部分は、ジェリビー夫人と志を同じくする博愛事業家クウェイル氏の計画である。

この人はアフリカのことや、土人にピアノの脚の製造法を教え、それによって輸出を確立することをイギリスの移民に教育するという自分の計画について、滔々と述べ立てたばかりでなく、ミセス・ジェリビーに向かって得々として、「ねえ奥さん、たしかあなたはアフリカに関する手紙を、一日に百五十通から二百通ももらったことがありましたっけねえ?」とか、「奥さん、僕の記憶に誤りがなければ、いつかあなたはひとつの郵便局から一度に五千通も通帳を出したとおっしゃったでしょう?」とかいう誘い水をさしては、ミセス・ジェリビーにおしゃべりをさせ、そのつど通訳みたいに、夫人の返事を私たちにくりかえし聞かせるのでした。

ここから見ると、この「ピアノの脚」計画のそもそもの出所も、クウェイル氏ではなくジェリビー夫人の方かもしれない。

[戻る]


初出Dec.19-23, 2007 改訂Dec.28 2007

▲Topこの話したっけHome




※ご意見・ご感想はこちらまで


home