0.前口上―あるいはオトナとして絵本を読むことの覚悟と決意について―

 絵本は、子供が読むもの、ということになっている。それが証拠には、絵本の裏表紙には、たいてい対象年齢というものが書いてある。

「読んであげるなら 〜才」「ひとりで読むなら 〜才」。たまに「あらゆる年齢」とある愉快な例外もあるのだけれど(たとえば長新太の『ごろごろにゃーん』)、多くはその年齢が読むもの、あとは子供を持った親か、あとはせいぜい「かわいいもの」が好きな女の子(これは子供の意ではない)が読むものとされている。

 だが、これは大きな間違いではあるまいか。確かに絵本にはむずかしい語彙は含まれていない。絵もシンプルなものだ。けれどもあらゆる文学や詩がそうであるように、ひとつひとつの言葉には、多くの意味がこめられている。絵本の場合はそれが限られたものであるだけに、行間の意味は、いっそう深い。また、絵という文章とは異なる「テクスト」が、文章を補完するばかりでなく、独自の意味を持っている、というケースもある。こういう場合は「絵を読む」という作業も必要になってくるだろう。

 子供の本の読み方には、大きな特徴がふたつあるように思う。ひとつは、子供は「わかる」ということをとりあえず棚上げにできる、ということである。

 図書館や本屋の絵本コーナーでよく聞こえてくる会話に
「おかあさーん、この本、買ってー」
「これ、おかあさんよくわからないのよね、絵もキレイじゃないし。それよりこっちにしなさい」
というものがある。そういいながらはねのけられるのは、『エンソくんきしゃにのる』だったり『キャベツくん』だったりして、ああ、この本、ほんとにおもしろいのに、すごくいい本なのに、と思うと、行ってひとくさりそのママに説教をしたくもなるのだが、とにかく子供のすごいところは「わからなくておもしろい」と平気で思えるところである。そうした意味で、そのママなんかよりはずっと先をいっている。

エンソくんきしゃにのる 「えーと、ほげたまで こども いちまい」
(エンソくん)
『エンソくんきしゃにのる』
文・絵 スズキコージ
福音館
キャベツくん 「だいたい わかっていたけれど、 こうしてみると、びっくりします」
(ブタヤマさん)
『キャベツくん』
文・絵 長新太 
文研出版

 もうひとつは、それとも関連するのだけれど、本を「わかる」ではなく「経験する」ことができるということ。無防備で本の世界に入っていくことができるから、本が語るにまかせることができるのだ。
エンソくんと一緒に、どことなく東欧を思わせる駅前広場を抜けて、「ほげた」とヘンな、中米の匂いもする町の名前を告げ、「ほげたはここですよ」と駅員に言われ、「ほいざまで」と言い直して切符を買って、改札を抜けて汽車に乗る。
そのプロセスを、情報として受け取るのではなく、エンソくんと一緒に経験することができるのだ。
子供ってやっぱりすごい。

 そうではない読書、知識を得、判断力を働かせながら読む読書に慣れている大人は、なかなかそういう読み方はできない。

 小説は好きだけれど、詩はわからない、という人がいる。そういう人はたいてい、小説を読んでも「おもしろかった」とは言えても、どこがどうおもしろかったか、なぜおもしろかったか、が言えない。筋を情報として得、それを単純に「おもしろがって」いるからにすぎないからだ。詩は、行間、ことばとことばの隙間を読む作業が必要になってくるから、まったくの受け身でただ情報だけ得ようとする読み方では、何も得られない。

 もちろん、詩でも文学でも、あるいは絵本でも、「子供のように」読みたい、という人がいても、それはそれでまったくかまわないと思う。ただ、残念ながら「読む」ことに関しては、相当早くに子供時代を終了してしまったわたしには、そういう読み方は、もはやできなくなってしまっている。

 一歩、中へ踏み込んで、創造的な絵本読みをしてみたい。言葉を換えると、絵本をもとに好きなように読んじゃおう、ということだ。子供にはぜったいできないような読み方で、一冊の本をしゃぶりつくしてみよう。

その1.おおかみといっしょに「けっ」と言ってみる―あるいは、オトナになることについて―


やっぱりおおかみ 「け」
(おおかみ)

『やっぱりおおかみ』
文・絵 佐々木マキ
福音館書店

 口に出して言うことこそないけれど、わたしはときどき「けっ」と思う。たいがい目上の人間が、自分で考えたわけでもない、天声人語あたりから引っ張ってきたどうでもいいようなことを、いかにも大層な様子で言ったりすると、頭の中にひらがなの毛筆の太字で「けっ」と浮かんでくるのだ。
 考えていることがマンガのふきだしのように空中に浮かんだとしたら、わたしは相当焦らなくてはならないだろう。なにしろしかつめらしい顔で聞いているふりをしているのに、頭上右上30cmあたりに、墨跡鮮やかに「けっ」と浮かんでいたら……。

 この「けっ」は、せんに誤解していらした方がいたのだけれど、別に江戸っ子の職人のように手鼻をかんでいるのではなくて、実は出典があるのだ。

 それがこの佐々木マキの『やっぱりおおかみ』(福音館書店)である。

 この絵本は、たったいっぴきだけ残ったおおかみの子供が、どこかに自分よりほかにおおかみがいないかな、と探して歩く話だ。
 みんなは仲間がいて楽しそうに見える。けれど自分が近づいていくと、ほかの動物たちは逃げてしまう。いっぴきだけ取り残されるおおかみは、ひとこと、「け」という。ふきだしに、毛筆の太字で「け」と書いてあるのだ。

「おれに にたこは いないかな」
あちこち探して、最後におおかみはビルの屋上に出る。そこには気球がある。気球に乗ってどこかにいくと、ほかのおおかみに会えるんだろうか。けれども、気球は飛んでいってしまう。

 残されたおおかみは、「やっぱり おれは おおかみだもんな おおかみとして いきるしかないよ」と思う。そうして、飛んでいってしまう気球に向けて「け」と言うのだ。

 この本のなかのおおかみは、黒一色で描かれている。全体にブルーグレーがかってどことなく東欧風の街並みも、そこで暮らすうさぎも、ぶたも、やぎも、うしも、それぞれに色がつき、種族によって「同じ」顔を持っている。けれど、おおかみだけは黒一色だ。これは、自分の姿は自分では見えない、ということではあるまいか。
 街を歩いていく自分は、自分では見えない。窓の外から、うしの一家を、どれほどうらやましそうな、寂しそうな顔でのぞいているか、その表情は自分にはわからない。

 この本はわたしが小さい頃に読んでいた本ではない。中学生のときにもらったのが最初だ。そうしてこの本は、その年代の子ども(とあえて言ってしまおう)の心情に、ひどくぴったりきたのである。

 自分はだれとも同じではないような気がして、自分のような人間はどこにもいないように思えて、自分の居場所を求め、受け容れてくれる人を捜すのだけれど、どこに行っても、どこに所属しても、なんとなく違うような、自分のことをわかってくれる人間などいないような、そんな気がする……。

「自分の物語」を、自分の手で紡ぎ始め、それを他者に承認してほしい時期の子どもは、確実に「おおかみ」に自分をなぞらえる。

 ここに自分がいる。自分こそ、ただいっぴきしかいないおおかみなんだ。

 そこで最後におおかみと一緒になって「け」と言ってみる。
 自分のことは、自分しかわからない。それでいいんだ、と。そうすると、おおかみと一緒に、なんだか自由で「ゆかいなきもち」になってくる。
だからもういちど「け」と言ってみる。
なにかあるたびに、「け」と言ってみる。
自分はひとりだ。だけど、かまうもんか。わたしが、わたしを、知ってる。

