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ここではキャサリン・マンスフィールドの短編「ディル・ピクルス」を訳しています。
発表は1917年、のちにマンスフィールドの第二短編集『幸福』に収められる、彼女の初期の作品にあたります。
舞台はロンドン、作品中に出てくる「戦争」は第一次世界大戦。ロシアでは十月革命を前に、社会主義の機運が高まっています。大きく変動する社会情勢のなかで、六年という月日が流れた後に出会ったかつての恋人たちの胸には、どんな感情が去来するのでしょうか。
なお、タイトルのディル・ピクルスは、ハーブの一種、ディルを香味付けに入れたピクルスのことです。
原文は
http://digital.library.upenn.edu/women/mansfield/bliss/pickle.html
で読むことができます。



ディル・ピクルス( A DILL PICKLE )


by キャサリン・マンスフィールド

ピクルス


 それから六年後、彼女は彼に再会したのだった。彼がいたのはこぢんまりした竹製のテーブルのひとつで、紙の水仙を活けた日本製の一輪挿しが飾ってある。脚台つきの大皿を前に、慎重な、彼女もすぐに思いだした独特の手つきでオレンジの皮を剥いているところだった。

 彼女の驚きが伝わったにちがいない、顔をあげた彼と目が合った。信じられないわ! わたしのことがわからないなんて! 彼女はにっこりと笑い、彼は眉根を寄せた。彼女は近づいていく。一瞬目を閉じた彼がぱっと開いたときには、顔全体が暗い部屋でマッチをすったように輝いていた。オレンジをおろして椅子をうしろにやったので、彼女もマフのなかで暖まった小さな手を抜いて、彼に向かって差し出した。

「ヴェラ!」彼は嘆声をあげた。「こんなことってあるかな。ほんとうに、一瞬だれだかわからなかったよ。座らないか。お昼はもうすませたの? コーヒーでもどうだい?」

 彼女の方はためらっていたが、もちろんそれは本心ではなかった。

「ええ、コーヒーでもいただこうかしら」そう言うと、向かいに腰をおろした。

「きみは変わったよ。すごく変わった」熱のこもった明るい顔で彼女の顔をじっと見た。「元気そうだね。いままでこんなに元気そうな君は見たことがないぐらいだよ」

「あら、ほんと?」彼女はヴェールをあげて、毛皮のついた高襟のボタンをはずした。「そんなに調子がいいわけでもないの。この季節はきらい」

「ああ、そうだった、君は寒いのがきらいなんだよね……」

「もう大っきらい」そう言って身を震わせた。「なによりいやなのは、歳をとればとるほど……」

その言葉を最後まで言わせず、「すまない」と遮ると、テーブルを叩いてウェイトレスを呼んだ。「コーヒーとクリームを頼むよ」それから彼女に向かって「何も食べなくていいの? 果物なんかいいんじゃないか? ここの果物は上等だよ」

「ありがとう、でも結構よ」

「じゃ、この話は片づいた」かすかに品のない笑い方をすると、もういちどオレンジを手に取った。「君が話してたのは――歳を取ればとるほど、で?」

「いよいよ寒さを感じるようになってくる、って」彼女は声を上げて笑った。だが、胸の内では物思いは続いた。わたしはこのひとの癖、こうやってわたしの話を遮る癖をこんなにもはっきりと覚えているんだわ。六年前、どれほどうんざりさせられただろう。突然、わたしがしゃべっている最中に、わたしのくちびるに手を当てる。そっぽを向いて、全然関係のないことを言いだすのよ。それから手を離して、あの同じ、少しだけ品のない笑い方をして、わたしの方に気持ちを戻す……よし、じゃ、この話は片づいた。

「いよいよ寒さを感じるようになってくるのよ」彼はオウム返しにそう言うと、笑い声まで真似をした。「おやおや、相も変わらず君は同じことを言ってるんだね。だけどもうひとつ、変わってないところがある――君のすてきな声だよ――それとその話し方」いつしか彼は厳粛な表情を浮かべている。身を乗り出してきたので、オレンジの皮の強い匂いが彼女の鼻腔を刺した。

