写真を読むレッスン ――アーバスの写真を読んでみよう――


カメラ


以前、パトリシア・ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(名谷一郎訳 文藝春秋)の本を元に、写真家のダイアン・アーバスについての小文「アーバスを読む試み」を書いた。

このときは写真というより、むしろ評伝をもとに、自分が惹かれたアーバスという人物を、言葉を介して紹介したい、知ってほしい、と思ったのだ。けれども、アーバスはなによりも写真家である。彼女の撮った写真について、自分はもっとなにか書けないだろうか。この問題意識はずっと自分のなかにあった。

写真を見る、というのはどういうことなのだろう。
写真が切り取った像に思いをはせるのではなく、写真そのものを見る、とは。
さらに、アーバスの写真を見るということは。
わたしが惹かれたものとはいったい何だったのだろうか。

以前の文章の最後をくくったこの言葉。

この写真を見るのは本を読むのに似ている。長時間露光で撮った写真。人に見ることを教えてくれる写真。見る人は教訓を学んで立ち去るのだ。これを見たあとでは、もはやなにひとつ以前と同じには見えないだろう。世界が変わったわけではない。自分が変わってしまったのである。

(ポール・セローの『写真の館』村松潔訳 文藝春秋)

このポール・セローが描いた架空の写真家モード・コフィン・プラットの言葉がわたしを導いてくれるかもしれない。本を読むように写真を見る。見ることを教わるために写真を見る。


Lesson 1. とりあえず見てみよう


まず、ここで一枚の写真を見てみよう。タイトルは〈白子の剣の呑み込み〉である。

http://www.vam.ac.uk/vastatic/microsites/1355_diane_arbus/exhibition.php
(※参考画像〈白子の剣の呑み込み〉)

写真のタイトルも重要な手がかりだ。
原題は "Albino sword swallower at a carnival" 直訳すると、「見せ物小屋で剣の呑み込みをする白子」とでもいうことになるだろうか("carnival" というと、もちろん「お祭り」という意味もあるのだけれど、「各地を巡回する見せ物小屋」を指すこともある。この場合はそれだ)。
この写真は、見せ物小屋で、剣を呑み込んでみせる芸をする「白子」を撮ったものなのである。

「白子」といい、「見せ物小屋」といい、見る側の好奇心、それもあまり上等ではない方の好奇心を引きつけるものだ。この好奇心はある種の罪悪感と裏腹ともいえる。
ここで「白子」「見せ物小屋」といった言葉に抵抗を覚える人もいるかもしれない。「フリーク」を多く写真の題材としたアーバスを倫理的に「良くない」と思う人も、「好きでない」と思う人もいるかもしれない。あるいは単純に、気持ち悪い、怖い、そういうイメージを持っている人も。

アーバスの写真は、従来からある種の人々の嫌悪感をかきたててきた。とくに、「差別はいけないこと」と思っている人は、まず絶対にアーバスを認めようとしないだろう。ただ、このことはあとでもういちど考えることにして、ここでは「好き」「嫌い」あるいは「怖い」「気持ち悪い」「差別だ」「偏見だ」という判断をいったん先送りして、『写真の館』のモードが言ったように、本を読むように読んでみる。

ゆっくりと見てみよう。
何がわかるだろうか。
サーカスらしきテントの前に立つ女性。このテントのなかでこの人たちは芸を見せているのだろうか。ともかくテントの裏手の野外で、この女性はアーバスのためにポーズを取っている。
なんといっても最初に目に入ってくるのは、画面中央を縦に切り裂く剣だ。
仰向けになって、その剣を呑み込もうとする女性(いったいどこまで呑み込めるのだろう? 柄まで呑むのだろうか?)は両腕を広げて、バランスを取る。その手は右手は軽く握り、左は開いているけれど、どちらにも力は入っていない。緊張はしていない。ふだんやっている芸を、ふだんどおりにやっている人のポーズ。
芸を見せてお金をもらっている人の、プロフェッショナルな技の一瞬。

不思議に静かで、安定した印象を受けないだろうか?
芸をする人がいて、それを撮る写真家がいて、さらにそれを見るわたしたちがいる。
写真は、まずわたしたちに衝撃を与える。さまざまな感情を呼び起こす。そうしたのちに、一種の不思議な静けさに気がつく。この静けさを少し覚えておきたい。

