ここでは Shirley Jackson の短編 "One Ordinary Day, With Peanuts"を訳しています。
1955年、アメリカのSF専門誌『ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション』に発表されたこの短篇は、同年の年刊ベストに選ばれたものの、どうしたわけか短編集に収録されることもなく、ずっと忘れられていました。それが、作者没後三十一年が経過した1996年、自宅の物置きから未発表原稿や草稿とともに、この作品を含む未収録の作品が発見され、ふたたび脚光を浴びることになります。それらは "Just an Ordinary Day(ただのありふれた一日)" として出版されましたが、そのタイトルがこの作品から来たことはあきらかでしょう。
ただのありふれた日に、ポケットに落花生をつめて歩く男の正体は、かならずしもはっきりとはしていません。もしかしたら、ジャクスンも不満があったからこそ、生前、短篇集からはずしたのかもしれません。それでも、何もかもがはっきりしなくなり、見る位置を少し変えただけで、絨毯やカーテンの模様がまるでちがって見えてくるように、何もかもがちがったふうに見えてくることを人びとが気がついた現代では、この「得体の知れなさ」も新しい意味を帯びるのかもしれません。
原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/jacksonordinaryday.htmlで読むことができます。
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なんでもない日に落花生を持って
by シャーリー・ジャクスン
ミスター・ジョン・フィリップ・ジョンスンは、玄関のドアを後ろ手に閉め、明るい朝の光があふれる表階段を降り始めた。なべてこの世はこともなし、日差しは暖かいし、なんともいい気持ちじゃないか。底を張り替えたばかりの靴も、履き心地は申し分がない。気持ちのいい日、暖かな日差し、快適な靴にぴったりのネクタイも選んだし、なんのかんのと言ってもこの世はまったくすばらしい。実際には身長の低い彼には、ネクタイの柄はいささか派手過ぎたのだろうが、ミスター・ジョンスンは幸せそうな空気をあたりに振りまきながら下まで降りて、埃っぽい歩道に降り立った。行き交う人に笑いかけると、何人かは笑顔を返してくれる。
かどの新聞スタンドまで来ると立ち止まり、元気いっぱいに「おはよう」と声をかけながら新聞を買う。ミスター・ジョンスンが足取りも軽くそこにやってきたときには、新聞売りのほかに、うまい具合に新聞を買いに来ていた二、三人の人びとがいた。忘れないようにポケットを飴玉と落花生で満タンにしてから、住宅街の方角へ足を向ける。途中の花屋に寄って、襟元のボタンホールに挿すためのカーネーションを一本だけ買ったが、すぐに、ベビーカーのなかの赤ん坊にやるために立ち止まった。びっくりした子供が相手をぽかんと見上げたが、すぐに笑顔になる。ミスター・ジョンスンも笑顔で応え、しばらく様子をうかがっていた子供の母親もまた笑顔になった。
住宅街を数区画進んだところで、ミスター・ジョンスンは大通りを渡って、行き当たりばったりに路地を選んで入っていった。毎朝同じ道を通るより、遠回りして、いろんなことに出くわすが楽しいじゃないか。仕事以外、脇目もふらない大人より、子犬の方が楽しいのと同じこと。
その日の朝は、少し行ったところに引っ越しトラックが停まっていた。アパートの上の階から運び出された家具が、階段を占領するだけでなく歩道にまではみだしている。集まってきた人びとが、てんでにテーブルのひっかき傷や、すりきれた椅子を眺めていた。ひとり、小さなわが子と引っ越し屋と家具とをなんとかいちどきに監督しようとして、疲労困憊のていの女がいる。おまけに家財道具の品定めに余念のない野次馬からは、どうにかしてプライバシーを守ろうと必死のようすだ。ミスター・ジョンスンは脚を止め、しばらく野次馬に混ざっていたが、やがて進み出ると、うやうやしく帽子に手をやり声をかけた。「わたしでよろしければ、おたくの小さなお坊っちゃんの相手をして差し上げますが」
女が振り返ってうさんくさげな目つきで彼をじろじろと見たので、ミスター・ジョンスンはいそいで言葉を継いだ。「この階段に坐っていますから」