 そうやって、「け」と言いながら、そのうち「子ども」は大人になる。自分が「たったいっぴきのおおかみ」ではありえないこと、さまざまな集団に属し、役割を担っている、ときに「うさぎ」であり、あるいは別の場面では「ぶた」であり、「やぎ」であり、「うし」であることに気がつく。
 これまでずっと「おおかみ」だと思っていたはずなのに、実は「おおかみ」ではなかったのだ、と理解する。そうして、自分がそのころ「うさぎ」や「やぎ」や「うし」だと思っていた人間が、やはり自分と同じように、どこかで自分を「おおかみ」ではないかと思って、「おおかみ」の自分を半ばもてあまし、半ば愛おしみながら、「おおかみ」の自分を受け容れてくれる人を捜していることに気がつくのだ。

 それから、またすこし大人になって、はじめて気がつく。確かに、自分のなかにも「おおかみ」がいることを。だれにも飼い慣らされない「おおかみ」。「うさぎ」や「ぶた」や「やぎ」が逃げてしまう「おおかみ」が。ときに「うさぎ」であり、「ぶた」である自分のなかに、「やぎ」や「うし」として日常を生きている自分のなかに、まぎれもない、いっぴきだけの「おおかみ」がいるのだ。こうやって「おおかみ」として生きるしかない自分を初めて見つける。

 これは、子どものころの「おれに にたこは いないかな」と周りを見回している「おおかみ」ではない。空に向かって「け」という「おおかみ」、世界に向かって「け」という「おおかみ」だ。

 このときの「け」は、やはり「けっ」と言いたい。すねて、背を向ける「け」ではなく、集団を成り立たせるための秩序のなかで生きながら、同時にくだらないものは、だれがなんと言おうとくだらない、と蹴り飛ばす「けっ」だ。

 人は「おおかみ」に生まれるのではない。「おおかみ」になるのだ。

 本の後ろに3歳〜小学校初級向き、と書いてあるんだけど、これはティーン・エイジャーのための本でもなくて、大人のための絵本だと思うな。



2.森の中へ子供の自分に会いに行く―あるいは失ったものを取り戻すということについて―


もりのなか 「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」
(おとうさん)

『もりのなか』
『またもりへ』
文・絵 マリー・ホール・エッツ
福音館書店

 これは小さいときに持っていた本。持っていたけれど、とりわけ愛着があった記憶はない。

 横長の本の絵は、目の粗い画用紙に黒いコンテで描いただけのきわめて地味なものだし、ストーリーも、主人公が冒険するわけでも、おもしろいことを経験するわけでもない。

 ただ、おとなになってこの本を、ああそうだ、持っていたっけ、と本屋で開いたとき、衝撃を受けた。
 一種異様なまでの静けさと、森の奥の闇の暖かな深さを感じたのだ。とにかくすごい絵だ。

 話そのものは、ごくシンプルなものだ。

 森の中へ散歩にいった男の子が、いろんな動物に会う。
動物はつぎつぎについてきて、みんなで歩いていく。
みんなでかくれんぼをしているときに、お父さんが迎えに来て、動物たちはいなくなってしまう。
「みんな まっててね」と男の子は森の中に声をかけて、お父さんに肩車されて帰っていく。

 この話には続編がある。
『またもりへ』がそれだ。

 こちらでは、男の子がさわがしい森の中へ入っていくと、動物たちが「とくいなことのうでくらべ」をするから、待っていたのだ、という。
動物たちがつぎつぎにいろんなことをしたあと、男の子はさかだちして、鼻でピーナッツをつまもうとして、おかしくなって笑ってしまう。
すると、動物たちはいっせいに立ち上がって、目を丸くして、「これはいい」と叫ぶ。 鳥も獣も、森の動物はだれも笑えないもの。

 ここでも迎えに来たお父さんと入れ替わるようにして、動物たちは姿を消す。
笑っていた男の子に、「何がそんなにおかしいんだい?」と理由を聞いたおとうさんは、上で紹介したように、「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」といって、ふたりは手をつないで帰っていく。

 このふたつの話を比べてみると、いくつか重要なちがいがあることに気がつく。

 まず、象は、『もりのなか』では二匹とも子供だったのに、こんどは一匹は年寄り、一匹は子供になっている。ライオンも、くまも、年取った感じだ。うさぎ、こうのとり、カンガルーがいなくなり、かば、へび、あひる、ねずみ、オウムが加わっている。

 そして、なによりも、おとうさんが『またもりへ』では、若くなっているのだ。同じように口ひげを生やしているのだけれど、『もり』のほうが、前髪が薄いし、全体に老けているのだ。

『もり』では、画面奥の木立の間から、おとうさんが姿を現す。そして肩車された男の子とお父さんは、そちらに向かって後ろ姿になり、最後のページではふたりが去ったあとの木立ちが描かれるのだけれど、ふたりが行った先は暗く、なんだか森の奥へ向かったように思える(男の子がいたのは、森の反対側で、家に帰るためには、いったん奥へ向かわなければならないのかもしれないけれど)。

『また』では、おとうさんはいきなり横向きで、男の子の傍らに立っている。そうして、ふたりが手をつないで帰って行く先は、やはり木立が続いているのだけれど、心なしか『もり』より明るいような気がする。

 男の子は、どちらも紙のぼうしをかぶって、ラッパを持っているのだけれど、同じ子かどうかはわからない。
むしろ、上にあげたことを考えると、ちがう子ではないかと考えたほうがよいのかもしれない。

 ちがう子、つまり、『もりのなか』の子が、『またもりへ』でおとうさんになって迎えに来たのではないだろうか、ということなのだ。

 そう考えると、
「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」
という言葉には、かつて、同じように、動物たちを従えて、森を散歩していた記憶が遠く響いているのではあるまいか。

 ここでの森の中とは、「子供時代」そのものだ。
ライオンがいて、ぞうがいて、カンガルーがいて、うさぎもいる。
そこでは生息区分もなければ、食う食われるの関係もない。
歩いていけばテーブルがあって、そこにアイスクリームやケーキがある。
そこでみんなで遊んでいると、おとうさんが呼びに来る。

 こう考えると、おとうさんに肩車されて帰っていく先が暗いのも、納得がいく。それは、そこで「子供時代」の環が閉じられるからなのだ。

 そう思って読んでいくと、『またもりへ』が、まったく別の物語として読むことができることに気がつく。
つまり、「おとうさん」は、子供を迎えに行くときに、もういちど森に帰ることができる、ということだ。
そのときの「おとうさん」は、もう「子供」と同じように笑うことはできない。ほかになにもできなくてもいからそんなふうに笑ってみたい。いったんは閉じられた環に、ふたたび戻ってくることはできたけれど、それは子供としてではない「おとうさん」のことばは、子供時代を過ぎてしまったわたしの内から発せられた言葉のようでもある。

 この文章を書くために本を見たら、ガン末期の夫と暮らす日々に制作が進められ、夫の死後出版されたことがわかった(参照『絵本のよろこび』松居直 NHK出版)。
『もりのなか』の異様なほどの静けさと緊張感、そして、闇に向かって去っていく後ろ姿を見ると、確かにそうしたことが影響しているのかもしれない。

 けれどもつぎの『またもりへ』は、「わいわい がやがや いう こえが きこえてきました」という言葉から始まるように、そうして、男の子が笑い転げている様子に(ほんとうにこの笑顔がかわいい)、最後のふたりが帰っていく先の、森の明るさに、いったんは閉じられた環が、また開くことが暗示されているように思えてならない。

 わたしたちは、同じ「時」を、二度生きることはできない。
けれども、その「時」は、決して流れ去っていくのではない、と、この本を見ていると思うのだ。

 わたしたちは、もう子供のように笑うことはできない。
それでも、過去、自分がそんなふうに笑っていたのだという記憶は、わたしたちの層のなかに刻まれているのだ。たとえそんなふうに笑うことはできなくても、それは失ったことにはならない。森に入っていこう。動物たちは、もう姿を現してくれないかもしれないけれど、そこで笑っている昔の自分に会えるかもしれない。
森のことさえ忘れなければ。