さて、つぎに、ほかの写真と比較しながらアーバスの写真の特徴を見てみよう。
わたし自身、それほど写真をよく見てきたわけではないので、ここに比較としてとりあげるサンプルが適切であるかどうかはわからない。それでも、同じ「人間」を取りあげるにしても、これだけの違いがあるのか、と思うほどだ。


Lesson 2.ほかの写真家と見比べてみよう


まず、ウォーカー・エヴァンスの〈地下鉄〉(1938)という写真を見てみよう。

http://www.tfaoi.com/am/8am/8am318.jpg(※参考画像〈地下鉄〉)

このシリーズは、エヴァンスがニューヨークの地下鉄で隠しカメラを使って、乗客の姿を盗み撮りしたものである。撮られていることを知らない人々の表情に浮かび上がる「素」を浮かび上がらせたのである。当然、写された人々はこちらを向いていない。見られていること、まして写真に撮られていることを意識しない人々が浮かべている、放心したような顔。
わたしたちはこの静かな顔を知っている、と思う。電車の中で、実際に、こうした表情は毎日のように見たことがある、と思う。それでも、実際にわたしたちがこの表情に目を留め、もっとよく見ようとして視線を固定すれば、たいがい、相手も気がつき、こちらを見返してくる。
見る−見られる、というのは、相互的なものだからだ。見られていることに気がついて、こちらを見返す人の表情は、もはや無意識などというものはどこにもない。
エヴァンスのこの写真は、わたしたちが知っていながら、よく見ることのできない「無意識」というものを、一枚の写真に固定し、差し出してくれる。

つぎに、ユージーン・スミス〈カントリー・ドクター〉(1948)を見てみよう。

http://cafdes2004.free.fr/photos/smith_country_doctor_surgery.jpg
(※参考画像〈カントリー・ドクター〉)

スミスは地方の診療所で働く医者につきそい、その仕事の様子を一種のストーリーのように記録していった。その記録全体が「大きな物語」とするならば、この一枚は一瞬を切り取りながら、小さな物語だ。
頭に怪我を負い、たったいま縫われたばかりの生々しい傷跡。医者の視線の先にはいったい何があるのだろうか。
この医者を主人公とする物語を際立たせる一瞬をスミスは追う。けれども、この写真の物語はこれからどうなっていくのか、何も語らない。だからわたしたちはもう一度写真をよく見る。医者はなぜ、この子の目を押さえているのだろう。この子はどうして頭に傷を負ったのだろうか。スミスの写真は、わたしたちに物語の続きを要請する。

つぎに、アーバスとよく似た題材を撮ったアウグスト・ザンダーの〈百姓娘〉(1928)を見てみる。

http://www.spencerart.ku.edu/collection/photography/sander.html
(※参考画像〈百姓娘〉)

ヴァイマール期、アウグスト・ザンダーは、ドイツのあらゆる階層の「類型」を写真で記録することを構想する。その壮大な構想『二十世紀の人間たち』の一枚が、この写真である。
ザンダーは基本的な人間のタイプは農民だと考えていたし、家族は人間の社会的な単位であると考えていた。いかにも「自然」に見える写真ではあるけれど、ザンダーは、おそろいの晴れ着を着て、おそろいの腕時計をはめ、カメラの前に立つ姉妹に、ドイツのある類型を語らせている。そのために、ザンダーは慎重に背景や、表情を選び取ったのである。花をにぎってこちらを見返す妹と、ふっと視線をそらせながら、はにかんだようなぎこちない笑みを浮かべようとする姉。この写真からは、その時代を生きた人の物語が伝わってくる。

最後にアーバスの写真を見てみる。〈ベッドルームの三つ子〉(19639

http://robthurman.com/images/arbus.jpg
(※参考画像〈ベッドルームの三つ子〉)

同じ少女を撮った写真なのに、ザンダーとはなんとちがうことだろう。
ザンダーの写真に比べても、この少女たちはいっそうくつろいで、ありのままでいるように見える。静かにこちらを見返している。
けれども、見返されて、わたしたちはなんとなく、居心地が悪くなってこないか? 背景に奇妙な布が下がっているせいだろうか。ザンダーの写真の少女たちは、世界と一体となっていたのに、ここではどうもしっくりいっていない。

