鴎外は卑怯だったのか−軍医森林太郎と脚気
人間のする事の動機は縦横に交錯して伸びるサフランの葉の如く
容易には自分にも分からない。
それを強いて、烟脂を舐めた蛙が膓をさらけだして洗うように
洗い立てをして見たくもない。
今私がこの鉢に水を掛けるように、物に手を出せば弥次馬と云う。
手を引き込めておれば、独善と云う。残酷と云う。冷澹と云う。
それは人の口である。
人の口を顧みていると、一本の手の遣所もなくなる。
――森鴎外 『サフラン』
0.卑怯ではない坊ちゃんと卑怯な太田豊太郎
先日、たまたま目の前を歩いていた学校帰りの小学生が、口々に「あいつ卑怯やねんな〜」「ほんま、卑怯やわ〜」と言い合っていた。それを聞くともなしに聞いているうちに、そういえば「卑怯」という言葉を自分がしばらく使わないでいたことに気がついた。
振り返ってみれば、卑怯とは恥ずべきことで、「人との関わりのなかで卑怯なふるまいをしない」という規範が大きな拘束力をもっていたのは高校生ぐらいまで、それ以降はいつのまにか「卑怯」という単語そのものが、「日常頻出語彙」のページから、「知ってはいても日常的にはほとんど使用しない語彙」のページへと移動していた。
それはなにもわたしが卑怯とは縁もゆかりもない、清く正しい生活を送るようになったからではなく、自分の行動に際して「卑怯であるか否か」という尺度をあまり必要としなくなったためではあるまいか。おそらく「おとな」として生きるということは、そういう言葉をあまり使わないものなのだ。
「卑怯」という言葉をおとなが口にする場面として想定できるのは、たとえば彼女をふるときの男が「オレは卑怯な男だから」と責任を逃れつつ居直ってみせる場面とか、逆に女の方が「あなたってほんとに卑怯な人ね」となじる場面とかぐらいしか思いつかない(なんだか二時間もののサスペンスドラマの一場面のようだ)。仮に、汚職をした役人に「卑怯だ」という批判を投げかける記者がいたとしたら、その記者は周囲から、ずいぶん子供っぽい人だな、と見なされることだろう。
さて、小説には何かなかっただろうか、と考えて、すぐ思い出すのが『坊ちゃん』だ。主人公の「坊ちゃん」は、兄の将棋の指し方を「卑怯」と言い、松山の中学生を「卑怯」と言い、赤シャツを「卑怯」と言う。自分のことは「おれは卑怯な人間ではない。」とずいぶん潔い。『坊ちゃん』という作品の魅力は、「卑怯」の対極にいる坊ちゃんの、正義感の発露の小気味よさにほかならないのだろう。
ところが考えてみると、坊ちゃんはいったい何に対して正義感を発揮しているのだろうか。最後で山嵐とふたり、赤シャツと野だいこをさんざんな目に遭わせるが、このふたりのいったいどんなところに坊ちゃんは腹を立てたのか。
そう思って読み返してみると、原因となった事件というのは、うらなりの恋人だった町の旧家の娘マドンナに横恋慕した赤シャツが、邪魔なうらなりを九州に追いやったという事態なのである。それに抗議した山嵐も、赤シャツ一派は策略を弄して学校を辞めさせようとした。まとめてしまえば、赤シャツと野だいこの「罪状」は、学校の人事権の濫用ということだろうか。
だが、坊ちゃんは会ったときから赤シャツが気にくわなかったのだ。坊ちゃんからみれば、何か具体的な出来事に関して、赤シャツの行為が卑怯だと判断したというのではなく、卑怯なやつだと思ったら、やっぱり悪いことをしていた、という流れなのである。
こう考えていくと、坊ちゃんの正義感というのは、あまりたいしたものではないのではないか、という気がしてくる。彼らの学校の恣意的な運営に抗議するのなら、殴りつけるより、同じ学校にとどまって、そこで彼らの行為を問題にし、学校運営を改善すべきであろう。坊ちゃんも山嵐も去ってしまえば、赤シャツにせよ、野だいこにせよ、いよいよやりたい放題ができるにちがいない。だが、坊ちゃんはそんなことは全然気にしない。坊ちゃんの「正義感」には、学校の民主的な運営など視野に入っていない。
松山という狭い地域で、生徒たちが坊ちゃんの一挙一動を監視しているのを「卑怯」というなら、彼らにもっと広い視野を持たせるような指導をしてもよさそうなものである。「君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな奴だ。」と言うにいたっては、生徒の方がよほど筋が通っている。
仮に、学校を改善したとしても、赤シャツや野だいこが「善良な人間」になることはないだろう。狭い地域に暮らす閉鎖的な人びとが、坊ちゃんを奇異の目で見ることもやめないだろう。だが、たとえ坊ちゃんの目から見れば、彼らが卑怯な人びとであり続けたとしても、地域や学校の改革や改善は可能なはずだ。ただし、それにはずいぶん時間がかかるだろうが。
つまり、坊ちゃんの行動は、自分の所属する組織に何ら責任を持たない、せいぜい大学を出て間もない人間にしか許されそうにない行動なのである。わたしたちが『坊ちゃん』を読んで小気味よさを感じるのも、責任のない坊ちゃんの側に身を置いて、坊ちゃんと一緒になって、自分にはできない、無責任で痛快な行動を楽しむことができるからなのだろう。どうやら「卑怯」という批判を人に向かって投げかけることができるのは、コドモ限定ということなのなのかもしれない。
一方、小説のなかに出てくる「敵役」はともかく、主人公となるような人間に「卑怯」な人物はなかなかいない。太宰治の『駆け込み訴え』のように、イエス・キリストを売るユダが主人公のような小説でも、読み進むうちにわたしたちはユダに感情移入し、読み終わることにはユダの行為を理解できるように思う。小説の多くは、たとえ主人公が最初は卑怯に見えたとしても、実は……という発見のプロセスを読者にたどらせるようになっている。卑怯で矮小と思われた主人公は、作品の最後では逆転し、そう考えていた共同体の側の、利益のことしか考えていなかったり不純だったりする面が浮き彫りにされるようになっているのだ。
ところが例外的に主人公は最後に卑怯な選択をし、卑怯なまま終わってしまう作品がある。森鴎外の『舞姫』である。