3.絵を見る、ひたすら絵を見る―あるいは、絵を「読む」たのしみについて


 やはり絵本がほかの本とちがうのは、あたりまえのことだけれど、絵がある、ということだ。というわけで、絵がすごい! という本を。

 もちろん、マリー・ホールーエッツにしても、ヴァージニア・リー・バートンにしても、絵がすばらしい絵本作家はたくさんいるのだけれど、なんといってもわたしが好きなのは 『いっしょにきしゃにのせてって!』(amazonに画像がなかったので、書名をクリックしてください)。

 もちろんこの表紙の絵はターナー「雨・蒸気・スピード」を踏まえたものである。

 画面の奥から走ってくる機関車の角度も、鉄橋を渡りつつあるところも、画面の左側に川があって、舟が浮かんでいるところも。
おもしろいのは、このターナーの画像をよくよく見ていると、バーニンガムの表紙のように、白い犬が横を向いて立っているような気がしてくる。バーニンガムの犬(実はパジャマ入れ)が、ターナーの絵の中に見えてくるのだ。

 作者のジョン・バーニンガムはイギリスの絵本作家。

なみにきをつけて、シャーリー 「いすをくみたてて ここに いますからね」
(おかあさん)
『なみにきをつけて、シャーリー』
ほるぷ出版
ガンピーさんのふなあそび 「じゃ、さようなら。また いつか のりにおいでよ」
(ガンピーさん)
『ガンピーさんのふなあそび』
ほるぷ出版』

『ガンピーさんのふなあそび』のほうは、いかにもイギリスの田園地帯、といったのどかで牧歌的な話なのだけれど、『なみにきをつけて、シャーリー』は痛快、というか、なんともかとも。

 見開き左に書いてある文章は、すべておかあさんのことば。
「みずが つめたくて とても およげないわよ、シャーリー」 こちらの絵は、ペンと水彩色鉛筆で描かれていて、全体に淡い。

 ところが右側の、ガッシュを重ね塗りしたくっきりとした色合いのページでは、シャーリーの行動が描かれていく。
左側ではお母さんが
「いすをくみたてて ここに いますからね」
と言っているその隣で、シャーリーは小舟で沖合に出る。
「きをつけて、あたらしいくつを きたないタールで よごしちゃだめよ」
シャーリーは海賊船に乗り込む。
この調子で、お母さんのお小言とは無関係に、シャーリーは海賊たちと戦い、海賊の旗と宝の地図を奪って、宝まで掘り出すのだ。

 それほどの活躍をしたシャーリーも、最後のページでは、また淡い水彩色鉛筆の世界に戻って、一緒に帰ってしまう(ただ、来るときに一緒にいた犬がいない。犬はどこへ行ってしまったんだろう?)。すべてはシャーリーの想像のなか……(ここがちょっと不満なところ。たとえばモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』では、行ったときは三日月だった月が、帰ったときには満月になっていて、それに気がついたとき、わたしは、おおっ、と思ってしまった)。

 ともかく、大人はいかに子供のことを見ていないか、ということが、大人の側から見ると残酷なまでに描いてあって、そのぶん、ちょっと反抗心が芽生え始めた子供から見ると痛快な本だった。本の裏に「四歳から」と書いてあるのだけれど、この本はさすがに四歳にはわからないと思う。

 さて、『いっしょにきしゃにのせてって!』

 最初に『なみにきをつけて…』のおかあさんによく似たおかあさんが部屋に入ってきて
「いつまで きしゃで あそんでいるつもり?」と、部屋で遊んでいる男の子のところにやってくる。例によってお母さんが言うのは、お小言。

 ここではまっしろい背景、描き込んであるのは、簡単なドアと、男の子の部屋のようす。ここでも水彩色鉛筆の、淡い色だ。

 この子が遊んでいる模型の蒸気機関車、たしかに表紙や内表紙を走っている蒸気機関車と同じものだ。ああ、これがあの機関車なんだな、と思う。ただ、おもちゃといっても相当に立派な駅と、線路もついていて、この線路はページの端から端まで渡っている。

 おかあさんはいぬのパジャマ入れを渡してくれて、男の子はそのパジャマ入れを抱いて、眠りにつく、というか、とにかく部屋は暗くなる。
と、つぎのページで、いつのまにか部屋は明るくなっていて、ベッドの足下、おもちゃの蒸気機関車が煙を吐いて走り出している。機関室に乗っているのは、もちろん男の子と、元パジャマ入れの犬。

 そうして、色鮮やかなガッシュの絵が現れる。満月の月明かりの中、蒸気機関車は黒い煙を吐きながら、都会の明るい夜空から離れていくのだ。

 ここから『なみにきをつけて…』ほどの規則性はないのだけれど、ガッシュの絵と、白い背景の色鉛筆の絵が、交互に現れていく。

さまざまな風景と光のなかを、蒸気機関車は疾走する。

「きりが たちこめてきたぞ。 おばけごっこができるぞ」

おばけごっこから戻ってくると、ぞうが乗ろうとしている。

「おーい! すぐに きしゃから おりろ」

 そうなのだ。子供をなめちゃいけない。『なみにきをつけて…』のおかあさんも、「どうして あのこたちの なかまに はいらないの? いっしょに あそべばいいのに……」とトンチンカンなことを言っているのだが、同じ子供だからといって、見ず知らずの子と、いきなり遊べるはずがない。大人がいきなり見ず知らずのアカの他人と「やあやあ」なんて言えないのと同じで、子供にだって適切な距離というものがあるのだ。わたしだって小さいとき、いきなり頭を撫でてくる大人がどれほどイヤだったか。

 ところがぞうは、「きみの きしゃに ぼくも のせてってよ。ぼくのきばをきりおとして ぞうげにするひとがいる。それでは ぼくたちは いきていけない」

 そうなんです。この本は、確かに環境保護を訴えてもいる。それがなかったら、ほんとうにいい本なんだけど(わたしは主題がはっきりしていて、しかも「正しい」ことを主張しようとしている絵本というのは、一種の暴力だと思っているので)。それでも、もちろんバーニンガムだから、一筋縄ではいかないのだけれど。

 とにかくぞうを乗せて汽車は走り、途中下車してみんなで遊び、戻ってみるとこんどはあざらしが。それからつるが、とらが、しろくまが、順番に乗ろうとしてくる。そのたびごとに、みんなは
「おーい! すぐに きしゃから おりろ」(さっき乗せてもらったばかりのやつも、大きい顔をしてそう言う)と指さし、あとからやってきた動物たちは、自分が人間からどれほどひどい目に遭っているか話して、乗せてもらうのだ。

 その間に何度も日は昇り、晴れたり、風が吹いたり、雨が降ったり、雪が降ったりする。

「もどらなくちゃ。あさに なったら ぼくは がっこうに いかなくちゃいけないんだ」

 そうして絵本はこのなかでも、もっとも迫力のある絵が登場する。
蒸気機関車が、日が昇る直前、そらが金色に染まり、海にその光が反射する中を、疾走する。いくつもの煙突からは、煙が立ちのぼり、蒸気機関車も煙を吐いて走っていく。

 この絵を見ると、ターナーを思う。ターナーの時代には、力強く煙を吐いて走る蒸気機関車は、輝かしい未来の象徴だった。けれども、いま、実際には蒸気機関車は走っていない。過去の遺物だ。たとえ走ったとしても、わたしたちはそこに輝かしい未来を約束するテクノロジーを見ることはなく、煙、つまり公害をまき散らすものとして見るだろう。
 そうして、ターナーが象徴させた輝かしい未来はどこにもない。男の子が乗った蒸気機関車はどこへ向かおうとしているのだろう。

 そう思うと、ひとつのことに気がつく。蒸気機関車の煙だけ、たなびいていく方向が逆だ。

 これはどういうことなのだろう?
たとえ風向きが汽車の後ろから前だったとしても、走っている蒸気機関車の煙は、かならず先頭から後ろへ流れていくものではないか?
おまけに工場の煙突の煙は、蒸気機関車の先頭から後ろのに向けての方角にたなびいているのだ。これは風ではない。