エヴァンスの写真は、「だれでもない地下鉄の乗客」だ。わたしたちはこの写された人を見ながら、その向こうの「無意識」を見る。
スミスの写真は、物語だ。この写真を通して、この若い医師が直面する物語の続きを考える。
ザンダーの写真を通して、わたしたちはその時代の典型を見る。人間があらためて社会な存在であることを思い出し、職業や社会が、いかに人間の中に現れているものか、知ることになる。

そうしたものとはひどくちがうアーバスの写真。
この居心地の悪さはなんなのだろうか。
ここでアーバスの写真について書かれたものを見てみよう。


Lesson 3.本を読んでみよう


スーザン・ソンタグは『写真論』(近藤耕人訳 晶文社)のなかで、かなりまとまってアーバスにふれている。

 アーバスの作品でもっとも心を打つ面は、彼女が芸術写真の一番迫力のある計画のひとつ――犠牲者や不運なものに眼を向けること、しかしこういう計画につきものの同情を惹く目的ではなくて――に参入したらしいということである。彼女の作品は、嫌悪感も与えるが哀れな痛ましい人たちを見せる。だからといって同情心をかきたてることはいささかもない。彼女の写真の突き放した視点についてはもっと正確な言い方があろうが、そのための率直さと、被写体への感傷を交えない感情移入を称揚されてきたのである。実際は彼女の写真の一般人への攻撃であるものが道徳的な完成として扱われてきた。つまり、彼女の写真は見る者が被写体から疎遠でいることを許さないということである。

(『写真論』)
http://www.usc.edu/schools/annenberg/asc/projects/comm544/library/images/528bg.jpg
(※参考画像〈自宅で両親と一緒のユダヤ系巨人〉)

ソンタグは、アーバスの写真には、感傷を交えない感情移入があるという。そうして、一般人に対しては「攻撃」であるものが、「道徳的な完成」であるという。これはどういうことなのだろう?

ここでもういちどアーバスのこの言葉を思い出してみる。

わたしが数多く撮ったのは、異形の人々です。わたしは最初からそうした被写体を含めて撮ってきましたし、そのことは刺激的な経験でもありました。
そのころ、わたしは異形の人々を崇拝していました。いまでも崇拝している人が何人かいます。彼らと親しい友人になった、などということを言おうとしているのではなく、かれらを見ていると、恥ずかしさと畏怖の入り交じった気持ちになった、と言いたいのです。
異形の人々を扱った伝説には、ひとつの特徴があります。
行く手をさえぎる人物が登場し、難題を投げかけてくるのです。多くの人は、そんな心に深い傷をつけかねないような経験に、いつか出くわすのではないか、とおびえながら人生を生きています。けれども異形の人々は、すでにトラウマを抱えて生まれてきました。
かれらは最初から人生のテストに合格しているのです。その意味で、貴族なのです。

(ダイアン・アーバスの言葉から 私訳)

アーバスの写真に写った人々は、落ち着いた、ありのままのように見える。
ただし、ここで「ありのまま」や「自然」という言葉を立ち止まってもういちど考えてみよう。
写真の前に立ったわたしたちは、かならず、カメラを意識する。「ありのまま」ではいられない。
「ありのまま」「自然」に見える写真は、被写体がカメラがあることをまったく知らない写真だけだ。そうでない場合は、写真家が「ありのまま」に、「自然」に見えるよう、技巧を凝らしているのである。
たとえばザンダーは、先に見たように、百姓娘が一番それらしく見えるような背景を選び、着るものを選び、そう見える一瞬を選んだ。
アーバスは、そのために被写体と関係を結んだ。「貴族」である彼らを前にして、「恥ずかしさと畏怖の入り交じった気持ちになった」アーバスは、彼らを貴族のように扱う。そうして、アーバスの写真はその関係の結果なのである。