『坊ちゃん』の主人公の名前は誰も知らないが、おそらく『舞姫』の主人公の名前も、一時期、現国の教科書にかならず載っていたわりには、多くの人からの記憶に抜け落ちている。『舞姫』の主人公、というと、薄幸の美少女エリスを妊娠させたあげく、ドイツに置き去りにして、エリスを狂気に陥らせ、自分は日本で出世したとんでもない男、卑怯を絵に描いたようなやつ、という印象だけが強烈に残って、太田豊太郎という名前はわたしたちに親しいものにはならない。
わたしたちはまるで推理小説で犯人を探し、その「卑劣」さを見つけだすように、主人公太田豊太郎の行為は「卑怯」と認定する。だが、わたしたちがそう思うのも、推理小説の作者が犯人を卑劣な人物として造型しているように、『舞姫』でも作者がそういう人物として太田豊太郎を造型しているからにすぎない。
だから『舞姫』を読むときは、なぜ作者がそのような人物をあえて主人公に設定したかを考えなければならないのに、どういうわけか多くの場合、道徳的見地から主人公の行動を批判しておしまいになってしまう。教科書に採用されていた時代、多くの人は高校時代『舞姫』を授業で読まされたはずだ。そうして、ほとんどの人が「日本で出世するために、エリスを捨てたひどい男の話」と読んで、なんでこんな作品が日本文学を代表するものなのだろう、と思いながら終わってしまうのである。わたし自身、「強さをともなわない優しさなど無意味だ」と、できるものなら記憶から消しゴムで消してしまいたいような感想を書いたのを未だに覚えている。まったく何でそんな読み方をするかね。
ところがこの太田豊太郎の名前が記憶から落ちてしまうのは、それだけではないようだ。どういうわけか森鴎外と主人公を同一視する人が少なくないのである。確かにドイツに留学したという経歴の上で重なり合うところがある。wikipediaにも「なお、主人公には作者森鴎外といくつかの類似点がある」とわざわざ書いてあるのだが、主人公と作者が経歴の上で重なり合うのは何も『舞姫』に限らない。同じように松山で教鞭を取った漱石と「坊っちゃん」を同一視する人はいないのに。おそらく漱石の作品は『坊っちゃん』と後年の作品があまりにちがっているから、そういうことが起こるのだろう。もし漱石が『坊っちゃん』系列の作品をたくさん残していたら、坊っちゃん=漱石、という見方が一般的になっていたにちがいない。
もちろん鴎外も『舞姫』と後期の作品はずいぶんちがうのだが、鴎外=『舞姫』の主人公、というイメージを持っている人は、高校のときに教科書で『舞姫』を雑に読んだきり、『興津弥五右衛門の遺書』も『北条霞亭』も読んだことがないのだろう。レッテル張りというのは、簡単に決めつけることができて、「しかも冷酷で卑怯なことも平気でできるような人だから、読まなくてもいい」という正当化までできて、省力化を図ろうとするときにはもってこいなのである。
それだけではない。意外に根強い鴎外=卑怯説の根拠として、鴎外の作家以外の顔、軍医森林太郎の行為があげられている。当時の軍医総監森林太郎が、脚気の原因をウイルスと誤って判断したために、日露戦争で多くの陸軍兵士が脚気に倒れた、だが、鴎外はその誤りを最後まで認めようとしなかった、というものである。判断を誤ったのは時代的な制約を考えれば仕方がない、だが、その誤りがあきらかになっても、一切謝罪をしなかったのは、責任逃れではあるまいか、まるで太田豊太郎のように、自分の名誉のみを求め、その責任は取ろうとしなかった鴎外は、太田豊太郎と同じく卑怯な人物である……的な非難は、インターネット上にいくらでも見つけることができる。
ここでは軍医森林太郎と脚気の問題を概観し、ほんとうに鴎外は卑怯だったのか、考えてみたい。以下、おもに典拠としたのは板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社)である。
1.軍医森林太郎が登場する以前
そもそも脚気というのはビタミンB1の欠乏によって起こる病気で、主として白米を主食とする地域に見られるものである。日本では特に江戸中期、元禄のころから江戸の町で流行するようになった。すなわち、そのころから江戸では、それまでの玄米食から白米食へと移り変わっていったのだ。
明治期になると、今度は軍隊で多発するようになった。というのも、貧しい農家や漁村の次男、三男が徴兵制で軍隊に入る。彼らにとって入隊する何よりの魅力は、白米をお腹一杯食べることができる、というものだったのだ。
柳田國男の『明治大正史 世相篇』には「明治二十何年ごろ」、「米は全国を平均して、全食料の五割一分内外を占めて」いたという当時の調査の結果が報告されている。調査に当たったドイツの経済学者エッゲルトは「兵士その他の町の慣習を持ち還る者が多くなるとともに、米を食う割合は次第に増すことであろう」と予測し、事実、その通りになった。米は明治半ばにして、都市部を除けば、まだまだ贅沢品だったのである。
だが、米を食べていた都市生活者が豊かだったかというと、そんなことはないのだ。現在のようにさまざまな副食がある時代ではない。関川夏央の『豪雨の前兆』に所収された「青紫蘇を散らせた冷奴」には、樋口一葉が明治二十八年に発表した『にごりえ』を引きながら、当時の食事のようすが紹介されている。
お初が源七にいう。
力業(ちからわざ)をする人が三膳の御飯をたべられぬということがありましょうか。…
私がこのくだりで驚くのは、お初が、冷奴のおかずで三杯の御飯を食べろと源七にすすめることである。豆腐のほかに味噌汁と漬けものはあっただろうが、それで三杯飯が食えるというのはすごい。
この時代、日本人は平均してひとり一年に二百キログラムの米を食べていた。一日あたり五百五十グラム、四合ほどである。三十代前半で力仕事をしている源七は、当時の重労働の代名詞であった人力車夫とおなじくらい、一日に七合は食べなければつとまらなかったはずだ。実際、荒搗きの米から人間に必要な蛋白質を摂取するためには、そのくらいの分量がいる。
(関川夏央『豪雨の前兆』文春文庫)
