ここではサマセット・モームの "The Outstation" の翻訳をやっています。
これは1926年に発表されたモームの短編集 "The Casuarina Tree" (『カジュアリーナ・トリー』としてちくま文庫から邦訳あり)に所収されています。
東南アジアからオセアニアにかけての太平洋諸島に生えるカジュアリーナという木があります。あまりなじみがないのですが、日本では木麻黄(もくまおう)と呼ばれるこの木は、砂地に根を張り、土地を安定させ、防風の役目を果たすのだそうです。この短編集はすべてマレー半島とボルネオ島という当時のイギリスの植民地を舞台にしています。その地でなんとか根を張ろうとしているイギリス人を木麻黄になぞらえているのでしょう。
この作品では、極端に閉鎖的な環境に置かれたふたりの人物が描かれます。同国人という共通点しかない、出身階級のまるで異なるふたり、それゆえに考え方も仕事のやり方もまるで異なる。こうしたふたりがどうなっていくんでしょうか。
原文は
http://maugham.classicauthors.net/outstation/
で読むことができます。
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奥地駐在所
by サマセット・モーム
新しい補佐官がその日の午後到着した。駐在官ミスター・ウォーバートンは、プラウ(※マレー半島の手漕ぎ帆掛け船。〔参考画像〕)が見えました、という報告を受けて、日よけのヘルメットをかぶると、桟橋まで下りていった。八人の小柄なダヤク族の護衛兵が直立不動の姿勢で見送る。護衛兵の物腰はいかにも兵士らしく、折り目正しい清潔な制服と、磨き込まれた銃を、彼は満足げに見やった。こうしたことは彼の育成のたまものなのだ。
桟橋で、河の曲がったところを見つめながら、いまにも舟が姿を現すのではないかと待ち受けた。清潔なキャンバス地のズボンと白い靴を履いた彼は、なかなか隆とした風采である。小脇に抱えた握りが金のマラッカステッキは、ペラクのスルタンから贈られたものだ。
新任者を待つ彼の気持ちには、さまざまな思いが入り交じっていた。地区の仕事はたった一人で務めあげるには無理があるし、管轄区域を定期的に巡回もしなければならない。そんなとき駐在所は現地人の事務官に任せるのだが、これもいざというときは困ったことである。そのくせ、長いあいだ彼がたったひとりの白人だったので、もうひとりそこに加わることには不安の念を覚えずにはいられない。孤独にはもう慣れていた。戦争中など、イギリス人の顔ひとつ見ないで三年間を過ごしたのだ。林野省の役人に宿を提供するよう指令を受けたときは、パニックに襲われてしまい、この会ったこともない人物がいよいよ到着する日が来ると、歓迎の手はずだけは準備万端整えた上で、上流区域に行かなければならないよんどころない事態が起こりまして……、と置き手紙を残して、逃げ出したのである。客がそこを出立したという知らせを受けとるまで、帰ろうとはしなかった。
とうとうプラウは河を曲がりきり、広い直線流域に姿を現した。舟を漕ぐのはさまざまな罪状のダヤク族受刑者で、桟橋では彼らを刑務所につれて帰るふたりの看守も待っていた。漕ぎ手は河に慣れた屈強な男たちで、力強い棹さばきを見せている。舟が桟橋に横づけされると、棕櫚の日除けの下から男が出てき、舟を下りた。護衛兵たちは捧げ銃をした。
「やれやれ、やっと着きましたよ。ぎゅうぎゅう詰めでね。おっと、あなたに手紙を言付かってきました」
その口調は若々しく屈託がない。ミスター・ウォーバートンは礼儀正しく手を差し出した。
「ミスター・クーパー、でしたね?」
「そうです。それとも、ぼく以外にもお待ちの方がおいでなんですか?」
冗談のつもりでそう聞いたのだろうが、一方の駐在駐在官はにこりともしなかった。
「私がウォーバートンです。君のお部屋に案内しましょう。荷物は運ばせます」
ウォーバートンは先に立って細い道を進んでいき、小さなバンガローがぽつんと立っている居住区に入っていった。
「できるだけ住み心地が良いように気を配ったつもりですが、なにしろ長いこと誰も使っていなかったので」
バンガローは高床式のものだった。広いヴェランダの向こうには横に長い居間、そのさらに奥は廊下をはさんで寝室がふたつ、という作りになっている。
「これなら十分です」クーパーは言った。
「おそらく君も風呂に入って、着替えたいところでしょう。もし今夜、食事を私と共にしてもらえれば、大変ありがたいのだが。八時ではいかがかな?」
「ぼくならいつでもいいですよ」
駐在官は丁重な、だが、いくぶんとまどったような笑みを浮かべ、そこを出た。自分の住居のある「要塞」に戻る。アレン・クーパーから受けた印象はあまり好ましからぬものではあったが、根が公平だったために、一瞥しただけで評価を下すのはまちがっていることも理解していた。クーパーは三十歳前後というところか。背の高い、痩せた体つきで、貧相な顔には血の気さしている部分がなかった。顔全体がくまなく同じ色合いなのである。おおぶりなかぎ鼻と青い目をしていた。バンガローに入り、日除け用ヘルメットを取って、控えていたボーイに軽く放って渡したミスター・ウォーバートンは、そのときクーパーの大きな頭、茶色い髪を短く刈り込んだ頭は、脆弱で小さな顎と何か奇妙なほどちぐはぐな感じだったことを思いだした。カーキ色の半ズボンと同じ色のシャツという身なりは、どちらもヨレヨレで薄汚れていた。ヘルメットも型が崩れていたし、何日も洗ったこともなさそうだった。だが、ミスター・ウォーバートンは、あの若い男も蒸気船で一週間も沿岸沿いに航行してきたのだし、そこからさらに四十八時間、帆掛け舟の底に横になって過ごしていたのだ、と考え直した。
「夕食にはどんな格好で来るか、それでわかるというものだ」
ミスター・ウォーバートンは自室へ入ったが、私物が整然と配置されているその部屋は、まるでイギリス人の召使いでもいるかのようだった。服を脱ぐと階段をおりて浴室に入り、冷たい水を浴びる。ここの気候に唯一譲歩したのは、ディナー・ジャケットを白にすることで、あとは、礼装用シャツに高襟をつけ、絹の靴下にエナメルの靴という、ロンドンのポール・モール街のクラブに夕食に出かけるような、フォーマルな出で立ちだった。入念なもてなし役を務めるために、ダイニング・ルームに入ると、食卓の用意がぬかりなく整っているかどうか確かめた。蘭は華やかに咲き、銀器は輝いている。ナプキンも凝った形に畳んであった。銀の燭台は覆いがかけてあり、柔らかな光をあたりに投げかけている。ミスター・ウォーバートンは満ち足りた笑みを浮かべ、居間に戻って客を待った。まもなく客が現れた。クーパーはあのカーキ色の半ズボンにシャツ姿、それにボロボロのジャケットという上陸の時と同じ格好である。出迎えたミスター・ウォーバートンの微笑は、そのまま凍りついてしまった。
「ひゃぁ、たいそうなおめかしですねえ」クーパーは言った。「あなたがそんな格好でいらっしゃるとは夢にも思いませんでした。サロン(※腰巻き)で来るところでしたよ」
「いや、たいしたことではありません。君のところの使用人たちも忙しかったのでしょう」
「わざわざぼくのために正装していただかなくても良かったんです」
「そうではありません。私はいつも夕食は正装することにしています」
「おひとりでも?」
「ひとりのときは特にそうしているのです」ミスター・ウォーバートンは氷のようなまなざしを向けた。
クーパーの目がおもしろがっているようにきらりと光ったのに気がついて、ミスター・ウォーバートンは怒りに赤くなった。短気な男なのである。紅潮したその顔に浮かぶ、食ってかかりそうな表情からも、白くなりかけてはいるが赤毛からも、そのことはうかがえる。青い目は、たいていのときには冷静で鋭いのだが、突如、怒りに燃えることもあるのだった。とはいえ世間をよく知っており、公平でもあろうとしてもいた。たとえこんな男が相手でも最善を尽くさなければ。
「ロンドンにいたころ、私が身を置いていた場所ではね、毎晩、夕食に正装しないのは、毎朝入浴しないのと同じくらいの変人だということになっていたのですよ。ボルネオに来ても、こうした良い習慣を続けてはいけない理由などないでしょう。戦争中の三年間は、私は白人にひとりも会わなかったが、食事におりてこれないほど具合の悪いときをのぞいては、一晩たりとて正装を怠ったことはないんです。君はこの国に来て日も浅い。だが、言っておきます。自分が持つべきプライドを保っておくためには、これに優る方法はないのですよ。白人がほんの少しでも周囲に左右されるようなことがあれば、即座に自尊心を失うことになってしまうし、自尊心を失ってしまえば、現地人はその瞬間に、白人を尊敬することをやめてしまうにちがいない」
「なるほどね。生憎、ぼくに礼装用のシャツや固いカラーを期待していただいても、この暑さじゃ、ご期待には沿えないかもしれませんが」
「ご自分のバンガローで食事をするなら、もちろん好きな格好をすればいいでしょう。だが、私と食事を楽しんでいただけるような折には、文明社会で通常、誰もがするような格好をすることが、唯一、礼儀にかなうことだと、そのうち君もわかってくださるでしょうがね」
マレー人のボーイがふたり、サロンに黒いビロードのトルコ帽、真鍮のボタンのついたしゃれた白い上着といういでたちで入ってきた。ひとりはジン・パヒットを、もうひとりはトレーにのせたオリーブとアンチョビを手にしている。やがて主人と客は夕食の席に着いた。ミスター・ウォーバートンはボルネオでは最高の中国人コックを抱えていることが自慢で、そのコックはたとえ不自由な環境にあっても、すばらしい料理を作るためには、努力を惜しまない。かぎられた食材から最高のものを引き出す才覚があるのだった。
「メニューをごらんになりますか?」そう言ってクーパーに渡した。
メニューはフランス語で書いてあり、料理にはすべて仰々しい名前がついている。先ほどのふたりのボーイが給仕に控えていた。部屋の反対側にはさらにふたりが巨大なうちわを使って、蒸し暑い空気をかき回している。食事は豪勢なもので、シャンペンもすばらしかった。
「毎日ひとりでもこんなことをしてるんですか?」クーパーが聞いた。
ミスター・ウォーバートンは、気のなさそうにメニューに目を走らせる。「今日もふだんとさほどちがってはいないのですよ。私自身は小食の方なのですが、かならず毎晩ちゃんとした夕食を準備させることにしています。コックの腕前をさびつかせないことにもなりますし、ボーイにとっては、規律を身につけさせることでもある」
会話は容易なことでは進まなかった。ミスター・ウォーバートンはことさらに慇懃な態度を取ったが、それには、相手にばつの悪い思いをさせたいという、いささか意地の悪い喜びも含まれていたのだろう。クーパーはセンブルに来てほんの数ヶ月にしかなっていなかったので、ミスター・ウォーバートンがクアラ・ソロールにいる友人のことをたずねても、話はすぐに終わってしまった。