彼が手招きすると、小さな男の子は最初はもじもじしていたが、ミスター・ジョンスンの優しい笑顔を見て、うれしそうな顔で寄っていった。ミスター・ジョンスンはポケットから落花生をひとつかみ取り出し、男の子と並んで階段に腰かける。男の子は最初、ママが知らない人から食べ物をもらっちゃいけないって、と断った。だがミスター・ジョンスンが、おそらく君のママだって、ピーナツだったらダメだって言わないんじゃないかな、だってサーカスにいる象さんだって食べるだろ、と言ったので、男の子は少し考えると、きまじめな顔で、そうだね、と言った。ふたりは階段に腰かけたまま、仲良く落花生の殻を割った。ミスター・ジョンスンは尋ねた。「で、君は引っ越しをするんだね?」
「うん」と男の子が答えた。
「どこへ行くの?」
「ヴァーモント」
「いいところだ。雪がいっぱい降る。メイプルシュガーもいっぱいある。君、メイプルシュガーは好きかい?」
「もちろん」
「ヴァーモントではメイプルシュガーがたくさん採れるんだよ。今度住むのは農場かい?」
「おじいちゃんと一緒に住むんだ」
「おじいちゃんはピーナツが好きかな」
「もちろん」
「じゃ、おじいちゃんにも持っていってあげなきゃね」そう言うとミスター・ジョンスンはポケットに手を延ばした。「行くのは君とママだけ?」
「そうだよ」
「それだったら」とミスター・ジョンスンは続けた。「汽車のなかでふたりが食べる分を持って行かなきゃな」
男の子の母親は、さきほどまでしきりにこちらを気にしていたのだが、どうやらミスター・ジョンスンは信頼してもかまわないと判断したらしい。いまや、引っ越し屋が上等のテーブルの脚を折るのではないか、卓上灯の上に食卓の椅子を載せるのではないか、と目を光らせるのに専念している――そんなことをする引っ越し屋など、実際にはまずいないのだが、どこの主婦もそんなことをやらかすにちがいないと信じているのだ。家具はほとんど積み込みが終わり、母親はひどく神経質になっているらしい。荷造りし忘れたものはないか、クロゼットの裏かどこかから、何かひょっこり出てきたりしなかったか。近所の家に置きっぱなしになっていたり、物干しロープにつるしたままになっているようなものは。何かなかったか、思い出そうとあせっている。
「これで全部ですね、奥さん?」責任者に聞かれて、母親はすっかり動転してしまった。
こころもとなげなようすで母親はうなずいた。
「家具と一緒にトラックに乗って行きたいか、坊や?」引っ越し屋は笑いながら声をかけた。男の子も一緒になって笑い、ミスター・ジョンスンに「ヴァーモントは楽しいとこだよね」と聞いた。
「そのとおりだよ」ミスター・ジョンスンはそう答えると立ちあがった。「出発する前に、もうひとつ落花生を食べないか」
男の子の母親がミスター・ジョンスンに「どうもありがとうございました。ほんとに助かりました」と礼を言った。
「なんでもありません」とミスター・ジョンスンはこともなげに言う。「ヴァーモントのどちらへいらっしゃるんです?」
母親は、男の子が何か重大な秘密でも明かしたかのように、なじるようなまなざしでそちらを見やった。そうしてしぶしぶ「グリニッチです」と答えた。
「いい街だ」ミスター・ジョンスンは言った。名刺を出して、裏に名前を書く。「仲のいい友だちがグリニッチにいます。どんなことでもいい、なにかあったら彼を訪ねてみてください。そこの家の奥さんは街一番のドーナツを作るんだよ」小さな男の子に向かって、真顔でそう付け加えた。
「すごいや」と男の子は言った。
「じゃ、さよなら」ミスター・ジョンスンは言った。
彼はふたたび歩き始めた。張り替えたばかりの靴底の足取りも軽やかに、背中と頭のてっぺんに暖かな日の光を感じながら。区画を半分ほど行ったところで野良犬に出くわしたので、落花生をひとつ食べさせてやった。
広い通りと交差する四つ辻が見えてきて、ミスター・ジョンスンは今度も住宅街を行くことに決めた。いくぶんゆっくりとした歩調で進んでいると、迷惑顔で先を急ぐ人びとは、彼を真ん中にして二手に分かれ、反対方向へ行く人は彼をかすめるようにして、いずれも足音高く、どこかへ一目散に進んでいく。ミスター・ジョンスンは四つ角に来るたびに足を止め、信号が変わるのを辛抱強く待った。特に急いでいるらしい人が来たときには、脇へ避けるようにしていたのだが、ちょうど、アパートから歩道へ飛び出して、忙しげに行き交う脚のあいだで行き場を失った子猫を撫でようと立ち止まったときにやってきた若い女性とは、あまりに相手の勢いがよすぎて、どしんとぶつかってしまった。