「君がひとこと言うだけで、どんなに大勢の話し声がしているところでも、ぼくには聞き分けられる。どうしてなんだろうな――昔からずっと考えてきたんだけどね――君の声がそんなに特別なのは、一度聞いたら忘れられないのは……。覚えてる? キュー国立植物園で初めて一緒に過ごした午後のこと。ぼくが花の名前なんてちっとも知らないもんだから、君はすごくびっくりしてたよね。君が教えてくれたようなことは、いまだに何にも知っちゃいないんだけど。それでも天気が良くて暖かい日には、あと、何かきれいな色を目にしたときには、いつだって君の声が聞こえてくる。『ゼラニウム、マリーゴールド、ヴァービーナ』耳に響くのはその三つだけ、忘れてしまった天国の言葉のうち、思い出せるのはそれだけだ……。君はあの日のこと、覚えてる?」

「ええ、もちろん。よく覚えてるわ」長くものやわらかなため息がもれた。まるで造花の水仙があまりにかぐわしく香るために、我慢できなくなった、とでもいうように。だが脳裏に浮かぶのは、あの特別な午後、お茶の席でのばかばかしいドタバタ劇だった。大勢の人がお茶を飲んでいるチャイニーズ・パゴダで、このひとったらスズメバチがいるって、どうかしちゃったみたいに騒いだんだわ――手で追い払おうとしたり、パナマ帽を振り回したり、場所柄もわきまえずに真剣に怒り狂っていた。それがどれだけ恥ずかしかったか。

 だがいま、彼の話に、その記憶も薄れていく。この人が言っている方が正しい。そうね、やっぱりすばらしい午後だったのよ、あふれるほどのゼラニウムやマリーゴールドやヴァービーナ。そうして――暖かな日差し。彼女の物思いは最後のふたつの言葉のところで、歌の響きのようにたゆたっていた。

 いわばその暖かな日差しを浴びて、もうひとつの記憶がほどけていった。芝生に腰を下ろしている自分の姿が見える。傍らで寝そべっていた彼、長いこと黙っていた彼が、急に寝返りをうって、彼女の膝に頭をのせた。

「ああ」低い声で彼はうめく。「毒を飲んで死にかけてるところだったらよかったのに――いま、この瞬間が!」

 ちょうどそのとき、白いワンピースを着た小さな女の子が、茎の長い、水のしたたる百合を手に持ったまま、背後の繁みからひょいと出てきた。ふたりをじっと見つめ、やがてまたすっと繁みのなかに戻った。彼はそれに気がつかない。彼女は彼の上にかがんだ。

「どうしてそんなことを言うの? わたしはそんなのいやだわ」

 彼はそっと何ごとかつぶやくと、彼女の手を取って自分の頬に押しつけた。

「だってぼくはこれから君のことをもっともっと――どうしようもないくらい愛してしまうことがわかるから。ひどく苦しむんだろう。ヴェラ、君は決してぼくのことを愛してくれないだろうから」

 そのころに較べると、いまの彼の方は、男ぶりも格段にあがっていた。半ば夢のなかにいるようなうわのそらのところや、優柔不断のところはもはやどこにも見あたらない。いまの彼は、人生に自分の場所を見出した男特有の落ちつきがあったし、自信に満ちた物腰は、ひかえめに言っても、なかなかのものだ。経済的にもうまくいっているらしい。質の良い服を身につけていたし、ちょうどそのとき、ポケットからとりだしたシガレットケースもロシア製だった。

「一本、どう?」

「ええ、いただくわ」彼女の手はタバコの上で留まっていた。「ずいぶんいいタバコなんでしょうね」

「いいものだと思う。セント・ジェームズ通りの職人にぼくのために作らせてるんだ。ぼくはそんなに吸わないんだけど。君ほどにはね――だけど吸うのなら、うまい、とびきり新鮮なタバコじゃなきゃ。タバコはぼくにとっては習慣じゃない。贅沢なんだよ――香水みたいにね。きみはいまも香水が好きなんだろうね。そういえば、ロシアにいたときに……」