「ところで」やがてミスター・ウォーバートンは口を開いた。「ヘナリーという青年にお会いになりましたか? 最近来たと聞いたんだが」
「ええ、そうです。警察にいます。とんでもないやつだ」
「まさか彼が。友人のバラクロー卿の甥っ子なのですよ。レディ・バラクローからつい先日、面倒をみてくれるように、という手紙をいただいたばかりなのだが」
「そんなふうな誰かの親戚だっていう話は聞きました。だからあの仕事にだって就けたんでしょう。イートンからオックスフォードへ行った、なんていうのが口癖で」
「それは驚きだ」ミスター・ウォーバートンは言った。「かれこれ二百年、あの一族はみんなイートンからオックスフォードへ進んでいるんです。そんなことは彼にしてみたら当たり前のことのはずなんだが」
「いばりくさったやつだ」
「君の出身校はどちらかな?」
「ぼくはバルバドスの生まれです。そこの学校を出ました」
「なるほど」
ミスター・ウォーバートンはこの短い返答にありったけの侮蔑をこめたために、クーパーの頬は赤くなった。しばらくのあいだ彼は口を開こうとしなかった。
「クアラ・ソロールから二通か三通、手紙を受けとっているんです」ミスター・ウォーバートンは続けた。「それによると、ヘナリーはなかなかよくやっているようだったんだが。なんでも一流のスポーツマンらしいですね」
「ああ、その通りです。まったくたいした人気者ですよ。K.S.(※クアラ・ソロール)にいるような連中にはもってこいなんでしょう。ぼくなんぞ、一流のスポーツマンなんてまったく用はないんですが。長い目で見たら、ゴルフやテニスが普通の人間よりうまくったって、それが何になるっていうんです? ビリヤードで一撞目七十五出したって、いったい誰が気にするんでしょう。なんでイギリスじゃそうしたくだらないことを夢中になってありがたがるんだろう」
「君がそう思うということですね? 私は一流のスポーツマンは、あの戦争でも誰より立派に戦ったという印象を受けているのですが」
「ああ、戦争のことがお聞きになりたいんですか。ぼくは実際に行ったんだからよく知ってますよ。ぼくはヘナリーと同じ連隊にいたんです。兵隊はみんな言ってましたよ。いくら金をもらってもやつと一緒にいるのはご免だ、って」
「どうしてそれを?」
「ぼくもそのひとりでしたから」
「ああ、君は将校ではなかったんですね」
「将校なんてものになれるチャンスがあるわけないじゃないですか。ぼくなんぞ、いわゆる植民地育ちってやつなんですから。パブリック・スクールに行ったわけじゃなし、縁故だってありゃしない。ずっと一兵卒のままです」
クーパーは顔をしかめた。口汚くののしりそうになったのを、かろうじて思いとどまったらしい。ミスター・ウォーバートンはそれをじっと見ていた。小さな青い目を細め、よくよく観察し、彼に対する評価を定めたのである。話題を変えて、クーパーが担当することになる仕事の話を始めた。やがて時計が十時を打ったので、彼は立ち上がった。
「さて、これ以上お引き留めするのはよしましょう。君も長旅で疲れているでしょうから」
ふたりは握手を交わした。
「そうだ、あのですね」クーパーが言った。「ボーイをひとり探してもらえませんか。ぼくが使っていたやつは K.S.を発つとき、いなくなってしまったんです。荷物や何やかや積み込んでたんですが、いつの間にか行方をくらましたんだ。舟が出てしまうまで気がつかなかったんだが」
「私が使っているボーイ長に聞いてみましょう。誰か見つけてくれるはずだ」
「わかりました。ぼくのところへ寄越すようにおっしゃってください。使うかどうかは自分の目で確かめたいから」
月が出ていたので、ランタンの必要はなく、クーパーは「要塞」を横切って、自分のバンガローに戻っていった。
「さてもまたどうしてあんなやつを送りこんで来たのだろう」ミスター・ウォーバートンは独り言を言った。「これからもあの手合いばかり寄越すようなことがあれば、こちらとしても対応を考えなくてはな」
彼は庭をそぞろ歩いていく。「要塞」は小高い丘のてっぺんに位置しており、庭はゆるく下りながら、河を見下ろす崖まで続いていた。その崖の側にはあずまやがあり、夕食がすむとそこへやってきて両切りの葉巻をふかすのがミスター・ウォーバートンの習慣だった。下の河から声が聞こえてくることもあった。声の主はマレー人で、日の明るい内には思い切って出てくる勇気もない連中が、不平不満をそっと伝える密やかな声が聞こえてくることもあれば、情報やヒントとなるような話がささやかれることもあった。ほかでは手に入らない、役人の耳には入らない話である。
ミスター・ウォーバートンは籐の長いすにどさりと身を投げ出した。クーパーというやつ! 嫉妬の固まりで、育ちが悪く、尊大で我が強く、そのうえうぬぼれまでひどいときている。だが、夜のしんとした美しさのなかにいると、ミスター・ウォーバートンのいらだちも、いつしか治まっていく。入り口脇の木に咲く花は、甘い香りを漂わせているし、ホタルはぼんやりとした光を瞬かせながら、ゆるやかに銀色の軌跡を描いている。月の光は広々とした川面に一条の道を作り、シヴァの花嫁の軽やかな足が踏んでいくのを待っているようだ。ミスター・ウォーバートンの心はいつのまにか平安に満たされていた。
彼はいささか変わった人物で、その経歴もまた一風変わっていた。二十一歳で十万ポンドというかなりの額の遺産を相続し、オックスフォードを卒業すると、当時の(現在、ミスター・ウォーバートンは五十四歳である)良家の青年を待ち受ける華やかな生活に身を投じた。マウント・ストリートにフラットを構え、自家用の一頭立て二輪馬車を買い、ウォリックシャー州に狩猟小屋を置いた。上流人士が集う場所には必ず顔を出す。男ぶりはよく、話がおもしろく、なにより金離れが良い。1890年代も初めのうち、ロンドンの社交界でひとかどの人物となった。社交界がまだ閉鎖的で、華やかさを失ってはいない時代である。社交界を根底から揺るがしたボーア戦争など、思いもよらない頃であり、社交界がめちゃめちゃになってしまった世界大戦も、せいぜい悲観主義者の予言の内にあるだけだった。当時、金持ちの若い男であるということは、なかなかどうして、悪くないことだったのだ。社交シーズンともなれば、ミスター・ウォーバートンのマントルピースの上には、つぎからつぎへと開催される大きな行事への招待状が山積みされていった。ミスター・ウォーバートンは自己満足に浸りきり、それを飾って喜んだ。
つまり、ミスター・ウォーバートンは俗物だったのである。俗物といっても、臆病なそれ、自分より立派な人物を前にすると、気圧されて恥じ入るようなタイプではなく、また、政界の大立て者や著名な芸術家と見ると、すぐにすりよって親しくなろうとするタイプでもなく、また、財に幻惑されることもなかった。彼はまったくあっぱれなまでに平凡な俗物で、貴族が心底、大好きなのだった。かんしゃく持ちですぐ腹を立てたが、庶民におべっかを使われることよりも、貴族から冷たくあしらわれる方を、はるかに好んだ。彼の名は、バーク貴族年鑑にはほんの数語しか割かれていなかったが、それでも親戚をたどっていくと、高貴な一族の連枝につらなり、自分もその家系に属することを、何かあれば口にする、その持って生き方は見事なほどだった。ところが逆に一言もふれなかったのは、母親にあたるミス・ガビンズは、リヴァプールの堅実な工場主の下から嫁いできた娘で、彼の財産もそこから来ていたことだった。ワイト島のカワス・ビーチやアスコット競馬場で、彼が公爵夫人や、さらには皇族と同席しているようなときに、こちらの親族が彼との縁故関係を明らかにしようものなら、彼の社交生活も、恐るべき事態となることはまちがいなかったのである。
こうした彼の弱みは言わずとしれた事実であったから、そのために彼の評判が悪くなるようなことはなかったが、逆に、彼の金離れの良さが、彼を軽蔑から救うことにもなった。彼が崇拝する貴族たちは、彼を笑い者にしながら、内心、崇拝されて当然、と思ったのである。哀れなウォーバートン、もちろんひどい俗物だが、つまるところ、いいやつさ。
貧乏貴族のために、彼は喜んで手形の裏書きをしてやった。手元不如意ともなれば彼の出番である、すると百ポンドは当てにすることができた。贅沢な晩餐会を開いた。トランプのホイストは下手だったが、上流人士が相手であれば、どれだけ負けようが気にしなかった。賭け事をすることがあっても、運に恵まれなくても、きれいに負ける。一度に五百ポンド負けるようなことがあっても、まったく平然としていられる彼には誰もが感心しないではいられなかったのである。
だが、トランプに熱中してしまったこと、爵位に寄せる情熱に優るとも劣らぬほどに夢中になったことが、彼のつまずきのもととなった。生活そのものにたいそう金がかかったことに加えて、賭け事での損失が次第に彼を圧迫しはじめた。最初は競馬、それから株取引と、彼は深みにはまっていった。彼の性格にはある種、単純素朴なところがあり、それにつけこんだ恥知らずな連中が彼を食い物にしたのである。頭の切れる友人たちが陰で笑っていたかどうかは私の知るところではないが、彼の方は、金を惜しみなく使うこと以外に、受け入れられるすべがないのを、ばくぜんと知っていたのだろう。やがて彼は金貸しの手に落ちた。破産したのは三十四歳のときだった。
彼は自分が属する階級の意識に染まりきっていたから、その後の身の振り方を決めるとき、まったく躊躇することがなかった。彼の階級では、財産を蕩尽してしまった人間は、植民地へいくのだ。ミスター・ウォーバートンが愚痴をこぼすのを聞いた者はなかった。不幸な結果となった投機も、貴族の友人の勧めに従ったのであれば、不平を言うには当たらない。貸した金の返済を迫ることもせず、自分の負債だけは完済すると(彼自身は気づきようもなかっただろうが、この面では彼の軽蔑するリヴァプールの工場主の血がものを言ったのだ)、誰の助けも求めず、これまでの人生でただの一度も働いたことのなかった彼が、生計の道を探したのである。相も変わらずほがらかで、屈託がなく、ユーモアにあふれている。たまたま出会った誰かに、我が身の不運の独演会をやってみせて、不快な気分を味あわせたところで、一体何になる? ミスター・ウォーバートンは確かに俗物ではあったが、同時にまたジェントルマンでもあったのだ。
数年に渡って毎日往き来した貴族の友人に、彼が頼んだのは一通の推薦状だけだった。当時のセンブルのスルタンが、彼を雇ってくれることになった。出立する前の晩、彼は最後にクラブで夕食を取ることにした。
「ウォーバートン、君はどこかに行くそうじゃないか」ヘレフォード老侯爵が声をかけた。
「はい。私はボルネオに行くことになりました」
「それは結構。で、そこには何をしに行くんだね?」
「そうではなくて、私は破産してしまったのです」
「おお、そういうことだったのか。気の毒なことだった。だが、戻ってくるときにはぜひ知らせてくれたまえ。向こうではうまくいくことを祈っておるよ」