「ごめんなさい」若い女性はミスター・ジョンスンを助け起こそうとしながらも、なおかつ先を急いでもいた。「ほんとにごめんなさい」
子猫は身の危険など一向に頓着せず、自分の住処に一目散に戻っていく。「大丈夫ですよ」ミスター・ジョンスンはそう言いながら、ていねいに身だしなみを整えた。「お急ぎのようですね」
「そうなんです、急いでるの」若い娘は言った。「遅刻しちゃう」
彼女はひどくむずかしい顔をしており、眉根はぎゅっと寄ってしまったまま、未来永劫晴れることもなさそうだ。どうやら寝坊したせいで、おしゃれをする時間もなかったらしい。飾り気のないワンピースを着て、アクセサリもつけず、口紅は見事にひん曲がっている。娘はミスター・ジョンスンのかたわらを通り過ぎようとしたが、彼は娘の腕をつかんだ。この子が不審に思って機嫌を損ねたとしても、まあいいじゃないか。「ちょっと待ってください」
「ねえ」険しい声で彼女は言った。「あなたにぶつかったのはわたしだから、あなたの弁護士からわたしの弁護士に言ってくだされば、お怪我をなさったことに対しても、ご迷惑をおかけしたことに対しても、お支払いはいたします。だけどいまだけは勘弁して、わたし、遅刻しそうなの」
「遅れるって何に?」ミスター・ジョンスンは言った。とっておきの笑顔も、改めて地面にひっくり返されないですむだけの効果しかなかったらしい。
「仕事に遅れそうなんです」娘は食いしばった歯の隙間からそう言った。「職場に遅刻してしまいます。わたしの職場では遅刻すると、きっかり一時間分のお給料がさっ引かれてしまうんです。だからあなたがどれだけ楽しいおしゃべりをしてくださろうと、わたしにはつきあっている暇はないの」
「引かれた分はぼくがお支払いしますよ」ミスター・ジョンスンは言った。すると、その言葉は魔法の呪文のように効いた。間違いなくミスター・ジョンスンがそうしてくれるとわかったからでも、娘の側がほんとうにそうしてほしいと思ったからでもない。たとえ身も蓋もないようなせりふでも、彼の口から発せられると、皮肉な調子とはまるっきり無縁の、責任があり、信頼がおけ、耳を傾けるべき人の発言のように聞こえてきたからだった。
「どういうことですか」彼女は尋ねた。
「つまり、どう考えてもあなたの遅刻はぼくの責任だから、その埋め合わせはしなきゃならないでしょう?」
「変なことをおっしゃらないで」そう言うと、彼女の顔から、初めてしかめっつらが消えた。「あなたに何か弁償していただこうなんて夢にも思ってません。さっき、わたしの方が迷惑料をお支払いするって言ったばかりじゃありませんか。ともかく」言葉を継いだ彼女の顔は、笑顔といってもよいものだった。「わたしが悪かったんですから」
「もしお仕事に行かなかったら、いったいどうなりますか?」
彼女は目を見張った。「お給料がもらえなくなるじゃありませんか」
「それは仰せのとおりだ」
「仰せのとおり、ってどういうことですか? 二十分前に会社に顔を出していなきゃ、わたし、一時間につき一ドル二十セント引かれるんです。つまり、一分につき二セント、ってことは」少し考えてから言葉を続けた「だいたい十セント分、あなたとお話していたことになりますね」
ミスター・ジョンスンが声を上げて笑ったので、とうとう彼女も一緒になって笑い出した。「もう遅刻してしまってるんですね」と確かめた。「じゃあもう四セント分、ぼくに時間をくださいませんか?」
「どうしてですか」
「じき、わかります」ミスター・ジョンスンは請け合った。彼女を歩道の端からビルのすぐそばまで引っ張っていく。「ここに立っていて」それから忙しく行き交う人波に飛び込んでいった。人ひとりの一生がかかった選択をするのだ、とばかりに、通りかかる人をひとりずつ見定め、熟慮を重ねて白羽の矢を立てるべき相手を探す。動きかけ、結局思い返し、引き下がる。とうとう半区画ほど向こうに、求めていた人物が現れた。流れの真ん中に立ちふさがり、若い男の行く手を阻んだ。相手は、寝過ごしたらしい身づくろいで大慌て、しかめっつらをしている。