彼女はさえぎった。「あなた、ほんとにロシアに行ったのね?」

「そうだよ。向こうには一年以上いた。ロシアに行くことをいつも話してたの、覚えてる?」

「忘れるわけがないわ」

 彼は不自然な、笑いかけてやめたような声をあげて椅子の背にもたれた。「不思議なもんだよな。あのころふたりで行こうと計画した国には、実際、全部行ったんだ。そうなんだよ、ぼくらが話した場所に、みんな行ってみたし、しばらく住んでもみた――君がよく言ってたみたいに”外気にふれて散歩する”ことだってした。実際、この三年ほどは、旅行ばかりしていたと言ってもいいぐらいだ。スペイン、コルシカ、シベリア、ロシア、エジプト。まだ行ってないのは中国ぐらいだけど、そこにも行くつもりだよ、戦争が終わったら」

 ぺらぺらとしゃべりながら、タバコの先で灰皿を軽く叩いている彼を見ているうちに、彼女の胸のなかでは、長いあいだまどろんでいた奇妙な獣が身じろぎしたのが感じられた。獣は身体を伸ばすとあくびをし、耳を立てる。不意に立ち上がると、あこがれとも、渇望ともつかないようなまなざしを、遠い異国の地に向けた。だが、笑みを浮かべた彼女がそっと口にしたのは、ひとことだけだった。「うらやましいわ」

 彼は言葉通り受けとったようだ。「旅はいいよ――とくに、ロシアはすばらしかったな。ぼくらがロシアについて想像していたとおりだった、いや、それ以上だ、はるかにすばらしかった。ヴォルガ河では船の上で数日過ごしたんだよ。君がヴォルガの舟歌をよく弾いてくれたの、覚えてるかい?」

「覚えてるわ」そう答えると同時に、耳の奧で曲が鳴り始めた。

「いまもピアノは弾いてる?」

「弾いてないの。ピアノがないから」

それを聞いた彼は驚いた。「せっかくあんなにいいピアノを持ってるのに」

彼女は微かに顔をしかめた。「売ったの。何年か前に」

「あんなに音楽が好きだったのに」彼は不思議がった。

「いまはそんな時間がないのよ」

 その話題はそこまでにしたらしい。「河での生活は」と言葉を続けた。「まるっきり独特のものなんだ。一日か二日もすれば、それまで自分が別の生活を送っていただなんて信じられなくなる。言葉なんてわからなくていいんだ――船での暮らしは人との絆を強くする、生半可じゃないほどにね。一緒に飯を食い、一日をともに過ごす。そうして夜になると果てしなく歌い続けるんだ」

 彼女は身を震わせた。声高で哀愁を帯びた「舟歌」が耳の内側で鳴り響き、暮れていく川面に浮かぶ船が目に浮かぶ……。「そうね、そうなんでしょうね」そう言いながら、マフにそっとふれた。

「君だったらロシアの暮らしは隅から隅まで気に入ると思うよ」彼の言葉には熱がこもっていた。「肩肘張る必要がなくて、思い立ったら何でもできて、疑問の生じる隙がないくらいに完全に自由なんだ。農民たちはすばらしい。彼らこそほんとうの人間だって感じがするよ――そうさ、彼らこそほんとうの人間なんだ。君を乗せてくれる馬車の御者でさえ――出来事の重要な一部なんだ。ある日の夕方、ぼくは友だちふたりと片方の奥さんの四人で、黒海の岸辺にピクニックに行ったんだ。夕食を広げてシャンパンを飲んだ。草の上で飲み食いしたのさ。ぼくらが食べていると、御者が来た。“ディル・ピクルスをどうかね”って。ぼくらに分けてくれようとしたんだ。なんだかこれほど正義にかなったことはないように思ったよ。ぼくの言うことがわかる?」