なんともすさまじい食生活である。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」では「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」とあるが、現在のわたしの米の摂取量は、一日一合弱というところだろうか。それ以外にも、肉を食べ、魚を食べ、小麦粉で作ったパンを食べ、うどんを食べ、野菜を食べ、果物を食べる。つまり、食事の質が現在と当時とではまったく異なっている。精米した白米を食べて脚気になったというのは、白米しか食べなかったから脚気になってしまった、と言い換えた方がよさそうだ。
脚気になると、まず足がむくみ、息切れがするようになり、やがて心不全を起こして死に至る。明治八年(1875年)の陸軍の報告書によると、軍隊では百人中二十六人が脚気になり、死亡率は陸軍で22パーセント、海軍でも5パーセントだったという。脚気の蔓延は軍隊にとって、重大な問題だった。
そこで軍医の職にある人びとが脚気問題の解決に当たることになった。だが、いまのわたしたちのように、「脚気」というのがどういう病気なのか、何が原因によって発病するのか、どう治療していけばよいか、そういった知識がまったくないのである。脚気問題を解決しようと思えば、まずは「どのような症状を脚気と呼ぶのか」という症状の定義から始めなければならなかったのだ。
加えて、ドイツ医学に学びつつ、医療体制を近代化しようとしている当時の日本で、主流であり最先端でもあった医学というと、すなわちドイツの医学者コッホに始まる細菌学だった。脚気をウィルスによるもの、と当時の医学者たちが考えたのも、不可避のことだったのかもしれない。
だが脚気は白米を食べないヨーロッパでは発症しない。当時の陸海軍は外国人教師を雇って軍医の養成や病院での治療指導に当たらせていたのだが、彼らも欧米諸国には見られない病気に、まったく知識がない。この病気に関しては、日本人みずからが、病気の原因を探り、治療と予防の方法を確立しなければならなかったのだ。
一方、江戸時代から漢方医たちは米食を避け、麦と小豆が脚気に効く、という知識は持っていたらしい。ところがなぜ米食が悪く、小豆や麦がいいのか、漢方医にも説明はできない。これでは〈理論こそ西洋医学のすぐれていることの証〉と考えている西洋医学を修めた人びとが、理由もなく米食を禁じて小豆と麦に切り替えるわけにはいかなかったのも無理はない。
森林太郎が十九歳で東大医学部を卒業したのはちょうどそんな時期だったのである。
2.脚気、海軍と陸軍の取り組み
そのころ海軍では高木兼寛(かねひろ)が兵食改善による脚気予防策を主張していた。
先にもふれたように、日本の医学はドイツ医学をその範としていた。陸軍もまた、ドイツ軍隊を手本としていた。だが、海軍だけは当初よりイギリスに学び、イギリス方式を徹底して踏襲していたのだ。海軍省の軍医である高木兼寛もまたイギリスに留学してイギリス医学を身につけて帰国した。当時、学理医学を中心とするドイツ医学ばかりの日本にあって、臨床を重視したイギリスに学んだ高木兼寛はきわめて異質だったのである。
早くから脚気に注目していた高木は、まず脚気の流行状態を調査することから始めた。〈脚気の原因を探るためには、脚気の発生状況と衣食住との関係を調べてみる必要がある〉と考えたのである。海軍ではどの階層の人間が脚気になりやすいのか。囚人がもっとも多く、水兵がそれに次いで多い、下士官になると比較的少なくなり、将校になるといない。これは食料に起因するのではないか?
そうして当時主流だった脚気伝染病説に対して、暑さや湿気との相関関係は見られないことなどから、原因は食物に絞ることができると結論づけたのである。
当時の海軍は、陸軍とは異なって、食料は現物支給ではなく一日十八銭を支給していた。もちろん各自がばらばらに食料を買い込んでいたわけではないが、一日十八銭の食費をできるだけ節約して、余った分を水兵に還元するということが行われていた。一方で、将校たちは、自腹を切って一日十八銭以上の食事を採っていた。その結果、将校と水兵のあいだでは食事はまるでちがっていたのだ。
高木は、脚気は「炭素に対する窒素分が不足しているのではないか」という仮説を立て、調査を続けた。つまり、窒素というのはおもにタンパク質のなかにだけ含まれているから、炭水化物に対するタンパク質の割合を増やすことを解決策としたのである。
ところがこのような結論に達したからといって、即座に兵食を改善することは容易なことではない。まず〈金給制〉から〈現物支給制〉に改めなくてはならない。だが、このことは大きな反対に遭うことになった。それでも高木はさまざまな機会を通じて上申をつづけ、パンや肉類を含む〈欧州風食卓〉の試験的導入に成功する。「炭素/窒素」理論はさておき、パン・肉の現品支給によって、脚気は現実的に減少していったのだ。
一方、陸軍の方はどうだったのか。
実質的な陸軍の脚気対策の責任者であった軍医本部次長石黒忠悳(ただのり)は、海軍の兵食改善路線に対して『脚気談』を著し、名前を挙げて高木兼寛を批判する。幕末以来日本人の肉食は増える一方なのに、脚気にかかる者は維新以前と比べると何倍も増えているではないか。地方より東京のほうが肉食する人が多いのに、東京の方に脚気が多いのはなぜか……。
そうして、その米食擁護を理論的に裏付けるために、大学を卒業して入局した森林太郎をドイツに留学させたのである。軍隊衛生学、とくに兵食を調査・研究すること。それがドイツに派遣された森林太郎の使命だった。
森林太郎は兵食に関する研究の成果を明治十八年に「日本兵食論大意」としてまとめる。ただ、板倉聖宣は『模倣の時代』のなかで、この内容は、「自分自身の実験結果による議論というよりも、〈当時の栄養学的な知識や日本の食糧事情をもとにして、日本の兵食を論議した〉といったものにすぎなかった」という。