「うわっ」若い男がそう言ったのは、相手を引き留めようにも、さっきの娘がうっかり自分に対して取った方法しか思いつかなかったミスター・ジョンスンが、同じことをしてみせたからだった。
「おいおい、いったいどこへ行くつもりだったんだ」歩道に倒れた若い男は食ってかかった。
「君に話したいことがある」とミスター・ジョンスンは思わせぶりに言った。
若い男は神経質そうに立ちあがると、埃を払いながらミスター・ジョンスンをにらみつけた。「何だ? オレが何かしたか?」
「今日びの人間のいちばん厄介なところだな」ミスター・ジョンスンは、行き交う人びとの悪口を声高に言った。「何をしてるんだかしてないんだか、連中はいつだって追い立てられてるらしい。いったい何をするつもりなんだかね」そう若い男に向かって話しかける。
「あのな」若い男は、なんとかミスター・ジョンスンを振り払おうとして言った。「遅れてるんだよ。話を聞いてるような暇はないんだ。ここに十セントある。これをやるから、どっか行ってくれ」
「どうもありがとう」ミスター・ジョンスンはそう言って、十セントをポケットに入れた。「おうかがいするが、君は走るのをやめたら、一体どうなってしまうんだね?」
「遅刻するんだよ」若い男はそう言うと、なんとかかわそうとしたが、驚いたことに相手はまとわりついてくる。
「君は一時間いくら稼いでるんだ」ミスター・ジョンスンはたずねた。
「あんた、共産党かい?」と若い男は言った。「おい頼むよ、行かせてくれないか」
「断る」ミスター・ジョンスンはにべもなく言った。「いくらだ」
「一ドル五十。これで気が済んだか?」
「冒険してみたいと思わないか」
若い男はあっけにとられて相手を何度も見返したが、そのときにはすでにミスター・ジョンスンの人好きのする笑顔にからめとられていた。危うく自分も笑顔になりそうになったのをぐっとこらえて、身をふりほどこうとする。「急がなきゃ」
「不思議な経験はしたくないか? びっくりするようなことはどうだ? ありきたりじゃない、ワクワクするようなことは?」
「あんた、何か売りつける気か」
「そういうことだ」ミスター・ジョンスンは言った。「ひとつ乗ってみないか」
若い男が迷いながら、自分の行く手、通りの向こうを恨めしそうな目で見やったときに、ミスター・ジョンスンは言った。「ぼくがその時間分の給料を払ってあげよう」説得力のある独特の口調に、若い男は振り向いた。「よし、じゃ決まりだ。だけどオレが何を売りつけられようとしているのかは、最初にしっかりと見せてもらわなくちゃな」
ミスター・ジョンスンは息を弾ませながら、若い男を歩道端に引っ張っていった。そこにはさっきの娘が立っている。娘はそれまでミスター・ジョンスンが若い男をつかまえる顛末をおもしろそうに見ていたのだが、いまやおずおずとした笑みを浮かべていた。ミスター・ジョンスンに、もうびっくりするようなことにはすっかり慣れちゃったわ、という目を向ける。
ミスター・ジョンスンはポケットに手を延ばして財布を取りだした。「さて」彼は言うと、紙幣を一枚娘に渡した。「これで君の日給は埋め合わせがつくね」
「そんなことしちゃダメ」驚いた娘は思わずそう言った。「あのね、わたしが言ったのはそういうことじゃないんです」
「最後まで話を聞いてください」ミスター・ジョンスンは娘に言った。「それからこれを」と、若い男に向かって言う。「こっちは君の分」
若い男はあっけにとられた表情で札を受けとったが、「たぶん偽札だな」と口の端で娘にささやいた。
「さて」ミスター・ジョンスンは若い男の言うことなどものともせずに続けた。「お嬢さんは何とおっしゃいます」
「ケントです」問われるまま、娘は答えた。「ミルドレッド・ケント」
「結構」ミスター・ジョンスンは言った。「では、君は?」
「アーサー・アダムズ」若い男は仏頂面で答えた。
「すばらしい」ミスター・ジョンスンは言った。「では、ミス・ケント、あなたにアダムズ君を紹介しますよ。アダムズ君、こちらはミス・ケント」
ミス・ケントはびっくりして目を見張り、神経質そうに唇を舌で湿して、いまにも逃げ出しそうな構えになりながら言った。「初めまして」
ミスター・アダムズは肩をそびやかし、険しい表情でミスター・ジョンスンをにらむと、こちらもいつでも走り出せそうな構えで「初めまして」と言った。