 彼女の方は、神秘的な黒い海、ヴェルヴェットのような波が音もなくうち寄せる岸辺の草の上に腰を下ろしているような気がしていた。道の脇には馬車が停まっており、さらに数人の人々も見えた。彼らの顔も手も、月の光を浴びて白い。女のほの白いドレスのすそが広がり、畳んだパラソルは芝生に転がって、真珠色の巨大なかぎ針のようだ。一同から離れ、膝の上で布に包んだ弁当を広げているのは御者だった。「ディル・ピクルスをどうかね」と御者が言い、彼女にはディル・ピクルスがどんなものなのか見当もつかなかったが、緑がかったガラス瓶に、赤唐辛子がオウムの嘴のようにギラリと光るのが目に浮かんできた。彼女は頬を吸い寄せた。ディル・ピクルスはひどく酸っぱい……。

「あなたの話はほんとうによくわかるわ」

 ひととき、ふたりはたがいをじっと見つめた。昔はふたり、こうやって見つめ合えば、底の底までわかりあっている、いわばふたつの魂が、互いに相手の体を抱きしめたまま、まるで悲運の恋人たちのように溺れることも本望だとばかり、ひとつの海に飛びこんだほどにも理解しあっていると思ったものだ。だがいまは意外にも、自制を見せたのは彼の方だった。彼は言った。

「まったく君はたいした聞き手だよ。その必死の目で見られたら、ほかの人間にはとうてい言う気になれないことでも、話してしまえる」

 彼の声には冷やかしているような響きがありはしないか、それとも思いすごしなのかしら。彼女にはよくわからなかった。

「君に会うまでは、自分のことなんて誰にも話したことはなかった。あの晩のことははっきりと覚えているよ。君にちっちゃなクリスマス・ツリーを持っていった夜に、ぼくの子供のころの話を何もかもしただろう? 家出して、庭の荷馬車の下にいたんだけど、二日間も見つけてもらえなくて、ひどく惨めだったことを。君はじっと聞いてくれたよね、そのあいだずっと、君の瞳はキラキラ輝いていた。ぼくはなんだか君が、ちっちゃなクリスマス・ツリーにまでぼくの話を聞かせようとしているように思ったんだ。おとぎ話みたいにね」

 だがその夜のことで彼女が思いだしたのは、キャビアの小瓶のことだった。七シリング六ペンスだった。彼はどうしてもその金額をあきらめられなかったらしい。考えてもみろよ、こんなちっぽけな瓶に入って七シリング六ペンスだぜ。食べている彼女をそのあいだずっと、はしゃぎつつもショックを隠せない様子で眺めていた。

「いやはや、金を食ってるようなもんだな。そんなに小さな瓶だったら七シリング入れるのも無理だな。ここから出るもうけのことをちょっと考えてもみろよ……」そういうと、ひどく複雑な計算を始めたのだった……。だが、いまはキャビアにはサヨナラしておこう。テーブルの上には小さなクリスマス・ツリーがあり、荷車の下には犬を枕にして眠る小さな男の子がいたのだ。

「犬はボースン、っていう名前だったのよね」彼女はうれしくなって思わず大きな声を出した。

 だが彼にはわからなかったらしい。「どの犬だ? 君、犬なんて飼ってたっけ? 犬のことは全然覚えてないなあ」

「ちがうわよ、わたしが言ってるのは、あなたが小さいときに庭にいた犬よ」

 彼は笑うとシガレットケースをぱちんと閉めた。
「そうだったっけ? 全然覚えてないな。なんだか大昔のことみたいだもの。その話をしたのがたった六年前のことだなんて信じられないよ。今日、君だってわかってから――それにもずいぶんな断層を飛び越えなきゃならなかったんだけどね――あのころに戻ろうとして、人生をまるごと巻き戻すぐらいの大ジャンプが必要だった。当時、ぼくはまだほんとに子供だった」指でテーブルをリズミカルに叩いた。「ずいぶん思ったんだけど、ぼくはさぞ君をうんざりさせたにちがいない。いまならどうして君があんな手紙をよこしたのか、完璧に理解できるよ――あのときはこんな手紙を読んだからには、もう生きてはいられない、ぐらいに思ったけど。このまえたまたま見つけて読み返したんだけどね、笑わずにはいられなかったよ。よく見てるなと思った――これこそ、ぼくの姿だったんだろうな、って」彼は目をあげた。「まだ行かないよね?」