彼女の写真を見る人はたいてい、こういう人たち、遺伝学的な変種であるだけでなく性的下層社会の市民たち、は不幸だろうと即座に想像するものだが、写真のなかで実際に心痛をおもてに出しているものはほとんどない。…たいがい明るく、開きなおって、ありのままに示されている。苦痛は正常人のポートレートの方が読みとりやすい。公園のベンチで言い争っている年配の夫婦、思い出の犬と家で暮らすニューオーリンズの女バーテンダー、セントラルパークで玩具の手榴弾をにぎった男の子。……

http://daimyo.org/node/136
(※参考画像〈セントラルパークで玩具の手榴弾を持った子供〉)

アーバスの写真の神秘の大きな部分は、彼女の被写体になった人たちが、写真に撮られることを承知したあとでどう感じただろうかといろいろ思わせるところにある。彼らは「あんな」ふうに自分を見ているのだろうかと写真を見た人は思う。自分たちがどんなにグロテスクだか知っているのだろうか。まるで知らないように見える。

(『写真論』)

「通りでだれかを見かけるとします。その際目につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。

わたしはここでこんな話を思い出す。いわゆる「美人」と呼ばれる顔はその時代、その地域の平均的な顔である、という。
反面、「個性的」と形容される顔は、美人ではない女性に対するもの、とたいてい相場は決まっている。つまり個性というのは標準、平均からはみ出したものだ。アーバスが目を留める「欠点」とは、この「個性」の別の言い方なのだ。

わたしたちは「個性」という言葉を多くの場合、肯定的なものととらえている。
最近では「個性を伸ばす教育」などというスローガンさえも言われている。
けれどもこの個性というのは、本来的には標準には到らない部分、あるいは、極端に過剰である部分、「欠点」「欠陥」としてあるものではないのだろうか。「欠点」「欠陥」を肯定的に位置づけるときの呼び方が「個性」という、単にそれだけのことなのではないのだろうか。

アーバスによれば、人間を撮影することは当然ながら「残酷」で「卑劣」なことである。大事なことは、見て見ぬ振りをしないことだ。
(『写真論』)

わたしたちは、いわゆる「標準」を仮想し、標準を中心とした差異のうちの「許容範囲」を「個性」と呼び、そこから先を「異常」であるとする。アーバスはこの「異常」の領域に、カメラを持ってどんどん踏み込んでいき、わたしたちに目を背けぬようにつきつける。
他者を見るということは、実は「残酷」で「卑劣」なことなのではあるまいか。
わたしたちは他者を見る。標準を測るモノサシを当てはめ、逸脱の幅を測定する。
そもそもわたしたちが「見る」ということは、そういうことなのではあるまいか。そうして、逸脱が一定の幅を超えると、わたしたちは見て見ぬ振りを始めてしまうのではないか。

アーバスの写真を前にしたときの、奇妙な居心地の悪さ。
それは、見てはいけないものを見ることの後ろめたさだけではない。
わたしたちが「見てはいけない」と思っている当の被写体が、自分たちをまったく「見てはいけない」存在だと感じていないからだ。
「見てはいけない」と思うわたしたちは、被写体が、おずおずとしていたり、あるいは恥じていたり、自分たちの「異常」に引け目を感じていることを密かに予測している。
だが、アーバスの写真はその期待を裏切り、同時に期待している自分のまなざしの意味をわたしたち自身につきつける。

逆に、ふだん、わたしたちが標準の「許容範囲」として曖昧に受けとめている人々に裂け目を入れ、そこからふだんわたしたちが気がつこうとしない「異常さ」を取り出す。そうして、問いかけるのだ。わたしたちのモノサシというのは、そんなに確固としたものなんだろうか?

こうしてアーバスの写真によって、逆にわたしたち自身のまなざしの意味をつきつけられて、そこからわたしたちは、どうしたらいいのだろう。
そこから何を読みとっていけばいいのだろう。
ここでもう一度、「写真を読む」ということについて考えてみよう。


Lesson 4.写真を読むことについて書いてある本を読んでみよう


ソンタグはわたしたちになじみ深い身近な「写真」、印画紙に焼き付けられ、家族写真としてアルバムに収められる写真を「生活とともにある」という言葉でまとめる。

 家族や他の集団の一員と考えられる個人の業績を記念することが、写真の最初の一般的な利用の仕方である。というのは少なくとも一世紀にわたって、結婚写真はお定(きま)りの式辞と並んで式の一部になってきたからである。カメラは生活とともにある。フランスでおこなわれたある社会学の調査によれば、大部分の家庭がカメラを一台はもっているが、子供のいる家庭が少なくとも一台のカメラを持つ比率は、子供のいない家庭の二倍である。子供の写真を撮らないということは、とくに子供が小さいときは、親の無関心の表われであり、卒業写真に出ないことが思春期の反抗のゼスチャーであるのと同じである。

(『写真論』)

こうしてカメラは、また写真は、わたしたちの身近なものとなっていった。
このような写真と、写真家が撮った写真の間には、どのようなちがいがあるのだろうか?