「ありがとうございます。狩猟を楽しみにしております」
侯爵はうなずくと行ってしまった。数時間後、ミスター・ウォーバートンは、霧のなか、遠ざかって行くイギリスの海岸を見つめていた。人生の生き甲斐としていたあらゆるものを残して、彼はその地を去ったのである。
それから二十年が過ぎた。彼は何人もの貴婦人と、頻繁な手紙のやりとりを続けたが、彼の手紙はいつも愉快で他愛のないものだった。爵位を持った人々に対する敬愛の念はいささかも翳ることなく、彼らの消息を伝えるタイムズの記事(発行日より六週間後に届く)には細心の注意をはらっていた。誕生、死亡、結婚を報じるコラムを熟読し、いつでも即座にお祝いやお悔やみの手紙を書けるよう準備していたのである。挿絵つきの新聞は、人々がどんな装いをしているかを教えてくれるし、恒例のイギリス帰省の折りには、あたかも交際が途切れたことなどないように、社交界の表舞台にどのような新顔が現れようが、すべて心得ていたのである。上流社会に対する関心は、自分がそこの一員だったときと同じように、彼の内に生き生きと脈づいていたのだった。
だが気づかないうちに、いつのまにかもうひとつの関心事が彼の生活に入りこんでいた。自分でつかんだその地位が、彼の虚栄心を満たしたのである。もはや高貴な人々をなんとか笑わせようと必死のおべっか使いではなく、彼が主人、そうして彼の言葉が法なのだ。通りすぎるときにはダヤク族の衛兵が捧げ銃をするのを見て、心は満たされた。自分と同じ人間を裁くのは、なかなかいい気分のものだった。敵対する部族長同士の争いを調停するのも楽しかった。かつて首狩り族が反乱を起こしたときには、鎮圧に乗り出したが、そうしている自分に胸が震えるほどの誇らしさを感じていたのだった。臆することのない勇気というよりも、とびぬけて強い虚栄心が強かったのだ。敵の陣地がある村にたったひとりで乗り込んで、血に飢えた海賊どもに降伏を迫った彼の冷静沈着ぶりは語りぐさとなった。彼は巧みな統治者だった。厳格であり、同時にまた誠実でもあったのだった。
彼は少しずつマレー人に深い愛情を持つようになっていった。風俗や習慣に深い関心を寄せ、彼らの話に耳を傾けて倦むことがなかった。彼らの美点を高く評価したし、欠点に対しては、微笑んで肩をすくめるだけで、見逃してやった。
「私も昔は」と折に触れ、彼は口にする。「イギリス超一流のジェントルマンと親しく交わらせてもいただいたのだよ。だが、家柄のいいマレー人ほど高潔なジェントルマンは見たことがない。彼らこそ私の友人であると誇りを持って言えるね」
彼はマレー人の礼儀正しさや、洗練された立ち居振る舞い、温順な性質にもかかわらず、突発的に噴出する情熱を愛した。彼らとどのようにつきあったら良いのか、本能的に理解できたのである。彼らに寄せる愛情には嘘がなかった。だがその一方で、自分が英国紳士であることを一瞬たりとも忘れることはなく、マレー人の習俗に染まってしまった白人にはがまんがならなかった。彼は決して環境に身を委ねようとはしなかった。多くの白人に倣って、現地の女性を妻にすることもなかった。この手の情事がたとえならわしとして是認されていたとしても、彼の目からすれば、あり得ないばかりか、威厳に欠ける振る舞いなのだった。皇太子アルバート・エドワード殿下から、ジョージとお声をかけられた人間が、どうして現地人などと関係を持つことができようか。
だが、イギリスへの帰国を終えてボルネオに戻ってくると、いまではなにかしら安堵の念を覚えるのだった。友人も、彼同様、もはや若いとはいえなかったし、彼のことを退屈な年寄りとしかみなさない新しい世代も登場していた。今日のイギリスは、彼の愛した若き日のイギリスが備えていた数々の素晴らしいものをすっかり失ってしまったらしい。だが、ボルネオは変わらない。いまではここが我が家だ。できるだけ長くこの職を務めたい、そうして心の底では、引退を迫られる前に死にたいと願っていたのだった。たとえどこで死ぬにせよ、亡骸はセンブルに運び、彼の愛した人々の間に、静かにながれる河の音が聞こえる場所に葬って欲しいと、わざわざ遺言を残していたのである。
だがこうした感情を、彼は人目に触れぬように隠していた。隆とした身なりと恰幅の良い体つき、きれいに髭を剃り、意志の強い顔をし、白髪が混じりはじめた男の胸の底に、これほど深い思いが大切にしまわれているとは、誰も夢にもおもわなかっただろう。
この駐在所での仕事はどのようになされるべきなのか、ミスター・ウォーバートンにはよくわかっていたので、それから数日間というもの、部下の挙動を警戒しながら観察した。骨身を惜しまない、仕事のできる人物であることはすぐに見て取れた。唯一の欠点は、現地人に対して態度が荒っぽいことだった。
「マレー人というものは、恥ずかしがり屋で感じやすいのだよ」ミスター・ウォーバートンは言った。「君もそのうちわかるだろうが、日頃からなるべく丁重に、辛抱強く、理解のあるところを見せてやったらいい。そうすれば君ももっとうまくいくだろう」
クーパーは短い、勘に障る笑い声をあげた。
「ぼくはバルバドス生まれですし、戦争中はアフリカにいたんです。黒人についてなら知らないことなんてありません」
「アフリカはどうか知らない」ミスター・ウォーバートンは苦々しい声で言った。「だが私は黒人のことを言っているのではないのだよ。私たちが相手にしているのはマレー人なのだ」
「やつら、黒んぼじゃないんですか?」
「君は何一つわかってないね」ミスター・ウォーバートンはそう言うと、そこから先は口をつぐんでしまった。
クーパーがやってきて、初めての日曜日、ミスター・ウォーバートンは彼を食事に招待した。すべての面でかしこまったもので、その前日にも職場で顔を合わせ、仕事が終わると六時から「要塞」のヴェランダでジン・ビターを一緒に飲んだのに、わざわざ正式な招待状をボーイにバンガローまで届けさせた。クーパーは、気が進まないまま正装に着替えて出向いていった。ミスター・ウォーバートンは自分の希望が受け入れられたことには満足したが、青年の服が仕立てが悪い上に、シャツも体に合ってないのを見て、軽蔑の念がわきあがってくるのだった。とはいえその夜のミスター・ウォーバートンは、上機嫌だった。
「ところで」握手しながら言った。「君のボーイに誰か手頃な人間はいないか、ボーイ頭に聞いてみたんだ。甥を紹介されたよ。だから私も会ってみたんだが、賢そうだし、やる気もある青年でね。君も会ってみないかね?」
「そうしましょう」
「そこに待たせてあるんだ」
ミスター・ウォーバートンは自分のボーイに、甥を呼びにやらせた。すぐに背の高い、華奢な体つきの二十歳ぐらいの青年がやってきた。大きな黒い目で、整った横顔をしている。サロンを腰に巻き、短い白い上着と、房のついていない濃い紫色のヴェルヴェットのトルコ帽をかぶっているその姿は、なかなか垢抜けているた。名前を聞かれて、アバスでございます、と答えた。ミスター・ウォーバートンは、よしよし、とうなずいて、流暢で自然なマレー語で話しかけているうちに、物腰が次第にやさしくなっていった。白人に相対するときは、つい皮肉めいた態度を取ってしまう彼も、マレー人に対しては、気取らず優しい態度で接することができるのだった。まさに彼はスルタンの風格があった。威厳は保ったまま、原住民をくつろがせるすべを知悉していたのである。
「彼をどう思う?」ミスター・ウォーバートンはクーパーの方に顔を向けて聞いた。
「いいんじゃないですか。ほかの連中にくらべて、とりたてて性悪ってわけでもなさそうだ」
ミスター・ウォーバートンは青年に、君に決めたよ、と伝えて下がらせた。
「彼のようなボーイが見つかって、君も運が良かったよ」クーパーに向かって言った。「たいそう良い家柄なんだ。百年ほど前に、マラッカからやってきた一族らしいんだが」
「靴を磨いたり、酒が飲みたくなったら持ってきてくれるようなボーイが、貴族の血筋だろうがどうだろうが、どうだっていいんです。ぼくの言うことをさっさとやってくれりゃそれで十分なんだから」
ミスター・ウォーバートンは口をぎゅっとすぼめたが、何も言わなかった。
ふたりはダイニング・ルームに入っていった。料理は一流、ワインもまたすばらしい。効果はすぐにあらわれ、ふたりの間からとげとげしさが消えたばかりか、友好的な空気さえもが漂い始めた。ミスター・ウォーバートンは日頃から良い食事を楽しんでいたのだが、日曜の夜は、ふだんよりもさらに良いものを取ることにしていた。私はどうもクーパーに公平ではなかったようだ、という気がし始めていた。確かにこの男はジェントルマンではないが、それは仕方がない。つきあいが深くなれば、ああ、これはいい人間だったと思うようになるかもしれないのだ。問題があるとすれば、おそらく礼儀に欠けることだろう。確かに仕事の面ではよくやっているし、やることも早い、きわめて熱心だし、疎漏なく務めている。デザートが運ばれるころには、ミスター・ウォーバートンは、あまねく人間というものに愛情を抱きたくなっていた。
「今夜は君がここへ来て最初の日曜日だ。だから、特別なポートワインを進呈しよう。もうあと二ダースしか残っていないから、特別のとき専用というわけなんだ」
ボーイに持ってくるように言うと、まもなくボトルが運ばれてきた。ミスター・ウォーバートンはボーイが栓をあけるのをじっと見守っている。
「このポートワインはね、私の昔からの友人、チャールズ・ホリントンがくれたものなんだ。彼のところで四十年、それから私のところでさらに何年も寝かしている。ホリントンはイギリスでも最高のワイン貯蔵室を持っていることで有名なんだよ」
「ワイン商か何かですか?」
「そうではない」ミスター・ウォーバートンは微笑んだ。「私が言っているのはカースルレーのホリントン卿のことなんだよ。卿はイギリスで一番裕福な貴族だろうね。私もずいぶん以前から友だちづきあいをさせてもらっているが。イートンで卿の弟と一緒だったんだ」
ミスター・ウォーバートンにしてみれば、せっかくのチャンスを見逃す手はない。ちょっとしたエピソードを話し始めたのだが、どうやらそれも、自分はある伯爵を知っている、と言いたいがためだけのものらしかった。ポートワインはたいそう口当たりが良い。一杯干し、二杯干す。そのうちにふだんの慎重さもどこかへ置き忘れてしまった。白人と話すのも数ヶ月ぶりなのだ。彼はさまざまな話を続けた。貴族と一緒に過ごした日々を、これみよがしに語った。話を聞いていると、内閣の成立も、施政方針の決定も、彼がとある公爵夫人の耳ににささやいた助言や、晩餐会の席で披露した彼の意見を王室顧問がありがたく受け入れた結果であるとすら思えてくるのだった。アスコットやグッドウッドの競馬場、カウズでのヨットレースなど、古き良き時代が彼の内によみがえる。さらにポートワインをもう一杯。ヨークシャーやスコットランドでは盛大なパーティが開かれ、そこに毎年招待されたっけ。