 彼女は襟元のボタンをかけると、ヴェールをおろした。

「ごめんなさい、もう行かなくちゃ」そう言うと、なんとか笑みを浮かべようとした。いまや彼がずっと自分をからかっていたことがわかったのだった。

「そんなこと言わないでくれよ」彼は哀願するように言った。「もう少しいてくれよ」テーブルから片方の手袋を取ると、彼女を放すまいとするかのようにしっかりとにぎりしめた。「ちかごろ人と会って話すこともないから、野蛮人になってしまったみたいだ。君を傷つけることを何か言ってしまったかな?」

「いいえ、そんなことはないわ」彼女はうそを言った。だが、彼が手袋を指のあいだにはさんで優しくなでているのを見ているうちに、怒りはおさまっていき、そうしている彼は六年前そのままに見えた。

「ぼくがあのころほんとうに望んでいたのは」彼は穏やかな声で言った。「絨毯になることだった――ぼくが絨毯みたいなものになって、君がその上を歩くんだ。君があれほどきらってた尖った石だろうとぬかるみだろうと、少しも傷つかず歩いていけるように。あれほどはっきりした望みはほかにはなかったよ――これほど身勝手な話もないけどね。だけど、ぼくがただ願っていたのは、魔法の絨毯になって、君を乗せて、君が見たがってたすべての国に連れて行ってあげることだけだったんだよ」

 話を聞きながら、彼女は何かを飲みくだしているかのように、頭を昂然ともたげた。胸の内の奇妙な獣が喉を鳴らし始めた……。

「ぼくは君ほど寂しい人はこの世にはいないと思っていた」彼は続けた。「だけど、たぶん、だからこそ君が世界でただひとりのひとのように思ったんだ、ほんとうにリアルな、ほんとうに生きているただひとりのひとだと。時代とは何の関係もなく生まれたひとだと」彼は手袋をなでながらつぶやいた。「運命だ、って」

 ああ、神さま! わたしはいったい何をしてしまったんだろう。こんな幸せを自分から捨ててしまったなんて。わたしをほんとうに理解してくれたただひとりのひとだったのに。もう手遅れかしら? 遅すぎた、ということなのかしら? わたしはあのひとの手のなかの手袋……。

「君には友だちがいなかったし、人と仲良くなろうともしなかったよね。ぼくはそれがすごくよくわかった。ぼくも同じだったからさ。いまでも同じだろ?」

「ええ」囁くように言った。「同じよ。ずっとひとりぼっち」

「ぼくだって同じさ」彼は穏やかに笑った。「まったく同じだ」

 不意にそっけない態度で彼は手袋を差し出すと、音を立てて椅子を床にすべらせた。「だけどあのときのぼくにはふしぎだったことが、いまじゃ完璧に理解できる。もちろん君だってそうだろう……。つまり、ぼくたちは単に、ひどいエゴイストだったってことさ。自分自身に夢中で、自分の殻にこもって、心のなかに他人が入り込む余地なんてほんの少しもありはしないんだ。わかるだろ?」彼は騒々しい声で言った。世間知らずで、なれなれしくて、昔の彼のもうひとつの面が、たまらないほどはっきりと浮かびあがる。

「自我の構造について勉強を始めたんだよ、ロシアにいるときにね。そこでなにもぼくたちが特別だってわけじゃないことがわかった。こういうのは一般的なタイプで……」

 彼女の姿は消えていた。彼はそこに座ったまま、雷に打たれ、驚きのあまり言葉もなかった……やがて彼はウェイトレスを呼んで勘定書を持ってくるように言った。

「だけどね、クリームには手をつけてないんだ。だからそれは勘定から引いておいてくれよ」



The End




わかるのは酸っぱいことだけ



キャサリン・マンスフィールドは、チェーホフのあとを受け、今日に至る短編小説のスタイルの基礎を作っていった作家のひとりである。

ドラマティックな出来事が起こるわけでもない。日常のささやかな断片を描き出すことを通して、登場人物のひととなりや、彼らの来し方、さらに行く末の暗示までが浮かびあがる。広い世界を描くわけではない。若くして亡くなったマンスフィールドの、限られた経験を反映して、豊かな人生経験を積んだ登場人物が出てくるわけでもない。それでも、もっとも有名な作品『ガーデン・パーティ』のなかで主人公の少女ローラのように「人生って――」と思わずつぶやきたくなるような、人々の生が描かれる。