ためしに googleで"family portrait"で、イメージ検索してみる。おびただしい家族の写真を見ることができる。
けれども、その写真はおもしろくない。
見ることに少しも「意味」を見いだせない。

あるいは、こんな経験はないだろうか。友人の家に遊びに行って、家族の写真や旅行に行った写真、学生時代の写真など、知っている人がほとんどいない写真を見せられて、退屈した経験は。
それは、そうした写真が、私的な記録、だれが撮ったか、だれを撮ったか、という個人的なつながりを離れたところでは意味を持たない記録でしかないからではないだろうか。

それに対して、写真家が撮った写真を見ることには、特別な意味がまぎれもなくあるはずだ。
たとえ被写体を知らなくても、あるいはその場所や風景を実際には見たこともなくても、深く揺り動かされる写真。
見ることによって、自分の見方そのものが変わってしまうような写真。
それが写真を見る、という経験だ。

写真はわからない、という人がいる。どこを見たらいいのかわからないから、わからない。
ならば、質問を変えてみよう。絵なら、わかるのか? さらに、具象画なら?

アネットは、描かれた題材が好きか嫌いかによって絵の好き嫌いが決まるという、一般人の大多数を占める人々に属していた。(P.G.ウッドハウス『階上の男』私訳)

具象画を「わかる」という人も、あるいは「好きだ」という人は、このアネットのように、描かれた題材が好きだから「好き」、何が描いてあるかわかるから「わかる」と言っているのではないだろうか。

けれども、たとえばゴッホの『黄色い家』は確かに「黄色い家」を描いているのかもしれない。けれども、あの奇妙な色の空、家より濃く塗り込められ、遠近法を無視して前にせり出してくる「空」はどういう意味があるのだろう? さらに、画面左下方と右中央にある土の固まりのようなものは一体何なのか?

抽象画がわからない、という人は、単に「何が描いてあるかわからない」から「わからない」と言っているだけにすぎない。「何が描いてある」かわかったら、わかったと言えるのか。描かれた題材が好きなら、その絵が好き、何が描いてあるかわからなければ、わからないからきらい、というのだろうか。
絵は、好きか、きらいか、何を描いているか、わかるか、わからないか、しかないのだろうか?

写真を見るわたしたちは、写真を抽象画のように「わからない」とは思わない。なにを写したものであるか、まずほとんどの場合、理解できる。
だから、多くの場合、わたしたちの意識は写真をすり抜け「そこに何があるか」に向かい、写真そのものを見ようとはしない。せいぜい被写体がわかりやすく写っているのを見て「よく撮れている」と思うだけだろう。きれいなものを、美しく撮っているから「好き」。好きな人を写しているから、「好き」。
そうしてここで「わからない」という人は、「好き」でも「きらい」でもないから、わからない、という。

絵にしても、写真にしても、「好き」「きらい」「わかる」「わからない」という以上のアプローチの仕方があるはずだ。
見て、考える。理解したいと思う。絵を、写真を「読む」。そういうアプローチの仕方があるのではないか。

報道写真家でもあった名取洋之助は『写真の読み方』(岩波新書)のなかで、写真の読み方は無限にある、「読む人の経験、感情、興味によって、同じ写真でも、解釈が違い、受け取り方に差がある」、という。

 写真は文字と同様、記号であるといえます。記号という言葉は「物」の実体ではなく、その代理をするもののことをいうのですが、たとえ肖像写真を見せられた土人が、それを実物と勘ちがいしてひじょうに驚いたというような話が事実であるとしても、写真がこの定義にあてはまる記号であることは確かです。