「当時私はフォアマンという男を使っていたんだがね、彼がまた、召使いとしてはこれ以上、望むべくもないほどの男だった。そのフォアマンが暇をとりたいと言ったのはどうしてだと思う? 召使い部屋で、貴婦人に仕えるメイドや貴族に仕える従僕は、主人の身分に準じて席に着くことになっていることは君も知ってるだろう。フォアマンが言うには、行くパーティ行くパーティ、私がただひとりの平民なもんだから、うんざりだというんだ。つまり、いつもテーブルでは末席があてがわれるんで、料理のおいしいところは全部、彼のところにくるまでになくなってしまうんだそうだ。だから私はその話をヘレフォード公爵にお話ししたんだ。すると、公爵は大笑いされてね。『おやおや、もし私がイギリス国王なら、君の従僕に機会を与えてやるためだけでも、君を子爵にしてやるんだがな』とおっしゃったんだよ。だからわたしはこう申し上げた。『閣下ご自身でお使いになってください。あれほどの従僕を私はこれまで使ったことがございませんから』するとこうだ。『なるほど、ウォーバートン、君がそんなに良いと言うんだったら、私にとっても役に立つにちがいない。寄越してくれたまえ』とな」
それから、モンテ・カルロでミスター・ウォーバートンとフョードル大公が組になって、ある晩、胴元を破産させたことがあった。マリンエバートでの話もある。マリンエバートで、ミスター・ウォーバートンがバカラをやった相手はエドワード七世だった。
「そのころはまだ皇太子であらせられたんだがな、もちろん。陛下がこうおっしゃったのを私はいまでも覚えているよ。『5を引きでもしたら、君は無一文になってしまうな』そうして、その通りになったのだ。陛下がおっしゃったことのうち、これほどドンピシャリ、その通りになったことは、他にはおありにはならなかっただろうよ。すばらしいお方だった。ヨーロッパでも並ぶ者のないほどの外交家でいらっしゃると、私はいつも言ってきたんだ。だが当時の私は経験もない愚か者でね、陛下のアドバイスを聞く分別がなかった。もし私が仰せの通りにしていたなら、5を引くこともなく、そうしたらいまここにいることもない」
クーパーは相手をじっと見つめていた。眼窩の奥にある茶色い目は、厳しく傲慢な色をうかべ、唇は嘲るような笑みが浮かんでいる。クアラ・ソールにいるころから、ミスター・ウォーバートンのことならずいぶん耳にしていた。悪いやつじゃないさ、おまけに担当区域を切り回す腕の確かなこと。だがな、やつの俗物ぶりといったら! 彼のことをみんなは笑ってはいたが、悪意からではなかった。こんなに気前の良い、親切な人物を嫌うことなどできなかったのだ。クーパーはすでに皇太子とバカラをやった話は知っていた。だがクーパーは、ご機嫌をとるつもりなどなかったが、ともかくも聞いてやった。最初から駐在官の物言いは気にくわなかった。クーパーはたいそう神経質なところがあったし、相手の皮肉めかした慇懃な態度には、身もだえするほど勘に障る。ミスター・ウォーバートンは、自分にとって好ましくない相手の言葉は、意地の悪い沈黙で応えるのが得意だった。クーパーはイギリスに住んだことがほとんどなく、イギリス人が嫌いなのだった。とりわけパブリック・スクール出身者はごめんこうむりたかった。というのも、やつら、おれの風上に立つつもりなんだろう、と勘ぐっていたからだ。人から威張られることを何より嫌っていたクーパーは、代わりに自分から先に威張ってみせるのだった。そのために、誰もが彼のことを我慢できないほどうぬぼれたやつだと思うのだった。
「まあ、どういう事情があったにせよ、戦争のおかげでひとつだけいいことがありましたね」さんざん聞いたあとでクーパーは言った。「上流階級の勢力を完膚無きまでにうち砕いたんですからね。ボーア戦争から始まって、1914年の開戦がとどめをさした」
「イギリスの名門も消え去る運命にあるのだ」ミスター・ウォーバートンは悲しげな表情を芝居がかって浮かべてみせる。まるでルイ十五世時代の宮廷を思い起こす亡命貴族(エミグレ)を気取るかのように。「貴族ももはやあの燦然と輝く王宮に暮らすこともなくなるだろうし、あの豪勢な歓待もやがて追憶の内にしか残るまい」
「ぼくに言わせればそれも、まったくたいした成果じゃないんですかね」
「おお、悲しきクーパー君、君に“在りし日のギリシャの栄光、在りし日のローマの威風”(※エドガー・アラン・ポーの詩『ヘレンに』)が理解できるかね」
ミスター・ウォーバートンは気取ったポーズを取った。つかのま、そのまなざしは夢のような過去の景色を見ていたのだった。
「ですがね、正直、そんなたわごとにはもううんざりなんです。ぼくらに必要なのは、実務家による実務的な政府ですよ。ぼくは英領直轄植民地に生まれて、これまでずっと植民地暮らしを続けてきました。貴族なんてどんな値打ちも認めてやしません。イギリスで問題なのは、その俗物根性です。まったく何よりいらつくのは、俗物ですよ」
俗物! ミスター・ウォーバートンの顔は蒼白になり、目は怒りに燃えた。その言葉こそ、半生を通じて彼につきまとって離れない言葉だった。若い頃、彼が夢中になった社交界のレディたちは、彼が捧げる賞賛を、まったく捨てて省みなかったわけではなかった。それでも貴婦人といえど、ご機嫌麗しくないときもあり、一度ならずミスター・ウォーバートンも面と向かって、そのひどい言葉であざけられたこともある。彼だって知っていた、知らないわけにはいかなかったのだ。自分のことを俗物と呼ぶおぞましい人々がいることを。見当違いにもほどがある。実際、俗物根性ほど彼が嫌っている悪徳もないのである。何であれ、彼がつきあいたかったのは、自分と同じ階級の人々、彼らと一緒にいると、心からくつろげる人々だったのに。いったいそれがどうして俗物根性ということになるというのだ。類は友を呼ぶというではないか。
「まったく君の言うとおりだ」彼は言った。「俗物とは自分より社会的地位が高いというだけで、人を尊敬したりさげすんだりする人間のことだ。それこそ、イギリス中産階級の何より下賤な欠点だよ」
クーパーの目に、おもしろそうな色が浮かぶのが見えた。クーパーは唇に浮かびそうになった大笑いを手で隠そうとしたために、かえってそれがめについたのだ。ミスター・ウォーバートンの手は小刻みに震えた。
おそらくクーパーは、自分がどれだけひどく上司の神経を傷つけたか、決して知ることはなかっただろう。自分自身は傷つきやすいくせに、他人の感情には、奇妙なほど無神経なのだった。
仕事の都合上、わずかな時間であってもふたりは顔を合わさないわけにはいかず、六時になると、ミスター・ウォーバートンのヴェランダで一杯やることになっていた。これはこの国で古くから続いている習慣で、ミスター・ウォーバートンも、世界が滅びるようなことでもない限り、やめるつもりはなかった。だが食事は別々に取った。クーパーは自分のバンガローで、ミスター・ウォーバートンは自分の「要塞」で。事務所での仕事が終わると、ふたりとも日が暮れるまで散歩に出たが、そのときも別々の道を行った。ボルネオは道そのものが少なく、村のプランテーションを出ると、もうそこはジャングルだったのだが、ミスター・ウォーバートンは自分の部下がだらしのない歩き方で通りすぎていくのを視野の隅にでもとらえると、顔を合わせずにすむよう迂回するのだった。クーパーの礼儀知らずのところや、独断的な面、寛容さに欠ける傾向は、それだけで腹に据えかねるものではあった。だがクーパーが支局にやってきて二ヶ月あまりが過ぎたころに起きたある出来事がきっかけで、駐在官の嫌悪は、冷え切った憎悪にまで高まったのだった。
ミスター・ウォーバートンは奥地へ視察に行かなければならなくなったが、駐在所をクーパーに任せることには何の不安もなかった。クーパーがきわめて有能であることには、もはや疑いの余地がなかったからである。ミスター・ウォーバートンがたったひとつ気にくわなかったのは、寛容さに欠けるところだった。生真面目ではあったし、骨身惜しまず働いた、だが原住民に対しては、一切の情をかけてやることがなかった。ミスター・ウォーバートンは、クーパーが人間はみな平等だと思っているくせに、多くの人々を自分より劣ると見なし、原住民に対しては、過酷で容赦ない接し方で威張り散らすのを見て、いささか苦い思いでおもしろがってもいた。マレー人たちが、クーパーを嫌い、怖れていることは、ミスター・ウォーバートンの目にも明らかだった。だが、それがかならずしも不快だったわけではない。もし部下が人気があって、自分のライバルということにでもなれば、それはそれでおもしろくはなかっただろうから。
ミスター・ウォーバートンは、十分な準備をした上で視察に出向き、三週間後に戻ってきた。その間に郵便物が届いていた。自分の居間に入って真っ先に目に入ったのは、開封した痕跡がはっきり残っている新聞の山だった。出迎えたクーパーも、一緒に部屋に入ってきた。ミスター・ウォーバートンは、留守番をしていた召使いに向かって、この封を切った新聞はいったいどういうことかね、と厳しい調子で聞いた。クーパーはあわてて説明した。
「ウルヴァーハンプトンで起こった殺人事件のことが知りたかったんで、あなたのタイムズを見せてもらったんです。全部元に戻しておきました。たいしたことではないと思ったので」
ミスター・ウォーバートンは怒りで蒼白になった顔をそちらに向けた。
「私にとってはたいしたことなのです。大変重要なことなのです」
「すいません」クーパーは落ち着き払ってそう答えた。「正直、お帰りまで待っていられなかったんです」
「手紙も開封しなかったのが不思議だよ」
クーパーはいらだちを隠せないでいる上司に向かって、平然と笑いかけた。
「それは話がちがいますよ。それにしても新聞を見たくらいで、そこまでお気になさるとは夢にも思いませんでした。新聞なんて別に個人的なものではないですし」
「誰であっても私より先に私の新聞を読んでは絶対にいけないのだ」彼は新聞の山のところに行った。三十部近くが溜まっていた。「まったく失礼な話だ。めちゃくちゃじゃないか」
「順番ならすぐに直しますよ」そう言いながら、クーパーもテーブルに寄った。
「手を触れるな」ミスター・ウォーバートンは悲鳴をあげた。
「こんなことで大騒ぎするなんて、大人げないじゃありませんか」
「よくも私に向かってそんな口の利き方ができたな」
「くそっ、えらそうにしやがって」クーパーは言うと、身を翻して出ていった。