 どういうことなんだろう、と1ページ戻ってみる。

 なんと、男の子が帰ることを決心したそのページでは、白い背景のなか、走り出した蒸気機関車の煙は、どういうわけか進行方向と逆向き、後ろから前へ前へと流れている。

 煙は、前へ、前へと流れていく。これは、過去から来た蒸気機関車が、未来へ、未来へと走っていく、ということではないか。

 つぎは、また白いページ、男の子はベッドで寝ている。

「さっさと おきなさい。 ちこく するわよ」

 なんだ、夢だったのか。 ところがおかあさんはつづけてヘンなことを言う。

「うちのなかが どうぶつで いっぱいよ。
げんかんに ぞうが、
おふろのなかに あざらしが
せんたくもののなかに つるが
かいだんに とらが
れいぞうこのそばに しろくまが いるわ。
いったい どうなってるの?」

 そういうおかあさんの顔は、確かに少しにっこりしている。 男の子に抱かれた犬のパジャマ入れ、寝るときはぬいぐるみだったのに、ここでは男の子と一緒に、おかあさんを見上げているようだ。 ベッドの足下を見ると、蒸気機関車の煙突から、少しだけ、煙が上っている……。

 これまでの絵本の「文法」では、動物たちは大人には見えなかったはずなのに。
ほんとうに、動物たちが戻っていけないほど、そういう世界は破壊されてしまった、ということなのだろうか。じゃ、このあと、どうなるんだろう。おかあさんは、なんで平気な顔をしてるんだろう。
これを夢の中で目が覚めたのだ、男の子はまだ夢の中にいるのだ、と解釈するのは簡単なのだけれど、なんだかそれだと楽しくない。もしかしたら、これは未来で、そこでは動物たちがそんなふうに当たり前に一緒に暮らしていけるのかも。だったらいいな。

 絵本の楽しみ、というのは、結局は、細かいところを見つけて、どこまで想像をふくらませながら読めるか、につきるのではないのか、と思う。

 朝起きて、階段にトラがいたら楽しいだろうなぁ。
シロクマは、冷蔵庫の中には入れなかったらしい。

 だけど、ほんとに本屋さんに行ったら、この本、立ち読みでいいから、見てみてください。 夜明け前を走る蒸気機関車、ほんとにすごいよ。




4.子供のためにカッコいいおじさん・おばさん(お兄さん・お姉さん)を目指す―あるいは家族ではない大人ができることについて―


キスなんてだいきらい 「おふくろさんに あんなこと いうもんじゃない。
はずかしいと おもえよ。」
(タクシーの運転手)

文・絵 トミー・ウンゲラー
『キスなんてだいきらい』
文化出版局

 ある年代になると、母親がうっとうしくてたまらなくなる。
向こうはこちらの気持ちなどおかまいなしに、まったくこれまでと同じように接してきて、いっそう我慢がならなくなる。

 向こうとしてみれば、相も変わらずの子供にちがいはなくても、こちらとしては、おむつを変えてもらったころでもなければ、迷子になって酒屋で保護された三歳児でもない(どういうわけかわたしには異様にはっきりとこのときの記憶がある。脳裏に浮かぶアスファルトの地面が恐ろしく近いのだ)、たとえ小さなころの記憶があったとしても、そのころの自分と、いまの自分が地続きであるとは思えない年頃、昨日、いきなり十三歳として生まれてきたような顔がしたくなるような年頃がくる。

『キスなんてだいきらい』の主人公ネコ、パイパー・ポウはいったい何歳なんだろう。ともかく「トキ」がどんな形をしているのか調べてみたくて、目覚まし時計を壊すぐらいの年齢だ。

 このパイパーのおかあさん

「はやく きて おすわり ぼうや、
この つぶしネズミをおあがり、ぼうや。
ほら ニシンの ほねも ヒワの フライもあってよ。
あんたの ために つくったのよ、ぼうや。」

とまぁ万事がこんな感じ。

 それに対してパイパーが「ぼうや、ぼうやっていうなよ、たべるきが しなくなっちまう。」などとでも言おうものなら、ぐすんぐすんと泣き出し、 「いいこと、あたしが しんだりしたら あんた なんにも たべられなくなるのよ。どう おもって?」 などと脅し始めるのだ。

 パイパーを送っていきながら、お父さんがけんかの原因を聞く。
「あんまり こどもあつかいするんだもの。」というパイパーに、

「そうせずに いられないのさ。おれの おふくろも おれの おやじの おふくろも そんなふうだった。まあ、いいこに なっててやれよ。

「おれも おまえぐらいの としごろには おまえそっくりだった。
はなんか みがかなかったぜ。はっはっはっ。
ブラシで せんめんだいを こすって みんなをだましてた。
ただし、はいしゃだけは だませなかったね」

お父さんは全部お見通しだ、とパイパーはここでぐっとくる。

 ところがこの前の、朝ご飯のシーン、パイパーとお母さんが言い争っているその現場に、実はお父さんもしっかり坐っているのだ。
現場に立ち会いながら、だんまりを決め込んで、「うるさい、いいかげんで だまれ。」とパイパーに命令しかしていない。
言い争いの理由だって、知っているにもかかわらず、パイパーと話をするために、そういうふうに切り出しているのだ。

 こう考えていくと、カッコいい男というのは、奥さんの前では成立しないものなのかもしれない。

 さて、学校でのパイパーは、問題児。頭がいいから成績はいいんだけれど、先生のカバンにはクモを入れておくわ、女の子のえりくびに、工作ののりはつっこむわ、授業をつぶすためにかんしゃくだまは投げるわ……。

 その日も組一番のワルと取っ組み合いの大げんかで、左耳がちぎれかけるほどの大けがをしてしまう。
そのケンカ相手といっしょに衛生室へ行きがてら、きっちりケンカ相手は「じょうとう」の葉巻をくれて、ふたりはトイレで一服。こうして仲直りも成立する。

 衛生室にいる看護婦さん、この人がまたカッコいいおばさんだ。

「あんたの おいたは ちゃんと わかってるよ。
わるい子だね。あたしの くすりとだなに
いつぞや ヘビを いれといたわね。
いいこと、こんど やったら この耳を
ぜんぶ ぬいつぶしてやるから」

お手柔らかなことはいっさいしないクロットさんは、悲鳴をあげるパイパーをよそに、耳をガシガシ縫いつけると、包帯でぐるぐるまきにし、「いかすわ。それで あかい リボンと ヒイラギでも つければ、まるで クリスマス・プレゼントみたい」と笑うのだ。

 この姿を見つけたパイパーのお母さん、ショックを受けてパイパーを抱きしめ、キス攻めにする。そうでなくてもキスされるのが嫌いなパイパーは、くやしいのなんの。 大声でわめく。

「ひとまえで キスするなよ。
キス。なんでも キス。
いやなんだ。きらいなんだ」

 一部始終を見ていたタクシーの運転手はこういう。

「おふくろさんに あんなこと いうもんじゃない。
はずかしいと おもえよ。」

 するとお母さんも「そうよ、まったくだわ」と、怒ったあげく、ぴしゃり、とパイパーの口を叩いてしまう。

 初めてのびんたに、お母さんもパイパーもショックを受けてしまって、せっかく食事に行ってもふたりはろくすっぽ食べることもできない。

 そのあと学校に戻ったパイパーは、ロッカーに隠し持っていたかんしゃくだまをクラスメイトに売りつけて、お金をこしらえ、帰りがけ、黄色いバラを買う。

 そうしてそれを持って帰って、テーブルに置く。

「まあ、きれい、びっくりしたわ。
これ あたしに くれるの?」
「そうだよ。でも ありがとうの キスだけはごめんだ」
「そんなに いやなら しないように するわ。」
ポーかあさんは にっこり やくそく。
「そうしてください。」パイパーも にっこり。
ぼうやに キスなんか しない。
かあさんに キスなんか しない。