「ではこれを」ミスター・ジョンスンは財布から札を何枚か抜いて言った。「おふたりで一日を過ごすには、これだけあれば足りるでしょう。アドヴァイスをさせていただけるなら、コニー・アイランドでも行かれてはどうでしょうかな。いや、ぼくなどはあんなところは別に好きなわけじゃないんだが。そうでなければどこかでステキな昼食を取るとか、ダンスやマチネー、ことによったら映画でもいいかもしれない。ただ映画なら、慎重に、いい映画を見つけてくださいよ。今日びはひどい映画が多いから。そうだ」急に良い考えが湧いてきたとでもいうように言った。「ブロンクス動物園へお行きなさい。そうでなきゃプラネタリウム。いや、実際のところ」彼は結論を出した。「おふたりが行きたい場所へ行けばよろしい。ともかく、楽しんでいらっしゃい」
ミスター・ジョンスンが行きかけたところで、あっけにとられて相手の顔を穴の空くほど見ていたアーサー・アダムズは急に我に返った。
「いや、ちょっと、待ってくださいよ、こんなことをしちゃいけません。だって――どうやってわかるっていうんです――ぼくら、このお金をおっしゃったようなことには使わないかもしれない」
「君たちはぼくの金を受けとってくれましたよね」ミスター・ジョンスンは言った。「別にぼくの言ったことなんて聞かなくてもいいんですよ。もっと楽しいことを思いつくかもしれないんだし――たとえば美術館に行ってもいいし、どこだってかまわない」
「だけど、オレがこの人をここへほっぽらかして、金を持ったままトンズラしたとしたら?」
「君はそんなことはしない」ミスター・ジョンスンは落ち着いていた。「だってそんなことをぼくに聞くぐらいなんだからね。では失礼」彼はそう言い置いて、歩いていった。
顔に日差しを浴び、履き心地の良い靴を履いて、通りを歩くミスター・ジョンスンの耳元に、背後の方で若い男が話す声が聞こえてくる。「まあ、君がその気になれなきゃ別にどうしても、ってわけじゃないんだぜ」
娘が答えている。「でも、あなたがいやじゃないんだったら、わたし、とっても……」
ミスター・ジョンスンはにんまりし、少し急いだ方がいいな、と考えた。ひとたびそうしようと思えば、たいそう早く歩くこともできるので、娘がなんとか「ええ、もしあなたがそうしたいんだったらいいわよ」と言い出すころには、ミスター・ジョンスンは途中、二度ほど立ち止まりながらも、数区画先まで進んでいた。止まった一度目は大きな荷物をいくつもタクシーに運び込もうとしている女性を手伝うために、二度目はカモメに落花生をひとつ食べさせてやろうとしたのだ。
そのころにはミスター・ジョンスンは大きな店が軒をつらね、さきほどよりもなお大勢の人びとが足繁く行き交う通りに出ていた。先を急ぐ人が両側から絶えずぶつかってくるが、みんな遅刻しかけているのか、むずかしい、不機嫌な表情を浮かべている。十セントくれないか、と声をかけてきた男に落花生をひとつやり、つぎに交差点でバスを停め、運転席の窓を開けて、こうすれば少しでも新鮮な空気が吸える、往来のやかましさを感じないですむ、とでもいうように、頭を突き出していた運転手にも、またひとつやった。十セントを求める男が落花生を受けとったのは、ミスター・ジョンスンの手で一ドル札にくるまれていたからだが、バスの運転手の方は落花生をもらって「おっさん、これで乗ろうってのかい」と憎まれ口を叩いた。
人でにぎわう交差点で、ミスター・ジョンスンは若いふたりづれに会った。ふとミルドレッド・ケントとアーサー・アダムズではないかと思ったが、ふたりは行き交う人波を避けて店先に背中を押しつけ、熱心に新聞をのぞきこんでいる。ミスター・ジョンスンは汲めどもつきぬ好奇心のもちぬしであったから、ふたりの横で同じように店にもたれ、男の肩越しに新聞をのぞきこんだ。ふたりが見ていたのは空き部屋情報だ。
そういえばお母さんと小さな男の子がヴァーモントに引っ越した部屋があの通りにあったな、と思い出したミスター・ジョンスンは、男の肩を軽く叩いて、にこやかに声をかけた。「西十七丁目へ行ってみてごらんなさい。区画の真ん中あたりに、今朝引っ越しがありましたよ」
「いまなんておっしゃいました?」男はそう言いながら、ミスター・ジョンスンをまじまじと見た。「どうもありがとう。どこだっておっしゃいましたっけ」
「西十七丁目です。区画の真ん中あたりです」もう一度笑顔を見せて、言い添えた。「うまくゆくといいですな」