ミスター・ウォーバートンは怒りに震えながら、新聞をつくづくと眺めた。彼の人生最大の喜びが、下品で無神経な手によってめちゃくちゃにされてしまったのだ。へんぴなところに住む多くの人々が、郵便が届くと同時に、待ちきれずに封を切るのは何よりも新聞で、それも日付の一番新しいものを手にとって、本国の最新のニュースに目を通そうとするのが普通だ。だが、ミスター・ウォーバートンはそうはしなかった。新聞販売店には、帯封の表にひとつずつ日付を入れてから発送するよう申し渡していた。その大きな束が届くと、ミスター・ウォーバートンは日付を調べて青鉛筆で番号を打つ。ボーイ長がそれを毎朝、ヴェランダに用意してある朝食のテーブルに、朝のお茶とともに置いておく。そうしてお茶をすすりながら封を切り、朝刊を広げるのが、ミスター・ウォーバートンにとって、ことのほかうれしいひとときだったのである。いっとき母国にいるような幻想にひたることができる。月曜日の朝は、六週間前の月曜日のタイムズを読み、それが週日続く。日曜日はオブザーバー紙。ちょうど、ディナーに正装する習慣と同じで、これもまた文明社会と彼とを結ぶ絆なのだった。たとえどれほど血を騒がせるようなニュースがあったとしても、誘惑に屈して決められた日にちの前に開けてみるようなことは、彼のプライドが許さなかった。戦争中は落ち着かない気持ちは耐えがたく、総攻撃が開始されたある日などは、居ても立ってもいられないほどの苦悶にさいなまれたのだが、その新聞はというと、自分が後日開くという目的のためだけに取ってあり、棚の上で待機しているのである。まさにこのときが最大の試練だったが、彼はそれを見事に乗り越えた。ところがあの不器用な馬鹿者が、きちんとかけられた封を、どこかのあばずれが鼻持ちならない亭主を殺したとかいうことが知りたいがために、びりびりに破ってしまったのだ。
ミスター・ウォーバートンはボーイに命じて帯封を取ってこさせた。できるだけきちんと新聞をたたみ直すと、封をかけ、番号をふっていった。だがこれは、気の滅入る作業だった。
「許さん」彼は言った。「絶対に、許さん」
もちろんボーイは彼の視察にも同行した。ミスター・ウォーバートンは決して彼抜きで遠出することはなかった。というのもこのボーイは主人の好みを熟知しており、しかもミスター・ウォーバートンというのは、たとえジャングルに赴くときでも、心の慰めになるものを決して省略することはなかったからである。だが、主人と一緒に戻ってきてから、召使い部屋で話を聞いたという。クーパーがボーイたちともめ事を起こしたらしい。あの若いアバスだけを残して、出ていってしまった。アバスももちろんそこを出たくてならないのだが、なにしろ叔父が、駐在官の命を受けて自分をそこに行かせたものだから、叔父の許可もなく、そこを出るわけにはいかないでいるらしい。
「ですから私はやつに、よくやった、と言ってやりました。旦那様」ボーイは言った。「ですがやつもかわいそうなんです。あまりちゃんとしたお屋敷ではないから、他の者と一緒に辞めてしまってもかまわないかどうか、教えてほしいと申しております」
「それはいかん。主人というものには召使いが必要なのだ。代わりの者はいるのかね?」
「おりません、旦那様。だれも行きたがりません」
ミスター・ウォーバートンは眉をひそめた。クーパーはまったくもって傲慢な馬鹿者だが、公務に就いている以上、それ相応の召使いをあてがっておく必要がある。家内をうまく整えておけないなどとは、たしなみに欠けるにもほどがある。
「逃げ出したボーイたちはどこにいる?」
「村に帰っております、旦那様」
「今夜連中のところに出向いて、私が、明日の朝までにミスター・クーパーのところへ戻るように言っていた、と伝えてくれないか」
「旦那様、もう戻りたくないと言っておりますが」
「わたしが命令しても?」
ボーイはミスター・ウォーバートンに仕えて十五年になるので、主人のあらゆる語調を知悉していた。主人を怖れていたわけではなかったし、苦楽も共にした。かつてジャングルのなかで、駐在官に命を助けられたこともあるし、別のときには急流で舟が転覆し、彼がいなければ駐在官は溺れていたこともある。だが、駐在官の言うことに一も二もなく従わなければならないときがあることも知っていた。「村に行きます」彼はそう言った。
ミスター・ウォーバートンは、部下は機会さえあれば、何を置いても自らの非礼を侘びるだろうと考えていたのだが、クーパーの方は育ちの悪い者によくあるように、自分の過ちを認めることができないのだった。翌朝駐在所で顔を合わせても、クーパーは昨日のことなど素知らぬ顔である。ミスター・ウォーバートンが三週間もよそに行っていたために、話し合いはずいぶん長引いた。話が終わって、ミスター・ウォーバートンは、下がるように言った。「もうこれ以上はなさそうだ。ありがとう」
きびすを返して退出しようとするクーパーを、ミスター・ウォーバートンは呼び止めた。「ところで、君はボーイたちと問題を起こしたように聞いたのだが」
クーパーはとげのある笑い声をあげた。「連中はぼくを脅迫しようとしたんです。生意気なんだ、逃げてったんです、能なしのアバスの野郎だけ残して――やつは金になる場所だけはよく知ってるらしい――だけどぼくは平気で坐ってましたよ。そしたらおとなしく帰ってきた」
「それはどういうことかね?」
「今朝になって、残らず仕事に戻ってきたんです、中国人のコックやら何やら。けろっとした顔で家にいる。なんだか自分たちの家だとでも言いたげな顔だった。ともかく連中も、ぼくが見かけほどバカじゃないとわかったから、戻ってきたんでしょうけどね」
「とんでもないよ。私がじきじきに言ってやったから彼らも帰ってきたのだ」
クーパーの頬はかすかに赤らんだ。
「ぼくのプライヴェートには口を出さないでいただけるとありがたいんですが」
「これは君のプライヴェートではない。召使いに逃げられるようなことがあれば、物笑いになるのは君だよ。君が自分一人で馬鹿をみるのはまったく勝手だが、世間から馬鹿にされては、私が困るのだ。君の家にしかるべき召使いもいないとなど、不体裁きわまりない。ボーイたちが出ていったと聞いたので、すぐに、朝までには戻ってくるように伝えたのだ。そういうことだよ」
ミスター・ウォーバートンは、もう話は終わった、という意味を込めてうなずいた。クーパーはそれを無視した。
「じゃあぼくがどうしたか教えてあげましょう。ぼくはね、連中を集めて、全員クビにしてやったんです。十分間やるから、とっとと出ていけってね」
ミスター・ウォーバートンは肩をすくめた。
「君は代わりを見つけられるとでも思ってるのかね?」
「事務官に探すように言っておきました」
ミスター・ウォーバートンはしばらく考えていた。
「君のやったことは実に馬鹿げとるよ。良い主人の下に良い召使いが育つ、ということを、これからはしっかり胸に刻んでおいたほうがいい」
「ぼくが習っておかなきゃならないことはまだあるんですか?」
「礼儀も教えた方が良さそうだが、これはなかなかに難しい修行だし、そんな無駄なことをする時間の余裕はわたしにはない。ボーイの方は私が見つけてあげよう」
「わざわざぼくのために、やっかいなことをしていただかなくて結構です。ぼくだって自分で見つけられますよ」
ミスター・ウォーバートンは意地の悪い笑みを浮かべた。どうやら私がクーパーを嫌いなのと同じくらい、クーパーも私のことが嫌いらしい。確かに、嫌悪している相手から、むりやり恩を着せられるほど悔しいこともあるまい。
「これだけは言わせてくれたまえ。君がイギリス人の執事がほしい、フランス人のコックがほしい、と言ったって無理なのと同じぐらい、マレー人であろうが、中国人であろうが、ここではもはや君が召使いを見つけられるチャンスはないだろう。私が命令するのでもないかぎりは、君のところへ行こうと言う者などいないよ。私にそうしてほしいかね?」
「結構です」
「じゃ、好きなようにするんだね。失敬」
ミスター・ウォーバートンは事態の成り行きを眺めながら、意地の悪いおもしろがり方をしていた。クーパーの事務官は、マレー人もダヤク人も中国人も、こんな主人の家でも仕えようという気にさせることはできなかった。アバスはいまだに忠実に仕えていたが、土地の料理しかできないために、味覚のがさつなクーパーも、来る日も来る日も出てくる米には、吐き気を催すほどだった。水汲みをする人間もいないが、ひどい暑さのせいで、日に何度かは風呂に入らないではいられない。アバスを口汚くののしっても、ふてくされたまま拒否するだけで、自分で決めたこと以外は、何一つやろうとしなかった。ここを出ていかないのも、駐在官の命令のせいだと思うと、悔しい思いは募った。この状態が二週間あまりも続いたある朝、クーパーが目を覚ますと、以前叩きだしたはずの召使いたちが、ひとり残らず戻ってきている。はらわたが煮えくりかえる思いがしたが、多少の分別を今回のことで身につけたために、無言のまま、召使いたちを受け入れた。屈辱をぐっと呑みこむことはしたが、ミスター・ウォーバートンの性癖に対して抱いていた耐えがたいほどの嫌悪感は、陰鬱な憎悪へと変わっていったのである。駐在官の悪意に満ちたやり方のおかげで、原住民みなにバカ扱いされて笑われたのだ、と。
ふたりはいまやまったく往き来をやめてしまった。個人的な好悪の感情を超えて、六時になると駐在所の白人は、かならず一杯を共にするという伝統的な習慣も、彼らは破ってしまったのである。お互いがそれぞれの家で過ごし、相手など存在しないかのようにふるまった。いまではクーパーも仕事に適応してきたので、事務所で上司の手が必要なこともなかった。ミスター・ウォーバートンは、部下に用があるときは、当直に伝言を持たせたし、指示は公式文書で送ることにした。始終、相手の姿は目に入るのはどうしようもなかったが、一週間に五つの単語を交わせば良い方だった。相手の姿が視野を横切ることは避けられない、そのことがいっそう互いの神経に障ったのである。相手への反感は片時も胸を去らず、ミスター・ウォーバートンは日課である散歩をしながら、憎んでもなお余りある部下のこと以外は何も頭に浮かばないのだった。
おぞましいことに、互いを仇敵として憎みながら対峙するこの状態は、ミスター・ウォーバートンの賜暇のときまで、ということは三年間はほぼ確実に続くのである。彼に対する不満を本部に訴えられるような口実もなかった。クーパーの仕事ぶりは実際のところ大変に良好で、しかも、なかなか人材の得がたい時期でもある。確かに、不平不満の声は、それとなく耳に入ってきたし、原住民がクーパーを残酷だと感じていることも知っていた。彼らの間には、クーパーに対する不満が蔓延していた。だが、ミスター・ウォーバートンが個々の事例を調べてみると、せいぜい言えることは、クーパーが、穏やかに接してもいいような場面で厳しかったとか、自分であればもっと同情を示したであろうときに冷酷だった、というぐらいのことでしかない。叱責に値するようなことは何一つしていないのだった。
だが、ミスター・ウォーバートンは監視を続けた。ときに憎悪は人を明敏にするものだが、彼には、クーパーが現地人をこき使いながらも法律を逸脱することがないのは、上司を苛立たせるためではあるまいか、という疑いさえ生まれたのだった。おそらく、いつかやつもやり過ぎるにちがいない。ミスター・ウォーバートンには、この絶えざる猛暑が人の気分をどれほどむしゃくしゃさせるものか、眠れない夜が明けたあとは自制心を保つのがどれほどむずかしいか、だれよりもよくわかっていた。彼はひとりほくそ笑んだ。遅かれ早かれクーパーは自分からこちらの手に落ちる。