1917年に発表された「ディル・ピクルス」は、こののち多くの作家によって連綿と書きつづけられることになる「偶然に再会したかつての恋人たち」という一幕ものの短編の、おそらくは元祖ともいうべき作品だろう。

おそらくは女性よりも階級が下の、洗練されていない、半ば夢見心地の青年と、寒がりの女性はかつて恋愛関係にあった。そうして、彼女の方から愛想をつかした旨をしたためた手紙を出して、ふたりは別れた。

「それから六年後、彼女は彼に再会したのだった。」

女は、当時より日々の暮らしに追われるようになり、男は当時より裕福になって。作品は最後をのぞいて、ヴェラ(彼女)の視点から描かれる。

相手の仕草や癖から、ヴェラは当時のことを思いだす。苛立たしかったこと、恥ずかしい思いをさせられたこと。ところが別れてから、彼は彼女の知らない経験を重ねていた。彼女のうちに、長いこと眠っていた獣が目を覚ます。異国の地を遠く見つめるこの獣は、おそらくはかつて抱いていた彼女の欲望なのだろう。

彼はからかっているのか。彼女はしきりにそのことが気にかかる。それでも、彼の優しい言葉に、自分は幸福を取り逃がしてしまったことに気がつく。手遅れではないかもしれない、と思ったところで、手袋を返してきた相手の動作に、自分へのあざけりを見て取り、男が自分の話に夢中になっている隙に、姿をけすのである。

だが、彼の方はほんとうに彼女が考えているように、からかい、侮っているのだろうか。姿を消して、わけもわからず「雷に打たれたような」顔の彼からは、そんなことはうかがえない。

相手の心のなかに浮かびあがる自分の像、実際にはそんなものなどありもしないものまで見てしまう彼女と、相手の感情に鈍感で、詩情には乏しく、金銭感覚だけは発達した彼は、六年前と同じことを再会した一瞬のうちに、ふたたび繰りかえしてしまうのである。

だが、ほんとうに彼は六年前とまったく同じなのだろうか。あるいは、彼女も六年前と同じなのだろうか。

人は、自分という鏡に映る相手しか、理解できない。自分が鏡に映し出すことのできない相手の側面は、どうしても見えないし、自分の鏡の歪みは、相手の姿も歪ませる。そうしてまた、映し出す自分の鏡の大きさや、焦点が変わっていれば、それに応じて相手の像も変わっていくのだ。

一瞬の邂逅では、結局は何もわからない。わかるのは、ただ、人生は酸っぱいものだということだけ――。

キャサリン・マンスフィールドは1888年、ニュージーランド生まれの作家である。生まれたのはニュージーランドでも、十代の最後に母国をあとにしてからは、ずっとイギリスで活動を続けた。1911年、処女短編集『ドイツの下宿にて』を発表するが、これは習作の域を出ないもの、とくに、「疲れた子」はチェーホフの短編「眠い」と非常によく似ており、のちに剽窃さわぎを起こすものだった。

直後、オックスフォードの学生だったジョン・ミドルトン・マリと出会う。このマリとの出会いが一種のブレイク・スルーとなって、彼女の本格的な執筆活動が始まる。十代の終わりに結婚した相手との離婚がやっと成立し、マリと結婚した1918年、同時に結核を発病し、そのわずか五年後には死去することになる。

繊細ななかにも、階級意識と諷刺とユーモア感覚のあふれた短編集を三作、さらに中篇を三作残し、さらに日記や書簡集がマリの手で編集されて出されている。

初出June.1-05 2007 改訂June.08, 2007


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