「どうもありがとう」男は言った。
「ほんとにありがとうございます」娘も言いながら、ふたりは歩いていった。
「じゃ、さよなら」ミスター・ジョンスンは別れを告げた。
居心地の良いレストランで、彼はひとりで昼食を取る。なかなか豪華な料理で、しかもデザートにホイップクリームつきのラム酒入りチョコレートケーキを二皿も平らげるというのは、ミスター・ジョンスンほどのすばらしい消化能力にして初めて可能といえよう。さらにコーヒーを三杯飲み、ウェイターにたっぷりとチップをはずみ、また日差しが心地よい通りへ、履き心地のよい靴と軽い足取りで出ていった。自分がたったいま出てきたレストランの窓を物乞いの男がのぞきこんでいる。ポケットの金を慎重に確かめてから、ミスター・ジョンスンはその男のところに行って、数枚の硬貨と二、三枚の紙幣を手のなかに押し込んだ。「子牛のカツレツとチップ代の分だ。じゃ、さよなら」
昼食をすませてミスター・ジョンスンは休息を取ることにした。最寄りの公園に歩いていき、鳩に落花生を食べさせてやる。午後も遅くなって、彼は街の中心部まで戻ることにした。それまでチェッカーのレフェリーを二ゲーム務め、小さな男の子と女の子のお母さんが居眠りをしていたあいだ、その子たちの面倒を見てやった。はっと目をさましてパニックになりかけていた母親は、ミスター・ジョンスンと目が合ったとたん、噴き出した。
キャンディはほとんどやってしまったし、落花生の残りも鳩にやった。家に帰る時間だ。午後遅い日差しもまた心地よく、靴もまだ快適だったが、彼はタクシーに乗って市街地に戻ることにした。
タクシーを拾うのが大変だった。というのも、三台か四台、空車がくるたびに、自分よりもタクシーが必要らしい人に譲っていたからである。やっとひとりになると、交差点でピクピクと跳ねる魚を網で押さえようとでもするかのように、必死で手を振り回して、やっとタクシーをつかまえることができた。そのタクシーは住宅街に向かって急いでいたのだが、進行方向と反対にいたミスター・ジョンスンに、意に反して引き寄せられてしまったらしい。
「お客さん」タクシーの運転手は、乗り込んできたミスター・ジョンスンに言った。「お客さんは予兆ってやつじゃないんでしょうかね。最初はお乗せするつもりじゃなかったんです」
「それはご親切にありがとう」ミスター・ジョンスンはわからないまま礼を言った。
「もしお客さんの前を行き過ぎてたら、あたしは十ドル、すっちまったかもしれませんや」と運転手は言った。
「そうなのかい?」
「ええ。さっきお乗せしたお客さんがね、降りしなに十ドルくだすってね。急いでヴァルカンっていう馬に賭けろ、っておっしゃったんです。いますぐに」
「ヴァルカンだって?」ミスター・ジョンスンは仰天して言った。「水曜日に火の象徴(※ヴァルカンは古代ローマの火と鍛冶の神)だって?」
「何ですって? ともかくあたしはこうと決めたんです。もしここから向こうへ行くあいだ、お客さんがひとりもいなかったら、その十ドルを賭けてみようって。だけど、もしタクシーを探してる人に出くわしたなら、それがきっと予兆だから、家に持って帰ってかみさんにやろうじゃないか、ってね」
「君はまったく正しかったよ」ミスター・ジョンスンは心からそう言った。「今日は水曜にだからね、君が賭けてたら、お金はとっくになくなってしまってただろうね。月曜日ならかまわない。たぶん土曜日でも大丈夫だろう。だが、絶対に絶対にぜーったいに、水曜日に火の象徴はダメだ。日曜日なら良かったんだが、今日はダメだ」
「ヴァルカンは日曜には走らないんです」とタクシー運転手は言った。
「じゃあそのつぎの時まで待った方がいい。そうそう、この通りを入ってもらいたいんだよ。つぎの交差点のところで降りるから」
「でも、前のお客さんはヴァルカンっておっしゃったんですけどね」
「こうしよう」ミスター・ジョンスンはタクシーの半開きのドアに手をかけたまま、ためらいがちに言った。「十ドルはふところに入れとけばいいさ。それとは別に、ぼくからも十ドルあげよう。で、それを持って賭けに行くんだ。木曜日なら、そうだな……木曜日……そうだ、穀物に関連した名前を持っている馬だな。穀物ばかりじゃない、食べ物で、何だっていい、大きくなるものだ。」
「穀物ですって?」と運転手は聞いた。「馬の名前の話でしょ、たとえば、小麦とかなんとかだっていいんですかね?