ついにその機会が到来して、ミスター・ウォーバートンは高らかに笑うことになる。囚人の監督はクーパーの任務だった。囚人たちは道路の舗装や小屋の建設、必要があればプラウを漕いで河を上り下りし、町を掃除し、休むことなくさまざまな使役を科せられていた。態度が良ければ家のボーイとして雇われることもある。この囚人たちをクーパーは酷使したのである。彼らが働いてさえいれば、気分が良かった。あれこれとやらせる仕事を工夫するのが楽しかったのだ。だが、すぐに自分たちが用もないことをやらされていることに気がついた囚人たちは、ろくに働かなくなったのである。クーパーは労働時間を延長する罰を与えた。だがこれは規則違反で、このことがミスター・ウォーバートンの知るところとなると、この件を部下に諮ることなく、指示を与えて従来の時間に戻したのである。散歩中のクーパーは、囚人たちがぶらぶら歩きながら刑務所に戻っていくのを見かけて驚いた。暗くなるまで仕事をやめては駄目だと言っておいたではないか。担当の看守に、どうして連中は仕事をやめたのだ、と問いただすと、これも駐在官の命令だという。
怒りで蒼白になったクーパーは、「要塞」へつかつかと入っていった。ミスター・ウォーバートンは、しみひとつない白いキャンバス地の服に、小ぎれいなヘルメットをかぶり、ステッキを手にして、犬を従え、午後の散歩に出かけようとしていたところだった。クーパーが出かけたのを見ていて、河沿いの道を選んだことを確かめていたのだ。クーパーは階段を大股に駆け上がり、まっすぐ彼に向かった。
「なんで命令を取り消すようなことをしたんだ。囚人は六時まで働かなきゃならんのに」怒りに我を忘れて怒鳴った。
ミスター・ウォーバートンは冷たい青い目を丸くして、いかにも驚いたような表情を装った。
「君、気は確かかね? 上官に向かって口の利き方も知らないのか?」
「いい加減にしろよ。囚人はおれがカタをつける。あんたには口をはさむような権利はないはずだ。あんたはあんたの仕事をすりゃいいんだし、おれの仕事はおれがやる。おれをバカにしていったい何が楽しいんだ。あんたがおれの命令をひっくり返したってことは、ここにいる連中ならみんな知ってるぞ」
ミスター・ウォーバートンは冷静なまま動じない。
「君にはそんな命令を出したりはできないのだよ。私がそれを取り消したのは、あまりに厳しすぎるし、しかも残酷だからだ。いいかね、私は君を笑い者にしようとなんてちっとも思ったわけじゃない、君が自分を笑い者にしたんだよ」
「あんた、おれがここへ来た最初っから、ずっとおれのことを憎んでただろう。あんたはおれがここにいられないように、できるかぎりのことをやってきた。それというのもおれがあんたのご機嫌取りをしなかったからだ。あんたはずっとおれに恨みを持ってただろう。おれはおべんちゃらを言わなかったからな」
怒りをぶちまけながら、クーパーは徐々に危険な領域に近づいていった。ミスター・ウォーバートンの目が急に冷たさと鋭さを増した。
「君は間違っているよ。確かに私は君が育ちが悪いとは思ったが、君の仕事ぶりにはきわめて満足していたのだ」
「この俗物めが。ほんとにあんたは俗物のくそったれだよ。おれが育ちが悪いって? おおかたイートン出じゃないからだろう。けっ、K.S.でもみんな忠告をくれたっけな。知らないだろう、あんた、国中でいい物笑いにされてるんだぜ。ほんと、すんでのところで馬鹿笑いしそうになっちまったよ、あんたお得意の皇太子の話を聞かされたときにはなあ。ははっ、クラブでその話が出たとき、みんなどれだけ笑ったか。ああ、おれは育ちが悪くて結構だよ、あんたみたいな俗物よりよっぽどいい」
ミスター・ウォーバートンは痛いところを突かれた。
「わたしの部屋からすぐに出ていけ。さもないと殴り倒すぞ」彼は叫んだ。
相手は一歩踏み出して、顔を間近に寄せた。
「やってみろよ、さあ」クーパーは言った。「ほらよ、殴ってみろよ。もう一回言ってやろうか? 俗物さんよ。この俗物め」
クーパーはミスター・ウォーバートンより7センチほど背が高く、強靱で、筋肉質の若い男だった。ミスター・ウォーバートンは太り気味の五十四歳である。握り拳を突き出したが、クーパーは腕をつかむとそのまま押し返した。
「バカなことはやめるんだな。覚えとけ、おれは紳士なんかじゃないんだ。自分の手はどう使うものかよく知ってる」
耳障りな笑い声をあげて、とげとげしい蒼白の顔をにやりとゆがめると、クーパーはヴェランダの階段を駆け下りていった。ミスター・ウォーバートンは怒りのあまりに心臓が肋骨にふれるほど激しく動悸を打つのを感じながら、疲れ果てて椅子に沈みこんだ。汗疹でもできたかのように体中が疼く。一瞬、耐えきれず、泣きたいような思いに襲われた。だが、すぐにボーイ長がヴェランダにいることに気がついて、反射的に自制心を取り戻す。ボーイは進み出て、グラスにウィスキー・ソーダを注いでくれた。
物も言わず、ミスター・ウォーバートンはグラスを取り上げ、ぐっと飲み干した。
「何か話でもあるのかい?」ミスター・ウォーバートンはそう尋ねると、引きつった唇をゆがめて何とか笑顔を作ろうとした。
「旦那様、クーパー旦那様は悪いお方です。アバスはお暇をいただきたいと申しております」
「少し待ってくれ。クアラ・ソロールに手紙を書いて、ミスター・クーパーをどこかよそに移してもらうから」
「クーパー旦那様はマレー人とはうまくいきません」
「ひとりにしてくれないか」
ボーイは黙って下がった。あとにはミスター・ウォーバートンが屈託した思いを抱えたままひとり残された。クアラ・ソロールのクラブの情景が目に浮かぶ。人々がスポーツウェアのまま、窓辺のテーブルを囲んでいる。夜になったので、ゴルフやテニスをやめて集まってきたのだ。ウィスキーやジン・パヒットを飲みながら、マリンエバートでの皇太子と彼の有名な話を持ち出して、笑い転げている。彼は恥ずかしさと惨めさに炙られるように感じた。俗物! みんな、自分のことを俗物だと思っている。私はいつだって彼らをいい連中だと思ってきたし、たとえ低い地位の相手であっても、何の分け隔てもせず、紳士的にふるまってきたはずだ。いまは彼らが憎かった。だが彼らに対する憎悪も、クーパーに向けたそれに比べるとものの数ではない。殴り合いにでもなれば、クーパーは私を完膚無きまでに打ちのめすだろう。屈辱の涙が、赤くふっくらとした頬を伝った。ミスター・ウォーバートンは二時間あまりも、あとからあとからたばこをふかしながら坐っていた。死んでしまいたかった。
とうとうボーイがもどってきて、夕食のお時間ですがお召し替えをなさいますか、と尋ねた。もちろんだとも! 夕食のときはかならず着替えるのだ。けだるそうに椅子から立ち上がると、礼装用のシャツと高いカラーに着替えた。美しく飾られた食卓に着いて、いつもどおり、ふたりのボーイの給仕を受け、他のふたりが大きなうちわであおいでくれる。二百メートルほど離れたバンガローでは、クーパーが薄汚い食事を、サロンと短い上着だけの格好で取っているのだろう。裸足のまま、おそらく探偵小説でも読みながら食べているにちがいない。食事が終わるとミスター・ウォーバートンは机に向かって手紙を書いた。スルタンは不在の折りだったが、代理に宛てて、親展扱いとした。クーパー君の仕事ぶりにはまったく問題はないのですが、私は彼とやっていくことに困難を感じております。お互いのあいだにひどく緊張が高まっており、クーパー君をどこか別の局に転任させていただければ感謝の念にたえません。
翌朝、特別便として手紙を送った。その返事は二週間後、月ごとの郵便物と一緒に届いた。私信の扱いで、内容は以下の通りだった。
親愛なるウォーバートン
公式の文書ではないほうが良かろうと思いますので、私信のかたちで返事をさせていただきます。もちろん強いてのご依頼となれば、スルタンにもこの件案を上呈させていただきますが、そうはなさらぬほうが賢明かと存じます。私もクーパー君が磨かれざる玉のような人物であることは存じておりますが、有能ではありますし、また戦時、たいそう辛酸も舐めたようで、彼にはチャンスを与えられてしかるべきと思う次第です。誠に失礼ながら、貴下におかれましては、いささか人物の社会的地位を過度に重要視されるきらいがあるように思われます。時代が変わりつつあることをどうかお忘れになりませぬよう。紳士たることが望ましいのは言うまでもないことですが、有能かつ勤勉は、さらに重要な資質と言えましょう。なにとぞいま少しのご寛容をクーパー君に示されますよう、期待しております。
敬具
リチャード・テンプル
手紙がミスター・ウォーバートンから落ちた。行間を読むのはたやすいことだ。ディック・テンプル、二十年来の知己であるディック・テンプルが、地方有数の旧家の出である彼までもが、自分のことを俗物と見なし、だからこそ彼の要求を呑むつもりなどないと言っているのだ。ミスター・ウォーバートンは、急に人生に対して、一切の希望を失ってしまった。彼の属する世界は、すでに過去のものであり、未来は卑しい世代の手に渡った。クーパーがその典型であり、だからこそ自分はクーパーを心の底から憎んだのだ。グラスを満たそうと手を伸ばすと、それを見てボーイ長がそばに寄ってきた。
「君はそこにいたのか」
ボーイは手紙を拾い上げた。なるほど、だからそこで待っていたのか。
「クーパー旦那様はよそに行かれますか?」
「いいや」
「何かよくないことが起こるかもしれません」
しばらくの間、疲れ切った彼の頭には、その言葉は意味を結ばなかった。だが、それも一瞬のことだった。彼は居ずまいをただしてボーイを見つめた。緊張が走った。
「それはどういうことだね?」
「クーパー旦那様はアバスにたいしてひどいことをなさいます」
ミスター・ウォーバートンは肩をすくめた。クーパーのような人間に、召使いの扱いがどうしてわかる? ミスター・ウォーバートンにはそんな手合いならよく知っていた。召使いにたいして、あるときはいやになれなれしかったかと思うと、つぎの瞬間、尊大で、無思慮にふるまうのだ。
「アバスを家に帰してやってよろしい」
「クーパー旦那様はアバスが逃げ出さないよう、給金を取り上げてしまわれました。もう三ヶ月も払っていただいておりません。辛抱するよう言って聞かせたのですが、アバスも腹に据えかねております。もう道理など聞く耳をもちません。もしクーパー旦那様がこんなひどい仕打ちを続けられるのでしたら、よくないことが起こるかもしれませんのです」
「いいことを教えてくれた」