 このセリフでこの話は幕を閉じるのだが、うん、何かいい話(心温まる、という意味では断じてなくて)を読んだなぁ、という気がしてくる本だ。

 長年本を読んできて思うのは、作者が「さぁどうだ、この主人公はカッコいいだろう」と見せてくれる人間は、多くの場合、それほどカッコよく思えない、ということだ。りきみかえっている作者をよそに、こちらはなんだかシラケてしまう。
 カッコよさばかりではない。作者が理想化する登場人物は、多くの場合リアリティを欠き、そんなやつ、いるわけないじゃん、という気持ちを読む側に起こさせ、逆に一種の滑稽味を帯びたものになってしまう(いまわたしの頭の中にあるのは、ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』とアイン・ランドの『水源』なのだが、おそらくこんな本を読んだことがある人はおっそろしく限られていると思うので、ここではふれない)。

 むしろ、リアルさを感じる人物、ときに情けなくもあり、悩み、ためらい、その中から行動を起こしていく人間のほうに、カッコよさを感じるものなのだ。

 ところがウンゲラーの登場人物たちは、絵本だから、そんなに多面的に登場してくるわけではない。タクシーの運転手なんて、ほんのひとことだ。だけど、ズシッとくる。おおっ、カッコイイ、と思う。
 つまり、ここで言えるのは、まず、本人が意識していてはダメだ、ということである。どうだ、カッコいいだろう、とキャプションがついているようなセリフには、ちっともカッコよさは感じない。
 そうではなくて、本人の全然意識しないところで、なおかつその人の、これまで生きてきたありようがうかがえる、そんな言葉が聞き手の心に届くのだ。
 乱暴かつ独断的に、そのカッコ良さをまとめてみよう。
気取りのなさ、一貫性、覚悟だ。それがうかがえる言葉は、カッコいい。

 人間、生きていこうと思えば、金太郎飴みたいにその人のどこをとってもカッコいい、というわけにはいかない。まぁ人生、山もありゃ谷もあるわけだから、カッコ悪いこともいっぱい積み重ねなきゃいけないわけだ。人前でママからキスされたりね。
 それでも、一本ビシッと筋を通すことができたら、そうして、結果がどうであれ、自分がそうした筋を通すことで生じたもろもろの責任は、自分が引き受けていく、という覚悟ができたら。
 言い訳が必要なら、言い訳だってする。確かに言い訳なんてしてるところはカッコよくないだろうけれど、場面、場面ではなく、通しで見てみたら。
 大丈夫、コロコロ変わったりしてなきゃ十分カッコいい、はず。「どうだ、こんなことできる自分はカッコいいだろう」なんて思ってたら、絶対に続かない。そんな自意識は邪魔でしかない。

 そうした意味で、このお母さん、大きくなっていくパイパーとなかなか向き合えないのだけれど、それでも愛していて、ほんとうにベタベタに、一途に愛していて、うーん、これは大人になろうとしている子供にとっては相当迷惑ではあるのだけれど、それはそれでカッコいいのかもしれない。これでパイパーから愛情のお返しさえ求めなければ。
 パイパーだってそれは認めているのだ。だからほんとうにお母さんが悲しんでいるときは、自分も意気消沈してしまうし、バラだって買ってあげる。

 親と子というのはむずかしい。親は子供のことを考えているつもりでも、大きくなっていこうとする子供にとっては、押さえつけようとする圧力でしかないときだってある。押さえつけようとするものは、はねのけていかなくてはならない。それが親であったとしても。親をはねのけることで、自分も傷つけることになったとしても。

 そういうとき、まわりにカッコいいオトナ、お手本になるオトナがいてくれたら、子供はずいぶん救われるんじゃないだろうか。

 子供が大きくなっていくためには、どうしたってお手本は必要だ。たとえ「そんなふうにだけはなりたくない」という反面教師であったとしても、とりあえずの手本にはなってくれる。だけど、反面教師になることさえいやがる、オトモダチみたいな親に聞いてみたい。
「アンタ、手本になれる覚悟はある?」
 どうもそんなこと聞いたら、びびってしまいそうな親が、やたら多いような気がする。たとえ自分ちに子供がいてもいなくても、子供のためにカッコいいオトナを目指そう。
それには、気取りのなさ、一貫性、覚悟だ。O.K.?




5.「他者」を愛する―あるいは自分以外の者を愛する不安について―


『タンゲくん』

「タンゲくんが いるだけで うれしいです」

文・絵 片山健
福音館

 これはつい先日、ブログで絵本の連載を初めてから見つけた本。この本を本屋で見つけて手に取った瞬間、迷わず買うことにしたのだけれど、家に帰ってもういちど開いてみるまでの気持ち、胸がざわざわとして、落ちつかなかったのを、いやにはっきりと覚えている。CDを買ったとき、一刻も早く聴きたくて、走って帰りたいような気持ちになることはあるけれど、本ではあまりそんなことは起こらない。たいがい、その前に読めるからだ。
 けれども『タンゲくん』を見つけたときは、本屋や街中のカフェや電車の中ではなくて、早く家に帰って、ゆっくり落ち着いて読まなくちゃ、という、じっとしておれない、心をかき乱すようなものがあった。そうして、秘密の手紙を開くように、家に帰って読んだのだった。

 これはほかのだれでもない、わたしの本だった。わたしがそこにいた。どのページの言葉も、外からではなく、わたしの内側から聞こえてくるみたいだった。

あるひ わたしたちが
ばんごはんを たべていると、
いっぴきの みたこともない ねこが
のっそり はいってきました。
ねこは かたほうの めが
けがで つぶれていましたが、
とても りっぱでした。
あたりまえのように
わたしの ひざのうえに すわると、
おとうさんも おかあさんも
なにも いいませんでした。

 まず、この家の居間の様子が、わたしの家そのままだ。'70年代の日本の家の多くはこんな感じだったのではないか。白々とした蛍光灯の下で食べる夕食の風景だ。

 家にもこれと同じ電気ジャーがあったし、こんなふうに白いプラスティックのしゃもじがさしてあった。畳の部屋にはカーペットが敷いてあり、わけのわからない模様のカーテンもそっくりだった。おかあさんの服が、ちょっとおよそゆきのような気もするけれど、姉がいて、あと、気むずかしげな顔をしている弟がいれば、もう完璧なのだった。

 なによりもネコが膝に乗ってくるその感触。この本を読むと、肉体的な感触が、そっくりそのままよみがえってくる。膝に乗った重さも、暖かさも、しなやかな毛の内側にある、背骨のごりっとした感触も、ネコの吐く冷たい鼻息も、何もかもそのままに。

 このネコは、「わたし」の家に居着くようになる。「おとうさん」は片目のネコにタンゲくん、と名前をつけるのだけれど、わたしも小さい頃、何かの本(たぶん『いやいやえん』だったと思う)に「丹下左膳」と出てきて、父親に「“たんげさぜん”ってだれ?」と聞いた記憶があった。いまの若いお母さんは「タンゲくん」の意味がわかるんだろうか。とにかくこの本は、そんな(いらない)説明は全然出てこない。

わたしは タンゲくんが うちのねこに なってくれて
うれしいです。
タンゲくんが いるだけで うれしいです。
タンゲくんが おねえちゃんの つくえのうえに
いるときは、おねえちゃんも わたしのつくえで
べんきょうします。

「わたし」と「タンゲくん」の毎日がつづられていく。

わたしは タンゲくんが だいすきです。
だから わたしは いいます。
「タンゲくんは わたしのねこだよね」
でも そんなとき、タンゲくんは「カ、カ、」と
へんなこえで ないて、すっと そとへ でていってしまいます。

 タンゲくんは外で会っても、知らんぷりしたり、かくれたり。
だから「わたし」は、自分が知らないタンゲくんの生活を、さまざまに想像する。
鳴き声が聞こえれば、ケンカしているのではないか、と心配する。

 それでもタンゲくんは、夜になるとちゃんと帰ってきてくれる。

それから、タンゲくんは、おかあさんが よんでも、
おとうさんが よんでも、おねえちゃんが よんでも
しらんかお。
ちゃんと ちゃんと わたしのうえに とびのって
まるくなります。