森はそのなかで、西洋人の知力体力が優れているのは、その食事のためであるという考え方があるが、栄養学的見地から見ても、米食に問題はない、とするものだった。さらに五千人の海軍に較べ、陸軍は五万人の兵士を有していること。さらに、パンを焼く炉の設備の問題。さらに麦にしても、食獣にしても、国内需要でまかなえないことを考えても、国内で自給自足できる食物によって、陸軍の食事の改良は必要であっても、西洋食にする必要はない、と主張したのである。脚気問題に関しては、括弧を付して用心深く
(米食と脚気の関係有無は、余敢えて説かず)
としたのだった。
だが、そういう慎重な態度を取った森の思いとは裏腹に、それ以降、森の脚気問題への関わりは、いよいよ深まっていくことになるのだが。
その3.脚気菌か麦飯か
さて、森が「日本兵食論大意」を発表した同じ明治十八年、なんと日本では脚気を引き起こすという「脚気菌」が発見されたのである。「発見」したのはドイツでコッホの高弟レフレルについて細菌学を学んだのち帰国した緒方正規である。緒方は間もなく東大医学部教授となって、日本で最初の細菌学の教授になった。ところが緒方の発見した「脚気菌」を追試して確かめることができなかった。そこでこの「脚気菌」を批判したのが北里柴三郎である。
森林太郎と北里柴三郎は、ともに東大医学部予科の前身、東京医学校で学んでいる。北里は森より十歳年長だったが、森は明治七年に年齢を二歳上に偽って十二歳で入学し、一方、北里は明治八年に生年を四歳下に偽って、二十三歳で入学した(当時の入学資格が十四歳から十九歳だったのである)。明治十四年、十九歳で森が卒業、北里は二年遅れて卒業することになった。卒業後、森は陸軍に入り陸軍軍医としての道を歩んでいくが、北里は内務省衛生局に入る。
陸軍からドイツに派遣されるかたちで留学した森に対し、北里は内務省で事務的な仕事に従事しているうちに、東大医学部での先輩緒方正規がドイツ留学から帰国、衛生局の東京試験所で細菌学の研究をすることになり、北里はその助手をつとめるようになる。やがてその緒方の紹介で、北里はコッホの研究室で勉強することができるようになったのだった。
コッホ研究所で研究者として働くうちに、北里はめきめきと頭角をあらわすようになる。そうしてオランダ領バタビアでオランダ人学者によって発見された「脚気菌」なるものが、細菌学の厳密な手続きを経たものでないと批判する論文を発表し、つづいて日本で師であった緒方が発見したとする「脚気菌」についても同様の批判を日本の雑誌に発表したのである。この行為はかつては師であった緒方に「弓を引いた」と日本では問題になるのだが、一方、北里の側はドイツで破傷風菌の純粋培養に成功し、国際的な細菌学者として名をあげていったのである。
「脚気菌」の有無とは別に、日本では別の方面からひとつの解決策が生まれていた。この立て役者は森と同じ陸軍でも、大阪鎮台の軍医部長堀内利国である。
堀内はあるとき部下から監獄で米飯を麦飯に変えたところ、脚気が減った、という話を聞く。そこで全国の監獄に情況を問い合わせたところ、現実にその現象が見られたというのだ。
奇妙なことに、一時期、監獄では白米ばかりが出ていたのである。明治六年にアメリカの宣教師兼医師が囚人の診察に当たり、日本の監獄の待遇の非人道的なことを大久保利通に忠言した。そこで政府は全国の監獄の食料を白米百パーセントに切り替えたのである。だが、罪もない大多数の農民が白米ではない米に麦などを混ぜて食べているというのに、監獄の食事が白米百パーセントというのも奇妙な話である。そこで明治十四年、監獄の食料が見直されることになり、米麦混合になった。ところがそれが監獄における脚気の減少につながったのだ。
堀内は、監獄において成果をあげた米麦の混食を、大阪の部隊で試験的に実施する。そうして、脚気の発生しやすい夏に、大阪では脚気の発生を見なかったのである。
海軍と大阪鎮台の麦飯に切り替えたことからくる成果は、明治十八年頃には、徐々に知られるようになった。このままでいけば、日本の脚気は撲滅されたかもしれない。ところがそうはいかなかったのである。
4.日清戦争始まる
日本の軍隊における脚気は、明治二十五年ごろにはほとんど絶滅状態になっていた。大阪鎮台に始まった麦飯は、明治二十四年までに全師団に拡がり、麦飯の採用と脚気の激減の相関関係は明らかであるように思えた。ところが陸軍軍医本部の人びとは、麦飯が脚気に効くという学理が不明であることから、この脚気患者の激減も、まったくの偶然であるとみなしていたのだ。
平時であれば、たとえ議論が平行線をたどっていてもかまわない。だが、明治二十七年、日清戦争が始まる。そうなると、兵食の支給は各師団ごとということではなく、大本営の命令に従うことになるのだ。大本営の会議では兵食をどうするか問題になった。陸軍医務局長の石黒忠悳は学理的な根拠がないことを理由に、麦飯を送ることに反対する。そうして、その理論的裏付けとなったのが陸軍医学校長であった森林太郎の研究の成果だった。
明治二十一年、ドイツから帰ってきた森林太郎は「非日本食はまさにその根拠を失わんとす」と講演をおこなう(のちにこの講演をもとに『非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス』という著書を発表する。これが彼の初の著作となった)。
そのなかで、森は食物は蛋白質・脂肪・澱粉類等からなることを説明しながら、日本の食糧問題に応用し、かつてドイツ留学時代にまとめた〈日本の兵食は米を減じ魚獣の肉を増〉せば栄養学的に問題ない、という立場を改め、従来からの日本食こそ、日本人の健康にはふさわしい、と、積極的に擁護する側に回ったのだった。以降、森林太郎は、兵食を洋式にすることはもちろん、麦飯にすることにも強い反対を貫くようになる。
そうして日清戦争での兵食は白米だけを輸送することになったのだが、その結果はどうだったのだろう。『模倣の時代(下)』には明治四十年陸軍省医務局が報告した『明治二十七八年陸軍衛生事蹟』が引用してある。それによると、陸軍の脚気患者数は41,431名、脚気による死者の数は4,064名。戦死・戦傷死者数が453名であるから、実際に戦争によって死亡した9倍近い兵士が脚気によって亡くなったのである。