なんという愚かなやつだ! 連中を傷つけて無事でいられると思っているなんて、マレー人のことをそこまでわかってないのか。まあ、背中をクリースでざっくりやられでもしたら、いい報いだがな。クリース……。ミスター・ウォーバートンは急に心臓が止まりそうになった。ただ事態を放置しておきさえすれば、いつかそのうちクーパーを厄介払いできることになるかもしれない。不意に「巧妙なる無活動」(※「下院という機構に忠実であろうと思えば、賢明かつ巧妙なる無活動こそ安泰をもたらす」という歴史家・政治家のジェイムズ・マッキントッシュ卿の言葉)というせりふが胸をよぎり、かすかな笑みが浮かんだ。自分の憎むあの男が、うつぶせになってジャングルの小道に倒れ、背中にナイフが突き刺さっている光景が目に浮かぶようで、動悸が少し速くなってきた。卑劣で弱い者いじめするようなやつには、相応の最期ではないか。ミスター・ウォーバートンは溜息をついた。警告を与えてやらなければなるまい。義務は果たしてこそ義務なのである。彼はクーパーに、すぐに「要塞」に来られたし、と、短い改まった手紙を書いた。
十分後、クーパーは目の前に現れた。ミスター・ウォーバートンがあやうく殴りかかりそうになった日から、ふたりは一言も言葉を交わしていなかった。このときも、椅子を勧めることはしなかった。
「何かご用ですか」クーパーが尋ねた。
だらしない、清潔にはほど遠い格好である。顔にも手にも小さな赤い湿疹が一面にできているのは、蚊に食われたあとを血が出るまでかきこわしてしまったためのようだ。長い痩せた顔は、ふくれっつらをしている。
「君はまた召使いたちと揉め事を起こしたと聞いている。私のボーイ長の甥のアバスは、三ヶ月も給料をもらってないと文句を言っているぞ。あまりに身勝手な話じゃないか。彼は辞めたがっているが、そう言われても仕方がなくはないか。君は給料を払わなくてはならんよ」
「アバスに出ていかせるわけにはいきません。勝手なまねをしないよう、抵当として給料を差し押さえてるんです」
「君はマレー人の性質を知らんね。マレー人というのは傷つきやすく、侮辱されることに大変敏感なんだ。感情的だし復讐心も並はずれている。これも私の義務だから君に警告しておこう。ボーイをそんなふうに扱っていると、取り返しがつかないような危険な目に遭う羽目になるぞ」
クーパーは馬鹿にしたようにクックッと笑った。
「やつがどうすると言うんです?」
「君は殺されるだろう」
「気になりますか」
「私としてはいっこうにかまわんよ」ミスター・ウォーバートンはかすかに笑った。「そんなことが起こったところで、せいぜい少しの間、辛抱しさえすればいいのだから。だがな、上官としての義務がある。必要な警告は与えたからな」
「おれがあんな黒んぼなんかを怖がるとでも思うんですか」
「そんなことは私には何の関心もないことだ」
「じゃあ、これだけ言っておきましょう。自分の始末ぐらい自分でできます。アバスってボーイは、薄汚い盗人野郎なんだ。こっそり何かしでかそうもんなら、首根っこをへし折ってやる」
「私の話はこれだけだ」ミスター・ウォーバートンは言った。「ごきげんよう」
ミスター・ウォーバートンは、もう行ってよろしい、というしるしに、軽くうなずいてみせた。クーパーの頬はサッと赤くなり、一瞬、何を言えばよいのか、あるいは、何をしたらよいのか、わからなくなったようだったが、すぐに踵を返して、あやうく転びそうになりながら部屋を出ていった。ミスター・ウォーバートンは冷たく笑いながらその様子を見ていた。ともあれ、やるべきことはやったのだ。だが、もし彼が、押し黙ったまま悄然とバンガローに戻ったクーパーが、そのままベッドに倒れ込み、せつない孤独感に打ちひしがれて、どうにも自分を抑えきれなくなってしまったのを知ったら、どう思っただろう。胸を引き裂くような痛々しい嗚咽が洩れ、やせた頬を大粒の涙が転がり落ちた、と知ったなら。
こののち、ミスター・ウォーバートンがクーパーに対面するような機会はなくなり、まして口を利くことなど絶えてなかった。毎朝タイムズを読み、事務所で仕事をし、散歩に出かけ、正装して夕食を取り、食事をすませると、河辺に坐って両切り葉巻をくゆらせる。偶然、クーパーに出くわすようなことがあっても、素知らぬ顔をした。お互い、この誰よりも近くにいる相手を意識しないではいられないのに、あたかも存在しないかのようにふるまう。時間が経過しても、双方の敵意が和らぐことはなかった。互いに行動を監視し、相手が何をしているかちゃんと知っていた。ミスター・ウォーバートンは若いころは熱心に狩りに出かけたが、年齢と共にジャングルの野生の生き物を殺すことに対する嫌悪感が増すようになっていた。一方、日曜や祝日になると、クーパーは銃をかついで出ていった。獲物をしとめると、ミスター・ウォーバートンに対して、勝ち誇ったような気分になる。し損じれば、ミスター・ウォーバートンが、肩をすくめてほくそえんだ。手代風情がスポーツマンとはな!
クリスマスはふたりとも最悪だった。それぞれひとりきり、自分の家で夕食を取り、ことさらに酒を過ごした。三百キロ界隈で白人といえばふたりきり、大きな声を出せば届く距離に住んでいたというのに。新年になってまもなく、クーパーは熱を出して寝込み、ミスター・ウォーバートンが彼の姿をふたたび見かけたときには、クーパーがひどく痩せてしまっているのに驚いた。具合が悪く疲れ切っているようだ。孤独感、本来ならば避けることもできた、本能に反する孤独であったがゆえに、彼の神経は蝕まれ始めていたのだ。ミスター・ウォーバートンにとっても同じで、夜、眠れないことも多く、横になっても物思いにふけるばかりの日が続いた。クーパーの飲酒量は増え、限界が来るのも時間の問題だった。だが、原住民に対する扱いは、上司の叱責を招く隙を与えないよう、気をつけていた。
ふたりは静かで凄惨な闘いを続けていた。苦悩に耐え抜けるかどうかのテストだった。数ヶ月が過ぎだが、どちらも態度が軟化する気配さえない。常世の闇の世界の住人のように、夜明けなど決してやってくることがないと思うと、心は塞がれた。ふたりの生活は、陰気でおぞましい、憎悪一色に彩られたまま、永久に続いていくように思われた。
だが、とうとう避けがたい事態に至ったとき、ミスター・ウォーバートンは思いがけないほどの衝撃を受けたのだった。
クーパーがボーイのアバスを、服を盗んだとなじり、アバスが盗んでいないと言い返したので、クーパーが襟首をつかんで、バンガローの階段からけ落とした。ボーイが、給料を払ってください、と訴えると、クーパーはあらんかぎりの悪口雑言を頭から浴びせかけた。一時間して、まだここの敷地にいるようだったら、警察に突き出すぞ。翌朝、クーパーが事務所に行こうと歩いていると、「要塞」の外でアバスが待ちかまえており、また給料を要求する。クーパーは拳をかためて殴りつけた。地面に倒れ、身を起こしたアバスの鼻から血がドクドクと流れいた。
クーパーはそのまま歩いていくと、仕事に取りかかった。だが、どうにも仕事に集中できない。殴ったことで、苛立ちこそ治まったが、自分がやりすぎたことはよくわかっていた。落ち着かなかった。ムカムカし、みじめで、気分が沈んだ。隣の部屋にいるミスター・ウォーバートンのところへ行って、自分がしでかしたことを打ちあけたいという衝動にかられた。椅子から立ち上がりかけたが、自分の話に耳を傾けるのは、冷たい、馬鹿にしきったような顔なのだ。恩着せがましい笑顔が見える。アバスがどんな報復に出るかと思うと、不安が胸に兆した。ウォーバートンはちゃんと警告したのだ。彼は溜息をついた。馬鹿なことをしてしまった。彼はいらだたしげに肩をすくめた。たいしたことじゃない。おれのせいじゃない。これもみんなウォーバートンが悪いんだ。やつをここに置かなければこんなことにはならなかったのに。ウォーバートンがおれの生活を最初からめちゃくちゃにしたんだ。あの俗物が。だが、連中なんてみんな同じだ。おれが植民地生まれだからって。おれが戦争中に将校になれなかったのもあんまりな話じゃないか。おれだってだれにも負けないぐらい、勇敢に戦ったんだ。薄汚い俗物どもが大勢いたせいだ。だれが連中の言うことなんか聞くもんか。もちろん何があったかはウォーバートンの耳にも入るだろう。あのおいぼれ狸はなんだって知ってるんだからな。だが、何を怖れるものか。ボルネオのマレー人をおれが怖がるわけがない。ウォーバートンなんか地獄に堕ちればいいんだ。
ミスター・ウォーバートンが何が起こったかを知ることになるだろうというクーパーの予想は、その通りになった。昼食に戻ったときに、ボーイ長が報告したのである。
「君の甥っ子はいまどこにいる?」
「存じません、旦那様。どこかに行ってしまいました」
ミスター・ウォーバートンは黙りこんだ。昼食後は、彼は少しの間午睡を取ることに決めていたのだが、今日は目が冴えかえっている。クーパーも休んでいるはずのバンガローに、視線は知らず知らずのうちに向かった。
あの馬鹿者が。ミスター・ウォーバートンは胸の内で逡巡していた。あの男は自分がどれだけ危険にさらされているかわかっているのだろうか。クーパーを呼び寄せるべきなのだろう。だがこれまでに、クーパーには何度も道理を説いて聞かせてやったのだ、そのことあるごとに、やつは私を侮辱したではないか。怒りが、燃えるような憤怒が、突如、胸の内を満たした。こめかみに血管が浮き上がり、拳を握りしめた。やつには警告してやったのだ。もうこうなったら自分で蒔いた種は、自分で刈り取ってもらおう。もう私の知ったことではない。何があろうが、やつの責任だ。ことが起こればおそらくクアラ・ソロールの連中も、私の助言を容れて、クーパーを本部へでも戻せばよかったと思うことだろう。
その夜、ミスター・ウォーバートンは不思議なまでに胸騒ぎがした。夕食後も落ち着かないまま、ヴェランダを行ったり来たりしたのだった。仕事を終えて召し使い部屋に下がろうとするボーイに、アバスについて何かわかったか、と聞いてみた。
「いいえ、旦那様。おそらくやつの母方の伯父の村に行ったのではないかと思います」
ミスター・ウォーバートンは鋭い一瞥を投げたが、ボーイは顔を伏せていて、ふたりの視線が交錯することはなかった。ミスター・ウォーバートンは河の方へ歩いていき、あずまやに腰を下ろした。だが、とてもではないが穏やかな心地にはなれそうもない。河の流れは気味が悪くなるほど静かだった。巨大な蛇がのろのろと海に向かって這っているようだ。ジャングルの木々は、息苦しいほど繁って河面に張り出している。鳥の声もない。風は絶え、カッシアの葉むらも静まりかえっていた。自分を取り巻く何もかもが、固唾を飲んで何事か起こるのを待ちかまえていた。
庭を横切って道へ出た。そこからクーパーのバンガローがくまなく見える。居間には明かりがついており、道のところにまでラグタイムが流れてきた。クーパーが蓄音機をかけているのだ。ミスター・ウォーバートンは大きく身震いした。あの機械の音に本能的な嫌悪感をかきたてられて、どうにもならなかった。あんなものをかけてなければ、クーパーのところへ行って話をしてやるのだが。彼はきびすを返して自分の家に戻った。遅くまで本を読んで、やっと眠りについた。だが、まもなく、恐ろしい夢をいくつも見て、目が覚めた。悲鳴が聞こえて、それで目が覚めたような気がする。もちろんそれも夢だろう。たとえ悲鳴があがったとしても――たとえばあのバンガローから――、この部屋まで届くはずがない。夜明けが来るまで、そうやって横になったまま、まんじりともせずにいた。やがてあわただしい足音と人の話し声が聞こえ、ボーイ長がトルコ帽もかぶらずに、部屋に飛び込んできた。ミスター・ウォーバートンの心臓は危うく止まりかけた。