だから、わたしは、タンゲくんが、
めを さまさないように、
いつまでも いつまでも
じっとして いるんだ。

 タンゲくんは、決して「わたし」のものにはならない。
自律した「他者」として、わたしにはうかがい知ることのできない部分を持った「他者」として、「わたし」の前に現れてくれて、特別に「わたし」を選んでくれたのだ。
「うれしいけれど、なんでこのわたしに?」
 自分にはその理由がわからない。だから不安になる。

 もしかしたらいなくなるかもしれない、自分の意志でどこかへ行ってしまうかもしれないし、不慮の事故で会えなくなるかもしれない。この不安は、もう「わたし」の心を去ることはない。

 それでも、先のことはわからないけれど、いまはこの重さと暖かさをいとおしみたい。いてくれてうれしい、と、何度でも繰り返して言いたい。
 たぶん、ネコであろうと、人であろうと、自分とはちがう「他者」を思うというのは、こういうことなのだ。それは、決して非日常のできごとではない。朝起きて、ごはんを食べて、学校や仕事に行って、そういう中で「他者」に対する思いを抱えながら、日常を生きる、ということだ。
「他者」には「他者」の生活があり、ときに不安になりながら、心配したりしながら、それでも一緒にいることができる「いま」「ここ」をいとおしむ。
「タンゲくん」がいてくれてうれしいのは、おもしろいことをしてくれるからでもなければ、自分の言うことを聞いてくれるからでもない。ただ、ここにいてくれる、それだけで十分なのだ。ここにいてくれる、というだけで、自分の心が暖められる。
 それが、「うれしい」ということだ。
 自分とはちがう「他者」を愛する喜びが、この本にはつまっている。




6.誤解したらどうするか、誤解されたらどうするか―あるいは誤解しかできないわたしたちの理解について―

 自分が実際に読んだときの記憶がある本は、それほど多くない。

 持っていた本は覚えているし、愛着があった本も記憶にある。
なにより母親から「アンタは買い物に行くっていったら、かならず“あたしもー”ってついて来たがって、それだけならいいけど、“ぶたぶたくんみたいにリボン結んでー、ぶたぶたくんといっしょの買い物かごー”ってうるさくて大変だったわよ」といった具合に、思い出話として繰り返し聞かされて、好きだったのだと刷り込まれている本もある(
『ぶたぶたくんのおかいもの』―わたしが読んだのは、発行年月日から考えて、ハードカバーの本ではなく、姉が購読していた月刊誌の「こどものとも」のほうだったのだと思う)。

 だが、読み終わったときの記憶が残っているのは、『ごんぎつね』一冊だけだ。

 幼稚園児だった。読み終わると、じっとしておれなくなって、本を放り出して、部屋をぐるぐる走ったのだ。
 部屋のまんなかに放り出した本と、たたみの上をすべりそうになりながら走るくつしたをはいた足裏の感覚と、何度も視界に現れるカーテンの模様が、いまでもはっきり記憶にある。

 おそらく、ショックを受けたのだ。ひどく動揺して、坐っていられなくなって、部屋を走り回ったのだと思う。こんなふうに終わってはいけないと思ったのだ。

 それからずっと避けてきて、ちゃんと読み返してみたのは、ほんの数年前のことだった。

「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

(新美南吉『ごん狐』

 読み返したとき、当時の気持ちがよくわかるように思った。
これはほんとうにひどい話だ。ごんはまだいい。自分の命と引き替えにしたとはいえ、誤解が解けて、自分がしたことを認めてもらえたのだから。

 なにがひどい、といって、これではあまりに兵十がかわいそうではないか。
これからさき、ひとりぼっちの寂しく貧しい生活に加えて、なんの罪もない、自分に栗やまつたけをもってきてくれた、唯一の友人になれるかもしれなかった存在(加助はつきあいはっても、寂しい生活を送っている兵十を、ちょっとのぞいてみることすらしない「近所の人」である)を殺した、という罪まで背負って生きていかなければならないのだ。

 そう、これはイアーゴーの陰謀によって、妻デズデモーナを誤解し、死に追いやったオセロと同じだ(ちょっとちがうが)。
 オセロのように悪意の介在があればまだしも、兵十にはそれすらない。ひとえに自分が誤解し、ごんを殺してしまったのである。誤解というのは、かくも恐ろしいできごとを引き起こすのか。

 なぜ兵十がごんを「またいたずらをしに来たな」と誤解してしまったのかというと、物語の冒頭で、自分がせっかく捕ったうなぎをごんが盗んだからだ。
 ごんとしてみれば、盗むつもりはなかった。ちょっといたずらがしてみたかっただけなのに、どうやらそのうなぎは、死の床にある兵十のおっかあが食べたがったものらしい。ごんはそうしたことを知らなかったのだ。

 ごんは兵十が魚を捕っている特別な理由があることを知らなかった。ごんは、兵十がふだんの仕事をしていると誤解した、と言い換えることもできる。動機は他者からはわからない。それだけで誤解が生まれ、積み重なっていく。

 オセロがデズデモーナの不貞の確証を得ようと、自分がかつてプレゼントしたハンカチを出せ、とつめよる場面でも、デズデモーナは無邪気にも、自分が不貞を疑われている当の相手のキャシオーの復職を訴える。これもデズデモーナがオセロの真意を誤解しているのである。
誤解するものは、誤解されている。誤解されているものは、同時に誤解している側でもあるのだ。

 シェイクスピアの戯曲は、『オセロ』ばかりでなく、『リア王』にしても、『十二夜』にしても、『真夏の夜の夢』にしても、「誤解」がドラマを動かす大きな要素となっている。

 なぜ戯曲では「誤解」が大きな役割を果たすかというと、それは小説につきものの心理描写がないからだ。登場人物の心理の一切はセリフとト書きで説明される。登場人物の行動の理由も、心情も、セリフと行動から理解するほかないのだ。小説では、心理ができごとを引き起こす。戯曲では、誤解ができごとを引き起こす。

 だが、戯曲のこうした特色は、何かのありようを思い出さないだろうか?
わたしたちが生きる日常生活そのものではないか。わたしたちは小説のように、「他者」の心理を読むことはできない。理解しようと思えば、戯曲と同じように、いくつかの言葉や行動をつないで、「物語」を作ることしかできないのだ。ちがうことといえば、戯曲では(多くの場合)、最後に「真実」が開かされるけれど、日常ではそれさえもない、ただ、その一点なのである。

 けれども、自分の心情すら、わたしたちははっきりと理解しているわけではない。

『ハムレット』をもとにした志賀直哉の『クローディアスの日記』は、この「誤解」と「真実」のぶれを描いたものだ。

 当初、クローディアスはハムレットから父王の暗殺の疑いをかけられ、このように書く。

……乃公(おれ)が何時貴様の父を毒殺した?
 誰がそれを見た? 見た者は誰だ? 一人でもそういう人間があるか? 一体貴様の頭は何からそんな考を得た?