だが、陸軍軍医部の中心にいた人びとは、学理的に根拠のない麦飯の効用を認めず、「戦時脚気の恐ろしさ」を再認識したに留まったのだった。
5.エイクマンの発見
日本では海軍と陸軍のあいだで、兵食と脚気問題の論争が続いているころ、オランダの植民地ジャワ島で、興味深い事実が発見された。
先に北里柴三郎がオランダ人医学者による脚気菌の発見について、その手続きの不備を指摘したことを書いたが、「発見」したと信じたペーケルハーリングとウィンクラーはオランダに帰国して、脚気菌の発見を論文にまとめた。その後ジャワ島で研究を続けたのがエイクマンである。ふたりの「発見」した脚気球菌で脚気を発生させようと実験を続けたのだが、実験は成功しなかった。
ところが1896(明治二十九)年、実験動物であるニワトリが脚気に似た病気に罹っていたのである。陸軍病院の残飯=白米を食べていたニワトリだった。そのニワトリを詳しく調べようとよそに移したところ、脚気が治ってしまったのである。
そこからエイクマンは飼料に目をつけた。病気のニワトリの飼料は陸軍病院の将校の残飯、場所を移したニワトリの飼料は玄米か籾米だったのだ。そこからエイクマンは白米と玄米の違いを研究し始めたのである。
白米、米、玄米とさまざまな実験を経たのち、玄米は完全な食品だが白米はニワトリの生存に必要なものが欠けている、米ぬかにはその不足しているものが含まれている、と考えたのである。
当時の医学者たちは、〈澱粉・脂肪・蛋白質・塩類〉のほかに動物の成育に必要な栄養素があると考えてはいなかった。だが、エイクマンの研究によって、米そのものが脚気を引き起こすのではなく、玄米を精白した白米だけが脚気の原因になること、米ぬかには脚気の予防・治療効果があるらしいことがわかってきたのだった。
日本ではこのエイクマンの研究は、陸軍依託学生として大学院に在学していた山口弘夫によって追試・報告され、多くの日本人関係者の知るところとなった。ところが白米と玄米、麦飯や米ぬかなどの食物の問題については、どういうわけか本格的な研究は始まらなかったのである。
6.脚気と日露戦争と森林太郎
明治30年、陸軍の医務局長は、石黒忠悳が辞め、森林太郎と同期の小池正直が医務局長に就任する。小池正直は就任当初、森林太郎の報告を理論的裏付けとして、従来の陸軍の兵食を擁護し、西洋食を批判していた。だが、医務局に蓄積されていた資料を整理しなおすことを通じて麦飯の効用を認めるようになっていく。そうして明治32年「脚気と食物との関係における学理は若(かくのごと)く不明なりといえども、その関係は果たして原因的関係なりや、将(はたま)た偶発的関係なりやは正確なる統計によりて概ねこれを窺(うかが)うことを得べし。もし以て原因的関係あることを知るにおいては学理の如何はしばらく措(お)き、その実効はこれを認めざるべからず」(小池正直「脚気と麦飯との関係」『模倣の時代(下)』よりの孫引き)として、以下統計をもとに麦飯による脚気減少の「原因的関係」を明らかにしていったのである。
一方、森林太郎である。森は小池と東大医学部で同級生ではあったが、なにしろ十二歳で入学した森に対して、小池正直は八歳年長だった。その年齢差を考慮すればかならずしも出世競争で森が遅れをとったともいえないだろうが、森は一等軍医正のままに留まる。やがて明治32年、軍医監に任じられたものの、福岡県小倉の第十二師団の軍医部長となって、東京の地を離れることになる。この小倉派遣を「左遷」と見るかどうかは評価の分かれるところなのだが、少なくとも彼自身は「左遷」と受け取ったようだ。
明治34年、小倉の地で、林太郎は「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたる因する乎」と題する論文を発表した。そのなかで、小池正直と同じように、統計表を示しながら脚気が減少したことを認める。だが、そののち「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)〉の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」と異議を申し立てるのである。
森林太郎は「蘭領インド」(現在のインドネシア)の脚気患者と日本の脚気患者数を比較して、その時期が重なり合っていることをあきらかにし、〈日本の陸軍や海軍の脚気激減は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって、兵食改善等の結果ではない〉と結論づける。
海軍や陸軍で脚気を撃滅のために努力してきた人々を馬鹿にしたような話である。
しかし、いくら人を馬鹿にしたような話でも、それが真実である可能性があるならば、そういう話もむげに非難してはならない。それにしても、こういう話を聞いたとき、当事者の人々が、それを〈人を馬鹿にした話〉として受け止めざるを得ないのは何故だろうか。それは、
〈どこでも、脚気撲滅のために麦飯を実施したその年から脚気が激減している〉
というよく知られていた事実を無視しているからである。
全体だけを見れば、〈日本の陸軍の脚気が、たまたま麦飯の実施の時期に自然に激減する時期にあった〉というようなことを考えるのもあながち不当ではないかもしれない。しかし、陸軍における麦飯の採用は師団によってまちまちに行われたのである。その各師団ごとに見て、脚気が麦飯を実施した年から激減した事実をみな偶然の結果と解することはできない。…略…
彼は〈脚気が兵食改善によって絶滅された〉という事実をあくまで認めたくなかったのだ。その党派的な考えに囚われたために、普通の人々には気づき難い事実の発見に彼を走らせ、その反面、普通の人々にもわかりやすい論理が見えなくなってしまったのである。
(板倉聖宣『模倣の時代(下)』)