「そういうことだ」ミスター・ジョンスンは言った。「実際のところ、もっと話を簡単にすると、CとRとLを含む名前の馬なら何だっていい。単純なことなんだよ」
「トールコーンはどうです?」運転手は目を輝かせた。「お客さんが言う馬の名前っていうのは、たとえばトールコーンなんかも当てはまりますよね?」
「そいつはすばらしい」ミスター・ジョンスンは言った。「これが君のお金だよ」
「トールコーン」運転手は繰りかえす。「お客さん、ありがとうございます」
「じゃ、さよなら」ミスター・ジョンスンは言った。
アパートメントのそばで降りると、まっすぐ部屋に上がった。ドアを開けて中に入り「ただいま」と声をかけた。するとミセス・ジョンスンが台所から「お帰りなさい、早かったのね」と応えた。
「タクシーを使ったんだ。チーズケーキのことも思い出してね。晩ご飯は何かね」
ミセス・ジョンスンは台所から出てくると、夫にキスをした。暖かな雰囲気の女性で、ミスター・ジョンスン同様、笑みを浮かべている。
「今日は大変でした?」
「いや、それほどでもなかった」ミスター・ジョンスンはコートをクロゼットにかけながら答えた。「君の方はどうだったのかい?」
「まあまあ」ミスター・ジョンスンがアームチェアに腰かけて、はき心地の良い靴を脱ぐと、今朝買った新聞を取りだすあいだ、妻の方は台所の戸口に立ったままでいた。「あっちへ行ったりこっちへ行ったり」
「ぼくの方は、そう悪くない一日だった。若いふたりを取り持ってやったし」
「よかったわね。わたしは少し昼寝したわ。一日じゅう、だいたいのんびり過ごしてた。朝のうちにデパートへ行ったんだけど、すぐ横にいた女が万引きをしてたから、警備員を呼んで、突きだしてやった。それから犬を三匹、野犬センターに送って――まあ、いつもの感じよ。そうそう」と急に思い出したらしく、つけ加えた。「それはそうと」
「どうしたんだい?」ミスター・ジョンスンは尋ねた。
「あのね、今日、バスに乗ったんだけど、運転手に乗車券ください、って言ったの。そしたらわたしを後回しにして、よその人を先にしようとするものだから、失礼なことをしないで、って言ってやったの。そしたら言い争いになっちゃって。それで、『軍隊に入ったらどう?』って言ってやった。大きな声で言ったから、きっとみんなに聞こえたでしょうね。その人の番号を控えて、苦情係りに教えたから、きっとあいつ、クビになるでしょうね」
「結構。だが君、ずいぶん疲れたみたいだが。明日は役を交替してあげようか?」
「そうしてくれるとありがたいわ。きっと気分転換になるはず」
「わかったよ。晩ご飯は何かな」
「子牛のカツレツよ」
「昼に食べたんだがね」とミスター・ジョンスンは言った。
The End
結ぶ人、離す人
どうやらこの短篇は、アメリカの高校生ぐらいが学校の課題で読んでいるらしく、検索するとレポートがどっと出てくる。ジョンスン夫妻は善と悪の象徴、それも一見穏やかなミスター・ジョンスンが実は邪悪さを体現していて、疲れている夫人の方が善の象徴である、という見方が圧倒的だ。なかにはミスター・ジョンスンは、好意を振りまくことで人をひきつけ、そのあげく悪へとたらしこもうとする悪魔である、という解釈もあったりして、アメリカのハイスクールでは、そういった読み方をするのがスタンダードなのだろうか。
それでいくと、思い出すのが星新一のショートショート「平和の神」(『ひとにぎりの未来』所収 新潮文庫)である。天国をこっそりのぞきに行ったエヌ氏は、すさまじい神を目撃する。髪振り乱し、荒々しい口振りで怒鳴り散らし、汚れた服には血しぶきのあと、硝煙のにおいもしみついている。あれが戦争の神にちがいない、ぶんなぐってやろうとして、エヌ氏は天使に止められた。
別な方を見ると、穏やかな顔でじっとしている神がいる。あれが平和の神にちがいない。エヌ氏はかっとして「だいたい、あなたがのんびりとなまけているから……」
あわてて天使が説明してくれた。怒鳴り散らしている神こそが、平和の神である。何とか地上に平和をもたらそうと粉骨砕身努力を続けているのに、人間は争いをやめない。戦争の神は人間を刺激しないよう、できるだけじっとしているのだが、人間があまりにむちゃで、神の力でもどうしようもないのだ。
このジャクスンの短篇は、星新一の「平和の神」と同じアイデア、すなわち一見、好人物に見える方が、実際にはとんでもない側、善というのは、厳しさをまとって現れてくるものであり、悪は反対に、穏やかな物腰として現れる、というものなのだろうか。