(志賀直哉『クローディアスの日記』『清兵衛と瓢箪・網走まで』所収 新潮文庫)

 しかし、そのうち、このようなことを思い出してしまう。

眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘されているのだなと心附いた。いやに凄い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。

 自分の心の内さえ、どのようにも言えるのである。いったいどれが「ありのまま」の自分の姿なのか、自分にさえわからない。まして、他者を「正しく」理解することなど、ありえない。

「他者」が何を考えているか、わたしたちはうかがい知ることはできない。それどころか「他者」にそもそも心があるのか、自動機械、レプリカント、宇宙人の擬態、なんと呼んでもいいのだが、自分と同じ人間であるかどうかさえ、実はよくわからないのだ。
 自分とはまったく異なる「他者」を、自分の眼や耳などの感覚器官や言葉を媒介にして理解しようと思っても、それは誤解を積み重ねていくことでしかない。そうした意味で、誤解は、理解のひとつのありよう、というか、誤解することでしか理解することはできないと言っていいだろう。

 ただ、ここで問題になってくるのは、誤解をされるのは苦しい、ということだ。 誤解されている側からしてみれば、「あらゆる理解は誤解である」といってすまされる問題ではない。

* * *

 もう話は果てしなく『ごんぎつね』からずれてきているのだが、続ける。

 1972年、アメリカで「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を、18歳の女の子、ジョイス・メイナードが飾った(これはその写真ではないけれど、ほぼ同時期のもの)。

『十八歳の自叙伝』は、才気あふれる文章と、この少女のかわいらしさが相まって、大変な評判になる。
 彼女が在籍していたイエールの寮には、何百通というファンレターが届いたが、そのなかに、J.D.サリンジャーからのものがあった。

 手紙の筆者は、不幸にして豊富な自分の個人的体験から見て、あれやこれや申し出てくる人間たちは、わたし自身やわたしが持っていると彼が断言する才能に対して、これっぽっちも真剣な関心を示しはしないだろう、と述べていた。わたしの創作は静かに急がず進歩していくべきで、数々の雑誌やニューヨークの連中に対しては、大いに懐疑的に接するべきだ。もしわたしが気をつけるなら、ほかの人間にはなれないような本物の作家になれることを自覚してほしい。そう書かれていた。

(ジョイス・メイナード『ライ麦畑の迷路を抜けて』野口百合子 訳 東京創元社)

 サリンジャーとメイナードの文通が始まる。

<あなたはわたしを過大評価しています>わたしは書いた。
 そうではないよ、と彼は答えた。きみは素晴らしい人生を創造する女性だ。誰も真似できないような。世界を従える女性だ。

 こうしてメイナードはイエールを引き払い、サリンジャーとの同棲生活に入る。サリンジャーは53歳、メイナードは19歳。サリンジャーには離婚した前妻との間に、わずかメイナードより二歳年下であるだけの長女(当時の写真を見ると、長身の娘はメイナードよりはるかに年長に見える)と息子がいた。

 世間との交流を絶ち、厳しい食餌制限を自らに課し、瞑想を中心とするサリンジャーの生活に、メイナードはなんとかあわせようとし、サリンジャーの期待に応えようとする。だがどれだけ努力しても、メイナードは肉体的にサリンジャーを受け入れることができない。結局、サリンジャーはメイナードに出ていくように、一方的に告げることになる。

 苦しい年月を経て、別の男性と結婚し、出産したメイナードは、小説を書く。そうして、出版されたその本をサリンジャーに送る。

「ジェリー・サリンジャーだ」彼は名乗った。心臓をナイフでひと突きされたようだった。彼だとわからないとでも、思っているのだろうか。「きみが送ってきた本を読んだ……この……きみが小説と読んでいるしろものを……。ぼくがこれを見たがるとなぜ思ったのか、想像もつかない」その口調は、腐った肉のことでも話題にしているかのようだった。
「あなたが気に入るかもしれないと思ったの」わたしは言った。
「吐き気がするよ。うんざりだ。きみがここに送りつけてきたものは、ゴミだ」
「どこがいけないの? あなたは自分が愛しているもののことを書けといったわ」
「愛している? ばか言っちゃいけない。恥を知らないのか? こいつは、下品で卑劣なこじつけ以外のなにものでもない」

 メイナードがサリンジャーとの日々を含めて、半生を回想した『ライ麦畑の迷路を抜けて』を読んでいると、サリンジャーがメイナードのなかに見ようとしたものに思いをはせずにはいられない。
 最初から、メイナードはずっとメイナードだったのだ。「下品で卑劣なこじつけ」を書いたのも、才気にあふれる「自叙伝」を書いたのも、同じメイナードだ。
 おそらくサリンジャーが見たかったのは、メイナードにごく一部を負ってはいたのかもしれないけれど、メイナードの外見をした「エズミ」(『エズミに捧ぐ』『ナイン・ストーリーズ』所収)であり、「フィービー」(『ライ麦畑でつかまえて』)だったのではなかったろうか。

 ひとは誰でも、他者に自分を理解してほしいと思う。
 とおりいっぺんのつきあいなら、他者が自分のことをどれほど誤解しているか、わかることはない。けれど、それを越えて、深く関わり合おうとするとき、他者が紡いだ「自分の物語」が、自分が紡いだ「自分の物語」と食い違うことに気がつく。そのとき、ひとは苦しむ。深く関わる、ということは、とりもなおさず深い理解を求めているからなのだ。過大評価であろうが、過小評価であろうが、同じこと。サリンジャーの例を見てもあきらかなように、過大評価は容易に逆転する。

 ここでもういちどシェイクスピアに戻ろう。
 誤解がもとで起こった悲劇というと、まず思い出すのは、やはり『リア王』だろう。
「誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい。最大の贈物はその者に与えられよう」(福田恆存訳 新潮文庫)

 ゴネリル、リーガンがそれぞれ美辞麗句を並べたてて王を喜ばせるのに対し、コーディーリアは「申し上げる事は何も」(引用同)としか言わないのだ。

 コーディーリアは父親が誤解していることを知っている。それでも、頑なといえるまでに、自分の言葉を翻そうとしないのはなぜか。
 おそらくそれは、甘い、口当たりの良い言葉で、自分の愛情を口にすることは、自分の愛情を汚すことであるし、父王に対する侮辱であるとも考えているからだ。

 コーディーリアの気持ちはよくわかる。それでも、誤解を解こうとしないということは、父を誤解の内に取り残すということだ。コーディーリアは、自分の愛情の理解を、愛情を向けた当の相手にすら求めようとしない。それは、愛情といえるのだろうか?

 リア王はその愚かさのために、王位を追われる。けれども、愚かさに追いやったのは、コーディーリアでもあるのだ。

 さて、冒頭の問いに戻ろう。
 誤解したらどうするか、誤解されたらどうするか。

 ほんとうは、わたし自身、その答えを教えてほしいぐらいなのだけれど。

 以前、別のところでリチャード・パワーズの『舞踏会に向かう三人の農夫』の一節を引いた。同じ箇所をもういちど引いてみよう。

他人を理解することは、おのれの自己像を修正することと不可分だ。ふたつのプロセスはたがいに呑み込みあう。

(リチャード・パワーズ 『舞踏会へ向かう三人の農夫』 柴田元幸訳 みすず書房)

 わたしたちは、他者を理解することはできない。誤解することができるだけだ。けれども、理解しようとするなかで、言葉を換えれば、深く関わっていこうとするなかで、自分の誤解を休むことなく修正し続ける。それは、自分の見方を改めることだ。愛情、尊敬、相手のことを知りたいという気持ち、どのような言葉でそれを呼んでもかまわないのだが、相手と深く関わっていきたいという思いは、自分が、自分の見方を改める、そのたびごとに、少しずつ変わっていく。そうして、それはとりもなおさず、自分自身が変わっていく、自己像を修正していく、ということではないのだろうか。

『ごん狐』からずいぶん遠くへ離れてしまったけれど、やはり、兵十の誤りは、誤解してしまったことではなく、殺してしまったことにあるのだろう。殺してしまった相手とは、もう関わることはできない。
 そのひとと、関わることができない。誤解を、少しでも正しい理解へと近づけることはできない。だから、ひとは殺してはいけない。




7.せっかくめぐり逢えたのだから―あるいは「他者」と関係を持つことについて―

わたしとあそんで 「ああ わたしは いま、とっても うれしいの。 とびきり うれしいの」(女の子)
『わたしとあそんで』
文・絵 マリー・ホール・エッツ 
福音館書店

 誤解のつぎは、わかりあうことについて考えてみたい。

 まず、絵について。
どういうわけかアマゾンの写真ではピンク系の色になっているのだけれど、この本は表紙も中の背景も、ネープルス・イエロー(Webの色見本の色とは少しちがう。このページの背景色にもう少し黄色が入った、ベージュがかったクリーム色といったらいいのだろうか。とても暖かな色だ)。絵の背景も、色指定ではなく、白い紙に透明水彩で均一に塗られている。細部は黒いコンテで描かれ、女の子や動物の部分はパステルで彩色されている。
 色数は少ない。女の子の肌のペール・オレンジ、髪の毛のレモン色、あとは動物に使われている茶色、差し込む日の光の白、そうして塗り残した紙の白が印象的に使われている。
以前に紹介した『もりのなか』でもそうなのだけれど、これだけの色と線で、これだけ豊かな世界を創造できるエッツの画力というのは、すごいものだなと思う。