板倉はここで「人を馬鹿にしたような話」とまで言っているが、森林太郎の考え方は、わたしには一貫しているように思える。彼は、あくまでも病気の原因を特定し、そこから治療法を確立するという筋道こそ病気の撲滅につながる、と考えていたのだから、原因を特定し得ないところで、仮に「減少」したとしても、それは「〈前後即因果〉の論理上誤謬」以上のものではないと考えたとしても不思議はない。確かに森には「〈脚気が兵食改善によって絶滅された〉という事実をあくまで認めたくなかった」という意識があったかもしれない。だが、それは仮説を立て実験をする研究者ならば、誰にもそのような傾向は認められるのではあるまいか。正しかろうがなかろうが、とりあえず試してみるという柔軟さに欠けていた、という批判もできるかもしれない。だがそれも、今日の視点に立っての批判とはいえないだろうか。
さらに双方がそれぞれに依拠した統計の問題もある。安斎育郎の『だます心 だまされる心』にも、「科学者もだまされる」という章で、森林太郎の錯誤についてふれられている。
統計的検定論の知識があれば、脚気の罹患者や死者の年度別変動が偶然の変動に過ぎないのかどうかを厳密に論じることができますが、当時は主張する側も批判する側もそのような素養を欠いていたので、鴎外の批判も感情的な水掛け論の域を出なかったのです。
(安斎育郎『だます心 だまされる心』岩波新書)
このように考えていくと、一概に「人を馬鹿にしたような話」とばかりはいえないように思うのだ。ともかく未熟な感想はこの程度にして、なおも板倉に依拠しつつ、話を進めよう。
森林太郎は明治三十五年、九州小倉の第十二師団の軍医部長から、第一師団の軍医部長に転任することになり、再び東京に帰ってくる。
明治37年2月、日露戦争が始まった。戦争が始まると、陸軍医務局長の小池正直が全軍の衛生問題・兵食問題を統括することになった。ところが麦飯と脚気の〈原因的関係〉を認めたはずの小池だったが、兵食は米食となった。日露戦争後、責任を問われた陸軍医務局の田村俊次は、挽き割り麦は虫が付きやすく、輸送上困難だったため、37年4月までは一粒の麦も送らなかった、と弁明しているが、その真相はよくわからない。
〈もしかすると、小池衛生長官は、森林太郎の反撃にあって、麦飯の有効性に対する自信を揺さぶられた結果、無理してまでも麦を輸送することを考えなくなっていたのではないか〉とも疑われてくる。ともかく、小池衛生長官は挽き割り麦の輸送を指示しなかったのである。
その結果、日露戦争での脚気患者数は25万人、脚気による死者は27,800余名という大変な事態になった。一方、海軍はほとんど脚気患者を出すことはなかった。高木兼寛の麦飯の脚気予防効果の根拠は、当時の栄養学の知識をもってしても誤っていたのだが、麦飯が脚気に現実に有効であることは、論理の正しさとは別に証明されたといえよう。
特に海軍の側から、陸軍は厳しい批判にさらされることになる。森林太郎が小池正直の跡を継いで医務局長に就任したのはその時期だった。
7.陸軍臨時脚気病調査会とその後
『模倣の時代(下)』には1943年に発表された山田弘倫の『軍医森鴎外』からのこんな一節が引いてある。陸軍軍医総監、医務局長に就任した森林太郎のところへ、衛生課長大西亀次郎がやってきて、陸軍の兵食を麦と米の混食との規定を設けてほしい、と訴える。それに対して林太郎はこんなことを言った、というのである。
「ハア、君も麦飯迷信者の一人か。これは学問上同意ができかねる。僕が医務局に入ったとき、〈君が忌む局長になったからといって、脚気予防に麦飯が必要だ、などという俗論にマサカ、化せられはしまいね〉と、青山君までがそう云ったよ。僕もまだそこまで俗化してはいないよ」
この「青山君」というのは、東京帝大医科大学長の青山胤通のことである。見方を変えれば、部下を相手に雑談まじりにしゃべった発言内容がのちに取りざたされるほど、青山胤通や森林太郎は孤立していたともいえる。
医務局長森林太郎は、厳しい批判のなかで陸軍臨時脚気病調査会を発足させることになる。会長としての林太郎の最初の仕事は、来日していた細菌学の生みの親でもあるロベルト・コッホに脚気研究に対する意見を聞くことだった。そうしてコッホは「脚気病については、わずかな経験しかもっていない」と断ってから、脚気死亡者の病体解剖を二、三実行したが、そのなかにいつも連続球菌を見た、おそらくそれが脚気病菌で伝染病だと確信している」という待望の返答をもらったのだった。
第二回の調査会では、オランダ領インドのバタビアに研究者を派遣することが決定した。オランダ人軍医による〈脚気菌の発見〉や、エイクマンのニワトリの脚気の発見と、日本以外での脚気研究の成果を学ぶためには、オランダ領インドにおける研究がもっとも進んでいたからである。
当初派遣された三人の委員たちは、森林太郎の影響を強く受け、脚気の原因をあくまで細菌に求めていた。だが、そのうちのひとり、軍医の都築甚之助だけは、視察の結果、それまでの研究方針を改めて、動物実験を行ったのちに脚気の部分的栄養障害説を提唱するようになる。そうして日本で最初に米糠エキスによる脚気治療を行ったのが、都築甚之助なのである。そのためか、都築は調査会の委員を免職になり、軍医の職も追われることになる。以降、彼は民間医として研究を続けることになった。
ほかに脚気の研究としてめざましい成果をあげたひとりに、志賀潔がいる。彼は北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の技師だった。東大の医科大学を卒業するとすぐに伝染病研究所に入り、まもなく赤痢菌の発見した志賀は、脚気研究に乗り出して、「脚気は伝染病ではない」と断言し、日本で初めて「脚気は一種の〈部分的栄養障害〉であることを明らかにした。
さらに民間医の立場から脚気の研究を始め、〈部分的栄養障害説〉と統計的な研究を結びつけて全面的に展開した遠山椿吉(しゅんきち)、東京帝大でも農科大学の教授で、農芸化学の方面からビタミンBを発見した鈴木梅太郎、脚気研究はこの四人に代表される人びとによって、新しい時代が切り開かれていくことになる。
この新しい脚気研究の流れに対して、終始、青山胤通や森林太郎は強力な反対者だった。