だが、わたしはそういう読み方にはいまひとつ賛同しにくいのだ。というのも、ミスター・ジョンスンが悪であるとするなら、ミセス・ジョンスンは善を体現していなければならない。けれども彼女がやったことは、社会規範で人(および野犬)を裁くことではあっても、善とはほど遠い。ジャクスンは確かに、多くの短篇で「悪の得体の知れなさ」を書き続けた作家ではある。正体を見定めがたい、けれども、霧に閉ざされた向こうに、確かに悪の存在を感知させるような短篇をいくつも書いている。一緒に訳した「魔女」にしても、その系列に属する作品といえる。そうしたジャクスンが、社会規範を強制的に守らせる存在を、善と描いたとは思えないのだ。
わたしたちは家を出るミスター・ジョンスンと出会い、そこから半日を共にする。周囲に好意をふりまきながら、ミスター・ジョンスンはさまざまな人と関わっていく。彼と関わることを通して、それぞれの人生が少しだけ明るい、楽しそうなものになっていくのを見て、わたしたちはなんだか居心地が悪くなる。というのも作者であるシャーリー・ジャクスンが一筋縄ではいかない作家だということをよく知っているからだ。このままでは絶対に終わらないにちがいない。彼はいったい何者なのだろう、彼がそんなにみんなに親切にするのはなぜなんだろう、いつ「魔女」の男のように、邪悪な正体を剥きだしにするのだろう、と思いながら、先を急ぐ。
家に帰って初めて、彼が何らかの役割を妻と交替で果たしていることがわかる。その役割とは何なのか。何のためにそんな役割を果たしているのか。そもそも彼らは誰なのか。ひとつの莢に、ふたつ入っている落花生のように、このユニットはもともとひとつのものなのだろうか。今日一日のミスター・ジョンスンの行動を振り返ると、どうもうさんくさく見えてくる。彼の行動は、どうやら見たままのものではないだろう。だとすると、その目的は何なのか。
とりあえず、作家が誰であるかをカッコに入れて、作品に描かれたジョンスン夫妻の行動を比較してみると、おもしろいことに気がつく。ミスター・ジョンスンは行く先々で、周囲の人を結びつけている。人ばかりではない。父親が亡くなったか、あるいは両親が離婚したらしい男の子には、ヴァーモントのすばらしさを教えることで、未来の生活とその子を結びつける。タクシー運転手には、勝ち馬を教えることで、ちょっとした運と彼を結びつける。ミルドレッド・ケントとアーサー・アダムズを結びつけたばかりではない。彼のやってきたことはすべて「結びつける」ことである。
一方、ミセス・ジョンスンがやったのは、万引き犯の摘発にせよ、野犬取り締まりにせよ、態度の悪い運転手にせよ、いま彼らが保っている周囲との関係を切り離す行為ばかりである。野犬たちは、おそらく生からも切り離されるだろう。
片や、結びつけ、片や、切り離す。特に目的があるわけでもなく、出くわす端から、勝手にやっていくのである。ふたりがいなければ出会うこともなかった人びとが、勝手に結びつけられ、あるいは逆に切り離される。人との関わりは、たとえなりゆきに任せていても、なんらかの変化を生じさせずにはおかないものだが、そこに人為の手が加わればどうなるだろう。人間が、意図的に他人の人生に介入して、結びつけたり、切り離したり、そんなことをやっていいのだろうか?
おそらくこのふたりは、それを「遊び」としてやっている。自分たちのゲームとして、人の人生に介入して、結びつけ、切り離しして、混乱を生じさせ、そのまま放っておくのだ。
彼らはおそらく悪魔でも、まがまがしい存在でもあるまい。ふつうの人間が、楽しみのために「運命の神」のふりをする。おそらく彼らの邪悪さというのは、ふたりが「対」になっていることによる邪悪さなのだ。一方が結びつけ、他方が切り離す。ゲームだから、容易に入れ替わることもできる。疲れたから、という理由で、あるいは一方に飽きたという理由から。その影響を受けた人の疲れは、こんなものではあるまいに。ちょうど、落花生の殻のなかにふたつのピーナツが入っているように、結びつけられ、離され、人びとは彼らに翻弄されるのだ。
おそらくジャクスンはそのような悪を描こうとしたのではあるまいか。
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