 話は非常に単純だ。
「わたし」は原っぱに遊びに行く。

ばったが 一ぴき、くさの はに とまって、むちゅうで
あさごはんを たべていました。
「ばったさん、あそびましょ。」わたしが つかまえようとすると、
ばったは ぴょんと とんでいってしまいました

 女の子はこうして、かえるに会い、かめに会い、りすやかけすやうさぎやへびに会う。
そのたびに、「あそびましょ」と言うのだが、みんなにげていってしまう。

だあれも だあれも あそんでくれないので、わたしは
ちちくさを とって、 たねを ぷっと ふきとばしました。
それから いけの そばの いしに こしかけて、みずすましが
みずに すじを ひくのを みていました

 だがそうして女の子が静かにしていると、さっき会った動物たちがしだいに女の子のまわりに集まってくる。

わたしが そのまま おとを たてずに じっとしていると、だあれも だあれも もう こわがってにげたりは しませんでした

 すると、子ジカがやってくる。
女の子はそれでもじっとしていると、シカはもっと近寄って、女の子の頬をなめる。

ああ わたしは いま、とっても うれしいの。
とびきり うれしいの。
なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの

* * *

 女の子は原っぱに行く。後ろに小さく家が見える。絵で見る限りこの子は五歳ぐらいだろうか。  女の子は「その子」であるというだけで一方的に愛情が与えられていた家から離れて、新しい秩序の中に入っていく。

 そこで女の子は「他者」とめぐり逢う。
カエルに会った瞬間、女の子の内側に「かえるさんとあそびたい」という思いが生まれる。

 家の中にいる間は、自分から関係を築いていく必要もなかった。自分の欲求に自覚的になる必要もなかった。
 女の子は、ここで初めて自分の「思い」に気がつく。自分の「思い」を満たすためには、何らかのアクションを起こさなければならない。
 だから、その思いを口に出してみる。
「わたしとあそんで」

 けれども「他者」は、自分の欲求になど応えてはくれない。「他者」というのは、「自分の思い」とは無関係な存在だからだ。
コミュニケーションとは、「自分の思い」がその出発点ではない。
「自分の思い」を口にする。「他者」は「他者の思い」を受け取って、何らかの反応を起こす。そこで初めてコミュニケーションが始まるのだ。
 だがここではせっかく始まったコミュニケーションも簡単に終息してしまう。相手は逃げ出してしまう。

 女の子は、さまざまな「他者」に出会って、なんとか関係を結ぼうとする。
ところがどうやってもうまくいかない。「自分の思い」に対して、「他者」からは逃げるという反応しか返ってこない。
 こうして女の子は、「自分の思い」が自分のものでしかないことを理解していく。

「原っぱ」には、自分の延長上である家とはちがう、「原っぱ」独自の秩序がある。その秩序の中で「他者」と関係を築いていくためには、自分の側を秩序に合わせて、つくり変えていかなければならない。

 そこで、女の子は自分の思いを口に出し、態度に表すことをやめるのだ。女の子は話しかけることをやめる。追いかけることもやめる。静かに坐っている。

 実は「他者」との関係を求めながら、なにもしないでいる、というのは、簡単なことではない。けれども女の子はそれをする。「他者」に強制するのではなく、気持ちを通じ合わそうとするのだ。じっと黙っていることによって。なにもしないことによって。わたしはあなたとあそびたいと思ってるの。傷つけたいと思っているのではないの。

 女の子は、強引に捕まえるのでもなく、罠をしかけるのでもなく、餌をちらつかせるのでもなく、動物たちの秩序に合わせて自分を変えていく。

 すると、逃げていった動物たちが戻ってきてくれる。それだけでなく、子ジカまでやってきてくれる。
 最後のシーン、それはそれはうれしそうな顔をして女の子はすわっているけれど、それは当初女の子が思い描いていた「あそぶ」ということではない。
 それでもかまわないのだ。女の子が変わっていくなかで、欲求の中身も変わっているのだから。

 ここにコミュニケーションの本質があるような気がする。

 ただ、現実にはこちらが自分を変えたところで、相手がそれを受け容れてくれるかどうかはわからない。行ってしまったカエルやウサギが戻ってきてくれるとは、限らないのだ。

 だからこそ、女の子は「ああ わたしは いま、とってもうれしいの。とびきり うれしいの」と言って、ほんとうに幸せそうな顔をするのだろう。気持ちが通じ合う瞬間というのは、一種の奇跡のようなものにほかならないのだから。

 わたしたちは、ある目的があって、それを伝達するために、「他者」に語りかける行為を、コミュニケーションであると思ってはいないだろうか。
もっといえば、その目的とは、こういうことだ。
「わたしを認めて」
「わたしを見て」
「わたしの話を聞いて」
「わたしを理解して」
けれども、「他者」に対してこう欲求することは、コミュニケーションとは関係がない。

 自分の欲求に寄り添ってはくれない「他者」に、欲求を容れさせるために、声高にそれを言ったり、さまざまな戦略を用いたりすることと、自分を変えていくことは、根本的にちがうのだ。

 Pet Shop Boysがいささか皮肉っぽく“いまみたいにコミュニケーションが簡単だったことはない”と歌っているのだけれど、確かにいまや人と“知り合い”になることは、全然むずかしいことではなくなってきている。
 自分が読んだ本や見た映画、自分が聴いたCDについて、いろんな人がいろんなことを言っている。自分の気持ちに近い人を見つけるのだって、検索を使えばほんとうに簡単だ。
あれ、どうだった、おもしろかった、あれは、良かったよ、そうやって、簡単に知り合いになって、お互いを軽くなぞりあって、それからどうする?
「重い」関係を避けて、曖昧に、緩くつながって、それでなんとなく暇つぶしをするように、淡い関係で空隙を埋めて、飽きたら、離れていって、つぎの人を捜す?

 わたしたちは、あらかじめ「話すこと」を内側に持っているわけではない。話というのは、人と話を交わす中で生成していくものだ。緩いつながりの中では、緩い話が生成する。深いつながりを求めていけば、思いもかけないものが、自分のどこにもなかった「何か」が、そこに生まれてくる。
 そうして、さらに言えば、あらゆる会話は、このひとはどんな人なのだろう、ということにつながっていく。
 あなたを理解したい、わたしのことを知ってほしい、けれども理解は、誤解でしかない。誤解でしかなくても、相手の反応を見ながら自分の見方を修正し、身ぶり手ぶり、さまざまな動作を含めて話し、返ってくる言葉や仕草を意味づけ、それをもとにさらに自分の見方を修正し、そうしてなんとか気持ちを通じ合わそうとする。
 時代が変わっても、おそらくそれがコミュニケーションというものであることには変わりはない。

 自分は、自分のありように応じてしか「他者」と関わり合えない。だから、「他者」と関係を築いていこうと思えば、自分を変えることによってしかできないし、それは簡単なことではない。
「自分の思い」は、自分の中でしか意味を持たないし、「他者」はそれには応えてくれないかもしれない。
 けれども、だからこそ、誤解しかできない「他者」との間に、奇跡のように橋がかかった瞬間というのが尊いものなのではないか。

 あなたのことを知りたい。この世界で、たったひとりしかいないあなたを知りたい。誤解しかできないけれど、どうやったって正しく理解することなんかできないけれど、それでもあなたのことが知りたい。そう願うことは、たとえどれほどの困難を引き受けてでも、必要なことなのだと思う。だってほんとうに気持ちが通じた瞬間っていうのは「とびきりうれしい」ものだから。それほどうれしいことって、ほかにはないんじゃないだろうか。

 この女の子の笑顔は、そのことを教えてくれる。
 だから、わたしもそうっと口に出してみる。





初出 Sep.15-22,2005 改訂 Sep.24,2005



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