結局森林太郎は、脚気問題に関しては、一切の成果をあげることなく大正五年陸軍省医務局長を引退することになる。医務局長を辞めたあとも臨時脚気病調査会には臨時委員として残っていたが、大正十一年、六十一歳でその生涯を終える。そうしてこの調査会も、脚気のビタミンB欠乏症説を最後まで認めることなく、大正十三年に解散したのである。
8.相関関係と因果関係
板倉は『模倣の時代』の最後で結論としてこのように述べている。
脚気という病気は、西洋の医学者たちも思いもつかなかったような新種の病気、ビタミンという微量でありながら動物の生存に不可欠な栄養素の不足によって生ずる病気であったのだ。そこで、日本最高のエリートたちがいかに西洋医学の成果を学んでもその正体を明らかにすることができず、その正体の解明に近づいた人々を弾圧・圧迫するという間違った行動をとらせることになったのである。成功したといってもよいのかもしれない。しかし、模倣の時代だからといってすべてが模倣ですむわけではなかったのだ。脚気の歴史はそういう例外的な出来事と見ることもできる。そこで、この例外的な〈脚気の歴史〉の物語は、ひと度そういう、〈単なる模倣ではすまない〉、真に創造的な解決を要する問題に対処することになったら、西洋文化を模倣するのにもっとも有能だった人々がもっとも無能にもなる〉ということを教えてくれたのだ。
ここで板倉が批判する「日本最高のエリートたち」が森林太郎らを指しているのはあきらかである。だが「模倣−創造」という二分法でこの脚気問題を論じることには、わたしはあまり意味はないような気がする。というのも、何を「模倣」とし、何を「創造」とするか、というのは、結局はどこに立って見るかでしかないからだ。見方を変えれば「西洋食が優れている」と考え、パンと肉食を導入しようとした高木は「模倣」する側で、「日本食には何も問題はない」と結論づけた森が、単なる西洋の模倣に留まらなかった、と見ることもできる。
鴎外の時代、人びとは単に脚気の治療法を知らなかっただけではない。ビタミンという種類の栄養素が人間に必要だったことも知らなければ、統計学的な処理もまだ確立されていなかった。
さらに考慮に入れておかなければならないのは、日本人にとって「米」というのは、「主食」という言葉にもあきらかなように、麦やマメなどのほかの穀物とは異なる地位を占めていたことである。
昔にくらべれば、食物の種類もはるかに豊富になり、海外からも多くの食物が輸入される現代であっても、1993年の不作の年にあきらかなように、わたしたちはいまだに米に関しては、「日本で収穫されたもの」に対して特別な思いを抱いている。
明治時代であれば、米に対する気持ちは、いまよりもさらに強いものであったことは想像にかたくない。しかも鴎外はドイツで栄養学の勉強をしている。必須アミノ酸をすべて満たしている米が、麦などにくらべてはるかに栄養の面で「優れている」という意識があったとしても不思議はない。
たとえ原因がわからなかったとしても、麦飯を食べさせると脚気が減ったんだから、麦飯に切り替えるべきだという主張は、確かに筋が通っている。
だがこれはたとえばドクダミやゲンノショウコなどの植物の花や根のどんな成分がどうやって効くかわからなくても、実際に効果があるからドクダミを煎じて飲む、というのと同じ理屈ではないか。いまでこそ、わたしたちはこのような有効性をも認めているが、西洋医学が入ってきた当時、まさに西洋医学の礎を日本に築こうとしていた人びとにとってはこのような民間療法を決して認めることができなかった、というのもまた理解できるのだ。重篤な病気であればあるほど、そうだったにちがいない。
森林太郎の「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果〉の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」という主張もまちがっていない。
わたしたちの身近なところでも、一昨年あたりにしきりに言われたのが「タミフルの異常行動」というものがあった。タミフルを飲んだ人に異常行動が見られた、異常行動の原因はタミフルだ、と一斉に報道がなされ、「わたしもタミフルのおかげで変な経験をした」というまことしやかな体験談を語る人までが現れたのである。そのため2007年には十代にタミフルの処方が禁じられた。
だが、2008年夏、厚生労働省の2つの疫学研究班が「服用と異常行動の因果関係は認められない」とする報告をまとめた、という新聞報道があった。インフルエンザに罹患してタミフルを飲んだ例と飲まなかった例では、異常行動に有意差はなかったのである。
当時の統計がどこまで麦飯と脚気の減少の相関関係ではなく因果関係を明らかにしているのか、本を読むかぎりでわたしにはよくわからなかったのだけれど、脚気病原菌説に固執して、日露戦争時に麦を送ることを拒んだとされる鴎外や青山胤通が、当時意図的に観察可能な事実を無視して、党派的な利害に基づく行動を取ってきたとは言えないように思う。
相関関係のみをもって、麦飯にすべし、とする態度は、果たして医学者のとるべき態度なのだろうか。わたしにはその答えは出せない。結果的には麦飯にしたほうが良かったとしても、それのみをもって森林太郎を非難すべきではないと思うのだ。
誰しもが、正しい決断を下したいと思っている。そう願わない人などいない。けれども、間違いのない、ほんとうに正しい決断を下すためには、人はすべての情報を手に入れなければならない。けれども、すべての情報を手にした人は、決断などする必要はない。正しい唯一の解決策は明らかになっているので、それをすればいいだけだからだ。
その判断の正しさの根拠は何か。なぜそれが正しいと言えるのか。
わたしたちは現実に、その問いに答えを出しながら行動などしてはいない。わたしたちは多くの場合、せっぱ詰まった状況のなかで、ただ、生きることしかできない。そのときそのときで何かをしなければならず、それをなすだけなのだ。それが正しいか、間違っているか、というのは、行動がなされたあと、出来事が終わってから、それを評価する人間が口にする言葉なのである。