「旦那様、旦那様」
ミスター・ウォーバートンはベッドから飛び起きた。
「すぐ行く」
スリッパをひっかけ、サロンとパジャマの上衣の姿で庭を駆け抜け、クーパーのところに向かった。口を開けたままベッドに横になったクーパーの胸に、クリースが突き刺さっている。寝込みを襲われたのだ。ミスター・ウォーバートンはぎくりとした。この光景が思いがけないものだったからではなく、突然、天にも昇るほどの歓喜が体を満たしたからだ。耐えがたい重荷を両肩からおろしたような気がした。
クーパーの体はすっかり冷たくなっていた。ミスター・ウォーバートンは胸元からクリース抜こうとしたが、異常に強い力で突き立てられていたせいで、抜くのにさんざん手こずった。それからクリースを調べた。
短剣には見覚えがあった。数週間前、商人が売りにきたのを、クーパーの方が買ったのだ。
「アバスはどこだ」厳しい声で聞いた。
「アバスは母方の伯父の村にいます」
現地の警察の警部がベッドの足側に立っていた。
「ふたりほど連れて村へ行って、アバスを逮捕しろ」
ミスター・ウォーバートンがその場でやらなければならないことはもうなかった。落ち着いた表情で命令を下した。言葉はどれも短く明瞭で、有無を言わせぬものだった。それから「要塞」に戻った。髭をそり、入浴し、着替えをすませてダイニング・ルームに入っていく。皿の傍らにはタイムズが封をかけたまま、彼を待っていた。果物を手にとって食べ始めた。ボーイ長がお茶を注ぎ、もうひとりが卵料理を持ってきた。ミスター・ウォーバートンは旺盛な食欲を感じていた。ボーイ長はさがろうとしないでそこに控えている。
「どうしたんだ?」ミスター・ウォーバートンは尋ねた。
「旦那様。甥っ子のアバスですが、昨夜は一晩中伯父の家におりましたそうです。証人もおりますです。伯父は村から一歩も出ていないと証言すると言っております」
ミスター・ウォーバートンは険しい顔でそちらに向き直った。
「ミスター・クーパーを殺したのはアバスだ。私にはわかるしおまえだってそれを知っているはずだ。裁きを受けなくてはな」
「旦那様、やつを死刑になさるおつもりではないでしょうね?」
ミスター・ウォーバートンは一瞬言いよどんだ。声の厳しさは変わらなかったが、目の光が変わった。それもほんの一瞬、光がかすめただけだったのだが、マレー人はすばやくそれを見て取り、諒解した、というしるしに自分もきらりと目を光らせた。
「確かに重大な挑発行為があってのことだからな。アバスも有期刑は覚悟しなくてはならんだろう」沈黙がおとずれ、そのあいだにミスター・ウォーバートンはマーマレードを取った。「刑期の一部を刑務所で務めたら、ボーイとしてこの家で働かせることも考えよう。刑期の一部を君が監督するようにはからってもいい。ミスター・クーパーの屋敷ではろくな習慣を身につけなかっただろうしな」
「旦那様、アバスには自首させた方がよろしゅうございますか」
「それが賢明だろうな」
ボーイは引き下がった。ミスター・ウォーバートンはタイムズを取ると、几帳面に封を切った。重い、がさがさと音を立てる新聞をめくっていくのが彼は何より好きだった。すがすがしく涼しい朝の空気は心地よく、彼の目は親しみのこもったまなざしで庭全体を見渡した。胸の内にのしかかっていた重荷はもうない。彼は誕生や死亡、結婚などの告知欄に目を移した。いつもここから読みはじめるのだ。知人の名前に目が留まった。レディ・オームスカークにとうとうご子息が誕生したらしい。ほほう、ご後室さまもお喜びだろう! お祝い状を書いてつぎの便で送ることにしよう。
アバスはいいボーイになるだろうな。
まったくクーパーも馬鹿なやつだ。
The End
初出Feb.25-March 9 2008 改訂March.15, 2007
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密林の奥にて
モームの短編を読むたびに、小説というのは舞台を設定し、内面にさまざまな矛盾と葛藤を抱えた複雑な登場人物を造型するだけで、筋など考えなくても勝手に動き出すものだという気がしてくる。
モームが最初に脚光を浴びたのは戯曲である。いわゆるコメディが専門で、「洒落て、皮肉で、いわゆるつくられた面白い喜劇が独壇場だった」(サマセット・モーム『かみそりの刃』中野好夫「訳者あとがき」)という。この商業的に大きな成功を収めた戯曲を、モーム自身はかならずしも評価していなかったようだが、限定した場が人に影響を与え、場が人のある側面を引き出すという戯曲的な手法は、この「奥地駐在所」にも十分に見て取れるだろう。
もうひとつ、モーム独特の人物造型の巧みさについては、同じく同書「あとがき」のなかで、中野はおもしろい指摘をしている。モームは両親に早く死に別れたのち、叔父の下で成長する。叔父はモームに聖職者の道を進むことを希望するが、彼は信仰を失っていたために放棄し、医学校へ進む。
医学そのものについては、あまり熱心ならざる学生であった。だが、実習生として、とりわけスラム街住民の診療に当たったときなどは、実に生き生きとした興味に打たれた。そこには見栄もウソもない。人間赤裸々の姿があった。人間に対するあくない彼の興味が、完全に満足させられたからである。この体験が基になって、処女作『ラムベスのライザ』が生まれたことは、周知の通り。とにかくスラム街への往診は、面白くてたまらなかったと記しているし、また、のちに作家専業になってからも、あの医師生活だけはあともう三、四年もつづけたかった、となつかしんでいる。人間と人生を知る絶好の機会だったからであろう。
モームは両大戦とも、諜報関係の仕事にたずさわったのは有名な話である。東南アジアに滞在したのもその時期のこと。この仕事は「人間と人生」にあくなき興味を抱いていたモームにとっては、ことのほかおもしろいものだったろう。
さて、そんなモームの造り上げた「奥地駐在所」のミスター・ウォーバートンも、クーパーも、一言では要約できない複雑な人物である。わたしたちは本を読みながら、どうしても「良い人間」「悪い人間」と分類し、「良い」主人公に寄り添って読む。ところがミスター・ウォーバートンは単純な感情移入を許さないし、「敵役」にあたるクーパーも、決してただの敵役ではない。「人間と人生を知る」モームならではの登場人物と言えるのかもしれない。
ただ、ここでわたしたちはもうひとつおもしろいことに気がつく。このミスター・ウォーバートンとクーパー、一面では相反していながら、一面では不思議なほどの共通点を持っているのだ。ともに有能であること。仕事に対しては誠実であること。自分の価値観を堅持し、周囲に決して流されないこと。
こうやってみてみれば、ミスター・ウォーバートンの貴族に対する素朴なあこがれと、クーパーの貴族への嫌悪感は表裏のものであることに気がつく。つまりは人間の行動を決めるのは、彼がたまたま生まれた場であり、置かれた条件であるということがわかってくるのである。
きわめてよく似た人間、ただし、その価値観が正反対の人間が、きわめて限定的な場に置かれるとどうなるか。同じ事務所での仕事。そこから帰っても、大きな声を出せば届く距離にいる。互いの動静は手に取るようにわかる。相手を無視することもできない。他に気をそらすことのできるような人物もいない。つまり、ふたりの間の距離は、極めてゼロに近いのである。加えて、ボルネオの熱気、湿度、すぐそばにせまるジャングル。ふたりが置かれた場は、出口のないふたりの心理をそのまま浮かび上がらせるものでもある。まさにそこは「緑の地獄」としか言いようのないものだ。二重の意味で距離のほとんどないふたりの対立は、相手の全人格否定にしか向かわない。どちらかがどちらかを(間接的ではあれ)殺さずには決着しないことは、この設定された場からくる必然なのである。
ここで闘争に勝利をおさめたのは、経験において一日の長のあるミスター・ウォーバートンだった。とはいえ、クーパーが勝ったかもしれないのである。クーパーが不利なことはまちがいない。だが、その不利なクーパーが勝てる筋書きを考えてみるのも一興かもしれない。
クーパーを主人公にした「奥地駐在所」の別バージョン、考えついた人がいたら、また教えてください。
初出Feb.25-March 9 2008 改訂March.16, 2007
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訳語について
まずタイトルの "outstation" は、ランダムハウスによると「へんぴな地域にある出張所〔支所・派出所〕」とある。
ミスター・ウォーバートンが就職したのは「イギリス北ボルネオ会社」だろう。マレー半島はイギリスが「マレー連合州政府」を置いて直接統治したが(首都はクアラルンプール、文中のクアラ・ソロールはおそらくここのことと思われる)、ボルネオ島北部は1888年にイギリスの保護領となって以降も、第二次世界大戦が勃発し、日本がボルネオを占領するまで「イギリス北ボルネオ会社」の統治が続く。
この会社は「イギリス東インド会社」と同様、一企業でありながら、そこに領地を所有する政府であり、「税金を徴収し、戦争をし、藩王(※インド各地の小王国の君主)、近隣諸国とさまざまな外交交渉をし、条約を締結した」(浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治 インド高等文官への道』中公新書)のである。
その意味で、タイトルの "The Outstation" は、奥地にある「イギリス北ボルネオ会社」の支店であり、文中に出てくるミスター・ウォーバートンの役職 "Resident" は、「支店長」がふさわしい。
ただ、この支店長、扱っている業務は、もちろん商務もあったのだろうが、むしろ区域の統治という公務のウェイトの方が高い。こうなってくると、歴史的正確性からくる「支店長」という訳語は、かならずしも実情にはそぐわなくなってくるように思える。そこでここでは「奥地駐在所」それに対応してミスター・ウォーバートンの役職を「駐在官」とした。
※参考文献:浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治 インド高等文官への道』中公新書
浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社
池端雪浦他 編『岩波講座東南アジア史5、東南アジア世界の再編』岩波書店
ザイナル=アビディン=ビン=アブドゥル=ワーヒド 編『マレーシアの歴史』山川出版社
初出Feb.25-March 9 2008 改訂March.16, 2007
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