 それでは記号としての文字と、記号としての写真との大きな違いはなにか。それは文字は実物と関係ないが、写真は実物とひじょうに密接な関係があるということです。……写真と実物とは、いつもある決った幾何学的な関係で対応しています。

 これに対して文字の場合、こういう一定の対応はありません。…写真の特質の一つとして、「犬」というような抽象的な概念を与えにくいということがあげられるのも、写真が「物」に忠実な記号であり、抽象化されていない記号だからでもあります。

(『写真の読みかた』)

「犬」という言葉は、具体的な犬をあらわすことはできない。写真に撮った犬は、もちろん本物の犬ではないけれど、言葉のように、抽象的な「犬」を撮ることもできないのだ。犬の写真は、常に、具体的な、この世にたった一匹しかいない犬なのだ。

 このことはまた、写真は感情的反応をひきおこしやすい記号だということでもあります。……

 写真はまた、ひじょうに感覚的に理解される記号です。私たちは写真を見て、知的に理解するよりも、感覚的に理解することが多いのです。……

 知的な理解に頼らず、感覚的な理解に頼る記号では、当然のことながら、その記号の内容が過去に経験したことを思いださせる場合に、より強烈な反応を呼び起こします。過去の経験によって、写真を見て得たイメージを、発展させることができるからです。

(『写真の読みかた』)

自分の犬の写真を撮る。これは世界にたった一匹しかいない犬だ。だからわたしたちは、この写真を大切にする。写真を見ると、その犬を思い出す。何年も前に死んでしまった犬だったりすると、その犬とすごした楽しかった日々を思い出し、その最期を思って涙を流す。言葉よりも、いっそう強烈に、わたしたちの感情を揺さぶる。
写真はそうしたものとしてあるというのだ。

 これは逆な言い方をすれば、共通の経験のない人に、同じ写真で同じ反応を起こさせることがむずかしいということにもなります。……

 その意味で、もっとも感情的反応を起こしやすいのは人間の写真です。私たちがいろいろな感情を体験するのは、大部分、対人関係においてですし、それは日本人であろうと外国人であろうと、共通に経験していることです。

(『写真の読みかた』)

確かに、他人の犬の写真を見せられても、撮った人と同じように感じることはできない。けれども、写真家が撮った写真は、共通の経験を持たない人が見ることを前提とした写真だ。
感情的な反応を引き起こしやすい人間の写真から、写真の世界に入ってみよう。 「わからない」というのではなく、「好き」「きらい」という判断ではなく、写真を読むことから始めてみよう。

写真は文字にくらべるとあいまいな記号です。一枚の写真はいろいろに読むことができる。読む人の経験、感情、興味によって、同じ写真でも、解釈が違い、受けとりかたに差がある。

(『写真の読みかた』)

写真の読み方は、人によってずいぶん異なる。実際、いくつかの本を見ても、アーバスの評価も驚くほど異なっている。ソンタグはこのように言う。

 写真が一般に評価されるときの言葉はきわめて貧弱である。構図、明るい部分など、絵画の語彙に寄生していることもある。写真がうまいとかおもしろい、力がある、複雑だ、単純だ、あるいは――好んでいわれる――うそのように単純だといって誉められるときのように、およそ漠然とした類の判断からなることの方が多い。

(『写真論』)

評論家ではないわたしたちが豊かなボキャブラリで写真を語る必要はない。そうでなくて、わたしたちは、写真を見ることで、世界の見方を写真家に教わろう。好き−きらいではなく、わかる−わからない、ではなく、写真を通して世界を見、そうして自分のまなざしがどういうものであるか、知っていこう。
おそらく、写真を読むことの意味はそこにある。
わたしはそう思う。


補:アーバスの写真を見たわたしの個人的な覚え書き


写真は、どうして撮る人によって、ああもちがうものになるのだろう。
そもそもわたしが写真を見るようになったきっかけは、その疑問だ。
そうして、きわめてわかりやすい形で「独特」なアーバスの写真に向かっていった。

アーバスの写真は、ほかの写真と非常にちがっていた。
まるで一枚一枚に署名でもしてあるかのように、何を撮っていてもアーバスの写真は一目でわかったし、見間違いようがなかった。

どうしてこの人はこんな写真を撮るのだろう?