いまの時点から見て、「間違った」認識を持った人が、「間違った」見方に固執して、「正しい」認識を持った人びとを弾圧し、排斥した、と批判するのは、あまり意味のあることではないようにわたしには思える。自然科学の「発見」、医学の「発見」、そうしたものが累々たる失敗と間違いの上に築かれるものであることを考えると、たとえそうであったとしても「あのときこうしていれば脚気患者の多くを救えたのに」という論法で批判することはできないのではないか。
わたしに興味があるのは、その評価ではなく、森林太郎がどう生きたかであり、その後、どう生きたか、である。
9.謝罪しなかった軍医総監
森林太郎の脚気問題について言及する人は、かならず彼が、生涯そのことを公式には謝罪しなかったことを記している。そのことがまた彼を批判する根拠ともなっているようだ。
だが、森林太郎は責任を取らなかったのだろうか。わたしがこの「責任」ということを考えるとき、いつも柄谷行人の『倫理21』のこの部分を思い出すのだ。
責任は、われわれが自由である、すなわち自己が原因であるとした時にのみ存在します。現実にはそんなことはありえない。私が何らかの意図をもって行動しても、現実にはまるでちがった結果に終わる場合がある。しかし、その時でも、あたかも自分が原因であるかのように考える時に責任が生じるのです。では、どのように責任をとるのか。それは、謝罪や服役、自殺というようなことだけではないと思います。
……もう一つの望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること。それは自己弁護とは別のものです。
(柄谷行人『倫理21』平凡社)
初めの方で、鴎外は『舞姫』の主人公に、たとえば漱石の『坊ちゃん』とは似ても似つかない人物を選んだことを書いた。太田豊太郎は、自分の意志や良心を曲げ、母親や友人、日本にいる自分を送り出してくれた人びとなど周囲の期待に沿うことを選ぶ。だがそれは栄達を追い求めて積極的に自分で選択したというよりも、むしろ避けがたくそちらに追いやられていったとも言える。
同時に見ておかなければならないのは、作者はそうした主人公を決して許していないのである。主人公は、たとえそれがやむにやまれぬ選択であったとしても、「自己が原因である」とする。太田豊太郎の行動は「卑怯である自分」に根拠があるのだと、彼自身に責任を負わせている。そうした主人公を作家生活の非常に早い段階で造型していった鴎外を、わたしはどうしても後年の軍医森林太郎と重ね合わせて見てしまう。
作家としての鴎外は、やがて史伝を書くようになる。尾形仂は『鴎外の歴史小説』のなかで、鴎外の創作意図をこのように読み解く。
権力と個我との対立の間にどう解決を求めてゆくかという問題、それは実は鴎外が歴史小説に鍬を入れる前夜、いわゆる秀麿物を通して追求し続けてきた問題であった。…
一方、献身の倫理については、…それを忠孝やキリスト教的愛といった固定観念を超える、最も根源的な、そして最も新しい現代思想であると説明している。…
こうして脈絡を辿ってくるならば、鴎外が歴史小説へと進んだのは、それらの問題――権力と個我との対立の問題と、新しい救済の思想としての献身の倫理と――を「歴史」のなかに検証するための「突貫」にほかならなかったといわなければならない。
(尾形仂『鴎外の歴史小説』岩波同時代ライブラリー)
「軍医総監」という職にあった森林太郎のことを、わたしたちはどうしても「権力者」として見てしまう。だが、その彼も「権力と個我との対立」を重要な問題として抱える一個人でもあった。権力と個我が対立したときに、たとえば漱石の「坊っちゃん」のように正義感をもって無責任に振る舞うというやり方もある。「卑怯」のひとことで権力の側を斬って捨て、そこから離れていくことができれば、それは爽快だろう。だが、そうはしない生き方もある。
陸軍省医務局長の職を退官した年に書き始めた『渋江抽斎』のなかに、こんな一節がある。
抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。迥(はるか)にわたくしに優った済勝の具を有していた。
わたしたちはある出来事を概観するとき、「始め」と「終わり」で区切ったひとつの「物語」としてしか理解することはできない。そこでわたしたちは、そこに実際に生きた人びとを、相互関係を押さえた上で、出来事の推移に沿って配置し、結果的には譜面の上でさまざまに動く音符のようなものにしてしまうのだ。だが、実際にそこで生きた人びとは、そんな音符や記号ではない。
そのなかで彼がもっとも力を注いだのは「抽斎」「蘭軒」「霞亭」など徳川時代の考証学者の伝記で、これらの学者は、後世を大きく益するような功績を学問上に立てたわけではなく、花花しい文明を残したのでもなく、もし鴎外が偶然の機会から発掘しなかったら、現在ではまったく埋没してしまったはずの人々です。
しかし鴎外はかえって彼等の平凡な外見と単調な生活のなかに、激しい学問への情熱と、功利をはなれて天分に安んずる真に人間の名にふさわしい高貴な生き方をみとめて、その再現に心血を注ぎました。
(中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書))
鴎外が目を向けたのは、「歴史的事件」という名の交響曲の譜面に書かれた音符たちではなく、自分と同じようにその時代と状況に否応なく巻き込まれながら、誠実に生きた人びとを浮かび上がらせることだった。
そうであるなら、わたしたちがやることは、彼がやったことが現代の知識や道徳や常識に照らし合わせて、正しかったかどうだったかを判断することではないだろう。
鴎外は直接には「脚気問題」のみずからの誤りについて書き残すことはなかったが、かといって彼が「徹底的に検証し認識」することはなかった、ということにはなるまい。それを知るためには、まず、鴎外の書き残したものを、丁寧に読みなおしていくことから始めたい。