わたしの興味は、写真を超えて、アーバスにまっすぐ向かっていった。
そうして、評伝を読み、わたしの知ったアーバスをまとめたのが、前の文章だ。

それからのち、さまざまな本を読み、ほかの写真家の写真を見、「写真の読み方」を少しずつ(いまのところはまだほんの少し)理解するようになった。

アーバスの写真には、わたしの「知りたい」と思うものがある。
ふだん見てはいけない、とわたしたちの眼から隠されているもの。
「差別」という禁忌。

アーバスはメリーランドのサーカスのなかに入っていき、人間針刺しや入れ墨をした男、白子の剣呑みなどの写真を撮った。日本でも、戦前までは大道芸として、あるいは見せ物小屋、という形で、特殊な芸を見せてお金を取るようなことを昔からしていた。
だが、いまの日本では、そのようなものは「差別的である」として、見ることができなくなってしまった。わたしも話には聞いたことがあるし、本で読んだこともあるけれど、実際には見たことがない。
そんな見せ物を見ていた昔の人は、「差別的」で、現在のわたしたちは「差別」を克服しているのだろうか。そんな見せ物は「良くない」のだろうか。

小泉八雲の『怪談』に「耳なし芳一」というのがある。わたしは子供のときにこの本を読んで、盲目の琵琶法師が語る平家物語をなんとしてでも聞いてみたいと思った。琵琶の音に乗って語られる平家物語というのは、いったいどんなふうなものなんだろう。

赤坂憲雄は琵琶法師が中世の人びとにとって、どんな存在だったかを明らかにしている。

神異を顕わす人々は多くは疾病や〈不具〉を負い賤形に身をやつしていた。そこでの疾病・〈不具〉・賤形などは聖なる痕(スティグマ)であり、神と人との仲介者たる表徴または資格であった。換言すれば、種々のレヴェルにおける〈異常性〉――障害・欠損・過剰などをそなえた〈異人〉は、それを聖痕(スティグマ)として、神に遣わされし者・神を背負いし者・神に近き者へと聖別されたのである。そうした神と人間という二つの範疇(カテゴリー)に相またがり、“媒介の様式を体現する”存在は、〈聖なるもの〉としてこの上なく厳しい禁忌の対象とされた。その際、かれらが共同体の側から怖れと敬いの混淆した両義的心体をもって迎えられたことは、あらためて繰りかえすまでもない。

(赤坂憲雄『境界の発生』 講談社学術文庫)

これを単純にスライドさせて考えることは危険なのかもしれない。
それでも、異形の姿や彼らの芸を見ながら、過去の人びとが、怖れ、あるいは「劣ったもの」に対する優越感や、自己満足しか感じなかったとは思えない。むしろ、異形の姿を通して聖なるもの、啓示的なもの、そうしてその不思議を見てとったのではあるまいか。
ふつうのもの、標準的なものを見ても、人は驚かない。自分の知っていることをなぞるだけだ。けれども通常ではないものを見て、驚き、感嘆する。それは自分の認識を揺るがす。

そもそも、わたしたちのまなざし自体に、アーバスが言うように「残酷」で「卑劣」なものがあることをまず認めよう。
けれども、残酷で卑劣なまなざしは、同時に、標準を大きく外れるものにたいしては、不思議だと思い、驚嘆し、おもしろがり、知りたいと思うのだ。

それを「差別」として封じ込めることに、果たして意味があるのだろうか。
差別、というのは、具体的な接触があるところでしか、感じたり、考えたりできないのではないか。具体的にふれあい、言葉を交わすなかで、思いやったり、理解することであって、こういうときにはこうすべき、こういう人にはこうすべき、と、パターン認識するものではない。「差別はよくない」として、自分の感情のなかのある種の部分を封じこめ、ふたをしてなかったことにするほうが、よほど問題の根を深くしているのではないのか。

アーバスの写真を見る。
アーバスの前で、くつろぎ、「ありのまま」でこちらを見返している人びとを見る。
彼らの「ありのまま」をとらえるアーバスのまなざしを、写真のなかに探す。
わたしは揺らいでいく。
世界はもはや前と同じようには見えない。


初出 April 26- April 29改訂 May 17, 2006

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